バキッ、と、木刀が折れる音がした。
不死川と、道場の庭で稽古をしていた時のことである。
打ち合いに耐え切れずに、お互いの木刀が折れてしまったのだ。
「チッ、道場の木刀が無くなっちまうなァ」
柄だけになってしまった木刀を見て、不死川が舌打ちした。
実際、不死川の言葉の通り、彼の足元には同じようになった木刀が何本か転がっていた。
そしてまた、そこに1つ追加される。
それを見ていた瑠衣も、自分の手にある木刀の柄をぼんやりと見つめた。
不死川に稽古をつけて貰うようになってしばらく経つが、最近はこういうことが続いている。
稽古が実戦的なせいもあるのだろうが、鬼殺隊用に頑丈に作られている木刀でさえ、しばらく打ち込むと折れてしまう。
ただでさえ不死川は加減というものを知らないし、瑠衣も必死だから余計にだった。
(私は、成長できているのだろうか)
柚羽達との任務から、2か月が過ぎていた。
あれから何度か任務もこなし、こうして不死川の稽古も受けている。
しかし任務で対した鬼はいずれもなりたての雑魚鬼で、不死川との稽古もこの調子だった。
正直なところ、強くなれているという手応えが無かった。
「手拭いだ、しっかり拭いとけェ」
「あ、ありがとうございます」
折れた木刀を見つめていると、不死川が手拭いを差し出してきた。
こう見えて、面倒見が良いのだ。
(また馬鹿なことで悩んでやがんな)
手拭いで顔を拭いている瑠衣を横目に、不死川はそう思った。
彼は瑠衣が悩んでいることを知っていた。
以前からはそういうところはあったが、最近は特に顕著だった。
無理もない、とは思う。
炎柱の家系に生まれ、呼吸の剣技の師も柱だ。
自然と基準は高くなる。それでなくとも真面目な娘なのだ。
思い詰めてしまうのも、わからないではなかった。
(悩んだって、どうにもならねぇだろうが)
そう、どうにもならない。
進むしかないのだ。悩もうと悩むまいと関係ない。
しかしそうは思っても、不死川はそれを口にすることはなかった。
「……ああ?」
不意に、不死川は上を見た。
道場の屋根の方を見て、目を細める。
雲一つない青空の真ん中に太陽が輝いていて、眩しかったからだ。
しかしそれでも、見逃すことはなかった。
宇髄がいた。屋根の上にいるのは、忍者らしいと言えばらしい。
不死川と目が合うと、何処かへと姿を消した。
あの様子だと、不死川に会いに来たというわけでもないだろう。
「師範?」
「……うるせェ」
不思議そうに首を傾げる弟子の頭を小突いて。
「おら、続きだァ。さっさと代わりの木刀を取ってこい」
悩んでいても仕方がない。
それに、と不死川は思った。
悩んでいようがそうでなかろうが、時は止まってなどくらないのだから。
◆ ◆ ◆
胡蝶しのぶは、煉獄瑠衣にある種の親近感を持っていた。
もちろん、本人にそんなことを言ったことはない。
言ったところで本人を困らせるだけだろう。
それに、こんな自分に親近感を持たれて喜ぶ人間はいないと思っていたからだ。
「……はい。良いですね、喉は快方に向かっていますよ」
しのぶは昼間の内は蝶屋敷で治療に当たっている。
簡単な怪我や病気ならアオイ達で十分に対応できるので、自然、しのぶが診るのは難しい患者ということになる。
例えば、鬼との戦いで治療困難な負傷を負った隊士などだ。
2か月前、とある任務で片腕を失う大怪我を負った隊士だ。
蝶屋敷に担ぎ込まれてきた当初は、まさに生死を彷徨う状態だったと言って良い。
それでも何とか一命をとりとめて、生きている。
「…………」
柚羽は、寝台の上で何も言わなかった。
喉に大怪我を負っているのだから、当然と言えば当然だった。
傷自体は塞がり、喉の状態も少しずつだが改善が見られる。
ただ仮に喉が治り声を取り戻せたとしても、柚羽は沈黙を選んだだろう。
しのぶには、それが良くわかった。
(死にたかったんですね)
柚羽の抱えている、あるいは抱えていた事情は知らない。
しかし、死に損ねたという思いは少しわかる。
だから、そういう意味では。
「まあ、良かったわぁ。早くお喋りが出来るようになると良いわねぇ」
そういう意味では、榛名のような、おっとりとした人間が同室なのは悪いことではないのだろう。
榛名自身も未だ寝台からまともに起き上がれない状態だが、その朗らかな笑顔からは、そんなことは微塵も感じさせなかった。
微塵も感じさせなかった。
自分のような
自分には、自分
(本当に、よくわかりますよ)
死に損なったと、本人がそう思っていたとしても。
それでも生きていてほしいと、そう願う気持ちが。
それで恨まれたって構わない。生きていてさえくれればと、思う気持ち。
しのぶには、そんな瑠衣の気持ちが良くわかるのだった。
「……そろそろ流動食も飽きたでしょう。食事も少しずつ変えていきましょうか。そうですね」
もちろん、口には出さない。
それは、口に出してはいけないものだ。
少なくとも、しのぶには言えない。
「……おにぎりでも、アオイに作って貰いましょうか」
ぴくり、と、柚羽の眉が動くのを、しのぶは見ないふりをした。
◆ ◆ ◆
たまに忘れてしまうが、死というのは突然やってくるものだ。
蝶屋敷の人間として毎日を忙しく過ごしていると、本当にうっかり忘れてしまう。
自分の大切な人が、ある日、突然いなくなってしまうこともあるのだと。
「カナエ様、お加減はいかがですか?」
それでも喉元過ぎれば何とやらで、しばらく経つとまたすぐに忘れてしまうものだ。
しかし中には、いつまでも引きずる人間というのもいる。
例えば、そう、今こうして自分に話しかけて来ているアオイなどがそうだ。
だからカナエは、出来るだけの笑顔を浮かべて大丈夫だと伝える。
それでようやく、アオイは少し安心した顔になるのだ。
なるべく傍にいてあげないと、と、カナエは思う。
蝶屋敷にいる少女達は、鬼に身内を殺された者が多い。
カナエやしのぶも両親を鬼に殺されている。だから気持ちは良くわかる。
(カナヲが怪我をして帰って来たのなんて、初めてだものね)
アオイが動揺したのは、カナヲが負傷したせいだ。
幸いすぐに快復したが、しばらくは、カナヲが蝶屋敷にいる時は傍を離れなかった。
あのカナヲがまさか、という気持ちはカナエにもわかる。
それ程までにカナヲは強かったし、どんな任務でも無傷で帰って来ると思い込んでいた。
思い込み程、恐ろしいものはないというのに。
「あのう……」
カナエがそんなことを考えていると、すみ――蝶屋敷の3人娘の1人――が困ったような顔でやって来た。
どうしたのかと促すと。
「その……」
「えええ――――っ! この薬!? この薬を飲めば良いの!? というか俺の薬って何でいつもこんな苦いの!? 嘘過ぎでしょ!?」
ふ、とカナエは思わず笑ってしまった。
誰の叫び声かなど、もはや考えるまでもないことだった。
もちろん善逸はカナヲが負傷した任務の時から入院しているわけではなく、別の任務で負った怪我を治療しているだけだ。
善逸と、それから炭治郎と伊之助は蝶屋敷にいることが多い。
炭治郎は名目上はしのぶ預かり――禰豆子を巡る裁判の結果は今も有効だ――ということになっているが、他の2人も成り行きなのか居心地が良いのか、蝶屋敷の活動の拠点にしているところがある。
あの3人は強くなるだろうと、カナエは思っていた。
もしかしたら柱に届くかもしれない。
「またなの!? あの人は本当にもう……! カナエ様、すみませんが失礼します!」
それに、あの3人がいると不思議と蝶屋敷も賑やかになる。
それはきっと、悪いことではない。
カナエは、そう思うのだった。
◆ ◆ ◆
不死川は指導者に向いている。
これは瑠衣が勝手に思っていることなのだが、稽古を受けていると本当に良くわかる。
不死川は手取り足取り教えるということはしない。ひたすら打ち合う。
そしてその打ち合いの中で、
気付けなければ、顔面の形が変わるまで打たれるだけだ。
そのあたり、相手が女子供だろうと不死川が斟酌することはない。
流石に槇寿郎の人を見る目は確かだった。
最初は何だこの人と思ったものだが、今は不死川が師範で良かったと思っている。
(師範に言ったら怒るかもしれないから、言わないけれど)
向かう先は蝶屋敷だった。日が暮れてしまうと鴉が任務を伝えに来る。
その前にと思って、足を向けたのだ。
とは言っても、そのまま蝶屋敷の中に入った数は、実は多くなかった。
大抵は、門の前を素通りする。
いかにも不自然だが、入りづらいという気持ちが強かったのだ。
「あ!」
だから今日も蝶屋敷の様子を窺いつつ歩き去ろうと思っていたのだが、門の前でばったりと知り合いに出くわしてしまった。
「瑠衣さん! こんにちは!」
「……こんにちは」
炭治郎だった。
任務帰りなのか隊服姿で、背には鬼の妹が入った箱を背負っていた。
彼は瑠衣の姿を認めると、笑顔で挨拶をしてきた。
本当に邪気のない子だと思いつつ、挨拶を返した。
「どこか怪我を?」
「あ、いえ! 待機中は蝶屋敷で修業していて……」
この時、瑠衣は炭治郎と禰豆子がしのぶ預かりであることを思い出した。
忘れていたわけではないが、炭治郎がそれだけ鬼殺隊に溶け込んでいるということだろう。
炭治郎や、鬼の禰豆子に窮地を救われた者も少なくなくなってきている。
いつの間にか、表立って炭治郎と禰豆子を悪くいう者はいなくなっていた。
そして瑠衣が見る限り、炭治郎の常中は完璧だった。
以前に蝶屋敷の道場で見た時は、まだムラがあった。
しかし今は安定している。ごく自然に全集中の呼吸を維持できている。
瑠衣が現在の炭治郎の状態になるまでには、おそらく倍以上の時間を要したはずだ。
(まあ、兄様はもっと速かったのですけどね……!)
むしろ杏寿郎が常中の修行をしていたところを思い出せない。
当時の瑠衣が常中を理解していなかったというのもあるだろうが、気が付いた時には普通にやっていたような気がする。
杏寿郎との才能の差を感じたのも、そう言えば常中の修行を始めた頃だった気がする。
同じことをして初めて、相手との差がはっきりしてしまうものだ。
(…………あれ?)
と、一方の炭治郎は思った。
何やら会話が止まってしまった。
自分は蝶屋敷で寝泊まりしているからともかくとして、瑠衣は何か用があったのではないだろうか。
しかし瑠衣は何も言わなかった。炭治郎は困った。困った末に。
「あ、千寿郎君が最終選別に通ったって聞きました」
おめでとうございます、と、炭治郎は頭を下げた。
千寿郎の最終選別のことは、鬼殺隊でもちょっとした語り草になっていた。
何しろ選別に全員が通ったのだ。それも千寿郎がひとりで鬼をほとんど斬ったという。
炭治郎も含めて、それがいかに難しいかは隊士の皆が知っている。
「ありがとう。まあ、もう結構たっていますけどね」
「あはは、なかなか会う機会がなくて」
「仕方ありません。隊士はほぼ任務で出ずっぱりですから」
千寿郎の最終選別も、もう2か月前のことだ。
すでに千寿郎は自分の日輪刀を持って、正式な剣士として認められている。
嬉しそうな顔で選別突破の報告をして来た時の顔を、瑠衣は忘れられない。
「そういえば」
瑠衣の気配が柔らかくなったのを感じて、炭治郎は言った。
「千寿郎君の日輪刀は、何色になりましたか?」
その何気ない言葉に、瑠衣は笑顔を浮かべて見せた。
色変わりの刀が何色になったか。隊士なら誰もが気にする共通の話題だ。
だから瑠衣は、完璧な笑顔のまま言った。
「赤色ですよ」
他の人間なら、それで問題なかっただろう。
相手が、炭治郎でさえ無ければ。
◆ ◆ ◆
赤い日輪刀は、炎の呼吸に適性を持つ証だった。
父である槇寿郎も、兄である杏寿郎も日輪刀は赤色だ。
だから自分の日輪刀が赤色に変わった時、千寿郎は本当に嬉しかった。
本当は、飛び跳ねて喜びたかった。
「あ……」
もし、その場に瑠衣がいなければ本当にそうしていたかもしれない。
煉獄邸に千寿郎の日輪刀が届いた時、色変わりの瞬間を家族全員で見ていた。
日輪刀を得ることはいわば一族の通過儀礼ともいうべきことで、当然と言えば当然だった。
千寿郎も、杏寿郎や瑠衣の日輪刀が届いた時には同席していた。
千寿郎がしまったと思ったのは、瑠衣を気にしてしまったことではなく、自分が気にしたことを瑠衣に気付かれてしまったからだった。
父も兄も、そして自分の日輪刀の色が赤色なのに、瑠衣だけが緑色だ。
千寿郎は覚えている。
『なんで……?』
あの日、姉が最終選別を突破して、最初の日輪刀を手にした時。
深緑の色に変わった日輪刀を見て、呆然としていた瑠衣の姿を覚えている。
思えば最終選別を突破してから日輪刀が届くまでの2週間は、呑気なものだった。
自分の日輪刀も当然赤くなると信じていた姉は、指折り数えて日輪刀が届くのを待っていたものだ。
「あの、姉上」
だから、姉の反応が怖かった。
そう思って瑠衣を見つめていると、不意に変化が来た。
千寿郎はぎょっとした。
じわりと瑠衣の瞳が潤んだかと思うと、ぼろぼろと涙の雫を零し始めたからだ。
「う……うわああああ良かったあああああああ!」
「え、え、うわっ!?」
「千っ、千寿郎よかった、よかったね赤色だよおわあああああ! あああああよがっ、よ゛がっだ! 千じゅ、 げほっ、うえっ」
あの姉が、咽る程に感情を昂らせるところを見たことが無かった。
というか、泣いていた。
自分のことを力一杯に抱き締めて、我が事のように泣いて喜んでくれている。
わあわあと声を上げて泣く姉の着物を掴んで、千寿郎は胸の奥からこみ上げてくるものを感じた。
「千寿郎」
そんな千寿郎に、杏寿郎が声をかけた。
槇寿郎は何も言わずに襖の向こうに消えていった。たぶん、母に報告に行ったのだろう。
「良かったな」
気が付けば、千寿郎も泣いていた。
嬉しかった。本当に。
日輪刀が赤色に変わったこと。それを家族が喜んでくれること。
こんなに幸福なことはきっと他にないと、そう思った。
「ふふ」
――――と、いうようなことを思い出して、千寿郎は腰に差した自分の刀を見下ろした。
手には箒を持っていて、門前の掃き掃除の最中のようだった。
正式に剣士と認められても、家にいる時にすることは変わらないらしかった。
ともあれ、千寿郎は鬼殺隊士になった。
これからは父や兄姉と共に戦うことが出来る。
そして何より、父と兄の控えとして経験を積み、自分を鍛え上げなくてはならない。
決意を新たに、千寿郎は鼻息荒くひとり頷くのだった。
「おい、何を地味に頷いてやがる」
驚いて振り向くと、一瞬前まで確かに誰もいなかったのに、六尺は優にある大男が傍に立っていた。
金剛石の飾りをつけたその男は、宇髄だった。
彼は千寿郎をじろりと見下ろすと、こう言った。
「炎柱殿はご在宅かい?」
呑み込まれるような空気を感じて、千寿郎はただ頷くことしか出来なかった。
宇髄が言うところの、地味に、だ。
◆ ◆ ◆
どうしてこんなことになったのだろう。
瑠衣は思った。
自分はあのまま帰ろうとしたはずなのに、何故か蝶屋敷の道場にいた。
炭治郎に連れて来られたからだ。
「あれから修行したので見てくれませんか!」
ということだった。
修行を続けていたのは常中の精度を見ていればわかる。
わかるのだが、炭治郎は瑠衣の腕を引いてずんずんと蝶屋敷の中へ入っていった。
なかなか強引だが、それで不快に思わせないあたりは人徳なのだろう。
(それにしても……)
それにしても、炭治郎の成長ぶりは凄まじいものがあった。
道場での追いかけっこだ。
前回ここで追いかけっこをした時は、彼を振り切ることは難しくなかった。
理由は単純で、炭治郎の体が
駆け出し、あるいは制動。それらの動きのキレは足腰の筋力で決まる。
筋肉が鍛えられていなければ動きはそれだけ鈍る。自分自身の動きの勢いに負けるからだ。
ところがどうだ。今の炭治郎は。
(よおおおおおし! 追えてる! 動きを追えてるぞおおおお!)
瑠衣はぐるぐると炭治郎の周りを――前回と同じように――駆けていた。
以前の炭治郎であれば、自分の動きの勢いに負けて、瑠衣を追い切れなかっはずだ。
しかし今は、制動から次の駆け出しの間にほとんど溜めがなくなっていた。
その分だけ、瑠衣を追うことに力を集中できるということだ。
(無限列車の時から、そんなに時間は経ってないはずなのに)
瑠衣の体感だが、1つの動作の反射速度が1秒から2秒は速くなっている。
たかが1秒と思うかもしれないが、人間は身体機能はともかく反射速度が劇的に上がったりはしない。
神経の伝達速度には個々人で差があり、それは鍛えることが出来ない。
だからもし反射速度が上がったように見えるとすれば、それは
炭治郎は身体機能を鍛えると同時に、己の身体の動かし方に
「う」
何度目かの回避。伸びて来た炭治郎の手から、横にぐるりと回ることで避けようとした。
すると炭治郎は瑠衣の予測を上回る速度で反応して見せて、無理やり横に方向転換してきた。
呼吸で片足を強化して、跳んだのだ。
「……っ」
問題ない。
炭治郎が横に跳ぶのに合わせて、瑠衣は縦に跳んだ。
宙返りをする形で、炭治郎の頭上を通り過ぎる。
しかし炭治郎は、そこからさらに縦にも跳んだ。
体内でミシミシと筋肉の繊維が音を立てるのを聞きながら、もう片方の足で地面を蹴った。
それは文字通りの
(届、くぞ!)
(触れられる……!)
ぱんっ、と、乾いた音がした。
瑠衣が炭治郎の手を叩いた音だ。
自分に触れそうな程に伸びて来た手を、払ったのだ。
「いっだあっ!?」
瑠衣を捉えるために無理な体勢だったせいか、炭治郎は次の瞬間には着地に失敗していた。
挫いた足首から実に嫌な音がして、彼はそのまま道場の床に転がってしまった。
一方で綺麗に着地しながら、瑠衣はそんな炭治郎を見つめていたのだった。
◆ ◆ ◆
炭治郎を弾いた自分の手を、じっと見つめた。
まさに思わず、手が出てしまったのだ。
(負けた……)
手を払わなければ、掴まれていたからだ。
だが手を叩いてしまった時点で、追いかけっことしては負けだろう。
言い訳は、したくなかった。
自分が情けなくてたまらなく嫌だったが、さらに格好の悪い真似はしたくない。
だから瑠衣は、足を押さえて痛がっている炭治郎の傍によって、手を差し伸べた。
「竈門君」
すると、炭治郎は一瞬驚いたような顔をした。
しかしすぐに破顔すると、瑠衣の手を取った。
そして、言った。
「やっぱり瑠衣さんは凄いです! でも、もっと修行して、次は捕まえて見せます!」
瑠衣は驚いた。炭治郎は自分が勝ったと思っていなかった。
嫌味か謙遜かと思ったが、炭治郎の目は本気だった。
何と真っ直ぐな少年なのだろう。
そして、自分が定めた目標以外が見えない程に頑固だ。
「竈門君は……」
「はい!」
そこで、瑠衣はふと止まった。
助け起こした炭治郎に何か言おうとしたのが、言葉のかけ方に迷ったのだ。
勝ち負けの話をすると拗れる。真っ直ぐだとか頑固だとか言うことも憚られる。
無意識に口を吐いて出たので、続く言葉を全く考えていなかった。
「……我慢強いですね」
自分の語彙力のなさに死にたくなったが、炭治郎は何故か「どやさ」と自慢げな表情を浮かべた。
「長男ですから!」
長男は我慢強いらしい。
良くわからない理屈だが、確かに杏寿郎が弱音を吐いているところは見たことがない。
そして同時に、もう1つわかったことがあった。
それは、炭治郎があまり器用な人間ではないということだ。
(気を使ってくれたんですね)
鍛錬を見てほしいと言えば、瑠衣は断らないと思ったのだろう。
そうやって自然な形を作って、瑠衣が蝶屋敷の中に入れるようにしてくれたのだ。
優しい子だ。本当に心の清い子だと思う。
鼻が利くと言っていたから、感情の動きもわかるのかもしれない。
(お見舞いに行こう)
会いに行くのは辛いが、会いに行かないのはもっと辛い。
生きている内に何度でも会っておくべきだと、そう思えるようになっていた。
「もしもーし」
いつの間にそこにいたのだろう。
気が付くとしのぶが立っていて、困ったような笑顔で2人を見ていた。
「修行熱心なのは非常に良いことだと思うのですけれど」
「え?」
「門限ですよ」
外を示すしのぶの指先を追って行けば、窓の外はとっぷりと日が暮れていた。
瑠衣は、あっと声を上げた。
――――お夕飯の準備が!
◆ ◆ ◆
急いで煉獄邸に戻ると、どういうわけか千寿郎が門前に立っていた。
もしかして自分の帰宅を待ってくれていたのかと思ったが、それにしては焦った様子だった。
「あ、姉上! やっとお戻りに!」
千寿郎は瑠衣の姿を見つけるや、腕を引いて家の中に駆け込んだ。
「千寿郎、どうしたの?」
「ええっと、とにかく急いでください! 客間へ……」
客間?
誰かが自分に会いに来ているのだろうか。
しかし正直なところ、
そう思っている内に、客間の前にまで辿り着いた。
「父上、姉上です」
「入れ」
襖が開くと、上座の槇寿郎がいた。
そしてもう1人、宇髄がいた。
客というのは宇髄のことだったのかと得心したが、用件について心当たりが無いのは変わらなかった。
「よう」
と、挨拶は気さくだった。
床に指をついて礼をした後、瑠衣は客間に入った。
座るのは父の側で、先に言い含められていたのか、千寿郎は入って来なかった。
まあ、おそらく襖の向こう側で耳を傍立てているのだろうが。
「それで、きみの任務を手伝ってほしいとのことだったが」
瑠衣が据わると、槇寿郎がそう言った。
どうやら任務の話らしい。しかし、鎹鴉ではなく柱が口頭で話すというのは奇妙だった。
そう思って宇髄を窺ったが、瑠衣にはその表情から考えを読むことは出来なかった。
すると宇髄が居住まいを正した。こうして見ると本当に肩幅が広いと感じた。
「はい」
しかしこう言うと失礼だが、目上に対している宇髄というのは奇妙な感じがした。
瑠衣がそう考えたことを勘付いたのか、じろりと視線を向けて来た。
慌てて取り繕うと、宇髄は改めて槇寿郎を見て、言った。
「俺が追っている鬼について、情報を集めるために女の隊士が必要でして」
「女性の隊士?」
「先に俺の女房が
「ああ、確かきみの奥方は……」
ここまで聞いて、瑠衣は宇髄の目的がようやくわかった。
宇髄の妻については詳しくないが、要は潜入任務だ。
とは言え、未経験の分野でもある。
はたして自分に務まるものだろうか。
「もちろん、任務とあれば協力するのに否やとは言わん。もっとも、これも別に私の部下というわけではないので、そもそも私が許す許さないの話ではないだろう」
「まあ、今回は任務の場所が場所でして」
「ほう、どこだね」
「
…………うん?
不穏な単語が聞こえて、瑠衣は何とも言えない表情で宇髄を見た。
宇髄は真顔のまま、繰り返した。
「日本一色と欲に塗れたド派手な場所――――鬼の棲む、
花街。遊郭。
名家の令嬢がまず聞かないだろう単語だ。当然、瑠衣も例外ではない。
だから瑠衣は、どう反応すべきか、かなりの時間迷うことになった。
襖の向こうで、千寿郎が転ぶ音がした。
◆ ◆ ◆
――――1週間後、瑠衣は東京は吉原にいた。
今までの人生において、来たこともなければ行こうとさえ思ったこともない場所。
宇髄に連れられて訪れたその場所は、どこか空気さえ違う気がした。
「まあ~! 綺麗な子だねえ!」
変装した――要は飾りやら化粧やらを外した状態の――宇髄に連れられて、瑠衣はある場所に来ていた。
一見すると料亭や宿屋にも見えるそこは、とある目的のために建てられたものだった。
そしてそこで働くために、瑠衣は連れられて来たのだった。
いや、連れられて来た、というのは語弊がある。
より厳密に言えば、
改めて考えると、なかなかに衝撃的な事実だった。
「是非この子はうちで引き取らせていただくよ」
「いや、"荻本屋"さん。こっちも助かるよ」
細かい話は宇髄が進めてくれているので、瑠衣はただ立っているだけだ。
まあ、立っているだけなのが役目とも言える。
何しろまずは見た目という世界だからだ。
その意味では、あっさりと
正直なところ、かなり複雑ではあるが。
「良いのよお、こんな綺麗な子を安く買えるなんてこっちもお得だもの」
相場がわからないので何とも言えないが、どうやら自分は安く売られたらしい。
やはり複雑だった。
「うふふふ。仕込むわよォ、
瑠衣を買った女将は、腕をぶんぶん振り回しながら興奮している様子だった。
見た限りでは悪い人ではないようだが、鼻息荒く興奮している様はちょっと怖かった。
「じゃ、後は宜しくやってくれ」
「え、ちょ」
宇髄はと言えば、あっさりと手を振って行ってしまった。
まあ、買い手がついた以上は宇髄がいつまでもいても仕方ない。
とはいえ単独行動の任務ならともかく、知り合いが誰もいない場所に放り出されるというのは、任務とは違う緊張を瑠衣に与えていた。
「――――あら、女将さん。今わたしのことを呼んだかしら?」
その時だ。まるで宇髄がいなくなるのを見計らったかのように、誰かがやって来た。
通路を軋ませもせずに歩いてくるのは、折り鶴柄の着物を着た女だった。
その顔を見て、瑠衣は思わずあっと声を上げそうになった。
まあ、それより先に瑠衣を買った女将が「玉鬘花魁!」と声を上げたのだが。
「ああ、新入りさんね。
(え、えええええええ!?)
玉鬘――
「その顔、チョー最高」
そこにいたのは、禊だった。
下弦の肆や上弦の肆と共に戦った鬼殺隊の少女は、瑠衣を見て、クスクスと笑ったのだった。
最後までお読みいただき有難うございます。
ようやく次の章に進みます。
本当はもっと色々やりたかったのですが、月2回の更新だと話を進めないと終わりまで何年もかかってしまいます。
せめて週1更新できれば良いのですが、リアルの時間がなかなかに取れず…。
月2回って1年で24話しか進まないんですよね。
うーん、ままならない。
それでは、また次回。