鬼滅の刃―鬼眼の少女―   作:竜華零

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第23話:「吉原の鬼」

 柱に就任するための条件。

 十二鬼月を打倒するか、鬼50体を斬るか。

 そしてこの日、杏寿郎は後者の条件を満たした。

 

「ギャアッ」

 

 汚らしい悲鳴を上げて、頚を斬られた鬼が絶命した。

 地面に転がることも出来ずに塵となったそれが、杏寿郎の倒した50体目の鬼だった。

 もちろん杏寿郎は今までに倒した鬼の数など気にしたこともないが、鎹鴉の長治郎がガアガアと鳴きながら教えてくれたのだ。

 

「ガア――ッ! 杏寿郎ッ、五十体目! 鬼ノ討伐、五十体目ェッ!」

 

 それは取りも直さず、杏寿郎の炎柱継承の条件が整ったことを意味した。

 しかし杏寿郎としては、出来れば十二鬼月の打倒をもって柱昇格を決めたかった。

 ただ――当然、杏寿郎、いや鬼殺隊には確認のしようもないのだが――鬼舞辻無惨が下弦の鬼を解体してしまったために、「十二鬼月打倒」という条件は極めて実現困難な条件になってしまっていた。

 

 まず単純に数が半減してしまったため、十二鬼月との遭遇率がそもそも低くなってしまった。

 そして残った十二鬼月は、十二という名に反して上弦の6体のみ。

 歴代の柱でさえ過去100年打倒できなかった上弦の鬼。

 それを打倒しなければ柱になれないというのは、誰も柱になれないと言っているのに等しい。

 

「うむ!」

 

 長治郎の声に、杏寿郎はひとつ頷いただけだった。

 喜びや感想を表に出すこともなければ、口惜しさを表すわけでもなかった。

 そんな彼が日輪刀を鞘に納めた時、何かに気付いて振り向いた。

 

「むう! そちらも終わってしまったか、こちらを手早く終わらせて加勢に行くつもりだったのだが。よもやよもやだ!」

「…………」

「うむ? 何だ眠るのか! 疲れたのだろう。それなら後始末は俺と隠に任せて、早めに休むと良い!」

 

 そこには共同任務の相手がいて、杏寿郎は相手に休むよう告げた。

 それから、腕に止まった鎹鴉の長治郎に向けて。

 

「そう言えば長治郎。千寿郎と瑠衣も任務だったか」

「ガアッ、任務ゥ任務ゥ! 千寿郎ハ帝都・東京デ鬼ノ調査ァ!」

「ほう! 帝都で鬼の調査か! 帝都で目を回していないと良いな!」

「瑠衣ハ花街デ任務ゥ! 遊郭デ任務ゥッ!」

「ほう! 花街で任務か! 遊郭で…………何と?」

 

 その日、よもや!、という叫び声が、日本のどこかで聞こえたとか聞こえなかったとか……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――花街の朝は、二度やって来る。

 もちろん比喩だ。実際に朝日が二度昇るわけでは無い。

 花街の朝は、客の男達が妓楼()から帰るところから始まる。

 女達はその後に眠り、昼前に起きる。これが二度目の朝というわけだ。

 

「おい、何だあれ」

「あ? ああ、何だお前。知らないのか、最近入った子だよ。ほら、玉鬘花魁の……」

 

 つまりその二度の朝の間に、裏方は妓楼の全てを整えなければならないということだ。

 例えば遊女達の食べる朝食だ。

 豪勢ではないが、十数人の遊女が食べる量となるとそれなりになる。

 遊女達が起き出すまで余りなく、時間との勝負になる。

 

 そんな多忙な台所の中で、一際目を引く少女がいた。

 目にも止まらぬ包丁捌きに大根が舞い、鍋に味噌を溶かす菜箸の動きさえ素早い。

 三角巾に割烹着という姿は、奉公人の男衆の中で異色とさえ言えた。

 膳に並べるのはご飯にお味噌汁、少しの菜に香の物。典型的な一汁一菜だ。

 

「上がりまーす!」

 

 三角巾と割烹着を取ると、裾に絵羽模様をあしらった留め袖が表れた。

 膳に覆いをかけると、その少女は善を持って台所を後にした。

 そのまま土間を抜けると通路に出て、音も立てずに階段を上がって行った。 

 そこは、位の高い遊女達が生活する区画だった。

 

 基本的に、花街の遊女に自由はない。

 遊女の多くは親や元夫に妓楼に売られた()()であって、人間が当たり前に持っている自由というものが無い。

 しかしその中で例外的な存在が、いわゆる高級遊女だ。

 並の遊女と違い彼女達には個室が与えられ、衣食についても格段に良くなる。

 

「み……玉鬘花魁。朝食をお持ちしました」

 

 そして最も特別な存在が、花魁(おいらん)と呼ばれる女性だ。

 この女性だけは、ある意味で店主や女将よりも立場が上になる。

 何しろ店に莫大な利益をもたらす()()()()なのだ。気を遣われもする。

 その少女――瑠衣は、彼女が属する妓楼「荻本屋」に君臨する花魁に朝食を届けに来たのだった。

 

「……入りなさいよ」

 

 中から眠たげな声が聞こえて、瑠衣は音を立てることなく襖を開けた。

 灯りは消えたままだが、障子越しに陽の光が射していて暗くはなかった。

 だから布団の上でうつ伏せになり、肘を立てて瑠衣を見つめる少女の顔も良く見えた。

 その少女はニヤニヤとした表情を浮かべながら。

 

「良い格好ね、チョー気分が良いわ」

 

 ニヤニヤとそんなことを(のたま)う花魁――禊に対して、瑠衣は嘆息を一つ零した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 さて、ここで疑問が生じるだろう。

 それは鬼殺隊士である禊がどうして遊女を、それも最高位の花魁をやっているのか、という疑問だ。

 当然、瑠衣もまず最初に同じ疑問を抱いた。

 

「わたしはそもそも遊女(これ)が本職よ」

 

 そんな瑠衣の疑問に対して、禊はあっさりとそう答えた。

 

()()していたんだけど、復職したってわけ」

「遊女って休職制度とかあるんですね」

「あるわけないじゃない。あんたってホント鬼殺以外の物を知らないわよねえ」

「ええ……」

 

 心の底から呆れた顔で見てくる禊に、瑠衣は心外そうな顔をした。

 心底と心外。同じ「心」の一字を使う言葉でも、こうまで印象が違うとは思わなかった。

 

「ま、荻本屋(ここ)の旦那には貸しがあってね。そのツテで脅……頼んだだけよ」

「今、脅したって言いかけませんでした?」

「今度そんな生意気な口をきいたらその唇を縫い合わせる」

「ええ……」

 

 現在の吉原には、大見世(おおみせ)と呼ばれる大きな妓楼が3つあった。

 「ときと屋」に「京極屋」。そして「荻本屋」の3つだ。

 瑠衣と禊が属しているのが、その内の1つ「荻本屋」だ。

 つまり禊は、吉原三大妓楼の花魁の一角に座る遊女なのだった。

 

「何、どうかしたの」

「いえ、意外と綺麗に食べるなと思いまして」

「次は縫い合わせるって言わなかった?」

「今のは生意気な口じゃないと思うんですけど……」

 

 実際、禊の膳には米粒1つ残っていない。椀と皿まで洗われたように綺麗だ。

 箸の持ち方。姿勢に加えて食べ進める順も作法に則ったものだ。

 煉獄家の長女として厳しく躾けられた瑠衣だからこそ、そう感じた。

 

 花魁はその美貌だけでなく、芸事や教養も身に着けた特別な女性だという。

 だから禊がそうした作法を自然な形で身に着けていたとしても、何ら不思議はないのかもしれない。

 しかし瑠衣には、禊のそれが後から身に着けたもののようには思えなかった。

 

「……五月蠅くなって来たわね」

 

 気が付けば、2階全体が賑やかになっていた。

 そこかしこから女性の笑い声なども聞こえてきて、朝食を終えた遊女達が活動を始めたことがわかる。

 稽古でも始めたのか、三味線の音色も聞こえる。

 

「遊郭って、こういうところなんですね。何というか、毎日がお祭りみたい」

「ここはまあ、かなり緩い方ね。旦那がお人好しだからさ」

 

 そう言った禊の顔を見て、瑠衣はまた何かを言いかけた。

 しかし何も言わなかった。

 唇を縫い合わせられるのは御免だと、そう思ったからだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その時、天井裏からコンコンと音がした。

 瑠衣は禊に頷きを向けると、ひょいと跳び上がった。

 着物の少女が天井まで軽く跳んでしまうというのは、やはり強烈な絵面だった。

 天井の板を、瑠衣は指先で二度叩いた。

 

 そして瑠衣が着地した時、天井の板が1枚外された。

 そこから顔を出したのは、これもまた美しい女性だった。

 ただ瑠衣や禊よりは年上で、前髪だけを金髪にしている派手な髪型の女性だ。

 彼女は2人の少女以外に誰もいないことを確認すると、屋根裏から室内に下りて来た。

 

「ちょっと、埃を落とさないで頂戴」

「五月蠅いよ小娘。あたしが塵一つだって落とすもんか」

「まきをさん、お疲れ様です」

 

 その女性は、まきをという名前だった。2人と同じこの妓楼の遊女だ。

 しかし天井から入って来た時点でわかると思うが、普通の遊女ではない。

 彼女はあの音柱・宇髄天元の妻――妻は全部で3人いるそうだが――で、しかも()()()()だった。

 つまり忍者である。江戸の時代に絶えたとも言われるが、彼女はその生き残りの1人だ。

 

「さて、時間もないから話を進めるよ」

 

 どかっと瑠衣と禊の間に座って、まきをは指を1本立てて見せた。

 

()()()()についてだ」

 

 ここ数年、吉原では人の失踪や不審死が相次いでいた。

 元々治安の良い場所ではないし、「足抜け」で逃げ出す者もいないわけではなかった。

 しかしそれを加味しても、余りにも人数が多かった。

 そして何より、遊郭を巡る鬼は鬼殺隊にとっても懸案の1つだった。

 

「これまでの傾向から考えて、やはりこの鬼は『遊郭の鬼』で間違いない」

 

 遊郭の鬼。それは鬼狩りの柱ですら何人も屠って来た謎の鬼だ。

 100年以上前から決まって遊郭に現れては人を喰い、各地の花街に黒い噂を残している。

 異なる個体が同じ行動を繰り返すとは考えにくく、鬼殺隊では一個体の仕業と考えられている。

 しかし100年単位で活動し、かつ当時の柱達ですら犠牲になっていることを考えると。

 

「『遊郭の鬼』は、やはり上弦の鬼である可能性が高い。これは天元様も同じ意見だ」

 

 上弦の鬼。その一言で、瑠衣は緊張した。

 今までに遭遇した上弦の鬼の姿が脳裏を掠めて、この任務の危険度を実感したのだ。

 

「上等じゃない」

 

 しかし一方で、禊は緊張の色を少しも見せていなかった。

 むしろ顎を上げて、酷く挑発的な表情さえ浮かべていた。

 

吉原(ここ)はわたしの故郷(シマ)よ。クズ鬼の分際で人の留守中に勝手するなんて、躾が必要だわね。キッツい躾がね」

 

 瑠衣が吉原という場所にどういう意味を見出しているのか、瑠衣にはわからない。

 わかっていることは、禊が上弦の鬼に対しても変わらないということだった。

 気後れなどしている場合ではないと、そう教えられた気分だった。

 

(そうだ。気後れしてる場合じゃない。しっかりしないと)

 

 何故なら、これは瑠衣が自分で()()した任務なのだから――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――少し時を遡って、宇髄訪問時の煉獄邸。

 

「行きます」

 

 最初にそう言ったのは、瑠衣だった。

 宇髄が煉獄邸を訪れ、花街での任務への協力要請を聞いた父・槇寿郎が、何か言葉を発する前のことだった。

 

「音柱様の任務の助けとなれるのであれば。鬼殺隊のため、喜んでこの身を捧げる覚悟です」

 

 と、その時の瑠衣はいかにも格好の良い言葉を吐いた。

 襖の向こうで聞いていた千寿郎などは、もしかしたら姉の言葉に感じ入ったかもしれない。

 しかし実際のところ、瑠衣は怖かったのだった。

 是でも否でも、槇寿郎の口から答えを聞きたくなかったのだ。

 

 そしてそれ以上に恐ろしかったのは、槇寿郎と宇髄の間で奇妙な緊張が見えたことだ。

 なぜ恐ろしいと感じたのか、言葉にして説明するのは難しい。

 ただ、肌が粟立った。この場にいること自体が耐えられなかった。

 だから、行くという言葉はほとんど反射で出たようなものだった。

 

「そうか」

 

 そして瑠衣がそう言えば、槇寿郎はそれを否定したりはしない。

 内心はともかくとして、鬼殺隊の柱という立場ではそうなる。

 

「宇髄君」

 

 次に槇寿郎と宇髄の視線が交わされた時には、あの奇妙な緊張感はなくなっていた。

 胸中で、瑠衣はほっと息を吐いた。

 

「娘を頼む」

「委細承知」

 

 それで決まりだった。

 修行に任務にと、息つく間もないとはまさにこのことだろう。

 杏寿郎の炎柱継承と言い、千寿郎の最終選別と言い、まるで何かに突き動かされているかのようだった。

 

(それにしても、花街か……)

 

 宇髄の事務的な説明を聞きながら、瑠衣は自分がこれから向かうことになる場所について考えた。

 潜入任務ということは、それなりの期間をそこで過ごすことになる。

 1週間なのか1か月なのか、あるいはそれ以上なのか。

 それは宇髄が探している鬼次第、ということになるのだろう。

 

 そもそも鬼が人の集まる場所に好んで潜んでいるというのが良くない。

 この手の鬼は2種類に分けられる。

 まず経験の浅い鬼だ。餌が多い場所の危険を知らない。

 そしてもう1つが、危険を物ともしない、自分の力に強い自信を持つ鬼だ。

 もちろん、より厄介なのは後者だ。

 

(花街……)

 

 花街。

 花街に潜む鬼。

 これから瑠衣は、まったく未知の場所で、未知の鬼を探らねばならない。

 ……の、だが。

 

(えっと)

 

 花街って、具体的に何をするところ?

 格好の良いことを言ってしまった手前、聞くのも憚られる。

 淑女の行く場所ではないという印象だけはあるので、父の前で聞くのも気が咎める。

 宇髄が帰るまで、瑠衣は背中に冷たい汗をかき続けていたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「えっ、いないんですか? 杏寿郎さんも瑠衣さんも、千寿郎君も」

「ああ、今は皆が任務で出払っていてね」

 

 ある日、炭治郎は煉獄邸を訪れていた。

 彼はその日は妹の箱だけでなく、さつま芋の籠も持っていた。

 任務先で助けた人から貰ったものだ。

 余りにも量が多かったので、普段のお礼も兼ねて、こうしてお裾分けに来たのだった。

 

 ただタイミングの悪いことに、煉獄家の人間は全員が任務に出ていた。

 とは言え、まさか槇寿郎が対応してくれるとは思わなかった。

 そんなに面識があるわけではないので、さしもの炭治郎も緊張を隠せなかった。

 何しろ槇寿郎は、現在の鬼殺隊最古参の柱なのだ。

 

(何というか、1人だけ匂いが違うんだよな)

 

 こうして座って体面しているだけで、風格が漂っている。

 炭治郎が見る限り――もとい()()限り――悲鳴嶼を含めた他の8名の柱と槇寿郎の間には、言葉に出来ない差があるような気がした。

 それを歴戦というのか、年季というのか、どう表現すれば良いのかは炭治郎にもわからなかった。

 

「うん……?」

「どうかしたのかね?」

「あ、すみません。何か作ってるんですか? 焦げたような匂いが」

「ああ、まあ、気にしないでくれ」

 

 どうも厨の方から焦げ臭い匂いがしているようなのだが、槇寿郎が余りにも微妙そうな表情を浮かべていたので、炭治郎もそれ以上の追及はしなかった。

 そこでふと、炭治郎は槇寿郎の視線に違和感を覚えた。

 最初は自分のことを見ているのかと思ったが、どうも違うようだ。

 

 何を見ているのだろうと思っていると、槇寿郎が自分の耳飾りを見ていることに気付いた。

 日輪の、花札のような耳飾りだ。

 死んだ父から貰ったもので、父も祖父から受け継いだらしい。いわゆる先祖伝来の品だ。

 

「あの、俺の耳飾りが何か?」

「いや……すまない。不躾に見てしまった」

 

 男の耳飾りが珍しいとか、花札の形が珍しいとか、そういう視線では無かった。

 もっと、そう、まるでこの耳飾りが何か知っているような目だった。

 だからかもしれない。炭治郎は不意にこう聞いてしまった。

 

「あの、ヒノカミ神楽ってご存じですか?」

 

 ぴく、と、槇寿郎の眉が動いた。

 それをどう受け取ったのか、炭治郎はわたわたとした様子で説明を続けた。

 

「えっと、俺の父がやっていた神楽で。父は身体が弱かったんですけど、それでも肺が凍るような雪の中で一晩中踊れて」

「きみは」

 

 今度は、槇寿郎は炭治郎の目を見てた。

 その視線が余りにも真っ直ぐで、炭治郎は自然と居住まいを正していた。

 そんな炭治郎に、槇寿郎は逆に聞いたのだった。

 

「――――日の呼吸、という言葉に聞き覚えはあるかね?」

 

 から、と、耳飾りが音を立てた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 夜になると、花街は活気づく。

 むしろ夜になってからの方が本番なのだから、当然と言えば当然だった。

 吉原の妓楼に灯がともり、昼間よりもなお煌々と街並みを照らし出していた。

 眠らない町というのも、あながち誇張ではない。

 

「あんた、今日はもう良いわよ」

 

 そして客入りの時間になると、禊は決まって瑠衣を追い出す。

 女将などはかなり渋い顔をしていたが、禊が笑顔を向けると決まって押し黙るのだった。

 いったい吉原にいた頃の禊はどんなだったのだろうと、そう思った。

 

 とは言え、追い出される意味はわかっていた。

 だから瑠衣は皆が仕事で出払っている内に部屋に――もちろん、禊と違って個室ではない――戻った瑠衣は、誰もいないことを確かめてから、窓を開けた。

 花街の喧噪と共に、生温い夜風が頬を撫でた。

 

「ムキムキねずみさん、お願いします」

 

 すると、瑠衣の呼びかけに応じてこちらへやって来る影があった。

 やって来たのは、ねずみだった。

 それもただのねずみではなく、瑠衣の日輪刀を担いでいる。

 普通のねずみに出来ることではないが、実際そのねずみはやけに筋肉質だった。

 その名もムキムキねずみ。特別な訓練を受けた音柱・宇髄天元の忍獣だ。

 

「ええと、雛鶴さんと須磨さんからの定期連絡は……」

 

 雛鶴、そして須磨というのは、まきをと同じ宇髄の妻でくのいちだ。

 やはり妻が3人というのは印象が強烈だが、優秀な忍者であることは確かだ。

 毎日こうして、びっしりと情報の書かれた手紙を届けてくれる。

 

「……また1人、足抜け、か」

 

 2日か3日に1度は、誰かが消えたという情報が入る。

 もちろん中には本当に足抜けしていたり、酔っぱらって寝こけていただけというのもある。

 しかし鬼の関与が疑われる以上は、どれ1つとして無視することも出来ない。

 

「よし」

 

 着物を脱ぎ、手早く隊服と羽織に――これもムキムキねずみが持ってきた――着替える。

 そして腰に日輪刀を差すと、そのまま窓を乗り越えた。

 足を滑らせないように慎重に屋根の上に下りる。

 生温かい夜風に乗って、かぐわしい香の匂いが鼻腔を擽った。

 

「今日は南から、と」

 

 花街と同じで、鬼も夜に活動する。

 ならば必ず、何かしらの痕跡があるはずだった。

 人が消えた場所は最も疑うべき場所で、瑠衣は夜な夜なそれらの場所を調査しているのだった。

 今夜の月も、一等明るかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 当然と言えば当然だが、三大妓楼以外にも遊郭はいくつも存在する。

 人が失踪するのは大きな妓楼だけではなく、中小の店でも起きていた。

 

「雛鶴さんの手紙だと、このお店らしいけど」

 

 屋根から屋根へと飛び移りながら、瑠衣がやって来たのは吉原の南側だった。

 大通りからはいくらか外れた区画で、商売をするにはあまり立地が良いとは言えそうになかった。

 見る限り、鬼の気配はしない。

 

「だから! 本当に見たんだって!」

「しっ、馬鹿野郎。客に聞こえるだろ……!」

 

 不意に声がして、身を低くした。

 どうやら店の庭の方で、奉公人が話をしているらしい。

 

「この間の夜、用を足しに厠に行こうとしたんだ。そうしたら屋根がガタガタ音を立ててよ!」

「立て付けでも悪かったんだろ」

「ちげーよ! その音は女の子達の部屋の方まで続いてたんだ。おすみちゃんがいなくなったのも」

「おすみは足抜けしたんだ! いい加減にしねえとぶっ飛ばすぞ!」

 

 この店でいなくなった遊女の話らしかった。

 それ以上は彼らが店の中に戻ってしまって聞き取れなかったが、気になることを言っていた。

 屋根――この場合は天井か。不自然な音を立てていたという。

 鬼だろうか。膝をついて、足元の瓦を撫でた。

 

 天井が音を立てていたということは、その時、天井裏に鬼が潜んでいたということか。

 そこから遊女の部屋に行き、攫う。攫った後は、当然どこかへ連れていくはずだ。

 探せば、他に何かを目撃した人間もいるかもしれない。

 できれば攫われた遊女の部屋も見たいが、流石に難しいだろう。

 

「……!」

 

 一瞬、誰かに見られているような気がした。

 だが瑠衣が日輪刀の柄に手を添えてあたりを見渡しても、誰もいなかった。

 気配も、しない。

 花街の活気、とは違うような気がしたが、本当に一瞬のことだったので自信はなかった。

 

(……嫌な感じがする)

 

 遠巻きに獣に見られているような、そんな感覚だった。

 

(この町は、どこか変だ)

 

 花街という特殊さだけではない。

 何というか、薄い膜でも張り付けられているような、籠を被せられているような。

 夜毎、その空気は強くなっている気さえする。

 

 その膜とも籠とも言えぬ空気の中を、瑠衣はまた駆け始めた。

 屋根から屋根へと飛び移り、鬼が人を攫わぬよう、攫われても対処できるように見張るのだ。

 今はそれしかない。そして、おそらくそれが1番鬼が嫌がることでもあるはずだ。

 寝ずの番。それが瑠衣に与えられた役割だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 遊郭は、つまるところ商売である。

 そして商売をする上で最も重要なものの1つが、情報だ。

 吉原という狭い世界の中で客を取り合う以上、商売敵の動向を知ることは必須事項だった。

 

「荻本屋に入ったっていう新しい娘、綺麗なんだってね」

「でもまだ客を取ってないんでしょ? 芸事が出来ないんじゃない?」

「あの玉鬘に花魁を張らせるし。天下の荻本屋も落ちたわねえ」

 

 吉原三大遊郭のひとつ「京極屋」の一角で、高級遊女達が噂話に興じていた。

 一夜の逢瀬が終わり、早朝に客を見送ってから床に着くまでの僅かな合間のことだ。

 彼女達は自分についている客のあれこれについて話す傍ら、他の遊郭について噂しているのだった。

 

「それに比べて、ときと屋は凄いわね」

「中見世や小見世を併せて大きくなったうちと違って、本物の老舗だものねえ」

「それもあるけど、ほら、鯉夏花魁!」

「綺麗で芸事も達者で、それに気立てが良いからお店の人にも客にも大人気なんだってねえ」

「ときと屋の遊女で鯉夏花魁を慕わない娘はいないって言うじゃない」

 

 不思議なもので、妓楼という閉鎖的な世界にいながらにして遊女達の耳は達者だ。

 客や、あるいは昼見世の時に覗きに来る占い屋などを通じて噂に通じているのだ。

 あるいは、だからこそ高級遊女になれているとも言える。

 どこの世界でもそうだが、耳のない者は何かで出遅れるものだ。

 

「羨ましいわよねえ、本当。それに引きかえ、うちの」

「――――あら」

 

 その瞬間、さあ、とそれまで遊女達の話し声で華やいでいた空気が、一瞬で凍てついたような気がした。

 それは遊女達の顔色を見れば明らかで、健康的な朱色の頬が瞬時に白くなり、次いで青褪めた。

 原因は、通路の陰から声をかけてきた遊女にあった。

 日が差さない位置に立っているものだから、闇の中から声がしたかのように錯覚しそうだ。

 

 美しい――本当に美しい遊女だった。

 着物や簪も上等なものだが、それさえも彼女の美貌の前にはただの布切れであり、棒切れであった。

 日に当たれば透き通りそうな白い肌に、形の良い眉、切れ長の目、不思議な光を湛えた瞳。

 その瞳に上から冷然と見下ろされると、芯まで凍り付きそうな気分になってくる。

 

「わ、蕨姫花魁……」

 

 京極屋の花魁「蕨姫」。

 その名を呼ばれると、彼女は微笑んだ。

 

「いったい、何のお話?」

「い、いえ……その、別に、大した話じゃ」

「おや、そうかい。気になる名前が聞こえてきたものだから。邪魔したね」

「じ、邪魔だなんて。はは……」

 

 笑顔を浮かべようして失敗したような顔で笑う遊女に、蕨姫はあっさりとそう言って背を向けた。

 そのまま奥に消えようとする蕨姫を、高級遊女達がほっとした顔で見送った。

 

「ああ! そうそう」

 

 が、不意に蕨姫が声を立てて、高級遊女達が一様に肩を竦ませた。

 蕨姫は顎を立てて、頚だけで後ろを振り向きながら。

 

「1つだけ教えて頂戴。気になって気になって、眠れそうにないの」

「な、何でしょう?」

「簡単なことさ、さっきの続きを聞かせて頂戴よ」

「さ、さっき?」

()()()()()()()

 

 ひっ、と息を呑んだのは誰だっただろうか。

 蕨姫は瞬き一つもせずに、じっと遊女達を見つめていた。

 どういうわけか、全員が同時に目を合わされているような気を覚えていた。

 

「――――何だい?」

「え、いや」

「それに引きかえ、何だい?」

「あ、う」

「うちの、何だい?」

「わ、わらび」

()()()

 

 あ、あ、と、遊女の唇から漏れるのは、意味の無い音だけだった。

 誰も、何も話せなくなっていた。それどころか今にも窒息しそうな顔をしている。

 

()()

 

 日が傾いて、影が伸びていく。

 それはまるで、獲物を絡め取ろうとする蛇の舌先のようにも見えた。




最後までお読み頂き有難うございます。

妹が遊郭にいるとか気が気じゃないよね(妹の呼吸・壱ノ型『過保護』)

それでは、また次回。
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