あの鬼の船が出航してから、もう何時間が経っただろうか。
信じて待つと決めたとは言え、焦れる気持ちが無いわけではない。
もちろん表面上は――部下の手前もある――冷静さを保っている産屋敷だが、内心は徐々にだが焦りを募らせていた。
と言うのも、彼は呼吸の剣士の
鬼狩りの戦闘は短期決戦が基本。
仮に出航してすぐに戦闘状態に入っていたとして、時間的にはすでに
つまり今の時点で決着の連絡が無いということは、状況が不味い方向に転がっていると推察されるのだった。
「……例の物は、準備できているかい?」
だから、何か手を打つ必要があった。
そして産屋敷はすでに、そのための手を打っていた。
「はっ、準備できております」
「
部下からの報告に、頷きを返す。
もちろん、この手が上手くいくかどうかはわからない。
それでも、何もしないよりはずっと良いはずだった。
「いずれにせよ、今日で決着がつく」
内地には、今夜は何の被害も異変も起こっていなかった。
平穏そのものだ。
だから、敵の戦力があの船の中にあるものが最後なのは間違いなさそうだった。
とは言え、それはこちらにとっても同じことだった。
人類最後の鬼狩りである煉獄瑠衣と、その弟子と言える炭彦と桃寿郎。
こちらが出せる戦力の全てもまた、今はあの鬼の船の中にあるのだ。
瑠衣達がもしも負ければ、それで人類は鬼への対抗手段を失うことになる。
「たとえ今日を凌いだとしても、明日はまた別の脅威に苛まれているかもしれない」
それもまた、十分にあり得ることだった。
また新たな鬼が、この国にやってくるかもしれない。
その時にはまた、今日と同じく、退路の無い戦いを強いられることになるのだろう。
いつかは、乗り越えられない危機がやって来るのかもしれない。
「それでも、明日のために、わたし達は戦うんだ」
それでも、
きっと、自分達はそう思って、戦い続けるのだろう。
だからきっと、自分達は今日も乗り越えられるはずだ。
「それじゃあ、
そう信じているからこそ、明日を掴むことが出来るのだから。
産屋敷は、そう信じていた。
◆ ◆ ◆
不思議なもので、疲労は感じなくなっていた。
集中すればする程、その傾向は強くなっていった。
呼吸はより深くなり、視界はさらにクリアになっていった。
「はああああぁ――――ッ!」
複数の方向から迫る触手――文字通りの意味だ――を、すべて撃ち落とす。
以前の自分であれば、一つだって迎撃できなかっただろう。
だが今は、目にも止まらぬ速度で迫る触手のすべてを視ることが出来る。
身体も、自分の考えにしっかりとついて来てくれる。
「おおおおおっ!」
そしてそれは、桃寿郎も同じだった。
特に
桃寿郎の斬撃は「斬る」というよりは「打つ」というイメージが強い。
打たれた触手が地面に叩きつけられ、バウンドして行く様は壮観とさえ言えた。
(順調だ。順調だけど……)
一方で、問題もあった。カナタにはそれがわかっていた。
それは、当のファスに2人の攻撃に怯んだ様子が無いことだった。
確かに炭彦と桃寿郎は攻勢を強めている。ファスの攻撃は2人の身に届いていない。
だが2人の攻撃もまた、ファスの本体に届いていないのだ。
不定形のドロドロした姿になったファスは、一応は人形に近い形をしていた。
人の形をしているが、半透明の液状になったそれを人と同じと考えることは難しい。
しかも炭彦達が攻撃しているのは、そこから伸びた触手部分に過ぎないのだ。
つまるところ、ファス自身にダメージが一切入っていない。
「何とかしないとジリ貧だぞ、炭彦!」
「大丈夫!
カナタの声に、炭彦は応じた。
彼の集中力は今、極限の状態にある。
炭彦の透き通る世界の視覚は、不定形のファスの肉体の本質をきちんと見抜いていた。
人間や他の鬼の肉体と同じように、動作の前の
そしてその起こりの根っこの部分を、すなわち核の部分を、炭彦の眼は捉えている。
(
核の部分、すなわち
極限まで集中した透き通る世界の中で、炭彦は両断すべき相手を捕まえた。
後はそこに飛び込み、日輪刀を振るえば良かった。
炭彦の身体は、それを意識せずとも行い得るように訓練されていた。
「い――――」
そしてまさに、そうしようとしたその刹那の瞬間。
全てを見通せていた炭彦の視界が、真っ赤に染まったのだった。
◆ ◆ ◆
「「炭彦ッ!?」」
カナタと桃寿郎の声が、やけに遠く感じた。
同時に全身が急速に冷えて、力が抜けるような感覚を覚えた。
顔面、特に口元のあたりに生温かい感触があった。
指先で触れると、ぬるりと滑った。
「え……?」
触れた指先が、真っ赤に染まっていた。
それが血だと気付くのに、数秒ほどかかった。
鼻血がとめどなく、ボタボタと垂れ続けている。
血が足元に落ちる度に、全身から力が抜けていくような気がした。
そして実際に、身体が動かなくなっていた。
透き通る世界の視界も、黒ずみに塗り潰されていくかのように、狭くなっていく。
有り体に言って、失神しかけているのだった。
「な、なん、で」
どうして、いきなり。
何故、こんなにも血が。
炭彦の頭の中は、その考えでいっぱいになった。
それは、雑念だった。
先程まで炭彦の中には、1つの雑念も無かった。
それが高い集中力を生み、ファスを追い詰めることにも繋がった。
だが雑念は1つ生まれると、次々に生まれてしまう。
それは1つ1つが心と身体に絡みつき、動きを阻害してしまう。
「炭彦、危ない!」
とは言え、動けなくなったのはほんの数秒のことだっただろう。
だが戦いの場においての数秒というのは、そのまま致命的な隙になりかねない。
そして実際、その通りになってしまった。
「……ッ」
ファスの触手が、動きの止まった炭彦を目掛けて放たれていた。
狭まった視界の中でそれを知覚するが、身体が意識について来れなかった。
防御は愚か、回避することも出来ない。
だが、ファスの触手が炭彦の身体を貫くことは無かった。
何故ならば、彼女の触手が届く前に、間に割って入った者がいたからだ。
「と――――」
燃えるような髪色の後ろ姿が、炭彦の目に映っていた。
遅れて、鈍い音が何度も響いた。
桃寿郎の髪が、ぱっと朱色に染まるのが見えた。
「ぐ、ぬ……!」
炭彦に向かっていた触手の全てを、桃寿郎が受け止めていた。
だがその全てを日輪刀で弾くことが出来ず、何本もの触手がその身を貫いていた。
それを理解した時、炭彦は叫んだ。
「桃寿郎君――――ッ!」
桃寿郎が、炭彦の前に跳び出し、その身を晒していた。
そして桃寿郎がゆっくりと倒れていくのを見て、炭彦はようやく動くことが出来たのだった。
◆ ◆ ◆
正直なところ、ほとんど反射で動いたので、その後のことは何も考えていなかった。
(むう、これは……少々、不味い、な!)
炭彦を庇ったまでは良いものの、受けたダメージが思ったよりも深刻だった。
何とか、致命的な負傷は避けた――と思う。そう思うことにする。
ただ手足を貫かれた。具体的には左肩と右足。
利き足を負傷してしまったのは、非常に不味い。
触手が引き抜かれると、傷口から血が噴き出した。
傷口周りの血管を意識して、呼吸で締める。
すると流血の勢いは弱まり、見た目には塞がったように見える。
しかし応急措置だ。負傷そのものが消えたわけでは無い。
「ぐ、あ」
触手を引き抜かれた後も、立っていようとした。
しかし自分の身体を支えることが出来ずに、床に両膝が付き、さらにそのまま前のめりに倒れ伏してしまった。
頬を
「桃寿郎……!」
事態が非常に不味い方向に行っていることを、カナタも理解していた。
ここまで炭彦と桃寿郎が互いをカバーすることで、何とかファスと渡り合ってきた。
桃寿郎が倒れてしまったということは、その微妙なバランスが崩れてしまう、ということを意味していた。
しかも、炭彦もまた限界を迎えているのだ。
もはや、これまで通りの動きを期待することは出来そうにない。
まさしく、絶体絶命だった。
「にゃあ」
不意に、足元で猫が鳴いた。
茶々丸とコロが、カナタの足元で彼を見上げていた。
その目は、どうする、とカナタに問うて来ていた。
(たしかに)
コロと茶々丸ならば、戦力になり得る。
何しろ桃寿郎と炭彦の訓練相手だったのだ。
むしろ純粋な実力で言えば、炭彦や桃寿郎よりも上だとも言えた。
――――だが。
(駄目だ。勝てない)
瞬時に、カナタは断じる。
茶々丸とコロの力を侮っているわけでは無い。
しかし茶々丸もコロも、
主、相棒。言い方は様々だろうが、いずれにせよ、
そして今の状況を打破するために必要なのは、
そう、それこそ、今この場にはいない誰かのような。
だが、その誰かは今ここにはいない。
いないものを、頼ることは出来ない。
(だったら、いっそのこと――――)
と、カナタが考えた時だった。
彼は、茶々丸とコロの毛並みが、ぶわっと逆立つのを見た。
文字通り、そんな様子だった。
いったい何だ、と思ったが、同時に気が付いた。
カナタ自身もまた、産毛までも逆立つ程に総毛立っていたことに。
そして、その原因は。
彼らの目の前に、いたのだった――――。
◆ ◆ ◆
――――何だ?
何かを感じ取って、ファスは
いや、それは少し表現を間違えている。
(――――
実をいうと、ファスの全身に浮き上がった目玉は、そのいずれも眼球としての機能を持っていない。
そもそも銀色のメイドの姿も、主の命令でそういう形に
だから見た目にそう見えるというだけで、本物の物は何一つ無い。
眼球もそうだ。目の形をしているからと言って、人間の目のように見えているわけではない。
ファスにとっての目は、レーダーに近い。
相手の発する気配を、温度を、感じ取るための器官なのだ。
そして今、その器官から炭彦の存在が
いや、消滅したわけではない。そこに
(
人間は、動作の中に感情が乗る生き物だ。
命を賭けた戦いの最中ともなれば、ますますそうだ。
それは戦意であったり、闘志であったり、あるいは殺意であったりと、色々だ。
(こんな、こんな気配を)
だが今、ファスの器官は
倒れた桃寿郎と、カナタ達を除いて、この空間に他に人間はいない。
だが当然、そんなはずはない。
人間はけして忽然と消えたりはしない。
だから目の前に炭彦は居る。
(こんな気配を、人間が発することが出来るのですか……?)
そうとしか思えない。そんな気配が目の前にある。
炭彦がいた場所に、その気配が確かに存在していたのだった。
すなわち、その気配の主こそが、炭彦に他ならない。
(理由はわかりませんが、彼は確かに、
炭彦に、何らかの変化が起こった。
何故かはわからない。
しかしその変化は、
やはり何故かはわからないが、ファスはそう認識した。
そして。
(来……)
認識した次の瞬間、ファスは斬られていた。
◆ ◆ ◆
自分の中で、何かが変わった。
桃寿郎が倒れるのを見た時、炭彦はそう思った。
だがその変化を、炭彦自身おそらく言葉で説明することが出来ない。
ただ、頭の中で誰かの声が聞こえた気がした。
『死んでしまいますよ』
それはあの訓練の最中、限界を迎えて倒れてしまう度に、何度も言われた言葉だった。
『自分が倒れている間に、仲間が殺されてしまいますよ』
倒れる度に、その言葉が頭の上から落ちて来た。
何度も何度も、落ちて来た。
倒れてはいけない。
倒れれば、自分以外の誰かが死んでしまう。
しかしその言葉を、本当の意味では理解できていなかったのだ。
事ここに至り、認めざるを得ない。
今こうして、桃寿郎が倒れたこの時になって。
ようやく炭彦は、その言葉の意味を理解した。
「――――――――」
理解した、その瞬間だった。
燃え上がっていた意識も、痛み疲弊の極みにあった身体も、
それこそ、どろりと溶けてしまったかのような、そんな感覚だった。
「
身体から、無駄な力が抜けていく。
自然体で身体を動かす。
それが理想だが、人間の身体は動作の際にどうしても
その力みが、溶けるように消えていくのを感じる。
動ける、と思った次の瞬間には、炭彦の身体はすでに動いていた。
そして視覚もまた、透き通る世界を見つめていた。
今度は相手や周囲だけでなく、自分自身のことでさえその中に含まれている。
すなわち、自分の肉体を最適な動作で動かすことが出来ている。
無駄な力が抜けて、最適な動作で、炭彦の身体は動いた。
「斬れた」
起きた事実を、淡々と口にした。
炭彦の日輪刀は、あれほど近付くことさえ困難だったファスの体に、確かに届いていた。
そしてファスは、その攻撃に対して、ほとんど何も反応できなかった。
斬られた部分から体液が噴き出すまで、彼女は自分が斬られたことに気が付かなかったのだ。
「――――――――素晴らしい」
彼女にしては珍しく、思わず口を吐いて出た、という風だった。
だが、その言葉に嘘は何一つ無かった。
すべてが、本心からの言葉だった。
「見せてください、炭彦君」
彼女は本当に、
「貴方の、
瑠衣は、今の炭彦をこそ望んでいたのだから。
◆ ◆ ◆
自分の体液が溢れ出る感覚に、ファスは衝撃を受けていた。
(――――もしも)
もしも、
(
それは、確信だった。
あと僅かのところで、生死が分かれていたという感触。
ファスはまさに、それを感じていた。
(
一方の炭彦もまた、己の手がファスの
いや、掴んだのはそれだけでは無い。
激しいジェット気流のような、
それさえも、いつもよりもゆっくりとしたように感じるその場所で、彼が掴んだもの。
それは。
(
全集中の呼吸。その、1つの到達点だった。
そこに確実に指をかけた。そんな確信があった。
それは炭彦に一種の高揚感を与えると同時に、それ以上の失望も与えて来た。
(ごめん。桃寿郎君)
危機に陥った友達を前に、肉体に秘められた力を発揮する。
美しい言葉だ。
しかしそれは、裏を返せば
(弱くて、ごめん)
弱い自分への不甲斐なさ。
そしてそれ以上に、友達が倒れるまで危機感を感じ取れなかった自分への。
すなわち、
この温厚な少年らしい、他者ではなく自らへと向かう形の、怒り。
しかしその怒りこそが、竈門炭彦という少年の、およそ生きていくだけならば不要な力の扉を、開いたのだった。
「――――勝負です。ファスさん」
両手で日輪刀を握り締めながら、こちらを警戒するファスに告げた。
決着を、宣言した。
しかし闘志に満ちているはずの言葉を聞いてもなお、ファスの印象は変わらなかった。
そこにいるのに、存在感が極めて希薄。
植物のような薄い気配からは、何の脅威も感じられない。
しかしそんな存在が、一瞬前にファスの命に触れたのだ。
そんな彼が、決着に言及した。
「これで、最後だ……!」
炭彦が大上段に日輪刀を振り上げて、そう言った。
燃えるような呼吸音が、その唇から響き続けていた。
◆ ◆ ◆
どちらも、もはや何も話さなかった。
言葉を交わすことに意味がない。
というよりも、言葉を発するエネルギーでさえ、次の一撃のために溜めていると思えた。
相対する2人の間には、言い様の無い緊張感が漂っていた。
(次で、決着……)
無意識の内に、ごくり、と、カナタは生唾を呑み込んでいた。
次で決着する、という予告あるいは予感に、カナタも当然ながら緊張を強いられていた。
(……炭彦)
だが、カナタはその場から動けずにいた。
今の自分には、もはや何を成すことも出来ない。
そのもどかしさもまた、カナタに緊張を強いていた。
いや、思えばこれまで、自分が
不意に、そんなことを思ってしまった。
事実として今、カナタは炭彦に対して何もしれやれない。
もっとも、そんなことを言ってしまえば。
(炭彦は怒るだろうね)
だからカナタは、そんなことは言わない。言う必要が無いからだ。
むしろ炭彦には自分が必要で、自分が何も出来ないのだと、そんな風に思っている。
自分自身に、そう言い聞かせている。そう在るべきだと。
そう在ることで、炭彦は戦えるのだと、信じていた。
だから、カナタはけして今の自分を
「……け」
ここにいることに、それ自体に、意味があるのだから。
自分は、
「行け……!」
自分がここに、炭彦の後ろにいることで、きっと。
きっと、炭彦は走れるはずだから。
その背中を押してやれるのは、それは、カナタにしか出来ないことだから。
だから、カナタは叫んだ。
「行け、炭彦――――ッ!」
すると不意に、ギリギリまで張り詰めていた場の空気が、一変したような気がした。
それを、カナタは肌ではっきりと感じ取った。
張り詰めていた糸がプツリと切れたかのように、一瞬だけ
そして、両者が一気に動き始める。
まるで2人とも、きっかけを待っていたかのように。
一斉に、野猪か猛禽類かのように、互いへと襲い掛かった。
それは余りにも素早く、カナタの目にはもはや何が起こったのかもわからない。
しかし決着そのものは、炭彦の宣言通りに、次の瞬間には決していたのだった。
◆ ◆ ◆
この時、ファスはある事実を認めた。
(この人間の子どもは、わたしの能力を超えている)
理由はわからないが、炭彦に変化が生じた。
そしてその変化は、炭彦を自分の手に負えない何かに変えてしまった。
その変化は、人外であるファスの目から見ても、
だからファスは、それを率直に認めた。
くだらないプライドに固執して、本質を見誤る愚を彼女は犯さなかった。
自分の方が弱者であると認め、
「硬直化――――」
炭彦の眼――透き通る世界――は、ファスの核を的確に見抜いてくる。
先程の攻撃が通ったのは、炭彦の攻撃がファスの核を掠めたためだった。
つまり炭彦には、ファスの核――すなわち、
だから、核を移動させて守ることに意味が無い。
それならば、核は固定する。
そうすれば、炭彦の注意がそこに向く。
頚を斬らなければならないのだから、自然とそうなる。そうならざるを得ない。
すなわち、
「貴方の剣がわたしの命に届く前に、わたしの針が貴方の命を狩ります……!」
ファスの視線の先、炭彦は真っ直ぐにこちらへと進んできている。
その跳躍は余りにも速く、そして余りにも直線的だった。
炭彦の視線は、まさにファスの頚へと向けられている。
他のものは視えていないのではないか、と思える程だった。
称賛に値する集中力だった。
だが今は、その集中力を利用させて貰う。
弱者である側は、相手の油断を突くところにしか勝機は無いのだから。
その点において、ファスにもまた容赦というものはない。
「わたしの、針の方が」
自分の頚に日輪刀が届く前に、硬質化した触手の針が炭彦の身体を貫く。
それで、勝利はこちらのもの。
後はそのままの勢いで、カナタら外野を葬り去るだけ。
――――に、なるはずだった。
「え……」
触手の針に、目論見通りに炭彦が飛び込んで来た。
そして、その身を貫く――その、刹那だった。
触手を通じて感じるはずの、肉を貫く独特の振動が、感じ取れなかった。
貫いたはずの炭彦の身体、
「いったい、どこへ」
次の刹那。
ファスは己の頚に、焼けるような灼熱感を感じた。
◆ ◆ ◆
――――日の呼吸・漆ノ型『
まるで
だがそれは消滅したのではなく、素早く身を翻し、身体を上下反転させて浮き上がっただけだ。
ファスの触手の針は、直撃する前に擦り抜けてしまったのだ。
「僕の勝ちです。ファスさん」
ぐらり、と、視界が揺れる。
己の身が倒れつつあるのだと、そう理解した。
同時に、己の敗北を理解した。
背筋が凍り付くような、命が流れ出していく感覚に、恐怖を感じた。
だが実際のところ、ファスの恐怖の対象はそこには無かった。
彼女が想ったのは、己が
自分の勝利に、迷うことなく己の命を賭けてしまう程の信頼。
その信頼を裏切ってしまうことに、ファスは何よりも強い恐怖を感じていた。
『頼んだぞ、ファス』
駄目だ。と、そんな考えが脳裏を駆け抜けていった。
このまま倒れることだけは、絶対にしてはならない。
そんな結末は、絶対に、認めてはならない。
「お……」
認められない。
認められない。認められない。
認められない。認められない。認められない――――!
「オオオオオオオオオオオオッ!!」
爆発。もはやそう表現するのが正しいだろう。
ファスの全身が弾けるようにして、針が伸び、そして撃ち出された。
そしてそれは、頚を斬る程に肉薄していた炭彦にとって、回避も防御も不可能であることを示していた。
「しま……っ!?」
鬼の頚を斬った。その直後の刹那。
防御に日輪刀を振るうよりも速く、そして今度は回避する間もなく、幾本もの針が炭彦の身体に突き刺さって行った。
それでも、最初の一連以降のものを日輪刀で弾き飛ばしたあたりは、流石と言えた。
並の剣士であれば、そのままなすすべ無く全身を穴だらけにされていただろう。
「う、あ、あ」
たたらを踏むようにして、後ろに数歩ほど下がった。
その足元に、頚を斬られたファスが倒れ込む。
液状化した肉体が、どろり、と血のように炭彦の足元に広がっていた。
その水溜まりに、ボタボタと炭彦の赤い血が滴り落ちて、染みを作った。
しかもそれは止めどなく溢れ続け、炭彦の視界は赤く、そして黒く
肩のあたりに刺さった針を抜こうと手をかけたが、深く刺さっているためか、それとも力が入らないせいか、引き抜くことが出来なかった。
チカチカと明滅する視界の中で、炭彦は倒れたファスを見つめていた。
(すごい、執念……だった)
最後の一刹那、ファスが見せた抵抗。
絶対に負けられないという、強い、強すぎる気迫を感じた。
それこそ、自分の命を守ろうとする本能でさえも、投げ出してしまえる程に。
(それだけ、あの……鬼の人のことが、大事なんだね)
相容れない相手なのかもしれない。
けれど、誰かのために負けたくないという気持ちには、差など無かったのかもしれない。
そんなことを、ふと思った。
「――――! ――――!」
視界の端で、カナタが何かを叫んでいるのが見えた。
いったい何を言っているのか、聞こえなかった。
心配をかけてはいけない。
だからもう一度、ちゃんと聞こうと、カナタの方を向こうとして。
ぐるりと、視界が回転していることに気付いた。
あ、と思った時には、どうすることも出来なくなっていた。
上下も左右もわからなくなって、そして、そのまま。
炭彦の意識は、黒く塗り潰されてしまった。
最後までお読みいただき有難うございます。
およそ1か月半ぶりの更新です。
これからは月一投稿を何とか守っていきたいところ。
いずれにせよ、あと少し。
もう少しお付き合いいただければ幸いです。
それでは、また次回。