鬼滅の刃―鬼眼の少女―   作:竜華零

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残酷な描写注意です。


第21話:「祭音寺柚羽」

 全集中の呼吸。

 その名の通り「呼吸」こそが基本であり、全てである。

 この呼吸術で身体を強化しなければ、人間は鬼に太刀打ちできない。

 だから善逸が目にしているのは、前代未聞のことだった。

 

(無呼吸って、そんなのあり!?)

 

 柚羽が日輪刀を両手で握り、駆ける。

 低い位置から鬼の懐に入り込み、身体の伸び上がりと共に斬り上げる。

 呼吸音は、やはり聞こえない。

 鬼に肉薄する時、柚羽は呼吸をしていない。

 

 柚羽は一合、二合と斬り結び、素早く後ろに下がった。

 後ろに下がって距離を取ると、日輪刀を顔の横に構えた。

 その時、善逸の耳に音が聞こえた。

 ヒュウ、という、逆巻く風のような音だ。

 

(呼吸の音だ)

 

 それは確かに、呼吸の音だった。

 やはり呼吸はしている。だが、あの瞬間は確かに無呼吸だった。

 柚羽はいったい何をしているのか。善逸にはわからなかった。

 

 ――――水の呼吸・肆ノ型『打ち潮』。

 呼吸の型を使った。

 全集中の呼吸。呼吸の剣技。最大の威力を発揮するためには呼吸が必要だ。

 だから柚羽の斬撃は、振り上げから斜め下へと流れ、鬼の二の腕や太腿を斬りつけることが出来る。

 

「わからん。だからこそ興味深いぞ」

 

 当然のこと、鬼の揚羽はその程度の傷で怯むことはない。

 血の刀を振り下ろし、当然、蝶の群れも放ってくる。

 しかし蝶の群れを前にしても、柚羽は怯むということが無かった。

 触れれば終わりの毒蝶だ。実際、カナヲと善逸は身動きが取れなくなっている。

 

「お前にはどうして蝶の毒が効かない? 俺のことをどこで知った」

 

 ――――水の呼吸・参ノ型『流流舞い』。

 身体を横に回転させながら攻撃をいなし、背後へと回り込む。

 跳躍し、後ろから頚を狙う。

 しかし揚羽が咄嗟に頚を守り、柚羽の攻撃を弾いてしまった。

 くっ、と表情を歪めて、柚羽が距離を取った。

 

「ヒュウ――――」

 

 チリチリ、と、柚羽の髪飾りが音を立てていた。

 薔薇を象った精巧なものだが、戦いの場にはそぐわない物でもあった。

 それに目を止めた揚羽が、少し考えるような素振りを見せた。

 目を細めて髪飾りを見つめ、何かを思い出すように顎先を撫でていた。

 

「ああ……」

 

 そして、思い出したのだろう。得心したような表情を浮かべた。

 

「その髪飾り、見覚えがある。そう、そうだ。そうそう」

 

 つい、と柚羽を指差して。

 

「お前、あの村の……華慧村(かけいむら)の人間だな? 良く生きていたものだ、あの村の連中は」

 

 その名を聞いた柚羽の表情が、さらに険しさを増した。

 握り締めた力ゆえか、日輪刀の刃先が微かに揺れていた。

 

「――――全員、俺が喰ってやったと思っていたぞ」

 

 柚羽の奥歯が軋む音がした。

 それは、善逸でなくとも聞き取れるだろうと、そう思える程の音だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――その村の特徴を説明するのは、意外と難しい。

 特徴がないことが特徴というような、日本を探せばどこにでもあるような、小さな農村だった。

 これと言った特産品があるわけでも、これはと思う名所があるわけでもない。

 村人全員の顔が見えるというのが、自慢と言えば自慢だった。

 

「柚羽~?」

 

 祭音寺柚羽が育った村は、そんな村だった。

 そんな村で若者が多かろうはずもなく、同世代でしかも同性の存在は、もはや有人というよりは姉妹と言っても良かっただろう。

 柚羽にとっては、椿という名の少女がそうだった。

 

「これは何かしら?」

「えっと……」

 

 その日、2人は厨に立っていた。

 大きなお櫃の前にいくつも皿が並んでいて、その上には何故か米の塊が盛り付けられていた。

 いや、盛り付けられていたというより、乱暴に投げ置いたと言われた方がしっくりくる。

 

「……お」

「お?」

「お、おにぎり」

 

 おにぎり、らしかった。

 

「柚羽、これはおにぎりではないわ。駄目なお米よ」

「駄目なお米……!?」

 

 美しい少女だった。すっと通った目鼻立ちに、切れ長の瞳。西洋人顔負けの身体つき。

 お古らしい着物の縫い直した跡も、手仕事で荒れた手も、彼女の美しさを引き立てこそすれ貶めるものではなかった。

 柚羽は村の男衆全員が彼女に夢中だという噂を聞いたことがあったが、本当だったとしても驚かなかった。

 

 しかし今はその美しい眉を立てて、腰に両手を当てていた。

 それに対して、柚羽はしょんぼりとした様子で肩を落としていた。

 椿は溜息を一つ零すと、柚羽の隣に立って、掌にお米を乗せた。

 塩は指の間にひとつまみ、掌で柔らかくお米を包んだ後、その塊を何度か転がした。

 

「最初から形を整えようとしなくて良いの。何なら三角でなくても良いわ」

「でも、おにぎりは三角じゃないと」

「そういうこだわりはちゃんと握れてから言うものよ」

 

 うぐ、と呻く柚羽の前に、椿が握ったおにぎりを置いた。

 ふんわりと握られたそれは、艶々としていて見るからに美味しそうだった。

 同じ材料で握っていて、どうしてこうも違う出来になるのかと思った。

 椿が2つ年上とは言え、それだけではない気がする。

 そう、これはつまり。

 

「おにぎりの才能の差が」

「練習の差です」

 

 一刀両断だった。

 その時の柚羽の顔が面白かったのか、椿がクスクスと笑った。

 柚羽はむっとした表情を浮かべたが、その内に自分でもおかしくなったのか、同じように笑い始めた。

 

「さ、早く作ってしまいましょう。宴会が始まってしまうわ」

「うん」

 

 厨に、少女達の明るい笑い声が響いていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 柚羽の村は、宴会の機会が年に何度かあった。

 豊穣を祈る宴であったり、あるいは実りに感謝する宴であったり、大晦日や新年の宴もあった。

 お祭りという程ではないが、村人全員が楽しみにしていた。

 まあ柚羽が思うに、単に大人達が酒を呑む口実にしているだけだろうと思っていたが。

 

「やれ楽しや! 今年の豊作に感謝して!」

「いやいや! 来年の豊作を祈願して!」

「何の! 益々の長寿と新しい命の誕生を祝って!」

 

 実際、村の大人達は口々に適当なことを言って酒杯を傾けている。

 正直なところ、何のための宴会かは誰にもわからない。

 ただ、楽しい。それだけはわかった。

 

 そして柚羽は、こういう宴会が嫌いではなかった。

 村人達はお互いがお互いの顔を知っていて、村全体があたかも1つの家族のようで、温かだった。

 柚羽は、そんな村人達が――家族が、好きだった。

 

「いやー、椿ちゃんのおにぎりはやっぱり最高だな!」

「艶が違うよなあ。まー、別んとこの艶っぽさも凄えけどな!」

「柚羽ちゃんのこれは、何だい? 駄目な米だなあ!」

「まあ、あと3年も待てば艶っぽさも増すさ!」

「「ハハハハハハハッ」」

 

 いや、嫌いだったかもしれない。

 とりあえず、失礼な発言をした村人は泣いたり笑ったり出来なくしておいた。

 それはそれとして、柚羽も年配の女性が作ってくれた団子などに舌鼓を打ち、宴会を楽しんだ。

 全員で準備をして、全員で祝う。それがこの村の流儀だった。

 

「椿、お団子食べよう」

「そうね、いただこうかしら。ありがとう、柚羽」

 

 柚羽は、椿といつも一緒にいた。

 どちらかと言えば柚羽が椿の後をついて回っている感じだったが、椿も柚羽と一緒にいる時は笑顔が多かった。

 親友で、幼馴染で、姉妹。お互いがかけがえのない存在だった。

 

「きゃー、やだあっ」

「それ本当お?」

 

 その時、別の場所で女達の甲高い声が上がっていた。

 すると案の定そこには何人かの女がいて、さらにその中心に青年が1人いた。

 皆の顔を知っている村だから、柚羽はその青年のことも知ってはいた。

 村の女性に人気があるらしく、確かに整った顔立ちをしている。物腰も柔らかそうだ。

 

 その青年と、不意に目が合った。

 ただその視線が長く重なることはなく、何故だろうと思っていると、青年が見ているのが椿だからだと気付いた。

 別に珍しいことでは無かった。村の男は大なり小なり椿に目を奪われるからだ。

 ただ、何故だろう。嫌な感じがした。

 

「柚羽? どうかしたの?」

「ううん、何でもない」

 

 何となく、青年の目を遮るような位置に座った。

 しばらく、じっとりとした視線を背中に感じるような気がしまた。

 それでも椿とお団子を食べている内に、その内に青年のことは忘れてしまった。

 宴会は夜遅くまで続き、村人達も椿も柚羽も、大いに楽しんだ。

 何年か経っても思い出すことが出来る。その日は、柚羽にとってそういう日だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 宴会の後の夜は、村人達は誰もが深い眠りに落ちる。

 柚羽と椿も例外ではなく、宴会の後はすぐに眠ってしまった。

 だから柚羽が厠のために目を覚ましたのは、単なる偶然だった。

 

「……椿……?」

 

 その日、柚羽は椿の家に泊めて貰っていた。

 目を覚ました時、椿が布団にいないことに気付いた。

 椿だけでなく、椿の両親の姿もなかった。

 誰か1人というのならともかく、全員がいないというのはおかしかった。

 

 羽織を肩にかけて、柚羽は布団から出た。

 戸を引いて土間に出た時、何かを蹴ってしまった。

 籠か鍋か。何を蹴ってしまったのかと焦った。

 枕元から持ってきた灯りを、足元に向けた。

 

「ひっ」

 

 見開いた目が、こちらを見つめていた。

 

「お、おじさん」

 

 椿の父親だった。

 

「う……」

 

 灯りを逸らして、口元を押さえた。

 胃の中身が逆流してくるのを何とか堪えて、柚羽は椿の家から駆け出した。

 今、自分が見たものは何だ。

 そう思って顔を上げると、熱が来た。

 

 村が、燃えていた。

 家が、田畑が煌々と燃えて、夜だというのに真昼のように明るかった。

 手に持っていた灯りを、その場に取り落とした。

 灯りが音を立てて奇妙な方向に跳ねるのを見て視線を落とすと、椿の母親がいた。

 優しかったおばさんが、頭だけで柚羽を見つめていた。

 

「あ、あ」

 

 悲鳴を上げて、駆け出した。

 灯りは必要なかった。周囲は炎で明るい。村の半分が火の海だ。

 走って空気を吸い込めむだけで苦しい。胸が熱い。痛い。

 それでもゼエゼエと嫌な音の呼吸をしながら、柚羽は走り続けた。

 

「お父さん! お母さん!」

 

 柚羽の家は、まだ燃えていなかった。

 足をもつれさせながら、家に駆け込んだ。

 土間で転んだが這うようにして中に入って、そして。

 

「ああ、ああああ、あああ」

 

 そして、這ったまますぐに外に出た。

 中で何を見たのかは、もはや説明の必要はないだろう。

 涙なのか汗なのか、胃の内容物なのか、ぐちゃぐちゃになりながら。

 いつの間にか足を挫いていたのか、途中からは引きずっていた。

 

「椿、つばき」

 

 椿を探した。それだけが柚羽の心の支えだった。

 そうして最後に行きついたのが、村の寺だった。

 さほど大きな寺ではなく、村人が細々と繋いでいるような小さなものだ。

 子供の頃は、椿と良くかくれんぼをしていた。

 

「つばき」

 

 お堂の前で、椿を見つけた。

 あと10歩の位置から、柚羽は椿に近付くことが出来なかった。

 その場に釘で打たれたかのように、動けなかった。

 ただ両手だけが、何かを求めるように宙を泳いでいた。

 

 その時、ぐちゃり、という音がした。

 肩を怯えさせて、柚羽はあたりを見渡した。

 すると、その音がお堂の中から聞こえているとわかった。

 椿の顔から視線を上に上げると、お堂の扉が半分ほど開いていた。

 その隙間から、ぐちゃぐちゃという音が断続的に聞こえていた。

 

「あ、あ、う」

 

 舌が回らなかった。

 誰かの背中が見える。頭を上下に振るとぐちゃぐちゃと音がする。

 何かを貪り食っている。何を?

 頭では見るなと叫んでいるが、柚羽は目を放すことが出来なかった。

 目を合わしてきたのは、お堂の中で何かを貪っていた男の側だった。

 

 そう、それは男だった。

 恐ろしい形相で、口元をてらてらと光らせている。

 嗚呼、嗚呼。あの顔を柚羽は知っていた。

 その目が柚羽を捉えようとしたその時、柚羽の緊張の糸が切れた。

 

「――――ッ!」

 

 声にならない叫び声を上げて、柚羽は脇目も降らずに駆け出した。

 逃げ出した。

 両親も、家族のようだと思っていた隣人達も、姉妹だと思っていた少女も、見捨てた。

 何もかもを見捨てて、自分だけを抱えて、逃げ出したのだった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「あの日、私は死にました」

 

 祭音寺柚羽という少女は、あの夜に一度死んだのだ。

 夜明けまで山の中を駆け続けて、たまたま育手に拾われなければ本当に死んでいただろう。

 後日、事後処理をした隠を通じていくつかの遺品だけが手元に残った。

 村には、一度も戻っていない。

 

 恐ろしくて、とても故郷に戻る気にはなれなかった。

 鬼のことを知り、育手の下で剣を学んだ。幸運にも剣技の才に恵まれ、剣士になった。

 あの夜の鬼を探して、今日まで生きて来た。

 そして今日、見つけた。

 

「今となっては、何を言おうと無意味でしょう。貴方へ向ける言葉は1つだけです」

 

 なぜ鬼になった、とか。

 どうして村の家族を皆殺しにした、とか。

 そんな問答をしたところで、失った者は帰って来ない。

 だからもう、剣を振るうだけだ。

 

「貴方に生きる価値など無いのです。潔く死になさい」

 

 ――――水の呼吸・拾ノ型『生生(せいせい)流転(るてん)』。

 両腕と上半身の骨と筋肉が、軋みを上げた。

 全身のバネを使って、日輪刀を振るいながら突撃する。

 大振りに放たれた一撃は、揚羽の血の刀でいなされてしまった。

 

 しかし柚羽の軸足はブレることなく、そのまま回転を続けた。

 二撃、三撃とそれは続いた。日輪刀と血の刀の衝突で火花が散る。

 いや、四撃、五撃と続いても終わることはない。

 一撃ごとに、回転を重ねるごとに速さと威力が増していく。

 

「ぐ、おお……!」

 

 これは偶然だ――考えてみれば、あるいは当然かもしれない――が、揚羽の血の刀に罅が入り始めていた。

 おそらく揚羽の血で形成された刀が、日輪刀によって破壊されつつあるのだ。

 鬼の力で作られたものは、陽光を浴びた鋼に対して弱い。

 そこへ、砕けろと言わんばかりの一撃が重ねて打ち込まれる。

 

(行ける……!)

 

 音を聞いている善逸は、そう思った。今にも砕けそうな音だ。

 回転と共に満身の力を込めて日輪刀を振り下ろし続けている柚羽の背中を、祈るような心地で見つめた。

 蝶の毒が回り始めているのか、視界が霞んできている。

 カナヲの音も小さくなってきていて、弱ってきているのがわかる。時間は余り残されていない。

 

(――――砕けろ)

 

 血の刀に日輪刀を振り下ろしながら、柚羽は念じた。

 回転を1つ加える度に、歯を食い縛った。

 この拾ノ型は水の呼吸最後の型にして最強の技だ。それだけ身体への負担も大きい。

 それでも、渾身の力で日輪刀を振り下ろし続けた。

 

(砕けろ)

 

 日輪刀を振り下ろす度に、確かな手応えを感じる。

 手応えが大きくなっていくのを感じる。

 それを追って、一心不乱に手を伸ばした。

 

(砕けろ!!)

 

 そして、手が届く。

 揚羽の血の刀が日輪刀を受け止めた瞬間、とうとう半ばから折れ砕けた。

 全身の血が沸騰したようになった。

 あと一回転、あと一撃。

 

 最後の踏み込み。鬼の懐に飛び込んだ。たたらを踏む鬼。逃がさない。

 頭上に振り上げた日輪刀を、鬼の頚を目掛けて振り下ろした。

 皆のかたき。

 ヒュウ、と、風が逆巻くような音が聞こえた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 覚えはないだろうか?

 重い荷物を持つ時、あるいは全力疾走をする時。

 我々は、呼吸を()()()

 柚羽が会得した技術は、大雑把に言えばそういうものだった。

 

 元々全集中の呼吸には、血の巡りを操作する技術も含まれている。

 つまり、呼吸とは血流なのだ。

 呼吸を止める――全集中の呼吸の中断を意味しないのが肝だ――と共に血流を極端に遅らせて、毒蝶の効果を一時的に緩和していた。

 そう、()()なのだった。

 

「ごぼっ」

 

 鬼の頚に日輪刀が打ち込まれるのと、おそらくほとんど同時だっただろう。

 柚羽の肺と喉から濁った音が響き、唇から鮮血が噴き出した。

 日輪刀の刃は、揚羽の皮を裂き、頚の筋肉に食い込んだあたりで止まっていた。

 

「ぐ、う……!」

 

 限界は、不意に訪れた。

 訪れてしまった。

 結果論になってしまうが、連続攻撃を強いる生生流転を選んだのは不味かった。

 休む間もなく斬撃を繰り出し続けたために、呼吸のタイミングを誤った。

 結果として、蝶の毒を遅らせることが出来なくなった。

 

「……いやあ、危なかったなあ」

 

 おそらく、血鬼術の使用者たる揚羽にはわかっていたはずだ。

 己の毒蝶の効果が少しずつ、しかし確かに柚羽の身体を蝕んでいることに気付いていた。

 流石に、生生流転の一撃が頚に届いたことには肝を潰したかもしれない。

 しかしそれも、もはや過ぎたことだった。

 

「俺の蝶は皮膚からも浸透する。小細工したところで、触れれば終わりだ」

 

 日輪刀の刃を頚から外して、揚羽が立ち上がる。

 入れ替わるようにして、柚羽が崩れ落ちた。

 足に力が入らず、身体を支えることが出来なかったのだ。

 

 目だけが、苛烈な光を湛えたままだった。

 しかしその目も、揚羽が掌で顔を掴んでしまえば届かない。

 頭蓋が軋む音がした。

 

(まだ、です)

 

 毒蝶によって全身が蝕まれる中、柚羽の闘志は揺らいでいなかった。

 日輪刀は、固く握ったままだ。

 そして、呼吸。

 毒にやられる寸前、最後の一呼吸をした。

 その一呼吸で、腕に血流を回す。あと一動作なら出来る。

 

(水の呼吸、肆ノ型)

 

 ――――『打ち潮』!

 最後の一動作。当然、頚を狙った。

 そして、その斬撃は確かに頚に届いた。

 

「残念」

 

 だが揚羽の頚と日輪刀の間に、いつの間にか無数の血の蝶が寄り集まっていた。

 それが鎧となって、渾身の、しかし弱った柚羽の斬撃を受け止めてしまった。

 軋んだのは頭蓋骨か、あるいは心か。

 日輪刀を握る柚羽の腕を、鬼が掴んだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実のところ。

 カナヲも善逸も、実のところ見たことはなかった。

 何故なら任務で駆け付けた時には「手遅れ」か「間に合う」の2択しかないからだ。

 だから、今日が初めての経験だった。

 

「ぐちゃっ、ばきっ」

 

 ()()()()()()()()を見たのは。

 鬼は仰向けに倒れた柚羽に馬乗りになっていて、両手で持った何かにかぶり付いていた。

 それは、柚羽の右腕だった。

 二の腕のあたりから千切られたそれは、断面から骨と筋肉の繊維がぶら下がっていた。

 

 肉を骨ごと噛み砕き、咀嚼する音が何度も響く。

 骨を奥歯で磨り潰す音が余りにも生々しくて、毒で弱っているにも関わらず、カナヲも善逸も目を逸らすことが出来なかった。

 ぼたぼたと鬼の口の端から()()()()が落ちて、柚羽の顔や胸元を濡らした。

 腕を千切りやすくするためだろう、隊服も羽織も破られて上半身が露にされていた。

 

(……ああ)

 

 目の前で自分の腕を喰われるのを見つめながら、柚羽は喉を揺らした。

 

(これで……終わり……ですか)

 

 存外、悔しいという気持ちは湧いてこなかった。

 むしろ柚羽の胸に去来したのは、安堵だった。

 どこか、この結末に安堵している自分がいる。

 そしてそれを、不思議だとは思わなかった。

 

 毎夜、眠る度に悪夢にうなされる。

 ()()()()のおにぎりを握る度に、怒りに吐き気を抱く。

 寝ても起きても脳裏に浮かぶのは、恐怖と苦痛で歪んだ幼馴染(つばき)の顔。

 生きるということが、辛くて苦しくて仕方がなかった。

 

(やっと……解放される……)

 

 善逸とカナヲには、申し訳ないと思った。

 自分の失敗に巻き込んでしまう。それは、心残りだった。

 

「やはり女の肉は舌触りが良い」

 

 そう言って、揚羽は血に濡れた顔で嗤った。

 彼は柚羽の肩と胸を掴んで上体を起こさせると。

 

「かひゅっ」

 

 その喉笛に、喰らい付いた。

 柚羽の口から漏れたのは、まさしく最期の吐息だった。

 余りにも、余りにも痛々しく惨い音が、柚羽の喉元から聞こえて来た。

 残った左腕と両足が、柚羽の意思に関係なく何度か跳ねた。

 

(やめろ)

 

 全身を汗で濡らしながら、善逸は声にならない声を上げていた。

 

(死んじゃうよ)

 

 あのまま喉を喰い千切られたら、柚羽は死ぬ。

 そうでなくとも、右腕の傷口からの出血で死ぬ。

 柚羽が死んでしまう。

 

(誰か、神様)

 

 善逸が、神に縋り始めた時だった。

 ――――音がした。

 槌で岩を砕くような音が、徐々にこちらへと近付いてくる。

 その合間に呼吸の音が聞こえて、善逸は身を起こそうとした。

 

 しかし、毒が回って身体を動かすことが出来ない。

 それを見ていたカナヲは、善逸がしようとしていることに気付いた。

 すう、と、呼吸した。

 善逸よりも先に毒に犯されたカナヲは、もちろん身体を動かすことは出来なかった。

 呼吸したことでさらに毒が進むだろう。そんな彼女がやったことは。

 

「こ……! こ……!」

 

 音を、2つ。それが限界だった。

 そして、それで十分だった。

 ()が、善逸でなくとも聞こえる程に近くなった。

 

「――――あ?」

 

 今にも柚羽の喉笛を喰い千切りそうだった鬼が、不審な顔で頭を上げた。

 次の瞬間、暴風が彼の顔面を殴りつけた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼の巨体が吹っ飛ばされるのを、善逸は見た。

 肩から胸のあたりまでを袈裟切りにされているから、斬られたのだと気付いた。

 そして柚羽の身体を跨ぐように立っていたのは、瑠衣だった。

 

 何故か、半裸だった。

 より正確に言えば、隊服を脱いで、肌着の上に羽織を着ていた。

 普段の善逸であれば、鼻血の1つや2つを噴いていただろう。

 しかし、そうはならなかった。

 

「痛ぇな。何だ、お前は」

 

 揚羽は鬼だ。身体を斬られた程度では死なない。

 ミチミチと音を立てながら傷が再生していく。

 人間とは違う。失うということがない。

 

(不味い。アレが来る!)

 

 ――――血鬼術『舞華蝶血』。

 善逸が危惧したまさにその瞬間、毒蝶が放たれた。

 無数の毒蝶が瑠衣に向かっていく、しかし瑠衣はそれが毒蝶だとは知らない。

 だから善逸は、次の瞬間に瑠衣が毒に蝕まれて倒れる姿を想像した。

 

「……あ?」

 

 それは、誰が発した声だっただろう。

 毒蝶が瑠衣に群がらんとした時、瑠衣が刀を振るった。

 轟、と、音だけが耳に届いた。

 それで、()()()()()()()()()

 

 バラバラに引き裂かれた毒蝶が、空中に散っていた。

 いったい何をしたのかと、揚羽は訝しんだ。

 毒蝶が一匹も辿り着くことさえ出来なかったのだ。

 瑠衣はただ、日輪刀を一振りしただけだというのに。

 

「お前、何をしやがった」

 

 ――――血鬼術『舞華蝶血』!

 そんなはずはないと、再び毒蝶を放った。

 そして、今度は()()()

 

「シイイイィィ……!」

 

 呼吸音。周囲に聞こえる程の呼吸の音。

 そして、殺気だ。

 全身の肌が粟立つような殺気を、感じた。

 次の瞬間。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 揚羽は、今度こそ見た。

 瑠衣の斬撃――斬撃という言葉すら生温い――が、風を纏っていた。

 その風が毒蝶を吹き飛ばしていたのだ。

 そしてその事実に気が付いた時、瑠衣の日輪刀は揚羽に届いていた。

 

「ギャッ!」

 

 己の口から濁った悲鳴が上がるのを聞いた。

 次いで、身体に奇妙な衝撃があった。

 それは膝のあたりで足を切断されて、腿の切断面が地面に落ちた衝撃だった。

 手をつこうとして、出来ないことを知る。両腕も肘から斬られていたからだ。

 

「……ヒッ!?」

 

 顔を上げると、そこに瑠衣が立っていた。

 普段なら「美味そうだ」と涎を垂らすだろう太腿が、目の前にある。

 しかし今は、とてもそんなことは考えられなかった。

 それ程に、前髪の間から覗く目が冷たかった。

 

(あ、相性が悪すぎる……!)

 

 全集中の呼吸の中で、風の呼吸とその派生にしかない特徴が1つある。

 炎や水の剣技と違って、風の剣技は実際に()()()()

 炎だ水だと言ったところで、本当に燃えたり水が出たりするわけではない。

 優れた剣技を見た者が、「まるで濁流のようだ」とか「まるで炎のようだ」と感じているに過ぎない。

 しかし、風は違う。実際に暴風を起こし、敵を切り刻むことが出来るのだ。

 

 すなわち、毒蝶の如きは瑠衣に触れることすら出来ないということだ。

 瑠衣に届く前に、暴力的な風で吹き飛ばされてしまう。

 揚羽の血鬼術とは、まさしく相性が悪すぎた。

 瑠衣が刀を返すのを見て、揚羽は本能的な恐怖を感じた。

 死の恐怖を。

 

「ま、待ってくれ!」

 

 揚羽は言った。

 

「ど、どく。解毒……そうだ! 俺ならそのガキどもの解毒が出来る! だから待て!」

 

 実際、善逸とカナヲの状態はかなり悪いと言える。

 じきに毒が回り切り、血を吐くことになるだろう。

 そんな揚羽の言葉に、瑠衣の刃先が僅かに下がった。

 

「――――馬鹿がッ!」

 

 両腕が再生し、血の刀を出した。

 揚羽の血で作られたこの妖刀は、斬られた者に毒蝶と同じ効果を与える。

 瑠衣の胸と喉を狙って突き出されたそれが、瑠衣の皮膚に。

 

 届く前に、横薙ぎに斬り払われた。

 揚羽にとって誤算だったのは、彼は剣士ではないということだった。

 毒蝶で弱らせた敵としか剣を交わしたことがない。

 そんな相手に正面から斬り結んで負けるほど、鬼殺の剣士は甘くないということだ。

 

「シイイイィィ……!」

 

 ――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐風樹』!

 揚羽は、己の肉体に幾度も衝撃が走るのを感じた。

 衝撃が1つ抜けていく度に、再生した手足が、身体の部位が切り刻まれていくのを感じた。

 倒れると言うより、まさに落ちると言った風に地面に崩れる。

 頭の後ろで、何かが翻るような音が聞こえた。

 

「待っ」

 

 次の瞬間、揚羽は全ての感覚を喪失した。

 彼には、過去を省みる時間さえも与えられなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 最悪の事態だった。

 柚羽の右腕の傷口に羽織を押し当てながら、柚羽は唇を噛んでいた。

 右腕は、まだ良い。最低限の止血はできる。

 だが、もう1つは不味かった。

 

「柚羽さん、柚羽さん! 聞こえますか!? 呼吸をしてください、何とか……!」

 

 喉が、潰れている。呼吸使いには致命的だった。

 深く刻まれた歯形が痛ましく、当然ながら出血も激しい。気道を塞ぎかねない程だ。

 せめて呼吸で止血できればと思うが、柚羽は時折血を噴くばかりで、瑠衣の声が聞こえているのかさえ疑わしかった。

 

「我妻君、栗花落さん」

 

 善逸とカナヲも、危険な状態だった。

 意識が混濁しているのか、瑠衣の声に反応しない。

 呼吸、というか咳も濁った音をさせ始めていて、時間的余裕という意味では柚羽と大差が無さそうだった。

 

 鬼の毒は、瑠衣にもどうすることも出来なかった。

 あの鬼は解毒が出来ると言っていた。しかし瑠衣は躊躇なく斬った。

 その判断を後悔することはない。他の3人も、瑠衣の立場なら同じ決断をしただろう。

 ただ、焦る気持ちまで抑えられるわけではないのだった。

 

(どうすれば良い)

 

 3人はもう自力では動けない。

 しかし治療は要る。可能な限りすぐにだ。ここでは何も出来ない。

 この辺りを担当していた鎹鴉はカナヲの懐の中だ。彼も毒に犯されて飛べない。

 隠の拠点まで行って救護班を呼んでくる。瑠衣なら可能だ。だが3人は間に合わないかもしれない。

 

(落ち着いて。考えて)

 

 1秒の遅れも許されない状況だ。決断しなければならない。

 そうしなければ、部隊が全滅してしまう。

 何を諦めて、何を取るのか。

 

 普通に考えれば、柚羽を諦めるべきだろう。

 彼女の負傷は深く、片腕を失っては剣士としては死んだも同然だからだ。

 善逸かカナヲのどちらかなら、カナヲか。継子は次期柱として貴重な戦力だ。

 カナヲだけなら、拠点まで連れ帰ることは難しくない。

 

「つ、ゆ……」

 

 言葉を止めたのは、柚羽が目を開けたからだった。

 痛みか息苦しさか、意識が戻った理由はわからない。

 柚羽は何も言葉を発さなかった。喉が潰れて声を出せなかったからだ。

 彼女はただ、瞼を閉じて見せた。

 

 その行為の意味するところを、瑠衣は正確に理解した。

 やむを得ないことだと、柚羽も理解しているのだ。

 この選択は正しい。それなのに。

 どうして、足が動いてくれないのだろう。

 

『煉獄瑠衣を』

 

 その時、脳裏に色鮮やかに蘇ったのは。

 

『兄は信じている!』

 

 兄の言葉だった。

 杏寿郎は――父は、弟は、あるいは母は、きっと瑠衣の判断を責めることはないだろう。

 もし責める人間がいるとすれば、それは1人だけだ。

 だから瑠衣は、決断した。

 

「ぎ、ぎ……!」

 

 カナヲを、右腕で腰抱きにした。

 左腕で善逸を同じようにして、そして背中に柚羽を抱えて羽織と紐で縛った。

 結んだ紐の先端を口に噛み、顎の力で持ち上げる。

 ()()()()()()()

 

 呼吸だ。

 正しい呼吸なら、どれだけ重かろうが、どれだけ走ろうが関係ない。疲労しない。

 3人だろうと4人だろうと抱えて行ける。

 呼吸の精度を高め、血管ひとつ筋肉の繊維ひとつを認識する。

 

(集中しろ)

 

 柚羽が背中で何かもごもご言っているような気がしたが、無視した。

 瑠衣はただ、己の責務を全うするだけだ。

 煉獄家の娘が、同じ任務に立った仲間を見捨てるなど、あってはならない。

 

(心を燃やせ、諦めるな)

 

 一番余裕のある自分が、一番最初に諦めるな。

 手足の骨が折れようと、歯が砕けようと、誰も置いていかない。

 死なせない。

 絶対に、と、瑠衣は自分自身にそう言い聞かせた。

 夜空の月が、傾き始めていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 最終選別。

 鬼殺隊に入隊するために、剣士見習いの子供達が潜り抜けなければならない最後の関門だ。

 数十人が受けて数人しか残らない。1人も生き残らない時すらある。死の試練だ。

 しかし、今回は違った。

 

「大丈夫ですか?」

 

 燃えるような髪色の少年だった。

 しかし振り返ったその表情は柔和そのもので、炎というよりは陽の光のような印象を受ける。

 ああ、この少年こそ日輪の剣士に相応しい。

 彼に救われた子供の誰もが、そう思った。

 

 ()()()()

 そう、その少年は共に選別を受けた子供達を救った。

 それは文字通りの意味で、藤襲(ふじかさね)山に放たれた鬼の悉くから、その牙から、爪から、その少年は最終選別を受けた子供達を守ったのだった。

 最終選別で脱落者が出なかったのは、史上初めてのことだった。

 

(何て強さだ。とても見習いとは思えない)

 

 最終選別を受けた1人に、舟生(ふなせ)知己(ともみ)という少年がいた。

 きっちりと切り揃えられた髪が多少乱れているのは、最終選別の戦いのためだろう。

 地面に膝をついて、怪我をしているらしい少女の肩を抱いている。

 しかし、彼女を救ったのは知己ではなかった。

 

「その人のことをお願いします!」

 

 彼女()を救ったのは、煉獄千寿郎という名の少年だった。

 剣士見習いの子供達のほとんどは、鬼とまともに戦うことすら出来ない。

 上手く呼吸ができなかったり、極度の緊張から剣技の型を出せなかったり、理由は様々だ。

 だが、千寿郎は違う。

 

 呼吸の精度。体捌き。一太刀の威力。全てが見習いの域を超えていた。

 当然と言えば当然である。

 千寿郎の師は、当代最強の柱とも謳われるあの煉獄槇寿郎なのだ。

 最強の育手に優秀な血統。条件からして他の者とは違う。

 

(戦える……!)

 

 そして、千寿郎もそのことに気付きつつあった。

 最終選別の開始直後から東奔西走し、藤襲山に潜む鬼の大半を1人で斬った。

 最初の1匹は緊張した。肉を斬る感触に震えた。吐き気さえ催した。

 けれど助けを求める声に、気が付けば身体が動いていた。

 

(僕は、戦える!)

 

 父のように、兄や姉のように、鬼と戦うことが出来る。

 有り体に言えば、千寿郎は自分が強いということに気付き始めていた。

 煉獄家の中で一番下であったが故に、千寿郎は自分の強さに今まで気が付かなかったのだ。

 仮に家族の内で最弱であったとしても、外に出れば最強である。

 

 強さを計る尺度がまるで違うのだ。

 それはまるで、獅子の子が外界で初めて狩りをする時に似ている。

 獅子は解き放たれた。

 ――――その日、藤襲山で死んだ人間は1人もいなかった。




読者投稿キャラクター:
舟生知己:ひがつち様
ありがとうございます。

最後までお読みいただきありがとうございます。
描いててこれ鬼滅世界なんだなって思いました(え)

それはそれとして千寿郎君は最終選別をあっさり突破。
思うに継子や柱・元柱の弟子って他の子供とやっぱり相当に差がつくと思うんですよね。
伊之助は本当に例外中の例外なのだろうと思います。我流であれはどういうことなのかと。
原作で千寿郎君がそうならなかったのは、やはり槇寿郎氏のリタイアが大きいと思うのですよね。その意味では原作杏寿郎の凄さがより際立ちます。
あと何となく剣士千寿郎って鬼滅二次でも少ない気がして描きたい(本音)。
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