巨械虚が無数の銃を突き出して来た時、瑠衣の身体は自然と動いていた。
突き立てた日輪刀を引き抜き、そのまま振り上げた。
――――風の呼吸・肆ノ型『昇上砂塵嵐』。
銃口が全てこちらを向いていたのは、瑠衣にとっては好都合だった。
自分の防御に専念することが出来るからだ。
そして瑠衣の全力の肆ノ型は、巻き起こした風によって文字通り砂塵を起こした。
舞い上がった砂塵が、一瞬だが仲間達の姿を隠してしまう。
「キエエエッ! 死ね! 死ねエエェッ!!」
しかし巨械虚は己を傷つけた瑠衣のことしか見えないらしく、続け様に発砲してきた。
瑠衣の行動は変わらない。
刀を振るい、斬撃と風の壁で防御するだけだ。
発砲音と火薬の臭い、そして鋼を打ち鳴らす耳障りな音が響き続けた。
「おのれ! 何の価値もない雑草が! 食事にもなれぬ、路地の残飯にも劣る腐敗した肉め!」
散々な言われようだ。そしていきなり良く喋るようになった。
瑠衣は答えなかった。
鬼の都合など関心はなかったし、何より
「おお?」
ついに動きを止めた瑠衣に、巨械虚は身を乗り出した。
この匂いを嗅ぎ間違えるはずもない。
瑠衣の血の匂いに、巨械虚は気付いた。
(流石に、全部は避けられない)
瑠衣は刀を握り、立っている。
しかしよくよく見て見れば、黒い隊服のそこかしこに染みが出来ていて、羽織を濡らしていた。
肩口などは、何かが擦過したかのように生地が弾け飛んでいた。
ぽたぽたと、刀を握った手指や羽織の端から血の雫が地面に落ちていく。
目の前であれだけ発砲されて、全てを回避できるとは瑠衣も思っていない。
何発かは貰う覚悟をしていた。だから急所だけを守った。
しかしその覚悟も、
かつて父が戦った鬼の話。父が二度戦った珍しい鬼――二度目に戦った時は下弦の弐だったとか――の話を聞いていなければ、覚悟する時間も無かっただろう。
「はは、ハハハッ! それはそうだ避けられるわけがない! 澄ました顔をしおってこの雑草が! トドメだ喰らえ、今度は急所さえも守れぬぞ!!」
空気の抜けるような音がして、巨械虚が身を反らした。
するとどうだ、巨体の中心部が外側に開き、円筒状の銃身に無数の銃口を備えた巨銃が姿を現した。
いわゆる、
そしてそれを持っているのは、小さな鬼だった。巨械虚に良く似た姿で、頭に一本角がある。
「血を弾丸として撃ち出す最強の銃だ! 我が血は鋼鉄でさえ焼き尽くす、肉片1つすら残しては置かぬぞ!」
「……その銃がどれだけ凄いのか、私にはわかりませんが」
口の中で血混じりの唾が出るのを感じながら、瑠衣は言った。
「もう少し、周りを見た方が良いですよ」
――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃』。
その一撃は、言葉よりも速かった。
◆ ◆ ◆
――――花の呼吸・肆ノ型『
絡繰の方の巨械虚の膝裏を善逸の剣閃が叩いた直後、カナヲが回転式機関銃を連続で斬りつけた。
何て勇敢な子達だろう、と瑠衣は思った。
自分の意図を咄嗟に察し、撃たれるかもしれない場所に自ら飛び込んで来てくれた。
そして。
――――水の呼吸・捌ノ型『滝壺』。
そして、柚羽も。上空からの斬撃が鬼本体の両腕を斬り落とした。
瑠衣を狙うために身を乗り出していたから、狙うことが出来たのだ。
善逸とカナヲが絡繰と武器を叩いてくれたから、柚羽の攻撃が本体に届いた。
「ギャッ!」
鬼の悲鳴。
こうして見ると、本当に小柄な鬼だった。瑠衣の半分あるかどうかという背丈だ。
全集中・風の呼吸。
「『初烈風斬り』……!」
駆け抜け様、巨械虚は風が己の顔を撫でたように感じただろう。
しかしその風は、己の頚を斬る風だった。
視界がずれ初めて、巨機虚は自分が頚を斬られたことを知った。
そんな、と巨械虚は嘆いた。
もっと異国の物を集めなければならないのに、と嘆いた。
あの方は、自分の絡繰を褒めてくれたのに。恩に報いなければ。もっと。もっと。
自分と師に藩の軍事力増強に役立つ絡繰を作れと強要してきた武士共とは違って――――あれ?
(音が、弾けた)
塵になって消えていく巨械虚から、善逸は最期の音を聞いた。
炭治郎がこの場にいたらどうしただろうと、そんなことを思った。
そう思わせるような、音だった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。見た目は派手ですが、大したことはありません」
そっと身体を支えてくれた柚羽に、瑠衣は礼を言った。
弾丸は肩や脇を擦過しただけで、出血こそ激しいものの、致命傷ではない。
呼吸で、応急的に止血もしている。
銃を使う鬼がいると知っていたから、弾丸を斬り払うということが出来た。
それに、と瑠衣はカナヲと善逸――いきなり仰向けに倒れて鼻提灯を出し始めたが――を見た。
弱った姿を見せて、後輩に心配をかけるものではないと思った。
これは瑠衣にとっても意外な発見だった。
そんな見栄っ張りな感情が自分の中にあるとは思わなかった。
ただ千寿郎という弟がいるから、あるいは不思議ではないのかもしれない。
(それと、もう1つ)
巨械虚が、厳密にはその絡繰の残骸を見つめて、思った。
この鬼を見て、瑠衣は1つ学んだ。本体を隠す鬼もいるのだ。
本体を倒さない限り、巨械虚の絡繰や、そして血鬼術は消えない。
そんな風に、思ったのだった。
◆ ◆ ◆
哀れに思うとすれば、巨械虚と共にいた人間達だ。
どういう背景があったのか、瑠衣にはわからない。
食うに困って追い剥ぎ紛いなことをする内に、巨械虚に囚われてしまったのだろう。
時代錯誤と言われればそれまでだが、いつの時代も追い詰められた人間のやることは変わらないのかもしれない。
「あ……あ……」
何人かは巨機虚の死を見て逃げ出したようだが――もっとも、そちらは隠が捕らえるだろうが――もう何人かは、巨械虚の銃撃の巻き添えを食ってしまっていた。
瑠衣の目の前で仰向けに倒れている男も、その1人だった。
胸から血を噴き出していたのだろう、上半身の衣服が赤黒く染まっていた。
「し……死ぬ……のか、おれ……は」
善逸が寝ていて良かった。
あの子は優しいから、きっと死にゆく人間の音は聞かない方が良いだろう。
カナヲはどうだろうか。何の感情も読めない瞳で男を見下ろすばかりだった。
「ひ……」
その時、男が怯えた眼差しをカナヲに向けて来た。
カナヲの無表情に恐怖を感じたわけでもないだろうが、目を見開いて。
「ち……ちょう……いや、だ……」
錯乱しているのか、と瑠衣は思った。
いずれにせよ、善逸やカナヲをこの場にいさせるのは忍びなかった。
「栗花落さん。我妻君を隠のところへ連れて行ってあげてくれませんか」
「…………了解」
相変わらずのコインを投げた後、カナヲは了承してきた。
小柄な少女がひょいと肩に善逸を担ぎ上げる絵は、なかなかにシュールだった。
常中を自然と身に着けているだけに、そこらの男よりよほど腕力はある。
カナヲの背中を見送った後、瑠衣は男を見た。
呼吸はすでに途切れ途切れで、いつ絶えてしまってもおかしくはない。
胸の傷は深く、助けようもないと一目でわかる程だった。
手当てをしようにも、すでに十分過ぎる程の血が流れ出てしまっている。
「し……ぬ」
男の声も、ほとんど掠れてしまっていた。
「……っと……山……下りれ……思った……のに」
山を下りようとしていたのか、と初めて驚いた。
ただ、それならどうして上へ登っていたのだろう。
やはり自分達を警戒してのことだろうか。
だが自分達の動向を見張っていたなら、下りようと思えば下りれたはずだ。
隠の包囲も、巨械虚がその気になれば強行突破できたはずだからだ。
その巨械虚が、配下共々山の上に陣取っていた理由は何だろう。
そこまで考えた時、はっとした。
巨械虚達が警戒していたのは、見張っていたのは、自分達ではなかったのだとしたら。
「……あの……ばけ、も……の」
男は、そのまま事切れてしまった。
同時に、瑠衣は立ち上がった。
――――しまった。
◆ ◆ ◆
四半刻もかからなかったと思う。それだけの速度で山を駆けた。
巨械虚達が
山を半周する形で、瑠衣達の拠点がある場所から見ても反対だった。
その最も遠い場所に、瑠衣と柚羽はやって来た。
「遅かった……!」
それを見た時、瑠衣は悲痛に表情を歪めた。
隠の死体が、吊るされていた。
頭だけだ。山村と同じだが、吊るされているのと、頭巾を着けたままな点が違った。
首から下は、やはり無かった。
迂闊だった。山村の惨状を巨械虚達の仕業だと思い込んでしまった。
いや、巨機虚達の仕業には違いない。ただ彼らがやったのは
異人が好み――色々な意味で――だという巨械虚のために、頭を1つ1つ見分しただけだ。
山村の村人を全滅させた鬼は、
気が付くべきだった。頭だけを残す意味など巨械虚にはないのだということに。
「ごめんなさい」
死に濁った隠の目を見つめて、そう言った。
言っても仕方がないことだが、口を吐いて出たのはそんな言葉だった。
吊るされたままにはしておけない。瑠衣は隠の頬のあたりに手を添えた。
「……?」
顔に触れた時、少しだが違和感を覚えた。
頭巾の口元が少しくぼんでいて、べったりと濡れていた。
どうやら口を開けているらしい。頭巾の内側で何かが噴き出したようにも見える。
死人を暴くようで少し気が引けたが、口元を捲って、頭巾の下を見た。
「え……?」
隠の口は、やはり大きく開かれていた。
頭巾の内側もやはり血反吐に塗れていて、しかし長続きはしなかったのだろう、口元を濡らすに留まっていた。
問題は、大きく開かれた口の中だった。
目を逸らしたくなるような画だが、そうするわけにはいかなかった。
(舌が、ない)
そこにあるべき部位が無かった。
鬼が千切ったのか。いや、それなら頭巾がそのままなのは不自然だった。
前歯に、赤黒い塊が付着していた。つまりこの隠は、自分で舌を噛み千切ったのだ。
いったいどれほどの胆力があれば、そんなことが出来るのだろう。
自決、ではないだろう。そもそも命を絶つ方法としては確実性に欠ける。
まして隠。鬼殺に身命を賭している。
鬼にどんな恐ろしい目に合わされようと、自決するような人間はいない。
例え首だけになろうとも喰らい付く。それが……。
(嗚呼、そうか)
隠の頭を、胸に抱いた。
羽織に血がつくが、そんなことは構わなかった。
舌のない彼を、誰よりも雄弁に物語ってくれた彼を、ただ労わりたかった。悼みたかった。
頭だけになってでも、彼が遺してくれた言葉。唐突に、理解した。
「お疲れ様。後は、任せて下さい」
◆ ◆ ◆
瑠衣達が鬼達との戦闘に入ったことは、隠達にも知れていた。
巨械虚――もちろん、隠達は鬼の名前など知る由もないが――の銃撃や派手な攻撃は戦闘の気配を気付かせるには十分なものであったし、鎹鴉による伝令も飛んでいた。
隠達は、まさに固唾を呑んで鬼狩り達の戦闘の推移を見守っていたのである。
そして程なくして、瑠衣達の勝利が知らされた。
隠達が歓声を上げるのを、沼慈司は笑顔で見つめていた。
鬼殺隊士は鬼と因縁のある者も少なくない、隠も例外ではない。
鬼が倒されて、しかも剣士達が無事となれば、歓声を上げるなと言う方が無理だった。
「おい、浮かれてんじゃねえ! 後始末がまだだろうが! 煉獄さんは怪我してるらしいし、我妻だって倒れてるんだ!」
「いや、我妻は倒れたっていうか寝たのでは?」
「それでもだ!」
後藤が檄を飛ばして、隠達が慌ただしく動き始めた。
実際、やることは山積みだった。
鬼の痕跡を消さなければならないし、鬼に協力していたという人間も野放しにするわけにはいかない。
山村の村人達の埋葬も、もちろんしなければならない。皆が気に病んでいたことだ。
「沼慈司、お前は近くの藤の家に連絡を入れてきてくれ。銃の怪我だ、医者がいる」
「わかりましたあ!」
びしっと敬礼して、沼慈司は藤の家へと駆け出した。
沼慈司は隠の中でも特に身軽な方で、足には自信があった。
ただ気楽というか奔放な性格が災いしてか、とある
後藤曰く、有能な分タチが悪い、とのことだ。もちろん沼慈司本人は気にしていない。
(いやあ、だって気になるじゃない?)
本当に凄いと思うのだ。
鬼を倒すなんて、本当に凄いことなのだ。
隠だからこそ、その凄さが身に染みてわかる。
剣士を目指したからこそ、剣士、特に同性の剣士に対して、尊敬の念を禁じ得ないのだ。
だからまあ、気になって覗いてしまったりするのも無理からぬことなのだ。
「カアァ――――ッ!」
その時だった。頭上で鎹鴉の甲高い鳴き声が聞こえたのは。
瑠衣達が鬼を倒したとの報からいくらも経っていない。
何とも言えない不安を感じて、沼慈司は鎹鴉を仰ぎ見た。
鎹鴉は、なおも甲高い鳴き声を発し続けていた。
「ガアッ、ガアッ! 警戒セヨッ、警戒セヨオッ!」
月は未だ、夜空高くで、煌々と嗤っていた。
◆ ◆ ◆
心というものについて、カナヲは考える。
ある少年に心は原動力だと言われてから、ずっと考えている。
しかし考えるという行為自体、長い間していなかったから、難しかった。
いや、それも実は少し違うのかもしれなかった。
(心の声が小さいから)
これも、同じ少年に言われたことだ。
心も、考えることも、今までずっとしてきた。
ただ声が小さくて、聞き取れなかっただけ。
最近は、少しずつそう思えるようになってきた――気が、する。
不思議なもので、心をいうものは一度意識し始めると、気になって仕方がなくなる。
例えば、コイン。
以前はコインで決めることに何の疑問も抱かなかった。
ところが最近は、コインを投げた後に「表だったら良いな」と考えることが増えた。
そして思った通りの結果になると、ほっとしている自分を発見するのだ。
「うう……ん。禰豆子ちゃあん……」
例えば、今こうして担いでいる善逸。
最終選別の時は――実のところ、カナヲは善逸が同期ということを覚えていなかった――こんな風に、肩を貸すとは思わなかった。
まあ、担ぐことを「肩を貸す」と表現するか、というと微妙ではあるが……。
(もうすぐ、隠のいる拠点)
あといくらもしない内に拠点、というところで、カナヲは視界の端に揺らめくものを見つけた。
善逸の耳や炭治郎の鼻と同じくらいに、カナヲは目が良い。
常人なら見逃してしまうような小さなものでも、見逃すことはない。
「……蝶」
カナヲは、蝶が好きだった。
名前そのままだが、蝶屋敷には多くの蝶が生息している。
不思議と蝶屋敷の娘達に寄ってきやすく、カナヲもその例に漏れなかった。
ついと指を伸ばせば、すぐにちょっとした数の蝶に囲まれてしまう。
今も、その蝶はカナヲの指にとまっていた。
カナヲの指先で羽根を休めながら、微かに触覚を動かしている。
夜の蝶とは珍しい。血のように赤い蝶だった。
もっと良く見ようと、手を少し上げた時だった。
「……ガ……ァ……」
夜は静かだ。善逸ほどの聴覚がなくとも、確かに聞こえた。
そしてカナヲは、見つけた。
暗闇の中、地面の上で微かに蠢くものを見た。
ひらひらと揺れているのは、同じ蝶だ。
赤い蝶に群がられた鎹鴉が、泡を噴いて痙攣していた。
手を振り、蝶を払った。
そのまま腰に回した手で躊躇なく刀を握り、蝶を斬った。
真っ二つに斬られた蝶は、しかし地面に落ちる前に雪のように消えてしまった。
事ここに及んで、カナヲは確信する。
――――血鬼術だ。
◆ ◆ ◆
花の呼吸は、水の呼吸の派生だ。
派生とは言え歴史は長く、水・炎・岩・雷・風の五大流派を除けば、霞の呼吸と並んで多くの柱を輩出してきた呼吸術である。
例えばカナヲの師――ほぼ見取り稽古だが――である胡蝶カナエは、元柱だ。
――――花の呼吸・肆ノ型『
善逸を担ぎながらのため、片腕で刀を振るうことを余儀なくされた。
しかしそれでも、カナヲの剣は十分過ぎる程の威力を持っていた。
鎹鴉に群がっていた蝶を斬り飛ばし、鴉を救った。
「大丈夫?」
隊服の
やや不格好だが、気にしなかった。
「……! また」
――――花の呼吸・弐ノ型『
ひらひらと無数の赤い蝶が近付いて来て、カナヲは周囲を斬り払った。
蝶それ自体は脆く、カナヲに触れることすら出来ずにいた。
しかし。
(数が多い)
3匹や5匹ではない。10匹20匹の塊が、不意に現れては寄せてくるのだ。
カナヲは常中を会得して長い。一刻でもニ刻でも刀を振るうことは容易い。
しかし煩わしい。まして今は1人ではなく、万全の状態とは言い難かった。
と言って、善逸や鴉を放り出せば、彼らは蝶の群れに囲まれてしまうだろう。
おまけに、未だに蝶の正体が見えない。血鬼術と思われるが、鬼の姿はない。
一時撤退。カナヲの頭に浮かんだのはそれだった。
善逸を抱えたまま頭上の木に跳び上がる。難しいことではない。
その後は木から木へと移動していけば良い。そうして、どこかで振り切る。
(木の上へ)
カナヲは周囲の蝶を斬り払い、そして高く跳躍しようとした。
しかし現実には、彼女は跳躍どころか、地面に膝をついてしまった。
「え?」
唇から漏れたのは、呆けたような声だった。
自分は今、確かに跳ぼうと足に力を込めたはずだった。
それなのに、どうしてか膝をついてしまっている。
意識と逆のことが起こったわけで、一瞬カナヲは混乱した。
視界の端に新たな蝶の群れが見えて、反射的に刀を振るった。
「……ッ!?」
鈍い。明らかに、剣速が遅かった。
何とか蝶は斬り散らしたものの、掌にあるはずの刀の感触が酷く鈍かった。
異常は手足だけでは無かった。目だ。肝心要の視界が、歪み始めていた。
「ハハハッ、ようやく効いて来たようだなあ」
不意に、茂みが揺れる音がした。
カナヲがそちらを振り向くと、回転を始めつつある視界の中で、男が立っているのが見えた。
髪は白い。長く伸ばしていて、後ろで束ねている。瞳は赤く猛禽類を思わせた。
素肌の上半身に蝶柄の着物を羽織っていて、額には渦状に歪んだ角。
(鬼……!)
力の入り切らない腕で、カナヲは日輪刀を持ち上げた。
それを見て、鬼は嗤ったのだった。
◆ ◆ ◆
「お前」
カナヲを指差して、鬼は嗤った。
「触っただろう、俺の蝶に」
カナヲは答えなかった。
カナエの教えでもしのぶの教えでも、話して良い類の鬼ではないと判断したからだ。
そして、喋る力が惜しかったからだ。
鏡を見なくとも、自分の顔が青白くなっていることがわかる。
額には汗が滲み始めていて、唇の色は薄くなっているだろう。
口の中の唾液に粘り気を感じる。胸の下にずっと拳を当てられているかのような不快感がある。
こんな感覚は、そう、
「そいつは俺が血鬼術で作った蝶だ。人間がそれに触ると、少しずつ侵食が始まる。後は血に乗って全身を巡れば、やがて動けなくなる」
全集中の呼吸は、血の巡りを速くする。
それは身体の強化に必要だからで、強い剣士であればある程そうだ。
カナヲが蝶に触れてからさほど経っていないのに効果が表れているのは、そのためだろう。
こうしている間にも、身体に力が入らなくなっている。
いつの間にか善逸も肩からずり落ちていて、地面にうつ伏せになっていた。
「おっと、俺はお前に近付かないぜ。まだな、もう少し弱るまで待つ」
厭らしい笑みを浮かべて、鬼がそんなことを言った。
それなら弱り切るまで隠れていれば良いだろうに、と思った。
おそらく、獲物が弱っていく様を見るのが好きなのだろう。
嗜虐的だ。鬼らしい。いや、あるいは人の頃からそうだったのかもしれない。
鬼は元々、人だったのだから。
「そおら、行け!」
蝶の群れが来る。
先程までは歯牙にもかけなかったが、今は脅威だった。
力の入らない腕で刀を振るうと、一度で済むはずの動作を二度三度と繰り返さなければならなくなる。
体を動かせば、当然、血の巡りは速くなる。
「花の呼吸……っ」
力を込めるために大きく息を吸った瞬間、視界が定まらなくなった。
踏み込みの足で、たたらを踏んだ。
振るった刀が思った位置からずれて、蝶が擦り抜ける。
不味い。蝶に触れてしまう。
このままでは不味い。打開しなければならない。
だというのに、脳裏を掠めたのはあのコインだった。
(わからない)
対処方法が、わからない。
今まで何も考えずに言われるままに鬼を斬って来た。
それで何とかなってしまったのが、この場合は不幸だった。
考えなければならない場面で、それは如実に表れてしまう。
(姉さん)
姉と、コイン。道を指し示してくれるもの。
何の導きも基準もない。そんな感覚に、足元が失われたような気さえした。
目の前に、蝶が迫る。
その瞬間。
――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃』。
轟、と、音が遅れて聞こえて来た。
え?、と思い目を向けた先には、善逸がいた。
刀を抜いた善逸が、眠ったまま目を開けていた。
◆ ◆ ◆
この時、善逸が目を覚ました――寝ているが――のは、彼の耳の良さによる。
善逸は寝ている時でも、傍で話している人間の声を聞き取ることが出来る。
知らないはずの話を知っていて、気味悪がられたこともあった。
悪意ある鬼の声を、善逸は聞いた。
そして何よりも、カナヲの
カナヲの音は、善逸からすると引くくらいに静かで、規則正しいものだった。
それが不意に乱れて、たまらずに彼は目覚めたのだった。
躊躇なく壱ノ型を放ち、カナヲに迫る蝶の群れに突進した。
「ちっ、貴様動けたのか!」
蝶の群れ。善逸は瞬時に反応した。
壱ノ型を連続で繰り出す。幸いここは山だ。足場には困らない。
その点、瑠衣と戦闘スタイルが似ていた。
強いて言えば善逸はより直線的で、そして鋭い。蝶など問題にしない。だが。
(蝶をいくら斬っても意味がない!)
血鬼術で生み出された蝶には、限りというものがない。
唯一の「限り」は、鬼の頚を斬ることだけだ。
木の幹に
その視線の――繰り返すが、寝ている――先には、目指すべき鬼の頚があった。
――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃』。
疾い。しかし、やはり直線的だった。
目の前に蝶の群れが壁を作っていて、壱ノ型の途中で全てを斬り払うのは困難だった。
(――――六連!)
地面を蹴り、軌道を変えた。
木の幹を、枝を蹴り、鬼の頚に迫った。
空中で身を捻りながら、刀を振るう。
しかし鬼の頚を狙った刃は、甲高い音と共に弾かれてしまった。
「ぐっ!?」
弾かれた刀を通して、腕が痺れた。
着地して振り返ると、鬼が刀を持っているのが見えた。
蝶と同じく、真っ赤だ。血で固めたように赤い。
あれで善逸の頚への攻撃を防いだのだろう。
(掠ったか)
それでも切っ先くらいは触れたのだろう、鬼の着物の端が斬れているのが見えた。
しかしそれは善逸も同じで、頬に微かだが熱を感じる。
あの血の刀が掠めたのだろう。一歩間違えればこちらの頚が飛びそうだ。
逆に言えば、恐れずに踏み込めば相手の頚を取れるということだ。
(もう一度)
と、そう思って壱ノ型を踏み込もうとした時だ。
不意に身体から力が抜けて、善逸はその場にくずおれた。
先程のカナヲと同じだ。だが、善逸はまだ蝶に触れていない。
「野郎が苦しむ姿は面白くねえなあ」
そりゃ俺だって野郎より可愛い女の子のが好きだよ!
と叫びたいところだが、状況は最悪だ。
善逸も、カナヲも動けなくなってしまった。
鬼が血の色の刀を手に近付いてくる。善逸が完全に動けない確信が今度はあるのか。
「……待て……!」
結果から言えば。
鬼が善逸に近付くことはなかった。
何故ならば、そこに新たなる乱入者が現れたからだ。
相当な距離を、同じく相当な速度で駆けて来たのだろう。
その乱入者は傍らの木の幹に手を置いて、息が上がっていた。
しかしその視線だけは、余りにも苛烈な色を湛えていた。
「やっと、見つけました」
柚羽が、汗に濡れた顔で言った。
「
奇しくもそれは、蝶と同じ名だった。
◆ ◆ ◆
瑠衣は焦っていた。
鬼がまだ山中にいるとわかり、柚羽と東西に分かれて探すことにしたまでは良かった。
時間をかけられないので、手分けするしかなかったのだ。
しかし、どうやら瑠衣は外れを引いてしまったらしい。
「け、剣士様!?」
山の反対側まで駆けると、まず無事な隠に出会った。
ほっとしたが、それは鬼がここには来ていないことの証左でもあった。
隠により遠くに退避するように言って、返事を聞く前に再び山に駆け入った。
相手の隠も瑠衣のただならぬ様子を察したのか、呼び止めることはなかった。
全集中の呼吸で体力が向上しているとは言え、どれだけの時間を駆け続けているのか。
わからないが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。
柚羽の方に鬼がいるのなら、すぐに加勢に行かなければならないからだ。
あるいは柚羽が倒してしまうかもしれないが、それならそれで良かった。
この場合は、文字通り無駄足を踏まされる方が良いのだ。
(嫌な予感がする……!)
だが、妙な胸騒ぎがしてならなかった。
胸の奥が締め付けられるような、そんな感覚だ。
一刻も早く行かなければと、直感が告げているのを感じる。
そして瑠衣の経験上、この手の直感は無視して良いものではなかった。
(もっと速く)
呼吸を浅く多く、心拍数を上げ、血の巡りを加速させる。
そうして力を蓄えた肉体は、爆発的な力を発揮する。
とは言え、巨械虚との戦いで受けた傷も浅くはない。
呼吸による止血は結局のところ一時しのぎで、いつまでもは保たない。
その意味でも、急ぐ必要があった。
「う……」
一瞬、思い悩むような表情を浮かべた。
しかし迷っている時でもない。
というわけで、瑠衣は決断した。
「鬼め……!」
気持ち程度のことだが、身体も軽くなったように感じる。
上弦の肆との戦い以来だろうか。
口に咥えていた羽織を着込みながら、瑠衣は鬼への闘志を燃やしていた。
「良くも、こんな恥辱を……!」
そうして、瑠衣は夜の山中を、まるで無人の野を行くが如く駆け抜けていった。
程なくして、これは全くの偶然なのだが、瑠衣が駆け去った後に沼慈司が姿を現した。
鎹鴉の誘導で遠回りをしていた結果で、それ自体は大した意味を持たない。
このまま山を下り、藤の家へと走るのだ。
「え、何これ」
そのはずだったが、木の枝にかけられた
何かと思い手に取ってみると、やはりそれは思った通りのものだった。
「隊服? って、うわ重っ。何これ、重りでも入ってるの?」
驚き、そして思った。
いったい誰が、こんなところに隊服を置いて行ったのだろうか、と。
◆ ◆ ◆
ましてそれが何年も前のことであれば、なおさら記憶は薄れていくだろう。
しかし
「お前、俺のことを知っているのか」
揚羽と呼ばれたその鬼も、例外ではなかった。
鬼は人間だった頃に比べて欲望に忠実であることが多く、しかも果てがない。
だから一時の充足を得たとしても、すぐに忘れて次に行く。
振り返るとか、省みるということはまずない。
「お前のような肉付きの良い女は、一度見たら忘れそうにないが」
というか、喰ってしまうのだが。
と言って、次いで「ああ」と一人で得心したように頷いて。
「前に会った時は、そんなに肉付きが良くなかったのか?」
などと言った。
柚羽は、ゆっくりとした動作で刀を抜いた。
呼吸は落ち着き、汗も引いている。
しかし、瞳の苛烈さだけは変わっていなかった。
「そうですか」
ぞわり、と、柚羽の音を聞いていた善逸は、鳥肌が立つのを感じた。
何て音だ。
人がこんな音を立てるのを、初めて聞いたかもしれない。
そんな音だった。
「なら、もう死んでください」
――――水の呼吸・参ノ型『流々舞い』。
流水というよりは、瀑布と言った方が良いかもしれない。
それ程の勢いで、柚羽は鬼に近付いていった。
誰の目から見ても、頚を落とすつもりだとわかる。
(だ、駄目だ。正面から行ったら……!)
警告したかったが、舌まで痺れてまともに発声できなかった。
もどかしさと焦りの中で、善逸は見た。
柚羽が、あの赤い蝶の群れに突っ込んでいくところを。
――――血鬼術『
揚羽の血鬼術は、いわば毒だった。
神経毒のようなもので、触れた獲物を弱らせ、最後には死に至らしめる。
そして今、毒血の蝶が柚羽に触れて。
「……ああ?」
しかし、柚羽は止まらなかった。
自身に舞い寄る蝶には目もくれず、跳ぶ。
空中で、日輪刀を振るった。
そして何事もなかったかのように、揚羽の後ろに着地した。
「お、は?」
ブシッ、と音を立てたのは、揚羽の頚だった。
頸動脈が斬れていた。人間ならば死んでいる。
死ななかったのは、揚羽が鬼だからだ。
頚の傷口を押さえて振り向くと、柚羽が立ち上がるところだった。
日輪刀を振るって、切っ先についた血を払っている。
(ち、蝶に触ったのに、何で……え?)
おそらく、気付いたのは善逸だけだっただろう。
常日頃から音を聞く善逸だからこそ、気付くことが出来た。
(この人、音が)
柚羽から、しているはずの音が聞こえなかった。
その音が何なのかと少し考えて、善逸はすぐに理解した。
何故ならそれは、彼らにとって最重要のものだったからだ。
柚羽からは、鬼殺の剣士が発しているべき呼吸の音が聞こえなかった。
つまり、
「貴方を討つために、会得した技です」
断罪の時は今。
日輪刀を手に、柚羽は再び駆け出した。
投稿キャラクター:
才原輪廻様:揚羽
ありがとうございました。
最後までお読み頂きありがとうございます。
描いてて思うんですけど、やっぱり善逸ってカッコいいですよね。
これで妹がいれば完璧だった(え)
千寿郎君の同期投稿もありがとうございました。
また何かあれば募集したいと思いますので、その際はどうぞよろしくお願いいたします。
それでは、また次回。