シロナさんが星人に挑むようです。(完)   作:矢部 涼

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13.シロナという存在

 裸の女だった。

 地面に上に降り立ったそれは、肌を惜しみなく晒している。だが、一部の例外を除けば、決して情を抱かせるものではなかった。体のほとんどが、赤く染められている。数多の命を屠ってきたのだと伺わせる。おぞましい見た目。

 特に濃いのは、右手の方だった。血が、今もなお滴り落ちている。

 

「まあまあ面白いやつだった。お前達の中では」

 

 シロナは俯瞰しているような心地だった。悲鳴を上げている自分を、どこか他人事のように眺めている。

 相手の右手に握られている岡の上半身は、静かだった。死を前にした苦痛や、恐怖で表情を歪めてはいない。最後まで諦めなかったのか。それとも、何か反応を見せる暇もなく刈られたのか。

 

「点数を、つけるのだろう? ワタシもやろう。こいつは、二十点」

 

 女の口から出てきたのは、老人のような声だった。

 岡の頭が砕かれる。

 シロナの体は、後ろへ動いていた。逃げようとしている。だが、相手から目を離せない。その瞬間、絶対に殺される。その予感で、ただただ後ずさることしかできていなかった。

 

「オマエは…、何の点もやれないな」

 

 女の腕が動く。

 それから、何もわからなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四つのモンスターボールを、投げる。

 アパートの駐車場は幸い、一台も車が停められていなかった。元から入居者は少ないらしいが、今の状況は多少の偶然が重ならなければ起きない。

 別に見られていもいいと思っていた。ポケモンの姿で騒がれること以上に、やるべきことがあった。

 シロナは、彼らから距離を取って座り込んだ。

 しばらく何も言ってこない主人に対して、ポケモン達は不安げにしながらも素直に待っていた。特に、ルカリオ、ガブリアス、ミロカロスの三匹は申し訳なさそうにしている。自分達のせいなのではないかと、思っているようだ。

 笑顔を作ろうとしたが、失敗した。現実から、逃げ続けることなどできない。何もかも忘れて、いつも通りに過ごせるほど彼女は単純になれなかった。

 杏の息子、翔がトゲキッスに最初に纏わりついた。それから始めて見るであろうルカリオやガブリアスに少々躊躇いながら近づいていく。

 

「アンズ」

 

 呼びかけると、相手は何かを言おうとしてきた。だが途中で止めて、翔の手を掴む。

 

「家に、戻るよ。これからな、姉さんとこの子達が大事な話をするんよ。彼らだけにしてあげような」

 

 心の中で感謝をしながら、正面を見る。杏達が中に入っていくのを待ってから、口を押さえた。結局、何を話せばいいのかまるでわかっていなかったからだ。

 だが、声は意思と反対にすらすら出てきた。

 

「貴方達は、騙されているのかもしれない」

 

 ルカリオが耳を立てる。今言われたことが、理解できないというように。他のポケモン達も、同様だった。

 

「私、がどう見える? ちゃんといる? シロナだと、思う?」

 

 全員がすぐに頷いていた。トリトドンがぬるぬると近づいてこようとしたが、それを手で制する。今もし彼らと触れ合って、あやふやにしてしまったら。絶対に、後悔することになる。シロナは、自分が許せなくなると考えていた。

 嘘かもしれない。誰かの、ガンツの悪戯かもしれない。だが、確かにあれは祖母の声だった。そして自分の声も聞き間違えるはずがない。

 記憶の齟齬が、さらに事実を肯定していた。何人かが、言っていたことだ。ガンツは、死んだ者を集める。そして、戦わせる。

 もし、それに例外があったとしたら? シロナが住んでいた世界と、ここは別物だ、ガンツは、自分という存在を引っ張ってくるために、特別な措置を施したのかもしれない。つまり、シロナ本人を呼ぶのではなく、その偽物を作った。

 だが、おかしな点もある。向こうのシロナが言っていたこと。あっちには、このポケモン達がいないのだという。さしものガンツも、彼らを複製することができなかった。だから、彼らだけは直接呼んだ。

 でも、何のために? どうしても、わからなかった。ちゃんと自分の本物も、呼んでくれれば良かったのに。もしかすれば、はっきりとした意味はないのかもしれない。自分を、苦しめるためにやっただけかもしれない。

 あるいは。シロナには、こっちの方が正しく思えた。犯人はガンツではない。

 自分だ。

 何か目的があり、ポケモン達まで強引に連れてきた。道具のように、彼らを利用しようと考えた。 

 突拍子もない妄想だとは思えなかった。なぜなら、ガンツのルールの中にとっかかりが含まれているからだ。

 百点メニューの一番、解放。

 それはただ戦いから抜け出せるというわけではない。その間の記憶も消されてしまうのだ。普通なら、デメリットなのかもしれない。苦しみを完全に忘れられるとはいえ、ガンツの巻き込まれた後に出会った者達とのつながりも、無くなってしまうのだ。

 だが、それをあえて利用する方法もあった。

 シロナは思考を進める。

 かつて自分は、別のどこかで同じことをしていた。ガンツのゲームで、戦っていたのだ。そしてクリアをして、解放を選んだ。それでも、満たされることはなかったのだろう。肝心の家族。ポケモン達がいなかったのだから。

 何度も、繰り返したのかもしれない。シロナは確かめていく。自分にとって、この世界における記憶はほとんどがガンツがらみだ。一番を選んでしまえば、ガンツに関連している記憶が消される。つまりこの世界での経験も全てなくなるということ。

 そして前の週で、彼女はついに成功した。ポケモン達を、呼び出す方法。具体的に何なのかはわからない。もしかすれば、ガンツと何かしらの取引をしたのかもしれない。それらの技術力を考えれば、頷ける話だ。

 であるならば、今回は何なのだろう。自分の知らない自分は、何を企んでいるのだろう。一体どんな、ろくでもないことにポケモンを利用しようとしているのか。

 自分は無意識のうちに、その計画をなぞっているのかもしれない。このまま最悪の事態になっていく可能性もある。

 ポケモン達の反応で、ようやく自分がかなり酷い顔をしていることに気がついた。

 それとも。

 頭が捻じれていく。

 そもそも、シロナという人間は、存在していなかったのかもしれない。ガンツによって作られた偶像。星人を倒していくために、星人を使う存在。知識もまやかしだとしたら、ポケモンという存在もまた、偽りなのだ。

 馬鹿げた考えだとは、思っている。だがその感情がいつまで続くのか、わからなかった。悪夢は、相変わらず続いている。破滅の未来が迫っている。

 顔を上げると、ガブリアスが目の前にいた。その鮮やかな腹の赤を見て、夢を思い出す。血のようだった。星人が目の前にいると、思考が降ってわいた。

 

「やめて!」

 

 一瞬後になって、シロナは自分の手を呆然と見る。

 何をしてしまったのか、理解する。

 

「バウウ…」

 

 腹を突き放されたガブリアスは、悲し気に鳴いた。シロナから、一歩距離をとる。

 ごめんなさい、という言葉すら出てこなかった。後悔が滲んできているというのに、その言葉を言えない自分を、嫌悪する。偽物らしいと、段々と仮定を真実であるかのように考えていた。

 他のポケモン達の視線にも、耐えられなくなってくる。今まで、一度もそうしたことはなかった。仮にも自分の家族を疑い、恐れることなど。

 

「わた、私には、資格が、ないの」

 

 シロナは立ち上がり、彼らからさらに遠ざかった。

 

「お願い、一人にして。どこかへ、行って」

 

 言葉は、内心とは違う方向を示していく。彼らといるのが苦しくなっていたのは事実だ。だが追い詰められている時こそ、それを克服して、家族のそばにいるのが一番のはずだった。今まで嫌なことがあった時も、シロナはそうして慰めてもらっていた。

 だがもはや自分がシロナなのか、実際に存在しているのか、わからなくなっている。チャンピオンというかつての経歴も、今は色あせていた。彼らを、ポケモン達を使う資格がないのだと、断定していた。 

 全員が、しばらく途方に暮れていた。だがシロナが目を伏せ続けていると、徐々に動き始める。翼をはためかせる。花を揺らす。長い胴体を擦らせていく。ぬるぬると離れていく。かなめいしが、浮き上がっていく。耳を伏せながら、二足で歩いていく。

 最後に残ったガブリアスは、シロナを見続けていた。彼女が銅像のように固まっていると、ゆっくりと背を向ける。

 本当は、追いかけたかった。その後ろ姿達に抱き着いて、その感触を噛みしめたかった。だが、自分への不信がそれを止めさせていた。このまま一緒にいれば、どんな苦難が彼らに降りかかるのかわからない。自分が何をするのか、何をするつもりなのか、怖くてたまらない。

 しばらくぼうっとした後、シロナもまた歩き始めた。アパートに戻る気分ではなかった。

 少し慣れてきた、街並みが見えてくる。

 大阪という場所は、雑多なものも含めて魅力だという気がしている。人々が往来し、ポケモンは全くいない。その光景を眺めていると、本当に自分が今までいた世界の存在が不確かになってくる。

 目的もなく歩き続けていると、人だかりができているのがわかった。

 そこから、ガブリアスが抜け出す。

 追いかけるようにして、スーツ姿の男が走り出した。

 

「力づくでも、ええ。一緒に来てもらうで。お前の力は使えるんや。ちょっと色々確かめさせてもらう」

 

 ガブリアスの方はかなり迷惑がっているようだった。彼女の姿を珍しがっている人々の視線にさらされながら、男から離れようとしている。

 そして、シロナを見つけた。

 それに対して気まずく思う前に、別の感情が沸き上がりつつあった。

 

「お前。ちょうどよかった。そっちからも説得しろや」

 

 岡はさらに続けようとして、珍しく戸惑いの表情を見せた。

 シロナは既にこらえきれていない。

 人の目がある中で、泣き崩れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 何となくその姿の有無を確かめた自分が、嫌になった。

 

「キョウ、ぼうっとすんなや。働け」

 

 このバイトの一応の上司であり、さらに別の所でも上の立場に立たれている室谷には、逆らえない。雑念を振りほどきながら、京は心の中で文句を言った。

 自分を誘った身の上でありながら、シロナはバイトをさぼっていた。あの女、ちゃんと社会経験を積んでいるのだろうか。自分の事を棚に上げて、まだ年だけなら学生の身分の男が思う。

 確かにいい働き口ではあった。土の臭いなどが不快なだけで、疲れもしない。ガンツスーツのおかげで、材木運びは大いにはかどった。だがそれを監督などに不審がられてもいけないので、疲れている演技は続行する。それだけなら、そこへの役者にも負けないとよくわからない自信が沸いてきていた。

 休憩に入ると、ほとんどが煙草を吸い始める。そのうちのいくつが違法なのか。京はもう、それほど関心を抱けなかった。ジョイントタイプの麻薬は元から好きではなかったのもあるが。

 それでも、そわそわしてくる。落ち着かない気分になる。何かが足りていないという、感触。麻薬中毒になっていた頃から馴染みのあるものだったが、今までよりもずっと弱い禁断症状だった。

 だが楽だというわけでもない。常に物足りない思いが、じわじわと精神をむしばんできていた。日に日に、大きくなってきているような気がする。早くどうにかしなければ、 せっかくの狩りにも影響が出ることはわかりきっていた。

 だが、思考が進まない。何をすればいいのか、思いつかない。

 もやもやとした気分のまま、バイトが終わった。決められた仕事をすぐにこなせるので、上がろうと思えば早めにできる。

 珍しく、京は他人の家に泊めてもらう気になっていた。というより、女のことを考えていた。人並みに性欲はあるが、今までは義務的な行為がほとんどだった。処理するためだけの相手を選んでいた時期もある。

 だが、今回は何かが違った。はっきりと別の目的が、自分の中で生まれている気がする。知っている女の中で、候補を並べる。そのどれもが大きめの胸をしていることに、彼はまだ気づいていなかった。

 そしてその一番最後のリストに、あの顔が浮かんできた時。

 嫌な鳴き声が、耳元でした。

 

「ひゃあっ」

 

 間抜けな悲鳴。女のような叫び声を上げて、京はバイクから転げ落ちた。危ない所だった。もし走っている途中だったら、軽傷では済まない。

 

「なんなんや…」

 

 バイクを立て直してから、その物体を睨みつける。

 ミカルゲというらしいその生物は、最初から京にとっては気に入らない存在だった。だがこの状況で目の前にすると、別の思いもある。

 どこか、それは底が知れなかった。百歩譲って、まあまあ可愛らしいと言えなくもない。その悪戯っぽい表情もまた、実際の狂暴性を上手く隠していると感じた。だが、それでも不安なのだ。どこか、ぎりぎりで踏みとどまっている印象。

 

「お前、主人はどうした」

「おんみょーん……」

 

 口元が悲しげに曲げられる。

 京はそれに対して、鼻で笑った。

 

「捨てられたんか。しゃーない。お前、きもいもんな」

 

 バイクが浮き始めているのを見て、慌てて抑えにかかる。薬に使う金がなくなったおかげで、どんどん貯金が多くなっていた。それにバイトも始めているので、愛用している機種を新調する余裕もあったのだ。だから、それを破壊されるというのは確かにぬぐいがたい恐怖だった。

 少し怒っている様子のミカルゲを拾い上げて、席に置く。

 

「わかったわかった。冗談やって。何があった?」

「ぉーん」

 

 何やらふるふると体を震わせているが、まるでわからない。伝えようとしているのは感じるが、たいしてポケモンと多く過ごしてもいない京にとっては、難題だった。 

 腕を組みながら、頭を捻る。

 

「喧嘩、とかか?」

「ぉお」

「シロナと、何かあったんやな」

「おーん」

 

 そういうことなのだろうと、勝手に納得した。でなければ、彼女がこれのそばにいないわけがない。

 京にとって不思議だったのは、そのことではなかった。彼女が自分のペットとどういう関係になろうが、関係ないと思っている。

 

「なんで、俺に来た? 邪魔なんやけど。これから、用事がある」

 

 本当はこれから誰かに電話して、会う予定だった。

 ミカルゲは、少し真面目よりの顔つきになって、少し膨らんだ。靄がバイクと京を同時に示し、大通りの方向に視線を向ける。

 

「…行けって? アホ。んで俺が」

 

 推測は、正しかったらしい。我が意を得たと言わんばかりに、ミカルゲはにやりとした。そして、何かの操作をする。

 京は突然鳴り始めたエンジン音に飛び上がった。薬をやめてから、自分は憶病になった気がしている。それはつまり元々の性格なのではないかという自身からの指摘は、無視をした。

 どうやらこのミカルゲによる超能力で、勝手にバイクが始動したらしい。

 

「やめ、やめろって! なんでや。俺、関係ないやろ!」

 

 ミカルゲはにやにやしている。その顔で、ようやく確信をした。

 真犯人は、この生物ということだ。

 よく考えれば、わかることだった。自分の頭を直接いじったのは、ミカルゲなのだ。だから、こんな妙なことになっている。京はその仮説を真実だと思い込んだ。

 

「くそ、お前。お前のせいで。こんなことなら、ヤク中のままの方がよかったわ。わかってるんか?」

「おんみょおおん!」

 

 元気に、答えてくる。そこにはただをこねる子供に対するたしなめも含まれている感じがした。額に、青筋が浮かぶ。

 

「ざけんな! 苛々するわ。ずっとやぞ。なんで俺が、あんな奴の…」

 

 薄々、自覚してはいた。

 何度も、夢に見るほどだった。一度それで自慰行為をしかけて、ベッドを転げまわったことがある。大体が埋もれている状況だった。顔をうずめさせて、そういうことをする。

 魂の叫びに対して、ミカルゲはさらに笑みを深めていた。わかっているぞ、と言いたげに。

 

「お前のせいや! 卑劣だ! 洗脳しやがって…。治せ、今すぐ。そしたら、従ってやる。ええか?」 

「ぉおん?」

「くそ、今更とぼけても無駄や」

 

 責めながらも、段々と嫌な考えもできつつあった。結局は、自分のせいなのではないかと。あの時、シロナに抱きしめられた瞬間、禁断症状の苦しさから逃れるために、その感触へと思いっきりすがりついた。そのせいなのかもしれない。本当は、別の想像をしていれば、また違う結果になっていたかもしれない。

 自分は、結局中毒から抜け出せていない。

 対象が変わっただけだ。薬から、あの胸に。シロナのそれに。

 

「赤ん坊やないか! 頭おかしい。だから治せ。まともにしろ!」

 

 ゆっくりと、バイクが動き始めていた。

 満面の笑顔で、ミカルゲがハンドルを遠隔操作している。アクセルにも意識が向いて、加速していくのは時間の問題だろう。

 京はまた悲鳴を上げながら、それに飛び乗った。ブレーキをかけようとしても意味はない。そしてハンドルもまるで自分の意思で動かせないことに気がついた時には、いつも以上の加速が始まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 まとわりついてくる子供に、笑顔で相手をする。

 

「くわばらせんせえ、聞いて!」

「おー、なんや」

「おれ、前のテスト満点やった。すごいやろー」

「頑張ってたもんな。でも前みたいに俺の授業で寝るなよー?」

「だって、夜更かししちゃったんだもん」

 

 休み時間は、生徒達との会話がいつも尽きない。彼らは、一応学校にも加えて、この塾へと通うだけの意欲は持っている。それを相手に教えることは、悪くなかった。金払いが良いこと以上のやりがいを見つけられれば、仕事は長続きする。

 もしガンツメンバーが今の桑原を見れば、おぞましい想像をしただろう。そこまで、守備範囲が広いのかと。職権を乱用して、めぼしい相手がいるかどうか物色している。

 だが、彼は別に年下が好みというわけでもなかった。もちろん追い詰められたらどうなるかわからないが、さすがに小学生に手を出すほど頭がやられているわけでもない。それ以上におかしい相手を現在狙っていることには、気づいていなかった。

 次の授業が始まるようなので、教室を出る。自分の担当である英語は、もうない。あとは書類を多少整理して、帰るだけだった。

 事務室に戻ると、作業をしていた女性が顔を上げる。

 

「お疲れ様ですー」

「おつかれ」

「桑原先生、仕事の後、用事ありますか?」

 

 同僚の女性は、少し落ち着かなげだった。

 人の良い笑みを浮かべながら、桑原は首を振る。

 

「いや。特には」

「じゃあ、飲みに行きません? ええ店知っとるんですよ」

「いいですねえ」

 

 あと、二、三回ほどだとは思っていた。実際、相手は悪くない。自分に対してそれなりの感情を向けてきているようだ。飲みに行くのは、これで三回目だ。上手くいけば今夜にでもホテルへ連れ込めるだろう。

 近頃そういう欲が高まってきていた。常にみなぎっているのは変わらないが、その限界が徐々に拡大している。本命を前に、一旦別で落ち着かせるのもいいかもしれない。

 

「じゃあ、店で合流しましょうか。まだ、授業ありますよね」

 

 女性は嬉しそうに頷く。

 

「そうですね。それが終わってからで。七時半くらいに」

「わかりましたー」

 

 残った仕事も終わらせて、桑原はビルを出た。

 中途半端に時間が空いてしまったので、どこか適当なカフェにでも寄ろうかと考える。

 河川が近くなってきた所で、大勢の人がスマホを向けているのがわかった。

 

「これ、スクープちゃう?」

「ウミヘビの一種か」

「おかあさーん、みて、かわいいー」

「綺麗やなあ」

 

 遠目でその姿を確認した瞬間、既に走り出していた。ワイシャツがやや濡れるのも関わらず、全力で向かう。既に先ほどした約束のことなど、頭から吹き飛んでいた。

 野次馬に見られて少し困っている様子のミロカロスへと、到達する。

 

「はーい、撮影は堪忍な」

「何やねん、急に」

「俺のペットや。可愛いのはわかるけどな、もう帰る時間や」

「珍しいの飼っとるなあ」

 

 周りの者達をはけさせてから、川に浮かんでいる相手を見る。ミロカロスは半目になってから、顔を逸らした。礼はしないという意思表示だ。だが、桑原にとってはそんなのはどうでもよかった。既にかなりの恩を、相手に与えているからだ。

 

「見世物に目覚めたんか? なら、おすすめの相手がおるで」

「フォオ…」

「十万やるわ。命の恩に加えてな。ん? どうや。お前の主人、金に困っとるんやろ? 貢献するチャンスが来たなあ」

 

 既に桑原は横に飛んでいた。今は、スーツを着ていない。なのでかなり先読みをしながら回避をする必要があった。そうでもしないと、相手の攻撃は避けられない。

 しかし、予想していた氷の線はやってこなかった。そのために、ただいきなり側転をした間抜けな姿だけをさらす羽目になる。

 持っている鞄に付いた土を払いながら、立ち上がる。

 顔を相手に向けた瞬間、一瞬思考が停止した。

 ミロカロスは、目をつぶっている。その端から、大粒の涙がこぼれていた。透き通るような雫が、その頬を伝い、水辺に波紋を作っている。しばし言葉を忘れて、桑原は相手の悲しみに見入っていた。

 それから、男としての勘が働く。ここで上手く慰めれば、ポイントを得られるのではないかと。

 ワイシャツのボタンを外す。そして、肌着を少し見せながら近寄った。

 

「どうしたんや。何か、あったんか? 言ってみ。俺とお前の仲やろ」

 

 ミロカロスは震えながら何度か鳴き声を発した。それを聞いているふりをしながら、その姿を視姦する。大方、どういうことが起きたのかは推測できた。

 神妙そうに頷いてから、はっきりと言う。

 

「シロナと、嫌なことでもあった?」

「フウウ」

「なるほどな。負い目を感じていると。自分が一度死んだせいで、彼女に負担をかけたかもしれない。だから自分は、嫌われた。なるほどな。きつい話や」

 

 綺麗な瞳を開き、はっきりと顔を上げる。その時初めて、彼女は桑原をまともに見たのかもしれない。

 

「フォオオオオ」

「どっちの気持ちもわかるなあ。お前はシロナを守りたいし、シロナはお前を傷つけさせたくない。羨ましいわ。よほどの信頼関係がないとそういうふうには思い合えん」

「フォオ!」

「そうやな。何も心配することはない。シロナは、お前をちゃんと愛しとる。他人の俺でも、わかるで。ちょっと言葉のすれ違いがあったくらいで、くじけんなや。どっちも冷静じゃなかったんやろ。もう一回、ちゃんと話せばええやないか」

 

 桑原にとってはただの推測、でまかせでしかなかったが。それが奇跡的にミロカロスの心情に合っていた。彼女はさらに岸へと近寄り、桑原へ向かって大きく頷いてみせる。

 その動きで舐めてくれないかと、前かがみになる。何とか冷静さを保ちながら、彼は川の先の方を指差した。

 

「そしたらもう、わかるやろ? ここでうじうじしててもしゃあない。行動や」

 

 一度桑原に向けて頭を下げてから、ミロカロスは前を向く。その顔は既に、悲しみから解放されていた。今までたどってきたであろう道のりを、戻ろうとし始める。

 桑原は、それに何とか並走した。

 

「待ってや!」

「フウ?」

「第三者が、必要だと思うわ。俺は部外者かもしれんが、役立つで。それに、お前は俺の頼みを受け入れる義務があるはずや。これでチャラにするから。な?」

 

 ミロカロスは、あまり迷わなかった。少しため息をついてから、岸に体を寄せる。触角を動かして、自分の胴体を示してきた。

 桑原が乗っても沈むことはない。どうやらこの生物は、水の中にいる時こそ真価を発揮するようだ。地上におけるものとは次元の違う速度で、移動を始めた。

 その風を満面に受けながら、桑原はほくそ笑む。

 人間の欲とは、果てしないものだ。つまりミロカロスの他にも、落とせる対象がいることに気がついていた。こうしてペットを華麗に助け、最後はシロナ自身を鮮やかに慰める。そうすれば彼女もミロカロスも、自分を意識し始めるに違いない。

 シロナも、なかなかの相手だと思っていた。その飼っている存在は厄介なものもいるが、本人自体は素晴らしい胸の持ち主だ。

 桑原は想像する。ミロカロスとシロナにサンドイッチされることを。

 前途には幸せが溢れていると、移り変わる景色を眺めながら思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ◆

 

 

 周囲の目があるところに留まり続けるわけにもいかなかった。

 ガブリアスによって高速で運ばれて、ビルの屋上に到着する。

 岡はその速度に晒されても、さほど動揺していないようだった。よく見れば、ガンツのスーツを一番下に来ているらしい。飛んでいる途中で噴水にでも向けて落としていれば、少しは狼狽えただろうかと、捨て鉢に考えた。

 

「ごめんなさい」

 

 カブリアスの腹を撫でてから、軽く抱きしめる。彼女の方も、優しく触れてきてくれた。

 

「おいおい、許可は取ったんか?」

 

 岡が煙草を吸いながら、指を向けてくる。

 

「はい?」

「それは、俺のものや。俺に許可も求めないで、何勝手に触っとるんや? お前の元の世界では、権利についての概念がなかったんか。世紀末やな」

「ふざけないで」

 

 自らの精神状態のせいで、岡の冗談も流すことができずにいた。きつく睨みつける。彼は平然としながら、煙草を捨てる。吸い殻を足で踏みつけた。

 

「お前、自分がどれだけ危険な事をしてるか、わかっとるか?」

「え?」

「最悪、お前だけやなくてそいつも死ぬところやったぞ」

 

 ガンツに関わることは、基本、秘さなければならないらしい。かつてメンバーの中で、調子に乗って武器を民間人に使いまくった者がいた。少しの被害を出した時点で、頭が爆発して死んだ。その法則が、シロナのポケモンにも適応されるかもしれないのだ。

 彼女は、自分がどれだけ愚かなのかを再認識した。自分だけではない。もしかすれば、生き返ったガブリアス達も、死ぬ可能性があった。ガンツによって再生された彼らには、シロナと同じ爆弾が仕掛けられたかもしれない。

 さらに気分が沈んだシロナは、柵に背中を寄りかからせた。

 岡がガブリアスと何かを話していたが、不発に終わったようだ。舌打ちをしながら、シロナの方に近づいてくる。

 

「まさか、他も外に出しとるんか? なんでそんなことに?」

 

 シロナは黙って岡の横顔を見つめていた。

 正直、気は進まない。だが、他に思いつかなかった。杏に話せば、おそらく過剰に心配される。自分が生き残ることだけに集中してほしかった。

 だから彼女は、ぽつぽつと語り始めた。自分が遭遇した事実を、全て岡に話した。途中で遮ることもなく、彼はつまらなそうに話を聞いていた。

 そして終わった直後、それまでとは打って変わって笑い始める。

 

「な…」

 

 自分の苦悩が馬鹿にされていると感じたシロナは、一瞬本気でガブリアスに指示を出しかけた。ギガインパクトを、憎たらしい男に向かって放ちかけた。

 岡はもう一本煙草を取り出そうとして、やめる。欠伸をしながら、シロナに向かって不敵な笑みを向けてきた。

 

「なんやそれ。フィクションにしても馬鹿馬鹿しいわ」

「貴方、言葉をもうちょっと」

「推論に推論を重ねたできそこないを、なして真実だと思いこめるんや? 少し考えれば、わかるやろ」

「わからないでしょうね。他人事だから」

「いや」

 

 岡は既に笑みを消していた。今まで見たことがないほど真摯な顔で、シロナと顔を合わせている。

 

「ところがそうでもない」

「…?」

 

 彼女の不思議そうな視線を受けながら、岡は言った。

 

「本当はな、巨大ロボが来る予定やったんや。海外の情報を鵜呑みにするなら」

「何を、言っているの?」

「確かにお前は死んでいない。ガンツに呼ばれたことは確かや。でも、俺達とは立場が違っている」

 

 懐に、握っていた煙草の箱をしまう。地面で潰された吸い殻が、まだ少し炎を残しているように見えた。

 

「お前とポケモンは、俺のクリア特典や。七回目のな」

 

 岡は少しも、冗談だとは思っていないようだった。

 

 

 

 


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