鬼を組織として捉える時、上弦の伍・鳴女の存在は必要不可欠なものだろう。
何故ならば彼女以外の上弦はおしなべて武闘派であり、政事向きではない。
まして日本全土に散っている鬼の管理となると、鳴女にしかできない。
鬼舞辻無惨は全土の鬼の把握はできるが、管理しようという意識が無いからだ。
「
他の上弦と違い、鳴女は首相官邸――今や鬼舞辻無惨の居城――から動くことが無い。
無惨の膝元に座し、無惨が気にも留めないような細かな仕事をこなしている。
人間の政治に当てはめるのであれば、内閣
最も、
「やはり陽光山。産屋敷の手の者がかかってくればなお良かったのですが。まあ、良いでしょう。
べべん、と、手にした琵琶が掻き鳴らされる。
その場では、何も起こらない。
しかし長く艶やかな黒髪の覆われた顔の下では、大きな一ツ目が妖しく動いていた。
だがその目が見ているものは目の前ではなく、遠く離れた場所の光景だ。
血鬼術。目玉の使い魔を放ち、彼らが見たものを見ることが出来る。
探知探索と情報収集に長けた血鬼術であり、平時においては無惨をして「最も役に立つ」と評す血鬼術だ。
そして鳴女の使い魔は、今や日本全土に隈なく散らばっているのである。
「鬼狩りの残党狩り。無惨様のお気持ちを煩わせることはありません」
鬼殺隊壊滅後、使い魔で虱潰しに生き残りの鬼狩りを探し、そして殺してきた。
ただ、鳴女自身には戦闘能力はほとんど無い。
だから鬼狩りを見つけた場合、適当な鬼を能力で運んで送り込んでいた。
しかし今回の場合、並の鬼では難しいだろう。
「俺に行かせろ」
その時、珍しく声をかけられた。
無惨以外に鳴女に声をかける存在は少ない。無惨でさえ命令以外に声をかけることも無い。
誰かと思い、鳴女は目を――目の前を見る、という意味で――向けた。
「あの女には、借りがある」
なるほど、と鳴女は思った。
それに自分で行くと言ってくれているのなら、説得する手間も省けて楽だった。
大して考え込むこともなく、鳴女は了承の意を返した。
◆ ◆ ◆
猗窩座という鬼の厄介な点は何かと言えば、小細工がないところだ。
他の鬼のように、罠を張ったり何かの現象を起こしたりということが無い。
「はあああ……ッ!」
そしてその
刃を拳の甲で弾き、予備動作なしで蹴りを放ってくる。
真下から放たれたその攻撃を、瑠衣は
大きく回避はしない。大きな動作で避ければ、次の攻撃に対処できないからだ。
実際、次の一瞬で猗窩座は腰を落としていた。
伸び切った瑠衣の腹に、硬く握られた右拳が繰り出される。
「……!」
直前、猗窩座がそのまま体を半回転させた。
腕を後ろに振るい、拳大の石を砕き払ったのだ。
そしてその直後、足裏で地面を削るようにして、猗窩座の腕の下に禊が滑り込んで来た。
しかし勢いがつき過ぎたのか、
――――欺の呼吸・弐ノ型『面子』。
猗窩座の懐で、禊の日輪刀が二つに割れる。
両手に持った短槍。突き上げの攻撃は、猗窩座の胴体を狙っていた。
禊と猗窩座の視線が交錯する。拳が槍を迎撃せんと動いた。
「無駄な小細工だ」
――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐風樹』。
その背中で、瑠衣が斬撃を繰り出す。
先程からその繰り返しだった。瑠衣と禊で挟み、本命と牽制を入れ替わる。
だが何度繰り返しても、2人の攻撃はどれ1つとして猗窩座の頚には届かなかった。
「『破壊殺』……」
―――『砕式・万葉閃柳』。
2人の攻撃の一切を無視して、猗窩座は地面を殴りつけた。
そして彼の拳は、地面を砕いた。
坑道の固い岩盤が罅割れて爆ぜる様は、彼がいかに人の域を超えた存在なのかを伝えて来る。
(相変わらず……!)
それだけで、瑠衣も禊も吹き飛ばされた。
小石が顔に当たっても目を閉じなかったのは、目を閉じた瞬間に死ぬからだ。
実際、猗窩座は次の瞬間には、瑠衣の目の前で拳を振り下ろそうとしていた。
禊とは距離が離れている。今までのように牽制で気を逸らすことは出来ない。
「バウッ!」
やられると思った時、瑠衣と猗窩座の間に割り込む者がいた。
日輪刀を咥えたコロが、前傾姿勢で唸り声を上げて威嚇していた。
猗窩座の目と表情は一瞬「犬?」と言いたげなものになったが、しかし攻撃を止めることは無かった。
その一撃がコロを苦も無く叩き潰すだろうことは、想像に
「――――コロさん!」
全身に血が巡るのを、瑠衣は感じた。
◆ ◆ ◆
だが、すぐに違うと気付いた。
自分の腕を斬り飛ばして、犬を抱えて着地した瑠衣の顔に、羽根のような、燃える炎のような痣が浮かび上がっていたからだ。
(痣が発現。速度が上がったな)
鬼狩りが発現する痣。それを、猗窩座は知識として持っていた。
だから瑠衣の動きが格段に良くなっても、慌てることは無かった。
一瞬の思考の間に、斬られた腕も再生している。
そして、ここで猗窩座は考えた。
痣については確かに驚いたが、想定外というほどではない。
犬の剣士にも驚きはしたが、それだけだ。
一応は刀を構えてはいるが、他の2人の剣士も問題にならない。
「――――殺すぞ、そろそろ」
猗窩座の足元に、雪の結晶のような紋様が浮かび上がった。
まるで羅針盤だ、と瑠衣は思った。
だがそれをどういう意味を持つのかは、まだわからない。
わかっているのは、猗窩座が明確な殺意を向けてきている、ということだ。
「俺は弱者が嫌いだ。女と戦うのも嫌いだ。いつまでも付き合うつもりはないぞ」
それは、最後の警告だった。
実際、猗窩座はこれ以上の時間、戦うつもりが無かった。
ここは坑道。陽の光が差すこともない。いつまでだって戦える。
だが時間が経てば経つ程、体力を失っていく人間の動きは鈍る。
最強の状態で戦い、そして討つ。それ以外に意味はないのだ。
(脅しじゃない)
それは、瑠衣にも良くわかった。
猗窩座の全身から漲る闘気は、離れていても肌を刺して来る。
次に交錯した時、瑠衣の胴は上下に別れているだろう。
そして瑠衣が殺されれば、この場にいる他の者も皆殺しだろう。
(……討たないと)
今、ここで。次の一撃で。猗窩座の頚をとる。
そうしなければ、全滅する。
瑠衣がそう考えた、その時だった。
「
禊が、音もなく猗窩座の傍に立っていた。
それは、戦いの動きでは無かった。
「
どこか、言の葉も妖しい。
はんなりとしていて、とでも言おうか、戦いに汚れた顔が酷く蠱惑的に見えた。
そしてその顔に、猗窩座は拳を向けた。
大きく後ろに反り、さらに跳んで、禊はそれを回避した。
拳が掠めたのだろう。隊服の胸元が大きく破れて、下の着物が露出した。
「禊さ……」
瑠衣は助けに出ようとした。
しかし禊が向けて来た目を見て、足を止めた。
何かを、しようとしている。それがわかった。
「この着物……」
そっと胸元に手を置いて、禊は小首を傾げていた。
それはおよそ、戦いの仕草ではない。
胸元に当てた手をそのまま口元に運び、小指で唇を押さえる。
「似合うかしら? あなた」
そして、酷く楽し気に微笑んだのだった。
◆ ◆ ◆
(違うわね。
視界の端に拳の閃光を捉えながらも、禊は猗窩座を見つめていた。
猗窩座は不快そうな表情を隠そうともしていない。
だから、
それにしても、見事な鬼だ。
花街で戦った上弦も相当だったが、攻撃の密度が段違いだ。
拳打のはずだが、攻撃が濃密で速いせいで線に見える。
攻撃線とでも表現すべきか。その線に触れれば、おそらく死ぬ。
「もう、乱暴なお人。そんな……っと」
また一つ。拳の線が走った。これも違った。
隊服が破れているせいで着物の袖が外に出ていて、体捌きがやや乱れている。
だから、回避がいちいちギリギリになる。
ふと視線を向ければ、瑠衣がこちらを見ていた。
おそらく自分の意図がわからず、困惑しているのだろう。
いい気味だと思う反面、自分でもどうかと思ってはいた。
ただ、不意に思い付いてしまった。気付いてしまったのだ。
(鬼も人間も同じよ。鬼になったからって感情がなくなるわけじゃない)
鬼は理性を失った化物ではない。むしろ逆だ。
己の感情に、欲望に素直という意味では、鬼はより人間らしい生き物だ。
弱者と戦いたくない。つまり強者との戦いを望むのも、そうだ。
そして、女と戦いたくないということも。
(拳で、正面から戦う。血鬼術も嵌め系じゃない。つまり硬派。
強者を尊ぶ。何故か、己の強さを証明するためだ。
何故、己の強さを誇示したがるのか。
自己顕示欲。それはあるだろう。
しかし猗窩座は弱者を嫌っているのであって、見下しているわけではない。
つまり、この鬼は。この男は。
「禊さんッ!」
嗚呼、五月蠅い。ちょっと静かにしてなさいよ。
視界の中央、猗窩座の拳が正面に見えた。
次で死ぬ。
その刹那の一瞬で、禊は自分を
「――――……あなた」
――――儚くて。
弱くて。
吹けば倒れてしまいそうな。
それでいて、優しく微笑みかけてくれるような。
「
その顔に、その顔の前で、猗窩座の拳が止まった。
そして自分自身のその行動に、猗窩座自身が困惑しているのが見て取れた。
目の前で止まった――風圧を感じた。振り抜かれていれば頭がなくなっていただろう――拳をくぐり、禊は鋼糸を手繰り寄せて、散らした日輪刀を。
「うわあああああっ!!」
その時だった。
倉庫の中に押し込められていたはずの小鉄が飛び出してきて、何かを投げつけて来た。
次の瞬間、小鉄が投げたそれが火を噴き、轟音を立てたのだった。
◆ ◆ ◆
発破、というものがある。
爆発の規模自体は大きくはないが、その振動はビリビリと空気を揺らし、その場にいる全員を打った。
「
投げているのは、小鉄だ。
鉄穴森が羽交い絞めにして止めているようだが、聞く耳を持っていない。
倉庫の中にあったらしい発破に火をつけては、次々に投げている。
村田などは「ちょおおお!」と大騒ぎだ。
当然だろう。坑道で爆発など、下手をせずとも命に関わる。
それでも、猗窩座にとってそれは脅威にはならないはずだった。
銃弾でも爆弾でも、鬼を殺すことは出来ない。まして上弦。瞬く間に再生する。
にも関わらず、猗窩座の反応は遅れた。
というより、猗窩座は発破の爆発に気付いてさえいなかった。
(なんだ)
目の前に立っている禊を見つめて、目を見開いている。
拳を振り抜いた姿勢のまま、固まっている。
(女……)
目の前にいる女を攻撃することを、何故か、肉体が拒否していた。
(着物、かんざし……この声音)
そんなはずは無いのに、猗窩座は禊をどこかで知っているような気がした。
いや、正確には――――こんな女を、知っている気がした。
もちろん、猗窩座は肉体を精神で抑え込む
だから停止は一瞬だ。爆発の余波に空気が揺れる、ほんの一瞬だけだ。
だが、その一瞬は。
「――――!」
――――欺の呼吸・真壱ノ型『器械人形』!
――――風の呼吸・捌ノ型『勁風・天狗風』!
その一瞬に飛び込む形で、禊と、そして瑠衣の斬撃が猗窩座を穿った。
「……ッ。硬い……!」
2人の攻撃は的確に左右から猗窩座の頚を打った――まるで、鋼同士が打ち合うような硬質な音だった――が、浅く皮膚と肉を裂いた程度だった。
硬い頚だ。隙を突く形では弱い。
やはり、正面から腰を入れて両断しなくては。
「お2人とも、危ない!」
その時だ。鉄穴森が声を上げた。
爆音に途切れがちだが、同じことを叫び続けているのだろう、声は届いた。
「
鉄穴森の声が届くとほぼ同時に、足裏から重苦しい振動が伝わって来た。
その振動を感じ取るや、瑠衣は動いた。
◆ ◆ ◆
知己は、
地面を、あるいは落ちて来る岩を踏み砕きながら、瑠衣が駆けていた。
いったいどういう駆け方をしているのか、知己の目には瑠衣の姿がブレて見えた。
「禊さん!」
「はあ!? ちょ……ぐえっ」
瑠衣はまず、禊のお腹を――比喩ではなく、物理的に――肩に抱えるようにして、その場から離れた。
小鉄の投げた発破はそこが最も激しく、従って落盤の規模も大きかったからだ。
そして禊を抱えてもなお、瑠衣の脚力は衰えなかった。
「何よ、逃げるわけ!?」
「これ以上は無理です!」
そんな2人の背後で、閃光が走った。遅れて発破よりも激しい爆発音が響く。
抱えられている禊は、それが猗窩座が瓦礫を殴り砕く音だということを知っていた。
猗窩座が再起動した。
この状況下では、確かに人間側が圧倒的に不利だった。
「村田さん! 舟生君! 掴まってください!」
「え、え!?」
「掴まるってどういうこと!?」
村田を背負い、知己を前に抱く形になった。
いくら呼吸使いとは言え、3人も抱えて速度を落とさないというのは尋常ではない。
さらに瑠衣は、そのまま鉄穴森と小鉄にも手を伸ばした。
意図を察した鉄穴森は、小鉄を放り投げた。
「小鉄君を頼みます!」
「ちょ、鉄穴森さん!?」
不味い、と、瑠衣は思った。
頭上の崩落速度と背後の猗窩座の圧力から察するに、全員を抱えた状態で鉄穴森まで救いには行けない。
そうした瑠衣の躊躇を察したのか、禊が瑠衣の背中に膝を撃ち込んだ。
ぐえ、と今度は瑠衣が呻く番だった。
さらに禊は村田を掴むと、そのまま着地した。
舌打ちしつつ、そこからは自分の足で全速力で駆け始めた。
「男まで抱えてるんじゃないわよ! 自分で走れ!」
「それはそーだけども! もうちょっとやり方があるだろ!?」
「気安く話しかけてんじゃないわよ!」
「理不尽すぎない!?」
さらに、小鉄だ。
受け止めようと利き足で踏み留まったが、小鉄が瑠衣の腕の中に落ちてくる前に、空中で小鉄の襟元を咥えて駆け出したのは、コロだった。
小鉄の足をズルズルと引きずりながら――「あいたたたたっ」――コロが駆けて行った。
それらを見て、瑠衣は息を深く吸った。
そうして空気を深く吸い込んだ後、歯を噛んだ。
気のせいでなければ、口角が上がっていた。
「舟生君、鬼が攻撃してきたら教えてください……!」
「え、はい!」
ミシ、と、足から音がした。
呼吸で足回りの筋肉を強化しているため、圧迫された骨が軋んでいるのだ。
小石ず頭上からぱらつき、瑠衣の身体を打っていた。
同時に、背中に明確な害意の膨らみを感じた。
「来ます!」
知己の声に合わせて、瑠衣は跳んだ。
すると自然、猗窩座の攻撃も上を向くことになる。
そして瑠衣が天井の岩盤に着地すれば、猗窩座の攻撃の着地点も自然と岩盤となる。
「……
「貴様……」
「
天井の岩盤が、崩落した。それは猗窩座を押し潰す。
いかに鬼とは言え、物理的な質量に対してはどうすることも出来ない。
一瞬早く跳躍した瑠衣だけが、すんでのところで岩盤を擦り抜けた。
とは言え、足裏に瓦礫が落ちる感触を感じている。それほど僅かなタイミングだった。
だがそのおかげで、鉄穴森の腹を抱える――「そのやり方はどうにかならないわけ?」――ことが出来た。
「えーい、おまけだ喰らえ!」
そしてコロに引きずられながら、小鉄が残りの発破を全て投げていた。
派手な爆発音を背中で聞きながら、瑠衣は駆け続けた。
◆ ◆ ◆
まあ、要は逃げ出したということだった。
坑道が崩落する音を背中で聞きながら元来た道を通り、外へと転がり出た。
直後、腹の底を揺らすような音と共に赤茶けた土埃が坑道の口から噴き出し、地面に倒れ込んだ全員を包み込んだ。
「げほ……っ。皆さん、無事ですか?」
「な、なんとかあ……」
とは言え、坑道の外に出れば陽光山だ。
土埃もすぐに晴れ、空からは燦々と陽光が差し込んで来る。
陽光の射す場所に鬼は現れない。安全圏だった。
「し、死ぬかと思った……というか、お前! いきなり何だよ! 正気か!?」
真っ青な顔で地面に手をついたまま、村田が言葉を向けたのは小鉄だった。
それはそうだろう。坑道で発破を使う。しかも間近で。普通ならあり得ない判断だ。
だから村田の言葉は当然のもので、小鉄も反論する様子は無かった。
と言って、小鉄は俯くばかりで何かを言う様子は無かった。
疲労や不満というより、どこか消沈しているように見えた。
だからなおも言い募ろうとする村田に手を向けて、瑠衣は小鉄の傍に膝をついた。
小鉄は、体ごと瑠衣から顔を背けていた。
「すみません」
言葉を発したのは、鉄穴森だった。
その顔――はひょっとこの面で見えないが――を見て、瑠衣は言った。
「……
びくりと、小鉄の体が震えるのを見た。
それで、十分だった。
小鉄の想いも、鉄穴森が口籠るのも、それだけで良くわかった。
ここに来る前に小鉄の様子がおかしかった理由も、
「…………これだけです」
唯一、倉庫から確保したのだろう。
鉄穴森は懐から砂鉄袋らしきものを2つほど取り出した。
それと、小さな鉄の
それだけだった。それが、今回の戦いの戦果だった。
鉱夫衆は全滅した。そして、
日輪刀の供給体制は崩壊した。
上弦の鬼に鉱山の場所を特定されてしまった以上、再建も不可能に近い。
まして坑道は今、落盤により完全に塞がってしまった。
「僕のせいです」
その時、口を開いたのは知己だった。
地面に両膝をつき、拳を握り締めて、肩を震わせていた。
全員の視線が自分に向くのを感じながら、彼は言葉を続けた。
それはきっと、止めようのない独白だっただろう。
「僕は……僕は、政府の密偵だったんです」
密偵。間諜。スパイ。言い方は様々だが、意味は同じだ。
鬼殺隊は、政府非公認の組織だ。そして非公認とは、知らないことと同義ではない。
普通に考えて、政府がそんな
無限列車事件のようなことが起きるなら、なおさらのことだ。
鬼殺隊から、産屋敷家から自発的に提供される情報などは信じない。
となれば、自ら調べる。人を送る。その内の1人が、舟生知己という少年だった。
鬼殺隊とはいかなる組織か。規模は。資金源は。そして、
そうした情報を政府に上げ、鬼殺隊が国家に仇なす存在であるか監視していた。
そして政府は、鬼の手に落ちた。だから。
「だから、鬼に鬼殺隊の……拠点とかが、漏れたのは……」
抱き締めた。
瑠衣は、小鉄を抱き締めた。
胸の中に少年の頭を掻き抱く。腕を掴む小鉄の手が、震えていた。
深く、本当に深く、瑠衣は息を吐いた。
(どうして)
もしもこの世に神様というものがいるのなら、聞いてみたかった。
どうしてこんなにも、残酷なのか。苦しみを、与えるのか。
もう無理だと、どん詰まりだと、そう伝えようとでもしているのか。
そして直接、こう言ってやりたい。
「
私達は、何も、諦めていない。
「だって、私達はまだ生きています。上弦と遭遇しても、まだ生きています」
どんなに苦しくても、どれだけ絶望的な状況でも。
生きている限り、終わりじゃない。
まだ、続けられる。生き続けることが出来る。
「生きているのなら、頑張れます。まだ終わりじゃありません」
そうでしょう。と、瑠衣は言葉を胸元に落とした。
小鉄は、まだ震えていた。
ブルブルと震えて、そして瑠衣の胸の中で顔を上げた。
ひょっとこの面の隙間から、ボロボロと涙の雫を流しながら。
「当然ですよ……!」
そう、言ったのだった。
それを言葉ごと抱き締めて、瑠衣は言った。
「皆が無事で、本当に良かった」
今は、それが勝利だった。
余りにもささやかで、何の意味もないかもしれないけれど。
瑠衣にとっては、そうだった。
――――あるいは、そう思わないことには……。
◆ ◆ ◆
山を下りる時は、かなり気を遣った。
空間転移型の血鬼術に捕捉された以上、どこかで追撃を受ける可能性を捨て切れなかった。
当たり前の話だが、落盤ごときで上弦を排除できるとは思っていない。
「ばうっ!」
ただ、ある方向に行こうとするとコロが吠えた。
もしかすると、鬼の臭いを覚えているのかもしれない。
後輩を1人思い出して少しだけ笑ったが、すぐに消えた。
コロの警告に逆らおうとする者はいなかった。
そして実際、無事に山を下りることが出来た。
ただ、下山するだけで2日もかかってしまった。
水と食料は何とか山中で確保したが、それでも一行の疲労は隠しようもなくなっていた。
「今日は、ここで野営しましょう」
山中の小川に至ったところで、瑠衣は全員が限界だと判断せざるを得なかった。
陽光山は下りたが、麓の集落に入ることは出来ない。
古いお堂でもあれば良かったが、見つけられなかった。
もっともお堂があったとして、安全だという保証はもちろん無い。
仮に鬼がいなくても人がいれば、それだけで通報の危険があるからだ。
やはり、忍里に戻るまでは安心できない。
「周りの確認をしながら、薪を集めて来ます。えっと」
「了解。俺は魚でも獲ってる。得意なんですよ」
「それなら僕の方が得意ですよ! 罠とか!」
「釣るんじゃないのかよ!」
村田も小鉄も、足取りは重いが口は軽かった。
あえてそうしていると言うのが、瑠衣には良くわかっていた。
だが、今はそれが必要なのかもしれない。自分にとっても、誰にとっても。
「禊さん、ここをお願いします」
「言っておくけど、わたしは何もしないわよ」
「はい、それで大丈夫です」
舌打ちが返事だった。
付き合いも良い加減に長くなってきたので、今さら傷ついたりはしない。
逆に、今はそういう禊の変わらない態度が有難くすらあった。
それから、知己の肩に手を置いた。
擦れ違い様に、軽くだ。ぐっと力込めた。
上手く微笑むことが出来たかはわからないが、そうした。
(……父様や兄様のようには、いかないな)
結局のところ思うのは、それだった。
キツいな、と改めて思う。
けれど、やり続けなければならないことだった。
――――どこかで、猫が鳴く声が聞こえた。
◆ ◆ ◆
「優しいって思ってる?」
「え?」
森の中に消える瑠衣の背中を見送っていると、不意に禊が声をかけてきた。
ただそれだけのことだが、これは実は物凄いことだった。
何故なら今まで、禊が知己個人――というか、彼女は誰に対しても同じような態度だが――に声をかけるというのは、無かったからだ。
「そういうのは、優しいんじゃなくて――――残酷って言うのよ」
そして、それは会話では無かった。
禊は知己の方を見てすらいなかったし、むしろじゃれついてくるコロに対して追い払うような仕草をする方を優先していた。
だからそれは、もしかしたら、独り言に近いものだったのかもしれない。
そして知己は、禊の言葉の意味を少し考えた。
優しいのではなく、残酷なのだということ。
それは、確かにそうだと思えた。瑠衣は、誰かを責めたりはしなかった。
責めてほしいと思うことさえ許されない。
そんな気がして、それは確かに、残酷という表現が合っているような気がした。
「……
知己を横目に、禊はそう呟いた。
しかしその呟きは知己に届くことは無かったし、彼女も誰かに聞かせるつもりも無かった。
全く、と、額を揉みながら嘆息する。
皺が寄ったらどうしてくれるのだ、と、そう思いながら。
「――――ありがとうございます。茶々丸さん」
森の中に入ってしばらくすると、瑠衣は足を止めた。
そうして地面にしゃがんだ彼女の膝に、白い毛並みに茶色の柄の猫が両手を置いていた。
茶々丸というその猫は小さな鞄を背負っていて、さらに首に奇妙な紋様の描かれた札を下げていた。
明らかに野良猫ではない。
瑠衣は一言告げて、その鞄から2つの物を取り出した。
小箱が2つ。1つは注射器が入っていて、これは血液を採取するための物だった。
誰の血液かと言えば、瑠衣だった。
それについては、瑠衣は慣れた手つきで終わらせた。
採取した血液と共に、鞄の中に戻す。
「珠世さんと愈史郎さんによろしく伝えてください」
にゃあ、と鳴くと、不思議なことに猫の姿が見えなくなった。
愈史郎の姿隠しの血鬼術だ。
あの猫は、珠世と愈史郎の飼い猫なのである。
「……ふう」
嘆息を1つ零して、瑠衣は手元に残った小箱を開けた。
その中には小さな容器が入っている。ガラス越しに液体が見える。
蓋を外すと、顔を上げて、瑠衣はそれを目の上に持ち上げた。
逆さにして、軽く押す。針の先程の先端から雫が1つ、目に落ちた。
それは、いわゆる目薬というものだった。
「ん……」
染みたのか、目頭を押さえて俯いた。
そのまま、しばらくじっとしていた。
はあ、と大きく息を吐いたのは、どれくらい後だっただろうか。
「……………………はやくきて、父様」
その呟きを聞く者は、誰もいなかった。
◆ ◆ ◆
鬼殺隊の壊滅により、鬼を狩る者はいなくなった。
そのため鬼の
だから国家にしろ町にしろ、これまで通りの運営がされるのがほとんどであったし、それは帝都・東京でさえ例外では無かった。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「はい」
だから今でも日本政府は存在するし、総理大臣も存在する。
つまり総理大臣公邸――執務を行う官邸に隣接する平屋造りの建物――は今日も変わらずに存在し、そこで働く女中もまた、いつも通りの日々を過ごしているのだった。
変わったことがあるとすれば、働き者の女中が1人、新たに入居したことぐらい。
そして……。
「さて、今日こそ本丸ね」
そして、その女中――雛鶴が、夜な夜な公邸の中を探るようになった、ということだった。
ただ、探ると言っても政治的な何かしらを調べているわけではない。
今の総理大臣は前陸軍大臣らしいが、雛鶴の目的はそこではないのだった。
「何とか、無惨の情報を。無惨を倒す方法を……」
実を言えば、今、雛鶴に命令する者はいない。
剣士でも呼吸使いでもない雛鶴は、その気になれば
彼女の主人は、むしろそうすることを願ったかもしれない。
だが雛鶴は、彼女達はそうしなかった。
女中の衣装を脱ぐと、露出の高いくのいちの衣装が現れた。
窓から外に出て、身軽な動作で屋根に上がる。
今日までは比較的安全そうな場所から探っていたが、これと言った情報は見つからなかった。
他の女中や公邸で働いている人間も、多くは知らない様子だった。
(そうなると、やっぱり首相の部屋か……あるいは、いっそ官邸に。いえ、流石に官邸は危険すぎる)
だから、今日はより核心に触れそうな場所を調べるつもりだった。
予め鍵を開けておいた窓から中に戻り、人気を確認しながら、目的の部屋へと近付く。
家人は全員が寝静まっているのか、足音ひとつ聞こえなかった。
目的の部屋は、すぐに見つかった。
地方に視察に出ているので首相はいない。つまり、今日は無人のはずだった。
「…………」
息を殺して、ドアノブを回す。
「――――何をしているの?」
ドアノブを回そうと手に力を込めた、その時だった。
雛鶴の顔を、小さな、白い掌が覆った。
後ろからだ。誰もいなかった。絶対に誰もいなかった。
今、雛鶴がいるのは邸宅の通路だ。後ろには、壁と、そして窓しかない。
だが窓は鍵が閉まっている。雛鶴が入った窓も、内側から鍵をかけた。
だから、誰かが、顔を掴める程の距離にいるはずがない。
「
ぐい、と、後ろに引かれた。
逆らい難い程の力で後ろに引かれたが、何にも頭をぶつけることは無かった。
とぷん、と、まるで水に飛び込むかのように
血鬼術だと、すぐに気付いた。
「悪い人は、亜理栖のおうちに連れて行かなくちゃ」
目だけで、何とか横を見る。
金髪の、西洋人形のような女の子の――鬼の横顔が、見えた。
それと同時に、足先まで取り込まれてしまった。元の場所の景色が遠ざかって行く。
天元様、と、雛鶴は心の中で声を上げた。
最後までお読みいただき有難うございます。
あれ、おかしいな……何でどんどん主人公達が追い詰められているのだろう。
日輪刀の供給が止まったら詰むじゃないか。
正直ここから逆転する手が思いつかないんだけど(え)
それでは、また次回。