「~抱きしめて」の裏側で浩之への想いを募らせるあかり。本編では描かれなかったあかりサイドの物語。
* 序 *
「やっぱりここにつけるんだったらカウベルだな。ちょっと古風な感じの」
入り口の扉を眺めながら、浩之ちゃんがつぶやきを漏らす。私が見ている横顔は、本当に嬉しそうに見えた。
やっと内装の改装工事が終わった。まだ少し新しい木とかの匂いが残ってるけど、落ち着いた感じを漂わせてるここが、もうすぐ私と浩之ちゃんのお店になる。
開くのは喫茶店。開店まではもう一ヶ月を切っている。そんなに宣伝なんかには力を入れていないけれど、再来週、お店では宣伝の意味も込めたイベントを開くことになっていた。
呼ぶのは身近な人だけ。でもお店の外にいくつか並べたテーブルでは、開店前だけど、見に来てくれた人たちに食事や飲み物を振る舞う予定だった。
それはつまり、私と浩之ちゃんの結婚パーティ。教会での結婚式を挙げた後、会場を借りて披露宴は開かないで、このお店でパーティを開くことにしていた。
店内を歩き回って「ここに木を置こう」とか、窓を見ながら「カーテンはレースがいいかな? それとも柄物の落ち着いたのがいいかな」なんてつぶやいてる浩之ちゃん。一時も落ち着かない彼に、私は微笑みを漏らしていた。
――私はいま、幸せだよ。
口には出さずに浩之ちゃんの背中に語りかける。
得ることができた浩之ちゃんとの幸せ。それをいま、私は噛みしめている。カウンターの内側から見ている彼の背中は、二十数年間ずっと見てきた背中だった。
「ん? どうした? あかり」
浩之ちゃんが振り返り、そう言ったあと微笑みを浮かべる。私はなにも言わずにただ微笑みを返していた。
いまここにある幸せ。つかむことができた幸せ。でもそれは、やっと得ることができた幸せだった。
* 1 *
ぱちりと目が覚めた。
ベッドから見上げる白い天井は、高く、広くて、すぐに自分の家じゃないのがわかった。
広く取られた窓の外からは、まだ明るさの気配は入ってこない。身体を起こして見たすぐ隣には、私に背を向けて眠る浩之ちゃんの姿があった。
いま私たちは、ホテルの一室にいた。
携帯電話のメッセージで待ち合わせて、夕食はこのホテルの展望レストランで摂った。その後この部屋に入って、して、そしていま、ふたりで一緒のベッドに眠っていた。
覗き込んだ浩之ちゃんの顔。
そこには苦しみが浮かんでいて、部屋の中は少し寒いくらいなのに、額に汗を浮かべている。
サイドテーブルに手を伸ばしてタオルを取る。額の汗を拭おうと手を近づけると、むっと煙草の匂いが漂ってきた。
「浩之ちゃん……」
私のつぶやきは静かな部屋の中に消えていく。
なにも話してくれない。なにもして上げられない。私がそれを望んでも、浩之ちゃんは応えてくれない。なによりいまは、気づく余裕が彼にはない。
信じてる、浩之ちゃんのことを。いままでも、いまも、これからも、ずっと……。
でも浩之ちゃんはそれに応えてくれることはない。
応えてくれることを求めてるわけじゃないけど、でも、応えて欲しいとは思っていた。
「行かないでくれ……、マルチ――」
浩之ちゃんのつぶやき。
起こさないように優しく額を拭っているときに、それは彼の口から漏れ出てきた。
目が覚めたわけじゃない。寝言をつぶやいただけだ。けれどそのときの浩之ちゃんの顔は苦しそうに歪んでいて、声には痛みすら感じられた。
「私は……」
タオルを握った手が凍りつき、唇が震え始めていた。
どうすることもできなかった。なにもして上げることができなかった。浩之ちゃんの辛さを取り除くことは、私にはできなかった。
私の目から静かに、涙がこぼれ落ちていった。
*
今日は昨日と打って変わって、雲ひとつない、気持ちいいくらいの天気だった。
昨日の夜まで降っていた雨が、公園の草に露を落としている。それが朝日を受けてきらきらと輝いていた。
――風が気持ちいいな。
三つ編みを揺らすのは湿気を含んで少し冷たいくらいの風だけど、雨で洗い流された空気は気持ちが良かった。風に運ばれて漂ってくる土の匂い。それもまた、胸に心地よかった。
「あっ、浩之ちゃん」
いつもの近道の公園を通りながらそんな様子に微笑みを浮かべていた私は、いつの間にか浩之ちゃんに置いていかれていることに気がついた。
「んぁ。ふぅ」
声に気づいて彼は振り向いてくれたけど、同時に溜め息を漏らしていた。
小走りに近寄っていって彼の隣に並ぶ。「まったく」なんて口の中で言いながら浩之ちゃんが歩き始めるのに続いて、私も一緒に歩き始めた。
こうやって一緒に学校に行くようになったのは、もう小学校の頃からだった。小学生のときも中学生のときもそうだったし、高校に入ったいまも、浩之ちゃんはいまみたいな感じだ。
あんまり周りのことを気にせず歩いて行っちゃう。声をかければ少しの間立ち止まってくれるけど、それくらい。学校に行きながらいろいろ喋ることもあっても、自分の興味がそそられないことだと、素っ気ない感じでしか話してくれない。……それが、浩之ちゃんという人。
でもそれでよかった。
いつも素っ気なくて、ぶっきらぼうで、ぜんぜん周りのことなんて見てないような浩之ちゃんだけど、私はそんな浩之ちゃんで充分だった。
「どうしたんだ? あかり」
「うぅん。なんでもないよ」
「ふぅん」
顔を見つめていることに気づかれて、声をかけられてしまった。その声に微笑みで応えると、彼は興味なさそうにまた視線を前に戻す。
見てないようで、自分の周りのことを見てることはわかってた。素っ気ないようで、自分の気持ちを表に出すのが下手なのは知っていた。
素っ気なくて、ぶっきらぼうな感じがする浩之ちゃんだけど、私が側にいることを嫌がったりはしてない。
いまの私は、そんな浩之ちゃんの背中を追っていけるだけでよかった。
*
「ふぅ」
視線の先にある私の影が落ちてる道路に向かって、息を漏らしていた。
『行かないでくれ……、マルチ――』
この前の夜、浩之ちゃんが言ったその言葉がいまでも耳に残ってる。
朝、そろそろ低くなり始めてる日差しは気持ちいいくらいに私の身体を照らしていた。澄んだ空気に乗ってやってくる鳥のさえずり。ビル街にはさわやかな空気が満ちているのに、私の心はそれとは逆に、暗く沈んでいた。
出勤する人たちに追い抜かれながら、私はひとりで会社へと向かう。アスファルトの地面から響くコツコツというたくさんの足音が、なぜか私のことを孤独にしていた。
「おっはよぉ、あかり」
「ん、おはよう」
「今日はいつもより遅いんじゃない? なにかあったの?」
「なんにもないよぉ」
気がつく間に職場に入って、同僚の女の子たちと挨拶を交わす。男の社員はほとんどまだ出勤してなくて、いまの時間は朝が早めの女の子たちの時間になっていた。
私が自分の机に向かうと、他の娘たちもその近くに集まってくる。とくになにをするわけじゃないけど、たいていいつも人が増えてくる時間まで、いろんな話をして過ごしていた。
「思えば理恵ってもうすぐ結婚だったよね」
「そうだねぇー。再来週結婚式って話だったよね」
「うんうん。あの娘まだ若いのに、早いよねぇ」
「そう言う妙子だって、いい人いるんでしょ?」
「あはははははははっ」
同僚の娘たちの元気な声が室内に響いてる。私もそれに参加するような形でみんなに向き合いながら、でもできる限りの笑みを浮かべてるだけで、なにも言葉が出てこなかった。
「あれ? あかりはどうだったっけ。いま彼氏、いたんだっけ?」
「え? 私?」
いきなり問われて一瞬答えにつまった。
「――私は、まぁ、ね」
どうにか返した言葉も、曖昧なものでしかない。
なにより自分が浮かべてるはにかみ笑いが、苦しいものになっていないかどうか心配だった。
――浩之ちゃんのことを、彼氏と言えればいいんだけどな……。
本当は「いる」とはっきり答えたかった。でもできなかった。
浩之ちゃんとはこの前の夜みたいな関係を、もうずいぶん長い間、ふた月からひと月に一回くらいで続けていた。
それだけを見れば彼氏と呼べるのかも知れない。けれど浩之ちゃんの心は、私にはない。彼の心はずっとマルチちゃんにある。
「どうしたの? あかり。暗い顔しちゃってさ」
同期で入った一番仲がいい娘が私の顔を覗き込んでくる。
「うぅん、なんでもないよ」
「そう? だったらいいけどね」
私が浮かべた笑みに、彼女はそれ以上問うてくることはなかった。
まだまだ女の子たちの会話は続いている。自分の彼氏や恋愛のことを話す元気な声が辺りに響いてる。
笑みを浮かべながらその会話を聞いている私は、誰にも聞こえないように「なんでもない」と口の中で繰り返していた。
* 2 *
突如として沈黙が訪れた。
私も浩之ちゃんも言葉がない。見つめ合って、そのまま口を動かすことができなかった。
「浩之ちゃん……」
「いや、言うな。言ってくれるな! あかりっ」
「ダメだよ。こういうことははっきりさせないとね」
「うぅ~」
浩之ちゃんが苦々しい顔を浮かべて睨んで来る。でも、私はそんな視線にめげずにはっきりと言った。
「お砂糖とお塩の分量、間違えたでしょう?」
「適量って本に――」
「適量と適当は違うんだよ?」
箸を置いた浩之ちゃんが自分の目の前に煮物に視線を落とす。それは今日、浩之ちゃんが生まれて初めてつくった煮物だった。
「まだまだダメだな、オレは」
ダイニングテーブルの椅子の背に身体を預けた浩之ちゃんは、はぁと息を吐き出している。
ついこの前のことだった。浩之ちゃんが、料理を教えてくれ、って言ってきたのは。
いきなりどうしたんだろうと思って訊いてみたら、自分もなにかやりたいんだと言ってた。それも料理だったら私に聞けるからって、料理を始めてみるんだって言ってた。
浩之ちゃんがそんなことを言ってきたのは、たぶん少し前までいたマルチちゃんの影響なんだろうっていうのはわかってた。でもそんなことより浩之ちゃんがなんでもいいからやる気を出したということ、それの方が重要だった。
料理をつくるばっかりじゃなくて、包丁の扱いもまだまだの浩之ちゃんだけど、時間はある。もう高校の二年は終わるけど、家政系の大学を受けるまでは半年以上期間があった。
「さて、つくり直しだね」
そう言って私は椅子の背もたれにかけておいたエプロンを身に着けた。
「うぅ~」
うなり声を上げながらも、浩之ちゃんも椅子から立ち上がってエプロンを着けた。私がキッチンに入るのに続いて、浩之ちゃんも後をついてくる。
不満そうな声は出すけど、この頃の浩之ちゃんは言うだけで面倒くさがったり諦めたりしない。マルチちゃんに出会ってから彼の中でなにかが変わったらしい。ひとつのことに一生懸命になることなんてなかった彼が、いまは諦めたりせずに頑張ろうとしてる。
「ほら、こうやって、ね。さっきは上手くできなかったでしょ?」
私がジャガイモを剥いて見せると、隣に立った浩之ちゃんもおぼつかなさの消えてきた包丁使いでジャガイモの皮を剥いていく。
こんなことを始めてもう何週間になるだろう。最初は怖くて包丁を握らせたくないくらいだったのに、いまでは不器用そうな感じは残ってても、ずいぶん上手くなってきた。
こうなる前の浩之ちゃんはいつも、どんなことにも真剣に取り組もうとしてこなかった。たいていのことは最初からそれなり以上にこなせたりするのに、真剣にならないから、それなりってレベルを超えることは一度もなかった。
その浩之ちゃんが頑張るようになって、もしかしたら私以上に上達が早くて、それをいつも隣で見ていられる私の胸には、いま、これまで感じたことがないくらいの幸せが溢れていた。
「次はそっちだろ?」
「うん。それからタマネギもね」
「よしよし。ちっとはオレにもわかってきたな」
下ごしらえを進めながら浩之ちゃんは微笑む。それにつられて、私も笑みを浮かべていた。
「そろそろだね」
充分に煮込んだことを確認して火を落として、鍋つかみを手にはめ大きめの両手鍋をテーブルに持っていこうとする。
「貸しな。あかり」
「え?」
「まだ熱いだろ。それにけっこう重いんじゃないのか?」
そう言って浩之ちゃんは私の手から鍋つかみを奪い取って、両手鍋を持っていってしまった。
――浩之ちゃん……。
昔から浩之ちゃんは困っている人がいるとほっとけない性格だったのは知ってる。困ってる人がいると近づいていって、なにも言わずに自分のできる手助けをするのが浩之ちゃんだった。
でもいまの浩之ちゃんは前よりも少しだけ違う。なにかが起こる前に、ひと声かけて、助けの手をさしのべてくれる。
それは優しさを表に出せるようになってきた証拠。無意識のことかも知れないけど、相手の反応を見るようになってきた証拠だった。
「あかり、どうしたんだ? 早く来いよ。冷めちまうぜ」
「う、うん」
たったそれだけのことだったのに、私は浩之ちゃんの優しさと心配りに胸がいっぱいになって、その場を動けなくなっていた。
立ち尽くしてばかりはいられないから、浩之ちゃんの声にすぐに彼のもとに行く。その後ふたりで二度目の煮物を試食する。
「――今度はどうだ?」
「……」
問われたけど答えられない。
「なぁ、どうなんだよ」
「……ん。今度は、すごく美味しいよっ」
再びかけられた問いに、私は口の中で味わい続けていたジャガイモを飲み込んで答えた。
「そうかぁ。美味いかぁ。オレにもできるんだなぁ」
「うん。浩之ちゃんだって真面目にやれば、なんだってできるんだよ」
嬉しそうにはしゃいでる浩之ちゃん。私も煮物の出来に、それに彼のそんな様子に、笑みを漏らさずにはいられなかった。
けれど――。
「そうだよな。できるんだよな。マルチみたいに。オレだって、マルチみたいに頑張れば、できるんだよな」
「……」
不意に出てきたマルチちゃんの名前。
それを聞いた私は、自分でもわかるくらい笑みを凍りつかせた。
「待ってろよ、マルチ。オレだって頑張ればなんだってできることを見せてやるぜ」
拳を握り締めて天井を仰いでる浩之ちゃんは、私の変化に気づかない。ただマルチちゃんの名前を呼んで、彼女への想いを語り続ける。
胸の中に、なにかが生まれていた。
それは漠然とした不安。
どういうことなのかわからない。それでも胸の中に生まれた小さな不安の種は、消えることがなかった。
*
あのとき感じた不安は数年後、現実のものとなっていた。
今日は二七歳になった雅史ちゃんの結婚式。会食の時間に移り軽く食事に手を伸ばしつつ、私は隣に座る浩之ちゃんの顔を横からそっと覗く。
さっきまでは久しぶりに会った志保と元気良さそうなやりとりをしていたというのに、志保がテーブルを回りに席を立った後は、じっと新郎新婦のことを、――雅史ちゃんのことでなくて、新郎新婦のことを――見つめ続けていた。
「どうしたの? 浩之ちゃん」
「いや、なんでもねぇよ」
ごまかしたけど、彼が考え事をしてるのは私にはわかる。
新郎新婦のことを見てるけど、見てなくて、微かに口を開けながら、彼はいま考え事をしてる。そしてそれはたぶん、マルチちゃんのことだ。
「やっぱりあのふたり、幸せそうだよね」
どうにか心を現実に引き戻そうとしたけど、浩之ちゃんは上の空で「あぁ」と答えるだけだった。
どうすることもできず、私はただ浩之ちゃんの横顔を眺め続ける。見ている間に、彼の顔はどんどん辛そうなものに変わっていく。
悩み事があるなら私に話して欲しかった。なにもできなくても、浩之ちゃんの話し相手にはなれるつもりだった。それなのに浩之ちゃんは話してくれることはなくて、その顔は辛いどころか泣きそうな顔になっていった。
「浩之ちゃん? どうしたの?」
突然片手で顔を覆った浩之ちゃんに声をかける。それなのに彼は「なんでもない。ちょっと、疲れただけだ」とだけしか言ってくれない。
「……そう」
彼の内面まで踏み込むことができない私は、その言葉を受け止めるしかなかった。
「どうしたのぉ~。あら? ヒロはもうオネムの時間?」
「なに言ってんだよ、志保」
テーブルを回ってきてもうずいぶん酔ってるらしい志保が浩之ちゃん声をかける。それに答える彼の声は、弱々しい。
「そんなことよりもあかり、あなたはまだなの?」
「え?」
心配で浩之ちゃんの顔を見ていた私は、突然志保に声をかけられて顔を上げた。
「結婚よ、結婚」
「それは……」
どう返していいのかわからず、私は浩之ちゃんの方にそっと視線を向けた。それに気づいているらしい彼はしかし、ワイングラスを口元に寄せるだけで、なにも応えてはくれなかった。
「……うん」
「へぇ~。そうなんだ。そろそろかと思ってたのに」
「そっ、そういう志保はどうなの?」
「あたし? あたしはダメよ。いい男はいてもあたしが結婚して上げられそうな男はそうそういないわ」
「うぅ~ん。でも――」
酔った勢いなのか結婚とか恋人とかの話をほとんどひとりで続けてる志保。それにつき合いながらちらちらと浩之ちゃんに目を向けていたけど、彼が応えてくれることは一度もなかった。
試験の期間が過ぎてマルチちゃんが去った後から、マルチちゃんが浩之ちゃんの元に帰ってくるまで、私は浩之ちゃんの側にいられた。
幸せだった。
そのたった数年の間が、私にとってかけがえのない時間だった。
けれどそのとき感じていた幸せは、いまはもう、消えてしまっていた。
*
その日、私は浩之ちゃんに呼ばれて彼の家に向かっていた。
私を呼び出したときの電話の声は、どうしてかわからないけど、浩之ちゃんらしくなくはしゃいでて、なにが起こったのか説明もできないくらいだった。
とにかく浩之ちゃんの家に行くことになって、私はもう過ぎるくらい見慣れてる道を小走りに走っていく。
――なにか美味しい料理でもできたのかな?
無事家政系の大学に入学することができた浩之ちゃん。私と一緒に通うようになって、高校の頃よりさらに料理を頑張るようになっていた。
やっぱり浩之ちゃんは頑張ればできる人だった。ちょっとだけ悔しいけど、いまではもう私と同じくらいの腕を持っていた。
「なにがあったのかな?」
つぶやきを漏らしながら到着した浩之ちゃんの家の門の前に立って、呼び鈴のボタンを押す。
『あかりか? 鍵は開いてるからすぐ入ってきてくれ』
「う、うん」
興奮冷めやらぬという感じで、電話のときと同じく弾んだ声の浩之ちゃんが言った。その声になんとなく不思議なものを感じながら、私は門を開けて玄関に向かった。
――あっ……。
玄関の扉を開けた途端、言葉を失った。
なにも言うことができない。なにもすることができない。私は、目の前に立つふたりのことを半分呆然と見つめることしかできなかった。
「あかりさん、お久しぶりですぅー」
そんな服しかなかったのか、浩之ちゃんのお古らしいだぶだぶの服を着たマルチちゃんが、私に向かってぺこりと頭を下げた。
「なっ、ほら。マルチが帰ってきたんだよっ。オレのもとに、マルチが帰ってきてくれたんだよ!」
微笑みを浮かべながら見つめ合う浩之ちゃんとマルチちゃん。ふたりが私の様子に気づくことはない。
少し前に、浩之ちゃんがマルチちゃんの量産型のメイドロボを買ったのは知ってた。でも量産型のマルチちゃんは私の知ってるマルチちゃんとは違っていたから、――安心、していた。それなのにいま目の前にいるマルチちゃんは、高校の頃、たった一週間だけいたあのマルチちゃんだった。
「身体はあのときのマルチだったんだよ。量産型じゃなかったんだよ。それで、戻って来れたんだ。あのときのマルチが、戻ってきたんだ!」
「あっ、ご、ご主人様ぁ――」
息を荒げながら言った浩之ちゃんはマルチちゃんのことを抱きしめる。苦しそうな表情をしながらも、抱きしめられたマルチちゃんは嬉しそうだった。
――崩れてく、崩れていくよ。
言葉が出なかった。「おめでとう」って声をかけて上げようと思うのに、でも、その声は出てこなかった。
浩之ちゃんとふたりで過ごしてきたほんの数年の時間。その間に見せてくれた彼の笑み。しかしそれは、いま彼が浮かべてるものとは比べられないくらいのものでしかなかった。
これまで感じてきた幸せ。それはもう崩れ去ってしまった。
なんで告白してくれなかったんだろう。なんで告白してしまわなかったんだろう。幼なじみという曖昧な関係のまま、どうしていままで過ごしてしまったんだろう。
思ったところで、後の祭りだった。崩れ去り、消え失せてしまった幸せを取り戻すことは、もうできなかった。
マルチちゃんのことを抱きしめながら涙さえ浮かべてる浩之ちゃん。それを見てる私の目にもまた、涙が溢れてきた。
けれどそれは、冷たい涙だった。
*
私は泣き続けてきたのかも知れない。
あのとき、マルチちゃんが帰ってきたのを知ってからずっと、涙を流さずに、心の中で。
浩之ちゃんは私のことをどう思ってるんだろう。
それがすごく気になってしまう。
彼の後ろを着いて歩く結婚式の帰り道。あらためて彼の背中が広くなったことを感じながら、でも私は、少し離れたところからそれを眺めているしかなかった。
後悔、なんだと思う。
マルチちゃんが帰ってくるまでに言ってくれなかった言葉が、言えなかった言葉が、私の中で悔いとなって残ってる。
せっかく夜遅くて満月が輝いてる人気がない道を、浩之ちゃんとふたりきりで歩いているというのに、私たちの間に会話が生まれることはない。浩之ちゃんが私に声をかけてくれることはない。
数歩の距離が遠かった。足を少し早めただけでいつも見てきた彼の背中に手を触れられるのに、その距離は永遠にも思えた。
「ウェディングドレスの新婦さん、きれいだったよね」
このままじゃいけないと思って、声をかける。
「あぁ」
けれど返ってくる答えは上の空。自分の考えに没頭していて、私の声なんて耳に入っていない感じだった。
「憧れちゃうよね。あんなに豪華なのじゃなくても、一度はウェディングドレスを着てみたいな」
「そうだな」
「でもどうなのかな。あんなドレスを着たら私もあれくらいきれいに見えるかな? それともやっぱり幸せだから、あんなにきれいになれるのかな?」
「どうなんだろうな」
言ってることの意味が、その裏に秘めた私の想いが伝わるように、言葉を選んだつもりだった。それでもやっぱり浩之ちゃんの耳には届いてない。彼の心までは届かない。
「……浩之ちゃん?」
悲しくて、辛くて、私は彼に呼びかけた。
「あぁ」
ダメだった。
いまの彼に私の想いが届くことはない。マルチちゃんから私の方に、彼を振り向かせることはできない。
いまこそ機会だと思った。浩之ちゃんに自分を想いを伝える絶好の瞬間だった。
月明かりに照らされて幻想的な姿を見せる街。
私と浩之ちゃんしかいないたったふたりの道。
それでも彼の頭の中にはマルチちゃんのことしかなくて、彼女のことしか考えてなくて、私の想いが入り込む隙なんてない。
そんな彼に声をかけづらくなって、私は口を閉ざした。その後はずっと、手の届かない彼の背中を見ながら、ただ歩いていた。
考えに没頭して半分無意識に道を選んでいても、いやだからこそ、ここに来たんだと思う。いま私たちふたりは、小学校の頃からずっと近道に使っていた公園に足を踏み入れていた。
溜め息を漏らしながら、回りを眺めながら、けれど私のことを振り返ることなく、浩之ちゃんは公園の中を歩いていく。
――もう手遅れなんだろうか。
そんな思いが私の中にわき起こってくる。
浩之ちゃんが振り返ってくれることはなく、私は彼の背中を見つめ続けることができないんだろうか、と。
――浩之ちゃんにとって私は、それくらいの存在だったんだろうか。
待つことには慣れていた。少しくらいのいたずらだって、浩之ちゃんの優しさを知ってる私は、堪えることができた。
それでもやっぱり、一生振り向いてくれないんだとしたら、堪えることはできそうになかった。
ふと、私は立ち止まる。
公園の明るく照らしてる電灯。それはまるでスポットライトのように私のことを照らしている。
「浩之ちゃん」
思い切って声をかけた。
私のことなど気にせずに公園から出ようとしていた彼は、その声に振り向き「どうしたんだ? あかり」と言いながら近づいてくる。
彼が立ち止まる。私のすぐ側に。手を広げれば抱きつけるくらいの距離に。
――お願い、浩之ちゃん。
いつのまにか見上げるほどに身長差が生まれていた私と彼。誰にでもなく祈りを込めて、私は言った。
「浩之ちゃん。結婚て、考えたこと、ある?」
突然風が吹き荒れた。
木が悲鳴のような軋んだ音と立てて、ほこりが舞い上がった。
風に流される髪。それでも私は浩之ちゃんのことを見つめ続けていた。
――応えて、私の想いに。
いまにも泣きそうだった。溢れてきそうになる涙をこらえて私は浩之ちゃんの言葉を待っていた。
いつの間にか、風は止んでいた。それでも私たちは見つめ合い続けていた。
それなのに浩之ちゃんは、どんな言葉も発してくれることはなかった。
* 3 *
『そりゃまぁ元気だろうねぇ。この前会ったばかりだもんね』
「うん。そうだね」
そんな弾んだ声に、私は思わず微笑んでいた。
結婚式から数日、突然志保から電話がかかってきていた。
海外で仕事をしていることが多いみたいだけど、いまは雅史ちゃんの結婚式にあわせて久しぶりに長い休暇を取ってるそうだ。だからいまもまだ、ホテルでゆっくり休んでいるらしい。
「直接会いに来てくれれば良かったのに。別に志保だったらいつ来たって歓迎したよ。客室だってあるんだから、泊まれる場所もあるし」
『まぁ本当はそうできたら良かったんだけどねぇ。あかりは毎日仕事でしょ? ヘンに押し掛けちゃったら悪いと思ったし、あたしもいろいろ予定があってねぇ。明日もいろいろ会う人がいるのよね。動くならホテルからの方が都合良かったし、もしあかりの家に寄らせてもらうときは事前に連絡して、充分歓迎できる準備をしてもらってるときにするわ』
「そっかぁ」
結婚式の日もいろいろと話していたけど、ふたりきりで話す機会はさすがに取れなかった。電話にしても、海外を飛び回っていつも忙しい志保だから、ふたりきりで話すのは久しぶりだった。
……浩之ちゃんのこととかあって、最近気が張っていた私は、電話の子機を耳に当てながら自分の部屋のベッドで思いっきり身体を伸ばしつつ志保との会話を楽しんでいた。
『あぁ、そうそう。雅史の結婚式のとき話してたことなんだけどさ』
「え?」
いきなり話を変えられて、それもあの日のことを持ち出されて、私はベッドの上で身を固くした。
『あかり、ヒロとはいまどうなってるの?』
「……どういうこと?」
『あたし、確かにお酒が入ってたから気が大きくなってたけど、別に酒に飲まれてたわけじゃないのよ? あのとき話したこともちゃんとあたしなりに考えあってのことなんだから』
「…………」
なにも答えられなかった。
まさか志保がそこまで考えているなんてちっとも気づいてなかったから。
受話器から耳を話せずにいながら、私はベッドに座って床を見つめている。
『あたしとあかりの関係をなんだと思ってるの? 最近はちょっとご無沙汰してるけどね、でもあたしたちは親友でしょ? シ、ン、ユ、ウ。それに志保ちゃんの情報網にはあなたたちの情報も入ってきてるのよ? だからはっきりと答えて。あかり、いまヒロとはどうなってるの?』
「っ……。――」
なにかを言おうとしたけど、言葉にはならなかった。
どうかと問われても、答えることなんてできない。あのときあの公園で、祈りを込めて浩之ちゃんに言葉をかけたのに、彼は応えてくれなかった。
必死で言葉を探していたけど見つからず、私はただ黙っているしかなかった。
『ふぅ、まったく。あかりはいつもそうなんだから。自分のことはあんまり口にしないのよね。まっ、そんなことくらいわかってたけどさ。――それに、あなたたちの間にどんな問題が発生してるのかも、知ってるのよ』
「え?」
『あのロボットでしょ? なんていったっけ……。そう、マルチ。あのマルチっていうのがいまヒロの家にいるんでしょ? その上ヒロの奴、目の前の生身の人間よりもロボットにうつつを抜かしてるって話じゃない』
「それは……」
志保がそこまで知ってるという事実に、思わず顔を上げてしまう。
『ヒロの奴は莫迦よ。しょせんロボットじゃない。まぁ、あのマルチっていうのは人間みたいな感じするけどさ。それでもやっぱりロボットはロボットでしょ? すぐ側にこんなに自分のことを想ってくれる人がいるっていうのに、気づいてないのかしら?』
「志保……」
『あかりだってそうよ。なんではっきりヒロに自分の想いを伝えないの? 気づかせないとダメでしょ? あいつが鈍感なのくらい、あたしよりつき合いの長いあかりだったら気づいてるはずよ。自分を想いをしっかり伝えて、あぁーんな無機質のロボットからヒロの気持ちを振り向かせて――』
「志保! 止めてっ」
聞いていられなくて、私は志保の言葉を止めた。
志保の言葉が辛かった。痛かった。それに、言われてて私はあらためて感じていた。
――私、マルチちゃんのことを嫌いになれないよ。
浩之ちゃんのことが好きだった。私は本気だった。でも同時に、彼の側にいるマルチちゃんを嫌いになるなんてこと、できなかった。
「ゴメン、志保。私、やっぱり……」
『わかってたよ、あたしもね。あかりがどんな気持ちでいるのかわからないような薄情な親友じゃないつもりよ? あたしは。でも、このままじゃダメでしょ? ね?』
「うん……」
私はまた、床に視線を落とす。
志保に言われたことは、わかっていた。わかっていてもいまの私じゃダメだった。
きっかけがほしい。
私はだたそれを願う。
浩之ちゃんとのいまの関係をどうにかするためのきっかけ。マルチちゃんとのことも解決できるようなきっかけ。いまはそれがほしくて、たまらなかった。
『心配してるんだからね、あたしだって。だからあかり、負けちゃダメだよ』
「うん、ありがとう」
『それじゃあね、あかり。あたしは明日、早いから』
「うん。またね」
そのまま電話を切ろうとして、けどもう一度受話器を耳に当てる。
「ありがとう、志保」
『うぅん。なんてこないでしょ? こんなの。だってあたしたち、親友じゃない』
「うん、ありがとう」
『ん』
志保の頷きの声を聞いて、私は電話を切った。
子機をベッドの上に放り出し、後ろに倒れ込んで布団に身を預ける。
志保の言葉がたまらなく嬉しかった。少しだけ、元気になれそうだった。
それでもふと浩之ちゃんとマルチちゃんの顔を頭の中に思い浮かべる。
――やっぱり、マルチちゃんのことを嫌いになることなんてできないよね。
いつもそれは感じていたことだった。その想いがあるから、浩之ちゃんにはっきり自分の想いを伝えることができないで過ごしてきた。
「ふぅ」
なにかを考えようとするのに、溜め息ばかりが私の口から漏れていく。
*
「えぇっと、これでよかったんでしたよね」
マルチちゃんに言われてそっちの方を見ると、とんでもないことをしようとしていた。
「ちょっと待って!」
「え?」
どうにか手遅れになる前に止めることができた。
「はわわわっ。わたし、なにかヘンなことしてましたか?」
「チョコレートはね、鍋で直接溶かしちゃ焦げついちゃうんだよ。こうやって――」
危なくマルチちゃんがチョコレートを流し込もうとしていた鍋に、私は保温ポットからお湯を取って入れる。
「お湯を入れて、チョコレートはボールの中でゆっくり溶かさないとね」
「そうなんですかぁー」
手作りのチョコを作ろうと思ったらまず自分でチョコを溶かすところから始めないといけない。
昨日の夜、いきなりマルチちゃんから電話があってなにかと思ったら、バレンタインデーの日に手作りのチョコを浩之ちゃんに送りたい、ということだった。それで翌日の今日、マルチちゃんを私の家に呼んで、手作りチョコの作り方を教えていた。
実際プレゼント用のチョコを作るときは、自分ひとりで浩之ちゃんの家で作るって話してたけど。
「それでね、マルチちゃん、こうやってね――」
「ふむふむ」
溶けやすいよう細かく刻んだチョコを、弱火で温かくしたお湯の上に浮かべたボールの中に、ゆっくりと落としていく。ヘラで混ぜながらしばらく経つと、だんだんとチョコが溶けていった。
「うまいですねぇー」
「そりゃあね」
「毎年ご主人様につくってらっしゃるからですか?」
「……」
無邪気な笑みを浮かべて訊いてくるマルチちゃんに、私はすぐに答えを返すことができなかった。
恐れていた通り帰ってきたマルチちゃん。私は彼女の存在に、不安を抱いている。それなのに彼女は、彼のことを無邪気に話せてしまう。
羨ましいと思った。
マルチちゃんが浩之ちゃんのことをどう思ってるのか、実際ふたりがどういう関係なのか、それは知らない。でも私は、同じ屋根の下で暮らしてるふたりに危機感を感じてる。そして私はそんなことを考えてる自分が嫌だった。
「どうしたんですか? あかりさん」
チョコを混ぜる手が止まっていると、マルチちゃんに声をかけられた。
「うぅん。なんでもないよ。そうだね、いつからかな、毎年浩之ちゃんにはチョコをあげてるからね」
「なるほどー」
できる限りを笑みを見せつつ、止まっていた手を動かした。
「やっぱりあかりさんに教えていただいてよかったですぅー」
「そうかな?」
「はい! 本だけではわからないことがいっぱいわかりましたよぉ」
ひと通りチョコをつくり終わって、片づけなんかも終わっていた。完成した私のとマルチちゃんのチョコは、テーブルに並べて置いてあった。
「うぅ~。やっぱりまだわたしはヘタですね……」
右に置いてある私のチョコはお菓子作りは慣れてるから、そこそこの出来になっていた。でもマルチちゃんの左の奴は、チョコの溶かし方が悪かったのか少し脂が浮き気味で、形も型を使っていたけどいびつになってしまっていた。
「マルチちゃん、チョコを作るのはこれが初めてなんでしょ?」
「はい。初めてですけど……」
「それでこれだけできたら充分だよ。私の最初のときなんて、焦がして食べれないようなのつくってたくらいだったんだよ?」
「そうなんですかぁ~」
自分のチョコの出来にしゅんと下を向いていたマルチちゃんは、私の声に顔を上げた。
「それに浩之ちゃんだったら大丈夫だよ。少しくらい形が悪くたって、全部食べてくれるよ」
「そうなんですか?」
「うんっ。だって浩之ちゃん、私が初めてつくった焦げたチョコ、文句は言ってたんだけど、全部食べてくれたもん」
「へぇー」
「要は心を込めてつくるってことじゃないかな?」
そう言ってマルチちゃんに微笑みかけると、彼女も笑みを浮かべながら「そうですねっ」と元気のいい声が帰ってきた。
――マルチちゃんが、羨ましいよ。
邪気のない言葉で話ができるマルチちゃんが羨ましかった。いまの私じゃ、もうそんなことなんてできない。
「でもやっぱり、形も味もいいものをつくりたいですよね」
「そっ、そうだね」
自分の考えに没頭してしまって、答える言葉が詰まってしまった。
向き直ってマルチちゃんの方を見ると、彼女はなにか下を向いてもじもじしている。
「どうしたの?」
「――えぇっと、あのぅ。ひとつ、いいですか?」
「ん? なに?」
顔を上げたマルチちゃんは、少し悲しげな表情で言う。
「わたしがつくったチョコレートの味、見てもらえますか?」
「あっ……」
返す言葉がなくって、私は思わず口をつぐんだ。
マルチちゃんはメイドロボ。料理をつくることはできても、その味を見ることはできない。
どうするべきか少し考えて、無言のまま私は彼女がつくったチョコに手を伸ばした。
「ん~。ちょっと粉っぽくなっちゃったかな? やっぱり溶かすときにうまくいかなかったからだね」
「そうですかぁー。――でも、でも本番のときは頑張ってつくりますっ! 形も味も、いまよりもずっとずっと上手くつくりますっ!」
「そうだね。その意気だよ」
真剣な顔で決意を口にするマルチちゃんに、私は微笑んだ。
微笑むと同時に、私の心は悲しみが満ちてきた。
私は人間で、マルチちゃんはロボットなのに、いや、そんなこと考えなくても、私はマルチちゃんにいろんな部分で負けてしまっている。
実際どうだかわからなくても、浩之ちゃんとマルチちゃんの関係がどんななのかくらい、ふたりの様子を見ていればわかる。
心でも、浩之ちゃんのことでも、私はマルチちゃんに負けてしまっている。浩之ちゃんの心を私に振り向かせたいと思っているけど、マルチちゃんのことを嫌いになることはできそうもなかった。
――苦しいよ……。
マルチちゃんと再会してできた不安。それはいま、苦しみとなって芽を出していた。
――苦しいよ、浩之ちゃん。
苦しみを打ち明けたいと思うのに、打ち明けたいと思う人の心は、私のもとにはなかった。マルチちゃんを見ていると苦しみの芽が成長していくのがわかる。
苦しみ芽がどこまで成長するのか、私にはわからなかった。
*
――もっと、私が嫌な女だったら良かったのに。
もし私が、好きな人を他の女性から奪っても気にしないくらい嫌な女だったら、こんなに苦しむことはなかっただろう。浩之ちゃんをマルチちゃんから無理矢理にでも奪って、それで終われたかもしれない。たとえそれで浩之ちゃんにフラれることになったとしても、いまほど悩まなかったと思う。
でもそれは私にはできない。
浩之ちゃんのことが好きだった。愛していた。私のことを見て欲しいという――それが独占欲なのはわかっているけど――想いがあることは否定できなかった。
そこまで彼のことを想っていても、彼が想いを寄せている相手、マルチちゃんを嫌いになることはできなかった。彼女のことは彼女として、やっぱり好きだった。
朝、目覚ましが鳴るずいぶん前に起きた私は、身体を起こしながらもなにもできず、ずっとそんなことばかり考えていた。
「ふぅ」
結論が出せないままベッドから出て、鏡台の前に座って乱れた髪にブラシを入れる。
今日は浩之ちゃんと出掛ける約束をしていた。デパート街に行って、服なんかを見に行こうという約束を。……もちろん、それにはマルチちゃんも一緒だった。
目が覚めてずいぶん時間が経ってたけど、ベッドの中でずっと考え事をしていた。けれどいつまでもそんなことをしてるわけにはいかない。しっかり準備をして、お出掛けに備えないといけない。
本格的にお化粧をするのはまた後にして、ブラシを鏡台の上に置いてお風呂に入る準備を始めようと立ち上がる。
「――うっ」
立ち上がった途端立ちくらみがした。
それだけじゃなく、なにもないはずの胃の中身が逆流してきそうなくらいの吐き気が起こる。
「うぅ……」
床にしゃがみ込んで吐き気を抑える。
一度は収まったかと思ったのにその後も何度も吐き気は襲ってきて、ずいぶん長い間立ち上がることができなかった。
――やっぱり体調が悪いのかな。
最近、身体の調子があんまり良くないのは知っていた。貧血気味だったり、いまみたいに吐き気に襲われたり、熱が出たりすることはそれほどなかったけど、とにかく調子が悪かった。
――風邪、って感じじゃないんだけどな。
風邪薬なんかを飲んで抑えてたりしたけど、でも良くなる様子はなかった。倒れ込むほど悪化することもなく、良くならなかったらそろそろ病院に行こうかと考えている。
「もしかして――」
最近の体調不良に思い当たることがあった。
しゃがみ込んだ格好のまま指を折って、ここ数回の浩之ちゃんとの「あのこと」があった日を思い返す。
しっかり調べたことがあるわけじゃないから、正確な知識があるわけじゃない。それでも考えてみれば符合する。ここ数か月の浩之ちゃんとのことと、体調不良と一緒に出てきてる生理不順のことが。
「もしかしたら、私……」
その事を思うに連れてわき上がってくる気持ち。はっきりとはしなかったけど、それは私の胸を温かくした。
「浩之ちゃん、浩之ちゃん、浩之ちゃん、浩之ちゃん……」
何度も何度も彼の名前を呼びつつ、床の上に寝ころんで膝の間に顔を埋めた私は、少しだけ泣いた。
そしてその日、浩之ちゃんたちとのお出掛けをキャンセルして行った病院で、私は自分の予想が当たっていることを知った。
……そう、私は浩之ちゃんの子供をお腹に宿していた。
* 4 *
それは私の夢だった。
眠っているときに見る夢でありながら、起きているときも想像しているほどの夢。
本当になってくれることを望んで、望み続けて、涙を流すことがあっても、消えることがなかった夢だった。
その夢の中で、私はいつも幸せでいられた。
「んっんっんっんん~」
ハミングしつつフライパンに並べたベーコンをカリカリに焼いて、その上に卵を落とす。それが固まるのを待ちながら、今度はきれいに洗っておいたレタスを千切り、皿の上にきれいに並べていった。卵が半熟の少し手前まで固まってきたところでフライパンを火から上げてお皿に移し、トマトやキュウリを切ったりと本格的にサラダの準備を始めた。
いつもと変わりない朝食の準備。
空気はまだ少し冷たいけど、窓を開け放ったリビングダイニングの方からはさわやかな朝の空気が流れ込んでくる。キッチンの時計でいまの時間を確認した私は、そろそろ時間だと思って朝食をダイニングに持っていき、エプロンで濡れた手を拭きながら二階へと上がっていった。
二階の奥の寝室の扉は、私が出てきたときのままわずかに開いてるばかりで、部屋の中で人が動いている様子はない。
「っもう。最近起きるの遅くなってきてる。そろそろ春なのに」
ちょっとした悪態をつきながら寝室に入った私は、隙間から漏れるわずかな日の光を頼って冬用の分厚いカーテンを開け放った。部屋の奥手に据えられたクイーンサイズのベッド。そこにはまだ、眠っている人の姿があった。
起こすのをためらってしまうほどの安らかな寝顔。意外に寝相がいい彼は、強い日の光に肩まで被った布団の中で寝返りを打った。
「浩之ちゃん。朝だよ。そろそろ起きて」
彼の身体に覆い被さるようにして、その耳元でささやく。
微かにうめき声を上げたのを確認し、彼の身体から離れた。しばらくそのままでいると、もう一度寝返りを打った彼が目を開けて、寝ぼけた視線を彷徨わせ私のことを見つけた。
「んぁ……。おはよう」
「おはよう。もう朝だよ。早く起きてね」
「みゅ――」
まだ寝ぼけているのか、彼は意味不明な言葉を口から漏らす。でもいつもじゃ見れないそんな彼が可愛くて、私は思わず笑みを浮かべる。
「あかり、ちょっと」
身を起こした浩之ちゃんが私を呼ぶ。なにかと思って近づいていくと、いきなり伸びてきた彼の手に身体を引き寄せられ、抱きしめられた。
「……っ!」
なにをされたのか、一瞬わからなかった。けれどそれも一瞬だけ。唇に残った暖かな感触に、私はなにをされたのかを知る。
「おはようの挨拶だよ」
唇を離して微笑む彼に、頬が熱を持っているのを感じながら、私も幸せいっぱいの笑みを浮かべていた。
夢の中だけの幸せ。想像することしかできなかった幸せ。
けれどいま、それは実現に向かおうとしていた。
*
約束の時間まではまだ十分くらい余裕があった。
本当は三十分くらい前には着いてたんだけど、でも、あんまり早すぎるのはアレだから、少し時間をつぶしてからやってきた。
ホテルの最上階に近い高さにある展望レストラン。余裕が感じられる店内、流れるゆったりとしたクラシック、窓の外には、きらびやかなビル街の夜景が広がっていた。
入り口に立っていたボーイさんに浩之ちゃんの名前を告げると、いつもぎりぎりに来る彼が今日に限ってもう来ているということだった。
ボーイさんに連れられて彼の待つテーブルに向かう。
――もっといいスーツを着てくれば良かったな。
今日呼び出されると知ってたら、たぶん一番のお気に入りの服を用意してきただろう。でも浩之ちゃんの呼出はいつもいきなりだ。服装については仕方ない。
それよりも、今日というタイミングに呼び出してくれて良かったと思うことがある。
――なんて言おうかな。
初めて宿した、浩之ちゃんの子供。するときは避妊には気をつけてたはずだけど、できてしまった。
その事実は私にとってショックなんてことはない。うぅん、驚きはしたけど、辛いことでも悲しいことでもなく、嬉しくてたまらないことだった。
浩之ちゃんが私を呼び出す日がどんな日なのかは知ってる。マルチちゃんのことで悩んで、堪えきれなくなりそうになったときに、彼は私を呼び出す。
相談してくれないことは辛かった。けれど今日は彼にいいニュースがあるんだ。そのことを伝えれば、きっと笑ってくれる。
それを信じて歩いていくと、彼の姿が見えてきた。彼はワインの入ったグラスを傾けながら、じっと夜景を眺めていた。
「ゴメン。遅れちゃった?」
「いや。約束の時間にゃまだなってないぜ」
ガラスに映った私の姿に気づいた浩之ちゃんが振り向き、私は彼に声をかけた。呼び出しの日はいつもだったけど、少し辛そうな彼の笑みを見ながら私はボーイが引いてくれた椅子に着く。
「呼び出してすまねぇな。身体の方は大丈夫なのか?」
「病院で看てもらったし、昨日一日ゆっくりしてたから、もうなんでもないよ」
――原因は、わかったからね。
口に出さすにその言葉を思い浮かべて、私は微笑む。
「そっか。まぁ、とにかくなにか食おう。腹は空いてるんだろ?」
私の笑みに気づかない浩之ちゃんだけど、彼の言葉に「うん」と頷きを返しつつ、私は笑みを絶やさずにいた。
浩之ちゃんが選んだコースに従って食事が運ばれてくる。これもいつもの通り、食事中はふたりの間に会話が生まれることはない。
だから、私は上手く言い出すタイミングを逸していた。けれどすぐに言いたい、という思いと同時に、言ったときの彼の表情を思い浮かべて笑みを浮かべ続ける私は、そんな時間を楽しんでいた。
今日もやっぱり浩之ちゃんはマルチちゃんのことでいろいろ悩み事があるらしい。無言のまま食事をする彼の表情は複雑だ。
――その顔を、今日は笑みに変えてあげるね。
尽きない思いを抱きつつ、いつしか食事は終わった。
この後はふたりで部屋に入って、朝まで過ごす以外にすることはない。そろそろ輝きも控えめになってきた夜景を眺めている浩之ちゃんに、思い切って声をかけた。
「浩之ちゃん、ちょっといい?」
そろそろ酔いが回ってきてたのか、私の方を見た浩之ちゃんは目が少し虚ろになっていた。
「なんだ?」
「あの、あのね。私、その……」
「なんなんだ? はっきりしろよ」
鋭さを感じる視線。その口調も、少し荒っぽかった。
――浩之ちゃんはまだ知らないから。
これから私が言おうとしていることを。これから私が言う幸せの種を。
そう考えて、口ごもりつつ私はそこから先を口にする。
「うん、わかった。はっきりと言うよ。いい?」
「あぁ」
まだどれほど重要なことを言おうとしてるのか気づいてない浩之ちゃん。ひとつ深呼吸をして、ワイングラスに手を伸ばそうとしてる彼にそれを告げた。
「私、妊娠したの」
グラスに伸びていた手が止まった。
凍りついたように、浩之ちゃんは動かなくなる。グラスに手を伸ばそうとした格好のまま、視線もそっちの方に向けたまま、しばらく彼は動かないでいた。
「――あかり。それは、ホントか?」
ずいぶん間があってから、私に驚いた顔を見せる彼。
「うん。病院で確認してもらったから」
「もしかしてお前、オレ以外の――」
「私が! ――」
いきなり想像にもなかったことを言われて、私は思わず叫び声を上げそうになった。
――ひどいよ、浩之ちゃん。
私は彼のことしか見てこなかった。これまで彼が振り向いてくれる様子がないことに辛さを感じて、悩みを話してくれないことに寂しさを感じてはいたけど、だからといって、彼以外の人でその気持ちを紛らわせるなんてこと、思いつきもしなかった。
私の言った事実はたぶん、浩之ちゃんにそんなことを口走らせるほどの驚きを与えたんだろう。
叫びだしそうになった気持ちを押さえ込めた私は、先の言葉を続ける。
「……私が、浩之ちゃん以外の人と、そ、そんなことするわけ、ないよ……」
自分が言ってる言葉の意味に真剣な想いを込めてるのに、思わず頬に熱が上がって下を向いてしまう。
「じゃあそれは、それはオレの、オレのなのか?」
「浩之ちゃんと、私の、だよ」
顔を上げて、確認の言葉をかけてくる彼にこぼれる笑みとともに答えた。
「おかしいとは思ってたの、少し前から。毎月のものが遅れてて、下がるはずの体温も下がらなくて……。どうしたのかなって思ってたら、この前の三人で出掛ける約束をしてた日の朝に、吐き気があって……。調べてみたら、そうだったの。お医者さんに、妊娠だよ、って、言われたの」
全部言い終えてから、私は恥ずかしさと嬉しさでうつむいてしまった。
――浩之ちゃん、いま、なにを考えてるかな?
嬉しさと恥ずかしさと、ほんのちょっとの不安で、私はテーブルに落とした視線を上げることができなかった。ただ、彼がどんな答えを返してきてくれるのかと、じっと耳を澄ませ続けていた。
……けれど、いつまで経っても浩之ちゃんの口から声が出てくることはない。
待ちきれなくなって顔を上げると、彼はひどく辛そうに、右手で顔を覆っていた。
「どうしたの?」
ただ顔を手で覆ってるだけじゃなくて、覆ってる手に力を込めてるらしい彼の表情を覗き込みながら問うてみる。
すると、
「帰ってくれ」という答えが返ってきた。
「え?」
わけがわからず、私は問い返す。わずかにしかなかった不安が、一気に膨らんでいくのを感じた。
「今日はもう、帰ってくれ」
「どうして? どうしてなの? 浩之ちゃん」
苦しそうな声で、彼は私に向かって言う。
わからなかった。どうして彼がそんなに苦しんでるのかが。
私はそんなに彼を苦しめるようなことを言ったんだろうか? 私が妊娠したということは、彼にとって苦しみにしかならならないんだろうか?
――そんなはず、ないよね?
心の中で問いかけて、嬉しそうな顔を見せてくれることを願ったけど、それが叶うことはなかった。
「すまねぇ。いろいろあって、ひとりで考えたいことがあるんだ。その話は……、また今度、近いうちに話をしよう。だから今日は、ひとりにしてほしいんだ」
喉の奥から絞り出すような声で彼は言う。
今日は、マルチちゃんのことで堪えきれないことがあるから、私が呼ばれたんだった。私はその苦しみを少しでも和らげられればと思って、毎回こうしてきてるんだった。
――今日、言うべきじゃなかったんだね。
悲しかった。辛かった。喜んでほしかった。
けど、今日の彼は悩み事をいっぱい抱えて、私以上に辛いことをため込んで、ここにいるんだった。
――今日はタイミングが悪かっただけだよね。
これ以上彼を苦しめることを言いたくなくて、その言葉は口にしなかった。けれどそれに頷いてくれることを信じて、私は食事の終わった席から立ち上がった。
「……うん。わかった。また今度、話をしようね」
「すまねぇ」
その声を背中で聞いて、私はレストランを後にした。信じていても、信じてるつもりでも、これ以上浩之ちゃんの顔を見ていられなかった。
――信じてるよ、浩之ちゃん。
握り締めた手に、私はその想いを必死で込めていた。
*
玄関の前に立って、少しためらった。
浩之ちゃんに元気になってもらおうと思って、今日も体調が悪いと……嘘じゃないけど、目的としては嘘をついて、会社を早退して昼食をつくってきた。
お肉や野菜をいっぱい詰めた重箱を風呂敷に包んで持ってきてる。でも平日のこの時間に浩之ちゃんの家に来るのはなんとなく後ろめたくて、ためらってしまう。
「しっかりしないと」
自分を元気づけて、呼び鈴を鳴らした。
一歩下がって少し待つ。
……誰も出てこない。
もう少し待ってみる。
でも、誰も出てくる様子はなかった。
――どこかに出掛けてるのかな? 病院でも行ったのかな?
帰ってくるまでここで待とうか、それとも一度家に戻った方がいいかと考えながら、玄関扉のノブに手をかけてみた。
「開いてる……」
悪いと思ったけど、浩之ちゃんがいるかどうか確かめるために扉を開けた。
「浩之ちゃん、いるぅー?」
家の中に声をかけてみても、反応はない。
――誰もいないのに玄関開けっ放しなんて、不用心だよね。
思い切って、家の中に入ってみることにした。
「浩之ちゃん、いたら返事してね」
どこかヘンな声をかけながら一階の部屋を見て回る。リビングにも洗面所にも、誰もいない。
「あといるとしたら、二階の部屋かな」
浩之ちゃんが家にいるのに一階で待ってたりしたらおかしいから、部屋を確認しようと思って階段に足をかけた。
ふと、手に持った重箱を見る。
「これ持ってきたって言えば、わかってくれるよね」
そう思って私は、風呂敷包みの重箱を手に持ったまま階段を上がっていった。
一歩足をかけるごとに階段が立てる軋みに罪悪感に似たものを感じながら、それでも私は浩之ちゃんの部屋へと向かっていく。
階段を上がり切ったところで、浩之ちゃんの部屋かららしい物音が聞こえてきた。
扉の前に立ってみるとその音がはっきりと聞こえるようになる。その音の正体は……。
――ダメ。開けちゃダメ。
思っていても、手は自然と扉のノブに伸びていく。その向こうでいま行われていることは想像できているのに、それを見たくないと思ってるのに、でも私は、ノブを回して扉を開けていた。
「浩之、ちゃん?」
私の目に映ったのはベッドで絡み合う浩之ちゃんとマルチちゃん。下着まではだけた胸に伸びる彼の手と、涙に濡れた彼女の顔が私の目にしっかりと映っていた。
「あかり……」
声に気づいて浩之ちゃんが振り向く。呆然とした表情をしてる彼と見つめ合う。重箱を包んだ布をつかむ手から力が抜けていくのを意識しつつ、止めることができずにそれは床に落ちていった。
「浩之ちゃん……」
頭の中が真っ白だった。
わかっていたことだけど、見たくはないものを見てしまった。
なんで見てしまったんだろう。わかっていても、見なければショックはなかったはずだった。けれど見てしまったいま、私の頭の中は空っぽになっていた。
「あかり」
浩之ちゃんが立ち上がり、私の方にやってくる。ゆっくりと伸ばされてきた手が視界に入ってきた途端、私の中でなにかが弾けた。
次の瞬間には走り出していた。
階段を駆け下り靴を履くのも忘れて彼の家を飛び出す。道を選んでる余裕なんてない。無意識のうちに方向を決め、私はひたすらに走っていた。
「あっ、あっ、あっ、あっ……」
こみ上げてくる気持ちを叫び声にしたいのに、声が出てこない。溢れてくる涙でなにも見えなくて、自分がどこを走っているのかわからなかった。
突然背後からかかった制止の声。それに気づいて顔を上げたとき、すぐ目の前にトラックが迫っていた。
――死ぬんだな、私。
もうどうでも良かった。
私が妊娠したことを告げても浩之ちゃんの心は変わらなかった。私にできることなんてもうなにもなかった。
そんな私が生きてる意味なんて、なかった。
――ちょうどいいかな。
甲高いブレーキ音を聞きながら、私は静かに目をつむった。
*
目は覚めていた。
意識ははっきりしていた。
けれど、ベッドから起きあがることはできなかった。
身体が重くて動きたくないのもあったけど、それよりも、身体を動かすほどの気力がなかった。
真っ白な天井を見上げて、ただボォッとしている。
そうしていることしかことしかできなかった。そうしているしかなかった。
なにしろ私は、流産してしまったのだから……。
――どうしてこんなことになっちゃったのかな。
考えることなんてできなかった。
トラックに轢かれることは免れたけど、気を失った私は浩之ちゃんによって病院に連れてこられた。救急治療室で診察と治療を受けて、いまの個室に入った。そして気がついたとき、お母さんに教えられた。
流産の事実を――。
つむった目から涙が溢れ出しそうになる。誰が見ているわけでもないのに、私は腕を目の上に置いてそれを必死でこらえていた。
浩之ちゃんと幸せになれると思ってた。彼の気持ちを私に振り向かせるはずだった。マルチちゃんに、勝てるはずだった。ふたりの間にできた子供は、私の希望となるはずだった。妊娠の事実は、私と浩之ちゃんのいまの関係をどうにかできる、きっかけになるはずだった。
浩之ちゃんを本当に幸せにできるのは私だけだと信じていたのに、もうその想いも、消えてしまった。
なにかをする気にはなれない。ただベッドに横たわり、溢れそうになる涙を堪えていることしかできない。
「あかり……」
そんなとき、扉が開く音とともに声がかけられた。
声からすぐに誰だかわかったから、私は横たわったまま扉の方に背を向けた。
「あかり……」
すぐ側で声がする。
振り向きたかった。そう思うと同時に、振り向きたくない気持ちもあった。
いま彼の顔を見たら自分がどうなるのかわからなかった。だから振り向くわけには、いかなかった……。
「あかり……」
三度目の呼びかけ。私はその声に応えを返す。
「出ていって」
そう言うしかなかった。それ以外に言葉が見つからなかった。
いままで思ってたチャンスが全部消えてしまって、彼と幸せになる方法がなくなったいま、彼とはもう、会いたくないという思いが生まれていた。
「あかり、オレは――」
「出てってよ、浩之ちゃん」
言っていて涙が溢れてきた。
辛くて、堪えきれなくて、すぐにでも彼の胸に飛び込んでいきたいと思うのに、あの、マルチちゃんとのことが胸にわだかまっていて、どうすることもできなかった。
肩に手を掛けられて、思わず私は叫び声をあげる。
「出てってって言ってるでしょ!」
手をはねのけた拍子に私の身体は浩之ちゃんの方に向いてしまった。溢れた涙が、雫になって飛び散る。
「もう浩之ちゃんの顔なんて見たくない! 嫌いだよ、浩之ちゃんなんて。だから出てって! 二度と顔も見たくない!」
言葉が痛かった。
自分で言ってるのに、言葉のあまりの痛さに、私は伸ばされた彼の手をがむしゃらに振り払う。
「待ってくれ。あかり、オレは――」
「イヤ!」
両手で肩をつかもうと浩之ちゃんが近づいてきた瞬間、私の手が、彼の頬をはたいた。
パンッ、と、妙にいい音が響いて、私も彼も動きを止めた。
「出てって、出てってよぉ。もう、もう私……」
どうすることもできなかった。複雑な想いが絡み合って、気持ちが暴走していて、涙ばかりは流れてくるのに、言葉が見つからなかった。
「わかった。出ていく」
言って遠ざかっていく彼の背中。病室を出て、扉が閉められる。
流れていた涙が止めどもなくなった。顔がくしゃくしゃになるくらい流れてくる涙で、シーツが濡れていくのがわかる。胸で膨れ上がる想いが、嗚咽となって漏れ出てきた。
追いたかった。でも追えなかった。彼の背中は、いまでも遠すぎた。
「あかり、ひとつ聞いてくれ」
扉の向こうから声がかかる。
「マルチはもう寿命なんだ。二度とあいつには会えなくなるんだ」
――まさか、そんなことが……。
いまの鈍った頭じゃその意味を理解するまで少しの間があった。けど伝わってきた衝撃で、私の涙はしばし止まる。
――寿命って、マルチちゃんが死んじゃうってこと?
彼女がロボットだから、その表現が適切かどうかわからない。それでも彼女の場合、死んでしまうと言うのが適切な表現のように思えた。
――なんでいままで気づかなかったんだろう。
私は浩之ちゃんの悩みを理解した。メイドロボである彼女の人間より短い寿命を思って、浩之ちゃんはずっと悩んできたんだ。私にとってそれは苦しいことであっても、そんなことはどうでもいい。最愛の人の死が近づいているということに、彼はずっと悩んできた。それを私は汲み取ってやることができなかった。
――私って、なんて莫迦な女だったんだろう。
涙が再び流れ始めた。今度の嗚咽は、前以上に止めようがなかった。
ベッドにうつぶせ枕に顔を押しつけて、私は涙を流す。
遠ざかっていく浩之ちゃんの足音。
彼の心をつかめなかった理由を、私はいまになってやっと理解していた。
* 5 *
「あかり、入るよ」
了解も待たずに扉が開けられる。布団を頭まで被っている私は、そこから顔を出すようなことはしなかった。
「身体の方は大丈夫なの?」
心配そうな声がかけられるけど、それにも答えない。あきれたような息とともにパイプ椅子の軋みが聞こえてきて、彼女は椅子に座ったらしいことがわかった。
「せっかく親友が来てるんだから、顔くらいみせてくれたっていいじゃない」
さっきの心配そうな声とは一転して、志保はあきれた声をかけてきた。
それでも私は布団の中に潜ったままだった。顔を見せることなんてできなかった。なにしろ浩之ちゃんがいなくなってからずっと、もう何時間も涙を流し続けていたから。
マルチちゃんの寿命を知ってから、涙が止まらなかった。マルチちゃんとの別れが悲しいこともあるけど、なによりいまの自分が嫌だった。
――マルチちゃんに勝てるなんて、嫌な考えだよね。
浩之ちゃんのことを幸せにできるのは自分だけなんて、勝手な考えだった。マルチちゃんに勝ちたいなんて、汚い思いだった。そのために妊娠をきっかけにするなんて、最低だった。
だから私は、志保に顔を見せることができなかった。
「あかりの場合、一度落ち込むと長いのよね。ふさぎ込んだまま顔出さなくなるし。まっ、いっか。そんなことわかってたし。それよりあたしはあかりに話たいことがあってきたんだから」
ひとつ息をついてから、志保は話を始めた。
「あかりは気づいてなかったかも知れないね。ヒロに比べたら回りのこと見てるのに、自分のすぐ近くは見えないんだもんね。気づいたのはいつだったかな。中学のときには気づいてたんだと思うよ」
少し間を置いて彼女は言った。
「あたしはね、ヒロのことが好きだったんだよ」
――っ!
突然言われたその言葉。驚きの声を上げる隙もあらばこそ、志保は話を続ける。
「好きだったけど、告白したりしたことはなかったのよね。あかりとヒロと雅史と、それからあたしっていう四人の関係も、かけがえのないものだったから……。
ヒロへの想いが本気だって感じたのはいつだったかな。中学から高校に入る時期だったかも知れないな。とにかくあたしはなにも言わなかった。あかりがヒロのことをずっと前から想ってたのは、知ってたからね。それに高校二年のときだったよね、あかりが髪型変えたのは。そのとき、あたしはヒロに自分の想いを告げないことを決めた。あたしも本気だったけど、あかりも本気なのは知ってたし、それにあたしには、四人の関係も大事だったからね。でも間違えないでよ。譲ったわけじゃないんだから。譲ったわけじゃないけど、あたしには他にも大事なものがあったから、ヒロへの気持ちを伝えないことにしたの」
中学のときに知り合ってから本当にいろんなことを話してきた志保だけど、いまみたいな志保を、声だけにしろ知るのは初めてだった。
「それであたしはあんたたちのことを見守ることにした。それなのに、ね。あのマルチが来てから大変なことになっちゃったよね。わかってるよ、見てたんだから。あかりはヒロのことも好きで、マルチのことも嫌いになれなくて、それでずっと悩んできたんでしょ。まったく、良くも悪くもあかりらしいのよね、そういうところって。なにがってわけじゃないけど、とにかくそうなの。頑張らないとダメだよ、あかり。どんな結果になるとしても、やれることしかできないんだから。自分がどんな人間か見て、それで考えて、答えを出していかないと。あたしはあかりのことを慰めてあげられない。できるなら手助けしてあげたいところだけど、まだあなたの方に話す気がないんだったら、話を聞いて上げることもできないしね。今日は話をしに来ただけ。明後日には仕事に戻らないと行けないから、結果は見れないわね。まぁ連絡方法はいろいろ教えてあるでしょ? 結果が出たら教えてね。――必ず、ね」
話すだけ話して、志保は椅子から立ち上がったらしい。
布団を被ったままで見えなしないけど、遠退いていく足音が聞こえる。
「あかり、あたしは信じてるよ。それから待ってる。いつかあなたが、また前のように笑えるのをね」
扉が開けられる音、閉じられる音、そして廊下を歩いていく足音がだんだんと小さくなっていって、聞こえなくなった。
「ありがとう、志保」
会いに来てくれたことに嬉しさを感じていて、いなくなってしまった後だったけど、それを言葉にしていた。
けれど。
――なにができるって言うの?
なにかできるなんて思えなかった。そんなこと思いつきもしなかった。
浩之ちゃんとの子供を失って、自分の嫌さを思い知って、さらにマルチちゃんがいなくなるいま、もう一度笑えるようになるなんて思えなかった。
幼い頃からずっと見てきた浩之ちゃんの背中は、もう見えなくなってしまっていた。
志保の話を聞いている間止まっていた涙が再び流れ始める。
時とともに流れていくのは涙だけ。それはいつまでも終わりなく流れ続ける。
いまの私に、その流れを変えることなんてできるなんて思えなかった。
*
あれはいつのことだったろう。
もうずいぶんと昔のこと。私はまだ志保に出会ってなくて、なんでも話せるくらいの身近な友達がいなかったくらいの時期。
浩之ちゃんのことの不器用な優しさのことを知って、彼のことが気になるようになって、その背中をいつも見ているようになっていた。
彼と雅史ちゃんと私という三人で、いろんなことをして遊ぶようになって、ずいぶん時間が経っていた。小学校を卒業しみんな一緒に中学に入って、家が近いからっていうだけじゃなく、私は浩之ちゃんの後ろを着いて行っていることが多かった。
いつもぶっきらぼうで、素っ気なくて、でも優しさを持ってる浩之ちゃん。私は彼の背中を追えるだけで嬉しかった。振り向いて欲しいなんて想いは、まだ生まれてなかった。
私と浩之ちゃんの関係は変わらないのに、でも中学入学という環境の変化がもたらした影響は……。
「っく。ぅく。っく。っく……」
涙が止まらなかった。
いつも浩之ちゃんや雅史ちゃんと遊んでいた公園。もう陽は沈みかけていて、茜色の光が園内を染め上げていた。
そんな公園の隅でうずくまり、私は学校から家に帰れぬまま、ずっと泣き続けていた。
『あの浩之って奴、感じ悪いよね』
授業が終わって帰ろうとしていたとき、やっと仲良くなってきた友達と集まって話をしていると、ひょんなことからそんな話になった。
『そうそう。目つきとかも悪いし、態度もそうだし、顔はそこそこだけど、ねぇー』
クラスの男の子たちのことを、とくにそのときは浩之ちゃんのことを語り合う彼女たち。私はその中でなにも言うことができず、沈黙を守っていた。
『でも神岸さん。なんであんな奴の後を着いて行ってるの? いたずら好きだし、構ってもくれないだろうし、なんでなの?』
同じ小学校に通っていて浩之ちゃんのことを知ってる娘が言ってくる。
『それは……、家が近いし、ずっと一緒に遊んだりしてたし、それで、その……』
『そうなんだ。でもダメなんじゃない』
『え?』
『小学校の時から思ってたんだけどさ、あいつってあかりのこと、嫌いなんじゃない? 態度とか見てるとそんな感じがするよ。それよりも雅史くんとかさ――』
会話の流れで出てきた言葉だとわかってた。言った方に悪気があるわけじゃなくて、自分が感じてることをそんな言葉で言っただけだと思っていた。
それでもその学校からの帰り、ひとりで帰っていた私はいろいろ考えちゃって、いつの間にか涙が溢れてきて、家が近いのはわかってるのに、公園の隅で泣いて、家に帰ることができなくなってしまっていた。
彼の優しさは知っていた。ぶっきらぼうで、素っ気なくて、でもその裏にある、不器用な優しさを信じてた。信じて彼の後ろをずっと着いて歩いていた。
けれど彼が振り向いてくれることはない。私はずっと彼の背中を眺めてることしかできない。彼の背中から、彼の想いが伝わってくることはない。
「ぅくっ。っく。ぅく。んっ……」
いつまで経っても涙は止まらない。
信じようと思っているのに、振り向いてくれることがない浩之ちゃんのことに不安を感じて、私はどうすることもできなくなっていた。
けれどそんなときはいつもそうだった。
そう、そしていまも――。
*
「あかり、入るぜ」
突然かけられた言葉に、私は布団を被って扉の方に背を向けた。
その日いきなりやってきたのは浩之ちゃん。なにがあったんだろう、前にこの病室で会ってからほんの少ししか経ってないのに、彼の声はずいぶん違って聞こえた。
「マルチは、逝っちまった。もう二度と会うことはないと思う」
近寄ってくる足音とともにそんなことを言われた。
前置きもなにもなく、素っ気なく言われたその言葉に、私の肩は思わず跳ね上がった。
――慰めてはあげられないよ、私には。
マルチちゃんを失ったことで、彼は悲しみを覚えてるはずだった。けれど嫌な女である私が慰めてあげられるはずがない。彼を慰めてあげる資格なんてない。嫌われて当然の人間なんだから。
だから私は振り向かない。ベッドに横たわり浩之ちゃんに背を向け続けていた。
近づいてきて椅子に座ったらしい彼は、はっきりとした声で言う。
「オレはマルチのことが好きだった。愛してたよ。あかり、お前がどんな風にオレのことを見てたのかも知ってたつもりだ。だがオレは自分の気持ちに嘘をつくことはできなかった。マルチの寿命という現実から逃れることしかできなかったオレは、お前をずっと苦しめてた。傷つけ続けてきた。謝って済む問題じゃないが、オレには謝るしかない。すまない、あかり」
気配で、浩之ちゃんが私に頭を下げてるのがわかった。
――そんなことないよ。そんなこと、あるはずないよ。
浩之ちゃんを好きだったのは、私ひとりだけの想い。他に好きな人がいたとしても、文句が言えるわけがない。そんな彼が私を求めてきたことには言いたいことがないわけじゃないけど、それを受け入れてきた私も悪かった。彼の気持ちを少しでもつなぎ止めておきたいという想いが、私の中にずっとあった。
――そんな嫌な女に謝ることないよ。
涙はもう涸れたと思っていた。流産のことを知ってからたまに疲れて寝ているとき以外ずっと泣き続けていて、いつの間にか涙も出なくなっていた。
そう思っていたのに、私の目にはまた涙が溜まり始めていた。
浩之ちゃんの本当の気持ち。真実の言葉。それが私に冷たい涙を溢れさせそうにしていた。そんな浩之ちゃんの胸に飛び込むことができない悲しみの涙を流させようとしていた。
そして彼は大きく息を吸う。それから言う。
「オレと、結婚して欲しいんだ」
言われた瞬間身体が震えた。なにを言われたのかわからなかった。
「わかってる。オレはそんなことをお前に申し込めた人間じゃない。でも聞いてくれ。オレはマルチを失った後、死のうと考えてた。やりたいこともなく、夢も希望もない。生きてる意味なんて感じなかった。そんなオレに、マルチは自分の夢を託していった。『いまよりもっと幸せが増えること』。それがマルチから託された夢だ。オレはそれを実現していくと誓った。オレなんかじゃたいしたことはできねぇ。だから、身近な人から、あかり、お前から幸せにすることにしたんだ」
言い終えた浩之ちゃんが私の肩に手を掛ける。彼の言葉で身体に力が入らなくなっていた私は、軽く入れられた力だけで身体を振り向かせてしまう。
「いまのオレにはお前が必要なんだ。オレはお前がいないとダメなんだ」
浩之ちゃんが涙を流し始める。
私の前で、私に向かって流してくれる、彼の初めての涙。
小さい頃、彼が泣いたのを見たことはあった。飼っていた犬が死んだときも、マルチちゃんが帰ってきたときも、彼は泣いていた。
でもその涙は違う。浩之ちゃん自身がひとりで流している涙だった。私に向かって、私の目を見て流してる涙じゃなかった。
けどいまの涙は、私に向かって流してくれてる涙だった。
ベッドから身を起こし、私は正面から彼の視線を受け止める。そして答えを返す。
「浩之ちゃん、私は、嫌な女なんだよ」
彼の想いを受け入れるわけにはいかなかった。たとえ彼がそれを望んでいても、マルチちゃんを勝とうとして、彼を幸せにできるのは自分だけだなんて考えてた私が、本当にそれを望んでいるのだとしても、彼の想いを受け入れるわけにはいかなかった。
涙がこぼれ落ちる。
好きだった。愛してた。浩之ちゃんのことを、ずっとずっと想ってきた。
それなのに、彼が振り向いてくれたときには、私の方に彼の想いを受け入れる資格がなくなっていた。
「子供がお腹の中にいるって知ったとき、私はこれでマルチちゃんに勝てると思った。マルチちゃんはメイドロボだから、浩之ちゃんのことを本当に幸せにすることなんてできないと思ってた」
止めることができない冷たい涙に、私は喉を詰まらせる。途切れ途切れになりそうになりながらも、私は言い続ける。
「嫌な女だよね、私って。マルチちゃんに勝てるなんて、莫迦なこと考えてたよね。ダメだよ、私。こんな嫌な女なんて――」
言い終えることはできなかった。
浩之ちゃんの顔すら見る資格がない私は、心が痛くて、辛くて、堪えられない心を、両手で顔を覆うことによってどうにか言葉を続けていた。
そんな私のことを、浩之ちゃんは抱きしめてくれた。
「いいんだ、あかり。どんなお前でも、オレには必要なんだ。だから結婚してくれ。オレにお前を幸せにさせてくれ」
服を通して彼の暖かさが伝わってくる。
私のすべてを受け止めてくれる彼の広い胸。
それはあまりに広すぎるように思えた。私には不相応なくらい広くて、こんな私がいていいのかと思ってしまうほどだった。
けれど彼は私の身体を強く抱きしめてくれる。すべてを受け止めてくれる。
私は、彼に私のすべてを預けた。
「待ってた。ずっと待ってた。浩之ちゃんがそう言ってくれるのを私、ずっと待ってたの」
自分から身体を寄せると、彼はそのすべてを腕の中に包み込んでくれる。
待ち続けていた。信じ続けていた。彼が私のことを見てくれることを。
浩之ちゃんはたぶん、私だけじゃなくもっと多くの人をその腕の中に包み込んであげられる人だと思う。でもそんな彼が私のことを必要としてくれるなら、私も彼の腕の中にいたいと思った。
「幸せになろう、ふたりで」
「……うん」
いつしか涙は、暖かいものになっていた。
*
茜色の夕陽を遮って、誰かが私の後ろに立った。
「なに泣いてるんだ?」
そんな声をかけてきたのは浩之ちゃん。
「ぅく。……なんでも、ないよ」
まだ泣き続けてる私は、答えを返すことができなかった。
浩之ちゃんが私のことなんてなんとも思ってないんだったら、言っても仕方ないことだった。もし友達の女の子が言ってたみたいに嫌いなんだとしたら、彼に言うべきことじゃなかった。
――私のこと、どう思ってるの?
言いたくても私の口からその言葉が出てくることはなかった。
「なんでもないんだったら泣いたりしないだろ? まったく、これだからあかりは……」
いつも通りの口調で浩之ちゃんは言う。
本当に、彼が私のことをどう思ってるのかわからない。そんな口調からじゃつかみようがない。どこまで話していいのかわからない。
浩之ちゃんの前で泣いてばかりもいられないから、どうにか涙を止めて、顔を拭った私は立ち上がる。
「おいおい、大丈夫なのか?」
浩之ちゃんを放っておいて公園を出ようとすると、彼は私の肩をつかんできた。そのまま身体を無理矢理振り向かせた彼は、私の瞳を覗き込みながら言う。
「いろいろ言われたみたいだが、気にするな。友達がいうことなんて半分くらい聞いときゃいい」
「え?」
「信じるなら、オレを信じろ。噂じゃなくて、オレの口から出た言葉を信じろ」
言うだけ言って彼は背を向ける。そのまま彼は公園を出ていこうとする。
言われた言葉の意味があんまりわからなかった。
なんで浩之ちゃんが今日、友達同士で話してたことの内容を知っているのかもわからなかった。
そして彼はそのことを説明してくれることもなく、家の方向に向かって歩いていってしまう。
――どういう意味だったんだろう……。
わからなくて、私は浩之ちゃんの背中を終えずに立ち尽くしてしまう。
「なにやってるんだ? あかり。一緒に帰らないのか?」
私の様子に気がついたのか、顔だけ振り向いて浩之ちゃんが言う。
「えっと……」
「一緒に帰るだろ? いつもみたいに」
「――うん!」
応えて私は浩之ちゃんに小走りに近寄っていく。鞄を肩に担いだ格好で、制服姿の浩之ちゃんがゆっくりと歩き始める。
すぐ斜め前にある彼の背中。それを私が追っていくことを、ぶっきらぼうでも、素っ気なくても、彼は拒絶したりはしない。
言葉は少なかった。はっきり言ってくれることはなかった。でも、私のことを見てくれてないわけじゃなかった。
涙がまた止まらなくなった。でも今度は冷たい涙なんかじゃない。
――私は、浩之ちゃんのことを信じるよ。
濡れた頬を拭いながら、それでも私は彼の背中を追い続けていた。
* 終 *
あのときからだったんだと思う、浩之ちゃんのことを信じるようになったのは。
夕陽に染まった公園で、彼の背中を追うようになった私。それまでただ彼の後ろに着いていっていただけの私は、そのときから浩之ちゃんのことを追うようになった。
彼のことを追っているのは私。彼のことを好きになったのも私。それは私の、浩之ちゃんに向けたものだけど、一方的な想い。彼が応えなきゃいけないものじゃなかった。
もちろん応えて欲しかった。それを望んでいたから、ずっと彼の後を追い続けていられたし、その想いが大きすぎたために、私はマルチちゃんに勝とうなんていう、嫌な私がいることを知ってしまった。
でも私は私。
マルチちゃんにはなれない。マルチちゃんのようになることも、たぶんできない。
だから私は、自分なりにやるしかない。
見せられるようになってもやっぱり表に出すのが苦手だけど、深い優しさを彼は持ってる。そのことがもしかしたら、この後もふたりの関係に影響を及ぼすような事件を引き起こすかも知れない。
そんな不安が消えることだけは、なぜかなかった。
内装工事が終わったばかりで、埃なんかが溜まってる店内をふたりで掃除している。カウンターに丁寧に雑巾をかけていた私は、ふと振り向いて浩之ちゃんのことを見る。
窓から入ってくる光に照らされて、輝いて見える彼。私と同じように雑巾を持って、彼は微笑みを浮かべながらテーブルを拭いている。
――やっぱり私は、どんなことがあっても浩之ちゃんのことを信じてるよ。
ただその顔を見ているだけなのに笑みが漏れてきてしまう自分自身に、私はあらためてそれを誓っていた。
「――そうだ、あかり」
「え?」
唐突に言って、浩之ちゃんは顔を上げる。
「ずっと考え続けてきたことなんだけどよ」
「うん」
鼻の頭を掻き頬を少し赤く染めながら、それでも彼は言う。
「生まれてこなかったオレたちの子供のために、名前をつけてやりたいと思うんだ。どうだ?」
あの事件があってからもう一年近い時間が流れていた。
生まれてこなかった私たちの子供。まだ妊娠が調べてわかるようになってきたくらいで、本当にまだ何ヶ月も経たない時期のことだったから、子供自身のことよりも妊娠の事実の方が私には強かった。だからその子に名前をつけるなんて、考えたことなかった。
――いろいろ考えてるよね、本当に。
そんなことを言ってくる彼の気持ちが嬉しくて、私は思わず声を弾ませてしまう。
「うんっ。いいよ。でもどんな名前にする?」
「実はもう名前は考えてあるんだ。ずっと考えててよ、それでふさわしいと思う名前が思いついたから言ってみたんだけどさ」
恥ずかしそうに笑む浩之ちゃんは側に寄ってきて、私の肩に片手をかける。
「『アスカ』ってのはどうだ?」
「アスカ?」
「そう。漢字は『明日』に、架け橋の『架』。オレとお前の明日の架け橋になってくれた子供だから、『明日架』。どう思う?」
――明日架。
胸のうちで何度かその名前を反芻してみる。
生まれてくることがなかった私たちの子供。けれどその子こそが、ふたりのいまをつくることになった。
「明日架――」
「そう、明日架だ。あかりはどうだ?」
「……女の子だったらいいけど、もし男の子だったらちょっとヘンな名前じゃない」
「あっ」
言われて初めて気がついたのか、浩之ちゃんは目を丸くする。その様子にちょっと吹き出しながら私は言った。
「でも大丈夫だよ。男の子でも『アスカ』って名前はいないことはないし、――それに、私もぴったりの名前だと思う」
「そっか、良かった」
安堵の息とともに、彼は私の身体を引き寄せ、軽く抱きしめる。
「幸せだよ、浩之ちゃん。私は本当に幸せだよ」
「まだまだダメだ。オレはもっともっとお前のことを幸せにしてやりたい。それにその幸せを、もっと増やしていきたい」
「欲張りなんだね」
「あぁ、そうだな」
耳元で語り合うふたりのささやき。
本当の幸せなんてもの、私にはわからなかった。けれどひとりの女である私は、いま私のことを抱きしめてくれる彼と一緒にいることで、神岸あかりの、藤田あかりの幸せを感じているという自信はあった。
私にはそれだけで充分だった。
「オレの夢なんだ、幸せが増えることが。だから、一生かかってそれを実現していきたいと思う」
ぶっきらぼうで、素っ気なくて、でもいまはもう優しさの表し方を知ってる浩之ちゃん。
幸せだった。それを実感していた。
彼の腕の中にいるだけで、それをいつでも確認することができた。
まだこれからの生活でいろんな障害が出てくることはあるんだと思う。でもそれも、浩之ちゃんのことを信じてる私は、そのすべてを乗り越えていけるんだという自信があった。
彼に気づかれないように、私はそっと自分の下腹を優しく手でさする。
新たに生まれた幸せの種。まだ彼には言ってないけど、そこにはまた新しい幸せが生まれていた。
不安が完全に消えることはたぶんない。私はひとりの女で、ただの人間でしかない。いつか幸せが壊れてしまう可能性を否定することはできない。
でもいまは、彼の腕の中にいることで感じることができる幸せに、私は微笑む。
「実る季節に微笑みを」 了
実はこの作品、なにを思っていつ書いたのかよく憶えていません。
おそらく「~抱きしめて」の後に書いたのだと思うのですが、どこかで公開したのか、同人誌にして頒布したのかすら定かではありません。
もしかしたら初公開かも知れません。
しかしどちらにせよ、実りの季節シリーズをもっと描きたいと思うわたしが暴走して書いたことだけは確かです。