足元の血が霧状に舞い上がり、視界を奪った。
次に視界が広がった時、瑠衣の目の前には家が建っていた。
煉獄邸のような屋敷ではなく、桟瓦葺きでモルタル壁を用いた、いわゆる「洋館」だった。
小さいが立派な建築物だ。が、どこか歪んで見えた。
「ここはね、亜理栖のおうちなの」
亜理栖の声が、四方から響いた。
姿は見えない。
足元の血の池はなくなったが、むせ返るような鉄錆の臭いは消えていない。
濃厚な鬼の気配が、あらゆる方向から漂っていた。
「パパもいるの。ママもいるの」
チリチリと、肌が痛む。
全身に針を刺されているようだ。針の筵とは良く言ったものだ。
残りの一振りを抜き、両手に日輪刀を――小太刀を構えた。
二刀流。正直なところ、まだ慣れていない。
しかし長の見立ては正しかったのだろう。
俊敏な動き、何より脚力が重要な瑠衣の戦い方に、小太刀の長さと重さはぴったり合っていた。
『
(
内心であながち間違いでもないと思ったが、女子として肯定は避けた。
「でもね」
何より、亜理栖からの圧力が増していた。
目の前の洋館からはいよいよ禍々しい気配が漂い、視界には再び血の霧が舞い始めていた。
掌に、じっとりとした汗が滲んでいた。
「でもね、お兄ちゃんがいないの」
「家族はみんな一緒じゃないといけないのに、お兄ちゃんが帰って来ないの」
「どうして?」
「お兄ちゃんが亜理栖を置いて行くわけないのに」
「どうして?」
「どうして? どうして? どうして?」
――――風の呼吸・肆ノ型『昇上砂塵嵐』。
血が、襲い掛かって来た。
そうとしか表現できなかった。血の霧が渦を巻いて、瑠衣を掴もうとした。
それを、二刀の斬り上げで打ち払った。
だがそれだけで、両腕に重い衝撃が来た。
(本気でもない一撃が、こんなに重い……!)
亜理栖の感情の昂りに反応しただけの、
それが、打ち払っただけで腕が痺れる程に重い。
では、本気で打ち込んできた攻撃はどうなるのか。
想像するだけで、瑠衣は気が滅入りそうだった。
「――――どうして?」
「お前?」
「お前のせい?」
「お前が、お兄ちゃんを隠したの?」
「返して」
「亜理栖のお兄ちゃんを、返して。返して……」
そしてその時は、すぐにやって来た。
「――――返せエエエエエエッッ!!」
全身に、憎悪と殺意が絡みついて来た。
それを振り払うべく、瑠衣は二刀の小太刀を振るう。
確かに蟷螂だなと、改めて思った。
◆ ◆ ◆
生まれた家を、自分の家だと思ったことは無かった。
蝶屋敷が、家だった。
だからカナヲは、心の底では、アオイや蝶屋敷の他の少女達の気持ちを理解できていなかった。
だが今、カナヲはその気持ちを実感していた。
目の前で、実際に蝶屋敷が――家が、破壊されれば、嫌でも理解できる。
「あ……」
――――血鬼術『
巨大な氷の菩薩像が腕を振るい、蝶屋敷の病棟を薙ぎ倒していた。
菩薩像が腕が壁を砕き、屋根を剥がして、床に穴を開けた。
しかも睡蓮の蔓や菩薩像の吐息に触れると、そこから凍り始めてしまう。
「ああ、家が。お屋敷が……」
カナヲは、アオイを抱えて逃げるので精一杯だった。
腕の中で、アオイは嘆いていた。
無理もない。生家を鬼に奪われ、そして今また第二の家を壊されたのだ。
カナヲも、たまらない気持ちだった。
「アオイ、カナヲ。無事ですね?」
そこへ、
「しのぶ様、蝶屋敷が……!」
「大丈夫ですよ、アオイ。家は直せば良い。でも人は、そうはいかない」
上弦に襲撃を許した時点で、物的な損害は避けようが無かった。
それに、しのぶにとっても外に出るのは好都合だった。
あのまま室内で戦っていれば、おそらく一方的にやられていたはずだ。
それは童磨にもわかっていただろう。
しかしそれをしなかったのは、童磨がこちらを舐めているからだ。
自分が鬼狩りにやられるはずがないと、自信を持っているからだ。
その自惚れを、
「カナヲも、良くアオイを守ってくれましたね」
しのぶが、そっとカナヲとアオイの頭に手を置いた。
それはまさに天女の如く優し気な表情で、慈しみに満ちていた。
しかしそうしている間にも、脅威は近付いていた。
「そろそろ良いかな~?」
嗚呼、苛々する。
頼むから話しかけないでくれと、しのぶは思った。
しのぶは、妹たちの前では優しい姉でいたかった。
だからどんな時でも、それこそ叱る時でさえ、慈しもうと努力してきた。
それを、こんな奴に台無しにされたくは無い。
しかし、ああ、やはり駄目だ。
この鬼の、童磨の顔を見ていると、どうしても負の感情を抑えられない。
妹たちに怖がられたら、どうしてくれるのか。
「ああ、可哀想に。そんなに怖い顔で。辛いことがあったんだね、すぐに楽にしてあげるよ」
――――血鬼術『冬ざれ
柱ほどの大きさの氷柱が無数に生み出されて、しのぶ達に向かって放たれた。
1本が太い。そして何より数が多い。
砕くのは無理。逸らすのも困難。避けるしかないが、背後にはカナヲとアオイがいた。
その時だった。
「とっ……とりゃああああああああっ!!」
桃色の一閃が、氷柱を端から両断してしまった。
その斬撃は直線的ではなく、布のように柔軟だった。
そんな太刀筋の人間を、しのぶは1人しか知らなかった。
しのぶ達の頭上を飛び越えて、氷柱を斬った甘露寺が着地した。
彼女はその場で立ち上げると、童磨に刀を向けて。
「ちょっとそこの鬼! しのぶちゃん達をいじめたら、私が許さないんだから!!」
「え~、そんなつもりは無いんだけどなあ」
酷いことをいうものだ、と、童磨は思った。
それでも、彼は
酷いことを言って来た甘露寺でさえ、彼は救いたいと思っていた。
何故ならば、それが彼に課された使命だと信じていたからだ。
◆ ◆ ◆
――――強すぎる。
目の前で不死川と時透の刀が
本部隊舎に猗窩座が現れて、不死川と時透が斬りかかった直後のことだった。
霞の呼吸は風の呼吸の派生というだけあって、2人の太刀筋は良く似ていた。
強いて言えば、不死川の剣はより激しく、時透の剣はより柔らかだった。
剛柔の風の刃が、両側から猗窩座の頚を狙った。
そこから逃れられる鬼がいるとは、炭治郎には思えなかった。
「ハアッ!」
顔の前で両腕を交差させて、左右に掌底を放った。
まず、それで不死川と時透の日輪刀を弾いた。
次いで手刀が来た。流れるような動きだった。
猗窩座の手が日輪刀の側面に触れた瞬間、刀が真っ二つに折れたのだ。
「ちいいっ!」
不死川は、咄嗟に時透を蹴っていた。
意図を察した時透は抵抗せず、そのまま後ろへと吹っ飛んでいった。
不死川は、手刀を放った猗窩座の拳が、腰のあたりで握り込まれるのを見ていた。
(技から技への接続が速ェッ!!)
――――血鬼術『終式・
――――風の呼吸・参ノ型『
「不死川さん!」
――――情けねェ!
実際に口に出して叫びたかったが、そんな余裕も無かった。
百発近くの連打。それがほぼ同時に放たれてきた。
回避も防御も不可能。急所狙いの攻撃を逸らすことしか出来なかった。
喉の奥から溢れて来た血が、唇の端から噴き出した。
全身を打たれても立ったまま折れた刀を猗窩座に向けていた不死川だが、ダメージの深刻さは明らかだった。
もちろん、不死川ほどの呼吸の達人であれば、数秒もあれば
しかしその数秒は、この場合は永遠と同義だった。
「俺の拳を弾くとは。柱だな。だが今は、遊んでいる暇はない」
同じ構え。同じ攻撃が来る。
不死川がそう認識すると同時に、再び百の閃光が迸った。
(ヤベェ……!)
出血は止まっていない。ダメージの応急処置は済んでいない。
この状態で受け切れるか、と不死川が思った。
その、次の瞬間だった。
――――獣の呼吸・伍ノ牙『狂い裂き』!
――――雷の呼吸・壱ノ型『
――――水の呼吸・陸ノ型『ねじれ渦』!!
再び全方向に放たれた猗窩座の攻撃を、三方向から迎撃する者がいた。
1人であれば吹き飛ばされて終わりだったろう。
だが3人で重層的に猗窩座の攻撃を
――――霞の呼吸・参ノ型『
それを、滑り込んできた時透が斬り払った。
しかしそれでも、攻撃が掠めた額や肩先からの出血は免れなかった。
余りにも威力が強大過ぎる。
「だあああああっ! 痛……くねえ! 全然痛くなんかねえ!」
「伊之助大丈夫か! おでこから血が噴き出しているぞ!」
「2人とも急げ、次が来るぞ!」
情けない。隊士に――子供に守られるとは。
「伊之助、善逸! 不死川さんと時透君を援護するんだ! 2人がいてくれれば勝てる!」
炭治郎にその気はないのだろうが、いちいち癪に障る。
そんなことを言われてしまえば、ヘバっているわけにはいかない。
「はっはあ! 派手にやってるなお前らあ!」
今度は何だと思って声のした方を見上げると、宇髄がいた。
その手にはクナイの束を持っていて、それを猗窩座に向けて投げた。
どういう原理なのか、それは空中で爆ぜて、猗窩座へと殺到したのだった。
◆ ◆ ◆
あり得ない。獪岳は目の前の現実を受け入れられなかった。
それは、目の前に転がる隊士達の死体を見たからでは無かった。
問題なのは同胞――獪岳自身がそう思っているかはともかく――の死体ではなく、その死体を量産した鬼の存在だった。
「まったく苛立たしい、どうしてこんなことになってしまったのか」
「いちいち口に出すな。聞いているだけで哀しくなってくる」
苛立つ。哀しい。どこかで聞いた、そして二度と聞きたくない言葉と声だった。
しかしいくら目を逸らしても、現実は消えてなくなりはしない。
獪岳の目の前に、あの2体の鬼が――
(上弦の肆だと!? 死んだはずだろ!?)
上弦の肆は、刀鍛冶の里で討たれたはずだ。
しかし生きていた。そして今、鬼殺隊を襲っている。
「うん? 何だ貴様、儂のやることに文句があるのか」
「え、う」
他の隊士は、瞬きの間に殺されていた。
初撃で死ななかったのは、この場合は幸運なのかどうなのか。
「まて積怒。こやつ見覚えがあるぞ」
「……ああ、苛々し過ぎて思い出せなかった。いつぞやの小僧ではないか」
「哀しい記憶力だ。
何の話をしている。
わからなかった。
わかったことは、積怒と哀絶から濃厚な殺意が向けられていることだけだ。
まず、雷撃が来た。積怒の錫杖から放たれたものだ。
初見では無いので、かわすことは出来た。
しかし雷撃をかわしたところに、哀絶の槍が打ち込まれてきた。
「クソがッ!」
――――血鬼術『
――――雷の呼吸・弐ノ型『稲魂』。
5つの槍撃を、身体を捻りながら斬り、防いだ。
跳躍して距離を取ろうとしたが、そこへさらに雷撃が来た。
哀絶をも巻き込む雷撃――同じ分裂体には効かないため――は、かわしようが無かった。
「ぎゃああっ!」
全身を焼かれる激痛に、悲鳴を上げた。
そのまま地面に転がったところへ、哀絶がとどめを刺しに来た。
「殺せ! 哀絶!!」
「いちいち喚くな、哀しくなる」
槍の切っ先が、視界の中で線になった。
死の感触を、鼻先に感じた。
何か黒いものが視界を覆う。これが死ぬということかと、そんなことを思った。
――――蛇の呼吸・弐ノ型『
しかしそれは、槍でも死の実感でもなく、
頚が転がって離れると、白黒の縞々の羽織が目に入った。
煉獄邸を目指して走っていた伊黒が、道中で現場に居合わせて、そのまま哀絶の頚を刎ねたのだった。
◆ ◆ ◆
自分には敵の姿が見えない。
対して、敵は一方的に自分を攻撃することが出来る。
そういう状況にあって、しかし瑠衣は諦めていなかった。
――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。
血の霧が針状に変化し、全方位から瑠衣に襲い掛かって来た。
それを瑠衣は螺旋の突進で弾き飛ばしながら、鬼の洋館を目指した。
どんな血鬼術にも起点はある。起点を潰せば術は消える。
「
すると、洋館の方が瑠衣から離れた。
瑠衣が一歩近付けば、地面の上を滑るようにして、同じ分だけ後退する。
この事実は、瑠衣に2つのことを教えてくれた。
第1に、やはりあの洋館の中に血鬼術の起点があるということ。
「お前なんか、亜理栖たちのおうちに入れてあげない!」
第2に、あの洋館には
果てのない追いかけっこであるならば、体力に劣る人間が圧倒的に不利だからだ。
(厳しいな……!)
まあ、厳しいのはいつものことだ。
血の針を斬り払い、洋館を目指して駆け続けながら、瑠衣は考えた。
とにかく、洋館の中にある血鬼術の起点を潰す案は達成困難になった。
そうなると、
『ドウスル気?』
どういう理由かはわからないが、この鬼は瑠衣に相当の殺意を向けてきている。
過去に襲い掛かって来た時も、わざわざ姿を見せていた。
とどめを刺しに来る瞬間、亜理栖は必ず自分の手で瑠衣を殺しに来るはずだ。
(こいつの思考自体は単純だ)
鬼になったせいか、あるいは元の性格なのか。直情的で単純だ。
「あっ……!」
だから瑠衣が血の針に刀を弾かれ、たたらを踏んでみせると――――
血の針が渦を巻いて塊となり、それが人の形を成し始める。
しかしそれは、誘いだ。
殺る。
その塊に対して、瑠衣が刀を振るおうとした。まさにその瞬間だ。
「――――!」
何かに気付いたように、その塊が弾けた。
びしゃっ、と音を立てて地面に飛び散り、跡形もなく消えた。
困惑したのは、刀を振り損ねた瑠衣である。
こちらの攻撃を察したのかと思ったが、追撃も無い。
逃げたのか?
だが、何故?
瑠衣に脅威を覚えたとは思えない。そもそも、アレに脅威を感じることが出来るのか。
仮に脅威を感じる感性があったとして、いったい、何に脅威を感じたのか。
「う~~~~ん」
刀を手に警戒を解かずにいると、そんな唸り声が聞こえた。
それは亜理栖の甲高い声ではなく、大人の男性の声だった。そして聞き覚えのある声だった。
その男性は、否、
彼は瑠衣との再会を喜ぶでもなく、目の前にそびえ立つ亜理栖の洋館を見上げながら、こう言った。
「どうして、こんなところにおじさんの
――――なに?
◆ ◆ ◆
不思議なことに、犬井が現れると、
それまで不安定さの中で張り詰めていた空気が、弛緩した。
まるで、周囲の何もかもが犬井を受け入れているかのように。
「うん、やっぱり
瑠衣が追っても離れた洋館は、しかし犬井が来るとその場に留まった。
だから犬井は普通に
さらに加えて言うなら、扉の向こうには――――普通に、エントランスホールが広がっていた。
絨毯が敷いてあり、階段があり、奥の部屋へと続く通路があった。
そしてここは、犬井の実家なのだという。
犬井は、これは瑠衣が彼と出会ってからおそらく初めてのことだったが、困惑している様子だった。
それはそうだろう。ここは鬼の血鬼術の中だ。
それがどうして、犬井の実家を映し出しているのか。
「……可能性としては」
瑠衣の頭の中に叩き込まれた鬼の情報。煉獄家に集積された知。
「鬼の血鬼術の中には、こちらの心象風景を写し取るものがあります」
「うーん。でもこれって、おじさんが来る前から
その通りだった。
相手の心を写し取るというのなら、まず、
しかし実際には、犬井が来る前からこの洋館は現れていた。
そして何より、あの鬼はこう言っていた。
だからこの家は、彼女の家なのだ。
「どがんことや、こりゃ」
「え、何です?」
「……どういうことかなあ、これは」
どう言葉をかけるべきか、瑠衣は迷った。
『迷ウコトナンテナイジャナイ』
頭の中で、姉が言った。
迷うことなんてない。
『ソノママ言ッテヤレバ良イノニ』
(人間はそんなに単純じゃないんです)
その時だ。不意に犬井が顔を上げた。
それに気付いた瑠衣が声をかけようとすると、手で制された。
何だと思っていると、彼は耳に手を当てて音を聞こうとしていた。
いったい、何の音を聞こうとしているのだろう。
「こっちだ」
「え?」
「早く!
意図も、そして意味もわからなかった。
しかし、先に駆け出した犬井の後を追わないわけにはいかなかった。
鬼の洋館の中を、瑠衣は駆け出した。
◆ ◆ ◆
近付いてくると、瑠衣にもその音――いや、
たまに立ち止まった口笛を吹いていて、するとその声がまた聞こえて来た。
犬井の足取りに迷いはなく、本当に間取りを理解しているのだとわかった。
そして、ある部屋で止まった。
しかし犬井は、そこで躊躇することは無かった。
彼は迷うことなく、その部屋の扉を開けた。
そこは寝室のようだった。大きな
だが何より異彩を放っていたのは、やはりと言うべきか、《鏡》だった。
「……姿見、ですね」
形自体は、特に言及することもないくらいに普通だった。
どこにでもある、普通の姿見だ。
だが、
鏡面さえ血の色をした姿見。初めから
「おじさんがここに来た時、水甕の水面を通って来たんだ」
「水面……水鏡ですか」
思えば、最初に遭遇したのは
そこで、ふと思い至った。
蝶屋敷の事件。あの時、被害者は窓の側にいた。
「じゃ、通って」
「はい?」
「いやいやいや、はい? じゃなくてさ、ここを通って帰るの。オーケー?」
「おーけーって何です?」
「桶のことだよ」
「な、何故いきなり桶の話を……?」
後で知ったことだが、オーケーと桶は何の関係もない。
重要なのは、鏡を「通る」ということだ。字面からしてすでに意味不明だ。
周囲の光景と比して明らかに異彩を放っているこの姿見は、おそらく術の起点だ。
そこへ飛び込めというのは、
「ほら早く早く。鬼が気付いて出入り口を閉じちゃうかもしれない」
「それは、確かにそうですが」
「ほらほら」
「え、あっ。ちょ、待っ」
違和感を覚えた。
鏡の中に押し込まれ――冷たく
「い、犬井さんは」
「おじさんが若者より先に避難するわけにはいかないでしょお。大丈夫、すぐに追いかけるよ」
「あ、ちょっ。押さな……わあっ!?」
姿見を潜った瞬間、
足元が無く、どことも知れぬ空間の中を落下した。
浮遊感に襲われて、何かを掴もうと藻掻いた。
そうして掴んだのは、
「姉上!?」
鏡は、途中で水に変わった。
突然に水中に放り出されたのと、倒れた拍子に水甕が割れて、厨の地面に倒れ込んだ。
側にいたのだろう。千寿郎の驚く声が聞こえた。
駆け寄って来た弟に手で大丈夫だと伝えながら、瑠衣は言った。
「せ、千寿郎。兄様は?」
「あ、兄上は外へ戦いに! 別の鬼が近付いてきていると長治郎が!」
「――――バウッ」
そこへ、
「……ありがとうございます。コロさん」
あの世界で犬井と自分が聞いていたのは、コロの声だった。
コロの声を頼りに、自分と犬井はあの血染めの鏡を見つけたのだ。
そこで、はっとした。
「そうだ、犬井さんは……!?」
振り向いたが、そこに犬井はいなかった。
砕けた水甕の破片と、中身の水がぶちまけられているだけだった。
犬井の姿は、どこにも無かった。
「いやあ、怒るだろうな~あの子」
犬井は、
彼は相変わらず鬼の洋館にいて、その足元には彼が割った血染めの鏡があった。
「まあ、でもね。おじさんのケジメに若い子を巻き込むわけにはいかないし、さ」
砕かれた姿見。しかし散らばった鏡の破片は、変わらず鏡だ。
その鏡の中から、血の霧が室内に漂って来ていた。
そして、その血はやがて人の形を取り始める。
「そう、ケジメをつけなきゃな」
刀を抜いて、犬井はその血の塊へと足を向けた。
「俺は、
姿を現した亜理栖は、犬井のその言葉に喜色を浮かべた後。
イタズラを見つかった子供のような、バツの悪そうな表情を浮かべたのだった。
◆ ◆ ◆
「ぐあああっ」
悲鳴を上げて、羽根を失った鬼が地面に落ちた。
驚くもう1匹の鬼へ、杏寿郎は一足で飛び込んだ。
おのれ、と手にした八つ手の団扇を鬼が振るう。
すると、正面から凄まじい圧力の風が杏寿郎を包み込んできた。
――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎』!
それを、杏寿郎は防ぎも避けもしなかった。
踏み止まり、堪え、そして正面から打ち破った。
虎の如き気合いの斬撃が団扇の風圧を越えて、敵に直撃する。
「ガッハ……ア!」
肩から脇までを斬り裂かれ、可楽はその場に膝を着いた。
楽・喜の感情を司る2体の鬼をして、その表情は「信じられない」という色を隠せずにいた。
それはそうだろう。分裂体とは言え、彼らは上弦の鬼なのだ。
それが、圧倒されている。しかも相手はたった1人の人間なのだ。
「残念だが、キミ達の能力はすでに割れている」
そんな2体を前にして、杏寿郎はそう言った。
鬼殺隊の当主は言う。上弦の鬼の力は最低でも柱3人分に匹敵すると。
しかし今、杏寿郎は空喜と可楽を圧倒しているように見える。
その理由は、彼がまさに言った。この2体の能力が割れているからだ。
上弦の強さは、純粋な力の強さもさることながら、その能力の多くが謎に包まれていたからだ。
何しろ遭遇自体が少なく、遭遇した隊士は柱も含めて討たれてしまう。
しかし今は違う。特にこの上弦の肆――半天狗は、その能力の細部を刀鍛冶の里で露呈していた。
能力も、武器も、鬼殺隊士で知らぬ者はいないと言ってしまっても過言ではない。
「鬼殺の剣士に同じ血鬼術は二度通じん。まして柱ともなれば、能力が割れている相手に不覚など取らん!」
しかし相手を知っていても、勝負の結果がどうなるかは別の話だ。
杏寿郎には、対応できる実力も器用さもあった。
そして杏寿郎には知る由もないが、残り2体の上弦の肆も伊黒によって止められていた。
今の柱にとって、上弦の肆はもはや「討ちやすい敵」と化していたのである。
「…………」
それを理解したのだろう。可楽と空喜は歯ぎしりしながら杏寿郎を睨んだ。
しかし攻撃は仕掛けない。杏寿郎に隙がまったく無かったからだ。
いくら討ちやすくなったとは言え上弦の鬼だ。油断するはずもない。
(しかし……)
一方で、杏寿郎は上弦の肆が刀鍛冶の里で頚を斬られたと聞いていた。
しかし目の前にいる以上、刀鍛冶の里では仕留めそこなったと見るしかない。
いったい何故なのか。そこがわからなかった。
「……可楽」
「わかっておる」
「む! 合体か! それも聞いている。合体したとしても」
上弦の肆の分裂体の合体により、さらに強大な鬼と化すことを杏寿郎は知っていた。
上弦の肆、半天狗。その鬼の真の力が分裂でも合体でも、まして不死身ですら無いことを。
上弦の肆の真髄を、杏寿郎は知らなかったのである。
◆ ◆ ◆
「
鬼舞辻無惨は、今にも死にそうな相手を前にして、実に淡々とした表情でそう告げた。
無惨は、己以外のすべての鬼と繋がる能力を持っている。
すなわち、鬼殺隊本部へ侵入した4体の上弦の鬼の見たものや聞いたものを共有しているのだ。
他の鬼も無惨を介してという形だが、互いの記憶を共有することは出来る。
話が逸れたが、つまり無惨は今、鬼殺隊本部で起こっているすべてを把握しているのだ。
その無惨が「終わる」と言った以上、外の戦況の深刻さは相当に深刻だと思われた。
しかし、それを聞いた産屋敷の反応は。
「…………」
何も、無かった。
もちろん、反応する程の余力が無いということでもある。彼はすでに半死人だからだ。
だがそれでも、何らかの反応はあって然るべきだろう。
少なくとも、無惨はそう思った。
「……理解できないな」
腕を組み、指先でこめかみのあたりを指先で叩きながら、無惨は言った。
「何故、お前は絶望しない? 今にも死にそうなのに、お前からは恐怖の匂いがしない」
希望か。いや、そんなものは無い。無い、はずだ。
それとも、何か企みがあるというのか。
「ふふふ……無惨、きみは死ぬのが恐ろしいんだね」
ピク、と、無惨のこめかみが微かに動いた。
もはや身じろぎ一つできない産屋敷にそれを確認することは出来ない。
ただ、気配は察したのだろう。彼は咳き込みながらも小さく笑った。
「私の死は、鬼殺隊に大して影響を与えないんだ。私自身はそれほど重要じゃない。だから、
「何だそれは。自分がお飾りだと言っているのか。自虐が趣味か?」
「違うよ……逆だ。私が死んでも、私の想いは決して失われない。
壊滅寸前に追い込まれたことも、一度や二度では無かった。
それでも鬼殺隊はなくなら無かった。その意思が途絶えることは無かった。
繋いできた。
無惨を、鬼を滅ぼす。人間の世を守る。
滅びかけながらも、犠牲を積み上げながらも、その想いを後へ、後へと繋いできた。
無惨と同じく、
それを聞いた時、無惨が感じたのは――――気味悪さだった。
「良くわかった。お前は――――お前達は、異常だ」
そんな無惨の言葉に、産屋敷は血に濡れた唇で、嗤ったのだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
さて、いよいよ決断する時か。
この物語を終わらせるための決断。
うーん、悩む!
煉獄の兄貴、私を見守ってくれ~。
それでは、また次回。