□2043年 某病院 観月誠二
――“人の嫌がる事を進んでしましょう”。
それは、おそらく多くの人が幼少時、親や教師と言った大人の人から似た様なニュアンスの言葉を言われている事だろう。
……その言葉は、よく誤った解釈をされる事が多く、今となっては嘗ての大人達が願った通りの受け取り方をする子供達の方が少なくなっているだろう。
本来の言葉の意味は、集団内における全体利益を尊重し、和と道徳を大事にしよう――という、まぁ有り体に言って良くある大人達の道徳教育の一つだと言うのは、事実だろう。
誤った解釈の様に感じられる人が居る事も理解できるし、滅私の心にて奴隷働きしろ、と言われている様に感じてしまい不愉快だと考える人が出るのも理解できる。
故に、不適切だと声を荒げる人が出てくるのも……分かるつもりではある。
だけど、その言葉は、確かに必要な物なのだと――僕は思う。
だってそうだろう?
人間と言うのは、社会を形成しないと生きていけない生き物だ。
一人で完成する人間が一体どれだけ居ると言うのか。
何をするにしても、個人であるというのはそれだけで少なくない限界が存在する。
その為に人間は、遥か昔から協力し合い、協同し合い、知恵を寄せ集め伴侶と友と共に過ごし組織を国を形作り、娯楽やスポーツだって数多くの人との関りによって生み出される代物なのだ。
そりゃぁ、勿論私、己は重要であるとも。
我思う故に我有り――などと言うまでもなく、自分にとって一番大事なのは自分自身であろう。
己の全てを捨てて滅私に徹するなんてのははっきり言って異常の一言で切り捨てられてしまっても問題がないが――
だけど、世の為人の為他人の為、引いては社会全体の為に善い事をして、そしてそれを奨励するのは当然の事だと、そう信じたい。
……まぁ、世の中そんな風になってくれたら良いな、というだけで現実はそうではないのだが。
そもそもからして“人の嫌がる事”――つまり、損な役回りをする人が、即ちその社会における
全員が同等量の負担を――なんて夢物語、機械仕掛けの神様にでも管理して貰わないと実現できる訳もないし。
それでも。
世界と言うのはそんな人達の優しさで回っている訳で――――
――え、そんな事を考えている僕はどうなのか?
……まぁ、自分で言うのも何だけど、それなりに実現できてきたつもりだ。
数年前に殉職してしまった両親と、今は居ない優しかった姉と、現保護者であり現役で警察官でもある従兄の教育の賜物という奴だろう。
そんな俺だから、高校では一部の人達からは露骨に煙たがられてきていたが――うん、
それでも、自分で言うのも何だけども、日頃の行いと言うべきか多くの人間と誼を紡げていたのだから、僕はそんな自分が間違っていたとは思わない。
……それはそうだろう。
人が人を助ける事が、協力し合う事が間違っているだなんてある訳がない。
勿論、時と場合によっては例外というのがあるのは理解している、
人と人が助け合う事が、協力し合う事はまことに尊き社会の善なのだと信じている。
そうでなければ、きっと世界はもっと生き辛い世界になっていた筈だから。
大なり小なり、そんな人々の善意で世界は廻っていると知っているから。
――それは、世界の、社会の技術や知識を刷新しより多くの人々を救わんとする才人達であったり。
――それは、偶然の事故の犠牲と成りかけていた子を救うそこに居合わせていただけの人の勇気であったり。
――それは、世界と未来に絶望し死を選ばんとする人達の依代とならんとする優しき人達であったり。
――……それは、あるいは多くの無辜の民を害した凶悪犯を追い、自らの命も顧みず捕らえた警官達の尽力であったり――
「――そして、悲惨だったらしい事故から周りの人達を助けようとして
「いやぁ。誠二君、それは流石におじさん同意できないなぁ……」
今まで優し気な顔で話を聞いてくれていたおじさんは僕の方を――正確には、僕の
その目には、腿から先が完全に失われた僕の下半身が映っていた――
◇
◇
……つまり、そういう事だ。
真っ当な正義感が多少行き過ぎてしまった僕は、半年前に起こったとある事故の現場に居合わせた際、自身の身を顧みず――
……後悔はしていない。
極限な状況だった事もあり、記憶は朧気だとは言え、確かに人を、人命を助けられたからだ。
それは未だ薄らと残る記憶に刻み込まれているし、こうして入院してからも凄い勢いでお礼を言いに来てくれる人が来たりする度に、あの時の行動は正しかったのだと確信させてくれる。
尤も、学友や従兄や妹には酷く悲しまれてしまったので、そう喜ぶ事もできないのだけど。
……まぁ、それも致し方ない事だろう。
これ程の大怪我――欠損による障碍が残される事になった僕の未来は、傍目に見ても暗い物にしかならないのだろうから。
が――それはともかく。
確かに身体は重傷を負い、癒えない傷が残ったであろうとも、それでも僕は絶賛青春真っ最中の18歳大学生予備軍だったのだ。
本来なら華の大学生活をスタートさせる直前だった僕は、しかし事故の影響で折角受かった大学も辞退する羽目になり。
家族と相談して新たに某通信制大学を受験する事を決め、一年遅れての受験に向けて日夜病室で勉学に励んでいたのだけど――
――飽きる!
勉強している時間は良い。ただ目の前のそれだけに集中していれば良いだけだ。
勉強は特別得意でも不得意でもないけど――本当にそれだけしかする事がないというのは流石に苦痛に過ぎる。
そんな怠惰で今後その身体で生きていけるのか? と自責した事もあるが、看護師さん曰くこの病室で、入院しているという状況ではそうなる事の方が自然だと、何か他に気分転換でもしてリフレッシュした方が良いと言われてしまった。
まぁ、学力に関しては従兄が配慮してくれて現状でも問題ない所を選ぶ事になったのだから、然もあらんと言った所だろう。
……とは言え、気分転換と一言に言われても、他にできる事など、勉強にも使っているタブレットでインターネットで遊ぶか、それとも同室のおじさん達と談話するくらいしかできる事はない。
ゲームや漫画も多少は嗜んでいたが……僕にとってあれらは学友達と話を盛り上げる為のコミュニケーションツールとして楽しんでいた物。
そう頻繁に見舞いに来てくれる訳でもない学友達と話を合わせる為に遊ぶのは違う気がしてやる気になれなかった。
……こんな有り様でも、もう暫くしたら退院して自宅療養に移ると言うのだから、今からその時の事を考えるだけで憂鬱になってしまう。
我ながら、こんな事ならもう少し色々遊びを覚えておくべきだったかもしれない……
◇
と、そう思っていたのだけど。
「<Infinite Dendrogram>……ネットゲーム。それもVRMMORPGかぁ」
退院する僕の膝の上に乗せられていた包装箱。
看護師や医師の方々から贈られた花束や友人達から贈られた食べ物でもなく、同室だったあのおじさん。
――よく話し相手になってくれていた、あの優しい差前さんからの餞別だった。
――「誠二君、やる事ないんだったらこれ、やってみないかい? 見た事ないかな?」
――「最近結構話題になっているだろう? これは
――「うん? ああ、気にしないでいいよ! 私はもうおじさんだし……是非、君みたいな子にこそやって欲しいなと思ったのさ」
――「それでも気になるなら、感想でも教えてくれよ。ほら、分かるだろう? 私も暇で仕方がないからね――」
ネットゲーム、もしくはオンラインゲーム――なるほど、確かに時間を潰すのにこれ程適任な物もないだろう。
ある程度ゲームを嗜んでいた僕をして、その類のゲームはスマ〇ラやポケ〇ン等を除いて手を出していなかった程に、その底は深いのだから……
それも、MMORPGであれば尚更だ。
MMO――即ち、
大規模多人数という謳い文句に偽りはなく、スマブラやポケモンでは一度の対戦では数人から十数人で同時に戦うのが限度であるそれを、同じ時、同じ
それ程の人数が同時に参加して遊ぶMMOだからこその楽しみが、コンテンツがあるのだけども……これは往々にしてネトゲ廃人の闇もその腕に内包する物だ。
……廃人はおろか、一つのゲームにそこまでのめり込むつもりのなかった僕としては今までは避けるべきモノだったのだけども――
そうは言っても、今の僕は重傷人。
事故の関係者も、病院の人達も、家族も友人達も口を揃えて今はその心身を休める事に注力しろと言ってきている。
ならば、まぁ。時間を潰す為の一環として手を出してみるのも悪くないかもしれない。
まだ発売して一ヵ月のゲームなんだから、皆との話題にもなるだろうしね。
「まぁ、折角ああ言ってくれたんだし、全くやらないなんて失礼な事はないしね――っと」
そう思い家に帰り、自宅療養に切り替える準備も終えた後に早速プレイを始め――という事にはならない。
僕はゲームをやる時には説明書や解説、チュートリアル等は隅から隅まで熟読してから本編を始めるタイプなのだ。
その方がそのゲームの世界に、物語の世界に没入出来る様な気がするからね。
また、ある程度の外部からの評判も確認しておきたい。
……一時期話題になったこのゲームでは、多分ないのだろうけど、VRMMORPGと言うと今までやっぱり最も有名だったのは、一番最初のVRMMO、<NEXT WORLD>だからだ。
……あの時のSNS上でのVRMMOをずっと待ち望んでいたゲーマー達の発狂具合は凄まじかった。
友達にもその内の一人が居たからなぁ……
――
――
――
――
――――良し。
とりあえず仕入れられる情報は粗方頭の中に入れられた……筈。
ネットゲームという物自体が初めてで、まだ分からない事も多いだろうけど、後は現地で少しずつ学んでいけば良いだろう。
……うん。
公式サイトやネットでの情報を確認するに、差前さんがどういう意味で僕みたいな子にこそ、と言ったのかも多分分かったし。
早速――早速でもないけども、始めるとしよう。
僕の、<Infinite Dendrogram>生活を――
「――いざ!」
◇
◇
◇
◇
□霊都アムニール セイレン
幻想の国。秘境の妖精境。初期の七大国の中で、最も
それが、僕の選んだ国、レジェンダリアだ。
初期スタート地点である此処、霊都アムニールの外れからでも見上げられる程に巨大な大樹【アムニール】を戴く多くの亜人亜種族達が集う魔法の国。
そんな所に来て、僕は――
「おぉ、おお――!! ――
一歩、二歩、三歩四歩五歩六歩――此処数ヵ月の病床生活、両脚を失くした車椅子生活が嘘の様に、身体が、脚が動くのだ!
――体感では遥か昔の如く感じられる、以前の様な歩行という、人として当然の事が出来るという事に感動していた。
周辺を歩き回り、小走り、スキップし――僅かな疲労が見えてきた所で頭は多少は冷静になってきたけど、それでも
ネットでも、多少は話題になっていたし、これを貰った時の言葉からして……一応、察しているつもりだった。
これが、完全なるVRであるという事を。
完全に健常なる人間を再現できる桁外れの技術力の賜物であるという事を。
それこそ、僕や他の障碍を抱えて生きる者達が挙って求める様な、“夢の世界”であるという事を――!
「ぃやっふぅー! やったああぁぁぁ――!!!」
◇
ダイブ型のVR――全感覚没入型の仮想現実と言うのは技術が発展し始めてきた21世紀初め、今を遡る事数十年前から空想として数々の物語に登場したものだ。
まるで物語の世界に入っているかの様な、正しく総ての感覚を仮想の世界に没入させるその技術。
娯楽のお話としての登場が多いそれだが――その実、最もその開発を望んでいたのは物語の様な娯楽の場ではなく、医療現場であろう。
それも、最早健常者と同じ様には生きる事が叶わない障碍を得てしまった者こそ――この技術を切望していた筈だ。
腕が、脚が、耳が眼が口が鼻が上半身が下半身が内臓が外皮があるいは身体全体が。
――取り返しがつかない程に重篤な人であればあるほど、“普通の人間と同じ感覚”で活動できる、こんな技術を、世界が訪れるのを待望していた筈だ。
僕も、確かに<NEXT WORLD>が発表された時にその様な意見がネット上でそれなりに頻繁に交わされていた事を思い出し――
……たのだけど、<NEXT WORLD>は逆に技術がまだ未熟だったせいで不具合やら健康被害やらのお陰で全くそういうのを見なくなっていったんだよね……
でも、まさか――
「まさか、<Infinite Dendrogram>がこんな完璧な仮想現実を完成させていたなんて普通思わないよ!」
「それな。マジでそれな。というか発売当日まで何処にも情報がないとかマジで何者なんだよって感じなんだよなー」
……はい。
「まーでもお陰でこうして俺達みたいな一般人もこんなスゲーゲーム出来るんだから有難いこった。小走り君もそう思うだろ?」
「や、あの。セイレンです。……見てました、よね?」
「めっちゃはしゃいでたな」
……はい。
――ここがスタート地点なのを忘れてたッ!!
恥ずかしかっ!? あんなにはしゃいで子供かっ! ゲームやりに来た子供だよ畜生――!!!
◇
◇
◇
はい。
まぁそんな恥ずかしさも数分もあれば流石に落ち着く。
――と、言う事にしておいて欲しい。
「大丈夫だ、安心しろ。レジェンダリアに来る<マスター>の1割は最初っから全く普通じゃないから」
「僕は1割の変人になったつもりは全くないんですけども!?」
それでも――とりあえず、軽く雑談が出来る程度にはメンタルは回復していたのだった。
危ない危ない。こんな凄い世界に来れたのに、速攻で恥ずか死するのは流石にないからね…………
……あ、ちなみに。
先程まで会話していたのは、暇な時はレジェンダリアのスタート地点に陣取って新人<マスター>の観察と揶揄いを生き甲斐としている個人的変人第一号のエースさんだ。
少し話をして別れる事になったけど……数分の会話でもう個性的な人だと言う事は分かる。
……尤も。
先のエースさんの発言ではないが、このレジェンダリアに個性的でない人がどれだけ居るかは分からないけど――――
見回せば、ほら。
獣耳尻尾を生やしたどころか、二足歩行する以外に普通の獣と区別がつかない様な獣人達。
奇抜な髪色瞳色だけに飽き足らず派手っ派手な豪奢な装備を身に纏った推定<マスター>のパーティ。
背丈が幼児と巨人程も違いながら、巨人の方が頭を下げて幼児の様な小人の後についていくペアがいれば、同じ様な体格差でありながら身体の所々から血縁を感じさせ異様に仲の良い親子 (……だと思いたい)も居る。
上に目を向ければ羽の生えた鳥系の獣人や数人で群れる妖精達がレジェンダリアの上空を飛び回り。
漫画の様に木々の間を跳躍しながら飛び回る人達もちらほら。
下を見れば……何か良く分からない人が地面から這い出ている所を目撃したり、近くの水中からこっちを見ている人と目が合ったり。
同じ新人<マスター>なのか簡素な装備で寝転がったり座ったりしてウィンドゥを見ている人も遠くに見える。
……さっきのスタート地点とはそこそこ離れたはずなのに、そんなバリエーション豊かな日常が見れるんだから実に面白い。
レジェンダリアを選んだのは正解だったと思いたい。
「とは言え――まずは、どうしようかな?」
誰に呟くでもなく、そう独り言ちる。
……前述した通り、僕にとってゲームとは、基本的に他の友人達とのコミュニケーションツールという扱いだった。
だから、ゲーム内での遊び方も基本的に友人達に合わせていた訳だけど――
――ここ、<Infinite Dendrogram>では、今は僕一人。
友人達は現役大学生として日々勉学に追われているだろうし、ほぼ一日中暇してる僕の遊びに付き合わせる訳にもいかないから、僕は一人でこの世界で遊ばないといけない。
そりゃぁ、勿論事前にある程度情報を仕入れて、ゲームを始めた直後はどの様にするのが良いか――という鉄板くらいは分かっている。
しかし、その先。例えばジョブに就いた後などは――
「あー――っと。……失敗したなぁ」
――チュートリアルで……このゲームで遊ぶ目的でも、聞いておくんだったな。
チュートリアルの場で朗らかに担当してくれた二足歩行の猫の顔を思い出し、そう呟くも時既に遅し。
一度終えたチュートリアルに再び舞い戻る方法はなく。
結局僕はこのゲームの、管理AI達の謳い文句通りに、自由に自分で目的を作っていかなきゃいけない訳だ。
「……まぁ、何をするにもまずはジョブかエンブリオ、だよね。」
気を取り直して、改めてジョブを得る為に行動を始める。
<エンブリオ>の孵化は人によっていつ孵化するかまちまちだから、焦っても意味がないからだ。
歩みを進め、狙うのは――冒険者ギルドで就く事のできる下級職の一つ、【
まずは出来る事を増やして、時間を掛けてこの世界の事を知ってからもっとやりたいジョブが出来た時に潰しが効きそうなのがそれだった、という理由だ。
……元々【冒険家】はサブジョブとして人気らしいし、これくらい不純な理由でも問題ないと思う。
思うのだけど、今の問題はそこではなくて――
「――アムニール、広すぎないっ!?」
冒険者ギルドまでの道が既に気圧されるレベルで険しいという所だった……
自然と魔法と共に過ごすこのレジェンダリアの町並みは、当然と言うべきか所々で木々に葉に根に進路も視界も邪魔をされ。
ウィンドゥ上でのマップも二次元上での地図であるからか、
……まぁ、此処で暮らしている亜人の皆様や多少の覚えのある<マスター>であれば、その程度は当然通れるのだろう。
――だけど、初心者のステータスではそれは叶わない。
せめて一人でなければ、あるいは無理をすれば通れるのかもしれないけど――
「……仕方ない、遠回りするしかないか」
そう決めて、まぁそれでも道中の店でも物色しながら行けばいい、と考えて踵を返す。
別に急いでいたという訳でもないし、むしろ僕自身は時間は余る程あったのだから。
――魔法の国を少しずつ、ゆっくり見て回るのもむしろ良い経験かも――
――――だけど、結果的にはその選択は正解だったのだと思う。
――ぅ―!
「うん?」
再び歩き始めてから少しして――小さく、声が聞こえた。
小さな、ともすれば空耳かとしか思えない程の小さな声。
それも、今も遠くから聞こえている客引きや勧誘のそれではなく。
――
「ッ!」
咄嗟に辺りを見回し、声の主を探す。……居た。
数十メテルも離れた、大通りから外れた道。霊都の外へ続く通り道の一つに沿う様にぽつりぽつりと疎らな間隔で並んでいる小さな店の一つ。
そこに、先程見た他の妖精よりも小さな、僕の拳程のサイズの妖精の子が狼狽えながら小さく声を上げていた。
「――大丈夫ですかっ!?」
「あ、<マスター>さん!? 大丈夫じゃないですよぅ!」
駆け寄り、様子を聞く。
非常に小さい為実際はどうか分からないが、妖精さんは特に怪我をした様子もなく、必死で声を張り上げながらむくれた様子で僕の――更に奥、店の外を見ていた。
怪我がないのは本当に良かった。どうやら体格が小さいせいで声が小さかったから気付かれていなかっただけらしい。
……いや、
彼女の様相と、そして――
「――泥棒ですぅ! 違う<マスター>の人が、私の店の商品を目の前で盗んでいったんですぅ!!」
彼女の目線の先。店の外のもっともっともっと先。
霊都の
【クエスト【盗品奪還――リリィ・リミルシア 難易度:四】が発生しました】
【クエスト詳細はクエスト画面をご確認ください】
「くっ――!」
そのウィンドゥのポップアップを確認する前に、身体は店の外へ、犯人の背を追って駆け出していた――
◇
◇
◇
走る。
走る。
走る――!
全速力で、逃してなる物かと犯人の<マスター>の背を追い、走り続ける――
しかし。
「嘘だろ、早すぎる……っ!!」
距離は全く縮まらない――どころか、まだ追い始めて十数秒も経っていないというのに、少しずつとすら言えずぐんぐんと離されていく始末。
既に相手は米粒程の大きさにしか見えない程距離を開かれ、この木々の視界の悪さで少しでも油断すれば直ぐにでも見失ってしまいそうな程だ。
余りにも……余りにも、
それは、まだ僕がこの世界に来たばかりで森を走るのにそんなに慣れていないという事を勘定に入れても尚、決定的な行動速度の違い。
――こんなにも、違うっていうのかよ――
それは、この世界の
AGIの値が高ければ高い程、デンドロ内における
それは、他のゲームであるように手の速さ足の速さや回避率――と言うだけではなく。
体感速度、思考速度、反応速度、行動速度、攻撃速度――言葉通り、それらの
その計算式は等倍的に上がっていくモノではないとしても、その発揮速度は始めたばかりの初期ステータスの僕と、
「はっ、はっ、はっ……くっ!!」
走る、走る走る走る走る――全力で、息も荒く体力が尽きてきているのにも薄々と気付いていながら。
しかし、それほど必死に走っても……彼我の距離はどんどん離されていくばかりだ。
それも当然だ。此処は
ならば、この結果も正しく当然の物だ。
既にこのゲーム――<Infinite Dendrogram>が始まって、リアルで1ヵ月以上、デンドロ内の時間では4か月程度も経過している。
それだけ時間が開いて漸く初めたずぶの
それが、偶然の起こり得ない数理で支配されるデジタルの世界において絶対の真理という奴で。
絶対に追いつけないのだから――どうせ追いつけないのだと諦めてこんな苦しい想いなんかせずに、さっきの妖精さんを励ましていた方がマシだろう――?
だけど、そう頭の中で考えている反面――それよりも、何倍も何倍も大きな声で、もう一つの声が鳴り響くのだ。
――――ならば、眼前の悪事を見逃すしかないのだと?
――否だ、ありえない。それだけは、絶対に認められない!
なるほど、確かに。
今の僕の力では、どう足掻いても相手を捕まえられる事はできないかもしれない。
「――
店主の妖精さんを慰めて泣き寝入り?
今必要なのはお為ごかしではなく、
だけど、何度想っても願っても、そんな力は僕には欠片もありはしないという事実は変わらない。
だから、想うのだ。強く、強く――
そうして――とうとう僕の目が犯人の姿を完全に見失ってしまう、その瞬間。
『――へぇ、私のマスターは熱を内に秘めるタイプなのかな? ……でも、良いわねっ! それじゃ、今から私が
「ん、なっ!?」
唐突に僕の真横に現れた少女の存在と物言いに、そして――熱を持ち微かな煌めきを放つ左手に驚きを重ねられる。
それは、美しい白銀の髪と見惚れる様な紅い瞳の少女だった。
このファンタジー世界、国家とその
その驚愕の一瞬で、一度見失った犯人の姿はもはや完全に見失ってしまい、うっかり足を根に引っ掛けて転びかけてしまう。
しかし、今はそんな事よりも――
「君が僕の――<エンブリオ>、なんだよね?」
「如何にもっ! 私の名前はフォルセティ。TYPE:メイデンWithテリトリー・チャリオッツの【共和友姫 フォルセティ】。貴方の心よりの祈りと願いから――」
「そういうのは後で良いからっ!」
そう。
自己紹介も大事だが、それは後でも良い。
重要なのは――
「君は――君の力なら、
求めるのは、求めていたのはその可能性だ。
無限の可能性を与えてくれると言う<エンブリオ>、その力なら若しかしたら――
「え、それは無理かなー……私はほら、名前の通り戦闘は全然できないから、ね?」
「えっ」
……えっ。
「……おっとそんな絶望した顔しないでっ!? 大丈夫、なんとか出来る――
「――分かった。僕は何をすればいい?」
戦闘はできない、と彼女は言った。
そして、その上でそれでも、なんとかできる、かもしれないとも――
その瞬間から彼女は淡く輝く光の塵となって霧散し、その戦闘形態――TYPE:テリトリーとしての固有スキルを使う準備を終えたのだろう。
ならば。
他ならぬ自分の<エンブリオ>たる彼女がそう言い、その為のお膳立てを整えてくれると言うのなら。
犯人に追い縋る事すらできない貧弱な自身の
そうすれば、そんな僕でも、あの妖精さんを助けられるのなら――!!
『――その想い、グッドだねっ。でも、やる事は至って単純だよ!』
声が聞こえる。
恐らく、既にその固有スキルの発動準備を終えているのだろう。
次の瞬間には
一瞬の思考ではあっても――確かに、その予兆を感じられたのは、彼女がテリトリーだからか、あるいはメイデンであるからか。
だが、ネットで<エンブリオ>が孵化したてでよく言われる様な全能感は――僕にはまるで感じられない。
……それも、ある種当然なのかもしれない。
何故ならそれは、この
『――どうして欲しいか! 声に出して、願って、心から呼びかけて! 《
瞬間――周囲に、その力が満ちる。
範囲は判らず、効果も解らず。されど、どうすれば良いのかだけは、分かる。
だから――
「『【――――誰か、手を貸してくれッ! 泥棒だ、
To be continued…………
ステータスが更新されました――――
名称:【共和友姫 フォルセティ】
<マスター>:セイレン
TYPE:メイデンWithテリトリー・チャリオッツ
能力特性:協同
スキル:《仲魔を呼ぶ声》《導く御旗》
モチーフ:北欧神話における司法神にして正義や平和を司る神“フォルセティ”
紋章:繋がれた手と手
備考:直接的な戦闘能力はまるでないし、ステ補正もMPとSPとLUCくらいしかまともに上がらない系の<エンブリオ>。
ただし完全な非戦闘系や生産系の<エンブリオ>とは違い、十分に戦闘に寄与する。
チャリオッツ要素? 奴は上級進化時にアドバンスになるよ……
その第一形態である現在の固有スキルの一つ目、《仲魔を呼ぶ声》は“付近に居る人物orフレンドorパーティメンバーorクランメンバーに対する念話”だ。
MMORPGで(デフォルトで)よくあるチャット機能。当然その種類は同じスキルでも使い分ける事が出来る。
付近チャットはテリトリー内の一定範囲のみだが、それ以外に対しては非常に有効距離が伸びる特性を持つ。
二つ目の固有スキルである《導く御旗》はテリトリーの範囲内のフレンドと同意した人物全員に対してパッシブで僅かなステータスバフを与えるスキル。
……ならば、そのメイデンとしての強者打破の方法は自らを当てにしない、全くの他力本願の極み。
だが、それは古今東西の勇者に英雄豪傑も用いてきた古典的な強者打破――即ち、“仲間の力を頼り強敵を討つ”事に他ならない。