造り物の笑顔。
凍える空気。
その余りの冷たさに喉と肺が潰されて、呼吸が止まる感覚。
そして、それを上回る
「…………」
目を開けると夕焼けの光が顔に差していて、眩しそうに目を
病棟の薬品室。清潔そうな空気。ただ、仄かに医薬品の匂いを感じる。
薬品棚に囲まれたその空間の中で、窓から見える外の景色だけが、窓枠で切り取られた絵画のように浮かび上がって見えた。
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
額に腕を当てて、車椅子の背に身体を押し付けた。
ぎし、と車椅子が音を立てる。
そうやってから、カナエは大きく息を吐いた。
「……姉さん?」
声がした。幼い頃から聞き慣れた声だ。
親しげで、一方でどこか不安の色がある。そんな声。
不意に、膝に重みが――重みと言える程に重いわけではないが――来た。
視線を下に落とすと、蝶の髪飾りが目に入った。
「また、あの時の夢?」
妹が、しのぶがカナエの膝に顔を
頭の後ろに着けた蝶の髪飾りが、こちらを窺うように微かに揺れている。
小さな嘆息の後、カナエは手を伸ばした。
しのぶの髪に触れて、
「大丈夫よ、姉さん。姉さんは……姉さんは、私が絶対に守るから」
慰めている側と、慰められている側。
これではどちらがどちらなのかわからない、と、カナエは思った。
(もしかしたら私は、あの時に死ぬべきだったのかもしれない)
酷いとは思いつつも、そう考えてしまうことがある。
中途半端に生き残りなどするから、どうしても歪になってしまう。
家族を鬼に殺されて、さらに唯一の肉親を失いかけて、歪にならない方がおかしい。
「…………」
不意に、部屋の扉が僅かに開いていることに気付いた。
しのぶが入って来る時に、閉め損ねたのだろう。
ただそこに、見覚えのある羽織の端が見えた。
硝子玉のような紫の瞳が、じっとこちらを窺っていた。
嘆息がひとつ、形の良い唇から零れた。
窓の外に目をやると、夕焼けの赤が消えて、夜闇の黒に塗り潰されようとしていた。
じきに、夜になるだろう。
夜になると、
その嗤い声は、あの日からカナエの頭から離れることがなかった。
「……ねえさん……」
また、眠れない夜が始まる。
◆ ◆ ◆
鉄道は、文明開化の象徴だ。
長く続いた徳川の時代が終わり、激動の明治を経て、
今や鉄道は、多くの人々にとってなくてはならない移動手段となっていた。
「えーと、私達が乗る汽車は……」
駅は、多くの人で賑わっていた。
汽車の乗る者、見送りに来た者、あるいは迎えに来た者。
肩が触れる程とまでは言わないが、不用意に走ると誰かにぶつかる程度には混んでいる。
鎹鴉の長治郎が持ってきてくれた切符を手に、瑠衣はホームを歩いていた。
汽車の名前は、無限列車というらしい。
何とも奇妙な名前だが、都会ではそういうものが流行っているのかもしれない。
もしかしたら、その内に建物や子供にとんでもない名前をつける人間も出てくるのかもしれない。
そんなことを考えつつ歩いていると、目的の汽車を見つけたのか。
「ああ、榛名さん。ありましたよ、あれが……って、あれ? 榛名さん、どこですか?」
「ええぇ、そんなぁ」
「榛名さん?」
先程まで隣を歩いていたはずだが、いつの間にか、別の場所にいた。
きょろきょろとあたりを見渡していると声が聞こえて、幸いすぐに見つけることが出来た。
ただ、何故かしょんぼりした様子だった。
「どうかしたんですか?」
「うう、聞いてよぉ瑠衣ちゃん。お弁当屋さんを見つけたんだけど、売り切れだってぇ」
「な、なるほど」
「ついさっき、全部買って行ったお客さんがいたって。酷い話だわぁ」
「団体客か何かだったんでしょうか」
仮に1人で買い占めたのだとしたら、非常識というか健啖が過ぎるというか。
めそめそと落ち込む榛名を慰めていると、笛の音が聞こえた。
そう離れていない距離で聞こえて来たので、少し驚いてしまった。
「刀を持っているぞ!」「警官だ。警官を呼べ!」
何しろ、刀という単語が聞こえて来たのだ。
現在は廃刀令の時代。これだけの人の中を、刀を持って歩くことは出来ない。
当然、刀は隠している。だから見つかったのかと思ったが、どうやら違うらしかった。
騒がしさは少しずつ離れていって、やがて聞こえなくなった。
「何だったんでしょう……?」
「さあ、他に鬼殺隊の誰かがいたのかしらぁ」
「隊士が刀を見せびらかして歩いているわけないじゃないですか」
「まあ、そうよねぇ」
今時、鬼殺隊士以外で刀を持ち歩くのは、よほどの変人だけだろう。
何にせよ、関わらない方が良い。
瑠衣は榛名を連れて、そそくさと列車に乗り込んだのだった。
◆ ◆ ◆
酷い目に合った。
何とか列車に乗り込んだ後、善逸は改めてそう思った。
まさか、あんな騒ぎになるとは思わなかった。
いや、この2人と一緒なら想定しておいて然るべきだったのかもしれない。
「がははははっ。こいつ馬鹿だぜ。腹の中に入られても気が付いてねえ! このままぶちのめしてやるぜ!」
「いや伊之助、俺達を迎え入れてくれたのかもしれない。いきなり攻撃するのは良くないと思う」
これである。
伊之助は列車を「
要するに、ドがつく程の――善逸もそれほど都会の出身ではないが、2人よりは世の中を知っている――田舎者なのだった。
野生児の伊之助はともかく、炭治郎が列車すら知らないのは全くの誤算だった。
「それにしても、さっきはどうして警察を呼ばれてしまったんだろう」
「そりゃあ、刀を持ってたからだろ」
「鬼殺隊なのに?」
「あー……
炭治郎も廃刀令については何となく知っているが、鬼殺隊の中にいると、隊士は世間に帯刀を認められているような感覚になってしまうのだろう。
善逸も、その気持ちはわからなくもなかった。
何しろ死ぬような思いで訓練をして、さらに死にそうになりながら鬼を狩り、人々を守っているのだ。
しかし、それでも鬼殺隊は政府非公認の組織だ。
一般人に鬼の存在を語ったところで理解されないだろうし、政府公認となってしまうと呼吸法や隊士が政治に利用されてしまう可能性もある。
世の人々の混乱を防ぎ、剣士達を守るという意味でも、非公認でいた方が良いということだ。
「ところで、お前が会いたがってる……煉獄さんだっけ。本当にこの列車に乗ってるのか?」
「ああ、匂いがするから間違いない。俺は鼻が利くから」
実をいうと、善逸は今、任務を受けていない。炭治郎も伊之助もだ。
ただ炭治郎が炎の呼吸について聞きたいことがあると言うので、ついて来ただけだ。
しのぶに相談したらしいのだが、どうも炭治郎の質問は炎の呼吸の核心に触れるようなことらしく、並の使い手では駄目らしい。
炎の呼吸を極めた者――鬼殺隊においては、煉獄槇寿郎と杏寿郎の父子しかいない。
だが、炭治郎には2人に対するツテが何もなかった。
禰豆子に関する裁判の時、槇寿郎の顔を見たのが全てだった。
まさかその程度の関りで「どうも」と敷居を跨ぐわけにもいかない。
そこで出たのが、先日訓練で会った瑠衣に紹介を頼むことだった。
正直、善逸は気が進まなかったが、炭治郎の意思は固かった。
(話がこじれないと良いけど……)
と、善逸が一抹の不安を感じた時だ。
「うまい! うまい! うまい!」
山積みの弁当を食べている、派手な髪色の男がいた。
――――うわあ、変な奴がいる。
◆ ◆ ◆
この世は、勝利こそが全てだ。
勝てば全てを得て、負ければ全てを失う。
それがこの世の真理だと、禊はそう思っていた。
(やっと身体がまともに動くようになって来たわね)
掌を開閉させながら、禊は自分の身体の調子を確認していた。
蝶屋敷の病棟、その寝台の上で上半身を起こしながらである。
左右の寝台はすでに空になっており、榛名と柚羽がすでに退院していることがわかった。
ちなみに2人と瑠衣が任務や退院の挨拶に来た際、先に退院される屈辱に禊が震えていたことを瑠衣達は知らない。
とは言え、上弦の肆との戦闘で受けたダメージはほとんど癒えた。
程なくして、禊も退院して任務に復帰することになるだろう。
禊は寝台から降りると、窓に近付き、開けた。
もちろん、他に入院している隊士に許可を求めたりはしない。そもそも寝ている。
「ここにいると、苛々して仕方がないわ」
瑠衣達もそうだが、他の隊士も似たようなものだ。
しのぶを始めとする蝶屋敷の人間は、負傷した隊士に分け隔てなく労わってくれる。
入院している隊士も、より負傷の重い隊士を励ましたりする。
榛名や柚羽のように、何かにつけて絡んで来る人間もいる。
まるで、ぬるま湯の中にいるような感覚だ。
普通の人間ならそれで癒されたり喜んだりするのだろうが、禊は違った。
まともな感性の人間が、自らの呼吸を「
呼吸の名前だけで、禊の性質が良くわかる。
「こんな温い空気の中にいたら、そりゃあ弱っちくなっていくわよね」
瑠衣は上弦の鬼から生き残っただけで持て囃されることを憂いていたが、禊も同じだった。
違う点があるとすれば、瑠衣は自分の不甲斐なさに憤っていて、禊は周囲の情けなさに苛立っている、ということだった。
屈辱と言っても良い。
勝利こそが全てと断ずる禊にとって、敗北を褒められることは屈辱以外の何ものでもなかった。
「……嫌な風ね」
外からの風が、禊の髪を揺らす。
その風が思ったよりも温く、不快に感じた禊は、やや乱暴な手つきで窓を閉めた。
大きな音で何人かの隊士が目を覚ましたようだが、気にした風もない。
というより、他人に配慮して静かに閉めるような気遣いをするような性格はしていない。
叩き起こされた形の他の隊士達が何だ何だとなっていたが、もちろん、それを気にするような禊ではなかった。
すたすたと寝台に向かうと、そのままシーツに潜り込んで寝てしまった。
他の隊士達の「ええ……」という空気を気にすることは、もちろんなかった。
◆ ◆ ◆
なかなか見所のある奴だ、と、宇髄は思った。
彼はたまたま蝶屋敷女子病棟の屋根の上――たまたまで歩くような場所ではないが――にいて、さらにたまたま女――禊のことだ。女というより少女だが――の気配に足を止めたのだ。
窓が閉まる音がしても、宇髄はしばらくそのまま動かなかった。
さて、と月を見上げながら考え込んでいる様子だった。
彼は別に蝶屋敷に用があったわけではない。もちろん女子病棟を覗きに来たわけでもない。
こう見えて
宇髄は、蝶屋敷――というより、鬼殺隊を
(どうも、良くわからん)
考えていたのは、杏寿郎のことだった。
あの煉獄槇寿郎の息子で煉獄家の嫡男。だが今は、それはどうでも良かった。
問題は、その任務の地にあの竈門炭治郎とその妹を向かわせたことだ。
しのぶが産屋敷に伺いを立ててのことだが、腑に落ちなかった。
(まあ、お館様のことだ。何か深いお考えがあってのことだろう)
宇髄は、産屋敷を疑っているわけではない。
むしろ心から信じているが故に、それが鬼殺隊にとって必要なことなのだろう、と思うだけだ。
竈門兄妹を杏寿郎の任務に同道させることが、おそらく必要なのだ。
あるいは柱合会議の際に言っていたように、鬼舞辻無惨への撒き餌にするつもりなのか。
わからないのは、もう1つだ。
何故、杏寿郎の妹を、瑠衣を同じ任務に就けているのか。
そこがわからなかった。
これもまた、産屋敷の意思なのだろうか。
(あるいは、別の誰かか……)
鬼殺隊の頂点はもちろん産屋敷だが、だからと言って、何百人からなる隊士全ての任務を彼1人で出しているわけではない。
むしろ、産屋敷が自らどうこうするのは柱級の任務くらいなものだ。
当然、実務的に鬼殺隊の運営を行っている者達が別にいるわけだ。
悲鳴嶼から頼まれた鬼殺隊内部の調査だが、この時点で、宇髄はきな臭いものを感じていた。
元忍としては本領発揮とも言える使われ方だが、それでもだ。
こういう問題は、まず間違いなく良い方向に着地しないとわかっているからだ。
思わず溜息を吐きかけて、余りの地味さに止めた。
(
調査には、まだ少し時間がかかる。
別の任務に従事している妻の下に行けるのは、しばらく先のことになりそうだった。
◆ ◆ ◆
窓の外を、景色が後方へと流れていく。
それを眺めながら、一方で瑠衣は周囲への警戒を怠っていなかった。
何しろ「人が消える列車」である。
「列車に乗るのって、久しぶりだわぁ」
ふと、榛名がそんなことを言った。
視線を向けると、榛名は穏やかな笑顔を向けて来た。
「子供の頃、一度だけ家族と乗ったことがあるの」
「そうなんですか」
「藤の家だったの。昔から鬼殺隊を支援していた」
「……そうなんですか」
藤の家とは、鬼殺隊を支援する施設のことだ。
かつて鬼狩りに救われた者の一族によって運営されており、藤の花の家紋が目印となっている。
怪我をした隊士が休息したり、任務の拠点として無償で利用することが出来る。
榛名の家は、その藤の家
そう、過去形だ。
瑠衣は榛名が過去形を話したのを聞き逃さなかった。
藤の家の子である榛名が隊士となっている。それだけで事情も察することが出来た。
鬼狩りの実情を知っている分、藤の家は子息を隊士にしたがらないからだ。
「……駅から離れました。そろそろ行きましょうか」
「鬼を探すのねぇ?」
「いえ、その前に兄を探します。てっきり駅で合流できると思っていたのですが、私達が列車を見つけるのが遅かったのかもしれません」
鎹鴉の長治郎は、瑠衣達の他に杏寿郎も同じ任務を受けていることを教えてくれていた。
だから、まず合流する必要がある。
この列車には200人以上の乗客が乗っているから、それだけの人を鬼から守るとなれば、頭数が必要という判断がされたのだろう。
瑠衣としても、杏寿郎の存在は心強かった。
「お兄さんか、兄弟って良いわよねぇ」
「榛名さんは……」
「弟がいるわぁ。1人」
聞いて良いものか迷ったが、弟については過去形ではなかった。
そのことに少し安堵しつつ、瑠衣は席を立った。
少しばかり不便だが、刀は羽織の下に隠している。
二振り持っている榛名はもっと大変だが、周囲もまさか刀を持っているとは思っていないので、堂々としていれば何とかなるものだった。
「切符……拝見……致します……」
そんな時だった。
席を立った瑠衣に、詰襟姿の男性が声をかけてきたのだ。
隊士ではない。制帽を被った車掌だった。
やけに頬がこけた、痩せた男性だ。
言葉の通り切符の確認に来たのだろう。間が悪いとはこのことだろうか。
「はい」
と言って、拒否する理由もない。
瑠衣は懐から切符を取り出すと、それを車掌に示したのだった。
パチン、と、鋏の音がした。
◆ ◆ ◆
一瞬、嫌な匂いを感じた。
炭治郎は、顔を上げた。
「どうかしたのか、竈門少年!」
「いえ……」
鬼の匂いがしたような気がした。
ただ余りにも微かな匂いで、動物並に鼻の利く炭治郎でさえ、具体的なことはわからなかった。
だから、隣に座っていた杏寿郎の言葉にも曖昧にしか答えられなかった。
炎の呼吸について教わっていた時のことだった。
杏寿郎は、気さくな人物だった。
炭治郎の質問にもきちんと答えてくれたし、炎の呼吸についても教えてくれた。
何でもこの列車に出没するという鬼の調査に来たらしく、炭治郎は手伝うつもりだった。
伊之助も鬼と聞いて張り切っていた。一方で善逸は「降りる」と騒いでいたが……。
「……切符を……」
そんな時だ。前の車両から車掌がやって来た。
妙に頬がこけた、見ているこちらが心配になりそうな男だった。足取りもどこか頼りない。
炭治郎は汽車に乗るのが初めてで知らなかったが、切符の確認ということだった。
「うん?」
すん、と鼻を鳴らして、炭治郎が車掌の男を見た。
車掌は、どこか虚ろな目で俯いている。
切符を取り出すべく懐に手を入れていた杏寿郎が、不思議そうに炭治郎を見た。
「どうした、竈門少年」
「いえ、あの」
炭治郎は、気になったことをそのまま口にした。
「あの、もしかして前の車両に俺達のことを探している人がいませんでしたか?」
車掌は、答えなかった。
「俺達と同じような、こういう服を着ていた女の人がいたと思うんですけど」
「……………………いえ」
繰り返すが、炭治郎は鼻が利く。
それは物の匂いだけではなく、人が微かに発する感情の匂いを嗅ぎ取れる程に。
そして炭治郎の嗅覚は、車掌の言葉の真偽を的確に見抜いていた。
「
他の乗客のことをみだりに口に出来ないからだろうか?
いや、違う。
だったらもっと、違う匂いがする。
この車掌は、明らかに嘘を吐いている。
職務から来る事務的なものではなく、意識して嘘を吐く時特有の匂い。
そして、もう一つ。
普通の人間なら持たないものの匂い。
――――
「う……うわあああああああああああああああっっ!!」
突然、車掌が豹変した。
切符を切るための鋏を振り上げて、炭治郎に襲い掛かって来たのだ。
まさかいきなり襲われるとまでは思っておらず、炭治郎の反応は遅れた。
致命傷を与えられるような道具ではないが、当たりどころによっては怪我をするだろう。
「失礼する!」
しかし車掌が炭治郎に危害を加えるよりも早く、杏寿郎が車掌の腕を捻り上げてしまった。
蛙が潰れたような声を上げて、車掌が座席に身体を押し付けられる。
背中側に捻り上げられた腕から、鋏が音と立てて床に落ちた。
なおももがく車掌を、杏寿郎が腕力だけで捻じ伏せている格好だった。
ざわざわと、俄かに周りの乗客が遠巻きにこちらを見ていた。
「大丈夫か、竈門少年!」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
「黄色い少年、猪頭少年! 周囲を警戒しつつ、乗客を落ち着かせてくれ」
「へ!? あ、はい!」
「お、おう!」
さて、と、杏寿郎は自らが押さえつけている車掌へと目を向けた。
「色々と話を聞かせて貰いたいのだが、宜しいだろうか」
言葉とは裏腹に、その声には有無を言わせぬ凄みがあった。
実際、杏寿郎には有無を言わせる気はなかった。
◆ ◆ ◆
動きが見えなかった。
猪頭の下で、伊之助の表情は戦慄の色を浮かべていた。
先程の、車掌を押さえ込んだ杏寿郎の動きである。
(とんでもねえ化物だぜ、こいつは)
乗客を遠ざけながら、伊之助は杏寿郎の強さを肌で感じていた。
山育ち、それも野生児。
向かい合った相手の強さを計るというのは、自然界で生きる者の必須能力と言って良かった。
全身で山を、風を、大地を感じて生きて来た彼は、それを本能のレベルで身に着けている。
そんな伊之助をして、杏寿郎の力量は「化物」だった。
今まで踏み台にしてきた鬼など、杏寿郎と比べれば物の数ではない。
あの炭治郎達と行った那田蜘蛛山の任務で出会った柱――冨岡やしのぶ――と比べても、遜色ない
自分と杏寿郎の間には、まさに大人と子供ほどに力量差がある。そう直感した。
「さて、車掌さん。どうして竈門少年を――いや。我々を襲ったのだろうか」
杏寿郎が、車掌を尋問している。
捻り上げられた腕がよほど痛いのか、車掌は青ざめた顔で、額には脂汗が滲んでいた。
「素直に話してくれれば、これ以上の危害は加えない」
話さなければさらなる
しかし、車掌は腕の痛みに表情を引き攣らせながらも何も言う気配はなかった。
強情、とは違う気がする。
(何だ? この匂い)
車掌から嗅ぎ取った匂いに、炭治郎は困惑した。
恐怖に近いが、どこか違う。何か、より切実な匂いを感じる。
自分の腕が折られかけていることなど、気にもしていない様子だった。
何故か、切羽詰まった顔であたりを見渡している。
「……た」
唇をワナワナと震わせて、何事かを呟いている。
やはり、杏寿郎の言葉は聞こえていないようだった。
そして不意に、顔を上げた。
「失敗してしまいした! 申し訳ございません!」
虚空に向けて、そう叫び出した。
そして、暴れ始める。
かなり強い力で暴れていて、杏寿郎の方が車掌の腕を折らないか気にかける程だった。
「ですが私は最善を尽くしました! 前の車両は全員眠らせてきました! ですから、ですからどうか!」
何だ。何の話をしている。
というか、誰に向かっての言葉か。
最後には涙さえ流して、車掌は叫び続けた。
まるで、信じる神に救いを
「どうか、私も
匂いが、した。
重くどす黒い、不快な匂い。
それが、急速に車内に充満し始めていた。
鬼の匂いだ。
◆ ◆ ◆
それは、炭治郎が過去に出会ったどの鬼よりも強い匂いだった。
鬼舞辻無惨の血が濃ければ濃い程に、この匂いは強くなる。
つまり、強力な鬼がすぐ傍にいる。
(どこだ……!?)
炭治郎は、座席の下から刀を取り出した。
善逸も伊之助も、すでに耳と肌で鬼の気配に気が付いているはずだ。
刀を持ち出した炭治郎達に、乗客が悲鳴を上げる。
申し訳ないとは思うが、今は一刻を争う事態だった。
「む!」
いつの間に拾っていたのか、杏寿郎が車掌の落とした鋏を投げた。
それは一直線に車両の隅へ飛び、右隅の屋根、開いた窓の側に当たった。
近くにいた乗客が悲鳴を上げた。
しかし、炭治郎は見逃さなかった。
「ぎゃああああああっ」
善逸が悲鳴を上げた。
彼の足元近くに、何かがボトリと落ちて来たからだ。
それは腕だった。左手の、手首から先。
親指と人差し指の間に目があり、手の甲に口がある。
そして、至るところに「夢」の文字が書かれていた。
「気持ち悪っ、いや本気で気持ち悪いな!」
善逸が全員の気持ちを代弁していた。
しかもその手が不気味に笑い声を上げるものだから、余計に気持ち悪かった。
「ようこそ、鬼狩りの諸君。俺の列車はお気に召して頂けたかな?」
手が喋る。非現実的な出来事に、乗客が悲鳴を上げて隣の車両へと逃げ出した。
しかし出入口が狭く、扉付近で乗客同士が互いを押し潰しあう形となってしまう。
慌てて炭治郎は乗客を止めようとしたが、その前に。
「うるさいなあ」
――――血鬼術『強制昏倒催眠の囁き』。
お眠り、と、手の口が告げた瞬間だった。
炭治郎達以外の一般乗客が、その場に崩れ落ちていったのだ。
折り重なるように倒れていく人々を見て、炭治郎は鬼の手を睨んだ。
「乗客の人達に何をした!」
「眠って貰っただけだよ。今頃、
前の車両の鬼狩りと同じでね、と、鬼は言った。
その一言で炭治郎は、やはり前の車両に瑠衣が乗っていたのか、と確信した。
鬼への怒りが沸々と胸中を焦がしたが、ふと杏寿郎を見やった。
車掌も眠ってしまったために、杏寿郎も自由になっていた。
瑠衣は、杏寿郎の妹だった。
妹。それは炭治郎にとって今や
禰豆子を傷つけられて平静でいられる自信は、炭治郎にはなかった。
実際、柱合会議前の裁判で不死川が禰豆子を刺した時、激高して頭突きを見舞った程だ。
杏寿郎は、どうか。
「なるほど、他者を眠らせる血鬼術か!」
杏寿郎は、日輪刀を手にしていた。
その表情は力強く、口元には笑みさえ浮かべている。
しかし、空気が痛い。
人並外れて感覚が鋭い伊之助などは、杏寿郎の「刀を抜く」という動作だけで、戦慄さえ覚えていたかもしれない。
「強力な術だ。我々が眠らなかったのは対象を選別できるのか。しかも、お前は本体ではない!」
杏寿郎の髪が、燃えるように広がっているような気さえした。
まるで、彼の放つ気に呼応しているかのようだった。
「しかし! 罪なき人々に牙を剥こうものならば」
赤い。炎の如く赤い日輪刀。
それを鞘から抜き放ちながら、杏寿郎は言った。
「この煉獄の
まるで、車内の気温が上がったような。
そんな錯覚を、炭治郎は覚えたのだった。
◆ ◆ ◆
――――異様な光景だった。
20人か、30人か。
それだけの人間が、同じ空間で眠りこけている。
しかも中には椅子から床に落ちてしまっていて、それでも眠り続けている者もいた。
そしてその中に、瑠衣と榛名の姿もあった。
2人は座席に座り、安らかな寝顔を浮かべている。
周囲が恐ろしい程に静かなため、2人が立てる寝息でさえ聞こえてきそうだ。
寝息。そして列車の走行音。それが以外の音は何一つ聞こえて来ない……。
「……眠ってる?」
「ええ、すっかりね」
聞こえた。誰かが話している。
足音を押さえながら、声の主達は瑠衣と榛名に忍び寄っていった。
それは若い男女で、手には縄を持っていた。
どこか暗い表情を浮かべた彼らは、それぞれ瑠衣と榛名の隣に――身体がぶつからないように注意しながら――座った。
「縄で繋ぐのは腕?」
「そう。身体が触れないように注意して。勘のいい人間は起きることがあるって、
「わかった」
その縄の端に輪を作り、瑠衣と榛名の手首に巻いていく。
そして反対側にも同じように輪を作ると、それは自分の手首に巻いた。
1本のロープを通じて、相手を繋がる形になる。
慎重に様子を窺って、瑠衣と榛名が目を覚まさないとわかると、ほっと息を吐いた。
「後は目を閉じて、ゆっくり呼吸するだけよ。深呼吸。数を数えながら」
彼らもまた、眠ろうとしているようだった。
目を閉じて、頭の中で数を数え始める。
「これで私達も、幸せな夢を見られる……」
やがて、彼らも規則正しい寝息を立て始める。
そしてまた、車両に動く者はいなくなった。
規則正しい呼吸音と、列車の走行音だけが聞こえてくる。
静寂が、すべてを深く、深く呑み込んで――――……。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
そして原作完結おめでとうございます!
最終話の内容的にもう少し読みたかったですが、もう少し読みたい、と思わせてくれる原作はまさに名作だと思います。
というわけで、原作完結記念に読者募集を(全く関係ない)。
詳細は活動報告をご確認頂きたいのですが、今回の募集は4つあります。
①鬼殺隊士(2回目)
②鬼(2回目)
③刀鍛冶
④やられモブ隊士
それでは、皆様のご参加をお待ち致しております。