――――何もかもが、暗闇の中だった。
どこへ向かえば良いのか、何を探せば良いのか、何もわからなかった。
鬼舞辻無惨を見つけ出すというのは、そういうことだった。
少なくとも産屋敷耀哉という男、いや産屋敷一族にとってはそういうことだった。
そして暗闇の中での唯一の手掛かりが、
無惨直属の配下の動きを追えば、根元に辿り着けると考えた。
だが、そう甘くは無かった。
何故ならば鬼舞辻無惨という男が、想像以上の
「……
けして、自分から危険に飛び込むことは無い。
自分1人は安全な場所にいて、息を殺して隠れている。
部下が何人殺されようと、髪の毛一筋さえ動くことは無い。
自分と鬼舞辻無惨は同じなのだと、産屋敷は思う。
だから、理解していた。
どうすれば鬼舞辻無惨が動くのか、それを理解していた。
「本部の場所がわかれば……私の居場所がわかれば……」
その時は、躊躇なく来る。
何故なら、臆病だから。
勇敢なのではない。臆病だからこそ来るのだ。
一刻も早く、目の前で、不安の種を取り除きたくて。
「来ると、思っていたよ……無惨」
「――――何を言うかと黙って聞いてみれば、想像以上につまらなかったな」
いつの間に、そこにいたのだろう。
枕元に立つとは、まさにこのことだろう。
全身を包帯で巻かれ、布団から起き上がることも出来ない産屋敷のそばに、無惨が立っていた。
2人を遮るものは、何も無かった。
今、無惨が指先を動かせば、それだけで産屋敷の首は宙を舞うだろう。
「そして何より、千年に渡って私に不快な思いをさせて来た一族の長が、貴様のような半死人だとはな。いや、もうほぼ死体と変わらない臭いがするな」
「そう、だろうね。私は医者からは、いつ死んでもおかしくないと言われているからね……」
壊れかけの笛のような呼吸音で、産屋敷は言った。
「それも、きみを倒したいがためだ……無惨」
「その儚い夢も今日限りだ、産屋敷。鬼狩りは今日で潰える」
「終わらないさ。人の想いは絶対に終わらない」
「…………まあ、良い」
産屋敷と無惨。
千年に渡る両者の関係は、結局のところ、どちらかが滅びるまで終わらない。
「結果は、すぐにわかる」
そして、その時は近い。
そう、思えたのだった。
◆ ◆ ◆
何もないところから、
その姿を認識した時、炭治郎は叫んだ。
だがそれよりも速く、閃光が走った。
――――血鬼術『破壊殺・乱式』。
閃光は、すべて単純な拳打だった。
しかしその拳は、一撃で人体を砕き割ってしまう。
炭治郎の警告よりも数瞬早く、
視界を舞う真っ赤な血肉に、炭治郎は歯噛みした。
「……は?」
「何だ、てめえ!」
炭治郎に続いて、善逸と伊之助も敵の姿を捉えた。
そこにいたのは、全身に刺青のような紋様が刻まれた鬼だ。
その鬼を、炭治郎は知っていた。
あの無限列車で姿を見せた、上弦の鬼だ。
「猗窩座……!」
名を呼ぶと、猗窩座はこちらを見た。
その瞬間、炭治郎はその場から動けなくなった。
善逸も伊之助も同じだった。
猗窩座の一睨みで、両足が釘で地面で縫い付けられたかのように固まってしまったのだ。
違う。以前の猗窩座とは何かが違う。
匂いで、音で、肌で、炭治郎達はそれを察した。
それは同時に炭治郎達の実力の高さを示してもいたが、この場合はそれが不幸だったかもしれない。
ただ一方の猗窩座は、炭治郎達を一瞥しても、何ら表情を動かさなかった。
「……どこだ」
「何?」
ただ、一方的に言って来た。
「あの女は、どこだ……!」
「ああ? あの女って誰だよ!」
伊之助は食って掛かったが、炭治郎にはすぐにわかった。
猗窩座が探している「女」は、1人しかいないはずだったからだ。
それはあの時、猗窩座の頚を
「……教えない」
日輪刀を抜いて、炭治郎は言った。
「お前に、瑠衣さんの居場所は教えない!」
「正直かお前!」
そういうことは、気付いても言わないものだろうと善逸は思った。
それでは、瑠衣が
しかしそれを言うのが炭治郎なのであって、その点は仕方ないとも言えた。
善逸にとって問題なのは、猗窩座の発する鬼気が、今まで出会ったどの鬼よりも強い、ということだった。
「そうか」
善逸にとって想定外だったのは。
「ならば死ね」
猗窩座の速さが、予想を超えたものであったこと。
そして彼が最初から、炭治郎の頭を砕きに行ったことだった。
反応できない。炭治郎が死ぬ。思考だけが追い付いた。
――――霞の呼吸・肆ノ型『移流斬り』。
だから、滑り込むような斬撃が猗窩座の拳を叩かなければ、炭治郎は頭部を失っていただろう。
拳を打たれた猗窩座が退がり、代わりに隊服の背中が視界に入って来た。
「時透君!」
「まだ無事?」
霞柱・時透無一郎。彼は床に転がった隊士達の死体を見ると、猗窩座を睨みつけた。
「気を付けて! 上弦の鬼だ。そいつは拳法を使う!」
「拳法か。ちょっと厄介だね。ちょっとだけど」
もちろん、時透も猗窩座の強さは一目で見抜いた。
拳法を使うという炭治郎の言葉も、相手が「単純に強い」ということを示すものだ。
異能奇策を用いる他の鬼と比べると、それだけ厄介さは増してくる。
そして炭治郎は、時透だけでは厳しいと感じた。
猗窩座は元々、柱よりも強い。それがさらに強くなっている。
自分達を含めてもなお、その強さに対応できるかわからなかった。
せめてあともう1人、誰かがいたなら。
「……オイオイオイオイ」
その時だった。
炭治郎達がいるのとは反対側の通路から、日輪刀を肩にトントンと当てて、男がやって来たのだ。
「騒がしいから来てみれば。一体全体、どういうことだァ?」
あ、と炭治郎は声を上げた。
気のせいか、禰豆子も髪の先端をピンッと反応させている。
そこにいたのは、不死川だったからだ。
「何だァ、てめえはァ」
あともう1人が来た。炭治郎はそう思った。
◆ ◆ ◆
これはまた立派な御仁だ、と、犬井は思った。
煉獄邸に身柄を移されて、その夜のことである。
「あー、厄介になります」
「うむ! 事情は瑠衣から聞いている! 自分の家と思って寛ぐと良い!」
厄介になる以上、家主への挨拶は当然。
槇寿郎不在の今、煉獄邸の家主と言えば杏寿郎だ。
犬井の方が年上だが、こういう場合は年齢は関係ない。
それに杏寿郎の佇まいは、20歳そこそこにしてすでに威厳さえ備えていた。
(やー、この年の頃には、おじさんなんて全然だったなあ)
やはり、
見ていてもわかるし、何より瑠衣の慕いようだ。
あまりにも差があり過ぎると嫉妬の念も湧かないものかと、そんなことさえ思った。
「時に犬井殿は食べ物の好き嫌いはあるか!」
「え? いや、特には無いかなあ」
「それは素晴らしいことだ! 瑠衣の飯は美味いぞ! 楽しみにしていると良い!」
少々、お互いへの感情の矢印が太すぎやしないだろうか。
犬井はふとそんなことを思ったが、それを口にしないだけの慎ましさは彼にもあった。
「……何か、兄様が余計なことを言っているような気がします」
「え、何ですか急に」
瑠衣と千寿郎は、厨で夕飯の支度をしていた。
非常時という意識があるためか、日輪刀は携行していた。
今さら刀一本で動きが阻害されることも無いので、特に生活や料理に支障は無かった。
「千寿郎、火を見ててくれる?」
「あ、はい。わかりました」
竹筒を千寿郎に渡して、瑠衣は立ち上がった。
ずっと窯の火の側にいたからか、額には汗が滲んでいた。
それを手の甲で拭いつつ、水甕の蓋を開けた。
少しはしたないが、そのまま直接顔を洗った。
不思議なもので、任務でどれだけ過酷な環境に身を置いても疲れることはないのに、数人分の料理を作るのに休憩を求めてしまうのだ。
こればかりは、疲労の種類が違うということなのかもしれない。
ふう、と息を吐いて、手拭いで顔を拭った。
「あ、そう言えばコロさんはどこに……」
先程まで、やけに瑠衣のそばについて回っていたのだが。
そう思って、水甕に蓋をしようとした時だった。
ふと、
水面に映り込んだ自分と、目が合った。
いや、違う。これは
しかし何故、
「せ――――」
瑠衣が声を上げるよりも、彼女の顔を掴む
引きずり込まれる瞬間、瑠衣に出来たことは、水甕の蓋を放ることだけだった。
◆ ◆ ◆
――――日輪刀を携えていなければ、おそらく死んでいた。
引きずり込まれた瞬間、刀を抜いていた。
長鞘に納めるのではなく、普通に小太刀を2振り腰に差していた。
眼前を斬り払うと、見えはしなかったが、肉と骨を断つ独特の感触が伝わって来た。
「ギャッ」
同時に、鬼の――この状況で鬼でないわけがない――悲鳴が聞こえた。
しかし引かれる力は如何ともし難く、受け身のタイミングも測れずに
ただ幸か不幸か、すぐに地面があるというわけでは無かった。
まず感じたのは生温い水の感触だった。
すぐに地面に達する程に浅いが、高さと勢いはそれほどでも無い。
そのおかげで、受け身なしで固い地面に激突するということは避けられた。
「ぐっ……ごほっ、ごほっ」
生温く、また生臭く、微かに粘り気がある水。
口の中にまで入って来たそれを吐き出しながら、未だ顔を掴む手首を引き剥がした。
すると、さらに生臭さは増した。
まるで鉄錆のようなその臭いに、瑠衣は覚えがあった。
「これって……」
それは、血だった。
足首ほどの深さの血の池。そこに瑠衣はいたのだった。
血だと認識した瞬間、強烈な吐き気を覚えた。しかし堪えた。
「うう……痛い……酷い……」
血の池の中に、金髪の、幼い少女が蹲っていた。
すでに再生した腕を抱えて「痛い痛い」と呻いている。
その間に周囲を確認したが、血の池には果てが見えなかった。
心なしか空気も澱んでいる。呼吸がしにくい。
『空間系ノ血鬼術ダヨ』
(言われなくともわかってますよ……!)
起きたらしい姉が、頭の中で声をかけて来た。
しかし、危機的な状況なのは確かだ。
何故ならば、目の前の鬼の血鬼術の中に取り込まれたことを意味するからだ。
そして同時に理解した。蝶屋敷で看護師を殺したのは、この鬼だ。
「……許さない……許せない……」
鬼が、顔を上げた。
そこにいたのは、やはりあの時の――刀鍛冶の里で垣間見た、あの鬼だった。
しかしその両の瞳には、あの時には無かった数字が刻まれていた。
(上弦の陸!? もう補充されたの……!?)
可能性としては、無い話ではない。
だがこんなに早く補充されるとは思わなかった。
自分達が思っている以上に、鬼の層が厚かったということなのか。
「
「はあ?」
しかもこの鬼、亜理栖というのか、言っていることが支離滅裂だった。
いったい、何の話をしているのか。
『来ルヨ、瑠衣』
「ああ、もう! わかってますから、いちいち言わないでください!」
毒吐きつつも、危機は理解していた。
ここは、
すべてが亜理栖の意のままになる空間で、瑠衣の方が異物なのだ。
そして、異物は排除されるものだった。
「血鬼術……!」
――――血鬼術『鏡写しのお家』。
◆ ◆ ◆
その鬼を前にした時、カナヲは全身の産毛という産毛が逆立つのを感じた。
この鬼に比べれば、今まで倒してきた鬼など赤子も同然だと、そう思った。
上弦の鬼とは、目の前に存在するだけでこうまで
「とりあえず初めまして、俺は
「な、悩み?」
「うん。俺はね、万世極楽教っていう宗教の教祖をやってるんだ。聞いたことあるかな? まあ無いよね、100人くらいの小さな宗教だし」
童磨という鬼は、のべつ
内容は、まあ、どうでも良いことばかりだ。
少なくとも、カナヲにとってはどうでも良い内容だった。
コインを投げて決めるまでも無く、聞く必要が無い。
この場におけるカナヲの使命は、2つしかない。
1つ、アオイを守る。
2つ、目の前の鬼を倒す。
ああ、いや、訂正する。やはり1つだ。それはどちらも同じ意味だからだ。
「
――――花の呼吸・伍ノ型『徒の芍薬』。
瞬きの間に9つの斬撃。
余りにも時間差なく放たれる斬撃は、まるで広がる花弁のようだった。
その鮮やかさに、斬られる側の童磨も「おお」と声を上げた。
「凄い凄い! 鮮やかで速いねえ」
その剣を、童磨は両手に持った扇で迎え撃った。
正確に表現するなら、迎え
カナヲの放った攻撃の全てを、わざわざ1つ1つ、正確に合わせて打ち落としたのだ。
相手を褒めながら、平気な顔でそれ以上の強さの攻撃で返してしまう。
こちらを舐めているとしか思えない。まさに
「ぐっ……!」
腕の痺れに顔を顰めながら、弾かれた勢いには逆らわず、天井に着地した。
「あはっ、待て待て~」
当然、童磨はカナヲを追撃してくる。
カナヲはそれをしっかりと見ていた。
(あれは何?)
見ていたが故に、童磨の周囲に発生し始めていた
咄嗟には、それが何かまではわからなかった。
しかしそれが、厨という閉鎖的な空間で放って良いものでは無いことは理解した。
「アオイ! 逃げて!」
逃げ場など無い。
わかっていたが、思わず叫んだ。
その叫びに、アオイが実際に反応しようとしたその刹那。
童磨が、扇を振り下ろした。
「うちの子達に触るな、下種が」
廊下から、扉を突き破って、踏み込みの勢いのままに突きを放ったのだ。
「し……」
「しのぶ様あっ!」
しのぶの乱入に、カナヲとアオイが声を上げた。
そして童磨はと言えば、腕の痛みよりも、視界に広がる蝶の羽織の方を気にしていた。
あれ、どこかで見たことあるな、と。
◆ ◆ ◆
胡蝶しのぶは、鬼の頚を斬れない。
体格が小さく、腕力が足りないからだ。頚の肉と骨を断つ力は無い。
代わりに彼女が鬼を討つために考案したのが、毒だった。
鬼が藤の花を忌避する習性を利用した、毒の剣技。
しのぶはその剣技を研鑽し、下弦の鬼でさえ討ち倒す程に昇華した。
しかしその毒も剣も、上弦の鬼に撃ち込むのはこれが初めてだった。
「うーん」
それはちょうど、新鮮な肉を食べた後に、残った脂を舐め取る行為に似ていた。
もっとも舐めているのは、毒を含んだ自分の血だったのだが。
「面白いねえ! これが毒かあ。初めて喰らったけど癖になりそう。その鞘の中で調合しているのかな?」
結論から言えば、しのぶの毒で童磨を殺すことは出来なかった。
童磨は受けた毒を即座に分析し、同時に体内で分解してしまったからだ。
その時間は、
下弦以下なら即死する毒を撃ち込まれて、平然としている。
「……まあ、そうですね」
日輪刀を鞘に納めながら――童磨の言う通り、しのぶは鞘の中で毒の調合を変えている――しのぶは言った。
「良いですよ。ここまでは、想定通りですからね」
元々、毒の一発で討てる鬼だとは思っていない。
「ところで、お前。この羽織に見覚えはあるか?」
「うん?」
言われて、童磨は何度か目を瞬かせた。
そして、不意に何かを思い出したように手を打って。
「ああ! あの花の呼吸の女の子が着ていた羽織だね! 優しくて可愛い子だったなあ。良い子だったし、救済してあげたかったんだけど、途中で邪魔が入っちゃってねえ」
かつて、姉のカナエはこの童磨に遭遇したことがあった。
とある任務帰りの、不意の遭遇だった。
そこでカナエは襲われ、引退を余儀なくされる程の重傷を負った。
姉を救ったのは、槇寿郎だった。
あの頃の槇寿郎は、新人の柱の教育係のような立ち位置にいた。
悲鳴嶼以外の柱は半年と保たずに死ぬので、いつしかそういうことになっていた。
槇寿郎がいなければ、カナエは死んでいただろう。
「お前のせいで、姉は不自由な体になった」
「ああ、そうなのかい。それは可哀想に。大丈夫だよ、ちゃんと救ってあげるから」
カナヲとアオイは、カナエの負傷の原因のことを聞いていなかった。
いや、鬼との戦いで負傷したとは聞いていた。相手が上弦というのも察していた。
ただそれが、童磨だとは知らなかった。
そしてしのぶは、それをカナヲやアオイに知らせる気は無かった。
知らせたくなかったと言っても良い。
それはカナヲ達のような純粋な子供達に、童磨という汚らしい単語を聞かせたく無かったからだ。
姿を見せる気も、さらさら無かった。しかし不幸にも、目の前に現れてしまった。
「お前を殺す方法を、色々と考えていました」
「へー、そうなんだ! うーん、でもそれは無理だと思うなあ。俺って強いし。きみ、お姉さんより弱いでしょ? 見ればわかるよ」
現れてしまったのなら、カナヲ達の記憶に残らない内に。
「おお?」
え、とカナヲは思った。
しのぶはカナヲとアオイを背中に庇っていたのだが、調理台の上に置きっぱなしだった調理包丁を掴むと、それを投擲した。
何をと思ったが、それは童磨も同じで、彼はそれを避けようともしなかった。
何に遮られることもなく、包丁は童磨の胸の真ん中に突き刺さった。
「……やあ、凄い精度だね。でも、これじゃあ」
じゅう、と、微かに何かが焼ける音がした。
それが自分の身体から発された音だと気付いた童磨は、視線を落とした。
そこには突き立った包丁があり、そして、
当然、ただの包丁で焼けたりはしない。鬼の肉体を焼く刃。それはつまり。
「日輪刀と聞いて、刀を思い浮かべる人が多いですが」
まさか、と、童磨は思った。
顔を上げると、しのぶの手には包丁やら食器やら、
「
つまり、と、それら全てを投擲しながら、しのぶは言った。
「
熱烈だなあ、と、童磨は思った。
そこまで自分を思ってくれていることに感激したし、そして何より、それで自分を殺せると思っていることに対して、彼はこう思ったのだった。
可愛いなあ、と。
◆ ◆ ◆
鴉が、緊急事態を告げて回っていた。
下位の隊士達は明らかに浮き足立っていて、戦力としては使い物になりそうに無かった。
いや、仮に冷静だったとしても、上弦の鬼を相手に戦力になどはなれなかったか。
――――蛇の呼吸・伍ノ型『
何よりも問題なのは、鬼殺隊の本部中にうじゃうじゃといる
すべての「伍」という数字が刻まれている。
上弦の鬼の血鬼術であることは明らかだった。
「ちっ、キリが無いな」
伊黒が舌打ちした通り、この目玉は次から次へと湧いて出た。
もはや隠す気が無いのか、姿を見せることで混乱を助長しようとしているのか、あるいはその両方か。
いずれにしても、5匹や10匹程度を斬っても意味が無かった。
「伊黒さん!」
そうやって伊黒が目玉を斬っていると、甘露寺がやって来た。
甘露寺も目玉を斬っていたのか、すでに刀を抜いていた。
「甘露寺、無事だったか」
「ええ、でも上弦の鬼が襲撃してきたって……!」
「まずは冷静になろう。襲撃されているところはわかるか」
鴉による連絡は断片的で、情報にまとまりが無かった。
情報が錯綜していて、戦力をどこに向けるという話にもなっていなかった。
鬼殺隊全体が混乱しているのだと、否が応でも理解した。
「今のところ、本部隊舎の方と蝶屋敷の方に出てる。それと、煉獄邸だな」
「きゃっ。あ、宇髄さん」
「おう」
まさに音もなく、宇髄も現れた。
どうやら宇髄は――本職らしく――情報収集に努めていたらしい。
その結果、彼は少なくとも3体の上弦の鬼が乗り込んできていることを掴んでいた。
本部隊舎と蝶屋敷は何となくわかるが、煉獄邸というのは良くわからなかった。
しかし、逡巡している暇は無かった。
最大戦力である柱が、3人もこんな道端でじっとしているわけにはいかない。
これは、鬼殺隊壊滅の危機なのだから。
「甘露寺は蝶屋敷の方を頼む。俺は……」
「本部隊舎の方は俺が行く。お前は煉獄邸の方に行きな」
「……わかった」
「はい!」
甘露寺を蝶屋敷に向かわせたのは、蝶屋敷が女所帯で、甘露寺がしのぶ達とも仲が良かったからだ。
カナエはともかく、伊黒と宇髄はそこまで蝶屋敷の面々と気心が知れているわけではない。
そして残り2択で煉獄邸を伊黒に任せるあたり、宇髄は良く人を見ていた。
流石に宇髄と言うべきか、と、若干の複雑さと共に伊黒は思った。
◆ ◆ ◆
「瑠衣はここでいなくなったんだな?」
「はい」
瑠衣が姿を消したことに気付いたのは、当然ながら、千寿郎だった。
普段なら、どこかに何かの用事でもあったのかと思うだろう。
しかし姉が夕飯の支度の真っ最中に厨を離れたことは今まで無かったし、何より、
何かがあったのだ。千寿郎は本能的にそう察した。
察しはしたものの、彼は対応策まではわからなかった。
数瞬の逡巡の後、千寿郎が選択したのは「兄を呼ぶ」ということだった。
そして実際のところ、それが取り得る選択肢の中で最上のものと思えたし、事実そうだったからだ。
「振り向いたら、いなくなっていて」
「ふむ」
厨の、水甕の前。おかしなところは無い。
周囲も、至って変わったところは無い。
(しかし、瑠衣は消えた。蓋を放り投げて、
瑠衣の危機では無い。千寿郎の危機だ。あれはそういう娘だ。
つまり、脅威は未だこの部屋にある。
どこにあるのか。
当然、瑠衣が直前に
杏寿郎は、穴を開けるかのように水甕を凝視していた。
甕の中では、水面が揺らいでいるだけだ。
杏寿郎は、その水面をじっと見つめていた。
「兄上……?」
千寿郎の目には、何かがあるようには見えなかった。
しかし兄の目は、確かに何かを見ている。
それが何なのか、自分がわからないだけなのだ。
不意に、杏寿郎が動いた。
火吹き用の竹を手に取ったかと思うと、それを水甕の上に持って行き、そして半分程を浸した。
最初、千寿郎はやはり兄の行動の意味がわからなかった。
だが杏寿郎が竹を水面から引き上げると、その意図がわかった。
「え……?」
水の中に浸したはずの竹が、全く濡れていない。
これは異常だ。すなわち異能――血鬼術。
この水甕には、血鬼術がかかっている。
「す、凄いです兄上! いったいどうやってわかったんですか!?」
「む? いや、何もわからん!」
「でも今、血鬼術を見抜いたじゃないですか」
「これは何となくやってみただけだ!」
「え?」
「うん?」
千寿郎は、この兄との問答を忘れることにした。
「しかし、これでわかった。この水面は今、
目に見える水面は、しかしそのまま水面ではない。
これは、
およそ人の身体が通れるような、人が入り込めるような構造ではない水甕に、瑠衣は消えたのだ。
ここではない、どこかへ。
「どうしますか、兄上」
「無論! 瑠衣の後を追う!」
愚問と承知で聞いた。
そしてあえて言わなかったが、千寿郎は自分もついて行こうと思っていた。
あんなに近くにいて気付けなかったという点に、千寿郎は悔しさと責任感を覚えていた。
だから自分が姉を助けに行くのだ、という気持ちが強かった。
当然、杏寿郎も弟の決意に気付いている。だから。
「せん「いや~、おじさんはその判断ちょっとどうかと思うねえ」……むう! これは犬井殿!」
他所の家の厨に入ることに遠慮があったのか、犬井は「入っても大丈夫?」と千寿郎に聞いていた。
杏寿郎ではなく千寿郎に聞くあたり、同じ家でも場所によって権力者が違うことを良くわかっていた。
「柱がそう簡単に死地に飛び込んじゃいけないでしょってね」
人間、受けたものには必ず報いなければならない。犬井はそう思う。
それが恩義であるならば、なおさらのことだ。
一宿一飯の恩。
明日をも知れぬ鬼狩りにとって、それは一生の恩義に等しい。
「おじさんが行くよ。アンタ達の家族は、オレが必ず連れて帰る」
そして、
この時の彼には、いや誰にもわからないことだったが。
犬井のこの判断こそが、彼の運命を決定付けたのだと。
後になって、杏寿郎は理解したのだった。
最後までお読みいただき有難うございます。
あっちもこっちも大忙しで収拾がつかなくなってきました(え)
こうなったら私の心の中のワニ先生を解放するしか…(え)
それでは、また次回。