試製・転生請負トラッカー日月抄~撥ね殺すのがお仕事DEATH~【一般版】   作:珍歩意地郎_四五四五

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第38話:理(ことわり)たちの綱引き

 外は、梅雨の合間の快晴だった。

 

 サングラスの裏にコネクターを隠したオレは、ポロシャツにチノのハーフ・パンツといった格好で住宅街を駅に向かってブラブラ歩いている。

 

 ――暑い。

 

 先日までのジトジトとは、うって変わった天気だ。

 これで雨季も終わり、なんて天気予報もチラホラと聞こえてくる。 

 異常気象。熱中症。水辺の事故。今年もそんな季節がやってきたワケだ。

 

 公園の噴水では半裸の子供たちが水しぶきを浴びて歓声をあげ、公園の日陰では、乳母車や幼児をともなった若い母親が、何やら話し込み、ときおり開けっ広げな笑い声を立てていた。

 こう天気が良くては、いつものベンチでスポーツ新聞を広げワンカップを手にする無職のオッチャンたちもさすがにいたたまれず、どこか涼しいところに避難していることだろう。

 

 ――ノドが渇いた……。

 

 女どもが家にいる間『大人の手本』としてビールも遠慮がちになるので、最近は酒量がグッと減って地味にツラい……まぁ肝臓にはイイのだろうが。

 「家族がいない男は早死にする」なんてコトは、こんなトコロから来ているのかもしれない。

 

 一週間の予定だったAIのメンテは、いまだ技術部から完了報告がなかった。

 朱美や、巻き狩りの面々。それにマッドマッ〇ス3人組のトラックは既にメンテがおわったらしく、元気いっぱい目標を轢き殺しているらしい。

 

 もうあれから2週目の後半になる。

 

 この分では、今月の“轢殺予算達成率”でビリ決定だろう。

 そんな状況でも、いつもの朝会でしぼられたりするんだろうか。

 まさか、なぁ。いくらなんでも状況的に不利なのは、明らかだし……。

 

 ――いや、あの加論(カロン)のヤツならやりかねんな。

 

 お得意の閻魔帳をひけらかし、ヒトのささいなミスを重箱ほじくるようにネチネチと。

 その時の、あの満足そうな“ネズミ面”を思うと、今からコロしたくなるほどのムカつきに胸をかきまわされるのだが。

 

 ま、ともかく。

 

 いまは、ノドが渇いた。

 女どもが会社や学校に行っているあいだ、良識の仮面をかぶるのにいささか疲れた“駄目オトナ”は、午前中のビールと洒落こんでみたい。

 

 ――どこか昼間から空いているビアホールにでも行ってノドを湿らすか……。

 

 最近は彼女たちに、やれハーゲンダッチだ、あんみつだと見栄をはって奢ってばかりで、財政がチト怪しくなってきている。だけど、たまには自分のための贅沢もイイじゃないか……。

 

 駅に至る道のかなたにゆらめく陽炎。

 それを夢遊病者の足取りでをボンヤリ眺めながらそう考えたときだ。

 

 天の配剤だろうか。

 

 コネクターに『ジーミの店』の扉が開いている映像が。

 すこしばかり元気を取りもどしたオレは、汗をふきふき駅に向かうと、やってきた電車の冷房に、ホッとひといきついた。

 白いポロシャツが、たちどころに乾いてゆく……。

 そのままターミナル駅で電車を乗り継ぎ、例の潰れかけたような商店街へとやってきた。

 暑い中をガマンして通りの外れまであるき、あの気さくな黒人が営る店にようやくたどり着く。

 

 酒場の扉は閉じられ[CLOSE]の札が架かっているが、中にヤツが居るのは分かっていた。

 

 カギのかかっている真鍮製のノブをガチャつかせ、

 

「ジーミ!ジーブリール(ガブリエル)!――オレだ!マイケル(ミカエル)だ!」

 

 扉のすきまからそう言いつつ、向かいの『BAR1918』を素早く窺う。

 今日はブラインドが閉まっており、例の褐色女のすがたを見ることは出来ない。

 その向こうに、人影も、気配も感じることはなかった。

 

 扉のカギが回される金属音がして、セネガル人の迷惑そうな顔がニュッとのぞく。

 しかし、こちらの顔を見たとたん表情を変え、真っ白な歯をニッをむき出し、

 

オーララ(オヤオヤ)ボジュー(おぃすー)カメラート(戦友)サヴァ(元気)?」

 

※ここから先はブロークンなフランス語で交わされたのだが、先日の失敗を教訓に日本語に翻訳して表記(皆さんから不評だったらしいww)。

 

「よぉ!入って良いかィ?ノドぉカラっカラなんだ」

Bien sûr(もちろん)!入ってくれ、カメラ―ト」

 

 半袖のYシャツ着た大柄な体躯が、体臭と共にわきにどいた。

 オレはその横を通り、冷房の効いた店内に足を踏み入れる。

 先日より、すこし整頓されている印象。

 もっとも、ガキ共が暴れて破かれたビールの広告や、割れて素になったショーケース。壊された二、三のテーブルは、そのままだったが。

 

「ナンにスル?“(ナマ)”は出来ナイヨ。契約――切られたネ」

「切られたァ?だれに!」

「……ワカラナイ」

 

 頑丈そうなブ厚い肩がすくめられ、

 

「業者サン、もうサーバーの補給とメンテノォンス、ヤメるっテ」

 

 ふぅぬ、とオレは面白くない顔になりながら背の高いイスに登ってカウンターにヒジをつくと、とりあえず生――じゃない、国産の瓶ビールを注文。ジーミは冷蔵庫から瓶ビールの大ビンを抜き出し、慣れた手つきで王冠を撥ねると、大ぶりの冷えたグラスに注いだ。

 サハラ砂漠のように乾ききっていたオレのノドは、相手がグラスをカウンターに置くのももどかしくソレを奪い取り、一息に干した。

 

 手酌で二杯目を注ぎ、続いてアッというまにカラになる。

 

「お代わりだ!伍長(カポラァル)!!」

 

 なぜそんな言葉が飛び出したか、分からない。

 しかしジーミのほうも、

 

ウィ(はっ)モン・キャピテン(中尉どの)!!」

 

 と、反射的に反応したあと不思議そうな顔をする。

 だが、そんな些細なことにこだわってなど居られなかった。

 オレの喉の渇きは俗にいう“喫緊の課題”だったから、容赦なくジーミを急がせる。

 つごう大ビンを三本平らげてようやく落ち着くと、オレはハイネケンの小瓶にスイッチした。

 ジーミのほうも苦笑いしながら、

 

「ヨッポド喉カワいてたネ」

「あァ……いろいろあってなァ……」

 

 そう。

 いまのオレをとりまく環境は、あまりよろしくない。

 

 詩愛と『美月』の姉妹ゲンカ。

 暑苦しい収納庫で寝る睡眠不足。

 いつでも好きな時に飲めない朝酒。

 メンテから戻って来やしねぇ【SAI】

 見つからないドレッドと“おさる”のジョージ。

 どう考えてもキビしい今月のノルマ。朝会でのツルし上げ。

 

 それからしばらくの間。

 

 オレと、この大柄な黒人の間で些細な小話のやりとりが続く。

 セネガルの国内事情。日本のイミグレに関するうわさ話。お互いの国をとりまく政治……。

 やはり、どこもかしこも世知辛いらしい。国や環境は異なれど、状況は似たり寄ったりだ。

 

 話すネタがあらかた尽き、ふいに二人の間を空白が通った。

 ふぅッ、と大きく一つ息をつき、オレは空になった緑色のビンを弄びながら店内を見回し、そしてどことなく呆然とした表情でロールカーテンを下ろした窓の方を見るジーミに向かって、

 

「そういや、ドしたィ。この店ァ――まだ開けねェのか」

「店?……あぁ」

 

 疲れたような感情が一瞬この黒人の面をよぎり、

 

「コワれたトコロ。直すおカネなくて、タイヘンね」

「だいぶ入用なのか?」

「イリヨウ?」

ラルジャン・ド・リペア(修繕用のカネ)ボクゥー(たくさん)?」

「ウィ、ウィ。トレ(とても)、ボクゥー」

「お互い、問題だらけだなぁ」

セ・ら・ヴぃ(ソレが人生)……セ・ら・ヴぃ」

 

 ふふん、とオレは指の間でハイネケンのネックをふらふらさせながら、

 

「その後、ドウだァ――ヤツらは、姿見せねぇか?」

「……ヤツら?」

 

 ジーミは眉根を寄せる。

 

「オイオイ、忘れたのかァ?ほら、携帯の画像で見せた二人組だよ!」

「あぁ、アノ人タチ……見ないネ」

「向かいの店に女が居るだろ。『1918』に?」

「……女?」

「ほら、褐色の。どことなく混血っぽい、エキゾティーキュな顔立ちした……」

「……ワカラナイ。最近、あまりココ来ないね」

 

 ふと、オレはその口ぶりにキナ臭いものを感じる。

 コイツ――なにか隠してやしないか。

 

「じゃぁ、この店にいない時、いつもはナニぃやってンだィ?」

「アルバイトね……おカネ、貯めないと」

「なんのアルバイトさ?」

工場(ファクトリ)スリー・シフト(3交代)。就労ビザないから、ナイショ」

「時給はイイかい?」

「……アマリ。でも働かないト。仕送り、タイヘン」

 

 そう言ってこの大男はYシャツの胸ポケットからボロボロになった黒革のパスケースを取り出し、中をひらいてこちらに見せた。

 娘を抱いた母親らしき女が、こちらをみて笑っている。

 

「奥サンと娘ネ。セネガル居ル」

 

 そうか、とオレは密かに嘆息。

 この男も妻帯者だったってワケだ。

 こんな遠い国まできて、家族のためにガンバってる。

 ジーミ。ジーブリール。オマエは立派だよ、とオレは唇をゆがめた。

 カウンターをはさんで、それまでとは立ち位置が急に変化する気味がある。

 

 片や――家庭を営むもの。

 片や――家庭に失敗したもの。

 

 カウンターの“向こう”と“こちら”以上の、なにか見えない断絶が存在しているようで、ふいに居心地が悪くなったような。

 壁にかかっている古風なマリン・クロックを見れば、もうすぐ12時だ。

 

 意外に長居をしてしまった。

 

 ――ここを出て、どこか適当なところでメシを食うか……。

 

 背の高い椅子から腰を浮かしかけた時だった。 

 ジーミは不意に舌を鳴らすと相好をくずし、カウンターの下にかがみ、姿を消す。

 

 やがて姿を見せたときには、小さな黒いものを抱えていた。

 

 オレは背の高いイスから思わず転げ落ちそうになる。

 ジーミが抱えていたもの。それは、一匹の小さな黒猫だった。

 思わず上ずってしまう声で、

 

「ジーミ。ジーブリール。お前、それ……」

「カワイイでしょ。近くデ飼ってるミタイ」

 

 飼っているにしては、首輪も何もない。

 耳に去勢済みの印であるV字型の切り込みも見当たらない。

 ただ、艶々とした黒い毛並みは確かに清潔そうで“飼い猫”に見られてもおかしくはなかった。

 

 金色の瞳が、こちらを見て細められる。

 そして小さくニャァ、と一(こえ)

 

「オマエ……なのか?」

 

 ガブリエルのゴツい腕に抱かれ、満足そうな子猫はこちらをチラと一瞥。

 そして、自分の股間をぺろぺろナメはじめた。

 

「どしたノ?知ッテル猫?」

「いや……何でもない」

「そうだ、今夜、アソビに行こうヨ。トモダチ紹介するネ」

「いや、今夜は……」

 

 夕飯の支度をして、(ウチ)の女たちに包丁の冴えを見せてやらんと……。

 ポケットの中で、携帯が振動した。

 画面を見てみると、その女のひとり。詩愛からだ。

 

「はい――もしもし?」

『あ、マイケルさん?申し訳ありませんけど、今日夕方から急な会議が入っちゃって――』

「そうか、それじゃ……」

『えぇ、遅くなりそうなんです。今夜は、あの子のためにカレーにしてあげて下さい』

 

 受話器の向こうでは忙しそうなオフィスの気配。

 と、奥のほうで彼女を呼ぶ声が、微かに。

 

『アッ、ごめんなさィ!もう行かなきゃ』

「大変そうだな……仕事、頑張れ」

『はぃ!あ、マイケルさんも……』

「んぅ?」

『昼間っから、お酒飲みすぎちゃダメですよ?――それじゃ♪』

 

 プツン。

 

 彼女はいってしまった。

 なにか、無性に「負けた気がする」のは何でだ?

 知らず酔った口調になってるか?いや……全然フツーだよな。

 畜生め、まったく女のカンってヤツぁ、どうしてこうムダに鋭いんだろうか。

 

 ――じゃぁ、今夜はカレーか。チキンか、ビーフか。悩むところだなァ……。

 

 手のひらで、また携帯が振動した。

 画面を見ると『美月』からだ。

 

 ――まさか……。

 

「はい――もしもし?」

『あ、マイケルさん?あたC~~』

「どうした、美月」

『さっき“ウサギ(お店)”の方から連絡があったんだけどォ。そのときサイズの合わない制服のハナシになってサ」

「ふむ?」

『そしたら、アッチで制服をフルオーダーで作ってくれるって!』

「仕立てるってのか?いくらで」

『サービスしてくれるって。ただで♪』

 

 イヤな予感がした。

 あの算盤ずく一辺倒な魔窟で、そんな“サービス”などあるはずがない。

 

「ダレが言った?」

『踊り子でサロメ姫ってひとが居るんだけど、そのおつきの人が』

「いいか――美月」

 

 オレは思わず語気をつよめ、

 

「この世には、タダってモノはないんだ。あってもそれは、結果的に物凄く高価(たか)くつくんだぞ?」

『え~。だってもうオッケーしちゃったモン。だから、今日はお店の方で採寸があるから遅くなるよ?』

「おぃおぃ……」

『お姉ちゃんと二人っきりになるけど、ヘンな気おこしちゃ、ダメだかんね?』

「姉さんも、今日は遅くなるってサ」

『ヤったァ!あ……そういやサ、覚えてる?神社の()で***……***が***』

 

 通話が、いきなり不明瞭になる。

 

「もしもし……もしもし聞こえるか!?」

 

 不意に『美月』の声がささくれ、男の声のように。

 

『その娘がァァァァァ……**にぃぃイイイイ……病ぉぉぉォォ……」

 

 いきなり通話が切れた。

 なんだ?と思う間もなく携帯の電源も落ち、再起動しても画面が点灯しなくなる。

 

「ドシタノ?今夜、ダイジョブ?」

「あぁ……いや……」

 

 オレは言葉を濁した。

 

 黒人に抱かれる黒猫の、細めた金色な瞳でこちらを覗うような視線。

 なぜか知らないが、慄然(ゾッ)と鳥肌が立ち、イヤな感じがすることこの上ない。

 

「いや、今日はちょっと都合がワルいんだ。また今度な」

 

 オレはカウンターに代金を置くと、背の高い椅子から滑りおりた。

 

「マイケル……サン。コンナに要らないよォ?」

「イイんだ。娘さんに――なんか買ってやってくれ」

 

 オレは、黒ネコ抱くジーミを振り切るように、またその金色の視線から逃れるように足早で歩くと扉を開け、店の外に出た。

 

 とたん、襲い掛かる熱気――かと思ったが、どうしたことだろうか。

 

 いまのオレの身体は、まるで強烈な冷房に冷え切ったあとで外の陽を浴びたときのように、この炎暑すらジンワリと暖かく感じて。

 

 オレはロール・カーテンが降り、[CLOSE]と札のかかる『ジーミの店』を見た。

 ふと視線を感じて振り向くと、通りを挟んだ店のブラインドに、あの褐色な女の姿。

 このたびはツヤのあるピンク色をした旗袍(チャイナ・ドレス)をまとい、こちらを凝然(じっ)と見つめている。

 メリハリの効いた身体の線が丸わかりになる、ピッチリとしたタイトなドレス。

 ひょっとして、あのドレッド野郎の趣味なのだろうか……。

 

 ふと、その顔がニヤリ。

 うす笑いをうかべたかと思うと、ブラインドの羽根は手荒く閉じられた。

 コネクターに今の映像を録画するように命じ、オレは素知らぬ足取りで商店街を歩く。

 

 ――やっぱり頻繁に姿を見せるじゃないか、あのカフェオレ女……。

 

 それに、ジーミが抱えていた黒ネコ。

 まるでこちらの考えを見透かしたように。

 

 通話で『美月』のヤツが神社とか言っていた。

 そして、彼女がそう口にしたとたん、不明瞭になった通話。

 

「キミがお守りを手放してくれたおかげで、ようやく会えたよ」

 

 うたたねをした夢でみた、黒ネコのセリフ。

 二またの尻尾を揺らしていた金色の視線。

 そう。ちょうど今しがたのように。

 

 焦げた縁結び神社のお守り。

 

 ――そうだ、……あのお守りの代わりをもらおうと、延び延びになってたな……。

 

 でもムダだよ、という黒ネコの声が、そのときハッキリとよみがえる。

 

「お守りは、手に入らない。だってこちらが、そういう風に手配したもの……」

 

 ――まさか……ヤツが?

 

 急に予定がはいった詩愛と『美月』。

 しかも踊り子まで、またもや一枚噛んでいる気配。

 あれほど飲んだビールの酔いは、ホロリとも残っていなかった。

 かわりに腹の底には、なにかうす気味のわるい気配が、ヒタヒタと拡がって。

 

 ――とりあえず……あの縁結び神社に行ってみるか……。

 

 

 * * *

 

 

 それからが、ヒドい有様だった。

 

 乗った路線は立て続けに人身事故と信号故障を起こし、つごう2時間ばかり車内に閉じ込められる始末。

 客の中にはドアの非常コックをあけて放尿するもの、ガマンできず車内で“大”を漏らすもの。赤ん坊の泣き声。キレやすいジジィの怒号。客同士のケンカ。それはまさしくチョッとした地獄絵図めいたありさまだった。

 ようやく動いたと思ったら目的の駅よりずいぶん手前で下ろされる。仕方ないのでバスに乗り継ごうとしたら、こんどはバスが途中で工事現場の足場崩落による渋滞に巻き込まれ、しばらく来ないと停留所のモニターが。

 

 ――畜生……ッ!

 

 こうなりゃヤケだ。

 

 どんなことをしても!神社にたどり着いてやるぜと、オレはタクシーを捕まえる。するとそのタクシーが、あろうことか路面に落ちていた落下物を踏んでパンクしてしまう。

 

 歩道をゆけばヤクザに絡まれ、あるい警察(ポリ)の職務質問。上からは植木鉢やパンティーが落ちてきてそのたびに足止めをくらい、とどめにはネコのウ〇コを踏むなど、満身創痍(まんしんそうい)になりながら彼方に神社の大鳥居を望んだのは、それからさらに2時間がすぎていた。

 

 途中にあった公園の蛇口で靴の裏についたウ〇コを(すす)ぎ、ついでにポロシャツを脱いで熱気で温くなった水に浸して絞り、最後に上半身の汗を流してサッパリする。

 

 この日。

 オレは初めてセミの鳴き(こえ)を聴いた。

 

 見上げる木々のすき間から漏れる陽光に、疲れが一気に出たせいか視界がフラッとくる。

 公園のベンチと近くの自販機に思わずヨロヨロ進みかかるが、神社の境内にもあったことを思いだし、もう少しのガマン。

 

 フラフラ歩きかけると、

 

 ――アいててて……。

 

 ふくらはぎが釣った。

 頭もなんだかボンヤリする。

 

 そして何かが……そう、幾本もの透明な腕が、自分を後ろに引きもどそうとするような。

 もちろん、振り向いてもそんなものは無い。ただ今まで歩いてきた誰もいない歩道が、彼方まで続いているのを見るだけだった。

 しかし、大鳥居に近づくにつれ、その腕の数がだんだんと増えてゆくような気がしてならない……。

 

 夕方の散歩だろうか。

 

 ポメラニアンを連れた中年のご婦人二人連れが、向こうからやってきた。

 と、オレが近づくにつれ、そのポメは異常な激しさでコチラを向いて吠えたてる。

 婦人たちがリードを引いて、宥めすかしても効果がない。オレが息を喘がせつつ、重い足を引きずり近づくと、ついにその小犬は泡をふいて気絶した。

 オロオロと狼狽する二人の婦人の脇をとおったとき、

 

「ねぇ……なんかお線香臭くありませんこと?」

「いえ……わたしは何かお肉の腐ったような……」

 

 そんな声を背に、オレは視界がブレはじめた中、神社を目指す。

 ついに横断歩道の向こうは大鳥居となり、歩行者用信号を待っていると。

 T字路交差点の左手から、プリ○スがエンジン全開の猛スピードで突っ込んできた。

 運転席では、目を吊り上げたジィさんが、ハンドルを握る腕を伸ばして必死の形相で。

 間一髪、よけると車は歩道に乗り上げてジャンプし、横転。T字路わきの植栽を薙ぎたおおしつつ、ついには逆立ちとなって止まった。

 

 悲鳴と怒号。

 土ぼこりと、ガソリン臭いにおい。

 

 騒ぎがだんだんと大きくなるなか、横断歩道の「通りゃんせ」のメロディが場違いのようにむなしく響きはじめた。人の流れとは反対に、オレは青息吐息。雲を踏むような足取りで横断歩道をわたってゆく。

 ようやく大鳥居にたどり着き、一歩玉砂利を踏み鳴らしたときだった。

 

 背後から引くような抵抗が、フッと消える。

 

 頭は水を浴びたようにハッキリとし、それまでの(ゆだ)ったようなボンヤリとした感じは一瞬にして消え去った。

 

 T字路交差点でますます集まる人。

 見事な倒立を見せるプ〇ウスを遠巻きに眺めて。

 事故を見物する車の渋滞も、はじまっていた。

 遠くではサイレンも聞こえてくるが、狭い片側一車線とてなかなか近づかない。

 

 ――何だったんだ畜生……。

 

 オレは玉砂利を踏み鳴らしながら社殿の方へ向かった。

 と、行く手には巫女さん――というには年老いた初老の婦人たちが整列し、そろいの白衣(びゃくえ)緋袴(ひばかま)でオレのほうを見ている。

 

 やがて、その中でも最高齢と思われる小柄なバァさん……いや。全身にまとう品格からバァさんでは失礼か。ここは、仮に(おうな)とでも呼んでおきたい。その人物が、杖を突きながら列の中から進み出ると、厳粛な面持ちで近づいてきた。

 

「ようこそ、おいでぢゃの……えーかん(キツ)かったが、どうやら(わし)らの勝ち(いくさ)ぢゃて。見てみぃ」

 

 そう言いうや、手にした杖で、オレの背後を示した。

 

 ――う……っ!

 

 大鳥居の外がわ。

 そこには、黒い影のようなものが幾体も蝟集(いしゅう)し、ゆらめいていた。

 目も口も分からないが、一様にこちらを見ているのは何となく感じられる。

 

「なに……なんですアレ!」

「“よくない”ものぢゃ。したが今となってはドゥでもえぇ」

 

 さ、来なっせと(おうな)(きびす)をかえし、神社の奥へと向かってゆく。

 キビしい顔をした他の緋袴な一団もオレを守るように取り囲むと、ゆっくり歩きはじめた……。

 


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