試製・転生請負トラッカー日月抄~撥ね殺すのがお仕事DEATH~【一般版】 作:珍歩意地郎_四五四五
だが――この予想は大きくハズれた。
指定時間にじゅうぶんな余裕をみて、春物のスーツに袖をとおし寮を出たオレは、メールに添付されていたMAPに従いターミナル駅近くの目標地点に徒歩で向かったものの、その分かりづらい道行きにとまどう。
コネクターを付けていれば話は早かったのだろうが、メールには【コネクターの携行なきこと】と注意書きがあったのだ。
――クソが。
一通が目立つ横道を徒歩でいくつも曲がり、あるいは何度も引き返した。
分かりにくい番地。
バラバラな住居表示。
本来、頼りとすべきその中には、
――明らかに間違ってるだろ!これ……。
どこか恣意的な感じがする案内板まで。
地元の通行人に場所を聞きたいとおもったが、そもそもターミナル駅近くの場所にしては、この区画だけ人通りが極端に少ない。
なにがしかの店か、最低コンビニでもあれば、中に入って店員に聞けるのだが、このエリアにはそういったものは皆無だった。
まさに都会のエアポケット。
“白昼の死角”などと言う懐かしい言葉すら出てくる。
巧妙に仕組まれた空白地帯という陰謀論じみたものまで浮かび、まるで悪い夢でもみているような……。
そんな四苦八苦のすえようやくたどり着いてみれば、目標の建物は文字通り“会館”という印象のシロモノだった。
建物の全体は「The・昭和」といった感じな、デザインのふるい中規模のビル。正面にかかる青銅の名称看板にも、その印象を裏付けるように重苦しい書体で[六道ビル
――ふぇぇぇ……。
などと古びたビルを見上げて感心していてもしょうがない。
手数をかけられたアール・デコ調のみじかい階段をあがり、真鍮の手すりがついた木とガラス製のスイングドアを開ければ、そこはまるでチェス・ボードを思わせる、黒と白の市松模様なロビーだった。
各タイルには細く金のふちどりがされており、これも今どき見なくなった造形。
白く高い天井は漆喰職人が腕の冴えをみせた意匠となっており、そこに何か鳥を模した像が大きな空間から下がっている。
ヒンヤリとした空気に充たされる、ひとけの絶えたその広いロビーを見回していると、端にあった詰め所ボックスの戸がひらき、見慣れない制服姿の警備員が高い天井に足音を反響させながらやってきた。
そして近づくにつれ、ヤケに装備が厳重なことが目を引く。
ナックル付き手袋。
防刃ベスト。
特殊警棒。
無線機。
それに手錠や、テーザー銃らしきものまで。
「いらっしゃいませ。御用件は」
近くまで来ると、この大柄な男はいかにもメンドくさそうにそれだけ言ってオレを見下ろす。
デカい。優に190cmぐらいあるんじゃないだろうか。
その時だった。
――デカさなんて、たいしたアドバンテージじゃないぜ?
なに?なんだって。
――なにしろ図体がデカいだけのヤツは、
ティラユール……?なんだそれ。
ナニを考えているんだオレは。
だが頭の中では、このウスらデカいだけの兄チャンをどう料理しようか、勝手に考え始めている。
――キン○マと肛門に電極を通してヒーヒー言わせるのも味があるぜ。
――いやいや……まてよぉ?
――ハーネスで全身を大の字に拘束してから目玉をくりぬいてやる。
――そのあとにフッ酸を、一滴ずつ垂らしてやるもの面白いかもしれねぇなァ……。
脳裏でヘンな妄想が次々と浮かんできた。
バラックに集められた兵士たちの怯えた目。
報復を叫ぶ部下たちの残忍な眼差し、威嚇射撃。
裏切り者へ送る、恐怖と言いう名の報酬と死の褒賞。
バオバブやアリ塚の根元に転がった、
オレはブルっと頭をふってそれらを祓い落とす。
そして相変わらず無表情で見おろしてくる相手に向かい、
「えぇと、その。今日――ここの会議室を予約した者なんだが……」
「ではアクセス・コードを」
「あぁ、そうか。ちょっと待ってくれ……いま携帯を出す」
チッ、と舌打ちの気配。
「はやくしてくれ」
ヤケに横柄な感じがする警備員だ。
オレはイラッとする胸を押し殺して携帯の画面を差し出しだした。
すると警備員は、腰のホルスターから抜き出した読み取り用のデバイスをかざす。
電子音が、広いロビーに冷たく響きわたった。
これに反応したのか、彼方にある両開きなドアがひとりでに開く。
ゴツい装備の警備員は無表情を保ったまま愛想一つ言うでもなく、きびすを返すとロビーの端に行き、両手を後ろにして宙をにらみ待機の姿勢。
まるでコチラが変な動きをしたら、すぐに対応できるよう、身構えるかのように。
――なんだアイツは。
ケッ、とオレは腹の中で毒づく。
――まるで旧共産圏の威張りくさったおまわりみたいな印象だぜ……。
多少憤慨しつつ、自動で開いたドアを通ると、
「いらっしゃいませ」
今度はいきなり声をかけられビクリとした。
見れば入り口わきにはカウンターがあり、
「ご予約の部屋は621会議室となります」
――ちぇっ……。
クソ警備員のことを考えていたためか。
あるいはこのところ自分が“ブッたるんで”いるのか。
こんなに近くに人が居るのに、まったく気が付かなかった。
上品な笑みが、こちらを凝っと見返している。あの警備員とはエラい違いだ。
だが――ふと。
そこに何となく、技術棟で見かけた女性オペレーターたちを連想したのは、どういうワケか。
顔立ちふぁけでなくいかにも有能そうな雰囲気が、そんな印象を呼んだのかもしれない。
給与も相当いいんだろう。服にも、ヘアスタイルにも、金がかかっている気配。
そんなお姉ちゃんに会釈して、オレは北向きの寒々としたエレベーターホールに向かうと、年代物のボタンを押した。
しかし二台あるエレベーターのうち、片方はどういうワケか最上階に停止したまま、中々やってこない。もう片方は、あいにく[メンテナンス中]の札がかかっている。
――そうだ……。
エレベーターを待っているあいだにふと気づき、近くにあった自販機でペットボトルの冷たいお茶を買った。
なにかを説明するハメになったとき、のどを潤すものが必要かもしれないとの配慮だ。
営業マンだったとき、なんの説明もなく大会議室に呼ばれ、2時間ぶっ続けで壇上に立ってプレゼンをやらされたときの教訓である。
あのときはノドがカラカラになったが、居ならぶ社内外のお偉いさんたちを前にして「チョッと水を……」などと言いだせる雰囲気ではなかったイヤな記憶。
あとでそれは、意地の悪い調達部長一派の差し金だと知ったが……。
ようやくやってきたエレベーターに乗り込むと、これまたタバコの臭いが凄まじい。
まさに昭和の雰囲気が高まるなか、モーターのうなりと共に6階へと向かう。
すり切れる寸前のような古いカーペットが奥まで延びる森閑とした廊下。
そこを歩きながら、扉の番号を右左と確認しつつしばらくすすむ。
ようやく見つけた[621]とプラスチックの札が貼られた扉。
時計を見れば、指定時刻の10分前。ギリギリだった。
若干緊張しながら扉をノックして――扉を開ける。
すると。
窓のない小会議室めいた部屋の中には、なんと。
先日の“ハゲⅠ”が堅苦しい面持ちで座っているじゃないか。
見知った顔がいたので緊張はグッと減る。どうやらプレゼンの線は消えたようだった。
相手はこちらを見ると、これもまた古めかしい灰色の事務イスから立ち上がって折り目ただしく一礼し、
「先日は――どうも」
「いえいえ、こちらこそ。お見苦しいところをお目にかけまして……」
互いに社交辞令を交わしつつ、オレは相手を落ち着いた眼であらためて窺う。
肘あてのついた英国製とみえる古びたジャケットの下に、アイロンのあたっていないYシャツ。それにストリング・タイ。ズボンのすそも少しばかりほつれている。一見して公園でハトにエサをやりながら背中を温めているか、ひねもす環状電車に揺られヒマつぶしをしている老人を想わせる印象だ。
「お顔のほうは、もう大丈夫ですか?」
あの
いまでも思いだすと屈辱に胸がうずく。
「おかげさまで。どうにかハレも収まりましたよ」
「老いたりとはいえ、あいつは元ボクサーですからなぁ?とんだご災難で」
ここだ、とオレは間合いをつめ、
「ホントにインターハイの選手だったんですか?当時を知る人間に聞いても「“結城”なんて知らない」と言われて」
「あぁ、それは……」
この“禿げⅠ”――たしか『権三』とか呼ばれていた――は事もなげに、
「アイツは、成人したあと“入り
――そうか!
なるほど、合点する。
迂闊だった。その可能性を忘れていたとは。
しかし考えてみれば、すぐ検討要素に浮かびそうなものを。
オレもヤキが回ったもんだぜと、また心ひそかにガッカリする。
「で、あのクs……ご老人は、たいそうな事を言っていましたが、そんなに力があるんですかね?」
「そうですねぇ。ヤセても枯れても、大手都銀の取締やk――」
「依頼者の情報に関するやりとりは、社内規定に抵触いたします」
またもや、いきなり声をかけられオレはビクリと身体をふるわせた。
ふり向けば、会議室の片すみには、入り口で見た受付嬢を思わせる整った顔立ちの女性が
――くっそ。
一度ならず二度までも。
これは本当にヤキがまわったのか。
人の気配に気づかないなんてどうかしてる。
こんなカンのニブった状態で
女性はニコやかなまま席から立ち上がると優雅に一礼し、
「本日の面会立合いを務めさせていただきます、第三会館付き「23番」書記でございます」
なるほど。立体裁断されたスーツの胸には、その通り[#23]の名札がついている。
「……立ち合い?書記だって?」
「協会にとっての情報漏洩がないようにするための――分かりやすく申せば“見張り役”ですわ?」
彼女は洗練された“都会の女”的な物腰で、まるでアナウンサーのように説明した。
落ち着いた声質と見栄えの良い姿。
受付どころか“夜の接待”も受け持つ社長秘書のような風格だ。
年齢は――詩愛よりすこし若いくらいだろうか。
ただし、美人としてのベクトルは真逆だ。
彼女が柔和で家庭的な温かさを持つ“佳人”だとしたら、この「23番」書記は整った都会的な硬質さをもつ“麗人”だろう。
見ている分には申し分のない女だが、そばに据えるといささかも気が抜けない――そんなタイプ。
冷たい美しさを放射する「23番」書記は我々ふたりを等分に見すえて、
「なお――依頼者と執行者がアドレス情報等を交換するのも禁じられておりますので、そのおつもりで」
ニッコリそう言ったあと、まるで何ごとも無かったかのように着席する。
「執行者、ってのは――オレのことかい?」
「そして依頼者というのは――ワタシかな?」
ご理解頂けて嬉しいですわ、と彼女は軽やかにうなずくと、
「ではどうぞ――お始めになって下さいまし」
――なんか感じ狂うなァ……。
オレは権三氏を席に促し、自分もテーブルの向かいに座った。
「いやはや。このたびは……」
老人は、ポケットから取り出したハンカチで禿げ頭をひとなでしてから気息を整えて、
「私どものために大変なお骨折りを頂きまして、まことに有り難う存じます」
そういってハゲ頭を深々とさげた。
てっぺん部に長い毛が一本、まるで波平のように伸びているのが可笑しい。
本人は、これに気づいているのだろうか。あるいは大事に育てていたりして。
「そんな……どうか、お顔をお上げください。それが我々の“業務”ですから」
「先日のお話ですと、情報を得るために大変な身銭をお切りになったとか」
小男が用意した300万の領収書。
この爺さんには相当なインパクトだったらしい。
そのじつ、こちらが実際に店に支払った金額は100万前後。
まぁ、あの
「まぁ、敵のふところに入りませんと……思うような成果が得られませんのでね」
「よくあんなコトをおやりなさるので?」
まさか、とハナをうごめかしていたオレは、さすがに苦笑した。
「毎回毎回カネにモノ言わせてたら、あっと言う間に破産です」
そうでしょうとも、と老人は微笑するとチラリ、書記のほうを
「そこでなんですが……」
老人は、くたびれたジャケットの内ポケットをさぐると封筒を抜き出し、テーブルの上に置くやオレの方へゆっくりと押しだした。
「本日は。たいへん失礼ながら、幾分なりともその時の埋め合わせをさせて頂きたく……」
なかに何が入っているかは一目瞭然だった。
ハトロン紙の筋入りなうすい茶封筒から絵柄も透けて見える。
厚みもちょうどキリがいい。つまり――
あのクソ弁護士、いったいどうなったことやら。
と、ここでいきなり書記役の女性から横やりが入った。
「
彼女はニコやかな笑顔のまま、表面上は、あくまで柔らかな物言いをつかい、
「業務の遂行に支障が出る場合がございますので」
「これは対価などではないよ……んぅ?」
“禿げⅠ”こと権三氏は、意外にもここで温厚そうな顔を曇らせ、
「この方は今回の依頼に際し、非常手段をつかって仕事を完遂させたのだ。わかるかね?」
まるで孫娘を説得するような口調で、この老人は言いつのる。
「実に300万もの(そう、300万だよ?)身銭を切って、情報を得てくれたのだ」
「……社内規則によりまして、対価は受け取ることは出来ません」
あくまでも済まなそうな、なおかつ軽やかな笑み。
不思議なことに、その声は抑圧感や強制の気配がない。
黙って聞いていれば、つい従いそうになってしまいそうな……。
しかし権三老人も食い下がった。
「では、ここの協会は……その分の損失を、ここにいる彼に補填したのかね?してないだろう、えぇ?だから私は――」
「……社内規則によりまして、対価は受け取ることは出来ません」
書記は、相変わらず爽やかな笑みを浮かべたまま。
それはまるで無理難題を吹っ掛ける顧客を相手にした、コールセンターのオペレーターめいた印象。
「よし、わかった!」
禿げ頭がいくぶん赤くなり、そこに血管が浮いた。
「ならば対価ではなく“損失の賠償”ということにすれば?どうだ!」
「それは――どういうコトでございましょうか?」
「この方が出した損失を当方が一時的に立替え、しかるのちに御社に当方が請求することとする!」
「申し訳ございませんが、それは対応いたしかねます」
赫ッ!と老人の顔が、さらに朱色に染まった。
ワナワナとからだが震え、
「約款の特例事項にあったな!えぇ!?」
とうとう権三ジィさんは立ち上がると怒鳴り声をあげた。
「“業務の遂行に関し、顧客が不都合を感じた場合は、ただちにこれを修正すべく協議に応じるものとする!”」
もはや年長者の威厳をかなぐりすて、唇のはしに泡をかみ、孫娘ほどの若い書記役をハッタと
「この権利を――当方は行使するッ!!」
笑みを浮かべたまま、書記が黙り込んだ。
そこに困惑したような色合いや、ましてや
しかし、あくまでも“知的で洗練された女”を装うの仮面の下では、状況のさまざまな可能性を演算しているような……。
ややあってから、この歳若い書記役は、
「……本件の“執行者”は、自腹を切った証拠たる“領収書のたぐい”などはありますか?」
「あるとも!なぁキミ!」
一転、喜色にあふれて振りかえる老人に、オレは黙って頷いてみせた。
それを見た#23番書記は相変わらず社交的な笑みをくずすことなく、
「本件に関しましては、上級職の管理案件といたします。執行者は本件に関する書類を上申書と共に中央事業所・管理部に提出してください」
「つまり……この方に進呈して良いんですな?」
「あくまで“補填”ということであれば、当組織としては関知いたしません」
相変わらずの人当たりの良さそうな笑顔が答える。
なにやら呻きながらクタクタっと権三老人はイスに座り込んだ。
興奮の余韻か、からだがブルブルとふるえ、視線がうつろに。
あまりに調子が悪そうなので、さすがにオレは心配になる。
「だいじょうぶですか――お身体の加減でも?」
「いやァ……なァに。血圧がチト高いもんでね。糖尿の気もあるし、あちこち体にガタがきてる。歳はとりたくないねぇキミ……」
やがて権三老人は、ハァハァと苦しそうに喘ぎ出した。
顔色がわるくなり、額には汗がうかびはじめる。
――ヤバい……!
オレは急いで席を立ってテーブルを回りこむと、念のために買っておいたお茶を、キャップをひねって差し出した。
震える手で、老人はペットボトルを受け取ると目をつぶり、まるで赤ん坊が乳をもとめるように貪り飲む。
くちびるの端から冷たいお茶があふれ、Yシャツの胸もとをボタボタと濡らすのもおかまいなしに。
不思議なことに書記役は、そんな光景を相変わらずニコニコと眺めて……。
やがて。
ようやく落ち着いたのか、老人は長く、大きなため息をひとつ吐き出した。
グッタリと肩をおとし、まるで更にいっそう老け込んだような風貌。
「あぁ……助かった。ようやく人心地がつきましたぞ」
しわの奥の眼に、わずかながら力がこもる。
老人を抱きかかえるようにしていたオレの腕を、意外に力強い握力がつかみ、
「これでマイk……
「2度?」
「そう。2度ですよ」
老若ふたりはそろそろと身体をはなし、ホッと息をする。
オレがもとの席にもどると、老人は2人の間でテーブルの上に置きっぱとなっているコンニャク入りの茶封筒を見下ろしたまま、ポツリ。
「1度目は、あのニクい強姦魔を殺さずに“生き地獄”へと堕としてくれたことです」
「と――おっしゃいますと?」
ふぅぅぅっ、とながい息が老人の口から洩れた。
やがて、こんな話をしても詮無いコトですが、と前フリをおき、
「……ごぞんじのとおり、私の娘は強姦されたことを苦にして、自ら命を絶ちました」
「このまえ、そのような話をうかがいました……無念でしたな」
「大変お恥ずかしい話なんですがあの娘は、その。歳いってから出来た子でしてねぇ。夫婦で治療やら処置やらイロイロ試したんですが、なかなか子宝には恵まれなくて……もうダメだと諦めておりましたそんな折り、ひょいッと
老人は顔を封筒からそらし、会議室の天井を、まるで本当に空が見えるかのように目を細め、穏やかな表情で話し続ける。
「嬉しかったなァ……あんときァ。いままでまったく潤いの無ェかった中年夫婦2人の生活がですよ?突然パッ!と。まぁンズ、
いきなりどこかの方言が飛び出した。
自身もそれに気づいたのか、ちょっと照れ臭そうにして、
「そっからは、もぉう大変でしたョ。娘を中心に世界が回りだしてね?でも
老人は、当時のエピソードをいくつか。いかにも楽しげに語った。
「小学生になり、いろいろ行動範囲がふえると、たのしさも倍加します。各地へ家族で旅行にも行きました。やがて勉強が大変になる中学生になると、そろそろ親ばなれの季節です。つぎに来るのが、すこし反抗期がきた高校生。そして大学……じつは、その時に家内をガンで亡くしましてな」
ふと、それまでウットリとしていた相手の顔が曇った。
当時の苦しさ、辛さを思い出すのか、眉根に力がはいり血色の悪いくちびるは引き結ばれる。
「……これには
ムリをかさね、気丈に耐えてきた老人の眼。
そこから、ついに熱いものが吹きこぼれはじめた。
年月を
暗澹たる思いに胸を塞がれたオレは、投げかけるべき言葉が見当たらない。
こんなときには、どんな文句をひねりだしてもダメだ。ただ空気を
老人のハラハラと落涙するすがたを黙って痛ましげに見守りつつ、相手の言葉をまつしかない。
「そッ……そッからは地獄でしたよ……あれほど明るかった子が、すっかり自分の殻に閉じこもっちまいましてねぇ……」
ふいに相手は会議室の床をダン!と踏み鳴らし、
「いや、やめましょう――やめましょう昔のハナシは!……もう、たくさんだ!!」
悔し涙と鼻水をたらし、充血した目で老人は頭を振ると、
「病院で!あの子の遺体を確認したときのことは、もう思い出したくもありません!すっかり冷たくなって……固くなっちまって……そして下手人が!「生い立ちの不遇」と「少年であること」ならびに「精神疾患」おまけに「判断能力の喪失」とやらを弁護士にでっち上げてもらい“保護観察処分”とやらになったとき!ワタシは神仏を呪いました!正義を呪いました!この世のすべてを呪いました!あの子の結婚資金にと貯めておいたカネはもちろん、老後の資金までつぎ込んで!ワタシは――ワタシは人の路を外れることを宣言し!すべてを投げうつことを心に誓い、血の復讐を決意したのです!!」
そんな相手に、おそるおそるオレは、
「いったい……
「それは個々の事案に――」
「執行の代金に関する情報のやりとりは禁じられております」
またもや、さわやかな落ち着いた声が割って入った。
ふり向けば、相変わらずニコやかな
もはやオレは、この[#23]と胸にプレートを付けたクソ女に、神経を逆なでされるような怒りしか覚えない。
いや、クソ女どころじゃない。たんに見てくれが良いだけの、周到に組織人として教育をうけた小役人臭のする
「……だそうで。まぁ、お察しください」
老人も、女の方を
「家内の治療に保険適用外の医療技術を使ったのが、蓄えを食いつぶしましてね……住み慣れた家を二束三文で売り払い、どうにか治療費に充てたんですが。その上、
老人は、茶封筒をさらに押してよこし、
「さ――どうぞお納めください」
「……そんな」
それを見たオレは、封筒の背景が持つ重さにたじろぎつつ、ささやくように呟くのがやっとだった。
「……こんなの頂けませんよ」
ワタシはね、とようやく落ち着いたらしい老人はこちらの言葉など聞こえないように、
「あんたサンが憎むべきあの餓鬼を殺さずに、再起不能にして下さった時!じつはホッとしたんですよ……憎んでも飽き足らないヤツですが、生き地獄を味わせるほうがナンボかイイ。今こうしている間にも、あの餓鬼は苦しんでいると思えば、衰えた心は幾分なりとも慰められます。それに娘への報復として殺した場合“娘の罪”は――どういうことになるのでしょう?」
「ご令嬢の罪ですって?それはいったい」
「なにより自殺をした罪。そして
「すると……」
「そうです。つまりこれが!ワタシが助けられた1回目ですよ。ワタシだけじゃない。おそらくあの子も、
最後の方は、またも声がうるんだ。
おさえた嗚咽が断続的につづき、やがてそれも収まってゆく。
やや久しく沈黙があった。
老人はハンカチで目をぬぐい、ため息をつく。
やがて次に、いくぶん口ぶりを硬いものに変えて、
「ただし――いまだ激しい憎しみに魂を囚われている
「あの人って、オレにパンチをくれた、あのジジィですね」
「そう」
老人は大きくうなずき、オレをじっと見つめた。
「あのヒトの腕は長く――爪もまた鋭い……」
シミの浮いた、油紙のような光沢を持つ老人特有の手が、とうとう茶封筒をつかんだ。
「このカネは――ワタシの最後の罪滅ぼしです。どうか受け取ってください……どうか」
相手は焦れったそうに立ち上がると、その手でもって驚くほどの強さでこちらの手首をつかみ、茶封筒を強引に押し付ける。
ムリヤリ封筒を握らされたオレだったが、聞かされた話の印象からか。一瞬、まるで
しかしここまできては――もはや
受け取らないことは、かえって失礼になるどころか、人倫にも
とうとう覚悟をきめたオレは、
「分かりました……ありがたく頂戴いたします」
両手で捧げ持ち、押しいただくようにしてオレは懐に収めた。
老人の顔が、どこかホッとしたような、あるいはガランとしたような。
まるで自分のすべての仕事が終わったような、サッパリとした安らかな表情に変わった。
「あぁ――これでワタシも、もう思い遺すことはありません」
その声を聴きながら、オレは相手の持ってきた金が、実際に
小男が親切心で水増しした300万となどという金額を実際に持ってこられたら、本当に辞退せざるを得なかったかもしれない。「では100万だけ頂戴して……」などという論法が相手に通じたかどうか、アヤしいものだった。
「お話は終わりましたでしょうか」
書記役のクソ女が、相変わらずのニコニコ顔で声をかけてきた。
「そうさ、ア ン タ の お か げ で な ! 」
オレは声の調子に最大限のイヤミを込めてやったつもりだが、どうやら不発に終わったようだ。
あれだけの話を聞きながら、眉ひとつ動かすでもなくこの女は、
「では、執行者と依頼者による打ち合わせ後の接触を避けるため、こんどは“執行者”より退出して頂きます」
――しまった。
思わずくちびるを噛んだ。
この奇妙な会談が終わったら、権三氏と一緒に近くの喫茶店にでも入って“あの爺ィ”に関する情報をヒアリングしたかったのだが。
――なにか書くものを……そうだ!スーパーのレシートに。
だが、ゴソゴソと札入れを取りだしている間にノックの音がして会議室のドアが開いた。
入ってきたのは、なんとロビーにいた警備員だ。
まったく感情のこもらない声でコイツは、
「面談が終わったと連絡を受けました」
ここで面白いことがおこった。
あれほど如才ない笑顔を絶やさなかった書記役がふいに無表情となり、
「執行者より退出。所定の車両を使用し、当該が所属する事業所まで送致のこと」
「――了解」
それだけ言うと、この警備員は会議室の入り口に立ってこちらを待ち受けるようにドアを大きく開く。
「あんたサン。どうか――どうか、お身体にだけは気を付けて……!」
権三老人が、オレの手を握りしめた。
小さく、あたたかく。そして奇妙に柔らかい手。
そのむかし。
ガンで死んだ祖父が、病院で最後の別れまぎわにこんな手をしてたなと、ボンヤリ思いかえす。
「つぎの面談の予約が入っています。申し訳ありませんが、お早くご退出を」
また営業用の気配にもどった見張り役の女が、ニコニコしながらうながしてきた。
仕方なくオレは警備員にうながされ、権三老人の表情に後ろ髪をひかれる思いのまま、[621]会議室を後にする……。
長くなってしまいました。
スミマセン。