――――床に臥せていなければならない日が、少しずつ増えて来た。
すでに目が見えなくなって久しいが、産屋敷は己の身体の衰えをひしひしと感じていた。
例え医術に疎くとも、自分の身体のことである。
「この膠着を、何とかこちらから破りたい」
枕元から3歩の位置に膝をついて、宇髄は産屋敷の言葉を聞いた。
掠れた呼吸音と共に聞こえてくる声は弱々しいが、聞く者の胸に染み込んで来るような、独特な響きは健在だった。
最も元忍で音柱である宇髄の場合、他の者と違って声や音で受ける影響はほとんど無いのだが。
「今月に入って鬼による被害の報告をすでに7件受けている。これまでにない頻度だ。それでも私達は数多くの犠牲を払いながらも、ほとんどすべてに対応してきたと思う」
鬼殺隊は鬼による被害を防ぎ切ることは出来ない。彼らはいわば防御側、受け手だからだ。
逆に言えば被害が拡大する前、つまり初動で潰してきたということだ。
鬼の側に立てば、鬼殺隊の存在はさぞや目障りだろう。
だから産屋敷は現在の状況をあえて「膠着」と呼んだのだ。
「だが並の鬼を倒すだけでは、鬼の――鬼舞辻無惨の足元を揺らがせることは出来ない」
膠着させるだけでは、事態は良くなることはない。
鬼殺隊の目的が鬼の殲滅である以上、守るばかりでなく攻めることも必要だった。
「『遊郭の鬼』は、私達が辛うじて足取りを追えるほとんど唯一の上弦の鬼だ」
超人的な身体能力を持つ呼吸の剣士を束ねる男とは思えない。
しかし産屋敷は、自分の病状を隠そうとしたことはなかった。
鬼殺隊の当主・産屋敷が重い病であることは、鬼殺隊で知らぬ者のいない事実だ。
ただそれは歴代の産屋敷家の当主全員がそうだった。産屋敷の男は酷く短命だ。
それでもなお、鬼殺隊の長い歴史の中で当主を裏切った者はほとんどいない。
そしてその数例も、一般の隊士は知らない。
「頼めるかな、天元」
「……御意」
自分は結局、忍なのかもしれないと宇髄は思う。
「そろそろ吉原に戻ります。地味に調査も煮詰まって動きがある頃です」
「奥方達によろしく伝えてくれるかな」
「もったいないお言葉です。妻達も喜びます」
忍の世界を飛び出してなお、こうして誰かに仕えている。
ただ違う点があるとすれば、宇髄は忍として産屋敷一族に仕えているのではなく、音柱・宇髄天元として鬼殺隊に尽くしている、という点だった。
こんな生き方は悪くないと、宇髄は思っていた。
◆ ◆ ◆
瑠衣達の定時連絡は、朝食時に禊の部屋でというのが暗黙の了解だった。
これは禊が自分から動くのが面倒と宣ったこともあるが、花魁である禊が毎日いても不自然のない場所が自室しかなかったためだ。
瑠衣は禊の世話という名目で、まきをは屋根裏から密かに来ることが出来る。
「雛鶴と連絡が取れなくなった」
普段は禊が客から聞いた噂話をしたり、まきをが雛鶴や須磨と交換した情報を報告したり、瑠衣が夜の見回りについたり話したりするのだが、その日は様子が違った。
宇髄の命で花街に潜入したくのいちの1人、雛鶴からの連絡の途絶。
そういう場合は、普通は雛鶴の身を案じるところだが……。
「おかしいわね」
行儀悪く箸先を揺らしながら、禊が言った。
「聞いた話じゃ、雛鶴
花魁道中、と呼ばれるものがある。
これは花魁が馴染みの客を迎えに行く
もちろんそれは花魁の威厳を保つための活動なのだが、この場合は雛鶴の無事を知らせるものでもあった。
「身体的には無事なのに、連絡が出来ない。そういうことですか?」
「雛鶴はあたし達の中で一番腕が立つんだ。その雛鶴が何も出来ないってことは……」
「
当初、宇髄はこの「荻本屋」が怪しいと踏んでいたようだ。
理由は、荻本屋の凋落ぶりにある。
荻本屋は三大妓楼の1つに数えられる程の大見世だったが、ここ数年――禊が鬼殺隊に
鬼がいる可能性が高く、今はいなくとも
だからまきをに加えて、禊と瑠衣の2人も送り込んで陣容を厚くしたのだ。
しかし今のところ、荻本屋から鬼の足取りを追えるような情報が出て来ない。
そして雛鶴が当たりを引いたというのなら、瑠衣達は外れを引いたということなのかもしれない。
「遊女ってさ、不自由なものよ」
いきなり、禊がそう言った。
「湯屋くらいにしか出かけられないし、店の中だって好きに歩けるわけじゃない」
「それは、まあ」
「奉公人だってそれは同じよ。それに足抜けなんて続けば女将や
「……何が言いたいんだい?」
「わからないの? 頭が悪いのねえ」
まきをが顔を引き攣らせるのを楽し気に見つめて、禊は立ち上がった。
香の匂いか、所作と共にふわりと華やかな香りが舞った。
見に行ってやりますか、と禊は言った。どこへと問えば、彼女はこう答えた。
「決まってるじゃない、
――――鬼の顔を?
◆ ◆ ◆
とても、華やかな行列だった。
陽が落ちても煌々と照らされる花街の通りで、それは余りにも煌めていて見えた。
豪奢な着物と簪で飾り立てられた
歩くのも苦労しそうな高下駄で、外側に大きく足を踏み出す独特な歩き方をしていた。
正直、良く転ばずに歩けるものだと感心した。
「どういうつもりなんだい、あいつ」
「さあ……」
「さあって、共同任務やってる仲じゃないの?」
「いえ、禊さんは掴みどころがないというか、掴むところがないというか」
まきをと瑠衣は、近くの建物の屋根の上からそれを見ていた。
こちらの言葉が聞こえたわけでもないだろうが、禊がこちらを見やった気がして、瑠衣は口を噤んだ。
しかし正直なところ、瑠衣にも禊の意図は読めなかった。
鬼の顔を見に行く、と禊は言っていた。
禊には「遊郭の鬼」の正体がわかった、ということなのだろうか。
瑠衣には見えていない何かが、禊には見えたということなのか。
仮にそうだとしても、この花魁道中にどんな意味があるのだろうか。
「うん?」
「まきをさん?」
「いや、何だ……いや、間違いない。
禊の花魁道中が半ばに差し掛かったところで、まきをの様子がおかしくなった。
いや、まきをだけではない。
見れば禊についている禿や奉公人も、何かに戸惑っているようだった。
それを禊が無理やりに抑えて、花魁道中を続行させていた。
「道が違う」
繰り返すが、花魁道中は「花魁が客を迎えに行く」ためのものだ。
そして客が花魁を待つ場所は決まっている。
だから。
「――――え?」
だから
禊達の歩く先から、別の音が聞こえて来た。
荻本屋とは違う音曲、花弁、そして色。
先頭に立っている遊女の、何と妖艶で美しいことか。
禊も美しいが、こちらの美貌はどこか見る者に緊張を強いる美しさだった。
目の前に立たれると背筋を伸ばしてしまいそうな、そんな印象だ。
あの花魁は、誰だろう。
「すまないね、蕨姫」
気まずそうに俯く荻本屋の面々をよそに、ただひとり顔を上げて、禊は言った。
「ちょいと道に迷ってしまってね」
相手の花魁――蕨姫は、小さく首を傾けて禊を見つめていた。
簪の飾りが音を立てて、それが不思議な程に周囲に響いた。
「いいさ」
しばらくして、小さいが、やはり不思議と良く通る声が聞こえて来た。
「誰だって道に迷うことくらいあるだろうさ。ねえ、玉鬘」
他に音を立てる者は、誰もいなかった。
共に随一の美貌を誇る2人の花魁が笑顔で話しているというのに、和やかな空気は微塵もなかった。
そして、瑠衣とまきをは確信した。
◆ ◆ ◆
「どういうつもりだ、荻本屋のやつら!」
京極屋の楼主が、苛立ったように声を荒げた。
いや、苛立つというよりは、はっきりと怒っていた。
それはそうだろう、自分の店の花魁が他所の見世に道中を邪魔されたのだ。
普通ならあり得ないことだ。こんな無礼はない。
だから楼主が怒るのも当然で、普通なら正式に抗議をして、相手の楼主に詫びを入れさせるところだった。
しかしこの楼主は、この後に何日経っても相手――荻本屋に抗議をすることはなかった。
そして声を荒げていた楼主も、ある人物が視界に入ると声を落とした。
「わ、蕨姫花魁。今日は災難だったな……」
京極屋の花魁、蕨姫。
花街でも一、二を争う花魁だが、その美貌からは表情が消えていた。
顔立ちが整っている方が、真顔になった時に凄みが増して見える。
少なくとも楼主が蕨姫を見る目は、美しい女を見る時のそれとはまるで違うものだった。
「――――災難?」
花魁と言えど遊女に過ぎないはずの蕨姫が、楼主の部屋に顔を出している。
それ自体がすでにおかしなことだが、楼主はそのことを咎めようとはしなかった。
いや、はたして咎めるという発想がそもそもあったのかどうか。
「災難。ねえ、旦那さん。花魁が道を間違えるなんてあると思う?」
「い、いや、あり得ない。揚屋までの道を間違えるなんて」
「そうよねえ。あり得ないわよねえ。でもあの子は確かに言ったわ、道を間違えて悪かったって。ねえ、ねえ旦那さん。これってどういうことかわかる?」
「ど、ど……っ」
空気が痛い。表情で、いや全身で楼主はそう訴えていた。
しかし、蕨姫がそれに意を介する様子はなかった。
ミシミシと音を立てているのは、何だ。
ドンドンと屋根を打っているのは、何だ。
「舐めてるのよ、うちを、このアタシを」
ああ、でも……と、蕨姫が何かを思い付いたように顎を上げた。
すると、それまで響いていた音が消えて、空気も弛緩した。
呼吸をすることを思い出した楼主が、胸を撫でていた。
「ああ、でも、あの子……綺麗だった。美しかった! そうね、美しい者は何をしても許されるものね……ククッ、フフフッ」
荻本屋のやつらめ、と、楼主は胸中で再び悪態を吐いた。
しかし今度のそれは、怒りではなかった。
それは「余計なことをしやがって」という、どこか悲壮ささえ感じさえるような、そんな感情だった。
◆ ◆ ◆
荻本屋に戻ると、流石に楼主が禊に苦言を呈してきた。
店の評判にも関わることだから、無理もないことだった。
「ごめんよ、旦那さん」
意外なことに、禊は素直にそう謝罪した。
それまで禊に耳元で何か囁かれるや顔を青くする楼主の姿しか見ていなかったし、禊が謝罪をするということ自体が稀有なことだった。
そして何よりも、禊は酷く機嫌が良さそうだった。
「あ、ああ……気を付けてくれよ」
「ちょっとアンタ! またそうやって……!」
楼主と女将のやり取りを他所に、禊は2階へと向かった。
これから迎えに出た客との逢瀬の時間だ。客を余り待たせるわけにもいかない。
まきをも自分の客を迎えに出ている。
瑠衣はいつものように、隊服に着替えて夜の見回りをするつもりだった――のだが。
「ああ、あんた。ちょっと待ちなさいよ」
不意に、禊が瑠衣を呼び止めた。
何だろうと思って振り向くと、禊は事もなげに言った。
「あんた、今日はこっちに残って」
「え?」
「え?、じゃないわよ。今日はあんたも客を取るの」
客を取る。その一言で、瑠衣は自分が一気に緊張したのがわかった。
いや、瑠衣も
そして禊やまきをを始めとする遊女達が客と何をしているのかも、わかってはいた。
わかってはいたが、それだけだった。
しかしいざその時が来ると、身体が固まってしまった。
そんな瑠衣の様子をどう思ったのか、禊がクスリと笑った。
わっ、と腕を引かれて、気が付くと壁際に追い詰められていた。
本当に、相手の隙を突いてくるのが得意な娘だと思った。
「簡単よ、男を取るなんて」
唇が触れ合いそうな位置に、禊の顔があった。
細い手指が鎖骨から首筋を通り、頬に触れて来る。肌がチリチリと痺れたように感じた。
薬や毒を塗っているわけでもあるまいに、不思議な感覚だった。
「ここは遊郭、男共が一夜の夢を見る場所。夢を見せてやるのがわたし達の仕事」
ごくりと、生唾を呑み込んでしまうのは何故だろうか。
同性だというのに、妙な気を起こしてしまいそうだった。
「男を酔わせなさいな。あなたに。でもあなたが男に酔っちゃあ、いけないよ」
男を酔わせろ。しかし、男に酔ってはいけない。
そう言って嗤う禊の顔は、どこか作り物めいていて、言っていることのどこまでが本心なのかもわからない。
本当に、掴みどころがあるのかないのか、わからなかった。
◆ ◆ ◆
と、言ったところで。
瑠衣の置かれた状況は何も変わることはないわけで。
「…………」
白粉を塗りたくる――瑠衣の基準からすれば、まさに塗りたくるという表現が正しい――と、気のせいでなければ顔の重さが倍になった気がする。
何しろ簪の量も半端ではない。近くに寄ると刺さりそうな程だ。
ついでに言えば、着物だって隊服の3倍は重い。
少々の食事とお酒まで用意されていて、手元には三味線とお琴だ。
個室まで与えられているのは、客の要望か、あるいは禊の口添えがあったのかもしれない。
そう、客だ。それが問題だった。
瑠衣は客を取ったこともなく、遊女を指名するような常連客に知り合いもいない。
だというのに、いったい誰が瑠衣を指名してくるというのだろう。
(ど……どうしよう……)
言っては難だが、瑠衣は遊女としての教育を受けていない。
この荻本屋に来てからは、下働きというか、玉鬘花魁の世話係的な立ち位置だったからだ。
もちろん、これでも煉獄家の女子である。三味線やお琴の1つ2つは弾けるように教育されている。
しかし殿方の相手となると、それはもう別次元の話ではないだろうか。
「お客様、お入りです~」
(き……来た!)
どんな男だろうか、見当もつかない。
余りにも不慣れな事態に、思考が
落ち着け。ここは落ち着いて対処するべきだ。
まずは相手と間合いを取り――いや、これは剣術ではないので間合いとかの話ではない。
(母様、瑠衣はいったいどうすれば……!?)
『瑠衣、落ち着くのです』
(母様……!)
『いざとなれば、こうです。こう(しゅっしゅっ)』
(母様!?)
心の母が拳を振り始めたあたりで、瑠衣の混乱は頂点に達していた。
そして、部屋の襖が開いたのもその時だった。
反射的に膝を立てて、両の拳を握り締めた瑠衣の視界に飛び込んで来たのは。
「おお、よもやよもやだ! しこたま金を取られて連れて来られてみれば……」
――――うん?
見間違えようもないその姿に、瑠衣は思い切り顔を顰めて見せた。
しかし白粉に包まれた顔は、それを見事に隠してしまったらしい。
相手は瑠衣の顔を見るなり、ふんふんと感心したように頷いて。
「息災か、瑠衣! 今日はやけに艶やかだな!」
「に……兄様!?」
快活に笑いながらそこにいたのは、杏寿郎だった。
◆ ◆ ◆
千寿郎は困惑していた。
何故ならば鬼殺の任務から帰って来た折、煉獄邸で父と兄が何かを話しているのを聞いてしまい、何やら姉が遊郭に売り飛ばされた――だいぶ語弊があるが――というではないか。
まさに青天の霹靂。驚天動地とはまさにこのことである。
そして父に対して「見損ないました!」と言葉を浴びせて家を飛び出して見れば、何のことはなく、鬼殺の任務の一環だという。
考えてみればわかりそうなもので、千寿郎は顔から火が出る思いをしてしまった。
兄が一緒に父に謝ってくれると言ってくれたが、正直に言ってどんな顔で父の前に出れば良いのかわからなかった。
(あ、兄上……)
まあ、それはそうとせっかくだから瑠衣の様子くらい見て行こうじゃないかということになり、鎹鴉の長治郎の案内で瑠衣のいる「荻本屋」を探し出したは良いが、そこではたと思い付いた。
瑠衣は遊女として潜入しているため、気軽に呼び出すことが出来ない。
会うためには客として店に入るしかないのだが、杏寿郎も千寿郎も作法を知らない。
たまたま杏寿郎を知っている隠がいてくれたので、何とか店には入れたのだが。
「フフ、どうなさったの? お箸が止まっていますわ、遠慮なさらないで?」
「い、いやあ、あのお」
自分がここまで情けない声を出せるのだということを、千寿郎は初めて知った。
できれば一生知りたくなかった情報である。
(というか、そもそもここって僕がいて良い場所じゃないんじゃ。色々な意味で)
千寿郎の前には、慎ましやかだが豪勢な食膳が出されていた。
刺身や焼き魚、煮物や鍋物に酢の物。
いわゆる台の物と呼ばれる料理の数々だが、料理よりむしろ飾りの方が精巧に出来ていて、手をつけて良いものかどうかもわかりかねた。
「あ……!」
緊張の余りか、食器がガチャリと音を立てて、鍋物の
「ご、ごめんなさい!」
すぐに謝って膝を上げかけた千寿郎だが、その前に白い細指が懐紙で包んで下げてしまっていた。
折り鶴柄の着物を辿って行くと、白粉に包まれた鎖骨が目に入り、どぎまぎとしてしまう。
そこを避けて視線を上げれば、淡水色の瞳と目が合った。
どこか勝気そうな釣り目が柔和に細められると、千寿郎の顔面が朱色に染まった。
(あ、姉上、姉上~~~~っ!!)
人生最大の危機に、しかし兄も姉も現れてはくれない。
(というかこの人、鬼殺隊士だよね!? どうしてこんなことに!?)
そんな風に泡を食っている千寿郎に、玉鬘花魁――禊は、微笑を浮かべて見せた。
「アナタ様、宜しければお琴でも弾きましょうか」
と、言う禊に、千寿郎は頷くことしか出来なかった。
◆ ◆ ◆
誰かに呼ばれたような気がした。
が、すぐにそんなわけはないかと思い直した。
それよりも、瑠衣には対処しなければならないことがるのだった。
「瑠衣! ところで遊女とは何をする仕事だ!」
遊女として、杏寿郎の相手をすることだ。
瑠衣は煉獄家の娘として、そして妹として、杏寿郎に半端な仕事ぶりを見せるわけにはいかなかった。
と、いうわけで。
「兄様! お食事です!」
「うむ! 美味い! しかし量が少ないな!」
荻本屋の仕出し料理を出した。
見た目重視で料理の量自体は少ないので、杏寿郎には足りなかっただろう。
「兄様! 余興です!」
「うむ! 見事な三味線演奏だな! しかし曲がわからん!」
基本的に遊郭に来る客は遊女の音曲にも詳しい。
しかし杏寿郎は初めて聴いたためか、上手く音を楽しめなかったらしい。
「兄様! お布団です!」
「うむ! 何だもう寝るのか!」
そうこうしている内に夜も更けて、丑三つ時だ。
気が付けば荻本屋全体が静かになっており、他の部屋も
行燈を残して灯りを消しても、杏寿郎の髪色ははっきりと見て取れた。
「ところで瑠衣、布団が1組しかないが!」
「へ?」
そこで、瑠衣ははたと思い出した。
この部屋には布団は一組しかない。当然と言えば、まあ、当然だ。
(あれ? もしかして、もしかしなくともこれは不味いのでは?)
急にそういうことに思い至って、瑠衣はかっと顔面を紅潮させた。
衣掛にかけられた兄の衣服が妙に意味深に見えて、何となく肘に手をやった。
そして、薄い
いやいやいや、と、瑠衣は胸中で首を振った。
場に当てられて妙な考えに及んでしまった。
自分達は兄妹である。そんなことになるわけもなかった。
というより、杏寿郎のことだから布団は自分に譲ろうとするかもしれない。
いやむしろそちらの可能性の方が高いだろうと、瑠衣は思った。
さてそうなったらどうするかと、瑠衣が考えていると。
「瑠衣」
「はい、兄様」
来たなと思い、用意していた答えを返そうとした時だ。
「おいで」
ぽんぽん、と、布団を叩いて杏寿郎がそう言った。
瑠衣がその言葉の意味を理解するには数秒を要した。
そして意味を理解した時、瑠衣の思考は再び停止した。
◆ ◆ ◆
ほんの僅か、指一本分の距離に温もりを感じる。
それがこれ程の緊張を強いるものだとは思わなかった。
「…………」
仰向けで直立した体勢のまま、瑠衣は首だけを動かして隣を見た。
薄暗さの中、闇に慣れた目は杏寿郎の横顔を見つめる。
目を閉じているが、いわゆる寝息は聞こえない。常中のためだ。
なので、寝ているかどうか判断が難しかった。
と、杏寿郎がパチリと目を開けた。
「どうかしたか、瑠衣?」
視線に気付かれたことが気恥ずかしくて、瑠衣は「いえ、何も」ともごもごと答えた。
就寝時のためか杏寿郎が声量を抑えていることも、気恥ずかしさに拍車をかけた。
それでいて声が近いという事実が、杏寿郎と布団を共有しているのだという認識を与えて来る。
そのせいか、自分が緊張しているということが良くわかった。
背中にじっとりとした汗をかき、心臓の音が大きく聞こえる。
下手をすれば常中が乱れるのではないかと思える程で、瑠衣は身じろぎ一つ出来ないでいた。
「……うむ」
そんな瑠衣を見てどう思ったのか、杏寿郎が体勢を横向きに変えた。
隣で兄の温もりが動くのを感じて、瑠衣は肩を上げてしまった。
そしてその緊張は、杏寿郎の手が自分の胸元に置かれた時点で頂点に達した。
(ひゃああああああああああぁぁぁ……あ?)
ぽん、ぽん。
胸元に置かれた杏寿郎の手が、規則正しいリズムを刻んでいた。
心臓の鼓動に合わせるような、そんな音が布団越しに体内に響く。
しばらくじっとしていたが、それはずっと続いた。
杏寿郎の顔を見ると、優しい顔をしていた。それで瑠衣は兄の意図を理解した。
「……あの、兄様」
「うむ?」
「その、流石にこれは、子ども扱いし過ぎじゃないでしょうか……?」
これでは何というか、あやされているようだ。
それは、幼い頃はこうして寝かしつけられたこともあったかもしれない。
しかしこの年になってこれは、流石に憮然としてしまう。
そう言って唇を尖らせる妹に、枕に頬杖をついた杏寿郎は笑った。
「すまんな。ただ、懐かしくなってしまってな」
「それは、まあ、わかるような気もしますけど……」
懐かしいと言って優し気に見つめられてしまうと、瑠衣はもう何も言えなくなってしまった。
確かに、懐かしい。
幼い頃は、特に千寿郎が生まれる前は、これが普通だったような気がする。
千寿郎が生まれてからは「姉」の部分が出てきたし、母が亡くなってからはそんな余裕もなかった。
「懐かしいな」
「そう、ですね」
「さあ、もう寝よう。夜も遅い」
「いや、でも。いえ、はい」
「……懐かしいな」
「もう、今日の兄様はそればかり」
「そうかな」
「そう、ですよ……」
「ああ、そうだな。お前は……」
「…………」
ぽんぽんと、心地よい音に身を委ねて。
「……お前は、俺の妹だ」
ふふ、と、半分眠りながら、瑠衣は笑った。
幸せな心地で、温もりに身を寄せる。
温もりがこちらを抱き寄せてくれるのを感じながら、瑠衣は眠りに落ちていった。
◆ ◆ ◆
――――翌朝、瑠衣は騒ぎの中で目を覚ました。
荻本屋全体が、蜂の巣をつついたような、そんな騒ぎの中でだ。
瑠衣が荻本屋に来てから、いや妓楼としてあり得ないことだった。
遊郭の朝は、一夜の夢を見た男を静かに見送る時間だからだ。
「何でしょう……?」
「いや、わからん! 陽が昇るにつれて騒ぎが大きくなっていたような感じだ」
「兄様はここにいて下さい。私なら荻本屋の人達に話を聞くことも出来ますから」
「わかった! しかし何があるかわからん。気を付けろ!」
身支度もそこそこに、瑠衣は部屋の外に出た。
中には瑠衣と同じように不思議そうな顔をしている遊女もいたが、奥の方からは剣呑な空気が流れていた。
足早にそちらへと向かうと、途中でまきをに出会った。
「まきをさん、何かあったんですか?」
まきをは深刻な顔をしていて、何と説明すれば良いか迷っている様子だった。
これは、ただ事ではない。そう直感した。
「……いなくなったんだ」
「え?」
「あの子が、いなくなった。昨日の夜に」
あの子。
この荻本屋でまきをがそう呼ぶ相手は、2人しかいない。
1人は瑠衣だ。そしてもう1人は。
「それで……」
と、まきをがさらに説明を重ねようとした時、奥の部屋から金切り声が聞こえて来た。
それは荻本屋の女将の声だった。
様子を見に行くと、何やら誰かと言い争っている様子だった。
「こいつよ! こいつがうちの花魁をどこかに攫ったのよ!」
花魁。攫った。
不吉な単語が聞こえて、瑠衣は女将の声がする部屋に駆け込んだ。
そこは、そう、
部屋は、特に荒らされた様子はなかった。
ただ確かにそこにいるはずの禊の姿はなく、部屋にいたのは女将と、そして女将が襟元を掴んでいる
そしてその犯人の姿に、瑠衣は目を見開いた。
「あ、姉上……」
「せ、千寿郎!?」
消えた禊。誘拐犯は千寿郎。
事態は風雲急を告げる様相を呈し、瑠衣は己がいよいよ渦中に飛び込んだことを強く意識したのだった。
最後までお読みいただき有難うございます。
コロナ自粛に伴い妹に会えない余り、展開が意味不明になりました(え)
かっとなってやりました。今は反省しています(ええ…)。
それでは、また次回。