試製・転生請負トラッカー日月抄~撥ね殺すのがお仕事DEATH~【一般版】   作:珍歩意地郎_四五四五

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第13話:過去との決別

 

 目標の監視を終えたオレは急いで事業所に戻った。

 トラックを返却し、速攻で寮に帰ると身支度を整える。

 

 営業マン時代のスーツを衣装ダンスの奥から引っ張り出し、クリーニング屋から戻ってきて長らくそのままだったYシャツのパックを破り、久しぶりにネクタイを締めた。

 

 出がけに自分の姿を鏡で確認。

 

 久しぶりに見る自分のスーツ姿は、どこか見慣れない男のようにも見えた。尾羽打ち枯らした雰囲気こそないものの、そこに一抹の不吉さが漂っているのは、気のせいだろうか。

 

 指定された場所は、外資系ホテルのロビーだった。

 

 なにやら今のオレには馴染みのなく縁遠い、横文字だらけの高層ホテル。

 磨き抜かれたガラス製の仰々しいスイング・ドアを通ったはいいが、久しぶりの空気に気おされる。

 

 そして今度は相手と待ち合わせるはずの『プレミアム・ラウンジ』とやらがどこだか分からない。

 オレはフロント横のコンシェルジュ・デスクに行くと、金モールもハデな制服を着た中年男に尋ねた。

 すると、なんとそれは高層階にあるスィート客たち専用の区画だという。

 

 なんのことはない。

 

 ブラック・カードなどをひけらかす常連客のための、一般客は立入禁止なプライベート・エリアだ。なんで“ヤツ”はこんな場所を指定してきたのかと内心ちょっと不思議に思う。

 

 こちらの名前を言うと、さすがは高級ホテル。

 すぐに話しは通り、スタイルのいい女性スタッフが気取った歩き方でオレを導く。

 ほどなく専用の高速エレベーターで、かすかなGを感じつつ上層階までぎゅぃ~んと案内。

 

 物憂げなチャイムとともに、エレベーターの扉がひらかれた。

 とたん、あふれでる高級な雰囲気ととりすました光景

 広々としたラウンジに充ちる重厚な造作。

 気品がただよう、金のかかった什器。

 重々しいが、何より心地いい空気。

 

 壁一面の大窓からは曇りがちな空のもと、彼方まで広がる都市の連なり。

 遠くに見えるはずの山々は――今日は見えない。

 

 

 金文字のプレートがかかるパーテーションのうちの一つに案内されたオレはアンティーク物と見える革張りのソファーにゆったりと座った。

 

 机の上にはタブレットがあり、そこには、各種サービスの画面が浮かんでいた。

 よくみれば、部屋のあちこちには盆やダイニング・ワゴンを使って飲み物などを運ぶ和服姿の女性たちがゆるやかに行き来している。

 

 あちこちのパーテーションでは、声ひくく語り合う声。

 なにかの商談だろうか。紙をめくる音と電卓をたたく気配すら。

 そうかと思えば中年男と若い女の、何やら秘密めく抑えた笑い。

 

 現役の営業マン時代でも、この手の場所は顧客の威光で二、三度ほどしか使ったことのないオレは、久しぶりの感覚に身が引き締まる。見積もりを足元の革カバンに入れ、取引先の担当者と会う時のような感覚。おそらくは、長いこと着なかったスーツに袖を通したせいもあるのだろうか。

 

 ――そうさ。

 

 なにしろ今日の相手は、オレの人生の中でも有数の宿敵だ。

 そのため、久々に気合の入った服装と小物で武装してきたのだ。

 ヘンに落ちぶれた格好を見せ、相手に(……ザマぁ)と思われたくない。

 

 ――そういや昔は、こうして四六時中も気を張って仕事をしていたなぁ……。

 

 久々に履いたチャーチのストレート・チップがキツい。

 ロンドン出張の時に作ったスーツが、すこし身体に合わなくなって。

 ベルトの穴も、きわめて無念ながらひとつゆるめたのは、ココだけの話にしてくれ。

 ずいぶん放っておいたためだろう。ジュネーブで買った機械式の腕時計は、精度が少しおかしくなっている。これもまた数万かけてオーバーホールしなければならないのか。

 顧客の前で書類を訂正するときに使ったスターリング・シルバーのボールペンは、銀がくすんで本体が黒くなってしまっている。

 

 ――まったく、生きていくには……。

 

 就中(なかんずく)見てくれを整えるには金がかかるなァ、とオレがため息をついた時だった。

 

「失礼――します」

 

 ソファーから身をねじって脇を見上げれば、あの憎い元妻側の弁護士が、いかにも営業用めいた鼻に付く笑みを浮かべ佇んでいた。

 

 何度も記憶にうかんできた顔だった。

 酒に逃げ、二日酔いでかがむ便器にもコイツがチラついた。

 元妻を同席させ、オレに不利となる法律をとうとうと論じたあの日。

 それは強力な憎しみとなって、強迫観念となる勢いで脳裏に灼き付けられのだ。

 この男を元妻ともども刺殺する夢を見て、夜半に心臓をバクつかせ目が覚めたことすらある。

 

「これは――どうも」

 

 オレは、いまや古なじみとなった敵意を注意深く押し殺し、いそいで立ち上がると一礼する。

 すこしばかり馬鹿丁寧に。まさに“慇懃無礼”(いんぎんぶれい)を地でゆくような調子で。

 

 オレは相手をさりげなく観察した。

 ややウェストを絞った、オーソドックスな無地の紺系スーツ。

 ウェッジ・ウッドのネクタイ留めに、時計はグランド・セイコー。

 マグネシウム合金を使ったリモワのブリーフ・ケースに黒いローファー。

 等、等、等。

 

 ――フン……。

 

 どこから見ても“お固い”職業の男と分かる()()のオンパレード……。

 

「ここは、すぐにお分かりになりましたか?」

  

 男性用化粧品の香りを漂わせ、相手は余裕ブッこいた笑みをして見せた。

 たぶん今の薄給なオレの職業も見通しているにちがいない。場ちがいな場所によく来れましたねと、あてコスっているのだ。

 

 思わずオレは胸を反らす。

 

「この手のホテルはひさしぶりですが、慣れてしまえばみんな同じです」

「それは良かったです」

 

 相手は何となく硬いものの、それでいて余裕のある笑みを浮かべて、

 

「ちょっと特殊なお話なので、そこいらの喫茶店というワケにはいかなかったんです――ま、どうぞお座り下さい」

 

 あぁ、キミ!と弁護士は遠くのカウンターにいた和服姿の女性を身ぶりで呼び寄せた。

 和服の上から前掛けを着た若い女性が一礼し、テーブルの横に片ひざを付くのを待ってから元妻の弁護士は、

 

「シャンパンをね――そうだな、フツーのドンペリでイイや。ボトルで。それとフライド・ポテトをたのむ」

 

 相手がうやうやしく一礼して引き下がると、

 

「ここのポテト・スティックは揚げたてで美味いんですよ」

 

 そして自分の腕時計を一瞥し、張りのある声で、

 

「15時か。ちょっと時間が早いけど、良いでしょう?」

 

 はやくもオレの胸の内で嫌悪感がうごめくのを感じた。

 

 ――なんだコイツは……。

 

 だいたいオレと同じ30~40くらいな年代だが、自分の意思を他人に押し付けることに慣れている風情がまず気に食わない。あいかわらず(じぶん)の言うことは無条件で聞かれるものだと思い込んでいやがる……。

 

「ご商売が繁盛のようで。たいへん結構ですな」

 

 かろうじて“大人の対応”をしつつ、オレもスーツの袖をずらし、自分の時計をチラ見する。

 

 ――うっ……。

 

 なんてコトだ。秒針が止まっているじゃないか。

 あわてて袖をもどし、何気ないフリをして、

 

「うらやましい限りです――あやかりたい」

「なぁに、チリもつもれば、ですよ」

 

 元妻の弁護士はイヤイヤと顔の前で手を振って、

 

「よく言われるように、時給換算にすればコンビニ店員とドッコイの給料でして」

「それでも一種の“上級国民”でいらっしゃることは変わりありませんからなぁ」

 

 一瞬、相手が鼻白むのがみえた。

 しかし場数を踏んだ弁護士らしく、感情をすぐさま呑みこんで、

 

「ご冗談を。しがない“イソ弁”ですよ」※

「あいかわらず離婚問題をメインに扱ってらっしゃる?」

「最近は込み入った訴訟も多くなってきまして。いろいろ大変です」

「敏腕でいらっしゃるから、さぞ頼りにされるコトでしょう」

 

 意図せぬ一呼吸。

 そしてオレの口は、またも勝手に動いた。

 

「……わたしも、あの時は煮え湯を飲まされたものです」

 

 ――しまった。

 

 ついうっかり。

 おまけに語勢にも殺気が乗ってしまった。

 絶対に恨み節は口にしないようにと気をつけてはいたのだが。

 しかし相手はこれに不思議なほど敏感に反応し、それまでの自信満々な態度を引っ込めてしまう。もみ手をしながら、

 

「ま、ま、過去の話じゃないですか」

 

 何を思ったか急にあわてだした元妻の弁護士は早口で、

 

「わたしも依頼人に頼まれてやったコトですからねぇ。死刑囚を弁護して無罪にしたところで、私まで憎まれてはたまりません。法治国家において、それが弁護士というもので――」

「そうですな――さて、お互いに忙しい身です」

 

 ダメだ、とオレは相手の言葉を打ち切って、方針を転換する。

 

 コイツのそばで喋りを聞いていると、いつ自分の鉄拳が飛ぶかわからない。

 顔を見るだけで、先ほどから腕がムズムズするのだ。

 用件だけ聞いて、さっさと別れたほうが良さそうに思える。

 

 ――愛用の長剣があれば一撃のもと首をハネてやるところだが……。

 

 オレは語勢を一転し、背筋をのばして営業用の威儀をつくろう。

 

「ムダな時間をすごすのはヤメにしましょう。それで、本日のご用向きは?」

「そんな……」

 

 弁護士は腰をうかし、援軍(たすけ)をもとめるような顔つきでパーテーションの壁ごしにサービス・カウンターのほうを確認する。

 だが――“揚げたて”が身上であるフライドポテトが災いしたらしい。

 

 相手はあきらめたようにため息をつくと、足元のリモワを「失礼」といってテーブルの端に載せた。マグネシウムの銀色をした、いかにも頑丈そうなそのブリーフケースを開くと、まずマチのついた目玉付きの封筒を取りだす。そして次に掴みだしたのは、袱紗(ふくさ)につつまれた四角い塊だった。

 

「お広げになってみて下さい」

「なんです?――コレは」

「さぁ、どうぞ」

 

 勿体ぶった相手のしぐさにオレはフッ、と息をつき、止まっている腕時計をみせぬよう注意しつつ袱紗の結び目を解く。

 

 中から現れたのは――俗に“レンガ”と呼ばれる包みだった。

 つまり帯封のかかった、一千万円の札束。

 

 それがパーテーションの応接用机に「ドン」と鎮座した様は、なかなか異様なものがある。銀行員か政治家でもなければ、この手のまとまった金を見ることは、なかなか無いだろう。

 

「なんです……コレ」

 

 相手の弁護士をみれば、多少よゆうを復活させたのだろう。ソファーに背を付けるといかにも芝居がかった仕草で腕をひろげ、

 

「ア ナ タ の も の で す よ ?」

 

 沈黙。

 

 それまで上品だったプレミアム・ラウンジの空気が、急にゲスなものに思えてきたのはどういう心理的作用なのか。

 オレはとりあえず時間稼ぎの合いの手に、

 

「……おっしゃる意味が、その、よくわかりませんな?」

 

 文字通りの意味です、と次に相手は目玉付き封筒のヒモをグルグルと解くや、そこからクリア・ファイルに挟んだ書類を二通取り出し、こちらの前に二つ並べて置いた。そして、胸の内ポケットから金張りのボールペンを取り出し、そのわきに置く。

 

 オレは書類に手を触れず、ざっと斜め読みした

 

 **弁護士会所属**法律事務所(以下甲という)は――

 

 ここでさらに驚いた。

 内容を要約すれば、

 

 1)過去の離婚裁判で、甲は乙(つまりオレのこと)に対し、行き過ぎた対応をした。

 2)法律上は問題なきものの、道義的にみて甲の対処は乙に過酷なものであった。

 3)甲はこれを反省し、乙に対し見舞金をわたすものである。

 4)3)項の金額は金壱阡萬円とする。

 

 その他にも保険会社の約款のごとく、ズラズラと何事か書いてある。

 

「なん……だ、こりゃ……」

 

 思わず間抜けな声が出た。

 過去に争って決着した裁判で、相手先が率先して非を認め、相手方に見舞金をわたすなんて話は今まで聞いたことが無い。

 

「つまりです!」

 

 元妻の弁護士は身を乗り出して、

 

「我々、いや私の所属する**弁護士事務所は――」

「たいへん……お待たせ致しました」

 

 いきなりの声にオレたちが横を向くと、アイスバケツに刺さるシャンパンとフライドポテトの小山を移動式のトレイにのせた和服のお姉サンが、テーブル上の“レンガ”を横目でチラチラ見ながらこわばった笑みを浮かべている。

 

 しばし流れる微妙な雰囲気。

 

 シャンパン用の華奢なグラスがコースターを敷かれた後、お姉サンのふるえる手でわれわれの前に置かれるのを見て、とうとう元妻の弁護士はイライラしながら、

 

「あー、あとはコッチでやるからイイよ……!」

 

 そう言って彼女をひきとらせ、アイスバケツからボトルを引き抜くや慣れた手つきで開栓し、オレのグラスに金色の泡を注ぐ。

 

「――ヤレヤレ、とんだところを見られましたね」

 

 弁護士はボトルをひねって口の滴を切り、こんどは自らのグラスに注ぐ。

 

「きっと我々のことをブローカーの類とおもったんでしょう」

「あるいは――ヤクザとか?」

 

 グラスを傾けていた相手は一瞬、渋面を浮かべるが、すぐにそれを払いのけてフライドポテトの小山から一本つまみ、

 

「さ、あなたも熱いうちにどうぞ」

 

 キラキラと泡をうかべるグラスと無粋な一千万のレンガを、オレは等分に見比べつつ、

 

「……この金は、どこから出たものなんです?」

「ソレはもちろんウチの事務所です」

「解せませんな。それで御社にどんなメリットが?」

「最後の項を見て頂ければわかります」

 

 最後?と箇条書きになった文章の最後を読んでみる。

  

 10)本件に付随し、乙は過去における甲の対応を許容し、是を認めるものとする。

 

「……つまり一千万やるから、過去を水に流せということか?これから延々と養育費を搾り取られると言うのに……」

「その件ですが……」

 

 弁護士はシャンパンを含みながら小狡(ずる)そうな薄笑いをうかべ、

 

「養育費の件は、ウチの事務所の方で奥様に因果をふくませ、これ以降は辞退という形でご納得頂きました」

 

「は!?」

 

「つまり、あなたは今後もうお支払いにならずとも良いというわけです」

 

 さすがにこれには絶句するしかない。

 どうやってあの女を納得させたのか、知りたいところだった。

 それとも。まさかあの女にも、レンガの一つや二つ、やったのだろうか。

 

「さぁ、どうかその書類にサインを。ハンコはお持ちでないでしょうから、拇印で」

 

 弁護士は“割り印”が押された二つの書類の横に朱肉を置いた。

 相手の目をみれば、早く書けと言わんばかりにランランとして。

 

「分からんナァ……」

 

 とうとうオレは脱力してソファーにひっくり返った。

 凝然たる沈黙が、彼我のあいだで交わされる。ややあってオレは、

 

「なぜこちらに対して、そこまでするんです?」

「法律事務所としての()()()と、お詫びのしるしです」

「なぜ今さら?」

「なぜって。『過ちては(すなわ)ち改むるに(はばか)ること(なか)れ』ですよ」

「じゃァその“過ち”に気づいたきっかけは何です?」

「イイじゃありませんかそんなことは!」

 

 とうとう弁護士は()れてきたのか、多少語気をつよめ、

 

「あなたは一千万を手にする。こちらはその書類にサインをもらう。これで万事が丸く収まるんですよ?なぜそれをご躊躇(ちゅうちょ)なさるんです」

 

 ますますウサん臭い。

 

 オレは残りの項目を見てみたが、税金の支払い等に関する項目だけだ。

 たかが一千万ポッキリで、危ない橋を渡ることもないだろう。

 なにより金の出どころがコイツの事務所だというのがムカつく。

 

 ――やめた。

 

 おれはソファーから立ち上がった。

 

「いいでしょう。そこまで言うなら、私はその書類なんぞにサインをせずとも、御社の謝罪を受け入れます。だがこれ以上は!もう私に近づかないで頂きたい。最近私の身辺を嗅ぎまわっていたのは、やはりアナタ達だったんですね!」

「そんな!……濡れ衣です!事務所(ウチ)は知りませんよ!」

「そのワケの分からん一千万も、私には縁のないものです。お引取り下さい」

「えぇっ!?」

 

 ブースを出ようとしたオレを、弁護士はあわてて引きとめにかかる。その際にシャンパン用のグラスを倒し、繊細なクリスタルグラスが粉みじんに砕けて。

 プレミアム・ラウンジに、緊張をはらんだ音が響いて和服ウェイトレスたちの注意を引いた。

 

「まって――待って下さい!サインを頂かないと、わたしが所長に怒られてしまいます!」

 

 相手も必死だった。ワケのわからないことを言いながら追いすがってくる。

 高価(たか)そうなスーツにシミをつくりながら卓上の一千万をわしづかみに手に取り、グイとオレに押し付けてきた。

 

「なんであなたが所長に怒られるんです」

「イソ弁と言ったでしょう!?じつは……」

 

 相手は唇を噛んでいたが、やおら、

 

「**弁護士会の**先生はご存知ですか?」

「……いや?」

「では**法律事務所の**先生」

 

 オレは首をふる。相手も(アレっ?)という表情。

 

「とっ、とにかく!我々の業界でも力のある()()()()から、本件についてウチの所長がヒドく譴責されたらしくて。私もエラい怒られたんですよ!ですから――どうか!サインだけでもしていただかないと……」

 

 ――あ。

 

 その時ふいに思い当たることがあった。

 

 ――もしかして……いや、そうとしか思えない!

 

 ハッ、とオレの顔つきが明るくなったことから希望を見出したか、戦慄(わなな)く笑みを浮かべて弁護士は、

 

「ホラ、ね?心当たりがあるじゃありませんか。ですからひとつ!」

 

 ココでオレの頭はかつてないほど素早く回った。

 一千万を受け取ったことで発生が予想される出来事。

 なによりその功罪と起因する成り行きを、ミリ秒で演算。

 それが終わると、目の前で必死な顔をするこの男にフッと嗤って、

 

「……私はね?自分のモノでない金は、受け取らない主義なんですよ。貴方の所長さんにもよくお伝えください。もう二度と()()に近づくな、ってね」

 

 レンガを押し付ける相手の手を振り払ってブースを出るオレに、弁護士はテーブルを回る際、残ったもう一脚のグラスを倒しつつ必死で追いすがってきた。

 

 と――相手は足をもつれさせ、ハデに転倒する。

 手に持ったレンガが吹っ飛び、オレの足もとに転がってきた。

 

 一瞬!

 

 あの女に裏切られてからの辛さが。(ミジ)めさが、やるせなさが。

 身体をゆさぶるほどの恐ろしい勢いでフラッシュ・バックする。

 この世における自分の“存在意義”(レーゾン・デートル)が根底からくつがえされた大事件。

 一歩間違えば果てしない深淵が待っていた、あの刃渡りのような日々!

 

 ――くそッ!

 

 オレは固い靴底のつま先で、そのレンガを思いっきりケリとばした。

 サッカーボールのようにラウンジを転がっていくかと思われたその包みは、意外にも帯封が破れ、いくつもの“コンニャク”(百万円の束)となってラウンジに散らばっていった。チラッと目の端に見た限りでは余所(よそ)のブースに飛び込んでしまった一束さえもあった。

 

「あぁァァァァ……ッッ!」

 

 さすがにこの騒ぎは静かなラウンジに響きわたり、辺りのパーテーションからはいくつもの顔が何事かとのぞいている。オレは目を丸くした和服の女性たちの視線に見送られつつ「ワレ関セズ」のフリをして広間をよぎると、ちょうどやってきた高速エレベータに乗った。

 

 フロント階のボタンを押し、扉が閉まる寸前に見えたのは、全身をブルブルと震わせながら涙目となって腰をかがめ、札束をさがす弁護士の姿だった……。 

 

 




※イソ弁:居候弁護士のこと。

注:“レンガ”を思い切り蹴って100万円の札束にバラせるかは不明ですが、
  演出と思って下さい。

  お金を蹴るという事は大変に品の無い行為です。
  しかしそれだけ主人公が苦しんできたのだと察して頂ければ、嬉しく。


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