瑠衣に会いに行かなければならない。
そう珠世に言われた時、愈史郎は露骨に嫌そうな顔をした。
何故ならば、彼にとって煉獄瑠衣という少女は――というか、珠世以外の存在は――どうでも良いものだったからだ。
愈史郎の望みはただ、珠世との静かな生活だけだった。
彼の血鬼術をもってすれば、誰とも関わらず、珠世と2人きりで、ひっそりと暮らすことは簡単だった。
ただ、珠世がそれを望んでいないことも理解していた。
だから口に出して反発することは無い。無いのだが、しかし顔には出すのだった。
「わかってはいるんだよ、これでも」
みゃう、と鳴くのは、オスの三毛猫――茶々丸である。
珠世がどこかから連れて来た飼い猫で、動物とは思えないほど賢く、落ち着いた猫だった。
まあ、あのコロとかいう犬も相当に犬らしくないが。
「ただ、何もこんな危険な場所にまで来なくても良いじゃないか」
危険。そう、危険だった。
今は愈史郎の血鬼術『紙眼』――目を描いた呪符を貼り付けることで人や物を隠す術――で隠した家屋の中で、珠世と瑠衣が2人で話している。
困窮した下級華族が手放した屋敷で、手入れもされておらず荒れかけているが、密談をするには十分だった。
ただ愈史郎の術は隠すだけなのであって、存在を消す術ではない。
だから見つかる時は普通に見つかる。
珠世と愈史郎自身の戦闘力がそれほど高くないことを考え合わせれば、こんな、敵の本拠地とも言える場所にいるのは自殺行為だった。
「みゃう」
短く鳴いて、茶々丸が尻尾を振った。
ガタガタ言うんじゃない、と言われたような気がして、愈史郎は鼻を鳴らした。
猫なんぞにわかってたまるか、と、反発じみた想いまで感じた。
「愈史郎」
それでも、愈史郎にとっては珠世の意思が絶対だった。
珠世がそれをしたいと言えば手伝うし、どこに行きたいと言えばついて行く。
決して、独りきりにはさせない。
「愈史郎、お願いが……そんな顔をしないの」
「すみません。でも無理です」
まあ、顔には出すが。
その時、珠世の後ろに立つ瑠衣と目が合った。
顔色は良くはなかったが、元気がないという風ではなかった。
もっとも、瑠衣に元気があろうがなかろうが関係なく、愈史郎は彼女が嫌いだった。
何故ならば、瑠衣がいるからこそ、珠世はこんな危険な場所にやって来たのだから。
◆ ◆ ◆
屈強な警備兵の真横を、擦り抜けた。
相手の呼吸音さえ聞き取れるような、至近距離だった。
しかし、警備兵が瑠衣に気付くことは無かった。
(これが、愈史郎さんの血鬼術の効果)
瑠衣は額に、奇妙な札を貼り付けていた。
そのため少々間抜けな格好になっていたのだが、しかしこの札のおかげで、警備兵に瑠衣の姿が見えなくなっているのだった。
いくつか注意事項はあるものの、これは便利だった。
(もう少し我慢してくださいね)
腕に抱いたコロの頭にも、瑠衣と同じ札が貼られている。
警備兵の脇を擦り抜けたは良いものの、正門をそのまま開ければ怪しまれる。
だが、そこは呼吸の剣士。
ふっ、と跳躍し、正門をそのまま飛び越えた。
着地の際に僅かな音が立ったが、警備兵が気にすることはなかった。
仮に気にしたとしても、振り向いた時にはすでに瑠衣はその場から消えていた。
産屋敷邸の敷地内に入ると人気もなく、周囲を確認して、瑠衣は愈史郎の札を外した。
他の華族の邸宅と同じく、産屋敷邸も洋風の造りになっている。
「さて、どこかから中に入れると……」
そう思って視線を巡らせてみると、窓が開いている部屋が1つ、目に入った。
他の窓は全て閉ざされているのに、そこだけが開いていた。
危険な匂いがした。
ただここまであからさまだと、かえって「行ってやろう」という気にさせた。
そもそも、瑠衣はここに危険を犯しに来たのである。
「コロさん、どうですか?」
「ばうっ」
屋根に跳び、窓まで近付くことは容易いことだった。
コロに中を探って貰ったが、異常は無さそうだった。
そしてこの場合、異常が無い、ということ自体が異常だ。
明かりの無い室内に、瑠衣はコロを抱いたまま侵入した。
瞬間、ねっとりとした嫌な空気に全身を包まれた。
全身の肌が何らかの粘膜に触れ続けているような、そんな感覚だった。
窓を境界として、内外で空気の質が違う。
湿度が違うというようなことではなく、湿地の空気と砂漠の空気が全くような、そんな違いだ。
(何かあるとは思っていたけれど)
そして部屋の中には、たった1つの物しか置かれていなかった。
隠す気など毛頭ないと言わんばかりに、それは部屋のど真ん中に存在していた。
加えて言えば、それは瑠衣が見たことがあるものだった。
鏡面すらも血に覆われた鏡が、鎮座していたのだった。
◆ ◆ ◆
ある意味で、諸悪の根源と言えるだろう。
この血染めの鏡の持ち主である上弦の鬼・亜理栖のことである。
あの鬼の存在がなければ、鬼殺隊の現状はあり得なかった。
「それが、
くどいようだが、罠の可能性が高い。
しかし一方で、こうも思う。
つまり、こうだ。「こんな罠を仕掛ける意図は何だ?」。
何度も言うが、鬼殺隊は壊滅した。僅かに生き残った残党がいるだけだ。
たかだが残党狩りのために、こんな罠を仕掛ける必要があるのか。
そんな必要は、どこにも無い。
ただただ、圧倒的な戦力差で踏み潰せば済む話だ。
「…………」
「ばうっ」
「大丈夫です」
それは、思い付きですらなかった。
血染めの鏡に、手を伸ばした。
鏡面に触れる。水面のように、不規則に揺れた。
そこで止めず、さらに押し込んだ。
手首まで、鏡面の中に沈んで行った。
(
向こう側に何があるのかまでは、この時点ではわからない。
この状態で考えていても、仕方が無かった。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
大きく息を吸って、瑠衣は鏡の中に飛び込んだ。
そして鏡を潜った次の瞬間、瑠衣の目の前に現れたのは――――長い廊下だった。
果てが見えない程に、長い廊下だった。
しかも天井・壁・床に、戸や障子や畳が無秩序に敷かれている。
余りにも無秩序すぎて、一種のモザイク画のような不思議な迫力を見る側に与えていた。
そして、何よりも。
「ヴヴヴヴ……!」
「ええ、わかっています。コロさん」
コロでも、そして炭治郎でなくとも感じる、この
どこかから、という生易しいものではない。
すべてだ。全方位、あらゆる場所から、鬼の気配が漂っている。
直感的に、瑠衣は察した。
じわり、と、背中に冷たい汗が滲むのを感じた。
動けなかった。
迂闊に動けば、周囲のすべてが
そっと、その場に膝を着き、手を床に――襖だったが――置いた。
その次の瞬間、振動が来た。
「な……」
まず、地震か、と思った。
揺れは足元だけでなく、全体的なものだったからだ。
身体の芯にまで響く振動はしばらく続き、そして不意に終わった。
足元の床、もとい襖が、開いたからだ。
瑠衣は、浮遊感に襲われた。
◆ ◆ ◆
床の襖が突然開き、自由落下が始まった。
四方は障子や戸、畳が不規則に並ぶ壁。
そして、下はと言えば。
(底が見えない……!)
脇を見ると、コロがバタバタと四肢を動かしていた。
犬の体では、空中で姿勢を変えることも難しいだろう。
咄嗟に手を伸ばして、瑠衣はコロを小脇に抱えた。
その時だ。琵琶の音が聞こえた。
変化は、突然だった。
四方の壁が音を立てたかと思えば、四角い柱が物凄い勢いで突き出て来た。
しかもそれは明らかに、落下中の瑠衣を狙っていた。
「……ッ!」
羽織をムササビのように広げて、その抵抗で体勢を変えた。
そうして一方の柱に寄り、側面を蹴る。
四本の柱の衝突地点から身をかわして、再び自由落下に入る。
かと思えば、再び琵琶の音が聞こえた。
琵琶の音に呼応して次々に柱が飛び出し、こちらを押し潰そうと襲い掛かってくる。
四方から、あるいは同じ方向から2本3本と続けて襲ってくる。
しかしその全てを、瑠衣は空中で回避し続けた。
(戦闘向きの血鬼術じゃない)
厄介だが、回避できない程ではない。
問題があるとすれば、未だに着地点が見えないことだ。
もっとも着地点が見えたところで、このままの勢いで落ちれば
とは言え、戦闘向きではないのは血鬼術だけではなかった。
本当に瑠衣を殺そうと思うなら、問答無用で高所から落下させて殺せば良いのだ。
それなのに、わざわざ潰しに来た。
「シイイィィ……!」
羽織の抵抗で体勢を整え、柱を蹴る。
この作業をひたすら繰り返していく内に、瑠衣の落下速度は落ちていく。
柱は次々に瑠衣を襲ってくれるし、何よりも次はどこから出てくるかを音と事前の揺れで教えてくれるのだ。
ある意味で、こんなに回避しやすい攻撃はなかった。
「……っ。コロさん、離れないでくださいね」
「ばうっ」
やがて、突き出た柱の1本に着地することが出来た。
流石に勢い余って転がってしまったが、何とかコロを潰さずに済んだ。
ただ、手を放さずにいた。引き離されでもしたら厄介だったからだ。
べべん。再びの琵琶の音。しかし、今回はやけに近くから聞こえた。
柱の縁に立つと、柱――というよりは、舞台ほどの広さの場所が見えた。
そこに、琵琶を持った一つ目の女鬼がいた。
琵琶を鳴らし、壁や床に自らの髪を触手のように伸ばしていた。
「あれは……」
そして、もう1つ見えたものがあった。
女鬼の傍でモゾモゾと動く、目玉のような気味の悪い生き物だ。
それを見た瞬間、瑠衣は全身にカッと熱が生まれるのを感じた。
痣が、瞬時に顔に浮かび上がった。
「お前が」
陽光山を滅ぼしたのは、こいつだ。
◆ ◆ ◆
幾本もの柱が襲い掛かり、足場にした戸や襖が不意に開く。
それらが立てる轟音、あるいは乾いた音と、激しく掻き鳴らされる琵琶の音。
そしてその間を、瑠衣は縫うように跳んでいた。
さながら蝶のように。あるいは蜂のように。
――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』。
突進する。
すると、行く手を遮るように柱が左右から襲って来た。
空中で軌道を修正し、寸でのところでかわし、逆に足場にする。
そして、再びの突進。これを繰り返す。
(徐々に、近付かれている)
この時、上弦の伍――鳴女は、一心不乱にこちらを目指す瑠衣に対して、疑念を抱いていた。
脅威を感じる、程には追い詰められていない。
琵琶を弾き続けながら、鳴女は考える。
いったい、この人間はどこから入り込んだのか、と。
(無機物操作では仕留め切れそうにありませんね。ならば)
べべんっ。と、琵琶の音調が変わった。
すると、四方と柱の戸や襖が開いた。
今度は落とし穴のように瑠衣を嵌めようとするのではなく、
無数の異形の鬼が溢れ出て、唸り声を上げたのである。
命令は、非常に簡潔だった。
数十体はいようかという鬼が、一斉に瑠衣に襲い掛かった。
しかも、それらの鬼はただの雑魚鬼ではなかった。
(下弦程度の力を持つ鬼を――――
鬼狩りに頚を斬られることが激減した結果、力を増す鬼の数は一挙に増えた。
脅威に怯えることなく食事ができるのだから、当然と言えば当然だった。
もっとも、それでも才能の差は如何ともし難く、
しかし、物量で押し潰すにはちょうど良い戦力だった。
それに対して瑠衣は深く息を吸い、そして一気に吐いた。
ミシリ、と足元が音を立てて、そして砕けた。
疾走と跳躍。まさに、踊りかかるという表現がぴったりと当て嵌まる動きだった。
(最小限の道を進んで、やつの頚に手をかける!)
――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。
正面から群がる鬼の頚を、右から左に刀を振り抜いて斬り捨てた。
側面から瑠衣の頭を握り潰そうとした腕を蹴り、跳び、その先にいた鬼の頚を刎ねる。
攻撃を擦り抜け、擦れ違い様に頚を斬り、鳴女を目指した。
「ぎゃっ、こいつ!」
「捕まえろ! たかが1人だ!」
「おお!」
鬼達はムキになり、さらに密度を高めて瑠衣に群がった。
その顔面に、瑠衣は小太刀を叩き込んだのだった。
◆ ◆ ◆
実はこの時、瑠衣は1つ判断を間違えていた。
今の瑠衣の実力は――本人は強く否定するところだが――柱に匹敵する。
故に、下弦の域にやっと届く程度の鬼を何体繰り出して来たところで、対処は出来る。
(よし、このまま――――!)
ただし、瑠衣は1つ誤解していた。
「認めましょう。貴女の力を見誤っていたことを」
べべんっ、と、琵琶が鳴る。
その、次の瞬間だ。
鳴女の周囲の虚空に戸が生み出されたかと思うと、そこから再び鬼が溢れ出て来たのだ。
「
「……っ!」
瑠衣が誤解していた1点。
それは最初の五十体が
もはや下弦程度の力を持つ鬼など、鬼の世界では珍しくなくなっていたのだ。
つくづく、鬼殺隊の存在がなぜ重要だったのかを、瑠衣は実体験したことになる。
そして、もはや言うまでもないことだが。
人間には、限界がある。
全力疾走はいつまでもは出来ない。徐々に体が重くなり、視界が狭窄を始める。
瑠衣はすでに、どれほど走っただろうか。1分か、5分か。それ以上か。
「ヒャハハハッ、この数を相手にいつまで保つかなあ!」
「さっさと諦めな! そうすりゃ楽に殺してやるぜ!」
「誰が……!」
側面の鬼の顔面を蹴り、そのまま跳躍に入った。
その上で身を捻り、正面の鬼の頚に刀を打ち込んだ。
そこで、瑠衣の動きが止まった。
打ち込んだ刃が、頚の半ばで止まってしまったのだ。
硬い。しかし、それだけが理由ではない。
それをまさしく直に感じて、鬼が嗤った。
「おお? 弱い、なあ。力があ~……ゲエッ」
蹴りで押し込み、頚を刎ねた。
しかしそれによって、一手、いや二手、余分な行動が増えた。
その遅れが、致命的になった。
後ろ髪、いや後頭部を、別の鬼に掴まれた。
「ああっ……!」
コロが瑠衣の腕から逃れて、鬼の腕を切り付けた。
髪の数本を失いながら、瑠衣が前によろめいて逃れる。
だがその時には、瑠衣とコロは手遅れの位置にいた。
四方八方に、しかも多重に鬼がいて、抜け出す隙間が見出せなかった。
「終わりです」
鳴女が、今一度琵琶を弾こうと腕を上げた。
しかし、強く弾かれたはずのその音色は、瑠衣の耳には届かなかった。
代わりに聞こえたのは、別の音だった。
それは四方を囲む壁の1つから起こったもので、鬼達が何事だとそちらを見上げた。
彼女の手には火のついた筒状の道具――――発破が握られていて、次の瞬間、それを鬼の集団の四隅に投げ込んだ。
「は?」
と声を上げて、鬼達はそれを掴んだ。
手の中で火花を上げるそれを、彼らが覗き込んだ次の瞬間、その頭が吹き飛んだ。
無論、発破で鬼は死なない。
しかし感情はある。突然の爆発に、鬼達に動揺が走った。
動揺したその頚に、今度は明確な死が打ち込まれる。
――――欺の呼吸・真壱ノ型『器械人形』。
分割され、鋼糸で操られた短槍が、鬼達の頚を撃ち抜いていった。
日輪刀による攻撃。動揺がさらに広がった。
とはいえ当然、鳴女はその程度のことで動揺はしなかった。
(2人目。しかし結果は同じ……)
――――血鬼術『惑血・視覚夢幻の香』。
だが、次の手には動揺を隠せなかった。
どこかから強い匂いがしたかと思えば、鳴女の視界を不可思議な花々が覆ったからだ。
血鬼術。すぐにわかった。だが、
こんな血鬼術を、鳴女は知らなかった。
◆ ◆ ◆
そして、瑠衣は消えた。
鳴女の「目」をもってしても、そうとしか判断が出来なかった。
今の今まで目前にいたはずの人間が、影も形も存在しなかった。
気配さえも、感じることが出来ない。
(そんな馬鹿な)
この空間において、鳴女の知覚から逃れることは出来ない。
あり得ない。
しかし、そのあり得ないことが起こっていた。
いや、あり得ないことは最初からだった。
そもそも何故、瑠衣がここにいたのか。
あの乱入者もだ。どこから来た。
そして、2人揃って――犬も含めて――どうやって、消えた。
(この空間で、私の意図しない移動が行われたとしか)
あり得ない。あり得ない。そして、あり得ない。
表の表情は動いていないが、鳴女の内心は千々に乱れていた。
だから、彼女は気付くことが出来なかった。
まず、配下の鬼が襖や障子の奥に怯えた顔で引っ込んでいたこと。
もっとも、そちらは大して重要ではない。
問題なのは、もう1つの方だ。
そして、
「鳴女」
名前を、呼ばれただけだ。
しかし、たったそれだけのことで、鳴女は背筋を伸ばした。
そのまま、硬直したかのように動かなくなってしまう。
氷のように固まっていた表情。今は、怯えの色が浮かび上がっていた。
「最近、私は良く考えるんだ」
返事は出来なかった。
求められていないとわかっていたし、求められても即答は難しかっただろう。
ただ、全神経が背中に集まっている。
「この先、
頭の後ろに、掌が当てられている。
それだけのことだ。それだけのことで、鳴女は何も出来ない。
気が付けば、琵琶を抱き締めていた。
琵琶。思えば、これが自分のすべてだった。
鬼として生まれ変わった時、すでに自分の手にあった。
人間だった頃の記憶は、ほとんど
だけれども、きっと、人間だった自分も、琵琶がすべてだった。
「怯えるな、鳴女。何も怯えるようなことはない。そうだろう」
どうして今、そんなことを考えたのだろう。
今は、どう考えても、琵琶に思いを馳せる時ではない。
まして人間だった自分のことなど、今までほとんど気にしたことさえ無かったのに。
(……ああ、そうか)
不意に、得心した。
自分は琵琶のことを考えたかったわけでも、人間だった頃の自分を思い出したかったわけでも無い。
恐怖の下、自然と浮かんでしまう考え。過去の情景。
人はそれを、走馬灯というのだ――――……。
◆ ◆ ◆
何故ここに、という言葉を発するよりも先に、衝撃が来た。
たたらを踏み、尻餅をついた。
打たれた顔を押さえて見上げると、禊は言った。
「――――死ねッ!!」
「ええ……」
あんまりであった。
「な、何もグーで来なくても良いじゃないですか……」
「うっさい黙れ死ね」
「いや、死ねは酷いっていうか」
「へええ~? じゃあ何であんな「わたし、今から死にまーす」みたいな場所に1人で来てるわけえ? チョーウケる」
「こ、コロさん」
「はあ~あ? 犬畜生は1人じゃなくて1匹って数えるんだけど知ってた? アハッ、チョー笑える」
「せ、せめて笑ってから言ってほしいかな、なんて」
助けを求めるようにコロを見たが、何故か二畳ほど離れた場所で丸くなっていた。
尻尾まで丸めての完全防備である。
普段はどれほど邪険にされても禊にじゃれに行くというのに、今に限って「あ、ぼく関係ないんで」という態度であった。
裏切者、と心の中で罵ったが、何の意味も無かった。
「そ、そうだ。あの、さっきの奇妙な血鬼術は誰が」
「それは私です」
突然、珠世が現れた。
手には愈史郎の札を持っていて、姿を消していたことがわかる。
禊が瑠衣を鬼の群れから連れ出す際にも使っていたので、本当に便利だった。
そして珠世の説明によると、瑠衣と別れた直後に禊がやって来たのだという。
どうやら、瑠衣の後をついて来ていたらしい。
禊が後を追って来たことで、珠世も瑠衣が心配になった。
そして瑠衣と同じように、あの血染めの鏡を通ってここに来たのだという。
「そうだったんですね……禊さん。私のことを心配しいだだだだ」
両頬を指で挟まれて、瑠衣は強制的に黙らされた。
なお「痛い痛い」と訴える瑠衣を見て、禊はとても良い笑顔を浮かべていた。
これも1つの絆の形なのだろうと、珠世は淑やかに視線を逸らしながらそう思った。
「珠世様……!」
その時、愈史郎が珠世の腕を掴んだ。
愈史郎の表情には、僅かの余裕も残されていなかった。
「珠世様、この場所は不味い。本当に不味い……!」
わかっている。わかっていた。
それでも、瑠衣を見殺しには出来なかった。
珠世にとっての、
「……うん? 何の音……」
さらに数瞬の後、変化が起こった。
ずん、と、足元が――いや、すべてが揺れたのだ。
そしてその揺れは、どんどん激しさを増していった。
最後には立っていられなくなり、瑠衣はその場に倒れてしまった。
「ちょっと、何よこれ!」
「これは……術が解けかけている? いや」
「わかりやすく言いなさいよ!」
「
全員掴まれ、と愈史郎が言った。
ちなみに珠世は抱き締めている。瑠衣や禊は勝手に掴めという対応だ。
コロは、さらに瑠衣が掴む形だ。
「崩壊って何。外に出るわけ!?」
「わかるわけないだろう、そんなこと! 何でかはわからないが、この空間自体が自壊しようとしているんだ。外に放り出されるか、あるいは異空間に迷い込むことになるか……」
「どっちも困りますね……!」
と言って、崩壊する血鬼術の中で出来ることはなかった。
珠世や愈史郎の術は、こういう状況に対応できるものではない。
そう思って、顔を上げた時だ。
瑠衣は、
「……ねえ、禊さん」
「は? 何よ」
「
「…………さあね。でも、上等じゃないの」
まるで瑠衣達の苦境を見透かしたかのように、あるいは嘲笑うかのように。
深紅の鏡面が、こちらを見ていた。
◆ ◆ ◆
「――――台無しだわ」
鏡に飛び込んで、最初に見たのは――――金髪の幼女の顔だった。
両頬に手をついて、どこか
鏡の世界では、上下左右という言葉に意味は無かった。
(亜理栖……!)
少女らしい大きな瞳に刻まれた「上弦」「陸」の数字。
まるで血の中に飛び込んだかのような
禊や、他の者達の気配は無い。姿も、見当たらない。
「台無しだわ。台無しだわ。台無しだわ」
亜理栖は、ただただ「台無しだ」と呟いていた。
相変わらず、話が見えない。
「あなたのせいで台無しだわ。もうちょっとだったのに」
「……何の話?」
「どうしてくれるの。お兄ちゃんに叱られちゃうわ」
「お兄ちゃん……? 犬井さんのこと? 生きているの!?」
その時、足が
一気に膝まで沈んだかと思えば、底なし沼の如く、少しずつ沈んでいく。
「もう、余計なことをしないで」
「だから何の話!? 犬井さんをどうした、答えろ!」
「うちのお兄ちゃんや!! お前のじゃない!!!!」
激昂も、突然だった。
飛び掛かり、顔を掴まれ、そして押し込まれた。
ごぽっ、と、空気が抜ける音がした。
頭の上から、もう一度、同じ言葉が落ちて来た。
身体が落ちていく。その感覚は、しかし突然に終わった。
「瑠衣さん、良かった。出て来てくれて……!」
噴水の水の中――文字通り、
当然、全身が濡れネズミだ。
あたりは静かで、暗かった。真夜中だ。
「……ああっ、もう! チョー最悪!」
げほげほと咳き込んでいると、禊の不機嫌な声が聞こえた。
両手をヒラヒラさせて水滴を飛ばしている。濡れて機嫌を損ねたらしい。
珠世は背中をさすってくれていて、愈史郎は殺しかねない勢いで瑠衣を見ている。
こちらはおそらく、瑠衣が珠世に優しくされていることが気に入らないのだろう。
コロも、少し離れた場所で胴震いしていた。
「いつまでも出て来ないから、心配していたのですよ」
「どれくらい遅かったんですか?」
「5分ほどです」
他の面々は、亜理栖に遭遇しなかったのか。
禊達の様子を見て、瑠衣はそう思った。
5分の差異は、そうとしか思えなかった。
「おい、いつまでもここにいるわけにはいかないぞ」
苛々とした口調で、愈史郎がそう言った。
現在地が良くわからなかったが、東京のどこかには違いないようだ。
「それで、どうすんの?」
「たぶん、もう夜明けまでそんなに時間もないと思います。集合場所へ」
とにかく、一度拠点に戻るべきだと思った。
見るべきものは見たという気持ちだったし、一刻も早く村田達と情報を共有する必要があった。
その上で、次の手を考えよう。
そう思って、瑠衣は日中は身を隠すという珠世達と別れて、集合場所へ向かった。
あの、抜け道の先の小屋だ。
尾行は、特に警戒した。
もっとも鳴女や亜理栖の異能を思えば、警戒する意味はあまり無かったかもしれない。
ただ、誰にも尾けられずに戻ることが出来たようだった。
「何よ、まだ誰もいないじゃない」
「少し早かったのかもしれませんね。先に食事の準備をしながら待ちましょう」
「わたしはやらない」
「あ、はい」
しばらく、2人で待った。
夜が更け、朝日が昇り、やがて日が高くなるまで。
瑠衣と禊と、コロは待ち続けた。
そして。
――――誰も、戻っては来なかった。
最後までお読みいただき有難うございます。
主人公の衣を一枚ずつ剥いでいくように追い詰めていく(え)
その工程に、私はこれ以上ない喜びを感じるのです(え)
それでは、また次回。