ルカリオは脅威を目の前にしても、判断を迷っていた。
元の世界では、命の危機という言葉に対して、実感を得る機会がほとんどなかった。ある程度の高みに到達した存在にだけ許される、やや退屈な安寧。シロナと共に挑戦者と戦い、負けた時も悔しさだけしかなかった。チャンピオンを防衛できなかったという反省がほとんどを占めていた。
だが、こちらに来てからは、違う気がしている。
黒い球体の上に座っていた、老人を思い返す。まだ戦慄のようなものが残っていた。いくらでも隙を見つけられるのに、なぜか本能が警告してくる。すぐにシロナを連れて逃げろと、理性以外の全てが判断した。
今歩いてくる女にも、それと似たものを感じていた。自分自身の命を優先する。主人の指示を第一に考えるべきだった。今度こそ、大人しく退却するべきだ。
だが。
「でもなあ、不安なんよ。あんまりこれ、得意じゃなくて…」
片手で、くるくると刀を弄ぶ。
ルカリオが警戒するように一歩下がる。
それとは対照的に、木村が軽く拍手をした。
「やべー、えっぐ。えぐいな。やりとうないわー。もったいな」
他の二人も同様に、黒い刀を展開させる。
「刀もっとるやん」
「じゃあ、刀やな?」
「うひょー、斬り合いカッケ~!」
サングラスの三人が一番前に出る。ルカリオは止めようとしたが、思い直した。もしかすれば、自分は憶病すぎるかもしれない。この場にいる全員で協力すれば、脅威を減らすことができる。シロナや杏へ及ぶ危険をなくせる。
獣耳の女は、ふっと表情を消した。首を傾けながら、構える三人へと視線を流す。その目は明らかに冷たくなっていた。
「最後の言葉、それでいいん?」
木村が振りかぶる。
「なに? いきっとんなあ。やっぱキメ~~~~っ」
彼も首を曲げながら、にやにやと腕に力を込める。
その瞬間、ルカリオは前へと飛んでいた。
皆を、助けて。
別に、何が何でも守りたいというわけではない。彼らは、一度シロナと敵対した。あろうことか彼女を傷つけたのだ。だがそれでもルカリオ自体に対しては、ぞんざいな扱いをしたことがなかった。
褒められれば、嬉しくはなる。はどうだんを教えろという要求には困っていたが、少し稽古をつけるくらいならいいと思っていた。
だからそれまでは、生きていてほしかった。
「秘剣、燕返し…。なんつって」
ルカリオは、満面に血を浴びる。
刃は器用に彼の肉球を避けていた。先ほどまで戦っていた般若達よりもはるかに速度があるというのに、途中で軌道を変えられるくらいはまだ余裕を持たせている。
「あらっ?」
木村は前に倒れていった。その上半身だけ。
そして下半身も地面に転がった時には、彼の頭が食いちぎられていた。
反射に、距離を取る。仇を討つという思考よりもずっと強烈な悪寒が、離脱を選ばせていた。
木村の脳味噌をすすっている女は、途中で嫌そうに口元を隠した。指の隙間から、舌がかいま見える。咀嚼しようとしていたものを上品に吐き出していた。
「あかんわあ。食えたもんやない」
その目が、光ったような気がした。
はどうを感じ、ルカリオは反射的にサイコキネシスを繰り出していた。
基本的に身内とは対等だと思っている。特にガブリアスとは、お互い切磋琢磨し合う仲としての関係を築いていた。
それでも、仲間であり師匠とも呼べる存在がいる。彼の苦手なエスパータイプへの対応訓練に協力してくれた、ミカルゲ。彼女から教えてもらったわざを防御に使ったのは、それまでの判断の中では最善とも言えた。
だから、最小限の被害で済んだ。
視界が半分消失する。
残った方で、見ていた。
原の首が捻じれていき、そのままもぎ取られる。
平のうなじが破裂し、その傷が背中まで広がっていく。
どちらも、ガンツスーツのメーター部分が割れていた。内部から衝撃を与えられたかのような破壊のされ方だ。首元のそれが粉々になると、くぼみ部分からゲル状の液体が流れ出してくる。
液体は広がる血だまりと混じっていき、妙な色を作り出していた。
「はぁあ、美味し……」
女は、蕩けた笑みで舌を伸ばした。今度は手で隠していない。その湿った舌肉の上に、ルカリオの右目を乗せていた。
そして、金髪の男の人差し指と親指も口内に入れる。
着物の裾から伸びている尻尾は、四本になっていた。
◆
走馬燈は、存在しない。
死の危機に瀕しても、別にこれまでの思い出が駆け回ることはなかった。結局人伝に聞いたものには根拠がないのだと、メガネはあえて現実から目を逸らすような思考をした。
終わる。終わった。既に死んでいるようなものだ。
棍棒を肩に乗せている相手を見て、ただ涙を流すことしかできない。こんなもの、どう倒せというのだろう。
手に持っているXガンが、いつもの間にか横に転がっていた。力が、抜けている。いつ落としたのかもわからなかった。
へたり込んだまま、最後の瞬間が来るのを見上げていた。
「きゅうううううううう!」
鳴き声が聞こえたかと思えば、白い弾丸が横から飛んできていた。
それは天狗の脇に炸裂し、吹き飛ばしていく。
「え…」
メガネは瞬きをした。足に力が戻り始める。
見たことのない、生物だった。鳥の一種なのはわかる。だが既存の種類に当てはまらない見た目をしていた。つぶらな瞳、赤白青の三本角。浮いているのに少しも動かない、白い翼。
「きゅきゅっ!」
必死で、何かを訴えかけてきた。翼の先で自身の背中を示している。
未だぼうっとしている頭が、迫る足音で無理やり覚醒させられた。
天狗の怪物は、全くダメージを受けていないようだ。ただ少し表情を険しくさせて、走ってきている。
「ひぃっ」
叫んでから、夢中になってその鳥の背中に飛び込んだ。指示の解釈は、合っていたらしい。それもまた焦りながら、一気に空へと舞い上がった。
後頭部を、呆然と眺める。
これは、一体何なのだろう。
星人ではないのだろうか。なぜ、自分を助けてくれたのか。
危機を脱したという安心感で、既に彼は思考が進んでいた。そういえば、まだ部屋にいた時も人間ではない存在がいたような。まさか、その仲間なのだろうか。
だが、それ以上は考えられない。
なぜなら、後ろから羽ばたきが聞こえてきたからだ。
「うわあああっ!」
「きゅ!?」
その鳥と一緒になって、悲鳴を上げた。
天狗もまた飛んできている。大きな翼を高速で動かしながら、追いかけてきていた。
「はよう! もっとはよして! 追いつかれる」
「きゅきゅ、きゅいいいい!」
「鳴く暇あったら加速せなっ」
「きゅうううっ」
「ああ、駄目や。ぼ、妨害しないと。なんかしてえっ!」
「きゅい!」
その鳥の足の先から、光の弾が形成されていく。青白いものだ。まるで有名な漫画の技のようだと思いながら、希望を込めてその軌道を目で追った。
そしてまるで見当違いの方向へと飛んでいった。
「なにしてるんやあ!」
「きゅいきゅい!」
むっとして、少し体を揺らしてくる。悲鳴を上げながら、メガネは体にしがみついた。
どうやら、外れたわけでは無いようだった。光弾は普通ではありえない角度で曲がっていき、見事天狗の頭に直撃した。
少し止まった後、相手は再び加速する。
「だ、駄目や! 効いてない。もっと、強いわざ…」
「きゅ? きゅううう!」
「な、なんで僕に怒るんや。今それどころじゃ…」
別の咆哮が聞こえてきた。
ちらりと振り向けば、天狗の憤怒の表情が明らかに近くなってきている。やがてその棍棒が届く範囲に接触するのは明らかだった。
意識が、遠のきそうになる。
あの武器に頭を潰されるか、さっさと飛び降りて楽になるか。究極の選択を迫られていると感じていた。ここまで追いつめられても何も決められない自分に、呆れる。結局生にしがみついていたくて、何も成せずに終わるのだ。
雷のような音を、聞いた。
薄目を開ける。
ぐらりと、天狗がバランスを崩すところだった。その翼の片方が、焦げている。
白い鳥の得意げな表情を見るに、それが何かしたのは確実だった。足の先に、閃光が弾けている。
「お前、それ…」
「きゅっ」
どうだ、とばかりに笑いかけてくる。鼻から息を吹き出した。
「す、すごい! 雷もできるんか…。お前すごいなあ」
他に何ができるのか、尋ねたくなった。
天狗は一気に高度を下げていく。ほとんど墜落しているようなものだった。胴体などはかなり頑丈のようだが、翼は違ったらしい。それを的確に狙った白い鳥の頭を思わず撫でそうになる。命の恩人も同然だ。
天狗が、吠えた。
首の数珠が揺れながら、光っている。そして棍棒を握っていない方の手を、向けてくる。人差し指を伸ばして、鳥の方を示していた。
その恐ろしい目に、光が灯った。
メガネは大きな浮遊感を感じる。揺れに何とか耐えながら、左を見た。
「ああっ! そん、な」
「ぎゅ……」
自分を助けてくれた鳥が、呻き声を上げる。その左の翼が折れ曲がっていた。何をされたのかはわからない。まるで不可視の力が無理やり攻撃してきたようだった。既にメガネは投げ出されている。鳥と共に、落下していった。
高所から地面に叩き付けられるというのは、どれほど痛いのだろう。できれば即死になってくれた方がありがたかった。今からでも頭を下にした方がいいだろうか。
そんな思考をする間に、地面が視界一杯に広がった。
転がっていく。固い感触が上下左右に這いまわっていた。そしてようやく認識できるようになると、自分がほとんど無傷でいることにも気がついた。
「へ…」
首もとや、胴体のあたりにあるくぼみ。そこから、液体がこぼれていく。スーツが、薄くなっていく感覚だった。体が一気に重くなる。
天国ではないのは、確かだった。近くで辛うじて立ち上がろうとしている鳥の存在が、それを証明していた。
慌てて駆け寄る。翼以外は、大きな怪我をしていないようだった。
「どうしよ…、病院、動物病院に」
それが身に着けていた、荷物も散らばっている。妙な赤いボールも転がっていた。だが、役立つとは思えない。今必要なのは治療用の道具だ。
鳥は、動こうとしている。痛いはずなのに、両の翼を合わせようとしていた。やめてほしかった。これ以上、痛々しいのは見てられない。しかも、自分を救ってくれた相手だ。だが何をすればいいのかわからない。連絡するためのスマホも、どこかへ行ってしまった。
その鳥を一生懸命見ていたせいで、囲まれていることに遅れて気がついた。
「動くな!」
いくつもの銃口が、向けられる。
周りを見回して、緑の迷彩服を確認した。
メガネは反射的に手を上げていた。だが、相手の集団は態度を変えない。遠くで、牛の鳴き声のようなものが聞こえていた。それに対して、自衛隊の者達は酷く怯えているようだ。
「何だ貴様は!」
「うち、撃ちますか?」
「所属を言え!」
「ちょっ、え、まっ」
どう考えても同じ人間なのに、彼らは自分の事を完全に化物の一種だと思い込んでいるようだった。釈明をしようとしても、言葉が浮かんでこない。向けられる銃の圧力で、声が震える。
自衛隊は、さらに近づいてきた。
「撃ちます!」
「命令を!」
「ん、ちょっと待て」
もう駄目だと、諦めた時だった。
一番前の方にいた男が、銃を下げる。そしてヘルメットを少し上げると、唖然としながら白い鳥を見てきた。
鋭い目つきをしている。
「それ、まさか」
「軍曹?」
「やっぱり! 幸福の白い鳥だ。見覚えがある。皆やめろ。こいつに危険はない」
その名称は、聞いたことがあった。
まだ小さなニュースにしかなっていない。だが、印象的だった。見たこともない動物を連れた女性が、街の広場で突然ショーを始めた。メガネは詳しく見ていなかったが、友人がまたあったら見に行きたいと言っていたのを憶えている。
その女性というのは、外国人だとも聞いていた。
そこでようやく、結びつく。あの黒い球体の部屋にいた彼女。まさに特徴が当てはまっている。つまり彼女が飼い慣らしている動物達もまた、この戦いに参加しているということなのだ。
妙な納得をした直後、ここに留まっている場合ではないと気がついた。
メガネは慌てて立ち上がる。
「あ、あの、早く! ここから逃げないと…」
「どうした?」
一瞬で、迷彩服の数人が潰された。
呼びかけてくれていた男も、その中には含まれている。
天狗は腕を組みながら、死体から足をどけた。低く唸り、起き上がった白い鳥を睨みつけてくる。
「駄目っ! 逃げ」
銃声と咆哮が重なった。
ただ呆けて眺めていることしかできない。暴力の渦が自衛隊を破壊していく。銃弾が、まるで効いていないようだった。むしろより怒らせる材料にしかないっていないようだ。天狗は霞むような速度で棍棒を振り回し、人間達を飛ばしていた。彼らの全てが、大きく体を欠損させて絶命している。足も同時に繰り出して、逃げようとしている者を潰していた。途中から、銃声はなくなった。やがて悲鳴も消えていった。
「あ、あ…」
吐きそうになりながら、後ずさる。だが途中で腰が抜け、その場に座り込んでしまった。この場で生きているのは、もう一人と一匹しかいない。
「きゅ…」
鳥は完全に立ち上がって、天狗を睨みつけていた。だが万全とはいえない。羽がまだ痙攣している。もう飛べないだろう。そこに徐々に光が注がれているのは気になったが、どちらにせよ間に合うとは思えなかった。ここでどちらも殺される。
天狗が動きを止めて、振り返った。
メガネもまた、認識する。それは見憶えのある男達だった。
彼らは、何かを構えている。二つの筒が合わさっているような銃だ。その細かな作りは、自分にも支給されていたXガンと共通している部分もあった。その先端が、駆動音を発しながら光る。
白い鳥が、急にぶつかってきた。その勢いに押されるようにして、広い橋から飛び出る。
落ちていく刹那、確かに見た。
天狗が何かを察知して上に飛ぼうとした。
だが、その前に衝撃がやってくる。
おぞましい存在は、呆気なく地面に叩き付けられた。固い橋の表面にめり込んでいく。
何とか階段を上り切ったメガネは、天狗の体へと近づいていく存在達を、ようやくまともに認識した。
煙草を咥えている半裸の男が、喋り出す。
「どや? 死んだか?」
「他におるんか? 百のヤツ」
人相の悪い短髪の男が、驚いたように足を止めた。
「ちょっ…、またこのパターンか。こいつも…」
天狗は、徐々に起き上がってくる。今まで着ていた山伏のような衣装は、既にずり落ちている。被っていた帽子もなくなっていて、口の端から血を漏らしていた。今までの比ではないほど表情を歪ませて、唸り始めた。
半裸が、隣にいたベージュ色の蛇を止める。
「おい、下がっとけ」
「ぐるるあああああああっ!!」
肌の黒い男が、再び両筒の銃を操作した。叫びながら飛びかかろうとしていた天狗が、再び地に付す。一緒に巻き込まれた棍棒には、傷一つついていなかった。
「こいつ…、百点か」
「かもな」
短髪の男が、煙草を口から外した。
さほど動揺もしていなさそうな様子で、宣言する。
「こいつは俺がやる」
あまり納得していない様子の存在がいた。左右の花が印象的な生物だ。植物とは断言できないような、人間らしい形をしていた。だがそれも、黒い男によって引っ張られていく。天狗の近くには、短髪の男だけが残った。
立ち上がろうと動く天狗に、次々と撃ち込んでいく。地面にできた円状のへこみがどんどん深くなっていった。強大な重力が、大きな体を押し潰そうとしている。
「うす~くなりぃや。紙になってまえ」
「ぐるる…」
短髪の男が、操作を止める。そして少しだけ下がっていた。
「なんやねん。どいつもこいつも。あのナメクジだけかとおもっとったのに」
まだ、天狗は動いていた。鼻の先は潰れ、胴体の骨もいくつか折れているようだったが、まだ少しも闘志を衰えさせてはいない。鼻から血を吹き出しながら、顔を上げた。口を大きく開けて、男を狙っている。
「死んどけ」
銃が再び光る。今度は、いつもよりもチャージされているという感じがした。光がかなり強い。
重力が降ってくる直前、天狗は既に動いていた。
身を低くしたまま、転がっていた棍棒を立てた。その柄の部分に両の手を添えて、固める。
一番高い位置にあった棍棒の先端へと、衝撃が到達した。
「なん…」
柄が、地面に埋もれた。天狗の手もそれに巻き込まれて、指のいくつかがねじ曲がっていく。だが、それだけだった。しゃがんだその本体までは届いていない。棍棒が、つっかえの役割を果たしていた。考えられない強度だ。ただの金属で構成されてはいない。
そして、あっという間の出来事だった。
天狗は棍棒を持ち変えると、素早く振るった。範囲が広い。たとえ相手がすぐに反応して避けれたとしても、ぎりぎり当たらないくらいの距離だった。
だが、そもそも短髪の男は精神的な衝撃から脱しきれていなかった。
「おい!」
半裸の男が口を開けて、ぽとりと煙草を落とす。隣の黒い男もまた、目を見開いて驚愕を示していた。
「室谷」
「ノブやん…、まじかいな」
スーツの防護など、まるで作用しなかった。
もはやそれは、人の体の形を留めていない。棍棒によって、短髪の男は潰されていた。足とごちゃまぜになっている腕が、ぼろぼろの状態で伸びていた。その先の方だけが、人間らしい肌の色を保っていた。後は血肉の色で塗れている。
メガネは、ずっと動けなかった。そしていつの間にか再び取り残されていることを、数秒遅れて把握する。
天狗が、再び咆哮を上げていた。それはただの威嚇ではない。また数珠が光っている。その力の作用は、他の男達に向かったようだった。
離れていた彼らと動物が、吹き飛ばされる。そのまま下の川に落ちていった。一瞬の出来事だった。
白い鳥と、顔を合わせる。先ほどは勇敢な表情をしていたが、今はメガネと同じくらい泣きそうになっていた。翼が、震えている。いつの間に傷が完治していたが、どうやら飛べないことには変わりないらしい。
今度こそ終わったと、メガネは絶望した。
天狗はもはや表情を緩めている。息を荒げながら、彼らを見て笑っていた。そこには、凶暴な欲望も伺える。自分達を無残に殺して、食らうのだと目が言ってきている。
「わ、わああっ!」
潰された死体。
引き裂かれた迷彩服達。
何もかもが非現実的だった。全てが夢だったと思いたかった。目をつぶって再び開ければ馴染みのある天井が写るのではないか。
そんな逃避よりも迫ってくる重い足音の方が勝っていた。
「く、くるな。くるなああっ!」
やけくそになって、手につくもの全てを投げ始める。欠けた地面の欠片などを、ぶつけようとする。
天狗は真面目に避けようとしていなかった。片手で次々と弾いていく。もちろん、傷つけられるわけがなかった。あんな武器の攻撃を何発も食らっているのに、まだ歩ける余裕が残っている。尋常ではないタフさだった。だから、ベテランらしき男も呆気なく負けた。
泣いて、鼻水を垂らしながら腕を動かす。もう投げ続けることしかできなかった。直接突進して、殴りに行く度胸もない。
途中から目をつぶっていた。直視できない。近づいてくる巨体が怖い。だから途中で石などとは違う感触を感じても、構わず投げていた。
もはや耐えられなくなって、うずくまる。こちらを潰そうと迫る棍棒を見たくなかった。最後の瞬間見るのが、震える自分の手なのかと、虚しくなる。
せめて、人並みに経験はしたかった。メガネは呻く。知らないまま、死ぬことになるなんて最悪だ。本当にろくでもない人生だったと、走馬燈が駆け巡った。電撃のように思い出が流れていく。結局本当にあるのだと納得していた。
そして、段々とおかしく思い始めた。
いくらなんでも長すぎる。絶望で時間が引き伸ばされているのだとしても、既に自分が死んでいてもおかしくないほど経ったはずだった。
「あれは…」
「キッスちゃん?」
「う…」
「たくさん、死んでる…」
女子率の高い集団の声が、近づいてくる。
メガネは顔を上げた。
二人ほど、男が混ざっていた。そのうち一方は憶えがある。かつて自分を助けて、捨てていった若い男だ。
だがそれよりも印象的だったのが、スタイルの良い外国人の女性だった。例の珍しい動物使いだ。かつて部屋の中でスーツを着るように呼びかけていた。
夢見心地で、天狗がいるはずの方向を見る。
その巨体は消えている。まるで幻のようだった。
動く存在を認識する。それは、生物ではなかった。
ただの、ボールだ。
赤いボール。
それが揺れていた。左右に規則正しく傾いていた。メガネは思い返す。確か自分がやけになって投げたものの中に、含まれていたような。
ボールは三回ほど動き、綺麗に止まる。
かちり、と真ん中にあるボタンが光った。