起きてきた杏の息子の第一声は、意味を成していない驚きだった。
だが、すぐ逃げ帰ることはしない。逆に両手を広げながら、腰を低くした。ずりずりと足を動かして、羽へと近づく。
見られているトゲキッスは、シロナを伺ってきた。彼女は頷く。一鳴きした後、翼を翔に擦りつけた。彼は驚くのもそこそこに、我慢ならない様子で抱き着く。
「いいにおいする~」
とたとた歩いていくロズレイドに引き寄せられるようにして、トゲキッスと共に別の部屋へと向かっていった。杏が微笑みながらその姿が消えるまで眺めている。当分は、ポケモン達が相手をしてくれるだろう。
シロナよりも早く、杏は起床していた。どうやらあと一時間ほどで、仕事を手伝ってくれる人達が来るらしい。アシスタントというそうだ。
「本気なん?」
困ったような目に対して、シロナはしっかりと頷いだ。
「昨日は色々とお世話になったけど、これからは甘えてられない。自分の生活費は自分で稼がないと」
「でもなあ…」
両者とも、問題を把握していた。テーブルには、シロナの顔写真が入ったカードが置かれている。リーグカード。この世界に来る前に更新されて、ただのトレーナのものになっていた。あちらでは身分を証明してくれる大事なものだった。
もちろんここでは役に立たない。保険証なるものを、シロナは所持していなかった。そして、この世界における戸籍も当然存在していない。
「口座もなし。現金受け取りで、身分証不要なんて条件、そうそうないと思うな」
「やっぱり、厳しいのね」
「姉さん、無理しなくてもええよ」
杏は元気づけるように並べられた机を示してみせる。
「うち、これでもそれなりに稼いでるんや。今度もな、出版社の雑誌に載せてくれるってことになってる。余裕や」
だが、シロナは察していた。事情は細かく訊けないものの,、杏達を養うべき存在の気配はしない。翔の父親とは、関係が切れているようだ。そしてシロナが起きてきた時、慌てて何かを隠していたのもわかっていた。銀行の名前が入った紙の束のようだった。
家計にそれほど余裕がないのは、さすがに彼女でもわかった。だから尚更、頼りすぎるわけにはいかない。本当なら一晩でも泊めてもらえたのが奇跡で、シロナはすぐにでも出ていくつもりでいた。
だがそれは、杏によって強い口調で止められた。いてほしい、と率直に言ってきた。あのガンツというものをちゃんと理解している人が側にいると、安心できるというのだ。そこまで言われれば、無理やり押し切ってでも出ていこうとする気力はなくなる。シロナにとっても、この場所は安らぐことのできる場所となっていた。
杏はスマホを片手に、分厚い紙の本をめくっていく。どうやらそこに、求人が多く乗っているらしい。シロナも読んでみて、ちゃんと字を理解できることを確かめた。書かれている言語まで同じだ。ありがたい反面、一瞬本当に自分は別世界にいるのかと不思議になる。
「あった!」
声に反応して、シロナはそこをのぞき込んだ。
「うーん」
杏が唸る。確かに、シロナの望む通りの条件が書かれていた。それが唯一の求人だった。
工事現場のサポート、と記してある。
「肉体労働かあ。姉さん、体力ある?」
「ええと」
運動ができないというわけではない。かつての仕事の関係上、あちこちを移動して回ることもあった。だが、腕力に自信があるわけでもなかった。
正直、ポケモン達の力を借りることも考えた。だが、まともに手足を持っていて、重い荷物を運べそうなポケモンは今ここにいない。ルカリオとガブリアスなら、大いに役立ってくれるはずだった。そして他で唯一まともな手を持っているロズレイドには、負担が大きすぎる。
だがシロナは、既に心を決めつつあった。元々ハンデのある身で、仕事の内容を選り好みしていればきりがない。
「やるわ」
杏はまだ、納得していないようだった。
「うちのアシスタントしてくれれば、給料として…」
「私、絵は全然駄目なの。それに、アンズには頼りすぎないって決めたから」
「でも、大丈夫なん?」
シロナには、考えがあった。採用さえされれば、なんとでもなるという自信がある。感謝をするにはまだ複雑な感情がありすぎたが、ガンツから支給されているものはできるだけ使い倒してやろうと思った。
ロズレイドを、呼ぶ用意をする。直接体を動かす仕事には、少々この長い髪が邪魔だ。今まで伸ばしてきたものを切ることに対して、シロナはあまり躊躇がなかった。
「で、これ、会社どこにあるの」
「もう行くんやね」
「行動が大事だから」
杏は本に注目してから、安心するように言った。
「
中に通してくれただけでも、感謝するべきだった。
「で、働きたいって?」
シロナはとりあえず失礼のないよう、膝の上に両手を乗せた。相手の体はかなりごつく、視線も厳しかったが、もはやそれくらいで怯む程度の彼女ではない。元の世界でも、危ない目に遭う機会はいくつかあった。
採用担当兼、現場監督らしい男は、シロナの全身をじろじろ眺めていた。それから、めんどくさそうに机に肘をつく。
「たまに、いるんや。うちの条件に目がくらんでとりあえず来る奴。今までたくさん来たわ。爺、学校やめたチンピラ、言葉の通じないガイジン。とりあえずお前は、まともに日本語が話せそうでよかったわ」
日本。この国の名前。四十七の都道府県に分かれている。ここは大阪府。府庁所在地は大阪市。一応、基礎中の基礎と思われる知識は、午前中に仕込んでおいた。何かを調べて、それを頭に入れる作業は苦にならない。ましてや、それが未知のものとなればなおさらだ。
相手の反応は悪い。一応、動きやすい服装にしてきたつもりだった。また、自分の金髪も耳を覆う程度まで短くしている。ロズレイドの腕は確かだ。この髪型にするのは、まだチャンピオンになっていなかった頃以来だった。初心を思い出すのはいいことだ。
「なんでもします」
シロナが胸を張ると、監督は咳ばらいをした。
「自分がいうのもあれやけど、うちは酷いで。新入りにも遠慮のない仕事量が回ってくる。日給制で、たまに気分でばらばらになる。ほんとにあれやけど、ブラックもいいとこや」
「もらえるだけでも、ありがたいです」
「ええんか? お前は今、違法すれすれの労働搾取の現場にいるんやで? 事情はどうか知らんが、別の働き口を見つけた方がええ」
「別、ですか」
男はさらに咳をした。シロナの胸の方に視線が行く。もっと酷い変態の顔を見たことがあるので、特に気にならなかった。
「身分証明がないのはきついかもしれんが、真剣に頼み込めば雇ってくれるやろ。なんだ、風俗とか行った方がよっぽど稼げるんやないか? お前なら」
「嫌です」
初対面からお前呼びをしてくる豪快な監督は、表情を険しくした。
「冷やかしなら、容赦せんで。そんな細い腕でうちの仕事の何をできるって言うんや」
望んでいた展開がやって来たので、シロナは即座に行動した。相手との間にある机の下に片手を入れ、軽く力を入れる。すると呆気なく会議用らしき長めの机が、持ちあがっていった。腕力のある男だとしても、一人では持ち上げられない重さだ。
椅子から転げ落ちている監督に向かって、シロナは尋ねた。
「これでいいですか?」
「採用」
自分の世界の基準に当てはめてもわかる。どうやらかなりいい加減な会社のようだった。これなら、スーツの力の頼っているのがばれることも心配しなくて良さそうだ。
やはり、異常なのはあの男達ではなく、身に着けている装備の方だった。ここへ向かう途中でもいくらか試してみたのだが、自分の腕力が何倍にも増強されている。おかげで歩く速度などの調整にも慣れが必要だった。だが、これほど便利なものは今のところ考えつかない。
いい人材が手に入ったとうきうきしている監督は、扉を開けて大声を出した。
「おい、ノブ! バイト組トップのお前が教えてやれ。新人や」
そして、シロナは理解する。
同じことを考える者も、当然いるのだと。
「げ」
室谷が木材を抱えながら、彼女を見ていた。お化けにでも出会ったかのような反応だ。黄色いヘルメットと作業着が、そのチンピラの如き外見に良く似合っていた。
げ、とシロナは心の中で同じ言葉を発した。
とりあえず、仕事は真面目にやる人間のようだった。監督から指導費も込めてボーナスが出るとわかった時から、特に一生懸命取り組むようになった。
「違う。そこはそっちに運ぶんや! あれか? 意外とでかい胸が邪魔してやりづらいか? 諦めろ。誰も助けないで」
明らかに報酬の有無に関係なく、室谷はシロナのいびりを楽しんでいるようだ。彼の声が一番大きく現場で響き渡っていた。
シロナはこっそり息を吐き出しながら、おとなしく指示に従っている。労働自体は苦にならない。むしろ周りに合わせて疲れる演技をしなければならないのが、面倒なくらいだ。彼女と室谷以外のバイト達は言葉もなかった。本気で、疲労困憊している。
そっちもスーツを着ているくせに、とさりげなく睨む。室谷はそれに気づいてやや動揺したようだったが、自身の方が立場が上であることをちゃんと思い出したらしい。結局シロナへの指導は夜になるまで続いた。
その日分の給料をもらい、シロナは新鮮な達成感を味わっていた。こうして自分で積極的に動いて現物としてのお金を得るのは久しぶりだ。忘れていた大切な何かを取り戻せた気でいた。
水色のノースリーブの上着に着替える時も、黒スーツは身に着けたままでいた。便利ではあるのだが、体のラインがくっきりと浮かび上がってしまうのが難点とも言えた。人前では簡単にさらせない。だが、そうしなければいけない場面があると思い当たって、気持ちが萎えた。彼らは、もうそういう羞恥心から解放されているのだろうか。
「おい」
横を見ると、戸口に室谷が経っていた。扉へ気取るように寄りかかっている。
「お祝いや。飯行くで」
連れて行かれたのは、近くの屋台だった。おでんという、今まで知らなかった料理を取り扱っているらしい。金属の仕切りで分けられた具材達が、ぐつぐつ煮込まれている。
「ほんとに、そのボールに入ってるんやな」
室谷は既に顔が赤くなっていた。すごくお酒に強いというわけではないらしい。酔いにかこつけて触れてくるようなことがあれば、スーツの力を試す良い機会だと思った。
「そうよ」
「お前、どこの国に住んでたんや。アメリカの奥地とか?」
「シンオウ地方」
「酔ってんのか? 冗談にもなってないで」
「貴方もね」
やかましい笑い方だった。酒と同時に、鳥の卵を丸ごと呑み込んでいく。シロナは水をしっかりと飲みながら、横目で室谷を見た。
「なんだか、普通だわ」
「ああ?」
「怖くないの? いつまた、命がけの戦いに巻き込まれるのかわからないのに」
「それこそ冗談にしても馬鹿馬鹿しいな」
室谷は酔っていても、はっきりと答えてきた。
「お前は、狩りに怯えんのか? 獲物に対して、恐怖するのか?」
「…」
「むしろ感謝しとるで。あれはいい娯楽や。ストレス解消になる。昨日のは駄目だったけどな。お前のウミウシ、しぶといったらありゃしない。もっと素直な感じに育ててやれば良かったのになあ」
「トリトドンは、とてもいい子よ」
「あいあい」
屋台の店主と、何やら親しげに話し始める。どうやら、ここの常連のようだ。そうであっても、ガンツのことは細かく話していないことは伺えた。この男なら話のネタとして早々に消化しそうだが、少しは思慮というものがあるのだろうか。
それでもシロナは、まだ理解しがたいものを感じていた。この男も、初めは怯えていたのだろうか。四回クリアしたと、岡が言っていた。まだ計算は曖昧だが、かなりの期間室谷もガンツに囚われていることは確かだ。一度も逃げたいと思ったことは、ないのか。
思考に沈んでいると、近づいてきた人の気配に少し遅れて気がついた。
「あんた、何してん」
見覚えがある。金髪の女性。シロナのそれよりも、やや薄い色をしている。
「おお、美保。どうした、こんなとこで」
「どうしたも何も、夜会おうって言ってきたのノブやん。で、来ないから心当たりのある場所回ってたの」
「心配してくれてたんか。可愛いなあ」
「もう、帰るで。後で詳しく訊くからな」
「家で飲み直すかあ」
室谷の肩を支える女性は、最後にシロナを見てきた。勝手に彼女の恋人と二人で飲んでいたことを謝るべきかと思ったが、その前に相手は前に向き直って去っていった。
残されたシロナは、大根の端を噛み切る。それから店主に頼んで、いくつかの具材を包んでもらった。昨日は我慢してもらったが、さすがにそろそろポケモン達の腹も満たさなければならない。
◆
標的が動き出したことを確認して、足を動かし始めた。
正直もう少し粘ってみるつもりだった。早く機会が巡ってきたことに安堵する。学校なんてものもないので、いくらでも時間はあった。とはいえ、さすがに相手をずっと追い続けるのは消耗する。
京は散々だった前回の狩りを思い出していた。そして、無意識のうちに腕へ注射する。そうすれば、禁断症状はあっという間に抑えられた。
端的にいえば、まるで歯が立たなかった。いくらXガンを撃ち込んでも効かなかったのだ。そしてZガンに変えようとしたところで、不可視の力に掴まった。その後は、もうなすすべがなかった。
屋台から出た、金髪の外国人を追う。彼女は、後ろを全く警戒していないようだ。
短髪のサングラス男、平が言っていたことを思い出す。
そう、ボールごとだ。あの星人が入っている赤いボールを丸ごと破壊してしまえば、相手に行動させる間もなく殺せる。上手く狙撃してやれば、女の方も打つ手がないだろう。そして自分は、独り占めできるというわけだ。クリアを重ねられる。
ボールを見ていると、段々腹が立ってきた。本当に、憎たらしい。あれはあの時、明らかにこちらを嘲笑していた。もがく様を笑っていた。
「ぉん?」
そう、これだ。こんな感じの、紫の靄だった。
京は悲鳴を上げながらひっくり返る。すぐに起き上がったが、その声で女の方もまた気付いたようだ。だが、その顔は特に意外そうではなかった。
「ミカルゲ、やり過ぎたら駄目」
ふわふわと、紫が揺れる。
シロナという名らしい女は、武器を構えた京を冷静に見てきていた。
「う、動くな!」
「貴方、バイクに乗ってた人ね。憶えてる」
「わああ!」
腕が勝手に振らされ、握っていたライフル型のXガンが飛んでいった。自分の指がどうしようもなく震えていたせいでもある。今、目の前の脅威に対応するべきなのか、それともすぐにポケットから新しい薬を出すべきなのか、迷いが生じていた。
「家は? 危ないでしょ。親、心配してるんじゃないの?」
「関係ない。俺は、点を取りに来たんや」
「ちょっと待って」
シロナはボールを投げた。そして、植物の見た目をした星人が出てくる。だが、もはや京にとってもそれを星人ととらえていいのかわからなかった。確かポケモンと、相手は呼んでいたような気もする。
植物星人は京を花で示してから、シロナに向かって複雑に鳴いた。途端彼女の表情が引き締まる。
「ポケットに入っているものを見せて」
「はあ?」
シロナの目は真剣だった。
「妙な臭いがするらしいの。貴方の体から、同じものを感じるそうよ。何をしているの?」
「関係、ないやろ」
「そうね」
言葉とは裏腹に、京の体は拘束されていた。またあの、わけのわからない超能力だ。紫は平然と力を行使してきている。暴れても、無駄だった。
彼女は素早くポケットから注射器を取り出すと、目を細めた。
「なにこれ」
「さあな」
「私は、心当たりがあるけど。昔、同じことをしようとしていた一団がいたの。あれはポケモンに対してのものだったけど、これは違うみたい」
投げ捨てられる。彼女の足が、本来医療の用途に使われるべき器具を簡単に破壊した。
京はだらだらと額から汗を流し始める。比喩ではなく、本当に頭が弾けそうだった。
「何するんや!」
「きみ、学校は?」
貴方から呼び名が変わっていることにも、気づけない。
「そんなのどうでもええ。弁償しろ」
「こっちでも、教育は大事なんでしょ? どうやってきみは暮らしてるの? 親は?」
「知らんわ。どっちも死んだ。今は、女の家を転々としてる。別に困ってない」
実際は親戚の叔母の所に居候させてもらっているのだが、なぜかシロナの前ではそのまま事実を言う気にはなれなかった。全くの嘘でもない。かつては、そんな暮らしをしていたこともあった。京は、かなりもてる。彼自身も自分の顔がかなり整っていることは理解していた。だが、ガンツという娯楽を手に入れてからは、そういうのも面倒になっていた。
シロナは少しも引かなかった。腕を組みながら、さらに顔を近づける。
「だったら、尚更だめでしょ。血のつながっていない他人に、迷惑をかけないの。もう、それはやめなさい。絶対に幸せになれない」
「待てや。やっとるの、俺だけやないで。あいつらも! ノブやん達もハッパくらいはやっとる」
少しだけ考えるような表情になった後、彼女は首を振った。
「あの人達は、いいの。判断ができる大人だから。自分から進んで、そういう道に入った。でも、きみは違うわ。まだ子供でしょ。元に戻れる余地がある」
「ふざけんな! 殺すぞババア!」
「…ちょっと、工夫が必要みたいね」
ミカルゲと呼ばれた靄が、接近してくる。京は逃げようとしたが、シロナに抑えられていた。彼女も今はスーツを着ているのだ。本当に殺す気で抵抗すればわからないかもしれない。だが、既に彼は戦意を削がれていた。
また超能力で、路地裏まで引っ張られる、そして誰の目にもつかない所までやってくると、ミカルゲが頭に触れてきた。
「なに、を」
「こういうのから更生するのに大事なのは、気持ちなの。今から、強力な暗示をかける。薬の代わりにすがりたいものを思い浮かべて。その女の人とか、何か別のまともなもの。上手く置き換えるから」
「やめろぉ…」
そのアドバイスの一部を受け入れ、精神的な侵入を意志で防ごうとした。だが、そんなその場しのぎの抵抗は、虚しく終わる。
「うう…」
不安だった。怖かった。自分の胸を満たしていた何かが、抜け出していく。そうすると、自分という存在がどこまでも流されていくようだった。今まではそういう感覚に陥っても、掴まっていられたのだ。薬から与えられた快楽が、繋ぎとめてくれていた。だが、もう違う。ズボンのポケットに入っている粉状の予備もまた、取り出されてしまった。
「苦しい、苦しい…」
禁断症状が、限界まで来ている。本当に命の危険を感じていた。
紫色の靄の一部が、頭の中に入り込んでくる。
「大丈夫よ、大丈夫。ここにいる」
気がつけば、シロナに抱きしめられていた。優しく顔を胸にうずめさせられる。京は目も開けられなくなって、相手を突き飛ばす選択肢も思いつかなくなっていた。
「悪いのは、貴方だけじゃない。そうすることを許した環境。大丈夫。まともに戻れる。力を抜いて。別のものをたくさん思い浮かべて…」
数日ぶりにまともな枕で眠っているような気がした。だが、頭の隅ではわかっている。すがっているのは、よく知りもしない女の胸だ。だが柔らかいことは確かだった。どうやら、シロナはかなり着やせするタイプらしい。今まで感じたことのない大きさで、京は頭を一杯にさせていた。降ってくる穏やかな声だけを耳に入れていた。
徐々に、鼓動が落ち着いていく。止めどなく流れるようだった涙も、嘘のように止まった。しばらく呼吸が完全に一定になるまで、相手の抱擁を受け入れていた。
いつの間にか自分がへたり込んでいることを認識したが、何とか立ち上がる。
「……離れろ」
腕を伸ばして、シロナを拒絶した。彼女は抵抗しなかった。ただ静かに視線を合わせてきながら、何度か頷く。
「大切なのは、労働ね」
京は顔を整えるのも忘れて、口を開けた。
「は?」
「きみも、スーツ持ってるんだもんね。安心して、まずは自分でお金を稼ぐこと。その感覚が大事なの。私の勤め先に頼めば大丈夫だから。一緒に頑張りましょう」
「お前、いい加減に…」
「私は、シロナ。いい加減憶えて」
堂々とミカルゲをボールに戻し、彼女は歩いていった。こちらへの警戒は全くない。無防備な後ろ姿を晒している。今攻撃をすれば、有効だろう。
その腰にあるボールに向けて、拾い上げた管付きのXガンを構える。それはバッグにあるパソコンとつながっていた。京自身が独自に改造したものだ。星人の点数が分かるようになっている。
そう、まだ点数は表示されていた。しかも、上がっている。どの個体も上方修正されている。もうゲームは終わっているはずなのに、これはあきらかにおかしかった。ガンツの意図を、都合の良いように解釈するのならば。
トリガーにかける指が、痙攣する。
まだ、続いているということなのだ。仕留めれば、点数が入る。全部やればお得どころの話ではない。
あるいは。
京はわずかに汗を流した。
この事実を、室谷達に伝える手もある。再び協力して相手の不意を突けば、一匹は確実に手に入るかもしれないのだ。やる価値はあった。むしろそうするべきだった。作戦としてはそれが最善だ。
水色の上着の布地。
わずかな香り。
柔らかい、胸の感触。
頭の疼きが収まっていった。それは薬にはまる前に感じていた爽やかさに酷似していた。
「…くだんな」
Xガンを下げる。そしてバッグに全てしまうと、最後に遠ざかる彼女を観察してから、反対の方向へと振り返った。
彼女の言葉。
一体、薬への欲求が何に置換されてしまったのかは、あまり考えないようにした。昨日からずっと、何かに騙されているような感じがして、より非現実感が高まっていた。自分の頭がおかしくなっているのではないかと思うほどだ。ガンツという、よっぽど荒唐無稽なものに巻き込まれてからよりもずっと強い感覚。
だから、気にもしていなかった。
彼女の腰にあるボール達の姿が一瞬崩れかけていたのは、幻だと断定した。
おっぱい星人になってしまった元ヤク中......。