――――夢の呼吸・弐ノ型『
無造作に振るわれた横薙ぎの一閃が、金魚の上半分を肉片の変えた。
そのままぐるぐると回転しながら着地し――片足を上げて地面を滑っていく様は、恋柱を彷彿とさせた――たかと思えば、次の瞬間にはがくんと脱力していた。
どうやら、すうすうと寝息を立てて眠ってしまったようだ。
「いや、そうはならないだろう……」
「実際になってるじゃないですか」
「うっせ」
鉄美と清彦がそんな会話を交わす傍ら、一本丸が地面に手を着いて
彼の前には、無惨にもバラバラになった鈴音の蛇腹剣の残骸が落ちていた。
どうやら壊れてしまったらしい。一本丸はこの世の終わりかのようにさめざめと涙を流していた。
「しかし
鬼の襲撃を受けた人間にとって、太陽はまさしく救世主だ。
陽の光だけが、鬼を退けると信じている。
だからこうして、ひたすらに太陽が早く昇ってくれるように祈るのだ。
「阿呆なことを言うなや」
不意に立てられた声に、その場にいる皆が黙った。
鉄珍だった。
首元に包帯を覗かせてはいるが、鉄珍の声には力があった。
「こうしとる間にも、剣士の子らが
そんなことは今することではない。
今は戦時。奪うか奪われるかの時だ。
蹲って時間が過ぎるのを待ち焦がれていて、凌げる時間ではないのだ。
そもそも、隠も刀鍛冶も鬼殺隊の一員なのだ。
刀を振って戦う剣士と、何ら異なるところはない。
剣士が命を懸けて戦っている時に、安全圏でただ蹲っているだけでどうするのか。
「……あ! 長!」
その時、茂みから新たな金魚の化物が顔を出した。
金魚は刀鍛冶達を視界に収めるや、歯を剥き出しにして咆哮を上げた。
その顔に、鈴音の一閃が走った。
眠りながらの跳躍。しかも誰もが気が付いた時にはそこにいる。独特な歩法。
「ああっ!」
誰かが悲鳴を上げた。
鈴音の刀が金魚の牙に触れた際、金属音を上げて折れてしまった。
金魚は顔を斬られただけで、すぐに再生を始めた。
「和泉殿!」
誰が、というわけではなかった。
気が付いた時、彼ら1人1人が抱えていた日輪刀を投げたのだ。
とは言え、素人の投擲だ。正確ではない。
「ズモオオオオオォォッ!」
また金魚の化物が咆哮を上げて、届いた日輪刀を振り払ってしまった。
跳ね返って来た刀に、うわあ、と刀鍛冶達が身を屈める。
ただ、刀鍛冶達は金魚を狙って刀を投げたわけでは無かった。
「感謝します」
一振りで良い、届けば良かった。
鈴音は手を伸ばして鞘の下げ緒を掴み、引き寄せた。
そのまま抜刀し、金魚の頚と背中の粒を斬り、砕いた。
おお、とやはり誰からともなく歓喜と安堵の声が漏れた。
「皆、良く考えや」
そんな中で、鉄珍は問うた。
「どうして、日輪刀は
夜明けまで、あと少し。
◆ ◆ ◆
元々、時透の刀ではなかった。
刃毀れも酷く、翌朝には正式な刀が届くはずだったのだ。
だから鬼の、あるいは時透の力に耐え切れずに刀が折れてしまったとしても、不思議は無かった。
しかしタイミングとしては、最悪と言えた。
――――血鬼術『
上弦の肆が生む出す無数の
樹齢何百年というような太いトカゲもいれば、そこから枝のように生えてくるトカゲもいる。
しかもトカゲの口から新たなトカゲが生えることもあり、まさしく無限のように思えた。
『無一郎の「無」は――――』
不意に、記憶が刺激された。
それがいつの、誰の言葉だったかは思い出せない。
いつもそうだ。
時透の記憶はいつだって、霞の向こう側にある。
「ふうう……」
――――霞の呼吸・伍ノ型『
視界を埋め尽くすトカゲに対して、生き残る道は後方には無かった。
それがわかるから、折れた刀で時透は前へと踏み込んだ。
前へと踏み込んで、全身の筋肉の緩急で相手を幻惑しつつ、刀を振るった。
(――――! この童、儂の目を欺くとは)
トカゲの顎をギリギリのところでかわし、胴を斬る。
それを繰り返しながら、徐々に上弦の肆に近付いていく。
柱に近付かれる。
だから上弦の肆は、背中の太鼓を叩いた。
「何? うるさいなあ」
時透の眉が、不快そうに形を変えた。
すると2体のトカゲが、時透に向けて口を開くのが見えた。
食い千切る気か。いや、距離があった。
――――血鬼術『
雷撃と、音波。同時に襲い掛かって来たそれに、さしもの時透も目を見開いた。
万全な状態なら捌けるだろう。が、今は刀が折れていた。
捌き切れるか。そう目を細めた瞬間だ。
「伏せてください!」
珍しいことに、時透はその声にすぐに従った。
屈んだ彼の頭上を、飛び越えて行く者があった。
「……仲間か」
――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』!
回転しながら、斬り下ろしの斬撃。暴風が舞い降りた。
トカゲの放った音波と雷撃を、風の斬撃で逸らした。
飛び込んで来た瑠衣の背中――「滅」の一文字――を見て、時透は目を細めた。
記憶も視界も、霞が勝ったままだった。
◆ ◆ ◆
何だ、こいつは?
それが上弦の肆の姿を見た時の、瑠衣の偽らざる気持ちだった。
目に刻まれた数字から上弦の肆だとはわかるが、姿形がまるで違っていた。
「上弦の肆です! 喜怒哀楽の鬼が合体したんです!」
「合体……!」
炭治郎の言葉に、瑠衣は改めて少年鬼を見た。
対峙しているだけで掌に汗が滲んで来る。
喉がひりつくような威圧感は、今まで出会ってきた上弦にひけを取らなかった。
確かに、上弦の鬼だ。
(……不味い)
この時点で、瑠衣には誤算が2つあった。
まず1つは、時透だ。刀が折れている。
悔しいが時透の実力は本物で、その彼が万全の状態でないというのは痛かった。
そして第2に、上弦の肆だ。
瑠衣にとっては因縁の相手でもある。だが、前の戦闘の情報は何も当てにならない。
あの時はまるで本気では無かったのだと、一撃を捌いて理解した。
両腕に残った衝撃が、嫌でもそれを教えてくれた。
「……どうして助けたの?」
その時、時透がそんなことを言った。
「刀が折れた僕を助けるより、鬼の頚を斬りに行くべきだったと思うけど」
これである。
確かに時透に意識が向いている上弦の肆に、奇襲する手はあったかもしれない。
あったかもしれないが、わざわざ言うのが時透無一郎という少年だった。
「仲間だからだよ!」
そして答えにくいことでも、ずばっと素直に言えてしまうのが、炭治郎という少年だった。
「仲間は絶対に見捨てない。それに時透君が一番、やつを討つ可能性がある。時透君さえ生きていてくれたら、絶対に勝てる!」
「…………」
あの時透が何の反論もできずに黙り込んでいる。これは珍しいことだ。
玄弥は「すげえな、こいつ」とでも言いたげな顔で炭治郎を見ているが、瑠衣も同じ気持ちだった。
この炭治郎という少年には、そういう不思議な何かがあった。
「不快、極まれり」
その時、地の底から響くような声が聞こえた。
不機嫌や不満という言葉に形があるのなら、まさに
上弦の肆の全身から放たれる威圧感と害意は、そう思わせるには十分だった。
「極悪人どもめ。皆殺しにしてくれる」
圧倒的な殺意に、全身の産毛が逆立った。
柱である時透でさえ例外ではない。
そんな中で、1人だけ声を上げる者がいた。
「……悪人……?」
ぞわり、と。
その時の炭治郎の表情を見て、また産毛が逆立った。
本当に、
瑠衣は、そう思った。
◆ ◆ ◆
鬼は、人を喰う。
上弦ともなれば、その数は100や200ではきかない。
上弦の肆からも、数多の人間の血の臭いが漂っていた。
その鬼が、炭治郎達を「悪人」と呼ぶ。
「お前に喰われた人達が、お前に何をした? 何の罪もない人々を殺しておいて、他人を悪人呼ばわりするのはやめろ!」
人は誰しも他人に厳しく自分に甘いものだが、度を越している。
自分を絶対の善とし、他人を悪とする。何という捻じ曲がった性根か。
そのような悪鬼を、許すことは出来なかった。
「竈門君……」
ゴオ、と、炭治郎の体から炎が上がったように感じた。
もちろんそれは目の錯覚だが、しかし呼吸音は燃え盛るように激しかった。
火の神に捧げる、特別な呼吸だ。
――――ヒノカミ神楽『
爆発するような、そんな突きだった。
上弦の肆までの距離を一息で潰し、その喉元に日輪刀を向けた。
それを見つめる上弦の肆はかわそうともしていなかったが、代わりに背中の太鼓を叩いていた。
(やつの攻撃の方が速い!)
木のトカゲが、両側から炭治郎を包み込もうとしていた。
明らかに、炭治郎の突きが上弦の肆に届くよりも速い。
そこへ、2つの影が割り込んできた。
――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。
――――霞の呼吸・参ノ型『
霞が風の呼吸の派生だというのが、良くわかった。
時透が持っている刀は、あれは、玄弥が持っていたものだろう。
(咄嗟に俺に合わせてくれた)
凄い人達だ、と思う。時透など自分より年下なのだ。
箱の中で回復している禰豆子も、懸命に戦った。
皆が、懸命だった。
俺もやるんだ、と、炭治郎は強く願った。
(もっと早く)
もう少しだけ速く。
もう少しだけ先へ。
もう少しだけ、呼吸を深いところへ。
上弦の肆の頚に、刃が届いた。
少年鬼は何の感情も見えない顔で炭治郎を見上げていた。
炭治郎に頚が斬れるはずがないと、そう思っているのかもしれない。
実際、上弦の肆の頚は鋼鉄のように硬かった。
「う……!」
先ほど感じた怒りは、まだ胸中で渦を巻いていた。
この悪鬼の頚は、今斬らなければ。この悪鬼を、今、仕留めなければ。
また罪もない人々が殺される。
余りの血の熱さに、口から炎が噴き出してしまいそうだった。
「うおおおおおおおおおおぉっ!!」
炭治郎の額の火傷が――いや。
額の
それと同時に、刃が
次の瞬間、上弦の肆の頚が、天高く刎ね上げられていた――――。
◆ ◆ ◆
正式に剣士になってからというもの、千寿郎は己の未熟に気付かされる毎日だった。
まず、単純に実力が足りない。
父を始めとする兄姉の薫陶を受けていると言っても、まだまだ剣は荒い。
しかし、千寿郎は懸命だった。
「俺が来るまで良く耐えたなァ」
強力な鬼だった。厄介な血鬼術を持っていて、しかも民間人が襲われていた。
千寿郎は民間人を庇いながらの戦いを余儀なくされたが、ひたすらに我慢し続けた。
結果として、柱――不死川の救援が間に合った。
鬼は、不死川の一刀の下に頚を刎ねられた。
(やっぱり、柱は凄いなあ)
自分が半夜に渡って戦った鬼を、たった一撃で斬り伏せてしまうのだ。
いかに実力が足りないかを目の当たりにされたようで、どんよりとした気分になってしまう。
(もっともっと、頑張らなくちゃ)
父のように、兄や姉のように、弱い人々を守る剣士になるのだ。
隠による手当てを受けながら決意を新たにする千寿郎に、不死川はふっと表情を緩めた。
「お前は良い剣士になるさ。たぶんなァ」
「いえ、まだまだです。今日の鬼だって、僕1人では斬ることが出来ませんでした」
「それでも、民間人を守り切った。で、自分も生き残った。万々歳だろォが」
そのどちらも、成し遂げたのは不死川だった。
不死川が来なければ、千寿郎はそのどちらにも失敗していただろう。
そんな今の自分では、おこがましいかもしれないが。
「俺も柱になったら、父上や不死川さんのようになれるでしょうか」
「どうかねェ」
「や、やっぱり無理でしょうか!?」
「別に槇寿郎殿や俺みたいな柱になる必要はねェだろ。お前はお前のやり方で柱になれば良いんだ」
それに、と、不死川は言った。
「お前はちゃんと、柱が持ってなきゃならない物を持ってる」
そしてそれは、千寿郎の姉――瑠衣、あの
明るい顔を見せる千寿郎を横目に、不死川はそんなことを思った。
千寿郎は確かに実力的には未熟だ、柱候補とすら呼べない。
けれど、それでも、瑠衣よりは
実力では柱に手が届くと言って良い瑠衣だが、柱からはずっと遠い位置にいるのが彼女だった。
そして本人はそれに気付いていない。気付こうとすらしていない。
だから
◆ ◆ ◆
柱とは、《家》を支えるものである。
一家の大黒柱、などという言葉もある。
では、柱はなぜ家を支えるのか。考えたことはあるだろうか。
理由は、たった1つしかない。
――――家の中にいる者達を、守るためだ。
「ぎゃあああっ!」
という悲鳴を、甘露寺は意識の端で捉えた。
悲鳴を上げたのは、獪岳だった。
獪岳の背中に、あの金魚の化物が
蟹のような鋏が、獪岳の頸動脈に伸びるのが見えた。
罠だ、と小鉄は思った。
あからさまに罠だった。素人の小鉄が見てもわかるくらい、コテコテの罠だった。
甘露寺の気を逸らして、隙を突こうというのだろう。
無視すべきだ。
獪岳を嫌っているという点を差し引いても、それが合理的な判断だと小鉄は思った。
「あっ……!」
一瞬の出来事だった。
甘露寺が一息で獪岳の下へ跳び、背中に取り付いていた金魚を斬った。
馬鹿な、と小鉄が思うのと。
玉壺が放った無数の針が甘露寺の身体に突き刺さるのは、ほぼ同時の出来事だった。
(こいつは、馬鹿か)
救われた身でありながら、獪岳は甘露寺の行動を「馬鹿」と思った。
普通、こんなあからさまな罠に引っかかるわけがない。
自分だったら見捨てている。それなのにこの甘露寺という女は。
「だ、大丈夫だった!? 怪我はしてない!?」
負傷の痛みで額に汗を浮かべながらも、獪岳の無事を問うてきた。
「ヒョヒョッ、まさか本当に助けに行くとは。愚かなことだ」
玉壺も同じことを考えていたのだろう。甘露寺の行動を嘲笑っていた。
「本当に滑稽! 傑作だ。最も強い者が最もつまらない命を救って命を落とす。ん? そろそろ毒で聞こえなくなってきましたかな?」
――――水の呼吸・壱ノ型『水面斬り』。
背後から、横薙ぎの剣撃。
ヒョッ!、と笑って、玉壺は壺の空間移動によってその一撃を回避した。
「ヒョヒョッ。そういえば、犬畜生を連れた馬鹿な人間がいたか」
何の脅威にも思っていない。そんな顔だ。
玉壺のように数字を持つ鬼は、基本的に、柱以外の剣士を侮る傾向にある。
それは長く生きてきた経験から来る結論で、間違ってはいない。
その時点で、玉壺はようやく気付いた。
自分の頚から、僅かに血が滲んでいることに。
小さな腕が生えて、傷口を塞いだ。
「いやあ、まあ、おじさんもね。あんまり褒められた人生を歩んじゃいないけどね」
柱以外は雑魚。間違ってはいない。
しかし玉壺は、1つ忘れていた。永遠の命を持つが故に見落としていた。
それは、人が成長するということ。
そして、最強の柱も――――最初の階級は癸だった、ということを。
「お前みたいなクズはね、嫌いだわ。
人は、
いつまでも柱の下にはいられないのだということを、玉壺は知らなかった。
◆ ◆ ◆
そもそもだ、柱は人数が決まっている。
空席が生まれない限り、いくら実力のある隊士がいても昇格することが出来ない。
従来は頻繁に空席が発生する――同じ顔ぶれが半年と保つことはほぼ無い――のだが、今の世代の柱は例外的にそうなっていない。
「あ、あのオッサン……」
小鉄は、己がもはや外野であることを自覚していた。
鋼鐵塚は未だに刀を磨いているが、もう気にしている人間はいなかった。
ともすれば前に出そうになる小鉄の小さな体を、鉄穴森が抱えて止めていた。
しかし、鉄穴森も小鉄の気持ちは良くわかった。
柱である甘露寺が負傷してしまい、状況は最悪だと思われた。
縁壱零式もいい加減に限界だった。だから。
「あのオッサン、強エエエエエェェッ!?」
だから、犬井の本気の戦いぶりに驚きを禁じ得なかった。
犬井の呼吸は水ということだが、小鉄の知る水の剣士――要は炭治郎のことだが――とは違っていた。
おそらく上背があり、体重の差から来る違いなのだろう。
炭治郎の水の型は流麗といった風だが、犬井の型はそこにさらに力強さが加わっていた。
技の初速がやや遅いが、それを補って余りあるパワーがある。
豪、と瀑布の如く刀を振るい、針を弾き飛ばし、金魚を斬り
「とは言え、
技の初速が遅いということは、上弦の鬼にとっては回避を容易にしているだろう。
だから犬井の攻撃は玉壺の頚までは届かない。
だがその代わり、移動した先々で。
「バウッ!」
コロが先回りしている。
空間移動していると言っても、出現する壺から漂う臭気は隠しようがない。
もちろん人間には無理だが、犬であるコロならば追跡できる。
そうしてコロの追撃と牽制が効いたところへ、犬井の
――――水の呼吸・肆ノ型『打ち潮』。
流れるような
刀の冷たさが筋肉にまで達したところで、ようやく玉壺は反応できた。
囮の小さな腕を生やして刀を止めつつ、次の壺へと逃げ込んだ。
「っとお。木の上かい」
次の転移先は、太い木の枝の上だった。
どういうバランスで乗っているのか良くわからないが、とにかく上に移動した。
「ううん?」
様子が、おかしかった。
というのも、壺から這い出た玉壺が枝に倒れ込んだからだ。
いや、倒れ込んだというより、引っかかったという方が正しい。
玉壺は平べったい布のような姿になって、枝に引っかかっていた。
「あらら、これは……」
皮だった。外皮。つまり
それに気付いた刹那、犬井はコロを掴んで横に跳んだ。
地面にしたたかに身体を打ち付けたが、すぐに起き上がった。
ボトボトと、足元に何かが落ちた。
魚だった。新鮮だ。無駄に。
それから、隊服の腹部の部分が破れていた。
鮮魚はそこから落ちていた。
つまり、
「……ヒョヒョヒョッ。この玉壺様がここまでコケにされたのは初めてだ」
筋肉がより引き締まり、頑健さと強靭さを増していた。
そしてその肉体を守る鎧のように、透き通った鱗が全身を覆っている。
壺から離れた下半身は魚のようにも蛇のようにも見えて、木の幹に絡みついていた。
変身――いや、
「だがそれも、もうお終いだ。この玉壺様の完全なる美しき姿にひれ伏すが良い」
姿も気配も変わった上弦の鬼を前に、犬井は苦笑いを浮かべた。
どうやら相手を知らなかったのは、お互い様のようだった。
しかし誰も脳裏に絶望が
◆ ◆ ◆
この時、甘露寺は勝機を見た。
確かに玉壺は変態によってより強力になった。肌で感じる鬼気も段違いになった。
「ゲホッ」
しかし、問題があった。毒が回ってきているのだ。
呼吸を抑えれば毒の巡りも遅くなるが、それでは身体能力を維持できない。
身体能力を高めれば、毒が巡る。
呼吸の剣士ならば、誰でも知っていることだ。
(こ、この女、何を考えてやがんだ……!?)
しかし、逆に甘露寺は呼吸を早くしていた。
傍にいる獪岳にはそれが良く分かった。
同時に、甘露寺の顔色がどんどん青褪めていく様も見ていた。
呼吸を――心拍数を、早くしていく。
すなわち、血の巡りを早く、強くしている。
手足の先、毛細血管の一本に至るまで、血を送り込む。
それによって毒は回るが、より強い力を得ることが出来る。
身体が
(師範、みんな)
不意に思い出すのは、煉獄家での修行の日々だった。
呼吸法に限らない。剣士として必要なすべてをそこで学んで来た。
ついでに言うと、運命の人だ、とときめきを覚えたことも一度や二度では無かった。
まあ、すぐに違うとわかったわけだが。
(全力で、行きます)
自分より強い人に守ってほしいと、人には言ってきた。それが女の子の夢だ、と。
それは本心だけれど、言っていないこともあった。
自分よりも強い人の隣なら、「この人に比べたら私なんて」と言えるから。
そうやって、自分のコンプレックスを払拭しようとしていた。
だけどそれは、今日までだ。
力が強いことも含めて、自分なのだ。
この力を使って、守れるものがあるはずなのだ。
だから女の子に見て貰えなくとも、人間じゃないと言われてしまったとしても。
(届けなきゃ)
相手が上弦だろうと、何だろうと、関係ない。
悪鬼、滅殺。
柱として、この場にいるすべてを守る。殺させない。奪わせない。
そして、何よりも。
(みんなに、瑠衣ちゃんに、刀を届けなきゃ)
そのためには、あの鬼が、上弦の伍が――玉壺が、
「…………」
彼は今まで、この世に上弦の鬼よりも恐ろしいものなどないと思っていた。
無理もない。上弦の鬼はまさしく恐怖と絶望の権化だ。
しかし今、獪岳は確かにそれを上回る恐怖を感じていた。
それは味方から覚えるにしては、余りにも剣呑な感情だった。
◆ ◆ ◆
――――血鬼術『
玉壺の巨体が、凄まじい速度で四方八方を飛び跳ねていた。
柔軟で強靭なバネと波打つ鱗により、まさしく縦横無尽。しかもだ。
「うおっとおっ!」
玉壺の手が掠めた部分が鮮魚に変化する。
地面におちてビチビチと跳ねる魚に犬井はぞっとした。
魚になって死ぬなんて、冗談じゃない。
玉壺の打撃を刀で捌いた瞬間、日輪刀が鮮魚に変わってしまったのだ。
正直、しまったと思った。
拳で触れると発動する血鬼術。攻防も例外では無かった。
「来るな、コロ!!」
助けに入ろうとしたコロを止めた。魚にされるからだ。
「お終いだ、死ねい!!」
玉壺が両腕を振り上げ、そして振り下ろした。
この間、実に数秒である。
しかしその数秒の間に起こったことは、人智を超えていた。
「ああっ……!」
悲鳴のような声を上げたのは、小鉄だった。
それは縁壱零式が攻撃に割って入り、そして玉壺の「神の手」により刀と胴体を魚に変えられて、砕かれてしまったからだ。
今度こそ致命的な損傷に、小鉄は悲嘆の声を上げたのだ。
「何だ……!?」
胴体を砕かれた縁壱零式の手から、無事な刀が何本か宙を舞った。
それは良い。問題はその刀を邪魔と言わんばかりに弾き飛ばそうとした時だ。
刀の鏡面に、何かが映っていた。玉壺か犬井か。いや、違う。
――――
「なっ、血鬼術だとお!?」
――――血鬼術『鏡写しのアナタ』。
「お兄ちゃんに、酷いことしないでっっ!!!!」
ずるり、と、刀の鏡面から突如として何かが這い出して来た。
それは血のように真っ赤――というより、充満する鉄錆の臭いから本物の血だとわかる――な液体で構成されたそれは、瞬時に上半身が人で下半身が魚のような形に変わった。
というより、一回り小さいが、それは玉壺の形を模していた。
「~~~~ふん! 何だかわからんが、喰らえ! 我が神の手の前にひれ伏すが良いわ!」
腕の一振りで、それは破壊された。
血が飛び散り、刹那の後にはそれらは全て鮮魚へと姿を変えた。
玉壺はニヤリと笑みを浮かべたが、次の瞬間に変化が起こった。
「グボォッ!?」
玉壺の口――というか、目――から、血が噴き出した。
肉体の内側から甚大なダメージを被り、吐血したのだ。
いったい何事が生じたのかと、混乱した。
今、自分は一度
血鬼術の能力か。いや、関係ない。問題ない。
鬼なのだ。不死身。しかも上弦の伍。
死からでさえも、一瞬で蘇る。
しかし玉壺にとって不幸なことに、その一瞬がまた彼の運命を決定付けたのだった。
「むう!」
玉壺の頚に、薄絹のような刃が幾重にも巻き付いた。
甘露寺の日輪刀だった。
刃が頚に触れる感覚に、しかし玉壺は慌てなかった。
(いや、問題ない! あの女の動きは私よりも遅い! しかも毒で弱っている。斬れるわけが)
甘露寺の姿を視界に収めた瞬間、玉壺は全身の肌が粟立つのを感じた。
(斬れる、わけが)
動きがさっきよりも少しだけ速い。力がさっきよりも少しだけ強い。
同じ人間なのに、さっきよりも少しだけ強い。
玉壺の失った
(何だ)
玉壺が
甘露寺の首元に咲いた、花のような紋様。
(痣……!?)
その
地面に落ちるまで、玉壺はその事実に気付くことが出来なかった。
え、と何事かを言おうとしたその口を、すかさず駆け寄って来たコロが日輪刀の牙で引き裂いてしまった。
「……ッ。はっ、ハアアァ~~~~……!」
甘露寺が大きく息を吐いてその場に膝をつくのと、歓声を上げて小鉄達が皆に駆け寄るのは、同時の出来事だった。
最後までお読みいただき有難うございます。
上弦と下弦の間には拭い難い差があるようですが、上弦も上位3人と下位3人でかなり差がありますよね。
千年かけても上弦6体しか作れなかったのは、当人達の才能のせいか指導者のせいなのか。
それでは、また次回。