鬼滅の刃―鬼眼の少女―   作:竜華零

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第113話:「鬼滅の刃」

 ――――静かだった。

 着地した後、静寂が瑠衣を包み込んでいた。

 船体が崩壊する音も、遠くに聞こえていた波の音も、不思議と聞こえなかった。

 そして、ラーフの蛇体が床に倒れる音も、聞こえなかった。

 

(――――耳が、聞こえない)

 

 数秒の後、静寂が自身の聴覚異常による物だと気付いた。

 心拍数が上昇した結果、血が()()()()()聴覚に影響を与えたのかもしれない。

 視覚も僅かに狭窄(きょうさく)しており、どうやら失神寸前だったらしい。

 そこまで考えが回って、ようやく、瑠衣は大きく息を吐いた。

 

 息を吐いた途端に、音も戻ってきた。

 同時に疲労感も。突然、鉄の重しでも乗せられたかのように、全身が重くなる。

 ここが戦場でなければ、膝をついて休みたいと思っただろう。

 それを堪えて、瑠衣はその場に立ったまま、後ろを振り向いた。

 

「フ……フフ、フ……」

 

 ラーフの頸が、瑠衣を見上げて嗤っていた。

 今度は、偽物ではない。

 間違いなく本体を、ラーフという鬼の核を仕留めた。

 巨大な蛇体が、塵となって消えていく。

 

「とても……勝者の、顔には、見えない……な……」

「…………生憎と。鬼を斬って、勝ち誇るような趣味は持ち合わせていませんよ」

「フ、フ……そう、か。そう……かな……」

 

 実際は勝ち誇るような余力がないだけだが、わざわざ説明する義理はなかった。

 そんな瑠衣に、ラーフはまた嗤っていた。

 

「――――結局」

 

 嗤うラーフに、瑠衣は言った。

 

「結局、貴女は何をしにこの国に来たんですか?」

 

 侵略ではない。

 それは、何となくだが理解していた。

 そして、おそらくは食事のためですらない。

 他の鬼はラーフに従っただけだとしても、ラーフの目的がここまで来ても見えなかった。

 

「は……関心も、ないのに……聞くな……」

「……そうですね」

 

 とはいえ、今さらだった。

 今となっては、どんな目的があったとしても意味はない。

 何故ならば、ラーフの道はここで絶たれてしまうのだから。

 だから、今さらなのだ。

 

「れ……煉獄、瑠衣……生き残ってしまった鬼狩り……」

 

 サラサラと塵と化しながら、ラーフは瑠衣を見つめていた。

 

「お前、は、きっと……これからも、鬼を斬り続ける、のだろう」

 

 生き残ってしまった。

 いや、死に損なってしまった、という方が正しい。

 現代にいるはずのない人間。いてはならないはずの、人間。

 同じ時代を生きた者は、もう誰もいない。

 

 過去の遺物。現代にそぐわない。

 けれど、鬼を斬ることはできる。

 この鬼なき国に、外からラーフのような鬼が来るというのであれば。

 瑠衣は。

 

「はた、して……いつまで、その生き方、を……貫ける、だろうな……」

 

 瑠衣は。

 

「もちろん」

 

 瑠衣は。

 

「――――()()()()

 

 瑠衣は、鬼を斬り続けるだろう。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「――――――――おや?」

 

 気が付くと、ラーフは暗闇の中にいた。

 あたりを見渡しても何もない。

 上も下も右も左もない。並の人間であれば方向感覚を失うだろう。

 もちろん、ラーフは気にすることはなかった。

 

 暗闇は、彼女の友だった。

 とはいえ、この場がどこかは気になるところだ。

 自分は煉獄瑠衣との戦いに敗れて、滅ぼされたはずなのだ。

 だから、こうして意識があることはおかしい。

 

「……ああ、なるほど」

 

 そこまで考えて、合点がいった。

 自分は死んだ。間違いなく死んだ。

 ならばここがどこかなど、考えるまでもないことだった。

 

()()()()()()

 

 自分が天国へ行けるような存在だなどと思ってはいない。

 もしも人間の神がいるとすれば、人から魔へと転じた自分は厳しく罰せられるはずだ。

 今さら神罰を恐れるようなラーフではないが、それくらいの分別はある。

 それに、興味はある。

 まさか死んだ後に続きがあるとは。

 

「今や記憶にもないが、我が故郷の地獄とこの国の地獄は違うのかな」

 

 それとも、地獄は平等に地獄なのだろうか。

 そんなことを考えながら、ラーフは歩き始めた。

 どこへ向かって歩いているのか。もちろんわからない。

 わからないが、じっとしていても退屈なだけだろう。

 

「……うん?」

 

 1分だったかもしれないし、1時間だったかもしれない。

 時間の感覚は意味を持たない。

 いくらか歩いた頃、何かを見つけた。

 ラーフの腰くらいの高さのあるそれは、膝をついた銀色のメイドだった。

 

「まあ、お前くらいはいるだろうと思っていた」

 

 そう言うと、それは頭の位置を下げてきた。

 1人くらいは仕方ない。そんな気はする。

 それで、興味は切れた。

 きっと、また長い時間を過ごすことになるのだろう。

 

 気が付けば、ラーフは炎に巻かれていた。

 それは肌を焼き、肉を溶かし、骨を剥き出しにする程の火炎だった。

 だがラーフはそれに怯む様子もなく、そのまま歩き続けた。

 今さら、肉体が燃やされるくらいに動じることはない。

 

「そうだな……」

 

 地獄も天罰も構わないが、退屈なのは困る。

 何かすることはないかと、そう思った。

 死んだ後に退屈が来るなどとは、考えもしなかった。

 

「あ、そうだ」

 

 死。地獄。

 それならば。

 

「ムザンを探してみようかな」

 

 きっと、あの男もここにいるはずだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ラーフが塵となって消えたことを確認して、瑠衣は大きく息を吐いた。

 途端に、その場に膝をついた。

 刀を杖にしなければ、そのまま倒れ込んでいたかもしれない。

 

(…………全部、潰れたか)

 

 大きな血管の傷こそ呼吸で塞いでいるものの、逆に言えばそれ以外の負傷はどうすることもできない。

 呼吸の技術と脳内物質(アドレナリン)の分泌で、何とか身体を騙していただけなのだ。

 身も蓋もない言い方をするのであれば、気力で耐えていただけだ。

 緊張感が途絶えれば、その気力も保つことはできない。

 

 そして、瑠衣の肉体は悲鳴を上げていた。

 最後の攻撃で両手足も完全に潰れた。もはや駆けることも跳ぶことも難しい。

 本当であれば、暫く休息して体力の回復を図りたいところだ。

 だが、残念ながらそうも言っていられない。

 

「……この、音と振動は……」

 

 がくん、と、一際大きな振動が全身を揺らした。

 そして大きな振動は断続的に続き、やがて、何か大きな物が折れたような音がした。

 次の瞬間には、足元が大きく沈むような、そんな感覚を得た。

 それが何度も繰り返される。そして、だんだんと揺れが大きくなっていく。

 

「船が、いよいよ危ないですね……」

 

 船体を維持していたラーフが滅びたのだから、当然と言えば当然だった。

 このままでは、数分と保たずに海の底に沈んでしまうだろう。

 今の状態で沈没に巻き込まれれば、流石の瑠衣も生きてはいられないだろう。

 死ぬまで鬼を斬るとラーフに宣言したその場で死ぬというのは、何とも情けない話だ。

 

「脱出……しないと……」

 

 それを避けるためにも、船の中から脱出する必要がある。

 頭ではわかっているが、瑠衣の動きは鈍かった。

 気力を振り絞って立ち上がり、重い足を前に出す。

 そこには、先程まで縦横無尽に駆け抜けていた面影は微塵も残っていなかった。

 

 歩いた後、その場には引きずるような赤い線が残されていた。

 戦いの興奮から冷めた顔は、気がつけば紙のように白い。

 広間の出口。そのドアに手をかけたところで。

 

「う……まず……」

 

 ずるり、とその手が滑り落ちた。

 血の線を引きながら、扉にもたれかかるようにして、瑠衣はその場に再び膝をついた。

 今度は日輪刀を支えにすることもできないまま、(うずくま)ってしまう。

 その唇から発せられる呼吸の音が、小さくなっていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()()

 小島からラーフの船の様子をずっと見つめていた炭彦は、気配が変わったことを察知した。

 炭彦は、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 だから、視えていた。

 

 船全体を覆っていた妖しい気配が、消えていくのを視た。

 そして、確信する。

 瑠衣がラーフの頸を斬ったのだ、と。

 だから、あの船から感じていたプレッシャーが消えたのだ。

 

「瑠衣さん、やった……!」

「むう、そうなのか!?」

「何でこの距離でわかるの……」

 

 瑠衣の勝利を確信して、炭彦は思わず拳を握った。

 回復した桃寿郎とカナタには、そこまでは視えていない。

 だから半信半疑な表情を浮かべていたが、さりとて炭彦が嘘を吐くわけもない。

 炭彦がそう言うのならば、そうなのだろう、と思っていた。

 ただ、そうであるのならば。

 

「……あの人、どうやって逃げるつもりなの?」

 

 カナタがそう言って、炭彦も桃寿郎もはっとした。

 

「泳いでくるのではないか!?」

「そんな馬鹿な……って、確かにあの人ならそれくらいできそうだけど」

 

 そう、出来るだろう。

 瑠衣であれば、10キロや20キロの遠泳はわけもなくこなす。

 全集中の呼吸を極めれば、そのくらいのことはできる。

 今の炭彦ならば、それを理解できる。

 だから瑠衣は、炭彦達を先に脱出させたのだろう。

 

(でも、今の瑠衣さんは……)

 

 だがそれは、瑠衣が万全の状態であればの話だ。

 あのラーフという鬼は、控えめに言ってもファスよりもずっと強そうだった。

 もしも瑠衣がラーフを討ったとしても、負傷していたら。

 相討ちに近いような状態に、なっていたとしたら。

 ここまで逃げてくることはおろか、船から脱出することもできないのではないだろうか。

 

「――――助けに行かなきゃ!」

「待った。どうやって。今から行っても間に合わないし、沈没に巻き込まれるかもしれない」

 

 カナタの言うことは正論だった。

 勢いに任せて船までの遠泳をクリアしたとしても、瑠衣を助け出せなければ意味がない。

 船が沈没する際の引き渦のエネルギーは、さしもの呼吸の剣士にも逆らい難い。

 それは、炭彦にもわかっている。

 

「でも、でも……!」

 

 わかっている。しかし。

 

「ばうっ」

 

 その時だった。

 炭彦の足元にいたコロが、明後日の方向を向いて鳴いたのだった。

 思わず、炭彦達もそちらを向いた。

 そして――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

『……! ……!』

 

 誰かの声が、聞こえた。

 懐かしい声のような気も、つい最近聞いた声のような気もする。

 

『……! ……!』

 

 それが誰の声なのか、瑠衣は聞き分けようとした。

 だが、わからなかった。

 だからもっと良く聞き取ろうとして、身を起こそうとした。

 身を起こそうとして。

 

「う……ッ」

 

 瑠衣は、意識を取り戻した。

 船体の傾きに合わせる形で、ごろりと仰向けに身体を転がした。

 小さな咳を一つ零して、それを利用して胸を前に、一方で両肩を後ろへと反らした。

 横隔膜を無理矢理に収縮させて、息を大きく吸い、取り込んだ空気で肺を膨らませる。

 

「ごほっ」

 

 そして、大きな咳をした。

 それは一度で止まらず、何度も繰り返された。

 咳によって内部の余分な物を飛ばし、外から必要な酸素を取り入れる。

 それによって、瑠衣は呼吸を正常化させた。

 

「はぁ、はぁ……ふう」

 

 回復の呼吸。

 身体の感覚が戻り、何とか動かせるところまで回復した。

 とはいえ、戦闘に耐え得るような状態ではない。

 もしこのタイミングで襲撃されでもしたら、瑠衣はなすすべなく倒されていただろう。

 

「気を失っていたのは、おそらく1分にも満たないと思いますが……」

 

 瑠衣の肉体が再起動するために、強制的に意識をダウンさせた。

 そう考える方が妥当だろう。

 ただそのために消費した時間は、文字通り致命的な浪費にもなりかねなかった。

 

「この角度……いよいよ不味いですね……」

 

 気が付けば、足元がかなり傾いていた。

 低い方からは、穏やかでない音が聞こえてくる。

 ラーフの滅亡により、各所の崩壊が早まっていることは明白だった。

 高い方へ、移動しなければ。

 

 壁に手をつくようにして、瑠衣は何とか立ち上がった。

 壁についた朱色の手形を興味も無さげに見やって、歩き出した。

 足取りは軽やかとは言い難いが、回復の呼吸のおかげか、多少マシにはなっていた。

 やはり戦闘は無理だが、移動するだけならば、何とかなりそうだった。

 

「とはいえ……」

 

 何とか動ける程度で、脱出が果たせるものなのか、どうか。

 仮に船から脱出できたとしても、周りは海だ。

 普段であれば、十数キロ程度の遠泳くらいは何とかできる。

 だが、この体力。この負傷。この消耗。

 

「……まったく」

 

 そして、()()()()

 

「まったく、キツいですねえ」

 

 這うようにして外に出てみれば、今まさに()()()()()()()()()()()()()()()()()

 頬に感じる夜の海風は、想像以上に冷たく、そして強かった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 もちろん、足を止めるという選択肢はない。

 甲板には大きな亀裂がいくつも走っており、細かな罅割れが壁面を覆い始めている。

 聞こえてくる音はもはや尋常ではなく、船体後方はすでに沈み始めている。

 だとしても、立ち止まって船と運命を共にするわけにはいかない。

 

「本当に、キツいですねえ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 それでも、生きなければ。

 そんな本能が、自分の足を前へと進ませている。

 

 船体後方は、先にも言った通りすでに海中に沈みつつある。

 残り半分はまだ辛うじて海上だが、それも数十秒後には沈み始めるだろう。

 その最悪の状況に飛び込むには、覚悟はともかく、一瞬で良いから()()が必要だった。

 

「どこか……どこかに……」

 

 四肢すべてを使うことはできない。両腕両脚のどれか一本に最後の力を使うしかない。

 だから、()()が必要だった。

 崩壊し沈没する船上で、それを探して、瑠衣は視界を巡らせた。

 血鬼術の名残か、あるいは人間の魂による影響か、船体が(ほの)かに発光しているのが不幸中の幸いだった。

 

()()だ……!」

 

 そして、見つけた。

 必要な物を見つけて、瑠衣はそちらへと足を進めた。

 その動きは、やはり緩慢に過ぎた。

 普段ならば一秒で届くだろうその距離を、十数秒もかけて進んだ。

 

 その時だった。ガクン、と、足元が大きく()()()()()()()

 ()()

 頭の片隅で、冷静な自分がそう言っていた。

 そして2秒としない内に、それは現実のものとなり始めた。

 

「く……ッ!」

 

 それへと、手を伸ばす。

 

「届、け……!」

 

 壊れた脚で、跳んだ。

 届くかどうか、微妙な距離だった。

 もしも外せば、そのまま甲板に倒れる。

 倒れてしまえば、そのままなすすべなく後方へと滑り落ちてしまうだろう。

 

「――――ッ!」

 

 指先が、かかった。

 満身の力で指を折り曲げ、掌でそれを覆い、掴んだ。

 瑠衣が掴んだのは、手すりだった。

 船の舳先(へさき)。その先端のポールを、瑠衣は掴んだ。

 

 そのタイミングで、全身を引かれるような衝撃が来た。

 角度――いや、もはや角度という表現では足りない。

 船体が、不意に垂直に浮き上がったのだから。

 いよいよ、その瞬間が訪れたのだ。

 音を立てて、浮き上がった船体が、海中へと吸い込まれ始めた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――これは、おかしいのではないだろうか。

 改めて自分が置かれている状況を俯瞰(ふかん)してみて、瑠衣はそう思った。

 もちろん、今さら悲劇のヒロインのように嘆いたりはしない。

 瑠衣は自分がヒロインだとは考えていなかったし、自分の扱いに対して不当を訴えようとも思っていなかった。

 

(まあ、今さら訴えるような扱いもありませんしね)

 

 自分のこれまでのことを思えば、お姫様扱いやお客様扱いなど望むべくもない。

 そのくらいのことは、瑠衣は弁えている。

 だから今さらどのような状況に置かれたとしても、不平不満を口にするつもりは無かった。

 とは言え、だ。

 

(それにしたって、限度というものはあるでしょう)

 

 とも、思わずにはいられなかった。

 それ程に、今の瑠衣が置かれた状況はあんまりなものだった。

 ちら、と、視線を下に向ける。

 徐々に足元に迫ってくる水面――海面を見やり、瑠衣は溜息を吐いた。

 わかってはいたが、いざ目の前にするとそうしたくもなる。

 

(さて、どうしたものですか)

 

 煉獄瑠花姉と離別したことで、瑠衣は不老不死を失っている。

 鬼の力も無く、かつて程の呼吸の力も無い。

 普通の人間よりも、ほんのちょっぴり優れているだけに過ぎない。

 もはや超人とはとても言えない。ただの小娘だ。

 

 さらに今は、ラーフとの戦闘で体力を消耗してしまっている。

 なので、あんまりな状況を前にすれば「ええ…」という気分にもなる。

 もっとも、あんまりだ、と天に叫んだところでどうにもならない。

 

「ふーむ」

 

 別に本当に天に叫ぼうとしたわけではないが、視界を空に向ければ、そこには満点の星空があった。

 無数の星々が煌めいていて、都会では見られない素晴らしい宝石の夜空だった。

 これが原っぱに寝転んで見上げた景色であれば、さぞ心が癒されたことだろう。

 しかし今は、とてもそんな気分にはなれない。

 むしろ置かれた状況の深刻さがより深まって、また溜息を吐いてしまった。

 

「はあ……今の季節は、やはり冷たいのでしょうね……」

 

 頬を打つ冷たい夜風、掌に伝わる振動、足先に迫る水面――海面。

 沈みゆく船。比喩でも何でもなく、それは事実だった。

 胴体が半ばから折れ、舳先へさき側の先端部の手すりに掴まった形の瑠衣は、数秒後に訪れるだろう結末を前に、何度目かわからない溜息を吐いた。

 

「…………ッ!」

 

 息を、可能な限り大きく吸った。

 そして、手すりを掴んだ腕に最後の力を込めて、自分の身体を()()()()()

 視界が一瞬、浮き上がると同時に。

 瑠衣は、海の中へと引きずり込まれたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

(――――流石に)

 

 流石の瑠衣も、船の沈没に巻き込まれた経験はない。

 せめてもの抵抗と思って、着水時の衝撃だけは和らげようとした。

 しかし実際に海に落ちてみると、その程度の抵抗は何の意味もないとすぐに理解した。

 

(流石に、不味い……!)

 

 船体という大きな質量を持つ物が水に沈む時、周囲の水も()()()()()()()()

 これは文字通りの意味で、周囲の海水が船体に引きずられるように下へと渦を巻くのだ。

 当然、その中にいる瑠衣も例外ではない。

 足先から、いや、全身に重い塊が圧し掛かったかのように、身体を押し込まれてしまう。

 

 まして、海中には足場がない。

 つまり踏ん張ることができないので、周囲の水流に動きを制限されてしまう。

 さらには体力の消耗。先程の着水で残りの力を使い果たしてしまった。

 

「――――」

 

 幸い、着水する直前に肺に空気を取り込むことができていた。

 だから、一瞬で意識を失うという事態だけは避けられた。

 だが、それでも()()()()でしかない。

 

(勢いが、強すぎる……!)

 

 そして、水底へと引き込む力の強さ。

 水面からはあっという間に引き離されて、夜であることも手伝って、視界も失われてしまう。

 身体も何度も回転してしまい、上下も方向もわからなくなってしまった。

 

 無重力かと思うような浮遊感の中、掴める場所も支えになる場所もない。

 ともすれば唇を開き、最後の呼吸を吐き出してしまいかねない。

 そうなれば、それこそ()()だ。

 

(……あるいは)

 

 あるいは、ここで最後にするべきなのかもしれない。

 不意に、そんな考えが脳裏に浮かんだ。

 実際、本当なら瑠衣の()()はもっとずっと前の時点であったはずなのだ。

 それが、いくつかの奇跡や間違いが重なったために、今日まで延びてしまった。

 

(もしも……)

 

 もしもここで、身体から力を抜いてしまえば。

 ()()は、あっさりと訪れるだろう。

 あるいは、そうするべきなのではないか。

 そんなことを、考えて。

 

「…………?」

 

 その時だった。

 暗く冷たい海水の中で、瑠衣は何かに触れた。

 瑠衣の手の中にあるそれからは、熱を感じた。

 

(これは、何?)

 

 そしてそれは、()()()()()()()()()()()()()()

 

(あ……)

 

 ()()()()()()()()()

 瑠衣の手の中で、日輪刀が熱を放っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――諦めるな。

 そう、誰かの声が聞こえた気がした。

 日輪刀を握る手のひらから、熱を感じて、その熱が叫んでいた。

 生きろ、と。

 

「――――――――ッ!」

 

 瞬間、瑠衣の身体は動いていた。

 両脚を広げ、身体を捻じり、日輪刀を大きく振り上げた。

 当然、水中で行われるその動作は地上のようにはいかない。

 腕に、日輪刀に、まとわりつく重み。

 だが、瑠衣はそれごと()()()()()

 

(光……!)

 

 水流が変化したためか、ほんの僅かに、光が差した気がした。

 それはほんの一瞬で、すぐに見えなくなってしまったけれども。

 それでは、瑠衣は光差す方向を理解した。

 

 光を背にする方へと、身体を回転させた。

 それだけの動きで、全身が悲鳴を上げる。

 だがそれでも、日輪刀だけは、燃えるように扱った。

 その柄を握り締める力もまた、抜けることはなかった。

 

(これが、正真正銘、最後の呼吸……!)

 

 海の中にあって、新たに呼吸をすることはできない。

 だからこの肺の中にある空気だけが、瑠衣に残された最後のエネルギー。

 それを、今、ここで使う。

 

 最後の、そして満身の力を込めた日輪刀が、赫く変わった。

 熱量が上がり、周囲の温度そのものが上昇したような、そんな錯覚を覚える程だった。

 

「――――――――ッ!」

 

 ごぼっ、と、瑠衣の唇から最後の呼吸が溢れ出た。

 瞬間、日輪刀の周囲が白く泡立った。

 そしてその次の瞬間、瑠衣は日輪刀を振るっていた。

 

 ――――炎の呼吸・玖ノ型『煉獄』。

 衝撃。

 技を放ったその瞬間、瑠衣の全身に衝撃が走った。

 その衝撃は、正面へ向かって放たれた『煉獄』の威力そのものだった。

 

(……意識を……!)

 

 呼吸を失い、肉体への強烈な負荷によって、視界が急速に狭窄していく。

 必死で保った視界の中、水底へと消えていくラーフの船の端が見えた。

 それは海水に溶けるように崩壊し続けており、おそらく着底することなく消えてなくなってしまうだろう。

 

「…………」

 

 遠ざかっていくそれを、消えゆくその姿を、瑠衣はただ見つめていた。

 かける言葉はおろか、向けるべき感情も、今さらありはしなかった。

 だからただ、見つめていた。

 きっと、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 異国の鬼の始祖。

 さらば、などと言うこともしない。

 ただ、斬るべきものを斬っただけだ。

 それだけだ。

 瑠衣とラーフの、いや、鬼狩りと鬼の間は、それだけで――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 海面を突き破る衝撃で、瑠衣の視界が開けた。

 思わず吸い込んだ新しい空気が、一気に脳に酸素を行き渡らせたためだ。

 もっとも、それだけで事態が改善するわけではない、ということもまた事実ではあった。

 

「……フッ!」

 

 空中で身体を回転させて、日輪刀を振るう。

 真下へと位置を変えた海面を、叩くようにして斬った。

 まるで巨大な壁に打ち込んだかのような衝撃。腕がビリビリと痺れた。

 しかしその甲斐あって、海面に叩きつけられることだけは避けられた。

 

 その代わりに、水切りする石の要領で、海面を()()()()

 ただ地面ではないので、勢いが弱まると沈むことになる。

 あえて力を残さず、瑠衣は自然に任せた。

 結果として、仰向けの状態で、海面に浮かぶことになった。

 

「……あー……」

 

 そして、それで本当に限界が来た。

 血を失い、体力を失い、さらには体温も失った。

 加えて言えば、強大な敵を討ち果たしたことで、緊張感も失ってしまった。

 今の瑠衣にはもはや、指先一つ動かす力もなかった。

 

「……さて……どうしたものですかね……」

 

 広大な海原の真っただ中。誰かに見つけて貰うことは期待できないだろう。

 さりとて今の身体の状態では、とても陸地まで泳ぐこともできない。

 絶体絶命の状況を切り抜けたばかりだが、それでもなお絶体絶命の状況の中に放り込まれている。

 思わず、笑ってしまいそうだった。

 笑う体力すら残っていないわけだが。

 

「……うん……?」

 

 このまま魚の餌にならずに済む方法を考え始めた時だ。

 遠くの空に、光が見えた。

 夜明けかとも思ったが、それにしては小さな光だった。

 そしてその光は細長く伸びていて、海面を滑っているようだった。

 

 その光の根元は空にあって、良く良く耳を澄ませてみれば、波の音とは違う音が聞こえた。

 バラバラというその音は、瑠衣が聞き慣れない物だった。

 つまり、人工の――機械の音。

 あれは確か、ヘリコプター、とかいう空飛ぶ乗り物。

 

「……はあ」

 

 遠目に、そのヘリコプターの扉が開いているのが見えた。

 それを見て、瑠衣は息を吐いた。

 どうやら、魚の餌になる心配はしなくて良くなったようだった。

 

「瑠衣さぁ――――んっ!!」

 

 ヘリの扉から顔を出して、少年が自分の名を呼んでいた。

 それに対して応えたかったが、残念ながら声が出せなかった。

 だが幸い、彼は見つかるまで自分を探してくれるだろう。

 だからそれまでは、波にたゆたうままに任せておくことにした。

 おそらく、そう時間はかからないはずだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 全員無事救助完了。

 その報告が届いた時、その場で小さいが、しかし確かな歓声が上がった。

 部下の歓声の一方で、産屋敷は安堵の息を漏らしていた。

 今回ばかりは、流石に何らかの犠牲を覚悟しなければならないかもしれない、と頭の片隅で思っていたからだ。

 

 しかし結果だけ見てみれば、負傷はしているものの、死者はいない。

 もちろん、これまでの戦いの中で失われたものはある。

 ラーフの船の沈没によって生じるあれやこれやもある。

 それは、もう暫くは尾を引くだろう。

 だがそういう後始末に類することは、それこそ産屋敷家の役割だった。

 

「さあ、喜ぶのはまだ早い。すぐに病院の手配をして」

「あ、は、はいっ! 承知いたしました!」

 

 静かに喜び合っていた部下達が、産屋敷の言葉に慌ただしく動き始めた。

 命こそあるが、瑠衣も、そして子ども達も、大なり小なり怪我をしていることには違いがない。

 そして事態が事態であるが故に、普通の病院にかかることができない。

 だから産屋敷家の息がかかった病院――というより、医療班というべきか――を用意する必要がある。

 

「鬼狩り……か」

 

 改めて口に出してみると、不思議な響きだと思った。

 全集中の呼吸や型と言った技術だけであれば、炭彦達も鬼狩りと言って良いはずだ。

 だが不思議と、その言葉がぴったり嵌まる人間は瑠衣だけのような気がする。

 それは、戦乱の世を生きた者と、平和の世に生まれた者の違い、というだけではないように思えた。

 

「彼女が今の世にいてくれることは、我々にとって幸運だった、と言って良いのだろうね」

 

 あるいは、その逆なのか。

 とはいえ、瑠衣がいなければ今回の事態を乗り切ることは出来なかった。

 それも、偽らざる事実だ。

 だから、やはり幸運だった、と言うべきなのだろう。

 まだまだ、鬼狩りという存在が必要になる、ということだ。

 

「そして、産屋敷家(わたしたち)も……」

 

 先祖と鬼狩り達は、鬼舞辻無惨という鬼を打倒して、この国に平和をもたらした。

 だが、脅威は日本の外にもあるものだった。

 彼らは「空白地帯」となったこの国を、虎視眈々と狙っていた。

 守らなければならない。海の向こうからやってくる脅威から、悪意から。

 

「まだまだ、必要……ということ、なのだろうね」

 

 だから、まだ鬼狩りは――鬼殺隊は続く。

 この世に、鬼が存在する限り。

 ――――鬼滅の刃は、終わらない。




最後までお読みいただきありがとうございます。

今話をもって、本編は終了となります。

瑠衣の物語も、エピローグを残すのみになります。

それでは、もう少しだけお付き合いください。
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