夜が明け切る前に、町の外に出る必要があった。
鬼の
警察も軍隊も、今は鬼の味方だ。
鬼はともかく、人間と敵対するわけにはいかない。
「じゃあ、ここでお別れだ」
「ありがとうございます」
武雄は、町の郊外まで瑠衣達を見送ってくれた。
村田と知己も一緒だ。元より瑠衣の目的は仲間の救出だ。
むしろ武雄との再会の方が偶然だった。
「その、大丈夫ですか? これから……」
知己が心配したのは、その武雄達の今後だった。
正直に言って、町は混乱している。
それでなくとも、鬼に対する抵抗運動は危険を伴う。
町を離れた方が良いのではないか、と言外に言いたかったのだ。
「なあに、何とかやっていくよ」
しかし武雄には、そのつもりが無いようだった。
肝が据わっているというべきか、とっくに覚悟を完了しているというべきか。
いずれにせよ、武雄には町から出る意思はない。それはわかった。
武雄の答えを聞いてから、知己は少しだけ後悔を覚えた。
何となく、余計なことを聞いてしまったと思ったのだ。
ただそれを口にすることの方が余計な気がして、今度は何も言えなくなってしまった。
形式的な場であればともかく、こうした場面での
「警官さん」
「ああ」
「……ご武運を」
手を合わせた瑠衣に、武雄が頷いた。
武雄が瑠衣を見つめる眼差しは、どこか感慨深そうに見えた。
それが何故なのか。それこそ余計なことだろうと、知己は思った。
「ああ、瑠衣さんも。大変だと思うけど、どうか幸運を。気を付けて」
空が白み始めてきたので、武雄とはそこで別れた。
武雄は瑠衣達が丘を越えて姿が見えなくなるまで、そこに立っていた。
また会えるのか。会えるとしていつになるのか、見当もつかない。
その背中が消えた先を、武雄は見つめていた。
「おい武雄。そろそろ」
「ああ、そうだな」
仲間に促されて、武雄はようやく目を離した。
夜が明けるまでここにいるのは危ない。それは武雄も同じだった。
天狗鬼が倒されたと言っても、鬼が滅びたわけではない。混乱もいずれは収まる。
それどころか、明日には新しい鬼が派遣されて来て、町は元通りだろう。
だから自分達がいるのだ、と武雄は思っていた。
元通りになった町の中で、実はそうじゃないんだ、と言い続ける。
それが彼らなりの鬼への反抗であり、鬼と戦う者達への
武雄は、そう信じているのだった。
◆ ◆ ◆
「それで、そのー。これから俺達はどうすれば……?」
そう言ってから、村田は「あー、俺って情けないなー」と思った。
というのも、彼が今後の方針を聞いたのは年下の、しかも女の子だったからだ。
もっと言えば、自分より階級が――鬼殺隊の階級制度が今も有効であれば――上である。
煉獄瑠衣。いわゆる
村田は、剣士としては至って平凡な部類に入る。
水の呼吸を使うが、刀の色は薄く、それほど剣才に恵まれているわけでもない。
長く生き残ってはいるが、鬼の討伐数も少ない。だから階級も下から数えた方が早い。
柱はもちろん、瑠衣の階級である「甲」も雲の上の存在なのだ。
当たり前のように鬼を狩る剣士は、村田には眩し過ぎる。
(そういや、あいつらもそうだったな)
炭治郎とその同期。あの世代は特に凄かった。
上弦と戦って生き残っただけではなく、討伐戦にも関わっていた。
ぶっちゃけ、入隊したての時点で村田よりすでに強かったかもしれない。
まあ、それも今となっては……。
「僕も知りたいです。この数か月、実はいくつかの拠点に行ってみたんです。でも、どこも壊滅していて……」
鬼殺隊は政府非公認の組織だが、それは
日本政府は鬼殺隊のことを認識していたし、調べてもいた。
それは、
「舟生君の言った通り、鬼殺隊の拠点はほとんどが鬼によって潰されました」
だから、瑠衣の物言いには少々ドキリとした。
ただ前を駆ける瑠衣は知己を振り返ることはなく、そのまま会話を続けた。
「もう知っていると思いますが、この国は今、鬼の手にあります」
日本政府が鬼に掌握されたために、ほとんどの拠点の位置がバレてしまった。
本来なら指揮を執るべき産屋敷の後継者も、そのせいで表立った行動がとれずにいる。
集結する拠点がないために、辛うじて生き残った者達も苦境に立たされてしまっているのだ。
「なので既存の拠点は、刀鍛冶の
「そ、それじゃあ、俺達はどこへ向かっている……んですか!?」
「どうぞ言葉は崩してください。私の方が年下なのですから」
そう言われても、と、村田は露骨に渋い顔をした。
「……まあ、走りながらする話でもないので。とりあえず先を急ぎましょうか」
「だからっ。あー、どこへ?」
「どこって、それはもちろん」
そこで初めて、瑠衣は後ろを振り向いた。
その顔には、どこか悪戯めいた微笑を浮かべていた。
「
◆ ◆ ◆
そこからの移動は、過酷を極めた。
まず、半日ほど駆け続けた。
途中で2度ほど川辺で小休止を取ったが、ほぼ走り通しだった。
町から半日分も離れてどこへ向かうかと思えば、今度は山に入った。
しかもこの山が険しく、また深い。
おまけに瑠衣がどう考えても遠回りだろうというルートで進むので、さらに時間がかかった。
山中で一晩を過ごす羽目になった。
この数か月で村田も知己も野宿には慣れたものだったが、それでも疲労は隠しようも無かった。
「眠る前に、少しで良いのでお腹に食べ物を入れてください。温まりますよ」
瑠衣は、良く塩をまぶした握り飯を木製の椀に入れて、そこにお湯を注いで粥にした。
村田も知己も疲れ切っていたが、口をつけると舌先に塩の味が広がって、ぐっと椀を傾けた。
ほとんど喉に流し込むようにして椀を空にすると、胃のあたりに熱を感じた。
「夜明け前に出発します」
身体が温まると、すぐに瞼が重くなった。
そうして視界が途切れた。
「おはようございます」
と思えば、笑える程にすぐに朝が来た。
目を閉じて開ける。それで一夜だ。
厳密には夜明け前だったが、朝は朝だった。
「冷えますね。ただのお湯ですが、ゆっくり飲んでください」
焚火は、絶えず燃えていたようだ。薪の燃え残りの量でわかる。
それをぼんやりと見ていると、瑠衣が
流し込むと、喉から胃にかけてがゆっくりと熱を持った。
身体が冷えていたのだと、その時に初めて気付いた。
「出発しましょう。村田さん、大丈夫ですか? 大丈夫じゃなくても頑張って歩……走ってくださいね」
「走るの!? 今日も走るの!?」
「走ります。あと登ります」
「登るの!?」
「崖を」
「崖を!?」
実際、その日はまた山中を半日駆け回った。
いくつ山を越えたのか。途中で数えるのをやめた。自分の位置もわからなくなってきた。
わかっているのは、どんどん渓谷深くに入っている、ということだった。
ただ村田と知己の疲労が大きく、途中でペースが格段に落ちた。
仕方なく、山中でもう一夜明かすことになった。
さらに翌日になると、村田と知己は喋らなくなった。
元から口数の多い方では無いが、単に喋る体力がなくなったのだ。
いざ崖を登る段になっても、何も言わずに登り始めた。
呼吸を使っていても、限界はある。
(指先の感覚がなくなって来た)
千寿郎の同期――いわば新人である知己は、まだ常中にムラがある。
疲労が極限に達すれば、呼吸による身体強化も弱くなる。指先の痺れはそれを表していた。
「うっ」
そのせいで、掴んだところが浮き石だと気付けなかった。
足で踏ん張ろうと思ったが、力が入らずに靴先が滑ってしまった。
滑落する。そう思った時、手を掴まれた。
「もう少しです。気を付けて」
瑠衣だった。はっとするほど、その手は温かかった。
まるで、燃えているようだ。
岸壁に引き上げられながら、そんなことを思った。
◆ ◆ ◆
――――
その存在は、日本中に広まっている。
ただ市井で好まれているのは、超人的な技能や妖しげな術を使って敵を倒す
実際の忍者は、幕府や大名等の有力者に雇われる傭兵に近かった。
中には独自の勢力を持つ忍者集団も存在したが、時代の流れと共に大勢力に組み込まれていった。
諜報活動や破壊活動、暗殺等を得手とする特殊技能者――もちろん、創作にあるような「忍術」とは別――の集団。
それが、忍者だ。
「信じらんねえ」
「……ええ」
呆然と立ち尽くす村田の呟きに、知己は同意した。
深い森を抜け、険しい山を越え、切り立った崖を登った。
その果てに彼らが辿り着いたのは――
小さいながらも水田が広がっていて、少なくない人間が生活している様子が窺い知れた。
ただ余りにものどか過ぎて、直前までの道のりの険しさと比例しない。
だから村田も知己も、唖然とした顔で目の前の光景を見つめているのだった。
「お疲れ様です。ここまで来れば安全なので、ひとまずあちらの小屋で休んでいてください」
「あの、ここは」
「
拠点と、瑠衣は言った。
隊士でさえ来るのに苦労するこんな場所に、どうして鬼殺隊の拠点があるのだろうか。
しかし瑠衣は「間借り」と言った。違和感のある言い方だった。
鬼殺隊に拠点を貸すような相手が、はたしているものだろうか。
「詳しいことは休憩後に説明します。私は先に、
「――――その必要はないよ」
不意に、頭上から声がした。
「山に入った時点で気付いていたからね」
山桜の木があり、太い枝の根元に彼は座っていた。
村田は、自分達を見下ろすその男に、特徴を見出すことが出来なかった。
黒髪の、中肉中背。町を歩けば何人もすれ違いそうな凡庸な容姿。
気になるとすれば、宝石を嵌め込んだ額当て――どこかで見たような――と、目だ。
(いったい、どこを見てるんだよ)
こちらを見ているような、そうでないような、不思議な目だ。
目を向けられているのに、目が合わせられない。
何を考えているのかが読めずに、背筋に冷たいものを感じた。
「今回は2人か」
「はい。おかげ様で」
「口が2つ増えたわけだ」
「その点は最初に説明したはずです」
その男と瑠衣の会話にも、緊張感がある。
お互い穏やかな様子な分、余計にそれが伝わる。
「まあ、良いさ。そちらの事情には干渉しない」
音もなく、彼は着地した。
「払うものさえ払って貰えればね」
「ええ、勿論。その点も最初にお話した通りです」
「なら、もう何も言わないよ」
そして、
村田の目にはそうとしか見えなかった。
瞬きをした次の瞬間には、男の姿が視界から消えていたのだ。
「あ、あいつはいったい何なんですか!?」
「彼はここの頭領です。名前は私も知りません。ただどういう方かは知っています。彼は」
「あいつは?」
「彼は……
音柱・宇髄天元。
先程の不思議な男は宇髄の弟であり、そして。
この村は、宇髄の
◆ ◆ ◆
「上弦による本部襲撃の後、ここを発見したのは本当にたまたまです」
宇髄一族の忍里。その一角の小屋を拠点として借り受けていた。
拠点とは言っても、元は使われていない家屋だ。
3人も座ると、少し手狭に感じる。
「ばうっ」
さらに犬――コロがちょこちょこと瑠衣の後をついて歩き回るものだから、余計に狭い。
瑠衣が帰って来たのが嬉しいのかどうなのか、しかし顔の前で子供大の大きさの犬が右に左にと動かれると、非常に気になる。
日本の犬種と違って筋肉質なので、つい怯んでしまう。
ただ瑠衣が座るとその膝に頭を乗せて甘える。その仕草は、なるほど可愛げもあると思った。
「もっと正確に言えば、たまたま山に入り込んだ時に向こうから接触して来たんです」
「な、何でわざわざこんな険しい山に」
「鬼がいたので」
「なるほど」
元々、宇髄一族は産屋敷家と
鬼狩りと忍者。ともに戦国時代から続く裏稼業だ。
何らかの繋がりや協力関係があったとしても、おかしくはないだろう。
「元々、明治・大正の世になって忍者の仕事は激減していたそうです。産屋敷家は数少ない
「あの、それって俺達みたいな下っ端が聞いて良い話なんですかね……?」
「構わないでしょう。今さら隠す意味もありません」
太平の世に忍者の居場所はない。
鬼殺隊のように異形の化物を狩るわけでも、産屋敷家のように実業家の側面を持つわけでもない。
なので鬼殺隊の壊滅は、宇髄一族にとっても重要な意味を持っていた。
だからお膝元に鬼狩りが姿を見せた時に、接触してきたのだ。
「忍者の方々にとっても、現在の状況は困っているそうです」
「まあ、鬼が忍者を必要とするとも思えませんしね」
「ああ、なるほど」
鬼の異能をもってすれば、忍者など使わずとも情報収集も暗殺も出来る。
そもそも軍隊・警察を掌握した以上、時代遅れの忍者に頼る必要もない。
少なくとも鬼舞辻無惨の視界に、忍者という存在は入っていないだろう。
だからこそ、瑠衣達にとっては僥倖だった。
そして忍者側も、鬼に取り入る余地が無いと思えばこそ、瑠衣達と組んでいる。
「……ばうっ」
その時、コロが外に向かって吠えた。
警戒した風ではなく、呼びかけと言った感じの鳴き方だった。
「ちょっと何よ、何で増えてるわけ?」
すると、小屋の扉が開いた。
それもかなり強く。無遠慮に。いやむしろ外れかけている。
かっと陽の光が差し込んで、眩しさに目を瞬かせた。
数秒の後、そこに立つ少女の姿が浮かび上がった。
「チョーウケるんですけど」
「お帰りなさい。禊さん。見たところ、そちらは外れだったみたいですね」
「そうね。
山吹色の髪を揺らしながら上がり込み――村田が慌ててスペースを空けていた――どかりと座った。
コロが寄って行ったが、舌打ちしていた。動物は嫌いなのかもしれない。
しっしと手で追い払う仕草をして、コロも諦めて尻尾を落としていた。
その頃には、瑠衣は湯呑に僅かの茶葉とたっぷりのお湯を淹れていて、そっと差し出した。
禊はそれを無言で睨みつけ、手をつけずに、懐から取り出した水筒を口にした。
一息に呷り、水筒と一緒に取り出した紙を湯呑の横に投げ置いた。
「これは?」
「手紙。戻る途中で鴉が持って来たわ」
「なるほど」
「
陽光山?
村田が知己に目配せをする。知己は首を横に振った。
知らない。いや山の名前は知っているが、詳細は知らない。
彼ら一般の隊士がその山について知っていることは、1つだけだ。
日輪刀の、
◆ ◆ ◆
日輪刀は、
太陽の光以外で死ぬことのない鬼を殺すことができるのは、日輪刀がその内側に太陽の力を宿しているからに他ならない。
故にその原料となる鉄もまた、特別な鉄だ。
陽光を吸収する性質を持ち、一年中陽光が降り注ぐ――曇ることもなく雨も降らない――陽光山という山でしか採れない。
この鉄を刀鍛冶達に伝わる技巧で打ち鍛えて、初めて日輪刀は鬼を殺す武器足り得るのだ。
「これは、
手紙を一読し、瑠衣はそう言った。
その手紙はところどころが風雨に晒されたように痛んでおり、一部の文字は滲んで読めなくなってしまっていた。
それでも読める部分を繋ぎ合わせてみると、陽光山が危機を訴えていることはわかった。
「禊さん。この文をどこで?」
「ここに戻る途中で鎹鴉が持ってきたのよ。てっきりあんたかと思ったけど、知らない鴉だったわ」
「……その鴉は?」
「死んだわ」
禊が手紙を受け取った次の瞬間に、喘ぐような呼吸をして、すぐに死んだ。
手紙には、宛名がなかった。
書き殴ったような筆跡から、差出人の悲壮さが浮かび上がって来る。
誰か、という叫びが、聞こえてくるようだった。
「どうするの?」
「……行くしかないでしょう」
陽光山は、日輪刀の原料を供給するほとんど唯一の場所だ。
あの山の鉄を断たれるということは、日輪刀の供給を断たれるということだ。
すなわち、鬼と戦う力を失うということを意味する。
「この救援要請が届いたのが私達だけだとすれば、放置はできません。私達が行かなければ陽光山は落ちてしまう」
時間的な余裕はない。
鴉が水も食も断って跳び続け、禊を見つけるまでの時間。
そして禊が手紙を受け取ってからここまで戻るまで時間。
「もう落ちていたら?」
それだけの時間を持ち堪えられる程、陽光山に武力は無い。
だから禊が言うように、すでに落ちていることも十分に考えられる。
「
強い言葉だ。禊は片眉を動かした。
「こっちの戦力は2人だけ。わたしとあんたで陽光山を奪い返すってわけ?」
「え、あの俺達も……」
「どうかしてるわよ、あんた」
「そうかもしれません。でも」
無視された村田は、知己に肩を叩かれていた。
「ですがこれは、私達の
何より煉獄家の娘として、同胞の危機を見過ごすことは出来ない。
それに瑠衣や禊の日輪刀は特別な仕様だ。原料供給が断たれれば二度と打てない。
個人的な事情としても、陽光山を放置することは出来ないのだ。
「ただ禊さんの言う通り、危険度の高い任務になります。私1人で行きます」
「は? なにそれ」
「私が陽光山に行くので、禊さんはここに残ってください。危ないので」
「ああ、なるほど。危ないからわたしはここにいろってことね。把握したわ」
うんうんと頷いた禊は、笑顔を浮かべてこう言った。
「ぶっ殺すわよ、あんた」
◆ ◆ ◆
実をいうと、陽光山というのは正確な名前ではない。
これは鬼殺隊内部の呼び名であり、世間一般の呼び名は別にある。
日本で最も高く、陽光に近い山。心当たりのある者もいるかもしれない。
しかしそれは、つまるところ1つの事実を示していた。
「ちょ、ちょっと……ちょっと待って……げほっ」
手近な岩に手をついて、村田はぜえぜえと呼吸を荒げていた。
口元を覆っていた布を取り、腰に下げた水筒に口をつけた。
ごくごくと音を立てて水を飲み干す。
よほど水分を欲していたのだろうが、その割に不思議と汗はかいていなかった。
「村田さん、大丈夫ですか?」
「わ、悪い。でもちょっとペース早すぎ……」
「寝惚けたこと言ってんじゃないわよ。これ以上ペース落としたら夜になるわよ。こんな場所で夜を迎えるなんて冗談じゃないわ」
前後から真逆の声をかけられて、村田は改めて自分の状態を確認した。
彼は、山を登っていた。
だがこの山は、宇髄一族の忍里よりも遥かに大きな山だった。
装備も、防寒用の外套を着込み、呼吸をする口元も布を巻く徹底ぶりだった。
さらに、体を前後の仲間と縄で繋いでいた。
足元は短い植物と乾いた砂、ゴロゴロした中小の石が転がっていて、酷く歩きにくい。
だから命綱で繋ぎ、緩やかな――しかし滑落すればおそらく止まれない――傾斜を進んでいる。
忍里の山ほど非常識ではないが、一方で常識的な登山が延々続くのもキツい。
ちなみに命綱の先頭は瑠衣、最後列が禊で、村田と知己を挟み込む形になっていた。
(それだけでも相当に情けないけど、でもこの
半ば無理に――むきになってついて来たのだが、村田はすでに後悔していた。
というか、この数日間ずっと山登りである。いい加減うんざりだ。
しかしそうは言っても、得体の知れない忍者に囲まれて過ごすのも忌避感があった。
「それで!
「そうですね……」
禊の怒声を背に、瑠衣は周囲を見渡した。
空を見上げ、懐から地図を取り出して位置を確認した。
「もう少しです! このまま進みましょう!」
後ろにそう叫び返して、さらに村田に声をかけた。
声を出すのも億劫な気分で、村田は「大丈夫だ」と手を上げた。
女の子、しかも後輩の前で、いつまでもへばってはいられなかった。
自分にだってそれくらいのプライドはあると、村田はそう思った。
それに、やはり仲間と一緒にいるというのは安心した。
鬼殺隊壊滅直後は、瑠衣や知己と出会ったあの町に至るまで、ずっと1人で逃げ回っていた。
毎日が不安で、今日のことばかりで、明日のことなど考えていられなかった。
今は違う。少なくとも今は、明確な任務がわかる。
それだけで、村田は充実していた。
「ばうっばうっ」
「ええ、その岩は避けましょう。コロさん」
もういくらか日没の時間か、という時になって、コロが吠えた。
この犬は瑠衣のさらに前を進んでいて、事実上の先導役になっていた。
村田が知るどんな犬よりも賢く、瑠衣の言葉をきちんと理解しているとさえ思えた。
「やっと来た! 遅いですよ――――ッ!」
コロの声に頭を上げたところで、
何だと顔を上げると、小さな何かが手を振ってぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
「瑠衣さ――――ん。お久しぶりです――――ッ!」
ひょっとこの面。刀鍛冶だ。
小さいのは小鉄で、その傍に大人の刀鍛冶が立っていた。
男にしては髪の長い。鉄穴森だった。
小鉄と鉄穴森が、陽光山の入口で、瑠衣達の到着を待っていたのだった。
◆ ◆ ◆
――――
傍で仲間達が食事をする音を聞きながら、しかし彼は1人、何も口にしていなかった。
空腹は、感じている。渇きも、覚えている。
だが、彼は何かを口に入れようとはしなかった。
「俺は、満腹だ」
考えていることと真逆のことを、言ってみた。
もちろん、そんなことで空腹や渇きがなくなるわけではない。
だが言葉に出して言ってみると、つまり耳でその言葉を聞くと、何となく本当のような気になる。
ほんの
「俺は、満腹だ」
だから彼は、何度もその言葉を口にした。
それはまるで、自分自身にそう言い聞かせているかのようだった。
そうやって自分を納得させないと、空腹に負けてしまいそうだからだ。
何故、そこまでするのか。正直に言えば、実は彼自身にもわかっていない。
腹が減っているのなら、食べれば良いのだ。
渇いているのであれば、潤せば良いのだ。
食べ物がないわけでは無い。周囲では仲間達が普通に食事をしている。
それなのに、自分はどうしてそれに手を伸ばそうとしないのだろう。
「俺は、満腹だ」
また、同じことを言った。
今度は少し、効果が弱かったような気がする。
当然だろう。
何度も繰り返せば、嘘も効果を失う。
「俺は、満腹だ」
それでも、繰り返した。
他に頼るものもない。
この言葉をやめれば、その時こそ、自分は耐えられなくなる。
そんな恐怖感が、彼の唇を動かしていた。
怯えながら、彼は自分自身に言い聞かせ続けていた。そして、
「俺は」
嗚呼。誰か、誰でも良いから。誰か。誰か、早く。
早く、来てくれ。そして。
そして。嗚呼、そしてどうか、どうか。
「満腹、だ」
最後までお読みいただきありがとうございます
新年あけましておめでとうございます。
月2回の更新だと、今年もどこまで話が進むかわかりませんが、気長にお付き合いいただけますと幸いです。
それでは、また次回。