自失している場合ではないと、思い直した。
「あ、あの」
相手はまだ、頬を濡らしている。じっと、メガネのことを見つめてきていた。彼と同じくらい、呆けているようだった。
何とか、声を絞り出す。
「お、お前がやったんや。皆を、治して…ください。毒を…」
「はあ……」
狐女は、何度か瞬きをした。着物の袖を動かす。何か仕掛けてくるのではないかと身が引けたが、ただそこで涙をぬぐっただけだった。
「治せば、ええの?」
「そう、そうだ。そうです」
「わかった」
ほら、やっぱり敵だろうと直後に言おうとした。だが、予想外の返事が返ってきて、メガネはまた頭が真っ白になる。彼女は、ちゃんと今の状況を把握しているのだろうか。自分が指示したことを、理解しているのだろうか。
心配は杞憂に終わる。
緩く手を上げると、口を動かす。途端、気体が大きく動き始めた。彼女から出てきた白い霧のようなものが、倒れている者達に絡みついていく。そしてその体内から、濁った塊を次々と引っ張り出していった。それらは全て空中で合わさり、彼女の尻尾の一つに吸い込まれていく。
かすれた声を出しながら、岡が薄く目を開けた。
シロナが涙を落としながら、すぐに顔を近づける。
「大丈夫? 私が誰か、わかる?」
「お前……、なんで、どういう」
「オカ?」
彼は小さく口を動かした。表情を少しだけ変える。唇の端を持ち上げて、弱々しげではあるものの、不敵な笑みを浮かべる。
「なんで、泣いてるんや…。だっさいわ」
シロナはその言葉を聞いて、怒りはしなかった。ただ安堵の表情を強めながら、ぽろぽろと雫をこぼしていった。
「ずっと、ずっと…」
「ああ…?」
「何回も夢を見た。貴方が、死ぬ夢。ただの夢じゃなかった。本当に起こるんじゃないかって、ずっと…」
「あい、かわらず、くだらないことで悩んでるんやな…。お前、らしい……」
それ以上、岡は言葉を続けなかった。目をつぶり、力が抜けていく。上げかけていた手が落ちた。
シロナが慌てて抱き上げるが、呼吸をしていることを確認できたらしい。すぐに優しく彼を寝かせていた。
メガネは、その光景に少し感動を覚えていた。二人は、そういう関係なのだろうか。どちらにせよ、こうしてよかったと思えるような姿だった。
他の者達の状態も確かめようとしたが、その前に何かが迫ってきた。
顔を掴まれてから初めて、それが女の手だとわかる。ただメガネに到達する寸前、刃のように伸びていた爪が一気に引っ込んでいた。
「んぐぐ…」
シロナ達も立ち上がる。異常に気がついた。
メガネは、直感している。相手がその気になれば、すぐに自分の頭を潰せるのだ。いつでも、命を奪うことができる。ここへきて、醜い後悔がやってきた。自分なんかが誰かを助けようとするなど、おこがましかったのだ。
「ふぅん、なるほどなあ」
狐の女は、彼の体を左右に軽く揺さぶっている。かなり楽しげだった。まるでこれから、宴が始まるとでも言いたげだ。
「やめなさい!」
ミカルゲが、準備をする。シロナも一歩下がって、Xガンを構えた。再び始まろうとしている戦闘の気配で、場の空気が一気に張り詰めた。
が、女の姿が変化し始めた所で、その雰囲気も崩れていく。赤い着物が変色し、きつく締まっていく。体のラインが、如実に表れ始めた。全身が黒くなっていく。髪もまた、同じ色に染まっていった。
殺される、と半ば目をつぶっていたメガネは、直後顔が何かで包まれるのを感じていた。とても柔らかい感触だ。やや弾力もあるような気がする。
「こういうの、好きなんやろ?」
「え、え」
自分を抱きしめているのは、明らかに知った顔だった。レイカだ。彼女とそっくりの何かが、メガネに微笑みかけていた。
「わかりやすい好みしとる。じゃ、移動するで。人目があるのは、いややろ?」
「ちょ、ちょお、なん、なんや。何してるんや」
「まずはお互いのことを知るのが大事なんよ。うちに全部任せてな?」
「はな、離れて! 当たって…」
「わ、ざ、とや。主様、可愛いなあ」
「うわあああ」
どこかが壊れたような声を出しながら、メガネは腕を突き出した。本当ならそれくらいの抵抗などものともしないはずなのに、あっさりと女は解放した。
「うーん、やっぱり、これじゃ駄目なんか? もっと別の姿がええ?」
「そう、いうの。いいから。僕は別に、そういう…。と、とにかく。戻って。元に戻ってや」
思いがけない言葉を聞いたとばかりに、女は瞳を大きくした。細長かった瞳孔が、やや人間のものへと変わっていく。
「本気で、言ってるん?」
「そ、そうやって」
「…元のうちが、好きなん?」
「え? えっと、まあ、そっちの方が…」
「フフ。しょうがないなあ」
ゆるゆると表情を甘くし、女は元の着物姿へと変化していった。メガネはその間に腰を抜かしながらずりずり後ろへと下がっている。状況についていけていないのは、シロナ達も同じようだった。だが少なくとも、目の前の危険は無くなったらしい。
狐の女は腰を低くすると、メガネの目線にしっかり合わせた。綺麗な腕を伸ばして、包囲網を作り出す。それはメガネを捕らえようと、今にも動き出そうとしていた。
「待ってや!」
「うん?」
「い、意味がわからん。お前は、敵やろ。何で急に、こんな」
「あんまり、変わっとらんよ。ほら、早く命令して?」
その瞬間、女の目が光った。だが、何も起こらない。それは威嚇のようなものだった。シロナ達に対する敵意が、明確に表れている。
「主様の邪魔な存在は全部、うちが殺す。許可をくれれば、すぐにできる。さあ」
「や、やめろ。別に僕は、そんなことは望んでない」
「でも、うちが極楽へ運んでもいいんよ? 何もかもが、思いのまま。欲望の全てを叶えられる」
メガネは息を一瞬詰まらせたが、すぐに首を振った。
「とにかく、この人達には、手を出すな。味方や」
「わかった」
明らかに、おかしかった。相手の物わかりが良すぎる。ここにいる人たちの被害を見れば、嫌でもわかる。この星人は、残虐なのだ。人間達に容赦をしない。だというのに、今は飼い慣らされた犬のように指示を受け入れていた。
メガネは呼吸を落ち着けてから、女を見据える。そうしようと思ったのに、数秒くらいで限界が来た。ほとんど露出の無い着物姿でさえ、直視し続けることができない。これは自分が女慣れしていないからだけではないはずだと確信していた。
「質問、してええか?」
「もちろん」
「お前、どうしてこんな、僕の言うことを聞くんや。さっきまでは違ってた」
女は、何かを思い出すような表情をする。尻尾の先が、揺れていた。思わずその動きを目で追う。
それに気をとられていて、いつの間にか相手の口が耳元にあるのを、遅れて気がついた。
「そうやってとぼけるところも、ええなあ」
ふぅ、と吐息をかけられる。メガネは目が回りそうになった。実際に頭の中で何かがぐるぐると回っている感じがする。
「うちをさんざんに負かしておいて…、いけず」
「わか、わからん」
「初めての経験やったわあ」
女はまた泣いている。今度は表情も一緒に動いていた。間違いなく、恍惚としている。そしてその濡れた視線が、相変わらずメガネへと固定されていた。
「最初はな、苦しかったんよ。うちも、最終手段使ったから。戻れなくて。でもな、そのうち色々な事が流れ込んできた。あんなのは…今まで見たことがない。表現できんけど、とにかくすごかった。それで我を忘れてるとな、背中から包まれ始めて、いくら抵抗しても無意味なほど強く、組み伏せられたんや」
指先が、メガネの頬を撫でる。
「主様に」
「は、はあ?」
「うち、強いものが好きなんよ。美味しいってわかりきっとるし。でも、今まで味わってきたどんな高級なもんよりも、こう、胸に刻み込まされたわ。離れることなんて、できん。なあ……」
網が、かかる。メガネは何もできなかった。彼女の両腕が回されて、抱き寄せられても身動き一つとれなかった。着物の上からでも、体が感じられる。特に包み込まれている腕が、熱を発していた。本当に目が回ってくる。
「主様が死ぬ時、ちゃんと言ってな? 頭からちゃんと、食べたる。フフフ、今から楽しみになってきたわ。どんな味がするんやろ」
これは別に、助かっていないのでは?
と、メガネは顔を真っ青にさせた。だが上手く抵抗できない。女から漂ってくる花のような香りのせいで、全身が弛緩していた。だが、一部は少し違うような気がする。
何とか立ち上がり、微妙な顔をしているシロナを見る。彼女は何度か仕切り直すように頷いてから、周りに倒れている者達を示した。
「このまま、放ってはおけない。運ばないと。人手が足りない」
「あ、待て待て」
ここで、ずっと黙っていた存在が声を上げた。若い男。メガネを捨ててバイクで逃げていった京だ。
「岡は、俺が運ぶ。ええな?」
「?」
「い、いいから。お前は別のやれや」
シロナの胸のあたりを見てから、慌てて顔を逸らした。メガネとしては、複雑な心境を抱かざるを得ない。
彼女は不思議そうにしてから、狐の女へと顔を向けてきた。
「…貴方も。協力して」
「いや」
女は艶やかに笑った。
「なんで、価値もないヒトを助けないといかんの? それに、言葉には気をつけな。うちに命令できる権利があるとでも思ってるん?」
「あ、えっと、その。落ち着いて」
「はぁい。うちは落ち着いてますよー」
「ちょっと、離れてや」
メガネの胸をつつく動作を、途中で止めた。
それから面倒そうにシロナへと顔を動かす。
「うちよりも、力仕事に向いとるやつおるんとちゃうん?」
「どういうこと?」
「それ、投げたら?」
女が指差したのは、メガネの腰に付いているボールだった。
まじまじと、それを見つめながら手に取る。今まで、失念していた。一つの成功例が目の前にいるのだ。もう一体の方も同じようになるかもしれない。
今度は、さほど躊躇わなかった。どれだけ信じていいのかはわからないが、狐の女が自分を守ると誓ってきていた。本当は別の目的があるのではないかと不安になったものの、もしかすれば戦力が増えるかもしれないという誘惑には抗えなかった。
今度はもう少し大胆になった。普通に振りかぶって、投げる。少し勢いが強くなりすぎて、一度ボールは塀に当たった。そして跳ね返り、通りの真ん中に落ちる。
さすがに、怯えはやってくる。前まで自分を殺そうとしていた存在なのだ。その巨体もまた、恐怖を増大させる一因になっていた。
だが、天狗のような怪物もまた、涙を流している。強面でそうされると、妙な感じになった。よく見たら瞳は真ん丸で、愛嬌があると言えなくもない。翼を一度はためかせてから、膝をついた。
それは、はっきりとメガネへの忠誠を示してきていた。
「お前もか」
「ぐる…」
「僕の言うこと、聞くんか」
妙な気分だった。恐れもあるが、どこか興奮している自分もいる。特に人間など簡単に壊していそうな化物に膝をつかせていると思うと、それが自分の実力なのだと錯覚してしまいそうだった。実際にそう思いこまない所が、彼の小心さを表している。
狐の女も同じく、礼をした。
「うちらは、主様のもの。最後の瞬間まで、その身を守護します。どうぞよしなに」
「きゅきゅっ!」
ここで、ずっと出番を狙っていた存在がいた。
意気揚々と、トゲキッスが彼らの前に躍り出る。何やら大きく胸を張っていた。翼もまた広げてみせながら、鼻息を荒くする。
「きゅい~」
モンスターボールを示してから、さらにふんぞり返った。
メガネでも、何となく意味はわかる。
要は先輩だと言いたいのだ。確かにトゲキッスの方が、ボール住歴が長いと言える。彼はどこか、後輩を求めていたようだった。普段仲間達の間でどういう扱いを受けているのか、察せられる一幕である。
だがさらに鳴く前に、その翼がむんずと掴まれた。天狗の怪物が、冷めたような表情でトゲキッスを後ろへと放り捨てる。怪我しないように配慮はされていたようだが、何の抵抗もできずに投げられていた。
「きゅむっ」
そして彼が体勢を整える前に、不可視の力に捕まる。狐の女は薄く笑みを浮かべながら、手を動かした。トゲキッスが焦りながら、地面に押し付けられる。
「あ、ちょ。駄目や。トゲキッスは、僕の恩人…恩のある相手なんや。ええか?」
「ぐうう」
「はぁーい」
「特に、えっと、そこの天狗。まだ謝ってないやろ。トゲキッスの翼折ったことちゃんと謝らな」
そこは素直に従ってくれるようだった。天狗は少ししゅんとしてから、いじけているトゲキッスに頭を下げた。それで少しは機嫌が直ったようだ。トゲキッスはいつものようにふわりと浮き上がった。ばしばしと天狗の背中に翼を当てている。
ふと視線をずらすと、狐の女が頬を膨らませているのがわかった。可愛すぎると、メガネは少しの衝撃を受けつつ後ずさる。
「なん、なんや」
「別にぃ。ちょっと、不公平やと思ってな。なんで主様は、他人の子を名前呼びしてはるのに、うちらには何もなしなんかなと思って」
「お前達にも、名前あるんか」
「いや、それがないんよ。前の時は同種なんていなかったからなあ。うちはうち。この木偶は木偶。それだけで十分やった。でも、もう満足できん。主様、ええの頼むよ?」
「僕が、つけるんか」
「お願い」
天狗の方も、何やら期待を込めて見つめてきていた。そこまで思われると、ぞんざいにはできなくなる。だが、自分のセンスに絶対に自信があるわけでもない。少し、時間がかかりそうだった。
そして、咳払いが割り込んでくる。振り向くと、シロナ達が困った様子で立っていた。
「とりあえず、他の皆と合流しましょう。怪我人たちを運ばないと。まだ、敵は残っているから」
オニテング。
百鬼夜行星人。
妖怪の大天狗がモチーフ。伝承通りじんつうりきを持ち、指定した座標を抉る攻撃ができる。だがそれよりも、直接肉体を使った戦いの方が得意。手に持つ黒い金棒は、あらゆるものを破壊する。
キュウコン。
百鬼夜行星人。
妖怪の九尾狐がモチーフ。伝承においては絶世の美女に化け、権力者達に取り入って甚大な被害を及ぼしたという。彼女はオニテング以上に妖術に長けているが、同時にとても優秀な戦士でもある。その尾の一本から作られる御剣は、あらゆるものを両断する。
自分では、大した思いつきではないと感じていた。ほぼほぼ見たままの特徴を名前に変換させただけだ。
だが、彼女達はかなり喜んでいるようだった。それを見ていると、どこか罪悪感が湧いてくる。それに顔を背けて、シロナとのこそこそ話を再開させた。
「何を、するって?」
「だから、その。この戦いって、星人を絶滅させないと終わらないんですよね。なら、こいつらも殺さないといけないってことじゃないですか。相手にそれがばれる前に、早めに対応した方が…」
シロナは予想に反して、眉をひそめていた。
「つまり?」
「ぼ、僕が命令をします。絶対聞かないと思いますけど、自分から、えっと、死ぬようにさせれば」
とんとん、と肩を叩かれた。
シロナは歩きながら、真剣なまなざしを向けてくる。
「聞いて。確かに、私も心のどこかでは賛成してる。合理的ではあるかもしれない。でも、貴方だけは、それを言ってはだめ」
「どういう…?」
隣を漂っているミカルゲを、一瞥する。
「責任だから。一度ボールで捕まえて、言葉を交わしたのなら、絶対に貴方だけは彼らを信じなければならない。どんなことになろうと、味方でいないといけないの」
「でも、急にそんな」
彼女は苦笑した。
「わかってる。これは、私の中のルールみたいなもの。でも、共存できるのならそれに越したことはない。貴方が鍵を握っている」
「うーん…」
自分にそんな責任を負わされても困るという心情が、ほとんどを占めていた。横目で、歩いている両者を観察する。オニテングの方は、多くの怪我人を抱えていた。今の所、それに不満を感じている様子はない。キュウコンから少し離れた所で、東京チームの男二人が恐る恐る歩いている。
サングラスと、若い男。彼らも少し怪我をしていたが、普通に歩ける程度には回復していた。彼らはキュウコンに被害を受けたようだ。彼女には恐れを、そしてメガネには大きな同情を向けてきていた。
共存。
自分の口の中で、言葉を転がしてみる。そんなことが、可能なのだろうか。もっとも、これからの戦いを生き残らなければ、今後のことを考える意味などないが。
そんなメガネの複雑な心情を台無しにしているのが、京という存在だった。
「無理や」
「そんなに?」
「三百点なんて、ありえん。勝てない。挑んだら、死ぬ」
「でも、逃げられない。私達全員で、倒すしかない」
「だから、無謀やって。ちょっと、ええか。お前のペットで何とか、頭の爆弾処理できれば。一緒に逃げられる」
「それは…」
「俺は、死にたくないんや。…シロナにも、死んでほしくない。そういうことや」
「うん。それは、ありがとう」
「お前、ちゃんと意味わかってるか?」
はたから見ても、京が彼女にそういう感情を抱いていることは明白だった。腕に触れて、胸へとの視線を隠そうともしない。シロナもわかっているのだろうが、どうすればいいか対応に迷っているらしい。
メガネは一言言いたくなった。そもそも、こちらへの謝罪が一つもないというのはおかしい。だから、オニテングにでも頼んでシロナから京を引きはがしてもらおうとも考えた。
だが橋の近くの通りに出た所で、異常を察知する。
集団が、走ってきていた。黒スーツの集団だ。
その姿を細かく認識する前に、もっと大きな影が視界に入った。
「なんだ、あれ」
遠目で見ても、それが化物であることくらいはわかる。目を凝らすと、それは無数の女体でできているとわかった。高さが二階建ての家を優に超えている。かなりの速度で、黒スーツ達を追いかけてきていた。
「アンズ!」
シロナが叫ぶ。
メガネも見憶えのある黒髪の女性が、必死に走ってきている。その隣の者達も同じだった。中には、半裸の男性を抱えている人間もいる。髪をオールバックにした男だった。その周囲で、蛇のような生き物や、動物のような植物、そして青と緑のナメクジが慌てるようにしてついてきている。
「わ、わあああ!」
京が後ずさる。そして、シロナの腕に強くしがみついてきた。
「絶対に、あれや。やばいいぃい。皆あれに食われて死ぬ…」
「そんなことには、ならない」
シロナがXガンを構える。少し遠いが、早めに対象へと撃ち込んだ。
だが、敵はそれに反応してみせた。
その図体からは考えられないほど器用な動きをして、射線から逃れている。新体操のような体勢だ。
「もう、下がれない。逃げ続けてもだめ」
振り向きざまに、蛇のような個体が口から氷の線を発した。ミロカロスというらしい。だが、その攻撃もまた相手が飛び上がったことにより外れる。確かに、恐ろしいほどの反応速度だ。正面からではまともにダメージが与えられない。
なら、攻撃しなければいい。別の方法で倒しやすくする。
メガネは、まだ冷静な方だった。最初の方はただただ状況に流されて、襲い来る敵に怯えることしかできなかったが、今は違った。
「あ、あれも、できるんじゃないんですか?」
シロナが横目を向けてくる。
「このボールで、捕まえられるかも」
「かわされたら、意味がないわ」
「ぼ、僕が裏に回ります。他の皆がひきつけている間に、何とか」
肩を掴まれて、勢いよく引っ張られた。
目の前に、鬼気迫った美貌がある。
「何、考えてるん?」
九つの尻尾。狐はコンと鳴く。だからキュウコンと名付けた女が、今までにない表情をしていた。それはメガネを諫めているようで、何かに恐怖している感情も含まれている。
「認められんよ」
「でも、そうだ。キュウコン達も手伝ってくれれば」
「無理や」
「どうして」
「元頭領様には、誰も勝てん。挑めば、うちらはみんな殺される。逃げるしかない」
「でも、範囲外に出たら、頭の爆弾が」
「うちが取り除いたる。脳に後遺症が残っても、大丈夫や。面倒みたる。ずっと一緒。だから、逃げるで」
「だ、だめや! そんなの、無理」
メガネはキュウコンを押しのけた。彼女はそれに抵抗をしない。できない、と言った方が正しいようだ。
オニテングの方も、首を振ってきていた。
冷静でなくなっていく自分を感じる。たとえまだ完全に信用できないとしても、彼らの強さには頼っていた。なのに、逃げようとしている。まだ、どこかで躊躇いがあるせいなのではないかと思った。
「やっぱり…」
「?」
「わかった。頼るのはやめる。元は敵だったんや。期待する方が間違ってた」
足が、少し震えている。確実にあの化け物は近づいてきている。
メガネは、心配そうにやり取りを見守っていた白い鳥へと向き直った。
「トゲキッス。さっきと同じや。上から、落とす。いけるか?」
「きゅっ」
「よし。し、シロナさん達は、少しでも奴の注意を引いてください。すぐに終わらせます」
キュウコンが一歩前に出て言葉を発しようとした。だがその前に、メガネはトゲキッスの背に乗る。一気に飛び上がった。
自分の力で飛んでいるわけではないが、それは緊張を紛らわしてくれるほどの高揚感を与えてきた。体の全てが、空気にさらされている。飛行機に乗るのとはわけが違った。世界が、一気に広がっていく。
相手は、気づいていないようだ。足元にいる者達へと注意が完全に向けられている。シロナ達が攻撃し始めたのも効いている。ほとんどが当たっていなかったが、回避に専念させている時点で、作戦通りだった。
一人が、捕まった。ずっと誰かを庇っていたオールバックの男だ。凄いと思った。こんな時なのに、他人の命を守ろうと奔走できる。ああいう人間が、一番活躍するべきなのだろう。
自分だって。メガネは、今までにないほど意思を燃え上がらせていた。何かの、誰かの役に立ちたいと思うことはある。自分にできることがあるのなら、やるべきだ。
ここだ、と思うタイミングで投げた。投擲の勢いに加え、落下による加速で真っすぐ女体の化物へと向かって行く。
腕が、動いていた。
肝が冷える。
どうやら、しっかりとメガネ達にも気が付いていたらしい。振ってきたボールをこともなげに手で弾く。
失敗した、と思わず味方の方を見たが、シロナは力強く頷いていた。
それでいい、と口だけで伝えてきている。
次の瞬間、開いたボールの口から大量の光が飛び出してきた。それは化物を瞬時に覆っていき、そのサイズを縮小させていく。ものすごい勢いで、ボールの内部へと吸い込まれていった。
改めて、凄い道具だと実感した。たとえ不意を突かなくても、相手の一部分に当てれば問答無用で捕獲する。反則級だった。だから、自分の命も救ってくれたのだ。
妙な緊張と共に、メガネは降下した。トゲキッスの背中から飛び降りると、固唾を呑んでボールを観察する。
二回。
三回。
逃げられる場合もあるのではないかと、覚悟していた。シロナの話によると、この道具を使っての捕獲には確率が絡んでいるらしい。だがどんな相手にしろ、ボールが三回揺れて、その動きが止まれば成功なのだ。
既定の回数揺れた後の静寂は、永遠にも感じられた。腕の中に飲み込まれかけていたオールバックの男は何とか立ち上がろうとしている。そして杏に支えられて、転がるボールから離れていった。
かちり。
メガネは確かにその音を聞いた。
だから、大きく息を吐き出す。
「よかった…」
やったね、とトゲキッスが翼を擦りつけてくる。それに応えてから、静かになったボールへと歩いていった。中には止めようとしてくる者もいるが、もう安全だ。この段階になれば、後はメガネの指示に従うようになる。勝利したも同然だった。
今度は、特に重さを感じなかった。いつも通りという感じがした。
全員に向かって、ボールを掲げて見せる。とりあえずはもう少し様子を見てから、外に出してみるつもりだった。キュウコンと同じく、別の姿、もとい元の姿になって出てくるかもしれない。それに驚かないようにしようと心掛けた。
「あつっ」
突然、手全体に熱が生じていた。
メガネは思わず、ボールを落としてしまう。
一瞬、わけがわからなかった。
自分の左手が、丸ごと無くなっている。何かで焼き切られたようだった。
血があふれ出していくのを見ながら、後ろへと倒れる。だが、予想していた固い地面の感触はやってこなかった。嗅いだことのある香りが、柔らかく受け止めてくる。
「主様!」
キュウコンに抱え上げられながら、メガネは見ていた。
ボールは、震えている。既に穴だらけだった。上半分の赤い塗装は溶け始めている。下半分の白い部分から、今まさに光が飛び出していた。光線が、その表面に穴を空けている。見る見るうちに、ボールが破壊されていく。
わずかな煙を、上げ始めた。もはや球体としての形を失いつつあるそれは、ゆっくりと口を開かせていく。
解放された光の中から、何かが出てきた。
一体ではない。
「ふふふ」
「うむ…、むむむ……」
一方は、見たことのある男だった。華奢な老人。忘れもしない。三百点を超える得点をたたき出した星人。
彼は、少しだけ泣いていた。だが、次第にその表情が歪められつつある。邪悪な笑みに染まりかけていた。
老人の頭に、女の手が突き入れられていた。そのせいで、彼はわずかに苦しんでいるらしい。何らかの操作がされているようだった。まるで老人を、まともな感覚に引き戻そうとしているかのような。
そう、もう一体は女だ。裸の女。色気のある細目が、全員を見据えてきていた。老人と同じくらい細い腕をしているが、体の部分は違っている。
お腹が、膨らんでいた。肥満ではない。手足は引き締まっている。
妊娠しているのだ。わずかにお腹の先が震えていた。中にいる何かが待ちきれないとばかりに動いているようだった。
メガネは大量の血を見たせいで、意識が朦朧としていた。
その中においても、確かに見えた。
シロナは、女の方に注目している。明らかに恐怖の視線を向けていた。
まるで、逃れられない悪夢に出会ったかのように。