鬼滅の刃―鬼眼の少女―   作:竜華零

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第39話:「父娘」

 ――――ひなきとにちかと会うのは、思えば随分と久しぶりな気がした。

 獪岳との面会を果たした後、別室でのことだった。

 当初はお館様に呼ばれていたのだが、実際にいたのは2人の娘だった。

 

「申し訳ございません」

「お館様は病状が悪化したため、私共が代理にて対応させていただきます」

 

 産屋敷一族は、代々短命だ。

 それは瑠衣も良く知っていることだが、人前に出ることが出来ない程に病状が悪いのか。

 脳裏に浮かんだのは、病で少しずつ弱っていく母の姿だった。

 親が弱っていく姿というのは、見ているのも辛い。 

 

「……お館様が快方に向かわれますよう、心よりお祈り申し上げます。ひなき様とにちか様におかれましても、どうかお心を強く持たれますよう」

 

 ただ、ひなきとにちかが余りにも無表情で淡々と告げて来るので、瑠衣としても型通りのことしか言えなかった。

 しかしそうでなかったとしても、かけるべき言葉など見つけようも無かった。

 母の時も、最後には何も出来なかった。

 

「ありがとうございます」

「それでは、瑠衣様。獪岳様との面会を経てのお考えをお聞かせ願います」

 

 獪岳との面会――あれを面会と言って良いのかはともかく――は、散々なものだった。

 相手は終始瑠衣を罵倒してきたし、瑠衣としても今さら獪岳の印象が好転することも無い。

 ()()()()

 一言で言えば、そういうことなのだろう。

 

 しかし一方で、獪岳が拘束されたと聞いた時は驚いたものだ。

 あれで獪岳は世渡りが上手い。手も早いが口も回る。

 その時々で何が利益かを考える地頭もある。

 それが拘束とは、とんだ()()をしたものだと、そう思ったのだ。

 

「彼は……獪岳は」

 

 その獪岳が、自分に対しては剥き出しの「我」を見せてくる。

 思えばそれは最初からで、だから後になって隠す必要が無かっただけなのかもしれないが。

 

「鬼殺隊士・獪岳様が」

「告発の通り鬼に与していたのか、どうか」

「「ご教授願います。瑠衣様」」

 

 ひなきとにちかの声が、重なって聞こえた。

 他の3人もそうだが、産屋敷家の5人の子ども達は本当に良く似ている。

 声も姿も。あるいは、わざとそうしているのだろうか。

 煉獄家(自分の家)とは違うなと、場違いなことを考えてしまった。

 

「「瑠衣様」」

 

 先を促されて、瑠衣は2人を見た。

 そして数秒の後、瑠衣は告げた。

 獪岳の、同期の運命を決めるだろう言葉を。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 藤襲山に閉じ込められた鬼は、藤の花の結界で外に出ることが出来ない。

 最終選別に参加する者にとって、それは「あること」を意味していた。

 

「久方ぶりの人肉だ!」

 

 と言っても、子ども達の多くはそのことに気付いていなかった。

 そのことに気が付くのは、山に入った直後だ。

 すなわち、何日も食糧(人間)を断たれて、飢えた鬼を前にした時に、だ。

 

 飢えた鬼の多くは中腹――藤の花の境界線、つまり最終選別の子ども達が入って来る場所――に張っている。

 別々の場所から集まった子ども達は集団で行動しようとはいない。すぐに1人になる。

 そうして1人になった子どもに鬼は殺到する。腹が減っているからだ。

 

「う、うわああああっ!?」

 

 中には、不幸にも複数の鬼に襲われる者もいる。

 実戦経験のほとんど無い彼らにとって、これは致命的だった。

 ただでさえ怯えと緊張で本来の実力が発揮できないのに、獣じみた表情の鬼に飛び掛かられれば、パニックに陥る。

 そしてこの状況で冷静さを失えば、即座に命を落としてしまうだろう。

 

「だ、誰かっ……! 助けてえええええっ!」

 

 もちろん、助けなど来ない。

 ()()()()()

 

「ゲハハッ。助けなんて来」

 

 るか、という自分の声を、鬼は()()聞いた。

 加えて言えば、視界が逆さまになっていた。

 ()()()()()()()()()()

 

「は?」

 

 と疑問の声を上げた次の瞬間、その鬼は塵となって消えた。

 鬼が最後に見たのは、刀を鞘に納めている黒髪の少女剣士の背中だった。

 

「な、何だてめ」

 

 図らずも狩りの相棒となったもう一体の鬼も、次の瞬間には頚を飛ばされていた。

 頚が()()と感じた直後には、もう頚だけで地面を転がっていたのだった。

 

「す、すげえ……」

 

 襲われた子どもは、呆然とした表情でそれを見ていた。

 そして彼女が納刀する段になって、自分が未だに腰を抜かした体勢のままであることに気付き、急に恥ずかしくなった。

 慌てて立ち上がったが、しかし少女はスタスタとどこかに歩き去ろうとしていた。

 

「ま、待って!」

 

 声をかけられると、少女は足を止めてくれた。

 ほっとしたのも束の間、続けるべく言葉に詰まってしまった。

 少女が、何の感情も読めない表情で自分を見ていたというのが1つ。

 そして、不意に満面の笑顔を向けて来たのが2つ。

 

「どうも!」

 

 と、朗らかに言われたのが3つ。

 その3つを前にして、何も言えなくなってしまったのだ。

 そして再び背中を見せてどこかへと歩き去っていく少女に、今度は声をかけることが出来なかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 最終選別において、最も重視されるものは何か。

 鬼の頚を斬る力?

 鬼と遭遇しないこと?

 実を言えば、そのどちらでも無い。

 

「父様たち、ちゃんとご飯食べてるかな」

 

 バチバチと焚火で川魚を焼きながら、瑠衣はそんなことを呟いた。

 陽の光の下、石で組んだ竈の前に座り、魚が焼けるのを待っている。

 たまに魚の向きを変える以外には、何をしているでもない。

 

 それもそのはずで、今は昼間だ。

 鬼が活動する時間ではないし、7日目ともなれば狩られる鬼はすでに狩られている。

 とは言え、もう小一時間もすれば太陽が沈み始める。

 言うなればこれは、最後の夜に向けての腹ごしらえというところだ。

 

「お米があれば良かったんだけど」

 

 開始時点の説明を聞いて、ピンときた者が何人いただろうか。

 7日7晩の最終選別。合格条件は()()()()()ことだ。

 鬼を狩り尽くすことでも無ければ、剣技の優劣を決めることでも無い。

 7日の間、()()()()せずに生き残ること。実はこれが最も難しいのだった。

 

「ふわーあ。流石に眠くなってきたなあ」

 

 それから、睡眠。

 夜は眠れない上に、山中だ。鬼が陽光から身を隠す暗がりはいくらでもある。

 昼間だからと安心していると、暗がりに引き込まれて喰われてしまうだろう。

 だから瑠衣も、頭上に木々のない開けた場所で休んでいるのだ。

 瑠衣は1週間くらいなら眠らずに活動できるよう訓練しているが、他の子ども達はどうだろう。

 

 コン、と音がした。

 

 音がした方に目を向けると、当たり前だが、川辺が広がっていた。

 丸い石がいくつも転がっているが、音を立てるような物があるようには見えなかった。

 意識は、そうだった。

 だから、そこから先の動きは無意識。反射だった。

 

「うわっ」

 

 反射的に片手をついて側転したが、川石が滑ってバランスを崩してしまった。

 そのために着地を失敗し、半身を川の水で濡らしてしまった。

 水が跳ねる音と同時に聞こえて来たのは、何かを振り下ろして空を切る音だった。

 その「何か」を捉えたのは、その後だった。

 

「ちっ!」

 

 まず聞こえて来たのは、舌打ちの音だった。

 そして舌打ちに相応しい苦々しい表情。

 黒髪の少年が日輪刀を――いちおう、鞘には納めているが――振り下ろしていた。

 瑠衣は、その少年に見覚えがあった。

 ――――入山の時に肩をぶつけて来た、あの少年だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 外した、と、黒髪の少年――獪岳は、舌打ちした。

 小石を投げて注意を逸らして、タイミングも完璧だったはずだ。

 それでも外したのは、獪岳が獲物(瑠衣)の速さを見誤っていたということだ。

 

「貴方で2人目です」

「ああ?」

「いえ、3人目だったかな。たぶんですけど」

 

 瑠衣は立ち上がったが、身は低くしたままだった。

 自分よりもずっと小さく見える相手に、獪岳は肌のピリつきを感じた。

 意味のない会話をしながらも、彼の直感が、その動きに何かしらの脅威を覚えていた。

 そしてそれは、次の瞬間に現実のものとなる。

 

「私のご飯を()りに来たのは」

 

 一瞬、瑠衣の姿がブレた。

 そう思った直後、激しい水音が聞こえた。

 それは川の水が爆ぜた音で、音が遅れて聞こえて来たような気がした。

 身を低くした瑠衣が足元に現れて、獪岳は目を剥いた。

 

「なあ……ぐあっ!?」

 

 目では追えたが、驚愕が身体を硬直させた。

 その間に瑠衣は獪岳の襟を掴み、柔道の投げ技のようにその身体を地面へと倒した。

 頬を強かに地面に叩き付けられて、獪岳は呻いた。

 下手を打った。

 そう思っていると腕を捻り上げられて、あまつさえそのまま危ない方向に。

 

「ちょっ、待て待て待てっ!」

「はい?」

 

 顔を地面に押し付けられたまま、何とか後ろを見上げると、瑠衣が「何ですか?」と言わんばかりの表情で腕を捻り上げていた。それもかなり危険な方向に。

 

「それ、折れるだろうが!」

「折ろうとしていますので」

「いますので、じゃねえ! 夜になったら鬼が出るだろうが!」

 

 7日目の夜だ。鬼の数も減っているだろう。

 しかし7日目に残る鬼というのは、7日間斬られずに子どもを喰って来た狡猾な鬼か、あるいは食事にありつけずに飢えがピークに達している鬼だ。

 いずれにしても危険で、まして腕が折れた状態というのは、まさしく命に関わる。

 

「じゃあ、逆に聞きますけど」

 

 小首を傾げるその姿は、いっそ可憐だった。

 

「私を気絶させてご飯を奪った後、私が夜まで目を覚まさなかったらどうするつもりだったんですか?」

「…………」

 

 言われた獪岳は、何も答えることが出来なかった。

 実際、気絶した見ず知らずの少女を守って朝まで鬼と戦うなどという神経は、持ち合わせていない。

 そもそも、そんな神経を持ち合わせているのなら、こんなことはしていない。

 

(それにしたって、こんな平然と折りに来るか普通!?)

 

 獪岳が言うのもおかしな話だが、他人の腕を折ることに少しの躊躇もない。

 しかも鬼のいる山で。

 こいつは普通じゃない、と獪岳が考えた時だ。

 

「た……たすけて……」

 

 か細い声が、獪岳の耳に届いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 川辺に通じる森の出口に、みすぼらしい格好の子どもがいた。

 山中を逃げ回っていたのか、怪我をしているのか、袴は血と泥にまみれていた。

 不意に自分の腕が解放されたことに、獪岳は気付いた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 瑠衣が、その子どもを助けに行ったからだ。

 馬鹿だと思ったが、それを口にする前に、獪岳は森の暗闇から伸びる手に気付いた。

 死角から伸びるその手は瑠衣を掴むかと思ったが、空を切った。

 瑠衣がそれに掴まれる前に、子どもを掴んで後ろに跳んだ。

 

「あいつ、背中に目でもついてんのか……?」

 

 先程の自分の不意討ちの回避と言い、そうとしか思えなかった。

 

「不味いですね。ちょっと」

「はあ?」

 

 ばしゃっ、と川まで後退してきて、言った。

 その時はわからなかったが、獪岳も周囲の異様な空気に気付いた。

 それから、()

 飢えた獣のような、舌なめずりのような、そんな音が周囲から聞こえた。

 

「鬼か……」

「囲まれていますね」

「クソが」

 

 瑠衣は、適当な岩に助けた子どもを寄りかからせていた。

 おそらく選別参加者のはずだが、刀を持っていない。

 そして、川を挟んだ左右の森の中からは複数の鬼の気配。

 ギリギリ生きれる怪我の具合からして、()()として扱われていたのだろう。

 

 しかしそれにしても、鬼がここに集まっているのは何故だ。

 鬼は基本的に群れないはずだ。実際、過去6日間ではこんなことは無かった。

 と、獪岳がそんなことを考えていると。

 

「私達以外の生き残りがいないのでしょう」

 

 瑠衣が普通に言った。

 余りにもあっさりと言ってのけるのを、獪岳の方が耳を疑ったくらいだ。

 

「他に食べ物が無いので、食べ物があるところに来た。(けだもの)の考えることなんて、いつも同じです。そうでしょう?」

 

 皮肉のつもりか、と睨んだが、瑠衣の方は怯んだ様子も無かった。

 ただ岩に寝かせた子どもを背に刀を抜いていて、それについては。

 

「おい、どうするつもりだ」

 

 と、聞いた。

 それに対して、瑠衣はやはり普通に答えた。

 

「助けを求められましたから」

「おい……まさかとは思うが、その足手まといを庇いながら戦る気か?」

「貴方は逃げれば良いじゃないですか」

 

 いちいち癪に障る言い方をしてくる。

 逃げ場など、もはや無いとわかっている癖に。

 

「この人は私に助けを求めました。ならば私は煉獄家の娘として、全力でこの人を助ける責務があります」

 

 責務。そう語る少女の表情を見た時、獪岳は思った。

 やっぱりこいつは、()()()している、と。

 

「我が煉獄の(炎の)赫き技(呼吸)で、すべての鬼を斬り払ってみせましょう」

 

 ――――陽が、落ちようとしていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――翌朝、獪岳の目覚めは最悪だった。

 いよいよ沙汰が下される。そう思えば、寝覚めの悪さもやむを得ない。

 まして、最終選別の時の夢など見ればなおさらだった。

 

「……クソったれが」

 

 用意された朝食も、まともに喉を通らなかった。

 考えるのは、今後の身の振り方だった。

 きっと有罪になる。そういう確信があった。

 告発した刀鍛冶(小鉄)も、そして瑠衣も、自分を庇う利点が無い。

 

 自分を庇う者などいない。見ている者も、きっといないだろう。

 そう思うと、飯が喉を通るはずも無かった。

 最初は恐怖を感じていた。叫び出したいような、裁きへの恐怖。

 しかし次第に恐怖を押し退けて来たのは、怒りだった。

 何故。どうして。という怒りだった。

 

「「獪岳様」」

 

 だがそれも、いよいよという時には、やはり恐怖に負ける。

 白髪の少女2人がやって来ると、身を固くして、身体中から脂汗が流れて止まらなかった。

 

「昨夜は良くお眠りになれましたでしょうか」

「我が家の朝食は、お口に合いましたでしょうか」

 

 それでも、ひなきとにちかが世間話を振って来ると、やはり苛立った。

 人の運命を掌に載せて転がして楽しいかと、趣味の悪さを心中で罵った。

 そして同時に、お館様でも柱でもない、2人の娘を名代に寄越しただけという事実を、怪訝に思った。

 

「……どうやら、私共のお話はお気に召さないようですね」

「それでは、本題に入らせていただきます」

 

 ひなきが、懐から1枚の紙を取り出した。

 書状。あれに獪岳の処分が書かれている。

 己が唾を飲み込む音を、獪岳は確かに聞いた。

 

「獪岳様への沙汰は――――」

 

 

「――――特に、ございません」

 

 無罪です。

 実にあっさりと告げられた己の無罪に、獪岳は一瞬、頭の理解が追い付かなかった。

 

「お手間を取らせてしまいましたこと、誠に申し訳ございません」

「ちょ、いや……何で、俺を訴えた奴らは」

「確かに獪岳様への告発はございました。しかしながら、多くの方が嘆願をお出しになり、そのためお館様も沙汰なしとすることにしたそうです」

「嘆願?」

「はい。元柱の桑島慈悟郎様などが、獪岳様が鬼に与するようなことはあり得ないと」

 

 師範(じじい)が。

 複雑だった。

 最終選別を通ってから、ろくに連絡を取っていなかった。

 自分のことなど忘れているだろうと、そう思ってさえいた。

 

「……など?」

「はい。獪岳様の処分について嘆願された方は、他にも何名かいらっしゃいます。ただ、そちらは名を伏せてくれるようにと言われております」

「…………」

 

 先程とは別の意味で、汗が滲み始めていた。

 思い当たる顔は、いくつかある。

 しかしそのいずれにも、獪岳は救われたいとは()()()()()()

 

「……あいつは?」

「あいつ、と仰いますと」

「昨日来た……」

「瑠衣様ですね」

 

 頷くと、ひなきは「同じです」と答えた。

 

「瑠衣様も、獪岳様の無罪を信じていらっしゃいました」

 

 信じる?

 俺を? あいつが?

 そんなことはあり得ないと、胸中で思った。

 

「お館様よりも言伝がございます」

「獪岳様は、獪岳様が思われているよりも多くの人に……獪岳様?」

 

 あの時、最終選別の時。獪岳は、群がる鬼共を瑠衣と共に蹴散らした。

 共闘するつもりなど毛頭なかったから、別々に勝手に戦って、結果的にお互いが助かっただけだ。

 だが結局、あの時に助けを求めて来た子どもは死んでしまった。

 彼を傷つけた鬼も、元々生かしておくつもりが無かったのだろう。

 

 朝になって子どもが死んでいると気付いた時、瑠衣は悲しんだ風も無かった。

 いや、悲しんではいたが、()()()()()()()()悲しんでいなかった。

 瑠衣はあの時、こう言った。

 

『父様に怒られる』

 

 あいつは、煉獄瑠衣は()()()ではない。

 そのことに、どうして誰も気が付かないのか。

 そしてそんな奴に救われたということが、いかに屈辱か。

 それがどうしてわからないのかと、獪岳は唇を噛んだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 帰宅したのは、昨夜の遅くだった。

 昔を思い出したせいか妙に感傷的になってしまって、何をするにも気もそぞろだった。

 それでもいつも通りの時間に起きて家事をしてしまうあたり、習慣というのは恐ろしい。

 

「行ってらっしゃいませ、兄様」

「うむ! 行ってくる!」

 

 翌日の夕刻になると鴉が来て、杏寿郎が任務のために出立することになった。

 兄の支度を手伝っている間に千寿郎にも鴉が来て、瑠衣は俄かに忙しくなっていた。

 そして頭の片隅で、この自分まで報せが無いのであれば、獪岳は無罪放免だったのだろうと推測していた。

 

「千寿郎も、気を付けてね」

「はい! 行って参ります、姉上!」

 

 兄に羽織をかけた後、弟の隊服の襟元を直した。

 むず痒そうにする千寿郎に微笑を零すと、両手で頭を包むようにして、額にそっと唇を落とした。

 特に意味はない。自然とそうした。

 

「あ、姉上。それはちょっと、流石に恥ずかしいです!」

 

 案の定、千寿郎は恥ずかしがった。

 年頃だし、もう1人前の剣士だしで、色々な意味で気恥ずかしかったのだろう。

 幼い頃に母に同じされた記憶がおぼろげにあって、何となく、真似をしたかったのかもしれない。

 

「……兄様?」

「うむ! 次は俺の番だな!」 

「ええ……」

 

 何を思ったのか、杏寿郎が額を晒して身を屈めて来た。

 他意など全くない――というか、この兄に他意があった試しがないが――様子で、次は自分の番だと信じている様子だった。

 弟の千寿郎はともかく、杏寿郎に同じことをするのは、今度は瑠衣の方が気恥ずかしい。

 しかし、杏寿郎をずっと待たせるのも忍びなくて。

 

「んっ……」

 

 杏寿郎の額に、そっと唇を振れさせた。

 さっと離れた瑠衣の頬は、ほんのりと紅くなっていた。

 

「むう」

 

 杏寿郎はそのままの姿勢で、少し考えた後に。

 

「……面映(おもは)ゆいな! これは!」

「だ、だから言ったじゃないですか!」

 

 言っていない。

 

「お前達、何を騒いでいるんだ」

 

 そこへ、槇寿郎がやって来た。

 瑠衣が肩を跳ねさせたのは、よもや今の場面を見られてやしないかと、心配になったからだ。

 しかし槇寿郎は特に何かに言及することもなく、杏寿郎と千寿郎の方を見た。

 

「杏寿郎、千寿郎。任務だろう。刻限に遅れるぞ」

「はい! それでは父上、瑠衣。行って参ります!」

「行って参ります!」

 

 父と2人で、杏寿郎と千寿郎を見送った。

 それは何となく、珍しいことのような気がした。

 2人が任務に出かけると、屋敷もしんと静かになったように感じられた。

 

 2人――そうか、今夜は父と2人きりかと、ふとそんなことを思った。

 だからどうという話ではないが、それも、やはり珍しいような気がした。

 と、そんなことを考えていると。

 

「瑠衣」

 

 槇寿郎が、瑠衣に話しかけて来た。

 

「すまんが、酒を出してくれるか」

 

 だがその話の内容に、瑠衣は目を丸くした。

 何故なら、父は。

 

「……はい?」

 

 ()()()から、酒を断っていたから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 来客用の酒が残っていて助かった。

 槇寿郎の断酒以降、煉獄家には酒を嗜む者がいない。

 だから普段は出さないのだが、名家なりの備えというものだった。

 

「父様、お待たせしました」

「ああ、ありがとう」

「簡単ですがお刺身も。お夕飯の残りで申し訳ないのですが……」

「いや、十分だ」

 

 父は冷やが好きだった。

 縁側から動く様子がなかったので、瑠衣もそのまま隣に座った。

 お膳ごと手元に置くと、槇寿郎は酒杯に手を伸ばした。

 

「お注ぎします」

「すまんな」

「いえ」

 

 その酒杯に、お酒を注いだ。

 ()()()()と注ぐ音が、心地よかった。

 一息に仰いだ槇寿郎の喉元には、僅かに剃り残した髭が見えた。

 それを見て、瑠衣はほうと息を吐いた。

 

(かわいい……)

 

 空いた酒杯に、次を注いだ。

 静かな夜だった。

 空には綺麗な満月が輝いていて、庭を眺めながら、父と過ごしている。

 幸福な時間だった。

 この世に鬼がいるということを忘れそうだった。

 

「今日」

「はい」

 

 父の言葉は、短いことが多い。

 ただそれは言葉少なということではなく、頭の中では色々と考えていて、口から出てくる分が少ないだけだということを、瑠衣は良く知っていた。

 だから、瑠衣もただ返事を返す。静かに次の父の言葉を待った。

 そうしながら、時折、空いた酒杯にお酌をした。

 

「お館様から、正式にお許しが出た」

「はい」

「引退する」

 

 はっとした顔で、槇寿郎の横顔に視線を向けた。

 驚いた。

 しかし、納得もした。

 だから酒をと、そう言ったのか。

 

「おっと」

「あっ、ごめんなさい」

 

 酒杯から酒が溢れてしまった。

 槇寿郎は慌てて酒杯に口をつけて、瑠衣はお酒を置いて、槇寿郎の手を拭いた。

 布越しに、ゴツゴツとした、節くれだった手を感じた。

 

 この手が今まで、どれ程の多くの命を救って来たのだろう。

 幾百、幾千。いや幾万の鬼を斬って来たのだろう。

 そう思うと、胸の奥からこみ上げてくるものを堪えることが出来なかった。

 

「長らくのお勤め、本当に、えっと」

 

 父の手を握ったまま、上手く言葉を紡ぎ出せなかった。

 人は、いざという時は口下手になってしまうのかもしれない。

 

「ありがとう」

 

 父の言葉は、やはり短かった。

 

「炎柱は、杏寿郎が継ぐ」

「はい」

「杏寿郎なら、立派な炎柱になるだろう」

「はい」

 

 生きて鬼狩りを引退できる者は、そう多くはない。

 まして鬼狩りの名家・煉獄家となれば、なおさら稀有な例だ。

 

「でしたら、これからはずっとお家にいらっしゃるんですね」

 

 引退するということは、当たり前だが、任務(鬼狩り)には行かないということだ。

 余生を、というと大げさかもしれないが、家で静かに過ごすのだろう。

 もちろん隊士の鍛錬をしたり、小さな役目を頂いたりはあるかもしれない。

 けれど、もう現場に出張ることはない。

 危険な鬼狩りなどをすることは無くなるのだ。

 

「…………」

「父様?」

 

 酒杯を手の中で弄ぶ父に、声をかけた。

 遠い目で何かを考えている様子だった。

 今までの鬼狩りの人生を振り返っているのだろうか。

 そんな瑠衣の視線に気が付いたのか、槇寿郎が視線を動かした。

 

「後のことは、任せても良いか?」

 

 その言葉を聞いた時の気持ちを、どう言い表せば良いのだろう。

 言葉で説明できる類のことではなかった。

 空いた酒杯に、慌ててお酒を注いだ。

 

「はい……っ、はい! どうぞ、お任せ下さい。兄様も、千寿郎も、より一層煉獄家を盛り立ててくれるでしょう。及ばずながら瑠衣も、頑張ります。だから安心して、ゆっくり、お休みください……!」

「そうか……安心した」

「はい!」

「ああ、本当に」

 

 本当に、油断すれば涙が零れそうな程に、瑠衣は感極まっていた。

 ようやく槇寿郎に認めて貰えたような気がして、心の底から「頑張ろう」と、そう思えた。

 

「……安心した」

 

 この時、瑠衣は今までの人生で一番、幸福だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 久しぶりに抱いた娘は、随分と重くなっていた。

 はしゃぎ過ぎたのだろう。気が付いたら槇寿郎の膝に頭を乗せてうたた寝を初めていた。

 呼びかけても起きる様子が無かったので、そのまま抱き上げたのだった。

 子供の成長というのは、こういう時に感じるのかもしれない。

 

「……ととさま……」

 

 自室に運び、布団に寝かせると、昔の呼び方でしがみついて来た。

 寝ぼけて幼児返りでもしているらしい。

 こちらの着物を掴む手を外したあたりで、槇寿郎の動きがはたと止まった。

 着物を着たまま寝かせて良いものかと思ったが、それこそ幼児ではないのだから、自分が着替えさせるわけにもいかない。

 

 まあ、良いかと諦めて、そのまま座った。

 それからしばらく、娘の寝顔を眺めていた。

 瑠衣はあどけない顔で寝息を立てていて、こうして見ると、まだ子供のように思えた。

 思えば、昔はこうして良く子供達の寝顔を無心に眺めていたものだ。

 不思議といつまでも見ていられた。妻が呆れていたのを良く覚えている。

 

「ん……」

 

 やはり着物が寝苦しいのか、瑠衣は身体を横に向けた。

 襟元から覗く白い喉元が、緩やかに上下している。

 それを見つめて、槇寿郎は何事かを考えていた。

 

「…………」

 

 そっと手を伸ばして、その喉元に指先を振れさせた。

 温かい。生きているのだから、当たり前だった。

 指先から、娘の呼吸の音を感じる。

 多くの親にとって、それはきっと、幸福の音だろう。そう思った。

 

 しばらく、そのままでいた。

 すうすうと安堵の表情で眠る娘の顔を見つめながら、喉元に触れ続けていた。

 時計の音が、やけに部屋に響いていた。

 そして、槇寿郎が僅かに指先を動かした時だった。

 

「父様」

 

 不意に、瑠衣の唇が動いた。

 槇寿郎の動きが止まった。

 すると、瑠衣がゆっくりと目を開けた。

 ただその瞳は、月明かりに輝いているように見えた。

 

「父様、モシカシテ」

 

 ()()()の、瑠衣だった。

 彼女は槇寿郎の手に自分の手を重ねると、ゆっくりと撫でた。

 その瞳は、静かに槇寿郎を見つめていた。

 

「モシカシテ、私ヲ――――瑠衣ヲ」

 

 それを、槇寿郎は静かに受け止めていた。

 

「私達ヲ、殺シタイノ……?」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 人知れず獪岳の裁判が行われた、翌日。

 ある一報が、鬼殺隊全体に衝撃を与えた。

 

「え?」

 

 その報に触れた時、誰もがまず同じ反応をした。

 驚き、訝しみ、鴉に問い返した。

 しかし鴉は、同じ内容を復唱した。

 曰く。

 

 

 ――――煉獄槇寿郎、出奔す――――




最後までお読みいただき有難うございます。

何と言えば良いのか、主人公って苦しんでなんぼですよね(下種の発想)。
自分で生み出しただけに瑠衣の傷つくポイントがわかるというか(下種の極み)。
でもだからこそ、それを乗り越えた時の感動があると思うんですよ(下種の眼差し)。

それでは、また次回。
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