――――気が付くと、暗く冷たい場所にいた。
視界は霧がかかったように不鮮明で、周囲に何があるかはわからない。
足元は、膝まで水に漬かっているようだった。
一歩を歩くのでさえ、酷く身体が重かった。
『――――太郎が、死ん――――欠けた――――』
浮いているような、沈んでいるような。
そんな気持ちの中で、瑠衣は誰かの声を聞いた気がした。
声は酷く途切れ途切れで、ほとんど聞き取れなかった。
ただ、酷く耳に残る。
『必要――――案の定、堕姫――――』
いったい、誰の声なのだろう。
わからない。一方で、どこかで聞いたことがあるような気もした。
声は続く。
がんがんと、頭の中に響く。頭が痛い。内側から針を刺されているような気分だ。
『始めから――――後まで戦――――でもいい』
この声の質は、どこで聞いただろうか。
声音は違う。こんなに冷たくはなかった。
『――――人間の部――――もいい――――期待しない』
こんなに、低くはなかった。
もっと温かで、優しい。
『――――産屋敷――――』
ああ、そうだった。
ほとんど直接話したことはなかったが、産屋敷――お館様の声に、どこか似ている。
ただ、お館様の話し方ではない。余りにも冷たく、脅迫的だった。
だとすれば、いよいよ誰の声なのだろう。
『私は――――上弦――――甘やかし――――』
――――上弦?
『…………誰だ?』
え、と思った時だ。
視界が、掌で覆われた。誰かが後ろから目を覆って来たのだ。
耳元で、駄目ダヨ、と、やはり聞き覚えのある声がした。
そして次の瞬間、視界そのものが暗転して――――。
「…………は、あ」
煉獄邸の、自室の天井。
それが視界に映ると、床についたまま、瑠衣は大きく息を吐いた。
全身が汗で濡れていて、首筋から枕に汗の雫が滴り落ちる程だった。
やけに、喉が渇いていた。
「何、今の……」
汗をかきすぎたせいか、頭痛もした。
身を起こそうと手をつくと、鉛を背負ったように身体が重かった。
正直に言って体調は良くない。障子から漏れてくる朝日が眩しく感じられた。
「いけない、起きないと」
体調が悪くとも、休んではいられない。
家のこと、鬼殺の任務のこと。
そして今日は、特別な呼び出しも受けていた。
――――お館様の、召喚命令である。
◆ ◆ ◆
お館様が重症の隊士を見舞ったり、死んだ隊士の墓参りをしていることは、鬼殺隊でも有名な話だ。
しかし
竈門兄妹のような特殊な事例を除けば、直接召喚される隊士は大きく分けて2種類いる。
柱と、
「お許しくださいませ……!」
鬼殺隊の、いや煉獄家の主家にあたる産屋敷家の当主の召喚。
それも大功を上げての論功行賞。本来であれば、大変に名誉なことだ。
煉獄家の剣士として、これ以上はないと思える。
しかし今、瑠衣は手を着いて頭を下げていた。
目の前には、2人の娘に支えられて座る産屋敷がいる。
顔色は蒼白で――病によって顔のほとんどが爛れてしまっている――起きているだけでも苦しそうに見えた。
実際よほど体調が悪いのか、部屋の隅にあまねも控えていた。
「瑠衣、頭を上げて」
声も、酷くか細い。それでも声音は優しく、そっと頭に降りて来るような印象を受けた。
頭を上げると、困ったような微笑がこちらを向いていた。
「瑠衣、きみは本当に凄いことをしたんだよ」
しかしその言葉は、瑠衣の胸を締め付けた。
上弦討伐。鬼殺隊にとって100年ぶりの快挙だ。
「きみはこの100年の停滞を打ち破ったんだ」
「それは違います」
上弦の陸を、煉獄瑠衣が討った。
鬼殺隊は今、その話題で持ち切りだった。
事実無根、とまでは言えなかった。
花街の戦いで上弦と戦い、結果として討伐したことは確かだったからだ。
ただ瑠衣は自分が上弦の陸を――あの妓夫太郎の頚を斬ったということを、信じられなかった。
気が付いた時、瑠衣はしのぶの治療を受けていたのだ。
しかし杏寿郎も千寿郎も、宇髄や禊でさえも、妓夫太郎の頚を斬ったのは瑠衣だと言う。
「上弦の陸討伐は、私1人の力では不可能でした。音柱様、兄・杏寿郎、それに
「そうだね。天元も杏寿郎も、禊も凄い子だ。でも1番はやはりきみだ、瑠衣」
「いえ、私は」
「上弦討伐に貢献したきみ達に、鬼殺隊として何もしないわけにはいかない」
柱である宇髄はともかくとして、その他の隊士に対する褒美は「昇進」しかない。
禊は階級を2つ上げた。しかし甲である瑠衣には上がるべき階級がない。
……柱以外は。
杏寿郎も甲であり柱昇格の条件を先に満たしているが、上弦を討った瑠衣が昇進しないというのもおかしな話だ。
しかし柱の席は9つしかなく、また槇寿郎の引退により空く席は1つしかない。
鬼殺隊としては難しい判断になる。
そして瑠衣にとっては、心外であり論外の議論だった。
「お館様、どうか……」
どうして自分が、杏寿郎と柱の席を争わなければならないのか。
瑠衣は炎柱になった杏寿郎を支えたいと思いこそすれ、自分が柱になど考えたこともなかった。
まして杏寿郎を押しのけて父の空けた席を奪うなど、あり得ないことだった。
「……足の具合はどうかな、瑠衣」
――――結局。
その後すぐに産屋敷の体調が崩れたこともあって、瑠衣は柱就任の要請を固辞する形になった。
煉獄家の人間である自分が、主君たる産屋敷家当主の要請を拒否することになってしまった。
(どうして、こんなことになるの)
それは鬼殺隊に思わぬ波紋を広げることになるのだが、瑠衣には気付きようもないことだった。
◆ ◆ ◆
改めて思えば、鬼殺隊とは歪な組織だった。
生まれも思想も別々の者達が、産屋敷家当主のカリスマによってまとまっている。
一個人の統率力に過度に依存するこの組織は、ともすれば薄氷の上に成り立っている。
「どうだった、と言われてもな」
上弦の陸との戦いで負傷した宇髄を見舞った後、不死川は伊黒に現場の様子を聞いた。
すすろ伊黒は軽く肩を竦めた後、小さく首を振った。
「俺が行った時には、すべて終わっていたからな」
上弦の陸との戦いに際して、産屋敷は伊黒としのぶの2人を援軍に差し向けた。
しかし2人が現場に急行した時には、すでに戦いは終わっていた。
しのぶは負傷者の治療に当たり、伊黒は花街の被害を確認して回った。
女の独特の匂いがする花街は好まなかったが、被害は相当に大きかった。
復興には年単位の時間が必要になるだろう。ただ産屋敷家が裏から資金援助をするはずだ。
あるいは、産屋敷は吉原花街にも「藤の家」を置くつもりかもしれない。
「宇髄に話を聞いてみても、良くわからねェ」
ただ、不死川が気にしているのは
伊黒もそれはわかっていた。
あえて
不死川と伊黒は、不思議と馬が合った。
こうして2人で話すこともしばしばある。
そして2人の共通する話題の1つに、1人の少女のことがあった。
言わずもがな、煉獄瑠衣である。
(あいつが上弦を斬っただァ?)
瑠衣が弱いとは言わない。
今の柱達は産屋敷曰く「始まりの呼吸の剣士達にも劣らない」程に優秀だから、陰に隠れてしまっているだけだ。
並の柱――表現としてやや間違っている気もするが――としてなら、十分に通用する程度には強い。
特にここ最近は十二鬼月との戦いが続いていて、その経験値は他の隊士にはないものだった。
「……本当の話か?」
「俺は直接見たわけではないからわからない。だが、宇髄も……杏寿郎も、嘘を吐く意味がない」
「わかってる。ただ……」
とは言え、瑠衣がそこまで強いとは思わない。
しかし
だが、何よりわからないのは。
「本人が否定してるってのはどういうことだァ?」
「……わからない」
瑠衣自身が、否定していることだ。
「だが宇髄はこうも言っていた。正確には宇髄の妻の言葉らしいが」
「何だよ」
「その時の瑠衣は……」
「……んだァそれ。笑えねぇぞ」
「ああ」
上弦の頚を取ったことで、瑠衣は柱候補の最右翼に立った。
杏寿郎が父の跡を継ぐという既定路線に、狂いが生じたということだ。
しかし見方を変えると、さらに面倒なことになる。
「そうだな」
長男に跡を継がせたいという炎柱。
それを
事態は全くもって、笑えない方向に向かおうとしているのだった。
◆ ◆ ◆
「本当に凄かったんですよ、姉上は!」
隊士のために用意された甘味処に、千寿郎の興奮した声が響き渡った。
ただ周囲の目を集めたことが恥ずかしかったのか、すぐに顔を赤くして縮こまってしまった。
そんな千寿郎の様子がおかしかったのか、隣に座る少女がクスリと笑った。
「わたしも見たかったなあ。煉獄君のお姉さんってどんな人なの?」
「あ。あはは。姉上は、いつも凛としていて、自分に厳しくて……でも、とても優しい人なんです」
「そうなんだ、素敵な人なんだね」
などという会話を、千寿郎と共に最終選別を突破した
出された団子を適当に食べながら、千寿郎の姉自慢を静かに聞き流している。
ただ千寿郎に限らず、鬼殺隊では上弦の鬼を斬った煉獄瑠衣という隊士の噂で持ち切りだった。
まあ、噂にならない方がおかしい。
下弦を討った時でさえ、お祭り騒ぎになるのだ。
上弦の鬼を倒したとなれば、なおさらだろう。
しかし、だ。公の場で大っぴらに話して良いことではないだろう。
(まあ、自慢するなって言う方が難しいか)
そのあたりの空気は、当事者や当事者に近すぎる人間には見えにくいのかもしれない。
ついでに言うと、千寿郎にはもう1つ見えていないものがある。
それは、隣の少女が彼を見つめる目の
「わたしもお姉さんに負けないように頑張らないといけないね」
お姉さんに。
負けないように。
頑張る。
(うーん)
知己がちらり、と千寿郎に視線を向けると、彼は何もわかっていない顔で頷いて。
「はい、僕も頑張ります!」
などと
もし2人の目の前に座っていなければ、知己は目を覆って天を仰いだだろう。
ちなみに千寿郎に熱い視線を向けている――当の千寿郎はまるで気付いていないが――少女は、千寿郎が最終選別で鬼の手から救った少女だった。名前は兵藤という。
最終選別以来、同期会などと称して度々こうして集まっているのだが。
(僕、いりますかねえ)
いらない気もするが、同期会と称されている以上は来ないわけにもいかない。
それに煉獄家の人間と繋がりを持っておくのは、悪いことではない。
公的な意味でも、私的な意味でもだ。
それに、知己が来なければ「同期会」とは呼べなくなってしまう。
(この3人以外は、もう
千寿郎達が突破した最終選別では、1人も脱落者が出なかった
それは千寿郎が鬼を全て1人で斬ってしまったからだ。
つまり、
元々、新人隊士の生存率は高くない。
最終選別すら突破できない人間が任務に就いたところで、結果は目に見えていた。
本人が死ぬだけならまだ良いが、実力が足りな過ぎるから周囲を巻き込む場合もあった。
千寿郎も兵藤も同期の死を聞く度に悲しんでいたが、そのあたりの事情はわかっていないだろう。
「あれ、舟生君。もう食べちゃったの?」
「お団子好きなんですね!」
「いや、きみ達が喋ってばかりで食べないだけでしょう」
しかし、こうして邪気無く付き合われると、どうにも邪険にできないのも事実。
我ながら損な性分だと思いつつ、団子の串を皿に放った。
(うん?)
その時、近くの席に座っていた黒髪の男性――隊服を着ている――が、乱暴に席を立つのが見えた。
彼はこちらをキツい眼差しで一瞥したが、特に何も言ってくることなく、店を出て行った。
首に勾玉の飾りをつけた、奇妙な男だった。
◆ ◆ ◆
(くそっ、くそっ! どいつもこいつも……!)
獪岳は、苛立っていた。
いや、彼が苛立っていない時の方が珍しいのだが、最近は特に顕著だった。
その目つきの鋭さは、普段は陰で彼を蔑む声でさえ潜められる程だった。
道を通る隊士も、誰も彼に近付こうとしない。
獪岳は、不満だった。
何が不満だと問われれば、全てだ、と答えただろう。
己を取り巻く全てに対して、獪岳は不満だった。苛立った。
だがその中であえて、今一番不満と苛立ちを募らせているものは。
(どいつこいつも、あの女のことばかり言いやがって!)
煉獄瑠衣。彼の同期でもある少女のことだった。
今、おそらくは最も鬼殺隊士の口に上る名前だった。
そして誰も彼もが瑠衣を褒める。
上弦の陸を討ったのだから、当然と言えば当然だった。
(あいつが上弦を斬っただとぉ?)
道端の桶を蹴飛ばして、唾を吐いた。
「そんなわけねえだろぉが……!」
瑠衣の実力は、獪岳も良く知っている。
だが下弦の肆との戦い、上弦の肆との戦いを知っている。
瑠衣が1人で上弦の鬼を斬れるはずがない。
共に戦ったという音柱や兄に、手柄を譲られただけに決まっている。
そうに違いないというのに、鬼殺隊の誰もが瑠衣を褒めそやす。
一片の疑念も抱かずに、瑠衣の上弦討伐を信じる。
以前も思った。上弦の肆に負けた時も、生き残っただけで凄いと瑠衣は褒められた。
(
奥歯が砕けそうな程に、歯噛みした。
それだけ、瑠衣の
「……ああ?」
ふと気が付けば、獪岳はいつもの場所に足を運んでいた。
それは三方を山林に囲まれた窪地で、一方を丘に隔てられた場所だ。
そこは以前、偶然に見つけた場所だった。
あの時と同じ風切り音がして、目を逆立てた。
「あいつ……」
日輪刀の、素振りの音だ。
刀を振るう後ろ姿は、今、獪岳が最も見たくない人間のそれだった。
無心に日輪刀を振るうその姿が、今は無性に気に入らなかった。
だから、自らの刀の柄に手をやったのは、ほとんど無意識だった。
「え?」
だから、こちらを振り向いたその顔に驚きの色が浮かぶのを、むしろ愉快に感じた。
その顔に、獪岳は刀を振り下ろした。
◆ ◆ ◆
気持ちが行き詰まると、瑠衣は決まって日輪刀を振る。
素振りを繰り返していると、段々と無心になれるからだ。
しかしこの時ばかりは、いくら刀を振るっても雑念が消えなかった。
(どうして、こんなことに)
家に、返り辛かった。
産屋敷が瑠衣を柱にと望んでいることは、当然、槇寿郎にも伝わっているはずだ。
どんな顔をして父に会えば良いのか、わからなかった。
いや、そもそも槇寿郎がそのことを今日まで知らずにいたはずがない。
だが、父は自分に何も言わなかった。
何故だ? 自問してみても、瑠衣にはわからなかった。
(それに……)
やはり、いくら考えても、あの上弦の陸の頚を斬った覚えがない。
千寿郎を庇って、そこから先の記憶がない。
その記憶のない間に、瑠衣が上弦を討ったということなのか。
もしそうだとするなら、それは、ひどく恐ろしいことのように思えた。
自分の知らない間に自分が動いている、ということだからだ。
「……え?」
身の入らない素振りを止めて、振り向いた時だ。
何故かそこに獪岳がいて、さらに何故かはわからないが、日輪刀を抜いていた。
もっと言えば、その刀を振り下ろしていた。
「ちょっ」
反射的に、瑠衣も刀を振り上げた。
弾き返した音が、やけに近い位置で聞こえた。
頬に冷たい汗が流れるのを感じながら、後ろに跳んで距離を取った。
片足が折れているから、それほどの距離は跳べなかった。
「何のつもりですか、獪岳さん」
「あ? 気を遣ってやったんだよ。バカが」
獪岳は刀の背を肩に置いて、顎を上げて瑠衣を見下ろしていた。
身長差があるから、まさに「見下す」と言った風だ。
「
瑠衣の足のことを、獪岳は一目で見抜いていた。
「手伝ってやるよ」
「言葉の意味が、わかりかねますが」
「あー? ハハッ、心配すんな。俺も右足は使わないでおいてやる」
獪岳は、前々から瑠衣に好意的な態度を取る人間ではなかった。
ただそれはどちらからと言えばこちらを突き放すという印象で、こんな風に絡んでくるのは初めてと言って良かった。
真意が読めない。まあ、それはいつものことだが。
「構えろよ」
正直なところ。
◆ ◆ ◆
風の呼吸と雷の呼吸は、全集中の呼吸の中でも速度を重視した呼吸である。
強いて違いを上げるとすれば、風の呼吸が攻撃範囲に優れているのに対して、雷の呼吸は正面の敵を打ち倒すことに優れている、という点だ。
つまり雷の呼吸は、
「オラァッ!」
利き腕による振り下ろしの一撃は、予想以上に重いものだった。
獪岳が片手で振り下ろしたその一撃を、瑠衣は両手持ちで受け止めた。
それでもなお、受け止めた衝撃が爪先にまで響いてきた。
骨折した足に鈍痛が走り、踏ん張りが効かない。
「どうしたよ、上弦を斬った実力ってのはそんなもんか!」
普段は意識しないが、小指1つでさえ身体の動きには重要な働きをしている。
それが片足1本となると、与える影響は相当なものだ。
身体は無意識にいつもの動きをしようとしてしまうから、それが出来ないことに戸惑い、動きが鈍る。
そこを獪岳に叩かれる。
言葉通り、獪岳は片足を自ら封じている。
しかし実際に怪我で使えない瑠衣と、意識して使おうとしない獪岳では、やはり違いが出る。
突きを刀の峰で逸らし、掌で刀を打って半回転。獪岳をやり過ごした。
そして、逆にこちらが突く。
「遅えんだよ!」
それは、横から斬り払われる。
構わない。その勢いを利用して、無事な足を軸にして逆方向に回転する。
そのまま斬りかかるが、回転が遅く、獪岳は余裕をもってそれも斬り払った。
「ハッ! やっぱ大したことねえじゃねえか。こんな腕で上弦の陸が
振り下ろしの一撃。瑠衣はやはり両手で受け止めなければならなかった。
「俺なら!」
防御を気にも留めず、獪岳は連続で刀を振り下ろした。
「上弦の!」
余りの力の込もり様に、受け止める瑠衣の身体が左右に揺れる程だった。
「壱だって!」
しかし受け止めきれず、片手が柄から外れた。
「殺れるぜ!」
――――雷の呼吸・弐ノ型『稲魂』。
それを見ても、獪岳は攻撃の手を緩めなかった。
というより、逆に手首を返し、型に入った。
(殺気を……!)
――――風の呼吸・弐ノ型『昇り炎天』。
弾かれたところから、咄嗟に斬り上げた。
初速に優れる型で、獪岳の技の出がかりを潰す形になった。
獪岳の意識の外から放たれたその攻撃は、獪岳の日輪刀の
「……あ」
小さな音を立てて、半ばから折れてしまった。
意外に思われるかもしれないが、刀は意外と脆い。
的確な方向に振らないとと斬りかかっただけで折れるし、側面から叩けば容易に折れる。
しまった、と瑠衣は思った。咄嗟の反応だったとは言え、他の隊士の刀を追ってしまった。
しかし嫌な感触が掌に伝わってきて、刀の重みが変わると、まさかと思って足元を見た。
すると思った通りの物、つまり瑠衣の刀の刀身だけがそこに落ちていた。
上弦との戦いのせいか、あるいは獪岳の左右からの連撃に内部破壊が進んでいたのか。
ひゅっ、と、息を吸った。
「あ――――っ!!」
何とも悲し気な悲鳴が、その場に響き渡った。
その声を、上空の鴉達の鳴き声が掻き消していった。
◆ ◆ ◆
「あーっ、瑠衣さん! お久しぶりです!」
折れた刀を手に、とぼとぼと煉獄邸に帰ると、予想外の客がいた。
太陽のような明るい顔で挨拶してくるその少年は、炭治郎だった。
妹の入った箱を背負ったその姿も、すっかり見慣れたものだ。
(ん……?)
炭治郎の額を見て、一瞬、眉を顰めた。
彼の額には痣――火傷の跡らしい――があるのだが、それに違和感を覚えたのだ。
何となくだが、痣の形が前に見た時と違う気がする。
色というか形というか、記憶と違う。
しかし痣の形が変わると言うのも、妙な話だ。
気のせいだろうと、この時は思った。
この時は、そう思った。気のせいだと。
「こんにちは、竈門君。もしかして、私に何か用でも……?」
「あ、いえ! そういうわけじゃないんですけど」
困ったように頬を掻きながら、炭治郎は腰に差した日輪刀を目で示して。
「実は、刀が折れてしまって。お館様のご厚意で、刀鍛冶の里に行っても良いということになって」
「刀鍛冶の里、ですか」
日輪刀は特殊な鋼で打たれている。
それ故に、刀鍛冶にも特殊な技術が求められる。
鬼殺隊にとってなくてはならない存在で、当然、鬼から隠されている。
その隠れ里に行けるということ自体、珍しいことだ。
「刀は任務で?」
「あ、いえ、それも違って……」
たはは、と笑って、炭治郎は言った。
「槇寿郎さんとの稽古で」
断っておくと、この時の炭治郎に悪気は全くない。
というより、炭治郎の性格で他者に悪気というものが働くことがない。
そんなことは、瑠衣にもわかっている。
しかしこの何気ない炭治郎の言葉は、瑠衣の胸にこれ以上なく突き刺さった。
その
何度味わっても、慣れるものではなかった。
しかし経験がある分、取り繕うことは出来た。
だから瑠衣は、何事もなかったかのように笑顔を浮かべて。
「怒ってますか?」
繰り返すが、炭治郎に悪意はない。
この真っ直ぐな少年に悪意などあるはずもない。
ただ、口にせずにはいられないというだけだ。
それが時に残酷になるということを、まだ知らないだけだ。
「……怒ってはいません。ただ、少し驚いただけですよ」
本当に、怒っているわけではなかった。
ただ「驚いた」というのも、正確ではなかった。
これは、言葉にできるものではない。仮に言葉にするとしても、相応しい言葉が思いつかなかった。
「実はですね。私もついさっき、うっかり刀を折ってしまいまして」
刀を鞘ごと持ち上げて見せて、瑠衣は笑って見せた。
折ってしまったのは本当のことだから、そこに嘘の匂いを感じることはできない。
「情けない話ですよね」
その言葉からも、また、嘘の匂いは感じられなかった。
何故ならばそれは、瑠衣の本心であったのだから。
最後までお読みいただき有難うございます。
1話のインターバルを挟んで、刀鍛冶の里編に突入します。
原作アニメに追いつかれないように巻いて行かないと(え)
それでは、また次回。