「炭彦ォ――――――――ッッ!」
倒れた炭彦に対して、カナタが声を上げた。
カナタの位置からは、炭彦の怪我の程度はわからない。
動いているので、死んではいない、はずだ。
だが手当てをしなければ危険だ。そういう出血量ではある。
そしてそれは桃寿郎も同じだ。彼もまた重傷を負って倒れている。
桃寿郎もまた、今すぐに治療を受けさせる必要がある。
だから今すぐにでも、カナタは2人に駆け寄りたかった。
だが、それは出来なかった。
「……ケ……リ、リ……」
本体と思しき塊は倒れたまま動かないが、一部の触手がのたうつように蠢いている。
下手に近付くのは危険だと、カナタは本能的に理解していた。
だが、どうしてファスはまだ生きて――生きている、という表現が正しいのかはわからないが――いるのか。
炭彦の一撃は、ファスの核を破壊したはずだ。
頚を刎ねられた鬼が、肉体を崩壊させずに維持している。
それは、異常事態のはず、だった。
(でも現実に、アイツはまだ生きている!)
弱ってはいる。それは間違いない。
弱々しい鳴き声を上げ、床を叩くように触手がのたうつ。
だが、今の状態でもカナタを殺すのには十分な力を持っているのは確かだ。
あの触手が少し触れただけで、カナタの上半身と下半身は永遠に泣き別れだ。
(――――どうする!?)
カナタは実際のところ、死ぬ気はないが、
いや、それは少し言い方が間違っている。
カナタとて死は恐ろしいが、
だが今の状況では、例え命を
それでは、ただの無駄死にになる。
だから何か、早急に何かを考える必要があった。
(そもそも、アイツはこれが
それぞれの主――すなわち、ラーフと煉獄瑠衣の命を賭けた、勝負だと。
だが、この場合はどうなる?
お互いが倒れたが、しかしまだお互いが生きている場合、その賭けの裁定はどうなるのか。
この場所からでは、それを伺い知ることは出来ない。
(何か考えがあるんだろうな、あの女……!)
もはや連絡も意思疎通も出来ない
憎らしい。しかしそれ以上に頼りになる。
こういう状況なら、なおさらのことだ。
そんな瑠衣の顔を思い浮かべながら、カナタはこの状況を打開する方策を考え続けた。
◆ ◆ ◆
この状況を想定していたと言えば、嘘になるだろう。
もちろん、瑠衣は炭彦達に対して期待していた。
炭彦達であれば、あの危機的状況を打開してくれるはずだと、信じていた。
その点について、疑ってさえいなかった、と言っても良いだろう。
ただ瑠衣にとってさえも、
ファスのことである。
炭彦は確かにファスの頚を斬ったが、しかしファスの体はまだ崩壊していなかった。
頚を斬っても死なない。
ファスが
「…………それで?」
とは言え、今はそれは別に良かった。
瑠衣にとって重要な点は、炭彦達がファスの頚を斬った、という点だった。
それはすなわち、ラーフとの
「
炭彦達とファスの戦いの勝敗に、自分自身の命を
そういう約束だった。
そして、炭彦達が勝利した。
約定が果たされるのであれば、
「…………ふうむ」
当のラーフはと言えば、背もたれに背中を預ける形で、顎先を指で撫でていた。
臆している様子は無く、純粋に何かを思案している顔だった。
容姿も相まって、非常に幼く見える。
もちろん、見えるだけだが。
「
濃淡の無い声音で、そう言った。
その表情は、あくまでも単純な疑問を感じている、というものだ。
そこに誤魔化しも嫌味も存在しない。
「どう、と言うと?」
「いや、
小さく首を傾げて先を促すと、指先を振るようにして続けて来る。
「確かにファスは核を斬られたが、しかし消滅はしていない」
「しかし、こちらはカナタ君が五体満足で立っています」
「それもまた、確かに。ではファスにトドメを刺せるのか?」
「…………」
それは難しい。
それがわかっているから、瑠衣はそれ以上は言葉を続けられなかった。
もしここでラーフが「カナタにトドメを刺させてみようか」と言われてしまうと、
今のファスに、呼吸遣いで無いカナタが近付くのは余りにも危険だった。
「……なるほど」
そして、瑠衣はラーフの言いたいことを理解した。
つまりラーフは、炭彦達とファスの戦いについて、こう言っているのだ。
◆ ◆ ◆
世の中の大概の賭け事においては、引き分けという判定も可能だろう。
しかし瑠衣とラーフの賭けは、その類の物では無かった。
お互いの、生存を賭けた物なのだ。
生存を賭けている以上、引き分けという結論があり得るだろうか。
「それは、無いですね」
「ああ、そうだな」
そして、その点について、
手打ちにして撤退するという選択は、お互いにあり得ない。
吸血鬼と鬼狩り。望むものはお互いの滅亡だ。
だから、瑠衣もラーフも引き分けという結果を受け入れることは無い。
「それならば、どうしようか」
そう、問題はそこだった。
引き分けという結果をお互いに受け入れない以上、そしてお互いがお互いの滅亡をこそ望んでいる以上。
――――実のところ、
「そうですね。さあ、どうしましょうか」
次の瞬間だった。
瑠衣がテーブルの上に置かれた日輪刀を掴む。
そして掴んで立てた日輪刀の背を、ラーフの片足が踏みつける。
それは、ほとんど同時に行われたことだった。
ラーフの
しかし一方で、踏みつけられた日輪刀の刀身には罅も欠けも無かった。
この日輪刀を打った者の強い意思が、刀身を守っているかのようだった。
「思っていたより手が早いな」
「……足癖が悪いよりは、マシだと思いますが」
とは言え、踏みつけられた刀身は上がらなかった。
呼吸で強化しているとは言え、純粋な力で鬼を凌駕することは困難だ。
それも相手は吸血鬼の王。少なく見積もっても上弦以上の存在だ。
このままどれだけ力を込めたところで、持ち上げることは出来ないだろう。
力だけの話であれば、そうなるしかない。
「まあ」
しかし、瑠衣の日輪刀は小太刀。
そのまま鞘後方の二振り目を引き抜き、掌の中で回転させて位置を調整して、握り締めた。
振り下ろしの斬撃。それはラーフの爪によって受け止められてしまう。
しかしその分だけ足の力が弱まり、踏みつけられた方の日輪刀も抜くことが出来た。
「最後は結局、
最初からこの展開になることがわかっていたかのように、瑠衣は言った。
◆ ◆ ◆
――――風の呼吸・弐ノ型『
二振りの小太刀を振るい、風の刃を飛ばす。
ラーフは羽根をはらめかせながら空中を飛翔し、いったん距離を取るようにしながら、その斬撃を回避した。
風の速さで飛来する斬撃を、ラーフは笑みさえ浮かべて回避して見せた。
「ハハッ、本当に手の早い奴だ!」
「申し訳ありません。何しろ見鬼必滅と教えられていますので」
「何だその物騒な教えは」
飛行能力持ちか。空中を飛ぶラーフを見て、そう独りごちた。
幸い屋内なので、完全に手の届かない位置を飛ばれる事態は避けられている。
とは言え、距離を取られる不利が全くないわけでは無い。
瑠衣の日輪刀は小太刀のため、
(まったく、
今も天井に足をつけて、逆さまになった状態でこちらを見下ろしてきている。
その姿は、まさに蝙蝠だった。
並の剣士であれば、手も足も出せずに嬲り殺されてしまっていただろう。
「む……?」
ラーフが見ている前で、
何の真似だ、とラーフが目を細めると、次の瞬間に瑠衣の姿が消えた。
「消え」
た、と、ラーフの呟きが終わるよりも先に、別の音が響き渡った。
それは、瑠衣が
跳躍一つ、床から天井へと跳んだのだった。
「――――た」
声は遅れたが、反応は遅れなかった。
瑠衣の存在を知覚するとほぼ同時に、ラーフの爪は瑠衣の身体を引き裂いた。
はず、だったが、瑠衣の姿はラーフの爪先から掻き消えていた。
どこへ、と視線を走らせれば、すぐに見つけた。
「なんと」
そして床を、壁を、天井を、踏み砕きながら移動を繰り返す。
「驚いたな。人間にそのような動きが可能だとは」
言いつつ、ラーフは天井から離れて、大部屋の空間のちょうど中間あたりに浮遊した。
厄介な、と瑠衣は舌打ちした。
天井や壁面から距離を置かれると、その分だけ攻撃がしにくくなる。
流石に、戦い慣れている。
「やれやれ……」
嘆息ひとつ。鬼の頚を目掛けて、瑠衣は加速した。
◆ ◆ ◆
吸血鬼の王・ラーフと、最後の鬼狩り・煉獄瑠衣。
この時点――この
「本当に、驚きを禁じ得ぬよ」
そしてそれは、ラーフの偽らざる本音だった。
ラーフの生きて来た数百年間に及ぶ時間は、そのままラーフの鬼としての格を示す。
そんなラーフからしても、自分と互角以上に戦う煉獄瑠衣という存在は稀有なものだった。
だが、良く考えてみれば、それは当然のことだった。
何しろ煉獄瑠衣という剣士は、
瑠衣もまた、長い鬼狩りの歴史の中で異例中の異例と言える存在。
歴史上の柱達でさえ、当たり前だが、百年現役という者はいない。
(肉体は若々しい。しかし、
それは、ある意味で剣術や武術を極めんとする類の人種にとって理想の姿と言えるのかもしれない。
通常、人間は若い内は修行不足で技術が足りない。
そして技術が熟練する頃には、逆に肉体が老いている。
肉体も技術も最高の状態。それが今の瑠衣という人間だった。
それはまさに、奇跡のような存在と言えた。
「
幾度目かの交錯の後、嘆息と共にラーフはそう言った。
「何です? 頚を差し出す気になったんですか?」
「先程から対応が雑すぎないか人間」
「すみませんね。鬼に配慮するという価値基準が私の中にはありませんので」
などと無駄口を叩きつつ、瑠衣とラーフは再び正面から対峙した。
2人の距離は常に一定に保たれていて、どちらかが一歩近付けば一方が一歩動いて距離を取る、という状態になっていた。
じりじりと互いに動き合う形になり、上から見ると2人で円を描いているようにも見えただろう。
「まあ、聞け」
右の掌を瑠衣に見せて、ラーフは言った。
もちろん瑠衣に聞く義理はないが、睨み合いの最中、意図せずして話を聞く流れになってしまった。
「このままここで戦い続けても、決着はつくまい」
厳密に言えば、いつかは決着がつくだろう。
瑠衣が人間である以上、限界が来る。
鬼と人間の間には、持久力という越えられない壁が存在するからだ。
しかしいつ来るとも知れぬ限界を待つという愚を、ラーフは好まなかった。
「なので、
そして、ラーフの姿が消えた。
◆ ◆ ◆
不意を突かれた。
向かい合っての対峙からの、急激な変化だった。
ラーフの姿が、突如消えたのだ。
(……いえ、違います)
鬼は超常の存在だが、それでも物理的に存在する以上、本当に消えるわけでは無い。
高速移動? 透明化?
いずれにせよ、必ず存在する。
ぐるりと室内を見渡すようにして、ラーフを探した。
「え……?」
そして、見つけた。それ自体は難しいことでは無かった。
だがそれは、瑠衣と戦う位置では無かった。
ラーフはどこにいたのか?
彼女は、部屋の扉の
ゆっくりと閉まって行く扉の向こうで、ラーフがひらひらと手を振っているのが見えた。
いったい、どういうつもりなのか。
逃走する気なのか。
だがこの場は敵の本拠地であるはずだ。しかも周囲は海である。
逃げる場所など無い。だから逃走では無い。
「――――
その声だけが、嫌にクリアに聞こえた。
扉が閉まるまでの一刹那、ラーフの言葉を頭の中で反芻する。
その言葉の意味を理解するまでに、一刹那が必要だったのだ。
そして一刹那の間の後、扉が閉まるまさにその瞬間に、理解した。
「――――――――ッ!」
咆哮。
ラーフの狙いに気付いた時、瑠衣は叫び声を上げていた。
ラーフは今、
瑠衣とラーフの賭けは、互いの
そして今、炭彦達もファスも自分達の手で相手にトドメを刺せない状況に陥っている。
相討ち。手詰まり。引き分けだ。
「
それに気付いた瞬間、瑠衣は駆け出していた。
扉までの距離を瞬時に詰め、ほとんど蹴破るようにして扉を開けた。
扉を蹴破った次の瞬間、爪の斬撃が飛んで来た。
それはかつて戦った、あの上弦の陸の飛ぶ血の斬撃にも似た攻撃だった。
追いかけることに意識が行っていた瑠衣は、その攻撃を回避することが出来なかった。
「うあ……ッ」
右肩から左脇腹にかけて、三本線の鋭い爪痕が走った。
「アハハハハハハッ!」
耳障りな哄笑が耳に響く。
傷痕から血が噴き出す痛みは、しかし呼吸と、それ以上の激しい怒りにとって上書きされた。
その身を引き裂かれてなお、瑠衣は足を止めなかった。
◆ ◆ ◆
――――ほう、止まらないのか。
通路を飛翔しながら、ラーフは自分を追いかけて来た瑠衣を見た。
自分の攻撃がまともに入ったはずだが、意にも介さずに追いかけてきている。
(大した闘志だ。それとも痛みを感じないのか?)
もちろんそんなことは無く、瑠衣も痛いものは痛い。
しかし負傷が痛いからとその場に蹲るような生き方を、瑠衣はこれまでしたことは無い。
だから追う。たとえ手足が千切れ飛んでも、瑠衣は同じようにしただろう。
――――風の呼吸・参ノ型『
ラーフが飛ばして来る爪の斬撃。その
だが爪の斬撃は1つ1つが非常に重く、飛ばすというよりは逸らすと言った方が正しい。
斬撃の余波が、着物や露出した肌に傷をつけていく。
「むっ!?」
――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。
そして怯むことなく、突撃する。
力を足に集めて、一呼吸の後に開放。跳躍する。
「速いな。しかし直線的すぎるな!」
突き技の伍ノ型は空中からの落下が必要なので、平地においてはこれが最速と言っても良いだろう。
しかし真っ直ぐに突撃する技である以上、迎撃する側にとっては格好の的にもなるのだった。
――――血鬼術『
二本十指の爪の斬撃が、瑠衣に襲い掛かる。
とは言え、一本一本は捌けないという程に重いわけでは無い。
脚を止めて防御に徹すれば、瑠衣であれば十分に防ぎ得ただろう。
「何とぉっ!?」
だが、瑠衣は脚を止めなかった。
その様が余りにも躊躇がなかったので、ラーフも驚きの声を上げた。
瑠衣はこの時、止まるどころか、
このまま進めば全身を切り刻まれる。肌でそれを感じ取っていた中で。
(もしも、潜り抜けられる道があるとするならば)
瑠衣は瞬時にそう見抜いて、そして躊躇することなく、自分の眼が見抜いたその道に身体を投げ出した。
爪の斬撃を目前にして、最後の跳躍にかける力を、ほんの少しだけ強める。
瑠衣の姿が一瞬だけブレて、次の刹那に加速した。
頬、背中、肩、腕、足。その端々を細かく切り刻まれる。
その感触に奥歯を噛み締めながら、瑠衣はさらに一歩を跳んだ。
そして十の斬撃を潜り抜けた先で。
「はあああああぁ――――ッ!!」
ラーフの喉元に、瑠衣の刃が届いたのだった。
◆ ◆ ◆
もちろん、瑠衣は油断などしていなかった。
頚を刎ねられても滅びない鬼の例を知っている以上、頚を斬ったからと言って気を抜くことは無かった。
だからラーフの頚を刎ねた時点で、瑠衣はまだ高い集中力を保っていた。
「ッ、あ」
日輪刀を振り抜いた体勢のまま、瑠衣は咳き込んだ。
唇の端から血が零れ出る。
一瞬の混乱の後、瑠衣は自分の身体に穴が開いていることに気付いた。
左肩と右の
傷自体は大きくない。出血も、呼吸で止血することが出来た。
傷口の形からして、刃物というよりは錐のような物で突き刺した、というような丸い傷だ。
だが、そんな物で攻撃を受けた覚えが無い。
「アハハハハハッ。どうした、具合でも悪くなったのか?」
「この……!」
そして頚を刎ねたはずのラーフだが、当たり前のように頚が繋がっていた。
何が起こったのか。まだ把握できていない。
とは言え、このままラーフを炭彦達のところに行かせるわけにはいかない。
観察と同時に追撃しなければならない。
難易度は格段に上がってしまったが、それでもやらなければならない。
(まずは、攻撃の正体を掴む……!)
そのためには、どうすれば良いのか。
炭彦達のいる場所まで、そう時間はかからない。
今のペースで進めば、2分とかからずにラーフはあの場所に到着してしまうだろう。
それまでに、攻撃の正体を探り、かつ対処法を見つけなければならない。
「
――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。
正面から、再び突撃した。
どの道、ラーフの足を鈍らせるためには肉薄するしかない。
すると当然。
「正面とはなァッ!」
ラーフの爪の攻撃が来る。
だがそれは、先程と同じように避けることが出来る。
突撃に緩急をつけて、爪の斬撃を回避した。
そしてそのまま跳躍を続け、床面を砕きながら日輪刀を振り下ろした。
狙いは当然、ラーフの頚だ。
(問題は、
その刹那、瑠衣は己の意識を透き通る世界に投じた。
眼を見開き、脳が視界に入る全ての情報を処理する。
この一瞬に関しては、
「く、あ――――」
余りの情報量に鼻腔から鉄の臭いがした。
そして、視界が赤く染まる程の一瞬の州ちゅうの後。
瑠衣は、
◆ ◆ ◆
(こ、これは……!)
瑠衣は、確かに視た。
瑠衣がラーフの頚を刎ねるよりも一瞬早く、自分とラーフの間に
そしてそれは、より固まって、半透明な錐状の物体に変化した。
(
確かに、船の周囲には不自然な程に霧が立ち込めていた。
外で見ていて「まるで幽霊船だ」と思ったものだが、今、その霧が瑠衣に文字通り牙を剥いていた。
ラーフに攻撃が当たる直前に、霧が硬質化して瑠衣の身体を抉っていたのだ。
(何て悪辣な攻撃……!)
いや、これはある意味で攻撃ですらない。
何故ならば、瑠衣の側が自分から
ただそこに置いておくだけで、獲物に深く突き刺さる。
「――――ッ!」
錐が皮膚一枚を突き破るかどうか、というところで、瑠衣は床を蹴った。
その蹴りの反動で、天井まで跳ぶ。
「おお、良く避けたな。だが――――」
「――――なッ!?」
「こ……
「うむ、そのまさかだな」
コココ、と、喉の奥でラーフが嗤った。
「これより先。
足を貫いた錐は鋭利だが小さい。
だからそれはすぐに引き抜くことが出来たし、くるりと身体を回し、体勢を整えて着地することも出来た。
だが着地する寸前、瑠衣は青褪めていた。
この後に何が起こるのかを、理解していたからだ。
「あ……」
流石に呻き声を上げ、膝をつく。
すると、
反射的に、自分の身体を支えるために床に手をついた。
堪え切れずに倒れ込めば、顔を、身体を、霧の錐は容赦なく刺し貫いて来た。
「ア……アアァ――――ッ……ッ!」
いかに全集中の呼吸と言えども、痛覚やダメージを消せるわけでは無い。
まして、文字通り針の山に突き落とされたとあっては、どうにも出来ない。
「アハハハハハッ。まるで芋虫のようではないか!」
ラーフの言う通り、芋虫のようにのたうち回るしかない。
幼児が昆虫を無邪気に残酷に弄ぶようなものだ。
だがラーフは、幼児のように芋虫を毟って遊ぶ趣味は無かったのか、足を止めることは無かった。
「では、先に行かせて貰おうか」
「ア……ま、待て――――……!」
追おうと伸ばしたその手にも、錐が突き刺さった。
しかもそれは絶え間なく、瑠衣の全身で引き起こされる。
――――少女の鈍い悲鳴が、通路に響き渡った。
◆ ◆ ◆
勢いよく、しかし音は立てずに、
嫌な予感がした。
そして
「……嘘だろ」
それでも、そう口にせざるを得なかった。
部屋の奥の扉から姿を現したのは、瑠衣では無かった。
いかにも西洋人と言った容貌の少女――背中に羽根が生えている点を除けば普通だが、除けるはずもないわけで――が、そこに立っていた。
一目で、
言葉を交わしたわけでも、触れたわけでも、あるいは目を合わせさえもしていないのに。
それなのに、カナタは相手と自分の間にある存在の格の違いを理解した。してしまった。
自分が逆立ちしたところで、この少女には抵抗一つ出来ずに殺される。
そう確信させるだけの、存在するだけで発する圧力に、カナタは全身を硬直させた。
「おお、ファスよ。随分と面白い姿になってしまっているではないか」
その言葉だけで、カナタは相手の正体を悟った。
それは考えられる限りで、最も最悪のものだった。
(――――どうするっ!?)
今日何度目かわからないその問いを、カナタは再び自分自身に向けた。
しかし今度は「状況をどうするか」ではない。
今度は「
「……!」
気が付けば、相手――ラーフは、カナタの目の前にいた。
反射的に、カナタは後ろに下がろうとした。
距離を取りたいと、本能が思ったのだ。
――――だが。
(あ、足が……)
そのための一歩が、後退が、出来なかった。
身体が硬直してしまい、逃げたくても逃げることが出来なくなっていたのだ。
「グルルルル……ッ」
「……! お、お前」
ここまで愛くるしい顔で何もしていなかったコロが、ラーフとファスの間に立ちはだかった。
小さい。余りにも小さい背中が、カナタの正面にあった。
日輪刀の牙をラーフに向けて、唸り声を上げている。
やめろ、と、カナタは思った。思っただけで、声には出来なかった。
蛇に睨まれた蛙のように、いつの間にか呼吸が荒くなっていて、声を発することが出来なかった。
それでも、コロの背中にやめろと念を飛ばした。
コロは強い。しかし、それでもこの相手には勝てない。殺される。
「ふむ。犬にしてはどこか気配が……」
一瞬、ラーフはコロに興味を持ったようだった。
ただそれも本当に一瞬だけで、ほんの数秒、足を止めて眺めてみたというだけだ。
それですぐに、ラーフはコロへの関心を失った。
――――
「……む」
ラーフにとっては不幸なことに。
そして、カナタにとっては、おそらくは幸運なことに。
「この音は……」
巨人が床を踏み叩くような、不穏な音。
遠くから徐々に近付いてくるそれは、今しがたラーフが潜った扉の前で
扉の破片が飛び散る中で、声が飛んだ。
憤怒の色を隠そうともせずに、瑠衣はその場に立っていた。
「ラアアアアアアアァァフッッ!!」
「そんなに大声を出さずとも聞こえているよ、煉獄瑠衣」
血塗れの少女と、吸血鬼。
決着の時が、近付いて来ていた。
最後までお読みいただき有難うございます。
ど、どうにかあと少しのところまで来た、ような気がします(え)
完結までもう少々お付き合いください。
それでは、また次回。