――――
朝となく、夜となく、ただ海流に身を任せていた。
海藻のように、あるいは木の枝のように、何日も、何年もの間。
意思のようなものは、あった。
ただそれは、他の生物とは少し違うものだった。
生存への本能。安全への本能。
他の生物が当たり前に持っているものを、それは持っていなかった。
代わりにも持っていたのは、渇望にも似た、本能。
強迫観念にも似た、強い欲求だった。
(
生まれ落ちたその時から、自然とそう思っていた。
(
誰かに仕えなければならない。
何者かに、奉仕しなければならない。
それは常に、自分の奥底から溢れて来るその声に背を押されていた。
まあ、それに背中という器官は存在しなかったのだが。
(だれか、いないのか)
広大な海には、自分以外の生き物は存在していない。
たまに生物が傍を通ることもあったが、意思疎通の出来ない哺乳類や魚類ばかりだった。
そして彼らは、
動物や魚ではない。求めているものは、もっと他のものだった。
(だれか、いないのか。わたしが仕えるべき存在は、いないのか)
長い年月を海の上で過ごしていく中で、それは自分が弱っていることも理解していた。
海水が浸透しているのか、あるいは本能を満たせないことから来る精神的な衰弱か。
いずれにしても、徐々に意識が希薄になっていくことを実感していた。
それは、自分が死につつあることを理解していた。
(ああ、いやだ)
死ぬことは、恐ろしくはなかった。
元よりそれに、死への恐怖などというものはない。
ただ、
(このまま終わるなんて、いやだ)
誰か、誰でも良い。
わたしを、見つけて。
「―――り、り」
だから、声を上げた。
誰もいない、何者も聞くことのない海の上で、虚しい抵抗を、した。
「て……り。てけ、り、り。テケリ・リ」
テケリ・リ。テケリ・リ。テケリ・リ。
テケリ・リ。テケリ・リ。テケリ・リ。
テケリ・リ。テケリ・リ。テケリ・リ。
テケリ・リ――――。
「うん? 何だ、お前は?」
――――テケリ・リ。
◆ ◆ ◆
1人を複数人で攻め立てるなんて、気が引ける。
最初は、もしかしたならば、そんな考えが脳裏にあったかもしれない。
しかしそんな甘い考えは、ファスと戦う内にすぐに消え去っていた。
「そっちに行ったぞ炭彦!」
「わわわっ!?」
ナイフの数は、もはや数え切れない程になっていた。
片手に持てるナイフの数には限界があるはずだが、ファスはそれを数秒に一度の速度で射出してくる。
結果として、炭彦の目前に飛来するナイフは、もはや弾幕と言った方が良いレベルの物量になっていた。
しかも、微妙な時間差がついてくるのである。
ごう、と、激しい炎のような呼吸音が炭彦の口から漏れる。
そうして振るわれた日輪刀もまた、太陽の如き熱を持った斬撃になる。
しかし一度二度と斬り払ってもなお、ファスの攻撃は終わりが見えなかった。
「こっちだ!」
――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』!
一息に跳躍し、桃寿郎がファスに肉薄する。
傍らを跳び過ぎ、その背に向かって日輪刀を振るう。
その剣速と威力は、炭彦と比べても遜色のないものだった。
「ぬ、またか!」
しかしその刃が、ファスに届くことは無かった。
いや、それでは表現が正確ではないだろう。
桃寿郎の攻撃は、確かにファスを捉えていた。
だがその攻撃を、ファスは体を
「失礼いたします」
バサッ、と、ファスがスカートを広げた。
白い太腿が露になるが、煽情的というにはいささか
何しろ肌色よりも、
「
実際に千本あるのではないか、と思える程の量のナイフが射出された。
「桃寿郎君!」
攻撃を捌いたばかりの炭彦は、桃寿郎の援護に動くには動作が2つほど足りなかった。
「……!」
視界を覆い尽くす程のナイフの弾幕の中で、しかし桃寿郎は目を閉じなかった。
透き通る世界。
だがその視覚をもってしても、右にも左にも上にも下にも逃げ場を見つけることは出来なかった。
(もしも、助かる道があるのならば)
それは、《《ここ》にしかない。
そう決断すると、桃寿郎はけして目を閉ざさず、そのまま日輪刀を構えて深く身を沈めた。
桃寿郎が選んだのは、正面だった。
◆ ◆ ◆
――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎』!
正面に向かって、桃寿郎は跳んだ。
そして偶然にも、そここそが
腕を振るってナイフを投擲する関係上、ナイフの軌跡は外から内に向かう。
故にファスに近ければ近い程、ナイフの密度は薄い――気がする!
そう思うことにして、桃寿郎は跳び込んだ。
頬や肌にナイフが擦過するのを感じたが、桃寿郎は怯まなかった。
「驚きました。少しだけですが」
実際に本当に驚いている様子で、ファスはそう言った。
それに対して、桃寿郎はうむと頷いた後。
「有難う!」
「いや、有難うじゃないよ」
すっかりツッコミ役になってしまったなと思いつつ、カナタは状況の変化を敏感に感じ取っていた。
先程まではファスに一方的に攻撃されていただけだったが、偶然にしろ何にせよ、こちらの反撃が通った形だ。
振り下ろされる桃寿郎の剣先が、ファスのメイド服を斬り裂いていた。
しかし、お世辞にもダメージが通ったとは言えない。
斬り裂かれた衣服の隙間から素肌が見えているが、傷一つあるようには見えない。
文字通りノーダメージだった。
(……いや、待て)
ダメージが無いのは良い。
だが刀で素肌が覗ける程に衣服を斬り裂かれていて、肌に痕さえ残っていないのはどういうことだ。
まるで。
「桃寿郎君、
「ああ、視たし
そして肉眼のカナタ以上に、炭彦と桃寿郎の眼は
先程は、ぐにゃりと歪んで攻撃を回避した。
今は逆に、鋼のように硬質化して攻撃を防いだ。
そのいずれも、ファスの体内に潜む何かが関係している。
「体の中に何かがいるな!」
ゴムのように柔軟になり、金属のように硬くもなる。
余りにも対照的な性質だが、ファスの肉体はそれを可能にしている。
そしてその事実は、ある1つの事柄を証明してしまっていた。
「本当に驚きました。素晴らしい洞察力です。まるで身体を透かして見ているかのようです」
今度はそれほど驚いていない表情で、ファスは言った。
「では、おわかりになられたことでしょう。
攻撃は回避される。攻撃は弾かれる。
つまり、
「
苦しめることは本意ではありません。
そう言って、ファスは再び両手いっぱいのナイフを構えたのだった。
◆ ◆ ◆
どうやら、独特な身体構造を持つ相手らしい。
炭彦達の戦いの様子を見つめながら、瑠衣はファスを観察していた。
もちろん直接戦っているわけではないので、予測ということにはなる。
「お前ならどうやって戦う?」
面白がっているのか、ラーフの声は明るかった。
それに対して、瑠衣は表情を変えなかった。
そもそも論として、ラーフの問いには意味が無かった。
「
それだけのことだったからだ。
鬼がいれば斬る。何としても斬る。
それは鬼狩りがまず最初に学ぶことだ。
斬るという最終目的さえ見失わなければ、後はシンプルだ。
どうやって斬るか。考えることはそれだけだ。
どんなに無敵に見える能力でも、どこかに突破口はあるものだ。
この手ならどうか。駄目なら次の手はどうか。それを試し続ける。
鬼の頚を斬るまで。
「ほう、豪気なことだ」
思ってもいないことをと、瑠衣は思った。
ただそれは裏を返せば、彼女のファスへの信頼の高さを示してもいた。
この
「そうでもないですよ」
ただ、それは瑠衣も同じだった。
賭けを受けた形ではあるが、瑠衣もまた自分が負けるとは思っていない。
勝つのは子ども達だと、そう確信している。
(とは言え)
そうとは言っても、子ども達はまだまだ経験不足だ。
特に知識だ。
瑠衣と違って、前提条件としての鬼の知識量が足りない。
あるいは経験が足りないと言っても良いだろう。
過去にどんな鬼がいたのか?
どんな血鬼術があるのか?
それらに対しては、どうやって対処するべきなのか。
(苦しいでしょう。辛いでしょう)
その気持ちを、おそらく瑠衣はこの世の誰よりも理解できる。
目の前の鬼が絶対に倒せない相手なのではないかという、どうしようも無い不安。
心が折れそうになる絶望を、何度も突き付けられる。
けれど、それを乗り越えて行くしかない。
炭彦にとっての幸運は、彼が1人ではない、ということだった。
1人では、人は強くいられない。
本来は究極の個人主義である鬼と、そこが最大の違いだった。
(でも、信じています)
炭彦ならば、子ども達ならばきっと、
瑠衣は、信じていた。
◆ ◆ ◆
見た目の細腕に反して、ファスは力も強かった。
しかも炭彦達のような、大きな日本刀ではない。
ナイフかメスかというような、小さく頼りない刃物だ。
その一撃が、
「~~~~ッ!」
振り下ろした日輪刀を、涼しい顔で弾かれる。
その時、鈍い痺れがジンジンと腕に伝わって来る。
何という馬鹿力。しかもどんどん強くなっているような気さえする。
「うおおおおおっ!」
ファスの意識が炭彦に向いている隙に、桃寿郎が斬りかかる。
しかしファスは意識の死角にあるはずのその攻撃にも、適切に対応した。
上半身を
その様は、背中に目でもついているのか、と言いたくなってしまう程だった。
「……これでも、放しませんか」
一方のファスも、少しばかり驚いていた。
先程までの一撃。彼女は日輪刀を炭彦達の手から奪うつもりで放っていた。
人外の
しかし炭彦も桃寿郎も、日輪刀を手放すことなく耐えていた。
「握力は死ぬほど鍛えられたからな!」
瑠衣は2人にいくつかのことを教えたが、最も念を押したのが
すなわち、
日輪刀は人間が鬼に対抗できるほとんど唯一の武器だ。
これを失うことは、文字通り鬼への対抗手段の喪失を意味する。
だから、どんなことがあっても日輪刀の柄から手を放してはならない、と、瑠衣は彼らに教えた。
(けど、そうは言っても)
そうは言っても、それだけでは事態を好転させることは出来ない。
実際問題として、炭彦と桃寿郎の攻撃が通じないという点は変わらないのだ。
さらに鬼狩りの剣士の宿命として、その戦闘力は時間と共に落ちていく。
今は日輪刀を弾かれないように耐えていられるが、それがいつまで続くかはわからない。
(何か、何か無いのか)
それまでに、何か事態を好転させる突破口を見つける必要があった。
ファスの体質に対処し、炭彦達の体力が尽きる前に決着をつける突破口を。
(何か)
だが、それもまた至難の業だった。
観察して考えるよりも先に、目の前に迫るナイフの群れに対応しなければならない。
一瞬でも気を抜けば、すぐに死が肩を叩いてくるだろう。
文字通り絶体絶命の状況の中、いつしか炭彦達は唇を固く引き結んでいた。
◆ ◆ ◆
硬質化して桃寿郎の刀を弾き、逆に柔らかくなって炭彦の攻撃をかわす。
ファスのその防御と回避はまさに鉄壁で、打ち崩すことが出来なかった。
対して、ファスの攻撃は徐々に炭彦と桃寿郎を削りつつあった。
(あの守りを何とかしないと、どうにもならない)
カナタの目から見ても、それは明らかだった。
時間的な余裕は無い。
だからカナタは、観察した。必死だった。
何しろ実際に戦闘している炭彦と桃寿郎は、そういう思考をしている余裕が無い。
戦えない自分が、考えなければならない。
自分が何か、突破口を見つけなければ。
「硬くなって……柔らかくなる……」
それが、炭彦と桃寿郎が攻撃する際に起こるファスの肉体変化だ。
日輪刀よりも硬質化されれば、これはどうしようもない。
だからもしも、突破口があるとすれば、柔らかくなった時ではないか。
一瞬、カナタはそう考えた。
「炭彦! 続けて攻撃するんだ!」
声を上げる。
そうして、カナタは叫んだ。
「
叫んだのは、何故か逆の言葉だった。
何故なのかは、カナタにもわからなかった。
ただ気が付いた時、そう叫んでいた。
「……!」
一方の炭彦にも、カナタの意図まではわからない。
わからないが、しかし。
「わかった!」
しかし、炭彦はカナタのことを信じていた。
カナタが自分よりもずっと賢いことを、炭彦は誰よりも理解していた。
いや、賢いとか賢くないとか、そういうことでもない。
ただカナタがそう言ったから、炭彦は信じたのだ。
轟、と、炭彦の身体から激しい呼吸音が発せられた。
弾かれないように日輪刀を強く握り締め、そのまま跳んだ。
当然、ファスはそれに気付く。
勢いよく振り下ろされる――今までになく大振り――を見てとって、腕を上げた。
「はあああああっ!」
呼吸を乗せた日輪刀の一撃。
しかしそれは、ファスの硬質化した腕によって防がれてしまった。
だが防がれることを予想していた攻撃は、弾かれることなく――削れた。
金属が擦れる嫌な音が響き、
「まだだあああああああっ!」
「――――ッ!?」
そこへ、桃寿郎が打ち込んで来た。
それは予想外だったのか、ファスの反応も一瞬だけ遅れた。
とは言え、ファスの肉体変化の速度を思えば、致命的な遅れという程では無かった。
だが桃寿郎の攻撃は、ファスの思わぬ場所に打ち込まれた。
炭彦が打ち込んだその場所に、寸分
◆ ◆ ◆
「刀とは、実はとても脆いものです」
瑠衣は、炭彦にそう教えてくれた。
「とても強靭なように見えて、正しい方向に正しい力を向けなければ、簡単に折れてしまいます」
逆に言えば。
正しい方向に、正しい力で斬り付ければ、
そう言って、瑠衣は炭彦や桃寿郎の前で分厚い石材を斬って見せたことがある。
その時は、瑠衣の言うことが余り理解できなかった。
だが今は、少しだけ理解できたような気がした。
刀だけではないのだ。
どんなに硬い鋼のような物体でも、
「――――!」
ファスの両目が、驚愕に見開かれる。
それはこれまでの彼女が見せた中で、最大限の感情の発露だった。
「お……」
とは言え、それは傷というには、余りにも小さな物ではあった。
人間に例えれば、薄皮の一枚二枚を抉ったか、というところだ。血さえ出ない。
だが、それは確かに傷だった。
「おおおおおおおおっ! 効いたぞ炭彦!」
「うん! 視たよ!」
ファスの防御は確かに鉄壁だった。
しかし鉄と言えども、正しい受け方をしなければ脆い。
鉄製の武器が、鎧が、盾が、戦場で砕けるのと同じ道理だ。
一撃目の炭彦の攻撃を、ファスはまさしく正しく受けた。
しかし二撃目の桃寿郎の攻撃は、正しく
一方で炭彦も桃寿郎も、透き通る世界のサポートを受けて、正しく刀を振るった。
正しい側とそうではない側、その優劣がはっきりと表れた形だった。
「――――だからどうしたというのです」
理屈がわかってしまえば、対応は容易い。
要は二撃目をも、正しく受ければ良いだけのこと。
そう思い直して、ファスはすぐに体勢を立て直した。
それは、ファスの戦闘対応力の高さを証明していた。
しかし、彼女は知らなかった。
「ようし、行くぞ炭彦!」
「うん!」
この時代の、現代の子ども達の、
「――――なっ!?」
一撃目、確かにファスは桃寿郎のそれを受け止めた。
完璧に、受け止めた。
そして続いてくるだろう二撃目、炭彦の攻撃に備えた。
「こっちだ――――!」
だが、炭彦の攻撃は、
◆ ◆ ◆
カナタは言った。確かに言った。
桃寿郎は文字通り同じ場所を続けて攻撃したが、カナタの指示は必ずしもそうでは無い。
「――――ッ!」
もちろん、ただ二か所を攻撃するだけであれば、ファスは問題なく対応しただろう。
それだけの戦闘対応力が、ファスにはある。
しかしそれは、相手が普通の存在であれば、の話だ。
全集中の呼吸の鍛錬を積んだ剣士が2人、タイミングを合わせて攻撃を重ねて来る。
右を防いだかと思えば左に打ち込んで来る。
上を弾いたかと思えば、下に打ち込んで来る。
そして別々に打ち込んで来るかと思えば、同じ場所を打って来る。
(良し、いいぞ……!)
無意識の内に、カナタは拳を握り締めていた。
それほど、状況は
カナタの目には、炭彦と桃寿郎が絶えずファスに打ち込んでいるように見える。
それだけの速度で、攻撃し続けている、ということだった。
(このまま、行け!)
このまま攻めきれれば、と、カナタは思った。
そして実際、ファスにとってこの状況は好ましいものでは無かった。
(この、攻撃、は……!)
別々の場所を
もちろん、フェイントもある。
それを全集中の呼吸で、透き通る世界の状態で、全速力で行っている。
狙いを絞らせないという意味において、極めて厄介な戦術だった。
一撃で受けるダメージは、大したことが無い。
大したことは無いが、着実に蓄積していく。
(不味い……!)
状況が、ひっくり返されてしまった。
硬質化による防御が、かえって自身を不利にしてしまっている。
そんな状況に、ファスの胸中に、確かな焦燥感が芽生えていた。
これだけの攻勢だ。炭彦や桃寿郎が、遠からず限界を迎えることはわかっていた。
わかっていたが、しかし、それよりも先に。
(このままでは)
それよりも先に、
(このままでは、
その時、炭彦の放った一撃が、ファスの頚に届いた。
衝撃が、ファスの体内を揺らす。
◆ ◆ ◆
不意の空振りに、炭彦はたたらを踏んだ。
予想外に攻撃が外されたために、集中が一時途切れてしまった。
攻撃の勢いのままに床を滑り、すぐに振り向いて状況を確認した。
幸い、ファスが追撃をかけてくることは無かった。
彼女は、
それは文字通りの意味で、
ただそれは、とても人間の肉体が溶けた物には見えなかった。
「何、だ……あれ……は……」
カナタも、言葉を失っていた。
失わざるを得ない。
それ程に、ファスの変化が急激だったからだ。
「……み……」
ファスの身体は、個体と液体の中間のような状態で、その場に
どろどろとした、不定形の塊だ。
色は緑色に見えるが、それさえも所々で濃淡が変化していて、別の色にも見える。
気のせいでなければ、半透明にさえなっているように見えた。
ファスの姿形も、いや衣服でさえも、どこかへと消え失せていた。
あの不定形の塊の中に、溶けて消えてしまったと考えるべきなのだろう。
状況的にはそうとしか考えられない。だが、脳がすぐにへ受け入れられなかった。
「
口は無い。見えない。
しかし、ファスの声がはっきりと聞こえた。
当然ながら、それはあの塊の中から聞こえて来た。
「……て」
いくつも、いくつも。
何重にも重なって、ファスの声が耳に届いて来る。
「て……り。てけ、り、り。テケリ・リ」
いや、それをはたして声と言って良いのかさえもわからない。
もはや合唱のような、それほどの声が、いや音が、重なって聞こえていた。
目の前から聞こえているはずなのに、何故か周囲のすべてから聞こえているような気がする。
まるで、見えない何かに取り囲まれているような、そんな気配を感じた。
「テケリ・リ。テケリ・リ。テケリ・リ
テケリ・リ。テケリ・リ。テケリ・リ。
テケリ・リ。テケリ・リ。テケリ・リ。
テケリ・リ――――!」
背筋に、冷たいものが触れて来る。
そんな感覚に、カナタも炭彦も、顔色を
鬼や吸血鬼とはまた別種の恐怖が、彼らの中にすっと入り込もうとしていた。
◆ ◆ ◆
恐怖が入り込み、胸中を占めようとした、その時だった。
「――――大丈夫だ!」
相変わらずの大音量。
桃寿郎の声が、炭彦達の意識を
ぎょっとした顔で桃寿郎の横顔を見れば、そこにはいつも通りの快活な笑みがあった。
「確かに面妖で驚いたが、それでもだ!」
桃寿郎とて、ファスの変化に驚いていないわけではない。
ただそれ以上に、彼の眼は
ひたすらに真っ直ぐに、愚直に、目の前の道だけを見ていたのだった。
「
そして実際、その通りだった。
ファスは正体を明かしたのではない、
炭彦達の猛攻に耐え切れずに、人間の形を保つことが出来なくなったのだ。
その事実は、さらにもう1つの事実をも教えてくれる。
すなわち、無敵に見えたファスも、無敵ではなかったということだ。
人間の形をしているかどうかは、この際は重要ではない。
より重要な点は、攻め続ければ、斬り続ければ、倒せるということだ。
「鬼の弱点は頚だと聞いた!」
「……頚があるようには見えないけど」
「いいやカナタ。頚はある! 頚の形をしていないだけだ!」
鬼である以上、頚は存在する。
それを意識してさえいれば、敵の変化にいちいち衝撃を受けることも無い。
何故ならば、頚を斬るという条件は変わらないからだ。
「炭彦! お前もヤツの頚を探せ! 俺も探りながら戦う!」
それを改めて再認識して、炭彦の腹も決まった。
「――――うん!」
戦闘再開。
それが、見ているだけでわかる。
炭彦と桃寿郎の戦意を確認したファスもまた、
「うおっ、何だあれは気持ち悪いな!」
左右に別れた炭彦と桃寿郎は、先程と同じように攻撃を重ねるつもりだった。
あの無数の目は、全方位に視界を向けて、死角なく炭彦達の攻撃を見抜こうというつもりなのだろう。
すなわち、ファスの意思もまた強固だった。
迎撃。それ以外にない。そもそもこの戦いはそういう
(そうだ。倒すんだ、この鬼を……!)
そうしなければ、瑠衣が殺されてしまうのだから。
それは炭彦にとって、何を置いても阻止しなければならないことだった。
◆ ◆ ◆
――――場が、無言になっていた。
瑠衣とラーフがいる、最奥の間のことだ。
先ほどまではラーフが絡む形で会話もあったのだが、今は2人とも何も会話を交わしていない。
ただ、炭彦達の戦いの様子を見つめているだけだ。
そう言えば、港を出港してからどれだけの時間が経ったのだろうか。
それほどの時間は経過していないはずだ。
つまり炭彦達の戦いも、まだ数分程の出来事に過ぎない。
だが内容が濃密なために、すでに何時間も過ごしているかのような気分になってくる。
(あれは、もしや……?)
真の姿を現したファスを見て、瑠衣は疑問を得た。
これまで戦って来た吸血鬼と称する鬼とは、どこか違うと感じたからだ。
ラーフを始祖とする他の鬼とは、決定的に何かが違う。
(……ラーフも静かになりましたし)
あれだけ饒舌だったラーフが、今は一言も喋らない。
その視線はじっとファスに注がれている。
どうやら彼女にとっても、ファスの変貌は予想外だったのかもしれない。
もしもそうだとすれば、状況は
とは言え、今は動くことが出来ない。
自分が動けば、目の前にいるラーフが座視するはずもない。
追随して動くだろう。そうなれば、状況がより複雑になりかねない。
ファスのことは、子ども達に任せるしかない。
(私は、こいつを)
こうして見つめ合っているだけだが、瑠衣は一瞬とて気を抜きはしなかった。
そしてそれはラーフも同様で、相変わらず一分の隙も見せていなかった。
だが今、ほんの
(あのファスという鬼が変化したことと、無関係とは思えない)
やはりラーフにとっても、ファスの変化は想定外だったのだろう。
それ自体は、良いことだった。
相手が思いもしないことをするというのが、状況を動かす上で最上の手の1つだからだ。
それだけ、炭彦達がラーフの――そしてもちろん、ファスの――予測の上を行った、ということだ。
だが、それがこちらにとって優位に働くかどうかは、また別の話だ。
仮に優位に働いたとしても、それがそのまま勝利に繋がるとも限らない。
つまりこの勝負の先は、まだわからない。
誰にも、それこそ神や仏でさえも、この先の展開はわからないのだった。
最後までお読みいただき有難うございます。
最近リアルが忙しく思ったように更新できておりませんが、何としても完結までは持って行きますので、どうぞ気長にお待ちいただけますようお願いいたします。
それでは、また次回。