頚に冷たい異物が押し込まれ、そこから命が噴き出す。
鬼の死を追体験した気分だ。
つまり、瑠衣は最低の気分で
「――――っ!」
座席の上で跳ね起き、最初にしたことは自身の頚を確認することだった。
片手を頚に当てると、頚が繋がっていることを確認できた。
ほっと息を吐く。
生きている。そして、現実に戻って来ることが出来たようだ。
瑠衣は変わらず列車の座席に座っていて、周りには眠りこけたままの乗客がいる。
頚に触れていた手に、縄の輪が巻かれていることに気付いた。
しかも、焼き切られている。
これは何だと思っていると、強い風に髪を煽られた。
「うん?」
空気の流れに違和感を覚えて、上を見上げた。
すると、そこにあるはずの天井がないことに気付いた。
車両の天井に小さくない穴が開いていて、そこから風が侵入してきていたのだ。
破片が外側に逸れているから、内側、つまり車両から外へ何かが飛び出したように見えた。
「……榛名さん?」
向かい側に座っていたはずの、榛名の姿がなかった。
しかし、上から人の気配がした。それも複数人。
瑠衣は縄を投げ捨て、日輪刀を手に取ると、座席を蹴って跳躍した。
破片で怪我をしないように手をかけて、腹に力を込めて身体を跳ね上げた。
外に出ると、より強烈な風が身体を打った。
周囲の光景が高速で背後へと流れていく。
列車はまだ、速度を上げているようだった。
さて榛名はどこだろうかと、思った時だ。
「危ない!」
咄嗟に反応しかけた腕を止める。
何故なら、危険を訴えて飛び込んできた相手が炭治郎だったからだ。
炭治郎を両手で抱き留める。そして、自分でも後ろに跳んだ。
そうしなければ車両の中に背中から落ちていたし、炭治郎が意味もなくそんなことをする人物ではないと思っていたからだ。
結果として、それは正しい判断だった。
視界の端に煌めくものが見えて、瑠衣は己の胸に炭治郎の頭を深く抱いた。
その腕の肌一枚、そして鼻先一寸を、刃が通り過ぎていった。
剣閃は、うっすらと赤く見えた気がした。
背中から車両の屋根に落ちて、その反動を利用して後転し、瞬時に体勢を立て直した。
「榛名さん!?」
そこにいたのは、榛名だった。
瑠衣と炭治郎に向けて刀を振るった相手が榛名だと知って、瑠衣は困惑を覚えた。
しかし当の榛名は瑠衣の声に応じる様子もなく、半目で瑠衣を見つめていた。
その表情は、どこか虚ろだった。
◆ ◆ ◆
助けようとしたはずが、最終的に助けられた気がする。
瑠衣の胸に掻き抱かれたまま、炭治郎はそう思った。
「大丈夫?」
「い、いえ」
「貴方達が起こしてくれたんですね……ありがとう」
微かに、不甲斐なさを感じている匂いがした。
しかしそれを表情に出すようなことはなかった。
「ムー!」
そうやっていると、禰豆子がいつの間にか傍にやって来ていた。
眉を八の字にして、炭治郎の羽織を引っ張っている。
瑠衣から離れてぽんぽんと頭に手をやると、満足したような表情を浮かべていた。
「だあああああっ!!」
伊之助の声。
そちらを見やると、2本の日輪刀――藍鼠色で、ノコギリのように刃こぼれが酷い――を構えた伊之助が、同じく刀を抜いた善逸と2人で榛名を挟んでいた。
どうやら伊之助はかなり苛立っているようで、今にもその場で地団駄を踏みそうな勢いだった。
「何なんだこいつは! 何で俺達を攻撃してくんだ!? 隊士同士でやり合うのはご法度なんだろォッ!?」
「落ち着け伊之助! 様子がおかしい。鬼に操られているのかもしれない!」
そんな伊之助に、酷く凛とした声で善逸がそう言った。
いつもの善逸からは想像もできない程にしっかりしているが、様子がおかしいというのであれば、稀もまたおかしかった。
と言うか、あれはもしかして寝ているのではないだろうか……?
「榛名さん……!」
鬼に操られているのか。
聞き取れないが、榛名は何事かを呟いている様子だった。
止めなければと、瑠衣が膝を上げかけると、榛名も動いた。
――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。
またもや炎の呼吸。
榛名が通常使う呼吸ではない。
飛び込み、そして斬撃。
(あの縄は?)
悲鳴を上げて回避する伊之助と善逸。
しかし瑠衣の目を引いたのは、榛名の手首に巻かれた縄だった。
瑠衣が先ほど投げ捨てた物と同じ物だろう。
「竈門君、あの縄は?」
「え? あ、ええと、この列車にいる鬼の術に関係している物だと思います」
「なるほど……」
反対側に、輪がもう1つ。
おそらくだが、あの縄で繋がると何らかの干渉が可能になるのだろう。
そうだとすれば、榛名はまだ夢を見させられている状態なのではないか。
つまり、操られているというのは正しくない。
「竈門君、もう1つ教えて下さい」
「はい!」
「兄は……煉獄杏寿郎は、どこに?」
「……先頭車両で、鬼と戦ってくれています」
これだけの強力な血鬼術を、これだけの範囲で行使する。
並の鬼には出来ない。相当に強力な鬼だ。
十二鬼月。
いかな杏寿郎とは言え、一筋縄ではいかないはずだ。
早く、加勢に行かなければ。
「竈門君、お願いがあります」
炭治郎の目を見て、瑠衣は言った。
そんな2人を、禰豆子がじっと見つめていた。
◆ ◆ ◆
善逸の
本人ですら己の状態を自覚していないのだから、無理もないことではある。
ただわかっているのは、善逸は極度の緊張や恐怖に晒されると
眠りに落ちることで緊張や恐怖から解放されて、善逸は彼本来の才能を発揮することが出来る。
「伊之助、刀だ! 日輪刀を取り上げて無力化しよう!」
「でもアイツ、刀を2本持ってるぜ! 何でか2本目は使わねぇけどよ!」
確かにそうだと、善逸は思った。
目を閉じて眠っているというのに、善逸は良く視えていた。
榛名は刀を2振り持っているが、伊之助のように二刀流というわけではないようだ。
だが、いずれにせよ武器を奪ってしまえば。
「善逸! 伊之助――――っ!」
炭治郎の声。
彼は手を振って、こちらに声を張り上げていた。
「その人をこっちに誘導してくれ――――っ!」
意図はわからないが、炭治郎が言うことだった。
「伊之助!」
「紋壱が俺様に指図すんじゃねえ!」
――――雷の呼吸・壱ノ型『
車両を踏み抜かんばかりの踏み込み。瞬きした直後には、彼の姿は彼方へと消えていた。
剣戟の音が遅れて聞こえてくる程の速度で、善逸は榛名の刀を弾き上げていた。
通常の状態ならわからないが、今の榛名は足元も覚束ない程だ。
今の善逸なら、それくらいは難しいことでははなかった。
宙を舞う赤い刃の日輪刀。
しかし、何故か榛名はもう1振りに手を伸ばそうとはしなかった。
「隙アリイイイイッ!」
――――獣の呼吸・壱ノ牙『穿ち抜き』。
ノコギリのような二刀を重ねて、伊之助が全速で突いた。
鬼ならば喉を狙うところだが、流石の伊之助もそれが駄目なことはわかっている。
スレスレのところを狙い、榛名の体勢を崩した。
たたらを踏んで、榛名が後退していく。
「すみません!」
そこへ、炭治郎が来た。
彼は大きくのけ反ると、榛名の頭めがけて自らの頭を振った。
頭突きである。
ただ、それは榛名も回避して見せた。
代わりに、榛名はより不利な体勢を余儀なくされてしまう。
その背中に、瑠衣が飛びついた。
そして瑠衣は、そのまま
車両の中へと、落ちていく。
「……っ!」
榛名が身をよじり、瑠衣の眼前を肘が掠めた。
そのまま、2人折り重なるようにして車両の床に落ちる。
流石に隊士だけあって、無意識でも受け身は見事なものだった。
そして瑠衣の手には、肘を掠めた時に取ったものがあった。
あの、榛名に繋がった縄の輪である。
「押さえ込んで!」
そこへ、炭治郎達も車両の中へと降りて来た。
榛名の身体を押さえ込みにかかる。
その隙に、瑠衣は輪に自分の腕を通した。
――――
◆ ◆ ◆
藤の花の家紋。
藤の家だ。
もちろん列車にそんなものがあるはずもない。
どうやら、上手くいったようだった。
「ここが、榛名さんの夢の中……」
夜のように暗いが、空に星も月もない。
藤の花弁が雪のように降り続いており、しかも仄かに光っている。
光源はそれが全てのようで、藤の光が照らす神秘的な光景が目の前に広がっていた。
それは屋敷ひとつ分の、箱庭のような世界だった。
――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。
そんな光景に見惚れていると、視界の端に赤い剣閃が見えた。
見えた時には、瑠衣の身体はすでに腰の刀を抜いていた。
赤い剣閃を、緑の一閃が打ち払った。
「榛名さん!」
榛名だった。
「思った以上に鬱陶しい奴だ、お前は」
いや、違う。
顔は、そして体も榛名と全く同じだ。
しかしこの目の前の榛名は、
「姉さんの心の中にまで、土足で踏み込んできて……」
「姉さん?」
「ああ、そうだ。ここは姉さんの心の中だ」
「……妹さん、ですか?」
「違う」
不機嫌そうな顔と声音で、
「僕は旭榛名の弟だ」
弟がいる、と榛名は言っていた。
確かに言っていた。
どういうことだ。
目の前にいるのは榛名と同じ姿の、つまり女性だった。弟とは。
(いや)
ここは夢の中だ。何があっても不思議はない。
瑠衣の夢に家族がいたように、榛名の夢に弟がいることも不思議ではない。
榛名と容姿も性別も同じというのは驚いたが、今は重要なことではない。
それこそ、榛名の心の中のことだ。
「貴方が榛名さんの弟さんだと言うのなら、どうして私達を攻撃するのですか?」
「お前達が邪魔をするからだ」
「邪魔?」
「
当然のことのように、彼は言った。
「危険な場所から姉さんを遠ざけるんだ。お前達はその邪魔をした、だから攻撃した。簡単なことじゃないか」
……見えて来た、ような気がする。
この「弟」とやらの行動の意図するところが、ほんの少しわかった気がした。
しかし、だ。
――――炎の呼吸・弐ノ型『昇り炎天』。
地面を掠めるような、斬り上げの一撃。
斬撃は鋭く、込められた気も申し分なかった。
鬼を斬るには十分。人を打ち倒すにも十二分。しかし。
「……私を誰だと思っているのでしょう」
――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐風樹』。
斬り上げの斬撃を、上からの連続斬りで叩き伏せた。
後ずさりし、手が痺れる程の威力に顔を顰める。
そんな相手に、瑠衣は言った。
「私は煉獄家の娘ですよ。他の呼吸ならいざ知らず、炎の呼吸で私に斬りかかるだなんて。いささか甘く見過ぎではありませんか?」
本心であり、事実でもある。
こと炎の呼吸に関して、父や兄弟を除けば瑠衣の右に出る者はいない。
技の出がかりを潰すことなど、造作もないことだった。
これが榛名本来の呼吸法であれば別だろうが、炎の呼吸を使う限り、相性が悪いとしか言いようがなかった。
「くそ……!」
榛名の弟は、瑠衣の言葉に悔し気に表情を歪ませた。
それでも刀は下ろさない。闘志には僅かな陰りも見えない。
呼吸も性格も榛名とは違うが、そこは共通していた。
思ったよりも長い対峙が必要かと、そう思った時だった。
悲鳴。
屋敷の方から、耳を
それは女性の声で、しかも聞き覚えがあった。
瑠衣があっと声を上げた時には、すでに相手は背を向けていた。
姉さん、と声を上げて駆けていく彼の背中を、瑠衣も慌てて追いかけた。
◆ ◆ ◆
藤の家に入ってすぐに、瑠衣は違和感を感じた。
土間から室内へと駆け込んだは良いが、部屋を2つ3つ通過したあたりでおかしいと思った。
広すぎる。
しかも部屋の構造はどれも同じで、畳に散らばった生け花に掛け軸が目についた。
それから、壊れた桐箪笥。
襖をいくつ潜っても終わりが見えない。
それから、先に家の中に入ったはずの榛名の弟の姿も見えなかった。
襖が閉ざされて、次に開けた時には見えなくなってしまった。
血鬼術かとも思ったが、おそらく違う。
これは、夢なのだ。
(ここは夢の中、現実とは法則が違うはず)
常人の考えや行動をしていては、おそらく何かを見落とす。
瑠衣は次の襖を開けるのをやめて、その場に立ち止まった。
息を整えて、感覚を研ぎ澄ますことに集中する。
全集中の呼吸は身体能力だけではなく、五感をも高めることが出来る。
「…………」
瞬間的に、音が消える。
最初の音が重要だった。
次に音が戻って来る時の、最初の音である。
そしてその最初の音を、幸運なことに瑠衣は聞き逃さなかった。
「……もしもし?」
壊れた桐箪笥。
外部からを強い衝撃を受けたのか、完全にひしゃげてしまっている。
特に酷いのは側面から正面に向けてで、縦や横にいくつも裂けてしまっていた。
原型を留めているのが不思議な程だ。
「大丈夫ですか?」
その桐箪笥の陰に、小さな誰かが蹲っていた。
どうして今まで気が付かなかったのだろう。
あるいは、探そうとしなければ見つからない。そういう存在だったのかもしれない。
膝をついて、瑠衣は
「
年の頃は、10を少し超えた程だろうか。
涙を湛えた大きな瞳が、瑠衣を見上げていた。
藤の花が染め抜かれた青い着物を着ていて、この家の子なのだろうとわかった。
そして、その容姿は瑠衣が知る人物に瓜二つだった。
「お名前を、教えて頂けませんか?」
ゆっくりと、一つ一つの音が聞き取りやすいように、言った。
しばらく、間があった。見つめ合うだけの時間が過ぎた。
やがてぐすぐすと愚図りながらも、つっかえながらも、彼女は答えてくれた。
「……はるな……」
その少女は、確かにそう言った。
「旭榛名」
ああ、と瑠衣は思った。
どうしてこう、当たってほしくない予想ばかりが当たってしまうのだろうか、と。
◆ ◆ ◆
榛名と同じ姿の弟が現れたかと思ったら、次は幼い姿の榛名が現れた。
流石は夢というべきか、脈絡も何もあったものではない。
そして瑠衣は、その幼い姿の榛名と手を繋いで藤の家を歩いていた。
もちろん、例によって同じ構造の部屋が延々と続いている。
「ぐす……ぐす……」
榛名は、まだ目を擦って愚図っていた。
会話らしい会話はない。
ただ、瑠衣の手を取ることに躊躇はない様子だった。
「どこなの……あさひ……」
「あさひ?」
「弟なの……はぐれちゃったぁ……」
どうやら榛名は、あさひという名前の弟を探しているらしかった。
瑠衣の前に現れた
しかし、彼はどこかに失せたままだ。
そもそも、家の中ではぐれるというのもおかしな話だ。
あるいは部屋の移動に意味はなく、榛名を見つけた時のように立ち止まるべきなのか。
だが当の榛名に立ち止まる様子がないため、歩き続けるしかなかった。
それとも榛名には、このまま進むべきだという何かの確信があるのだろうか。
そう思って、榛名を見下ろした時だ。
「ん……?」
榛名は髪が長かったが、今は幼い姿のためか、おかっぱに切り揃えられている。
だから、横から見下ろすと着物の襟から首元が見えた。
何だろうと思い、視線を向けていると……。
不意に、榛名が立ち止まった。
身体が硬直し、表情が青褪めて目を大きく見開いていた。
いったい何事かと思っていると、視界の端で何かが揺らぐのが見えた。
いや、端どころではない。
「この煙は……?」
薄い、白い煙が漂っていた。
しかもそれは徐々に広がりを見せており、視界いっぱいに広がろうとしていた。
「うっ、ごほっ」
鼻と喉の奥を刺激する独特の臭気。
口元を押さえながら、瑠衣はこれが何であるのか理解した。
火だ。どこかで燃えている。
火事だ、これは。
「い……」
そこで、榛名が瑠衣の手を放して駆け出した。
「いやああああああああああああああああああっっ!!」
余りにもいきなりのことで、榛名を掴むことが出来なかった。
不味い、と思った。
榛名は襖に向かっている。このままでは、はぐれてしまうだろう。
それは不味かった。
だが、幸か不幸か瑠衣のそれは杞憂に終わることとなる。
次の瞬間、榛名の向かった襖が吹き飛んだからだ。
向こう側から、斜めに裂かれて、そしてこちら側へと吹き飛んだ。
飛んできた襖を、横に跳んでかわした。
かわしてから顔を上げると、尻餅をついた榛名の後ろ姿が見えた。
そして、もう1つ。
「――――――――ッッ!!!!」
咆哮が、来た。
ビリビリと空気さえ揺らすその叫びは、人や獣のそれではない。
鬼が、そこにいた。
◆ ◆ ◆
――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。
鬼を視認した瞬間、瑠衣は斬りかかった。
黒い霧を固めたような、靄がかった姿をした鬼だ。
畳の床を抉り取りながら突進し、日輪刀を鬼の頚めがけて振るった。
「……っ!?」
しかし、そこで不可解なことが起こった。
瑠衣の刀は確かに鬼の頚を捉えたが、手応えがまるでなかった。
刀が、鬼の身体を擦り抜けたのだ。
霞でも斬ったかのような感触だった。
ぎょっと目を見開く瑠衣の目前で、鬼が腕を振り上げるのが見えた。
瑠衣は刀を立てて、防御の姿勢を取った。
うなりを上げて、鬼の腕が振り下ろされる。
だがまたしても不可解なことに、鬼の腕は瑠衣の身体さえ擦り抜けてしまったのだった。
「私もっ!?」
攻撃や防御のための擦り抜けてはない。
では何だ、と思った次の瞬間だ。
「きゃっ」
鈍い悲鳴と共に、後ろで誰かが倒れる音がした。
振り向く。
榛名が倒れていた。
その小さな背中から、
「榛名さんっ!!」
跳んで、そして助け起こした。
うつ伏せの状態から胸に手を回して持ち上げると、切り裂かれた着物の下から、痛々しい切り傷が見えた。
ぱっくりと肉が裂けてしまっており、傷口から止めどなく血が流れ出ていた。
手当てをと思ったが、出来なかった。
鬼が腕を振り下ろしてきたからだ。
榛名を抱えて跳んだ。鬼の攻撃は空を切った、はずだった。
腕の中で榛名がまた悲鳴を上げた。
「……っ。何で!?」
榛名の背中から、鮮血が飛ぶ。
それも同じ傷口からだ。
傷はより深く切れていて、このままでは骨にまで達してしまいそうだった。
混乱していると、鬼がまた腕を振り上げている。
斬り払おうとしたが、刃は擦り抜ける。駄目だった。
「ごほっ」
そして、煙だ。
ますます室内を覆っていて、咳き込んでしまう。
このままでは呼吸に支障をきたしかねない。
鬼が腕を振るう。
今度は榛名の背中は切れなかった。
その代わりに、床に、壁に、天井に、獣の爪痕のような裂傷が走る。
もしかしたら、先程の桐箪笥の破損もこのせいだったのかもしれない。
(ここにいたら不味い)
榛名の怪我、通じない攻撃、火事の煙、そして迫る鬼の爪。
とにかく、一旦この状況から脱出しなければ。
そう思って、瑠衣は次の着地の瞬間に
ただし今度は鬼への攻撃のためではなく、別方向の襖を突き破って隣室へ逃げるために放ったのだった。
◆ ◆ ◆
部屋と部屋は繋がっていないのか、3つほど襖を開けて進むと鬼は追って来なくなった。
煙も、幾分か薄まってきたような気がする。
「いやっ」
今の内にと、榛名の手当てをしようとした。
しかし、榛名は瑠衣の手を振り払って桐箪笥の陰に隠れてしまった。
最初の状態に戻ったとも言える。
問題は、背中の怪我を見せてくれないということだ。
「みないで……みないで……」
うわ言のようにそう言って、背中を瑠衣から隠そうとしている。
取り付く島もないとはこのことだ。
だが榛名は子供の身体で流してはいけない量の血を流していて、放ってはおけなかった。
「榛名さん、せめて止血をさせて下さい。このままでは死んでしまいます」
「死なない」
榛名の声だが、榛名ではなかった。
驚いて振り向くと、そこに大人の姿の榛名が立っていた。
いつからそこにいたのかはわからないが、酷く機嫌が悪そうな表情を浮かべていた。
そして不思議なことに、幼い榛名はその存在に気が付いていないらしい。
「……
試しに、そう呼んでみた。
するとますます不機嫌な表情を浮かべたが、しかし否定はしてこなかった。
返事もしなかったが。
ただ、瑠衣の隣に膝をついて泣きじゃくる榛名を見下ろすと、悲しそうな表情に変わった。
「姉さん」
やはり、弟の「あさひ」で間違いないようだった。
ただ、榛名にはあさひの存在は見えていないようだった。
「あさひさん、ここはいったいどういう場所なのでしょう。そして、先程の鬼について何か知っているなら教えてくださいませんか」
あさひは、答えようとしなかった。
「あさひさん」
声に力を込めて、瑠衣は言った。
「このままでは榛名さんが」
「姉さんは死なないと言っただろう」
ここは榛名の心の中なのだから、と、あさひは言った。
いくら血を流したところで、死にはしない。
だから榛名は大丈夫なのだ、と。
「ここは姉さんの夢の中なんだ。夢で人は死なない」
「でも」
「なんだ」
「でもこれは悪夢です」
確かに、命は失われないかもしれない。
だが、榛名は
ここが榛名の心の中だというのなら、ここで流す血は、そのまま心の傷を意味するのではないのか。
それを「大丈夫」とは、瑠衣には言えなかった。
「教えて下さい、あさひさん。この悪夢のことを」
あさひの目を真っ直ぐに見つめて、瑠衣はそう言った。
榛名をこの悪夢から救うために。
そして、諸悪の根源たる鬼を討つために。
◆ ◆ ◆
――――その姉弟に、血の繋がりはなかった。
孤児だったのだ。
この時代、珍しいことでもない。
珍しいことがあるとすれば、まともな家に拾われたということだろう。
そして、その家が「藤の家」であったことも。
「僕たちの養父母は、奇特な人だった」
そして、優しい人達だった。
何でも養父母の曾祖父は相当にお金にがめつい性格をしていたそうだが、鬼殺隊士に命を救われて以来、人のために財を投げ打つようになったらしい。
自分の子孫にも、人助けの精神を説いていたようだ。
養父母の代になっても、それは変わらなかった。
それどころかその教えは善良な人間を生み、頑なな孤児の心を開かせる程になっていた。
裕福ではなかったかもしれないが、恵まれていたとは思う。
幸福だった。本当にそう思う。
だがその幸福も、たった一晩で覆ってしまった。
「知っているだろうが、藤の家は鬼に狙われやすい」
血のせいなのか、あるいは鬼の好む血なのか。
一度鬼に襲われた家の人間は、不思議と鬼を引き寄せる。
度々でも隊士が来てくれた方が、藤の家の者にとっても安心を得られるのだ。
そして隊士がいない時でも鬼対策は万全で、榛名の家でも夜に藤のお香を焚いていた。
だが
「失火か気候か、あるいは放火か。そんなことはもうどうでも良い」
火事。香炉も藤の香りも、火の中へと消えた。
そこを、鬼に狙われた。
まず養父が家族を守ろうとして殺され、養母が姉弟を逃がすために囮となって死んだ。
姉弟は、走った。ただただ走った。
結果として、姉弟は
「ここは、
「つまり榛名さんを外に連れ出すことが出来れば、この悪夢は終わる……ということですか?」
「そう、だな。そうかもしれない。ただ」
「ただ?」
「あの夜、姉さんは僕を探していた。でも僕はここにいる」
だが、榛名はあさひのことが見えていない。
見えていないものを、見つけることは出来ない。
つまり、榛名は外に出ることは出来ない。
弟を見つけるまで、榛名はこの家の中を彷徨い続けるだろう。
「この夢に本来関係のない私のことが見えているのに、どうしてあさひさんのことはわからないのでしょう」
「それは……」
その時、視界の端に白い煙が立ち込め始めているのが見えた。
瑠衣とあさひは、はっとして後ろを振り向いた。
そしてそれを見計らったかのように、あの黒い霞のような鬼が、襖を突き破って室内に侵入してきたのだった。
◆ ◆ ◆
次の瞬間には、瑠衣は鬼の頚を斬っていた。
(――――駄目! やっぱり斬れていない!)
だが、やはり手応えはない。
しかも、同時に不味いことが起きた。
「――――ッ!」
鼓膜を揺るがす鬼の咆哮。
音の次に来たのは、衝撃だった。
鬼の振るった腕が、瑠衣の身体を打ったのだ。
擦り抜けない。その事実に二重の衝撃を受けた。
鍛錬の賜物か、頭で思うよりも先に身体が動いていた。
刀を立てて鬼の腕を受け止め、床に叩き付けられる前に受け身を取った。
それでも、痛みは本物だった。
畳の上を転がるようにして距離を取り、跳ね起きた。
「こ、の……!」
――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』!
床に足裏が着くと同時に、突進した。
しかし同じことが繰り返されるだけだった。
瑠衣は鬼に触れることが出来ない。
「よせ! ここは姉さんの悪夢の中だとお前が自分で言っただろう! その鬼だって現実の鬼じゃないんだ!」
「榛名さんの、夢の鬼?」
鬼が振り回す腕を掻い潜りながら、瑠衣は考え続けた。
こういう時に思うのは、やはり家族のことだった。
槇寿郎や杏寿郎ならどうしただろう。
あの2人なら、そもそもこんな状況に陥っていないかもしれない。
千寿郎も、自分よりずっと賢いのだ。何か打開策を見つけるかもしれない。
(悪夢……榛名さんの、悪夢……)
瑠衣は、異物だ。榛名の夢の登場人物ですらない。
だから、榛名の夢に干渉することは出来ない。
この世界の主は、あくまで榛名なのだから。
(榛名さんの……夢……)
そうか、と、瑠衣の脳裏に閃きが走った。
「榛名さん!」
桐箪笥の陰で未だ
「これは夢です! 貴女の夢です!」
どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
瑠衣はこれが夢だと知っている。あさひもこれが悪夢だと知っている。
気付いていないのは、本人だけだ。
夢は夢だと認識した瞬間に、夢ではなくなる。
ああ、これは夢かと気付く、誰しもが経験したことがあるだろう、あの感覚。
「榛名さん!」
「いや……いやだ……みないで……」
「榛名さん、聞いてください!」
鬼が、榛名を見た。
瑠衣の攻撃はやはり擦り抜けてしまう、鬼を止めることが出来ない。
「榛名さん、貴女は」
「貴女は、ここでは
「榛名さん、貴女は鬼殺隊士です! 思い出してください。隊服の感触を、日輪刀の重さを!」
「本当の貴女は強い。上弦の鬼と戦って生き延びた! こんな鬼に負けるはずがないんです!」
とんとん、と、規則的に小さく跳ねる。
夢の中だというのに、瑠衣の額は汗に濡れていた。
鬼が瑠衣を見ずに、榛名に向かっているからだ。
跳ぶ。そして駆ける。
畳や天井を砕きながら、瑠衣は走った。
少しでも鬼の注意を引きたかった。
嗚呼、だが駄目だ。止められない。
「榛名さん!」
だから呼びかけた。必死だった。けれど。
「……むり、よぉ……」
けれど、届かなくて。
「……みんな……みんな、死んでしまったわぁ……」
「……勝てるわけない……戦えるわけない……」
「……痛い、傷が痛くて……どうしようもないのぉ……」
鬼が、腕を振り上げた。
あさひが叫び声を上げて鬼の前に立ち塞がろうとしたが、鬼は意に介さなかった。
榛名と同じで、この鬼もあさひのことを認識していなかった。
飛び掛かったあさひだが、擦り抜けて向こう側に倒れただけだった。
榛名は動かない。
鬼を見さえしない。
諦めたように蹲っている。
鬼の腕が振り下ろされる。鋭利な爪が風を切った。
「榛名さんっ!!」
次の瞬間、嫌な音が響き渡った。
それは、肉が裂ける音だった。
最後までお読み頂き有難うございます。
せっかく頂いたキャラクターなので、今作は読者投稿キャラクターの掘り下げも出来たらいいな、と思っています。特に剣士。
ただ鬼滅的にはキャラクターの詳細が公開された時が一番危ないんですよね…(え)
なお私の描写力には限界がありますので、生みの親の皆様には出来れば温かい目で見て頂ければと思う次第で…(平身低頭)。
え、下弦の壱?
きっと杏寿郎さんと激しい戦闘を繰り広げているに違いない…!