女性に騙されて借金を背負わされた時も、
しかし今、善逸は幸福であった。
「良い夜だねぇ、
何故なら、彼の想い人が傍にいるからだ。
想い人を連れて夜の散歩。その事実に善逸は酔いしれていた。
ほんの少し前であれば、自分にそんな幸福があるなどと信じられなかっただろう。
実際、善逸と共に蝶屋敷の庭を歩いている少女は、美しかった。
月明かりに輝く長い黒髪に、はっとする程に透き通った肌。
白面の顔に宝石のような瞳が2つ、整った眉に高めの
背丈は善逸より頭1つ分ほども小柄だが、背筋はぴんと伸びてしっかりとしている。
まるでこの世のものではないような、どこか人間離れした美しさ。
どことなくぼんやりとした表情を浮かべているが、それがむしろ彼女を神秘的にさえ見せていた。
「あ、見て禰豆子ちゃん。花壇のお花がまだ咲いてるよ。今日は暖かいからかなあ」
「…………」
善逸が指差した花壇を見て、少女がこくんと頷いた。
ただそれだけのことで。
(か、可愛すぎるよ禰豆子ちゃあああああああんっっ!!)
表向き平静を装っているが、善逸の内心は大騒ぎだった。
「も、もう少し近くで見てみようか!?」
声がどもりまくっていたが、少女は気にした様子もなかった。
ただ善逸の方にぼんやりとした目を向けて、こくん、と頷きを返した。
善逸の心は有頂天である。
思わず少女の手を引こうとして、しかしその直前に、はっとした顔で。
「えっ、あ! ごめんねごめんね違うんだよ禰豆子ちゃん! つい連れていってあげようって、いやそんな勝手に触ったりしないよ!? しないからさ!」
「…………」
「あ、そうだよねお花だよね!? うん見よう見よう近くで一緒に……」
あ、と思った時には、すでに遅かった。
よほど慌てていたのか足がもつれてしまい、気が付いた時には地面と抱擁していた。
しばし、静寂。
先程までの有頂天ぶりはどこへやら、善逸は急速に元気を失った。
(どうして俺はいつもこうなんだ)
何をしても上手くいかない。
たまに上手くいったかと思えば、すぐに舞い上がって失敗する。
想い人の前で転……膝をつくなど、格好悪いことこの上なかった。
穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。
いっそこのまま蹲りたいと思ったが、不意に影が差して、顔を上げると禰豆子が覗き込んでいた。
「禰豆子ちゃん……」
ゆっくりと差し出された手に、善逸は自分が情けなくなった。
彼女は何も気にしていないのに、いや気にするような子ではないと知っているのに、何をウジウジとしているのか、と。
禰豆子に気を遣わせるな。自分をそう叱咤して、善逸は禰豆子の手を取ろうとした。
そして、気付いた。
中庭を、一陣の風が吹き抜けた。その時だ。
風に乗って、禰豆子の背後にそれはやって来た。
月夜を背に、長い黒髪をたなびかせながら、片腕を振り上げた女。
無表情に振り上げられた手には、深緑に輝く日輪刀――――。
「禰豆子ちゃんっっ!!」
――――意外なことに。
その女性は、善逸が声を上げたことに驚いたようだった。
◆ ◆ ◆
どうして声を上げるのか。
助けようとした少年――善逸の反応に、瑠衣は困惑した。
しかし、すでに振り下ろしのモーションに入ってしまっている。
止めることも出来ず、そのまま刀を振り下ろした。
「……!」
頚を狙った一撃は、しかし当たらなかった。
鬼の背が縮んだ――いや、
少女か童女へ、一瞬にして身体の年齢が若返ったかのようだ。
そのため刀は頚を斬ることなく、空を切った。
不意打ちだったはずの攻撃は、かわされた。
善逸の声がなければ、外れるはずのない攻撃だった。
跳躍の慣性のまま地面を滑り、鬼の姿を目で追った。
(口枷……?)
その鬼の少女は、口枷をしていた。
枷と言っても竹で作られた手製のもので、それほど「枷」という感じはしない。
しかし鬼が口枷とは、いったいどういうことなのか。
不意に、鬼の姿が隠れた。
何故なら、善逸が両手を広げて瑠衣と彼女の間に飛び出してきたからだ。
「な、何やってんだああああお前えええええっ!!」
怒鳴られた。
きょとん、とした表情を浮かべてしまうのも、仕方ないだろう。
「お、お前が誰だか知らないけど、美人だからって、禰豆子ちゃんを傷つけようとするなんて許さないぞ!」
なかなか勇ましいことを言う。
しかし顔色は蒼く、手足はこちらが心配になる程に震えていた。
余りにもガクガクと震えるものだから、姿がブレて見える程だ。
いや、震え過ぎだろう。
「えっと、大丈夫ですか……?」
思わず、心配してしまった。
「いきなり斬りかかられて大丈夫なわけないでしょっ!?」
「いえ、斬りかかったのは貴方じゃなくてそっちの鬼……」
「禰豆子ちゃんに斬りかかったら駄目だろ……!」
……自分が悪いのだろうか。
それは、確かにいきなり斬りかかったのは不作法だったかもしれない。
だが斬りかかったのは鬼で、善逸ではない。
何ら間違った行為ではないと思うのだが。
と、瑠衣が色々と考えていると。
「――――何をしているのですか」
不意に、言葉をかけられた。
振り向いてみると、しのぶがそこにいた。
どこか呆れたような、そんな表情でこちらを見ている。
それからもう1人、しのぶに良く似た、しのぶより年上らしき女性が1人。
その女性は、車椅子に乗っていた。
長い黒髪で、蝶の髪飾りをしている。
こちらも眉を寄せて、瑠衣達を困ったような表情で見つめていた。
しのぶに車椅子を押されて、夜の散歩、という風体だった。
「
そしてもう1人の女性のことも、瑠衣は知っていた。
「……花柱様」
鬼殺隊・
蟲柱・胡蝶しのぶの実姉。
胡蝶カナエ。
彼女は瑠衣に、柔らかく微笑みかけたのだった。
◆ ◆ ◆
機能回復訓練。
簡単に言えば、入院中に動くことの少なかった身体を解し、再び任務に就ける状態にするための訓練である。
もっと簡単に言えば、運動である。
「がんばれ!」「がんばれ!」「がんばれ!」
蝶屋敷そばの道場。
そこに、道場に似つかわしくない少女達の応援の声が響いていた。
おさげの可愛らしい女の子が3人、道場の中央で駆け回っている2人を応援していた。
いずれも蝶の髪飾りを着けていて、蝶屋敷に属している少女だとわかる。
入院中に瑠衣も話したことがある。なほ、きよ、すみ、という名前の女の子達だ。
その傍に、昨日会った少年2人もいた。
猪頭の少年と、黄色い髪の少年。伊之助と、善逸である。
そして彼らに見守られながら、道場の中央で走り回っているのが……。
「カナヲは知っていますね?」
1人は、やはり蝶の髪飾りを着けた少女だった。
年は瑠衣より1つか2つ下で、頭の横で一結びにした長い黒髪が目を引いた。
小さく愛らしい造りの顔に、紫水晶の如き大きな瞳。
後輩にあたるが、幼い頃から蝶屋敷にいたので、名前はすでに良く通っていた。曰く。
(蝶屋敷の天才少女、か)
しのぶの言葉に頷きながら、そんなことを思った。
天才。
もちろん、あの時透無一郎ほどではないが、前々から噂にはなっていた。
曰く、柱の技や呼吸法を見様見真似で体得してしまう天才がいる――――と。
そして、
蟲柱・胡蝶しのぶの後を継ぐ者として、その名は鬼殺隊に知れ渡っていた。
話したことはないのでどんな人物なのかはわからないが、実力は確かだ。
今もかなりの速度で走り回っているが、汗ひとつかいていない。
「で、あちらが昨日お話した……」
そのカナヲを相手に機能回復訓練をしている少年。
こちらはカナヲと違い、汗を散らせて全力で走っているという感じだ。
赤みがかった黒髪と瞳で、顔立ちにどこかまだ幼さを残している。
左額に大きな赤い痣があり、初対面ならまず目を引かれるだろうと思った。
「炭治郎君、ちょっと良いですか?」
「はい!」
元気の良い返事が返ってきた。
快活で、それでいて耳障りではない。
まさに腹の底から声を出している、という風だ。
目の前までやって来ると、ぴしっ、と背筋を伸ばして。
「しのぶさん、こんにちは!」
「はい、こんにちは。今日も元気ですね」
にこりと微笑んで、しのぶは瑠衣の方へ手を向けた。
「こちらは煉獄瑠衣さん。柱合会議の時の、炎柱の煉獄槇寿郎さんは覚えていますか? 彼女は彼のご息女です」
紹介されると、炭治郎という少年はじっと瑠衣の目を見つめて来た。
力強い目だ。そう思った。見つめていると引き込まれそうな気さえする。
気力が満ちている、とでも言えば良いのだろうか。
そして不意に、炭治郎が頭を下げて来た。
「はじめまして、竈門炭治郎です。よろしくお願いします!」
「……はじめまして」
返礼。正直、あまりない経験だった。
それでいて、形式だからではなく、本気で挨拶しているのだと言うことが話していてわかる。
不思議な少年だった。礼儀正しいというのも、少し違うような気もする。
「さて」
そんな2人を見て何を思ったのか、ぽん、と手を打って、しのぶが言った。
「それじゃあ、炭治郎君。次は彼女と訓練してみましょうか」
「え」
聞いていないんですけど……と言わんばかりの視線をしのぶに向けると、
上の階級だが、少しだけ張り倒したくなった。
◆ ◆ ◆
全身訓練――要は鬼ごっこだ。
瑠衣が鬼役となり、炭治郎がそれを捕まえれば勝ち。ルールは単純だ。
単純だが、だからこそ差が出やすいとも言える。
「……!」
最初の一手。
炭治郎が飛び出し、瑠衣が後ろに跳んでかわした瞬間だ。
両者共に、直感した。
瑠衣の身体と炭治郎の手の間に出来ている、この距離。
これが縮まることはない、と。
(驚いた。この子、常中ができるんだ)
常中とは、全集中の呼吸を四六時中やり続けることで、身体能力を飛躍的に高める技術だ。
全集中の呼吸は元々身体能力を高めるが、それだけでは一時的な強化に過ぎない。
極端な話、呼吸をしていない時に鬼の攻撃を受ければ対処できない、ということになる。
だから全集中の呼吸を四六時中やり続けることによって、身体強化にムラをなくすのだ。
だがこの技術、口で言う程に簡単ではない。
四六時中というのは、食べる時も眠る時も、ということだ。
しかも生半可な鍛え方では、全集中の呼吸を10分続けるだけで心肺が限界に達する。
鬼殺隊でも、柱を除けばこの技術を会得している隊士は意外と少ない。
瑠衣が知っているだけでも、1割いるかいないかだろう。
「くっ……!」
もう一歩、炭治郎が跳んで来た。
瑠衣は左に跳んでかわす。すると、すぐに炭治郎も追いかけて来た。
瑠衣の軸足が外に向いた瞬間にはすでに腕が反応していた。反射神経が良い。
そしてその腕から、瑠衣はさらに左に跳んで逃げていく。
炭治郎を中心として、瑠衣はその周囲を左へ左へと回り続ける形だ。
炭治郎は必死に瑠衣を追いかけるのだが、目や腕はともかく、身体の全部が瑠衣の移動について来れていない。
(……覚えたてかな)
炭治郎の常中は、どこか不安定だった。
おそらく常中を体得したばかりで、
上手くいっている時とそうでない時で、動きの善し悪しがモロに表れていた。
(蟲柱様は、どういうつもりで……?)
ちら、と、他の面々と並んで観戦しているしのぶの方に視線をやった。
しのぶは相変わらず微笑むばかりで、何かを示すことはなかった。
そんなことを思っていると、ずだんっ、という大きな音がした。
炭治郎が、回転について来れずに転んだ音だった。
◆ ◆ ◆
いけない、と炭治郎は思った。
瑠衣の動きを目では追えているが、身体が、特に足がついて行けていない。
強かに打ち付けた鼻先を撫でながら、炭治郎は顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
「あ……」
その眼前に、瑠衣が手を差し出してきた。
心配の
そして、瑠衣の掌の感触に内心で少し驚いた。
(……ほとんど消えかかってるけど、怪我の痕が一杯ある……)
女性らしい柔らかさと同時に、皮膚の僅かな感触の違いを感じた。
あの、と声を上げると、不思議そうに小さく首を傾げて来た。
「もう一度、お願いします!」
「……わかりました。良いですよ」
ちらりとしのぶの方を窺い見て、瑠衣は了承した。
なお、しのぶは両手で丸の形を作っていた。
あれで意外と茶目っ気があるのだ。
とにかく、もう一度だ。
瑠衣の前に立って、炭治郎は深呼吸をした。
さっきの一回だけで、瑠衣が自分よりもずっと先にいることは良くわかった。
いわば練度の
どちらかと言うと、柱の方に近い匂いだ。
「――――始め!」
しのぶの開始の合図と同時に、炭治郎は飛び出した。
手を伸ばす。
しかし、届かない。
ちょうど一歩分の距離を残して、瑠衣が後ろに跳んで逃げてしまう。
(違う、これじゃ駄目だ!)
同じやり方をするな、と自分を叱咤した。
もう一度跳ぶと、瑠衣は右か左に円を描くように避けていくだろう。
たぶん、わざとそうしているか、それで十分だと思われている。
それを失礼だとは思わない。こちらは胸を借りている立場なのだ。
重要なのは、同じ失敗を繰り返さないこと。考えることだ。
自分は瑠衣より遅い。直線ならともかく、曲がりが入ると追いつけない。
跳ぶ。手を伸ばす。来た。瑠衣が左へ左へと逃げていく。
それを追いかければ、炭治郎はまたぐるぐる振り回されて、最後には転ぶ。
(考えろ……!)
つい手を伸ばしてしまい、目で瑠衣の身体を追ってしまう。
なまじ視界の端に瑠衣の姿を捉えてしまうからだ。
考えろ。自分には、考えることしかできない。そう念じて考え続けた。
次の瞬間、足がもつれかけた。
やばい、と思った。
追いつけないものを追いかけて、すでに足が限界に来ている。
瑠衣は左へ左へと避け続けながら、徐々に速度を上げているのだ。
だから、気付かない内に足がもつれる。
「え……」
足がもつれるのを耐えた時だ。
瑠衣の姿が視界の端からも消えた。炭治郎が止まったから当然だ。
問題は、瑠衣がその場で止まったことだ。ちょうど、炭治郎の真後ろあたり。
炭治郎が体勢を立て直して、どちらから追って来るか見ていたのだろう。
「…………」
再開する。また左へ左への追いかけっこだ。
やはり瑠衣は、炭治郎の視界の端から消えることがない。
一定の速度と距離を維持している。ぐるぐると、だ。
そこまで察した瞬間、炭治郎は思い切った。
(追い……!)
ずだんっ、と床を強く踏んで、自分の身体を止める。
(……かけるな!)
瑠衣の姿が、視界の端から消える。
戸惑った匂い。真後ろから感じる。
(跳べっ!!)
そのまま、
背面跳び、とでも言おうか。背中を床に向けたまま跳躍した。
逆さまの視界で、瑠衣の驚いた顔が見えた。
動きを止めている。距離が縮まる。チャンスだ。
(触……)
触れる、という瞬間だ。炭治郎の顔に影が差した。
それは、高く跳躍した瑠衣の影だった。
折り畳んだ足が見えて、ああ、と思った。
上に跳ばれることを考えていなかった、と。
「ぐっ……!」
空中で、それでも無理やりに手を伸ばした。
咄嗟に跳んだから、あるいは高さが足りないかもしれない。
しかしこの時点で、炭治郎はもう1つのことを失念していた。
それは、下――炭治郎の方を見た瑠衣が。
「――――危ない!」
と、叫んだ時点で炭治郎も気が付いたのだが。
その時には、彼は床に背中と後頭部を強かに打ち付けてしまっていた。
それは、目から星が飛び出るような痛さだったらしい。
なお、長男だから我慢できたが次男だったら我慢できなかった、らしい。
◆ ◆ ◆
「どうでしたか?」
しのぶにそう問われて、瑠衣は曖昧な表情を浮かべた。
道場の真ん中では、炭治郎の周りにわらわらと人だかりが出来ている。
心配しているなほ達に、炭治郎が無事を伝えていた。
例外はしのぶと、彼女の傍に控えているカナヲくらいだろう。
「いきなりだったのはすみません。ただ、言葉で紹介するよりずっと良いと思ったんです」
昨夜、瑠衣が斬りかけた鬼は名前を竈門禰豆子という。
今しがた瑠衣と鬼ごっこをした、炭治郎の実の妹だった。
鬼の妹。
鬼を連れた隊士がいるというのは聞いていたが、実際に見たのは初めてだった。
まさか、何の監視もなく――善逸は監視に数えられない――散歩しているとは夢にも思わなかった。
「炭治郎君は、どうでしたか?」
「……そうですね」
ひたむきだ。そして、性根が真っ直ぐでもある。
それは、向き合ってみて良くわかった。
だが、信じ難くもあった。
「あの……竈門君の妹さんは、本当に?」
「ええ、鬼です。昨夜に見た通り。そして……そして鬼になってから2年間、人を襲っていないそうです」
鬼にされた者は、まず強い飢餓症状に襲われる。
そして近くにいる人間を、喰う。それが家族や友人であることも少なくない。
隊士の中には、まさに家族や友人が鬼にされた者もいるのだ。
鬼にされたら、頚を斬るしかない。
だから、2年間も人を喰わずにいる鬼というのは前代未聞だった。
あり得ないと言って良い。
しかし実際に人を喰わない鬼が存在し、その兄が隊士として認められている。
そして、炭治郎には一切の
「というより、不死川さんから聞いていませんでしたか? 煉獄さんとか……」
「師範からは何も。父さ……炎柱様からは、少しだけ。ただ、その、中庭を散歩しているとは思わなくて」
「ああ、それはお館様の意向で……なるべく自由にさせておくように、と」
鬼を、鬼殺隊の本部で自由にさせる。
もちろん昼間は出歩けないだろうが、それにしても解せない対応ではあった。
しかもしのぶの話では、柱と元柱の2人が「もしもの際には腹を切って詫びる」とまで誓約したとか。
柱以外の隊士に情報が公開されていないのは、混乱を避けるためだろうが……。
(お館様はいったい、どういうつもりで……?)
首を傾げていると、道場に誰かが入って来るのが見えた。
膝にいくつかの水筒と手拭いを抱えたその女性は、車椅子で、少し苦労しているように見えた。
「カナヲ、姉さんを手伝ってあげてくれる?」
「はい」
それまで一言も話さなかったカナヲが、静かにカナエの下に向かった。
「あれで、かなり快復したんですよ」
カナヲの背中を見送りながら、しのぶが言った。
「足は、多分もう。でも、生きていてくれるだけで良い……」
遠い目をしていた。
ここではないどこかを見ているような、そんな目だ。
しかし次の瞬間には、元通りの微笑みを浮かべていて。
「煉獄さんには、本当に感謝しているんですよ」
瑠衣には、今のしのぶに何かを言うことは出来なかった。
ただ、知っていた。
父である煉獄槇寿郎が、
しかし深い傷を負い、花柱を辞したこと。車椅子での生活を余儀なくされたこと。
そして。
「本当に」
瑠衣は、何も言うことが出来なかった。
◆ ◆ ◆
善逸は、複雑な気分だった。
まず昨夜のこと。
禰豆子に斬りかかったことは許せない――一方で鬼殺隊士なら無理もないとも理解している――が、どう考えても自分がどうこうできる相手ではなかったので、挑みかからなくて良かったとも思った。
炭治郎が無理なら自分も無理だ。確実に。絶対に。
それに昨日はそれどころではなかったし薄暗くて良く見えなかったが、こうして見るとかなり整った顔立ちをして……いやいやいや。
自分は禰豆子一筋である。あるはずだ。
ぶんぶん、と首を振る善逸に、伊之助が訝しそうな顔を向けた。
「紋壱お前、なに変な顔をしてんだ?」
「善逸だよ。いい加減に人の名前くらい覚えろよ、お前……」
山育ち、というか野生児と言った方が良いか、伊之助は人の名前を覚えるのが苦手だ。
炭治郎のことですら権八郎とか読んでいる。どんなだよ。
「炭治郎、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。ちょっとこぶが出来たかもしれないけど……」
なほ達にちやほやされているところは気に入らないが、そこは今はぐっと堪えて、善逸は炭治郎の心配をした。
炭治郎は後頭部を撫でていたが、本人が言う通り、大したことはなさそうだった。
「で、どうだった?」
奇しくも、しのぶと同じような問いかけだった。
どう、というのは、瑠衣のことだ。
実は善逸は、昨夜のことを炭治郎に話していない。
しのぶに口止めされたというのもあるが、炭治郎に余計な心配をかけさせたくなかったのだ。
禰豆子も、たぶんそれは望んでいなかったと思う。
それにもしもの時は自分が命がけで禰豆子を守れば良い、とも思っていた。
絶対に敵わないだろうが、それでも、それについては「それでも」だ。
ただ、炭治郎にはバレているだろうな、とも思っていた。
炭治郎は鼻が良いし、
「そうだなあ」
そして、善逸の心配は杞憂だったようで。
「優しい人だよ」
端的に、炭治郎はそう言った。
そして炭治郎は、善逸に笑いかけた。
「ありがとう、善逸。心配してくれたんだよな」
これだ、と思った。
この炭治郎という少年は、俗っぽい言い方をすれば「良いやつ」だ。
良いやつなのだが、いかんせん性根が真っ直ぐに過ぎて、言わなくて良いことを言ったりするのだ。
普通、こういう場合は何も言わないものだろうに。
こっちが恥ずかしいじゃないか、と。
「優しくて、努力を続けて来た人だと思う。ただ……」
「ただ?」
「……いや、何でもない。とにかく、悪い人じゃないと思う。それに、とても勉強になった」
「お前は本当にそればっかりだな」
呆れたように善逸が言うと、炭治郎は照れくさそうに笑った。
善逸はもう一言二言なにか喋ろうとしたのだが、その時、カナエとカナヲがやって来た。
「手拭いと水」
カナヲの言葉は簡素なものだったが。
「う、うわああありがとおおおぉございます!!」
善逸はこの瞬間、炭治郎のことは忘れた。
カナエのたおやかな微笑みを前にして、さらに我を忘れた。
絶世の美女と美少女を前にして、しかも手拭いを貰う際にぎゅっと手も握れて――これについては、なほ達の厳しい目に晒されたが――一気に上機嫌である。
だから、炭治郎の「ただ」の先を聞くことはなかった。
そんな善逸をよそに、炭治郎はしのぶと話す瑠衣の姿を見つめていた。
炭治郎は、嗅覚が人並外れて優れている。
匂いで相手の人柄や虚実を判別することができる程だ。
だから炭治郎は、瑠衣のことを「良い人」だと判断することが出来た。
善逸が言わなかったことも察しつつ、だ。
ただ。
(何だろう。ただ……)
――――ただ、何かに苦しんでる。
そう、思った。
◆ ◆ ◆
面倒なことになった、と不死川は思った。
お館様――産屋敷に屋敷に来るように、との召喚を受けた時である。
もちろん不死川はすぐに産屋敷邸へ向かい、部屋に通された。
そして話を聞いて、やはり「面倒なことになった」と感じた。
「どう思うかな。槇寿郎、実弥」
不死川の他に、槇寿郎も呼ばれていた。悲鳴嶼もいる。
娘2人に支えられるようにして座る産屋敷は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
しかし不死川と槇寿郎に話した内容は、不死川としても予想外の内容だった。
「瑠衣を柱に加えるべきと思うかい?」
煉獄瑠衣を、柱の階級に引き上げるべきかどうか。
もちろん、柱の定員は埋まっている。
しかし槇寿郎は杏寿郎に炎柱を継がせるために、柱を辞すことになる。
つまり、一時的にしろ柱に空席が生じることになる。
杏寿郎が十二鬼月に遭遇するまでその空席を維持すべきか、というのは、意外と難しい。
もちろん煉獄家の事実上の
風柱は不死川だが、同じ呼吸の剣士が同時に柱になってはならないという明確な決まりはない。
要するに、杏寿郎ではなく、まがりなりにも十二鬼月の頚を斬った瑠衣を先に柱に加えるべきなのではないか、という声が鬼殺隊内部で上がっているのである。
「瑠衣のことを一番良く知っている2人の意見を聞きたいんだ」
本当に面倒な議題だ。
ちら、と不死川は槇寿郎の横顔を窺った。
蝋燭の灯りに照らされた槇寿郎の顔に表情はなく、さざ波一つ見えなかった。
槇寿郎は畳に手をつき、深く頭を下ろしながら。
「畏れながら……」
合わせて、不死川も頭を垂れた。
そんな中、槇寿郎の声が耳に届いてくる。
「畏れながら、その議には賛成致しかねます」
「どうしてそう思うのかな? 下弦の頸を斬り、上弦から生き残るというのは並の
「それは……」
槇寿郎は、反対した。
まず下弦との戦いは、鴉の報告によれば、お世辞にも他の隊士と連携したとは言い難かった。
隊士をまとめ導く指揮官として、柱として不適切であること。
そして上弦から生き残ったのは、蛇柱・伊黒と杏寿郎の介入がなければ難しかったこと。
それが反対の理由だった。
「それに
「ふむ。そうだね……」
反対の理由としては、無理ではない。
不死川はそう思った。
しかし何故、瑠衣を柱になどという話が急に出て来たのか。
そこだけが、わからなかった。
◆ ◆ ◆
「煉獄殿の立場は、非常に微妙なのだ」
会合の最中は一言も喋らなかった悲鳴嶼だが、部屋の外に出ると、開口一番にそんなことを言った。
もちろん、槇寿郎が産屋敷邸を辞してからの会話である。
その言葉の意味するところを、不死川は推し量ることが出来なかった。
槇寿郎の立場が微妙とは、どういうことか。
煉獄槇寿郎は、鬼殺隊を代表する鬼狩りである。
柱の中の柱、と呼ぶ者もいる。不死川もその評価には異論がなかった。
もし仮に柱に序列があるとすれば、槇寿郎は間違いなく9人の柱の筆頭だった。
この悲鳴嶼でさえ、槇寿郎を前にすれば一歩を譲るだろう。
「煉獄殿は、多くの隊士に慕われている……」
「はあ、そうですね」
「……お館様と比べても、遜色のない程に」
そこまで言われて、不死川も察した。
悲鳴嶼は仏僧がそうするように両手を合わせて、その手の間で数珠が音を立てた。
光のない悲鳴嶼の目から涙が流れ――涙もろい性格なので、これは別に珍しくないが――頬を滴り落ちていった。
「煉獄殿は非の打ち所がない。実力も、家柄も。人格も実績もだ」
「悲鳴嶼さんだって、負けてはないでしょう」
「ふふ……そう言って貰えるのは有難いが、私は人に好かれるような性分ではない」
「そんなことは……」
盲目。額を真横一文字に裂く大きな傷跡。巨漢。そして念仏。
深く付き合えば悲鳴嶼という人間に誰もが惹かれる。だが人間、なかなかそうはなれない。
悲鳴嶼と槇寿郎が並べば、どうしてもそうなる。
「柱の中には、煉獄殿ゆかりの者も多い」
伊黒と甘露寺だ。そしてしのぶも槇寿郎には大恩がある。
不死川もまた、娘の師だ。槇寿郎の縁者と見ることも出来るだろう。
要するに、派閥だ。
煉獄派とでもいうべきか、あるいは
不死川にも覚えがある。
何もせず奥に座しているだけの「お館様」に、反発する層がいるのだ。
不死川も一度、食ってかかったことがある。今は反省しているが。
だが産屋敷と直接会ったことのない隊士の中には、そういう人間もいるのだ。
無理もないことだ、とは思う。
そこまで考えて、不死川ははっとした。
「まさか、さっきの話も……?」
「無関係ではない」
派閥争い、に近い。
産屋敷に反発する層が、槇寿郎を期待の眼差しで見ているのだ。
槇寿郎自身が関与していないから、明確な抗争にはなっていない。
しかし、
「だから煉獄殿が炎柱を辞すことにした理由の1つには、それもあった。身を引くことで災いを除こうとしたのだ。しかし……」
ああ、と不死川は頭を掻いた。
面倒だ。面倒過ぎる。
自分はただ鬼を斬りたい。鬼を滅ぼしたいだけなのに。
どうしてこう、人間というのは無駄なことをしたがるのだろうか。
◆ ◆ ◆
――――竈門兄妹と出会ってから、10日余り後。
瑠衣は任務に復帰し、指令を受けて鬼狩りを遂行していた。
「ギャアアアアアッ!!」
頚を
宙を舞うその頚に、瑠衣は日輪刀を閃かせた。
切っ先が口先から頸椎の辺りまで貫き、鬼の断末魔を止める。
次の瞬間には、地面に倒れ伏した鬼の身体がボロボロと塵となって消えていった。
日輪刀に貫かれていた鬼の頚も、同じように崩れていく。
恨みがましい視線に鼻を鳴らして、瑠衣は刀を横に振った。
鬼の血と塵を払い、刀を納める。
そうしていると、横からぱちぱちと手を打つ音が聞こえて来た。
「お見事ね、惚れ惚れしちゃうわぁ」
「いえ、そんな……」
榛名だった。今日の任務は、彼女との共同任務だったのだ。
その任務も、鬼を斬ったことで終わった。
後は帰還するなり、鴉が次の任務を運んでくればそちらに向かうことになるだろう。
(うーん……)
改めて、瑠衣は榛名の日輪刀を見た。
薄い青色。水の呼吸の適性がある証だ。
厳密には榛名の呼吸は「
実際、何度か見た戦闘や訓練でも榛名はその呼吸法を用いていた。
「どうかしたかしらぁ?」
「ああ、いえ。榛名さんは普段は炎の呼吸は使わないのですね」
「ええ?」
下弦の肆との戦いの最中、榛名は確かに炎の呼吸を使っていた。
それ以降は上弦の肆との戦いも含めて、ずっと空の呼吸である。
炎と、水の派生。全く違う呼吸法で、珍しい剣士もいるものだと思った。
ただどういうわけか、当の榛名はきょとんとした表情を浮かべていた。
「わたし、炎の呼吸なんて使えないわぁ」
「え」
「刀だってほら、青いしぃ」
「えええ……」
いや、使ってたじゃないですか。
そう言いたかったが、榛名の目が余りにも無垢だったため、言えなかった。
もしや煉獄家に生まれながら風の呼吸を使う瑠衣を気遣って、というわけでもなさそうだ。
「変な瑠衣ちゃんねぇ」
「ちゃんはやめてください」
本人が違うと言っているのだから、深入りすべきではない。
そうは思うのだが、炎の呼吸である。
無視しろというのも、難しい話ではあった。
「ガアア――――ッ!!」
思い悩んでいると、頭上で鴉の鳴き声がした。
鎹鴉。長治郎だ。
「任務――――ッ。任務ッ、新タナ任務デアルッ。瑠衣、榛名ァ!」
「あら、わたしもなのぉ?」
「続け様の共同任務は珍しいですね」
「また一緒で嬉しいわぁ」
手を打って喜んで見せる榛名に、瑠衣も小さく笑った。
榛名は素直な性格なので、瑠衣も付き合いやすかった。
「汽車ニ乗レェッ。汽車ァッ!」
「汽車?」
汽車、鉄道である。
もちろん移動手段として使ったことはあるが、徒歩が基本の鬼殺隊士としては、これも珍しい。
「乗客ガ消エル汽車ニ乗リ、鬼ノ痕跡ヲ探セッ。探セッ。探セェッ!!」
しかも移動手段ではなく、汽車そのものが任務の場所と来た。
乗客が消える汽車、か。
それが、鬼狩りだ。
「行きましょうか」
「はぁい」
腰の鞘に刀を納めた榛名が、機嫌良さそうに鼻歌など歌いながら、歩き始める。
その横顔を見つめながら、瑠衣も歩き始めた。
お喋り好きな榛名は言葉が尽きるということがないから、どうやって返事を返そうかと、そんなことを思っていた。
そしてもう1つ。先程は長治郎が入ってきて聞きそびれてしまったことを考えていた。
それは、榛名の背中の日輪刀のことだ。
呼吸法と同じく、榛名は普段は腰の日輪刀を使っている。背中のは二振り目ということだ。
使われることのない、二振り目の日輪刀。
あれはいったい、何のためなのだろうか、と……。
◆ ◆ ◆
草履の履き心地を確かめて、杏寿郎は立ち上がった。
煉獄邸の玄関である。
隊服姿の彼はうむと頷くと、後ろを振り向いた。
「では、行ってくる!」
「兄上、ご武運を」
「うむ!」
後は弟の千寿郎から刀を受け取り、出立するだけだ。
しかし千寿郎は刀を持ったまま、俯いていた。
不思議に思った。
今まで何度もこうして見送って貰ったが、こんなことは初めてだった。
「どうした、千寿郎」
「いえ……その……」
急かしはしなかった。
長男ゆえの感覚とでも言おうか、こういう時に急かすのはかえって良くないのだ。
だから杏寿郎は、弟が話すのを待った。
元より千寿郎が聡明な子だと知っているので、理由もなしに自分を困らせることはないと信じているからだ。
つまりこれは、千寿郎にとって何らかの理由があることなのだ。
だから杏寿郎は兄として、千寿郎が話し始めるのを待った。
そうしていると、やがて千寿郎も意を決したように口を開いた。
「すみません……その。何だか、胸騒ぎがするんです……」
胸騒ぎ。
要は不安ということだろう。
出発に際して弟に不安を与えてしまうとは、兄として不甲斐なし、と杏寿郎は思った。
杏寿郎は千寿郎の肩に手を置くと、いつものように快活な笑顔を浮かべて。
「心配するな千寿郎! 兄は何があろうとも帰って来る!」
鬼狩りだ。何があるかわからない。
次の任務で生きて帰れる保証など、どこにもありはしない。
現に直近の任務では、瑠衣があわや命を落としかけたところだ。
だから、千寿郎の不安は何ら根拠のないものではない。
「いつも通り、美味しいさつま芋を用意して待っていてくれ」
「兄上……」
「焼き上がる頃には、俺は帰って来ている!」
「それは無理だと思います」
むう、難しいな!
そう思ったが、千寿郎の不安はいくらか薄れたようだった。
笑顔で差し出された愛用の日輪刀を、力強く握った。
そしてもう片方の手で、千寿郎の頭を撫でる。
千寿郎はくすぐったそうにそれを受けた。
「では、行ってくる!」
「はい! さつま芋をたくさん買っておきます!」
「うむ、楽しみだ!」
千寿郎の見送りを受けて、外へ出る。
透き通るような青空と、陽光を降り注がせる太陽に目を細めた。
一点の曇りもない。
その温かさに、杏寿郎は笑みを浮かべた。
「前途洋々だ!」
曇りなき青空の下、杏寿郎は歩き始めた。
行き先は、夜だ。
夜の中に、杏寿郎は進んでいくのだった。
最後までお読み頂きありがとうございます。
炭治郎と善逸のキャラクターが意外と難しい……。
というわけで、原作でいうと6巻まで消化。
いよいよ7巻。映画よりも先に入れて良かったです。
映画が楽しみなのですが、何分、こんなご時世ですからどうなることやら…。
そして私が描きたいシーンの1つがこの7巻でした。
まあ、だからこそ煉獄家のキャラクターを主人公にしたわけですが。
いつもなら妹主人公候補を続けるところですが、そればかりするのも芸がないかなあ、とも思います。
そろそろまた何か募集してみるかなあ…サイコロステーキ先輩みたくやられ役とか…(え)
それでは、また次回。