鬼滅の刃―鬼眼の少女―   作:竜華零

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第40話:「変化の兆し」

 その部屋には、薬品の匂いが漂っていた。

 実際、棚にはラベルの貼られた小瓶が何十と並べられており、机には試験管やフラスコといった実験器具、そして本棚には医学書らしき洋書がずらりと収められていた。

 そして部屋の中心には、とある女性がいた。

 

 長い黒髪を簪で留め上げた、美しい女性だった。

 血の気のない白磁の肌。しかし不健康というより、儚さの方が勝っていた。

 白衣姿。そして下には暗い色合いの着物が覗いている。

 そのせいか、淑やかで落ち着いた印象を受けた。

 

「……これは……」

 

 その女性は何かを調べている最中だったのか、顕微鏡を覗いていた。

 彼女は顔を上げると、手元の筆記帳に何かをさらさらと書き記していった。

 それから(ページ)を何度か()り、また戻った。それを2度ほど繰り返した。

 形の良い眉を考え込むように寄せて、口元に手を当てた。

 数分そうしてから、彼女は椅子の背もたれに手を当てて、声を上げた。

 

愈史郎(ゆしろう)

 

 瞬間だった。

 ドタバタと騒がしい音が――何だか階段を転げ落ちた時の音に似ている――したかと思えば、その音は部屋の前でいったん止まった。

 そこで何故か数秒の間が空いた後に、それまでの音に比べれば随分と控えめにノックがされた。

 女性が入室を許すと、部屋の扉が開いた。

 

「お呼びですか、珠世(たまよ)様」

 

 努めて平静を装っている、そんな声音だった。

 書生が着るような袴を身に着けているが、手に持っているのは掃除用具(はたき)だった。

 どうやら別の部屋の掃除をしていたらしいが、仮にそうだとすれば、先程の女性――珠世というらしい――の声量で、よくも聞き取れたものである。

 ()()()()()()()()

 

「ちょっと、これを見てくれるかしら」

「はい」

 

 珠世に促されて、愈史郎は先ほど彼女がしていたのと同じように、顕微鏡を覗き込んだ。

 しばらくの間ピントを調整しつつ観察していたが、不意に、はっとした表情で顔を上げた。

 

「珠世様、これは……!」

「ええ」

 

 おそらく自身と同じ結論に達しただろう青年に、珠世は頷いて見せた。

 

()()()()()()()()()

 

 チュンチュンと、小鳥の鳴く音が聞こえて来た。

 窓はすべて分厚いカーテンで仕切られていて、外の様子は窺えない。

 小鳥の鳴き声だけが、彼女達に夜明けを教えてくれたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 柱の人数が、8人になった。

 そしてすぐに、9人になった。

 

「それでは、煉獄杏寿郎様を正式な柱として――――炎柱として認めます。鬼殺隊を支える柱として、より一層のお力添えをお願い致します」

「はっ、拝命いたします!」

 

 夫の代理として柱合会議に出席したあまねが就任の文書を読み上げると、杏寿郎が大きな声で返答した。

 杏寿郎が立っているあまねに膝をついていて、他の8人はそれを後ろから見守っている、という状況だった。

 いつかこの日が来ることは誰もがわかっていた。が、()()()()になるとは考えていなかった。

 

(杏寿郎さん、緊張してて可愛いわ! でも……)

(……槇寿郎殿がこの場にいないとはな)

 

 煉獄槇寿郎が正式に炎柱の地位を返上し、その息子・杏寿郎が後任の炎柱を襲名する。

 煉獄家の長い歴史の中でも、生きて継承が行われる事例は稀だ。

 そして煉獄家と少なからぬ関りを持つ甘露寺そして伊黒にとって、それは僅かの寂しさと大きな喜びで迎えるべき出来事のはずだった。

 しかし今、2人の胸中は複雑なものとなっていた。

 

 先代炎柱の槇寿郎が、鬼殺隊を出奔したからだ。

 引退した身なのだから、何をするも自由だろう――――と言うには、槇寿郎は余りにも大き過ぎた。

 鬼殺隊にとって、重すぎた。

 それに加えて甘露寺と伊黒は、杏寿郎と、そしてその弟妹の心を慮って止まなかった。

 

(失うべきない人を失った時、人は変わる。変わってしまうものですが……)

(俺の親父は最低だったが、煉獄のおっさんはそういうタチじゃなかったからな)

 

 宇髄としのぶは、2人ほど感傷的ではなかった。

 ただ、人が変わる、という点において敏感だった。

 しかし背中を眺める限り、杏寿郎に変化は見られない。

 もちろん、内心など外側からわかるはずもないのだが。

 

「……南無阿弥陀仏」

「…………」

 

 悲鳴嶼と冨岡は、さらに難しい。表情がまともに動かないからだ。

 片方は氷のような無表情で、もう片方は常に涙を流しているが、何を考えているのかはわからない。

 

(父親、か)

 

 以前であれば空を眺め、雲や鳥を追っていただろう時透は、地面に目を伏せていた。

 そして、もう1人。

 

(まあ、父親に関しちゃ俺がどうこう言えやしねェが)

 

 不死川が考えていたのは、目の前の新たな炎柱のことでは無かった。

 いつだったか、自分に娘を「頼む」と頭を下げて来た槇寿郎と、その後ろに立っていた娘のことを思い出した。

 今まで特に思い出すことも無かったのに、何故か今、唐突に思い出した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 千寿郎は今まで、己の出自というものに拘ったことは無かった。

 それは、基本的には美徳だろう。

 しかし逆に言えば、無頓着だったとも言える。

 今まで、自分が()()()()()()()()()、ということに。

 

「おい……」

「あいつが……」

 

 鬼殺隊の隊舎を歩いていると、そこかしこから視線を感じるようになった。

 以前はそんなことはなかったし、あったとしても、こんな風にチクチクと肌を刺すようなものでは無かった。

 誰もが千寿郎に親切だったし、声をかけてくれた。

 

「あ、あの」

 

 だが、今はどうだ。

 千寿郎が声をかけると、誰もが言葉を濁して、そそくさと離れていく。

 ほとんどは愛想笑いを浮かべて。そして中には、負の感情を隠そうともしない者もいた。

 千寿郎は、困惑していた。

 

 周囲の人間の態度が変わったことはわかる。あからさまだったからだ。

 わかるが、しかしその理由がわからなかった。

 考えられることは、父の出奔だろう。

 けれどそれは、周囲の人間には関係ない……はずだ。

 

『しばらく家を空けるが心配するな』

 

 父が残した書き置きには、そんな趣旨のことが書いてあった。

 急なことだったし、動揺しなかったと言えば嘘になる。

 しかし兄は何も言わなかったし、父も1人になって何かやりたいことがあったのかもしれない。

 気長に父の帰りを待とう。そう気を取り直して、隊士の職務に戻った。

 それで、()()だった。

 

「煉獄君!」

 

 すると、千寿郎の声をかけてくる者がいた。

 振り返ると、同期の2人――知己と兵藤――がいて、兵藤が千寿郎に駆け寄り、知己は軽く手を上げて来た。

 

「煉獄君、その、大丈夫?」

 

 遠慮がちに聞いて来る少女に、千寿郎は己を叱咤した。

 女性に心配をかけるような顔を、自分はしていたらしい。

 だから千寿郎は、努めて笑顔を浮かべて見せた。

 

「はい、僕は大丈夫です!」

 

 素直だなあ、と、知己は思った。

 千寿郎は、人の()()()()()というものを知らないのだ。

 無理もないと、知己は思う。これまでの千寿郎は、人に恵まれ過ぎた。

 

 ちらと周囲を窺えば、隊士達が刺すような視線を向け、ヒソヒソと何事かを囁きあっていた。

 しかも今度は千寿郎だけでなく、彼に駆け寄った兵藤にも、だ。

 何という卑屈さ。そして悪意。

 

(人間というのは、どこでも同じか)

 

 鬼を倒し人を救う。

 立派なお題目だが、お題目で人は変わらないというのも、また真実だろう。

 

「でも……」

「本当に大丈夫です」

 

 なおも心配する兵藤にそう言った。実際、千寿郎は嘘は言っていなかった。

 知己達が変わらずに接してくれることが、嬉しかったからだ。

 そして、だからこそ彼が心配したのは、自分のことでは無かった。

 兄も、多分、大丈夫。けれど。

 

「僕よりも、姉上の方が……」

 

 姉は、()()()()()()()()

 思ってはならないことだったが、そう思ってしまった。

 父が出奔したと聞いた時から、姉は……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 人の良さという意味なら、炭治郎も千寿郎と良い勝負だっただろう。

 ただ炭治郎は、千寿郎より真っ直ぐで、剛直だった。

 だから周囲の人間の変化に対しても、戸惑いよりも憤りの方が強かった。

 

「やっぱり、反乱だって!」

「シッ! 声が大きいんだって、お前……!」

 

 道行く隊士達は、好き勝手な噂話に花を咲かせている。

 槇寿郎の出奔直後なのだから、仕方ないと言えばそうだった。

 だが、どんどん尾ひれがついて大きくなっていく噂は、炭治郎にはもはや荒唐無稽というか、妄想としか思えない領域にまで至っていた。

 

「いや、でも良く考えてみろよ! 恋柱様と蛇柱様は元々「煉獄派」だし、風柱様は炎柱様の子供の師匠だぜ。それに音柱様と霞柱様は一緒に上弦と戦った仲だ。炎柱様が旗揚げすれば、柱の半分がそっちにつくってことだぜ!」

「岩柱様がそんなことさせないだろ……」

「岩柱様は確かにお強いさ。でも炎柱様の方が上だろ。それに、ほら……炎柱様の方が()()だろ、色々と」

「それは、まあ……」

 

 そんな人達じゃない、と、そう言いたかった。

 柱達は、槇寿郎も含めて、我欲のために戦っているわけではない。

 何より、権力を求めて誰かを裏切るような人達ではない。

 炭治郎と禰豆子の裁判の時だって、悪意で接したわけではないと、今ならわかる。

 

 だがそれは、炭治郎が柱と交流してきたからこそ、わかることだとも理解していた。

 槇寿郎にはヒノカミ神楽の稽古までつけて貰った。

 柱と交流のほとんどない一般隊士が、色々と噂してしまうのは仕方ない。

 仕方ないが、憤りは隠せなかった。

 

「それにお館様だって、お前、ついていきたいと思うか?」

「どういう意味だよ」

「自分は戦わない癖に、剣士のことを子供達とか意味不明なこと言ってよ。子供だと思ってんなら戦わせるなよって話じゃん。それに遠くからちらっと見たことがあるけど、あの顔……」

「……ッ!」

 

 そこまできて、炭治郎は声を上げようとした。

 しかし、止まった。

 不意に、炭治郎の嗅覚が何かを捉えたからだ。

 

「おい……!」

 

 話を聞いていた隊士が、もう1人の肩を小突いていた。

 それで話は止まった。が、彼らは炭治郎を見てそうしたわけでは無かった。

 炭治郎が振り向いた先に。

 

「面白いお話をしていますね」

 

 瑠衣がいた。

 彼女は、笑顔を浮かべていた。

 しかし、何故だろう。

 炭治郎は、()()、と思った。

 

(この人は、本当に瑠衣さんなのか……!?)

 

「どうぞ、続けてください」

 

 何という、冷たい笑顔なのだろう。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 隊士達は、戸惑った表情を見せた。

 当然だろう。噂をしていた相手の1人が目の前に現れたのだから。

 しどろもどろになる彼らの前に、瑠衣は歩み寄っていった。

 その際に炭治郎の傍を通り過ぎたが、彼には見向きもしなかった。

 

「どうしました? 続けてください」

「あ、いや……その……」

「父の話ですよね。構いませんよ、気にしていません」

 

 瑠衣の歩みは、ゆっくりとしたものだった。

 緩慢とさえ言って良い。

 極端な話、背を向けて逃げれば逃げ切れる。そんな速さ。

 だが、その場にいる誰も、何故か動くことが出来なかった。

 

「どうぞ、続けてください」

「……あ……の……」

()()()()()()()

 

 やがて、瑠衣が本当に目の前に来た。

 相手の顔は青褪め、呼吸さえ苦しそうだった。

 対する瑠衣は、笑顔。

 

 美しい。完璧な微笑。しかし、完璧に過ぎた。

 小首を傾げて見せる姿は、可憐にさえ見える。

 その可憐さが、男の足をその場に縫い付けていた。

 その姿は。

 

「本当に構わないんですよ。何でも言って下さい。私はただ……」

 

 蛇に睨まれた、蛙。

 

「……貴方のお話に嘘や偽りがあった場合は、()()しなければならないな。と、考えているだけなんですから」

 

 止めるべきだと、炭治郎は思った。

 今の瑠衣は、明らかにおかしい。

 あの隊士が次に何を言うのかはわからないが、おそらく何を言っても()()()

 いや、何も喋らなくとも()()だろう。

 

(けど、どうすれば良い……!?)

 

 おそらく、瑠衣はそう長く待たない。

 だから止めるなら、今すぐに止めなければならない。

 だが今の瑠衣には、触れることさえ躊躇(ためら)われた。

 

「バウッ!」

 

 その時、犬の鳴き声がした。

 隊舎に犬などいるはずが無いのだが、確かに聞こえた。

 その犬は――足の長い筋肉質な犬――炭治郎の足元を擦り抜ける「うわっ」と、瑠衣の下へと走った。

 そうして足元に座り、ハッハッと舌を出して瑠衣を見上げた。

 

「……コロさん?」

「バウッ!」

 

 瑠衣がコロに気を取られた瞬間、隊士の男は背を向けて駆け出した。

 瑠衣が「あっ」と声を上げた時には、もう1人の仲間と一緒に角を曲がってしまっていた。

 脱兎の如くというのは、まさにああいう逃げ方を言うのだろう。

 

「いやあ~~迷ったあ~~」

 

 その時だ。コロの後を追って来たのか、見覚えのある男が姿を現した。

 ボサボサな金髪に手を突っ込みながら、彼は気だるげな笑みを浮かべて見せた。

 

「ごめんよう、蝶屋敷ってどこかなあ?」

「犬井さん!」

 

 炭治郎の声に、犬井は「やーやー」と手を上げてみせたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 負傷した鬼殺隊士は、基本的に蝶屋敷に担ぎ込まれる。

 蝶屋敷の場所がわからないということは、負傷したことが無いということだ。

 やはり犬井は凄い剣士だったのだと、炭治郎は思った。

 

「いやいやいやいや、するする。普通に怪我するよ。おじさん喧嘩弱いから」

「バウッ!」

 

 もっとも当の犬井自身は、凄まじい誤解を全力で否定した。

 ちなみにコロは主人に賛同したわけではなく、少し先へ走ってから発されたものだった。

 要は、「早く来い」という意味だった。

 それに対して頭を掻きながら、犬井は言った。

 

「おじさんがね、隊の施設ってあんまり使わせて貰えないだけだから」

「使わせて貰えない?」

「蝶屋敷とか、藤の家とかね。この間の刀鍛冶の里だって、コロの日輪刀の用事が無かったら入れて貰えなかったと思うよ」

「え、どうしてですか?」

「う~~~~ん。いじめ…………とか?」

「ええ!?」

「いやいやいやいや! 真に受けないでね!? おじさん別にいじめられてたりは……たりは……してない、よね?」

「そこで私に聞かれても困りますよ……」

 

 瑠衣は、炭治郎と一緒に犬井を蝶屋敷まで案内していた。

 コロが瑠衣の側を離れようとしなかったためで、まあ随分と懐かれたものだった。

 

「ところで本部が何かざわついていたけど、何かあったの?」

「え、いや、それは……」

 

 犬井は、悪意の全くない様子で首を傾げていた。

 その様子からは、鬼殺隊で起こっていることを本当に知らないのだ、ということがわかった。

 隊の施設を使わせて貰えないことと言い、奇妙だった。

 そこで、炭治郎はふと疑問に思った。

 

(あれ? じゃあ、どうして今ここにいるんだろう?)

 

 そんな奇妙な剣士が、今日に限って本部にいる。

 炭治郎の視線に気付いたのか、犬井は瑠衣の足元を指差して。

 

「コロがね、年だからねえ」

 

 と言った。

 もしかして犬井よりもコロの方が優先されているのだろうか、と、酷いことを考えてしまった。

 ただ犬井にそれを言うとあっさり肯定されてしまいそうなので、口には出さなかった。

 

「あ、着きましたよ。あそこが蝶屋敷……」

 

 そうして指差した先には、確かに蝶屋敷があった。

 あったのだが、その門にもたれかかるようにして、誰かが倒れていた。

 普段の炭治郎や瑠衣なら「大丈夫ですか!」と叫んで駆け寄るところだが、そうしなかった。

 何故ならば、()()()()()()()その顔に見覚えがあったからだ。

 

「あっ! こんなところにいた! 診察の途中で抜けられたら困ります、和泉さん!」

 

 蝶屋敷の中からアオイが飛び出してきてそう叫んだのは、きっかり10秒後のことだった。

 そして、それでも鈴音はすやすやと眠り続けていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「あら、久しぶりねぇ」

 

 蝶屋敷に入ると、榛名がいた。

 アオイと同じように、隊服の上に看護師の衣装を着ていた。

 車椅子で、膝の上に洗濯物を入れた籠を乗せていた。

 

 鬼との戦いで背骨に後遺症を得た榛名は、療養しつつ蝶屋敷の仕事を手伝うようになっていた。

 隊服を着てはいるが、剣士としての復帰はおそらく難しいだろう。

 それでも生来の穏やかさは変わることがなく、笑顔で迎えてくれた。

 

「アオイさん! 鈴音さんはどこへ運べば良いですか!」

こいつ(コロ)はどこへ連れて行けば良いかな?」

「どちらもしのぶ様のところです!」

 

 炭治郎達は、そのまましのぶのところへ行く様子だった。

 用事のないのは瑠衣だけ――本当は炭治郎もだが――で、榛名と会えたのは偶然だ。

 ただ、瑠衣の内心は複雑だった。

 何故なら、蝶屋敷にも父・槇寿郎の出奔の話は届いているだろうからだ。

 だから瑠衣は、久しぶりに会った榛名に対しても、何を話せば良いかわからなかった。

 

「安心したわぁ」

 

 言葉もかけず、ただ立ち尽くした。

 そんな瑠衣に近寄り、榛名はそっと手に触れて来た。

 指先に、榛名の温もりを感じた。

 

「元気そうで」

「……榛名さんも」

 

 その手を握り返すことは、しなかった。

 ただ、榛名が元気そうで良かったと思ったのは、本当だった。

 そこだけは、嘘は無かった。

 するとその時、背後に気配を感じた。

 

「うわっ……って、柚羽さん?」

「…………」

 

 割烹着に三角巾姿の柚羽が、無言で立っていた。

 右腕の部分が二の腕のあたりで縛ってあるのは、邪魔にならないためだろう。

 それから、喉には包帯を巻いている。

 そして、手元にはお櫃らしき物を乗せた荷台(ワゴン)があって。

 

「おにぎり、ですね」

「おにぎりねぇ」

 

 お櫃の中には、おにぎりがびっしりと入っていた。

 顔を上げると、片腕で親指を立てて来た。

 どうやら柚羽が作ったらしい。片手で。しかし瑠衣が作るものより形が整っていた。

 おにぎりに対して、執念が凄すぎる。 

 

「食べないのぉ?」

「ええ、ここ玄関ですよ。ああ、もう、わかりましたから」

 

 ぐいぐいと台を押してくる柚羽に根負けして、1つ手に取った。

 しっかりと、それでいて米の柔さを感じる適度な握り。白くて艶もある。

 美味しそうだと、素直にそう思った。

 

「いただきます」

 

 口に入れると、米の甘味と塩の味がした。

 美味しいと、やはり素直にそう思った。

 

「あ」

 

 と、思わず声が出た。

 ひとりでに瞳から零れたものが頬を伝い、唇に触れたからだ。

 おにぎりとは別の塩気を自覚すると、それが止めどなく続くことにも気付いた。

 

「う、う」

 

 そんな瑠衣を、柚羽が覗き込んでいた。

 美味しいですかと聞かれているような気がして、瑠衣は二口目を口にした。

 塩の味が、より強くなった気がした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 洗面所を借りて、顔を洗わせて貰った。

 顔を上げると、鏡の中から自分が見つめていた。

 思ったより酷い顔をしていると、その時になって、初めて気が付いた。

 

「酷い顔をしていますね」

 

 実際、人にそう言われた。

 

「蟲柱様……花柱様」

 

 そうしていると、しのぶがやって来た。

 彼女はカナエの車椅子を押していて、見回りか回診の最中だろうか。

 瑠衣が頭を下げると、構わないと言うようにカナエが首を振った。

 カナエは厳密にはもう柱ではないが、人は変わらず「花柱様」と呼ぶ。

 

 もっとも、ここ蝶屋敷において胡蝶姉妹は立場に関わらず「様」と呼ばれる。

 それは彼女達こそが、ここの責任者であると誰もが知っているからだ。

 ここ蝶屋敷に限定するのであれば、胡蝶姉妹の権威はお館様さえ凌ぐかもしれない。

 組織としては危険極まりないが、そうならないのが鬼殺隊であり、産屋敷一族なのだった。

 

「何でしたら、ここにいても構いませんよ」

 

 そんな言葉に、瑠衣は顔を上げた。

 顔を上げると、カナエの優し気な視線とぶつかった。

 言ったのはしのぶだが、これはカナエの言葉だと何故か理解できた。

 

 他の誰かなら、あるいは侮辱と捉えたかもしれない。

 しかしカナエの目を見てそれを侮辱と捉えるのは、()()()()()()()

 だから瑠衣は、静かに首を横に振った。

 

「ありがとうございます」

 

 何故ならば、自分はまだ休む必要がないからだ。

 だから、蝶屋敷にいる必要はない。

 そんな瑠衣の気持ちを察したのだろう、カナエは小さく頷いた。

 そしてその上で、何かを差し出して来た。

 

「ああ、もう。姉さん」

 

 珍しく、しのぶの声音には咎めの色があった。

 額のあたりに手を当てて、嘆息までしている。

 瑠衣が何だろうと思って見てみると、カナエは一冊の本を差し出していた。

 さほど分厚い本というわけではないが、表紙には外国語が見えた。

 

「これは?」

「……その、ですね。あー……詩集です」

「詩集、ですか?」

「姉さ……姉が、最近熱中していまして。蝶屋敷(ここ)では他に読む人がいないので、屋敷の皆や患者の隊士に勧めて回っているんです」

 

 詩集。花柱だけに親和性が高いのかもしれない。

 そんな馬鹿なことを考えつつ、ニコニコと差し出されている詩集を眺めた。

 しのぶを見た。「断っても良いんですよ」と目が言っていた。

 

 視線を戻す。やはりカナエはニコニコと笑っていた。

 この笑顔に「否」と言える人間が、はたしているだろうか。

 ――――その夜、瑠衣は辞書を片手に必死で詩集を読む羽目に陥ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 犬井と老犬コロの付き合いは長い。

 彼が16の頃、父親がどこぞから連れて帰って来た。

 もっとも、その時には犬井の家は近所でも有名な犬屋敷であったため、不意に1匹や2匹増えることは日常茶飯事だった。

 ――――鬼によって家族が全滅した時も、コロは犬井の傍にいてくれた。

 

 そして犬井が鬼殺隊に入った後も、それは変わらなかった。

 当初犬井はコロを連れて行く気は無かったが、コロの方が犬井から離れなかった。

 親の血のせいか、犬の方が寄って来るのも同じだった。

 お館様の計らいで与えられた屋敷には、今でも十数匹の犬が住み着いている。

 つまり犬井とコロは、強い絆で結ばれているのだった。

 

「きゃあああ~かわいい~~!」

 

 しかしその絆は今、危機に瀕していた。

 その夜、犬井は蝶屋敷に個室を与えられたのだが、案内に着けられた看護師が大の犬好きだったのだ。

 そして瑠衣の例からもわかるように、コロはサービス精神が――主に女性に対して――旺盛な犬だった。

 まあ、何が言いたいのかと言うと、コロは女性看護師に対して全力で愛想を振りまいていた。

 犬井(主人)そっちのけで。

 

「バウッ、バウッ、くう~ん」

 

 この野郎、と犬井は思った。

 犬井はコロと出会っての10年余りで、彼が自分に対して「くう~ん」などと媚びる姿なぞ見たことがなかった。

 それが今はどうだ。女性看護師に抱っこされて尻尾を振っている。

 繰り返すが、犬井(主人)そっちのけで。

 

「あ、お部屋はこちらになります」

「いやー、ありがとう。蝶屋敷って広いねえ」

「隊士の方が多く入院するの「くう~ん」きゃああコロちゃんかあわいいねえ~」

「……あっはっはっはっ。じゃあコロ~? 部屋に入ろうかあ~「バウッ」あっ、わいっ。あまりなしゃんな! こっちん来い馬鹿ッ!」

 

 犬井は女性看護師から丁寧かつ強引にコロを受け取ると、そのまま貼り付けたような笑顔で部屋の中に入って行った。

 扉の向こうで人と犬の鳴き声――比喩ではない――が聞こえてきて、女性看護師はクスリと笑った。

 犬井の受け止め方はともかく、仲が良いなあと微笑ましく思っている様子だった。

 あるいは可愛いと思っていたのは、コロのことだけでは無かったかもしれない。

 

「わっ、もう真っ暗……」

 

 通路を歩きながら窓を見ると、外はすっかり暗くなっていた。

 外が余りにも暗いので、窓ガラスに自分の姿が映っていた。

 (コロ)と戯れていたせいか、髪が少し乱れていた。

 

 乱れを直そうと、そっと髪に手をやった。

 窓に映る自分は、()()()()()()

 え、と思わず声を漏らした。

 そして手の感触から、髪に乱れがないことも理解した。

 

「え?」

 

 乱れではない。動いていた。

 ()に映る自分の髪が、まるで蛇か何かのように、蠢いていた。

 いや、そもそも、それは()()()()()()()()

 

「ひ」

 

 ――――肉が、潰れる音がした。




最後までお読みいただき有難うございます。

あれ、このままだと柱稽古ないんじゃ…。
ないんじゃ死ぬんじゃ…。

……まあいいか(おい)
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