この状況を、いかにして凌ぐべきか。
荻本屋の一室で、瑠衣が考えているのはそれだった。
女将は千寿郎が玉鬘花魁――禊を誘拐したと主張している。
もちろん、そんなことはあり得ない。
ただそれを、鬼殺隊とは無関係の人間に説明することは出来なかった。
禊のおかげで鬼の正体は見えて来た。後は宇髄との合流を待って、と思っていた。
しかしその前に、千寿郎の無実を証明しなければならない。
(最悪の場合は……)
最悪の場合は、手がないわけではない。
鬼殺隊は政府非公認の組織だが、それは「存在すら知らない」という意味ではない。
そして鬼殺隊の長たる産屋敷一族は政財界にも影響力を持っており、鬼の事件によって官憲に逮捕された隊士を救うことも出来る。
しかしそれはあくまで最後の手段であって、避けられるなら避けるべきだった。
「あんたも何をしてるんだい! 早く警察を呼んでったら!」
女将の声が飛んだ先、部屋の入口に楼主が立っていた。
警察という単語に、不味いと思った。
しかし楼主は女将のように取り乱した様子はなく、それが逆に様子がおかしかった。
楼主は静かに部屋に入って来ると、まず千寿郎を掴む女将の手を引き剥がした。
「あ、あんた?」
何のつもりだと、女将が怪訝そうな顔を浮かべた。
そんな女将に、楼主は言った。
「……玉鬘花魁は、休みだ」
「は?」
「玉鬘は体調が悪いんで、休みをとった。客にはそう伝えて、俺から詫びを入れる」
「は、はあ? ちょ……はあっ!?」
頭がおかしくなったんじゃないかと言わんばかりの顔で楼主を見つめる女将だったが、楼主が言を翻すことはついに無かった。
しかし瑠衣と千寿郎にとっても、楼主の言動は不可解だった。
前々から禊に対して他とは違う対応を見せていた楼主だが、今回は禊自身が消えたという話であって、流石に違和感を覚えざるを得なかった。
「おい」
と、楼主は何故か瑠衣に声をかけて来た。
楼主は今日まで瑠衣に対して何かを言ったことはない。
それが今日に限って何だろうと思っていると。
「お前はクビだ」
「え」
解雇を宣告されてしまった。
そして女将に対してそうだったように、やはり瑠衣に対しても楼主は二の句を継がせなかった。
話はそれでお終いだと言うように背を向けると、楼主は禊の部屋から本当に出て行ってしまった。
女将は千寿郎と瑠衣を憎々し気に睨みつけると、金切り声を上げて楼主を追いかけて行った。
◆ ◆ ◆
けして望んで妓楼に入ったわけではないが、解雇を宣告されると考えるものがある。
そんな感情を読まれたのか、合流した宇髄は瑠衣の顔を見るなり噴き出していた。
「何だお前、地味な顔してんなー」
言葉の意味はわからないが、からかわれていることはわかった。
「うむ! 確かに瑠衣は派手な顔というわけではないな!」
隣にいた杏寿郎が、何故か会話に乗って来た。
派手という言葉の意味は図りかねるが、たぶん褒められてはいないだろう。
杏寿郎に言われると、流石に少しは気にしてしまう。
「どちらかと言えば楚々としていて、人に安心感を与えてくれる。俺はその方が好ましく思うぞ!」
「そ、そうですか」
「それに昨夜の姿も良かったが、今の方が目元がよく見える。
「……いや、それは言い過ぎでは……」
いくらなんでも、歴史上の美女と比べられると気恥ずかしい。
というか、身内が他人の前で自分を褒める――しかも外見――というのは物凄く恥ずかしい。
宇髄の目が「え、こいつ妹のこと好きすぎない? 気持ち悪い奴だな」と言っているように感じる。
もちろん瑠衣の被害妄想だが、正直やめてほしいと思った。
「さて、嫁達の報告とお前の話で、鬼の居所は大体つかめた。だが……」
『遊郭の鬼』の正体は、京極屋の蕨姫花魁で間違いない。
後は仕掛けるタイミングだけだ。
本来なら昼間に仕掛けるべきなのかもしれないが、京極屋は吉原でも一、二を争う大見世で、人が多すぎる。
そして睡眠の必要がない鬼が、わざわざ部屋で夜まで過ごすとも思えない。
昼間は、どこか別の場所に潜んでいる可能性が高い。
むしろ狙うなら夜の方が確実だ。花魁としての仕事をしなければならないからだ。
当然、夜は鬼の本領が如何なく発揮される。しかし小細工もしてこないだろう。
上弦の鬼であれば、なおさらだ。
「問題は京極屋のいるはずの鬼が、どうやって荻本屋にいた隊士を攫ったのか、だ」
「……僕のせいです」
そこで、それまで黙っていた千寿郎が口を開いた。
膝の上で拳を握り込み、唇を噛んでいた。
「僕が、気付いていれば……!」
「地味隊士が何を言ってやがんだ。上弦かもしれない鬼相手に、お前みたいなちんちくりんが気付いたところで何も出来やしねえよ」
「でも」
「でもも何もねえ。というか任務も受けてねえ新人がいつまでもいるんじゃねえ。とっとと帰れ」
「そんな!」
嗚呼、と、瑠衣は胸中で安堵した。
鬼殺隊士として、煉獄家の娘として、あるいは姉としてあるまじきことだが、瑠衣は宇髄に感謝したのだった。
上弦の鬼が相手かもしれない。そんな場所から、千寿郎を遠ざけることが出来る。
そう、思ってしまったからだ。
◆ ◆ ◆
撤収。宇髄から届いた指示は明快だった。
その指示が届いた時にまきをがまず思ったのは、雛鶴は難しいかもしれない、ということだった。
自分と須磨は外れを引いたからで、当たりを引いた雛鶴は危機にある可能性が高い。
しかし宇髄が雛鶴の苦境に気が付いていないわけがない、とも思った。
「それと、あの子のことだね」
まきをは、禊の部屋に忍び込んでいた。
部屋の主である禊がおらず、楼主の指示で誰も入らないように言われている。
まきをとしてはすぐに撤収するつもりだったのだが、禊の消え方が余りにも納得できなかったので、こうして最後に調べにきたのだった。
実際、不自然なのだ。
部屋はほぼ今朝の状態のままになっているのだが、例えば窓は閉まっていた。
もちろん千寿郎が寝た後、禊が1人で外に出た可能性もある。
ただ、禊は客を放って行くことだけはしない。付き合いは短いが、まきをはそう思った。
つまり、やはり禊が消えたのはこの部屋の中なのだ。
「あの子も鬼殺隊士だからね。あの性格だし。普通の遊女と違って、大人しく攫われるとも思えないんだけど」
だが、争った跡はない。
部屋は本当に綺麗なもので、人攫いの現場とはとても思えなかった。
口元に手を当てて、まきをは考えた。
「鬼はどうやって、あの子を誰にも気付かれずに、しかも抵抗もさせずに攫ったんだ?」
おそらく、何らかの異能持ちだろう。
しかし離れた位置にいる人間を攫うのは、血鬼術であっても用意ではないはず。
必ず、視認できる距離にはいたはずだ。閉ざされた密室の、この部屋で……。
「……おいおい、まさか……」
まきをは部屋の中心に立ったまま、頭上へと視線を向けた。
見上げたその先には、当然だが、天井があった。
まきをは瑠衣や禊と密談をする時、
その、
「……ッ」
確証は何もないが、そうに違いないと直感が囁いていた。
ぞわり、と、鳥肌が立った。
まきをは毎日のように天井裏を通っていた。そこがこの部屋に通じる通路だった。
人目につかない。そして、
「……行ってみるか」
そう呟いて、まきをはあたりを見渡した。
そして適当な足場を見つけると、自分がいつも使用していた天井板を外しにかかった。
天井裏には、いつものように暗闇が広がっていた。
◆ ◆ ◆
日の呼吸。それは全ての始まりの呼吸。
火も水も、風も、あるいはその他の呼吸は、全てその
いや、あるいは派生という呼び方さえおこがましいのかもしれない。
何故ならそれは、模造品、真似事に過ぎないのだから。
「恥ずかしい話だが」
炭治郎の、というより竈門家に伝わる「ヒノカミ神楽」は、日の呼吸の型と同じだ。
そう槇寿郎に教えられた炭治郎だが、中には良くわからない話もあった。
例えば額の痣の話。
日の呼吸の選ばれた使い手には、生まれつきどこかに独特の痣があるらしい。
確かに炭治郎の額には痣がある。
しかしこれは生まれつきではなく、弟を火鉢から庇った火傷の上に最終選別の負傷が重なり、今の形になっただけだった。
父には薄い痣があったらしいが、自分は違う。
だからきっと、自分は槇寿郎の言う「日の呼吸の選ばれた使い手」ではないのだろう。
「日の呼吸の存在を知った時、私は自暴自棄になってしまった時期があってね」
歴代の炎柱が遺した口伝や手記から、槇寿郎は日の呼吸の存在を知ったらしい。
400年前の戦国の世に存在した始まりの呼吸の剣士達と、その中でさらに特別な存在だった剣士のことを知った。
これまで積み上げて来たものが模造品――それも粗悪な――に過ぎず、先祖に遠く及ばぬ自分の実力を目の当たりにして、槇寿郎は自信を失くしてしまった。
そこへ最愛の妻の死が重なり、気が滅入ってしまったのだそうだ。
「……そんな私を見捨てずにいてくれた息子達には、いくら感謝しても足りない」
少しわかるような気がした。
形は全く違うが、炭治郎も家族を失った。
もし、もし禰豆子がいてくれなかったら、自分を保てたかどうかわからない。
本当に守り助けられているのは自分の方なのだと、痛感する。
「竈門君、きみの育手は鱗滝左近次殿だったね」
「はい、そうです」
「成程。どうりで足腰がしっかりしているわけだ。冨岡君もそうだが、流石に鍛えられている。かなり扱かれただろう」
「いえ! 鱗滝さんは俺が……俺達が生きる術を教えてくれました。おかげで今日までやって来れました」
本心だった。
訓練が辛くなかったと言えば嘘になるが、それ以上に鱗滝が自分と禰豆子が生きていけるようにと思ってのことだと、匂いでわかっていた。
「そうか」
そして槇寿郎からも、鱗滝と似た匂いがした。
「私には日の呼吸は使えない。というより、きみ以外の誰も呼吸術を知らない」
炭治郎は今、煉獄邸の中庭で槇寿郎と鍛錬を積んでいた。
もちろん竹刀を使っているが、槇寿郎ほどの使い手になると竹刀でも十分な威力がある。
気を抜けば、打撲どころでは済まないだろう。
「しかし型については、歴代炎柱を通じていくつかは私にも伝わっている。無論これも完全なものではないが、何かの手助けにはなれると思う」
「はい! ありがとうございます!」
「礼を言われることじゃない、これは……」
槇寿郎は、教えるのが上手かった。
杏寿郎や瑠衣を教えた人だ。それも当然なのかもしれない。
「……これは、我が煉獄家に伝わる
もしかすると、鬼殺隊には他にもこの人に教わった人がいるのだろうかと、そんなことを思った。
◆ ◆ ◆
実のところ、煉獄槇寿郎に直接教えを受けた隊士は多くない。
それは槇寿郎が現役の柱であり、他の柱と同じく継子以外の鍛錬を見る時間が基本的にない、という事情が原因だった。
その意味で、甘露寺蜜璃と伊黒小芭内の2人は特別な存在だったと言える。
「あ、あのう……」
「何をしている。次を持ってこい」
「へ、へえ」
伊黒がじろりと
彼のテーブルにはこれでもかという程に空の丼が積み重ねられていて、力士が3人いてもここまでは食べないだろうという状態になっていた。
言うまでもないことだが、伊黒自身は丼一杯すら食べていない。
伊黒自身の前にはお茶が置いてあるだけで、口元を覆う包帯さえ取っていなかった。
「伊黒さん、何か言った?」
「いや、何も。気にしないで食事を続けてくれ」
「そう? あ、このえび天おいしいわ!」
「それは良かった」
うって変わって優し気な笑顔を浮かべる伊黒。彼がこの類の表情を向ける相手も多くはない。
2人はこうして、しょっちゅうというわけでもないが、時間が合う時は食事を共にすることが多かった。
もっとも、基本的に食べている甘露寺を伊黒が見つめているだけなのだが。
実際、食べている時の甘露寺の表情は本当に幸せそうで、見つめていたいという気持ちもわからなくはなかった。
そんな2人の出会いは煉獄邸だった。
甘露寺が煉獄家の世話になり始めた頃に、伊黒が槇寿郎に挨拶にやって来て、そこでたまたま出会ったのだ。
初めて甘露寺の姿を見た時の伊黒の衝撃たるや相当なものだったようで、それを目撃した煉獄家長女曰く「人が恋に落ちる瞬間を初めて見てしまった」とのことだ。
「む、どうした鏑丸」
伊黒の首に巻き付いていた白蛇の鏑丸が、ついと頭を外へと向けた。
するとそこに鎹鴉がいて、伊黒は甘露寺に断って席を立った。
鎹鴉の足に手紙があり、伊黒はそれを受け取って開いた。
それを一読して懐にしまい込むと、テーブルに戻った。
「伊黒さん、どうかしたの?」
「いや……」
任務ではなかった。報告だった。
しかしその内容は非常に緊迫したもので、また伊黒にとっても気がかりなものだった。
鎹鴉の報せには、こう書かれていた。
「大丈夫だ」
――――音柱・宇髄天元が上弦の鬼を発見。
煉獄杏寿郎並びに煉獄瑠衣、甲隊士2名と共に今夜討伐開始――――。
◆ ◆ ◆
――――夜になった。
瑠衣は宇髄に従って、京極屋という妓楼を視界に収めていた。
荻本屋さえ凌ぐという大見世は、流石に豪奢だった。
「臭うな」
しかし煌びやかな店構えを目にしながら、宇髄が言ったのはそれだった。
京極屋からは享楽的とも言える甘い香りが漂っているが、臭いの元はそれではない。
それとは別に、京極屋全体を包み込むような得体の知れなさがあった。
まるで薄い膜に覆われているかのような、澱んだ空気の流れを感じる。
「どの部屋にいると思う?」
「いるとすれば北側の部屋だな。昼間でも陽が射さない」
「なるほど」
杏寿郎の言葉に、宇髄が答えた。
空の端を見れば、まだ夕焼けの名残りが見える。
陽が沈んだ直後。まさに夜が始まったばかりの時間だ。
鬼の時間であり、鬼狩りの時間だ。
しかし、吉原遊郭という場所は厄介だった。
やはり人が多すぎる。鬼と戦う場所としては甚だ向いていない。
いや、鬼の側は人間の犠牲など露とも感じないだろうから、
どうにかして、人気のない場所に誘き出せれば。
「俺は楼主に話をしてくる。地味に生きてる一般人をなるべく逃がす」
鬼の巣食う妓楼。しかも遊女の頂点・花魁。楼主が知らないはずがない。
宇髄は話をすると言っていたが、どう見てもそのような雰囲気ではなかった。
いったいどんな話をするものか。
聞かない方が良いだろうと、瑠衣は思った。
そして同時に考えるのは、千寿郎のことだった。
今頃は吉原を出ているだろうか。
宇髄に追い立てられた形だが、杏寿郎も瑠衣も止めなかった。
何と言うべきか、宇髄に憎まれ役を押し付けてしまったようなものだ。
その分は働かなければならないと、そう思っていた。
「……あれ?」
その時、瑠衣はおかしなことに気付いた。
つい先程まで、京極屋のその部屋――瑠衣達が見張っていた北側の部屋――の窓は、全て閉め切られていた。
それが何故か、ほんの一瞬目を離した隙に、1つ開いていた。
開いた窓から、豪奢な造りの和室が覗き見えた。
「上だ、馬鹿!」
――――上?
宇髄が楼主のところに行こうとした、まさにその瞬間の出来事だった。
瑠衣が上を見上げる。すでに星空に覆われた空が見えた。
その星空の中、瑠衣は確かに見た。
2人の女が、空を飛んでいた。
◆ ◆ ◆
「お前はグシャッと転落死さ」
その言葉を聞いた時、京極屋の女将――お三津は、自分は死ぬのだと理解した。
彼女は今、空を飛んでいる。
自分の意思でそうしているわけでは無かった。
お三津の体を掴み、無理矢理にそうさせている存在がいるのだ。
この世のものとは思えない程の美貌。
整い過ぎて不気味さすら感じる顔が、視界いっぱいに嗤っていた。
開いた唇から覗く歯は、犬歯というには余りにも鋭すぎた。
腰のあたりまで伸びた黒絹の髪に、額と頬に花の紋様が浮かび上がっている。
胸部と下腹部だけを覆う赤黒の衣装は酷く煽情的で、肌の異常な白さが浮かび上がって見えた。
そして、目。琥珀色の瞳に、文字が刻まれているように見える。
「わ、蕨姫……!」
蕨姫花魁。あの京極屋一の花魁の正体が、
お三津は前々から蕨姫花魁のことを不審に思っていたが、楼主も他の遊女も見て見ぬふりをしていた。
蕨姫花魁に目をつけられた遊女が自殺や足抜けで何人もいなくなったり、彼女が禿の娘の耳を千切ったりしても、誰も何も言わなかった。怯えていた。
そして今日、我慢の限界が来て、問い詰めた。
お前は何者だ、と。
「残念だよ、お三津」
そして今、お三津は死のうとしている。
蕨姫花魁は、いやこの化物は、人間ではなかったのだ。
懐に忍ばせた包丁も、腕も、蕨姫花魁の帯に絡めとられていた。
まるで生き物のように動く帯は、しかし解かれようとしていた。
「お前はもう少し、賢い女だと思っていたよ」
後ろ、いや下を見た。遠くに地面が見えた。京極屋の屋根よりずっと高い。
落ちれば死ぬしかないと、嫌でも理解した。
「さよなら、お三津」
「やめっ……!」
浮遊感は、突然襲って来た。
蕨姫花魁の手と帯がお三津を放した瞬間、自由落下が始まった。
胃の腑を持ち上げられるような感覚に吐き気を覚えると同時に、頬や肌を撫でる空気の固さに絶望した。
死ぬ、と、そう思った時。
「あぐっ!?」
脇腹に衝撃が来て、唾を吐くはめになった。
視界が横に動き始めて、何が何だかわからない内に、京極屋の屋根がみるみる近付いて来た。
ぶつかる、と目を閉じたが、衝撃はいつまで経ってもやって来なかった。
そもそも、屋根に足が、体がついていなかった。
「え……」
恐る恐る目を開けると、黒い詰襟の制服を着た少女と目があった。
その少女はお三津と目が合うと、ほっとしたような表情を浮かべた。
◆ ◆ ◆
何とか間に合った。
投げ付けるのではなく、落としただけだから間に合った。
そうでなかったら、この女性は今頃、地面に血の花を咲かせていただろう。
「あ、あんた、なに」
「落ち着いて下さい。後ろの窓から部屋の中に」
助けた女性を背中へやって、窓から部屋に入るように促した。
部屋の中が安全というわけではないが、屋根の上よりはマシだろう。
そして外には。
「――――ッ!」
――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐風樹』。
頭上から、着物の帯が襲いかかって来た。
それは異常に長く、速く、そして強靭だった。
風を纏った斬撃が、帯という布製の物体に弾かれている。
ただの帯ではない。血鬼術だ。
「ひいいいっ!」
帯は全て瑠衣ではなく、女性の方に向かっていた。
日輪刀で帯の側面を打ち、軌道をずらした。
そのおかげで女性は部屋の中に逃げ込むことが出来たが、驚くことに、帯は建物の屋根や壁を豆腐か何かのように切り裂いてしまった。
「鬼狩りの子?」
その鬼は、すぐ傍に下りて来た。
女の鬼は初めてではないが、ここまで妖しく美しい鬼は初めて見る。
そして、何よりも。
(服装が破廉恥……!)
何だこの服は、最低限の布地しかないではないか。これではほとんど裸で歩いているようなものだ。
正直なところ、常識を疑う。恥じらいはないのかと言いたい。胸元も足も晒し過ぎだ。
何かどこかの恋柱が「心外!」と憤慨する姿が見えたが、あちらはまだ人並の羞恥心がある。
それに対してこの鬼は、むしろ自身の身体を誇ってさえいるようだった。
「来たのね。思ったより速い。何人で来ているのかしら、柱は来てる?」
鈴の音を転がすような声、というのは、きっとこういう声を言うのだろう。
ただ、纏っている空気が余りにも禍々しいが。
それから、目だ。目に数字が刻まれている。
刻まれた文字は「上弦」「陸」。上弦の陸だ。
過去に会った参や肆よりは下だが、しかし上弦の鬼。
こうして相対しているだけで、自分が緊張していくのがわかる。
「そんなに怯えなくとも大丈夫よ、私は不細工を食べたりしないから」
じっと瑠衣の顔を、あるいは身体を見つめて、鬼がそう言った。
「ああ、でも顔は悪くないわね。頚から上だけ食べてあげる」
まあ、好き勝手に言ってくれるものだ。
瑠衣は別に自分が美人だとは――母や甘露寺やしのぶならいざ知らず――思っていない。
むしろ、良くそこまで自分の造形に自信が持てるものだと感心する。
そしてその上で、瑠衣は言った。
「とっととくたばれ、この不細工女」
「は?」
鬼の額に血管が浮かび上がるのと。
「この
「が?」
憤怒と疑問と驚愕がない交ぜになった表情を浮かべて、上弦の陸の頚が落ちた。
轟、と、熱い風が通り過ぎて行く。
――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。
「生憎だが」
上弦の陸の頚を斬り落として、杏寿郎は言った。
「妹は自慢の美人だ!」
それはやめて。
◆ ◆ ◆
現世と吉原を隔てる大門の前で、千寿郎は立ち止まっていた。
吉原には珍しく、奇妙に静かな夜だった。
ここを通れば吉原の外だが、その一歩を、千寿郎は踏み出せずにいたのだった。
「……兄上、姉上」
兄姉と宇髄は、鬼との戦いを始めただろうか。
宇髄は千寿郎がいても役に立たないと言った。階級が低すぎると。
杏寿郎と瑠衣はそこまで言いはしなかったが、それでも宇髄を否定することは無かった。
まだ早いと、それほど目が口ほどに言っていた。
思えば、千寿郎は鬼狩りについては「まだ早い」と言われ続けて来た。
それは千寿郎が家族で最も幼かったからだが、それでも最終選別には自分よりも年下の子供もいて、早すぎるということはないと思った。
いつまでも守られ、気にかけられているだけというのは、納得できなかった。
まして、禊は千寿郎のせいで――少なくとも千寿郎はそう思っている――鬼に攫われたのだ。
『アナタ様、宜しければお琴でも弾きましょうか』
優しい人だった。
遊郭のことを何も知らずに来た千寿郎のことを気遣って、琴を弾いてくれた。
姉である瑠衣も琴の稽古などをすることもあったが、禊の琴は姉のそれとは違って、奔放な音色が印象的だった。
あれはきっと、聞く人間を楽しい気持ちにさせるためにわざとそうしていたのだろう。
「僕のせいだ」
あの夜、千寿郎が眠りこけていた時、鬼が来たのだ。
そして禊は攫われた。千寿郎のすぐ傍で。
その考えが、頭の中をずっとぐるぐる回って離れなかった。
このまま吉原の外に出だとしても、千寿郎は自分がこの考えに押し潰されてしまうのではないかと、そんな風に感じていた。
(日輪刀)
姉も喜んでくれた赤色の日輪刀。
これを腰に差しているのは、いったい何のためだ。
人を、仲間を守るためではなかったのか。
少なくとも、尻尾を巻いて逃げ出すためではなかったはずだ。
「……ッ!」
そう思って、千寿郎は
外に背を向けて、吉原の夜へと駆け戻っていく。
命令違反になるかもしれない。だが、このまま外へは出れなかった。
禊を、仲間をみすみす鬼に攫われた事実を抱えて、生きていくことは出来なかった。
宇髄は怒るだろう。兄と姉も、こんな自分に呆れてしまうかもしれない。
それでも、千寿郎は駆けて行った。煉獄家の男として成すべきことを成しに行くために。
不意に、そう言えばと思った。
兄と姉の言いつけを破るのは、これが初めてだ、と。
最後までお読み頂き有難うございます。
妹は世界で一番かわいい。
これこそがこの世の真理(え)
それでは、また次回。