――――噂が、あった。
もちろん、噂というのはどこにでも生まれるものだ。
人間は真偽定かならぬ事柄を前にすると、語らずにはいられない生き物だからだ。
そして、それはだいたいこの出だしで始まる。
「ねえ、知ってる?」
人は、語らずにはいられない。
不思議なもの。よくわからないもの。
そして、
「また出たんだって、例の不審者」
「えー、こわーい」
「あたし今日塾で遅くなるのに~」
朝の学校。
キメツ学園の生徒達は、家や駅、あるいはバス停から校舎までの道のりを思い思いに歩いていた。
普段であれば、漏れ聞こえてくる話題は多種多様だ。
しかし今は、たった1つの話題が生徒達の間を席巻している。
「
それは、ここ数か月前からたまに出ていた話題だった。
内容自体は、割とよくあるものだ。
何でも犬の顔をした人間が、夜な夜な人肉を求めて
もちろん、当初はまともに受け取る生徒はほとんどいなかった。
何なら、学園の新聞部が出している七不思議投票に選ばれる程度には、面白おかしく語られるゴシップに過ぎなかった。
しかしここ数週間の不審者騒ぎによって、それは徐々に、しかし確実にゴシップの枠を越えつつあった。
「部活動もしばらく禁止だって」
「明るい内は大丈夫なんでしょ?」
「先生達が町中を見回りするって聞いたよ」
普段であれば、誰もが「くだらない噂に踊らされて」と嘲笑しただろう。
しかし今は、逆に誰もが噂を深刻に捉えていた。
噂についてより詳しくなろうとして、そして噂がさらに拡散される悪循環。
キメツ学園は今、そういう状態になっていた。
「あ、でもさ。もしも犬人間に出会っても大丈夫な方法があるらしいよ」
ただし、これも七不思議のお決まり。
どんなに恐ろしい噂でも、誰が考えたか対処法も一緒に伝わるもの。
「どういうの?」
「犬人間に出会ったら、こう言ってやれば良いんだって」
怖いものへの、弱者の対抗策。
「『おい犬人間。もうすぐオニヒメサマがやってくるぞ』!」
「……オニヒメサマって何だよ?」
「いや、そう聞いたんだって。こう言ったら逃げるらしい」
「何だそりゃ」
そうして、今日も1日が始まる。
そこはかとない不安を抱えながら、人々は日常を過ごしていく。
不安との同居。怪異との共存。
結局のところ、人はいつだって、そうやってしか生きられないのだから。
◆ ◆ ◆
「情けない!」
近所の小さな医院に、桃寿郎の声が響き渡った。
彼は拳を握り、俯いていた。
それを見た炭彦は、驚いていた。
いや、声の大きさではない。桃寿郎は普段から声量が大きい。
しかし今のように、
普段の彼であれば、何か失敗しても前向きに笑い飛ばすはずだからだ。
「あまり気にしないで、桃寿郎君」
「そうですよ。桃寿郎君は立派に私達を守ってくれました」
診察を終えた胡蝶姉妹が、口々にそう言った。
実際、2人に目立った怪我は無かった。
ただ少し疲れているのか、顔色はあまり良くなかった。
「いや! 俺はあの時、何も出来なかった! 怖ろしさで身が竦んでしまった!」
炭彦とカナタが、今回の件を聞いたのは翌日のことだった。
桃寿郎が連絡をくれたのだが、事件直後ではなく朝になったのは、隠したわけではなく、彼の配慮というものだろう。
何より、胡蝶家や警察等への連絡が優先されたからだ。
そういう意味において、桃寿郎は今の今まで動き通しだった。
だから胡蝶姉妹の言葉に嘘はなかったし、炭彦も彼に落ち度があるとは思えなかった。
ただ桃寿郎の自責の念はとても強く、言葉をかけても変わりようがないように思えた。
「………………」
そしてカナタもまた、常よりも寡黙だった。
彼は直前まで、一緒にいた。
別れた後のことを悔やんでも仕方ないと、頭ではわかっているのだろう。
しかし彼もまた、桃寿郎に負けないくらいに責任感が強かった。
「えっと、えっと」
炭彦は、どうしたら良いのかわからなかった。
こういう時に気の利いた言葉をかけられる程に、彼は経験豊富では無かった。
むしろ、こうした困難とは無縁だったと言った方が良いだろう。
「えっとさ、あのさ」
その時だった。足元で何かにくすぐられた。
わっと驚いて飛び退くと、そこには2匹の動物がいた。
猫。と、犬だった。
「わ、かわいい」
カナエがしゃがんで猫を撫で、しのぶが犬を抱っこした。
犬はかなりのお爺ちゃん犬なのか、動きが緩慢だった。ただ、尻尾は良く振っている。
「どこから来たんだ?」
「首輪がついているから、この病院の子たちじゃないかしら」
動物は偉大だ、と、炭彦は思った。
あれだけ死んでいた空気が、犬猫が入るだけでかなり緩和されたからだ。
炭彦は、ほっと胸を撫で下ろした。
そうしている間に、カナエは2匹の首輪についているネームプレートに気が付いた。
いわゆる、この病院の看板猫・看板犬なのかもしれない。
「ええと、茶々丸……くん、かしら」
「コロ……くん、ですね。こっちも」
茶々丸とコロ。
彼らは、不思議なことに一言も鳴かなかった。
ただ、竈門兄弟と胡蝶姉妹、桃寿郎の顔をじっと見ていた。
不思議な犬猫だった。
しかし、不思議と安心感があった。
まるで、年上の親族に見守られているような、そんな感覚。
これがアニマルセラピーというものだろうか。
炭彦は笑顔の戻った胡蝶姉妹の顔を見て、そんなことをふと考えたのだった。
桃寿郎だけが、俯いていた。
◆ ◆ ◆
とは言え、だ。
炭彦としては、兄や親戚や友人が元気がない、という状況は嫌だった。
しかしそうは言っても、何をすれば良いものかわからない。
残念ながら、炭彦はまだそこまで人生経験が豊かでは無かった。
「なるほど、お友達がそんなことに」
と言って、親に相談する話でも、先生に聞く話でもない。
しかし己の内に溜め込んでおくには、余りにも重い話だった。
そんな彼が気持ちを吐露したのは、いつもの公園で、いつも通りに彼を待っていてくれた瑠衣に対してだった。
「それは、大変でしたね」
「僕、どうしたらいいかわからなくて……」
自分で言うのもおかしいが、炭彦の話は要領を得ていなかった。
元々会話が得意な方ではない上に、直接の当事者ではないからだ。
それでも、瑠衣は炭彦の話を遮ることなく最後まで聞いていた。
不思議なもので、話している内に気持ちが少し楽になるような気がした。
誰かに聞いて貰えるというのは、それだけでも大きく違う。
瑠衣と話していると、それを実感することが出来た。
「そうですね。私は、そのお友達のことはわかりませんが……」
風が吹いて、顔にかかった横髪を払いながら、瑠衣は言った。
「竈門君は、そのままで良いと思いますよ」
え、と聞き返すと、瑠衣は小さく微笑んだ。
「今回のことで、もしも竈門君が接する態度を変えてしまったら……そのお友達の方々も、悲しくなってしまうのではないでしょうか」
「そうかな……」
「ええ。きっとそうです」
そうなのだろうか、と思って。そうかもしれない、と思った。
だって、もしも立場が逆だったらと考えた時に、カナタや桃寿郎達に気を遣ってほしくない、と思えたからだ。
もちろん、まったく気にしない、というのは難しいだろう。
ただ、誰かの悪意でそれまであったものが変わってしまう、というのは、悲しいことだと思った。
「それに」
くー、と、軽い音が鳴った。
何か言葉を――おそらく、割と格好の良いことを――言おうとしていた瑠衣だが、全ての動きが止まってしまった。
顔を赤らめて、こほんこほんと何かを誤魔化すように咳き込んでいた。
(前にもこんなことがあったような)
もしかして、と炭彦は思った。
そして、思ったことをそのまま言ってしまうのが、炭彦という少年だった。
「お腹が空いているんですか?」
「いいえ、ぜんぜん?」
完璧な笑顔でそう言われた。
そう言われたが、先程の音は誤魔化しようがない程に空腹の音だった。
その時、炭彦は思い出したように鞄の中をごそごそと探った。
「これ、良かったら食べてください」
それは、胡蝶姉妹のお見舞いに行った時、医院のスタッフに貰ったものだ。
ただの飴玉である。
歯医者の帰りに子供が貰うような物だが、ないよりはマシだろうと思った。
「…………ありがとうございます」
ただ、炭彦にはとても理解できなかったが。
どうしてなのか、瑠衣はその飴玉を受け取ってはくれたものの。
とても、悲しそうな顔をしていた。
瑠衣と別れた後も、その顔が余りにも悲しそうで、炭彦の網膜に焼き付いて消えなくなってしまったのだった。
◆ ◆ ◆
当然と言えば当然だが、不審者の話は「大人の社会」にも通っている。
ただしこちらは学生と違って、噂をして怖がるというわけにはいかない。
より具体的なことを言えば、こうだ。
「いねぇなァ」
「まあ、気長に行きましょう。先輩」
地元の警察官によるパトロール、である。
彼らは普段からパトロールをしているが、今のように立て続けて不審者騒ぎが起こると、日頃以上に警戒する必要が出て来る。
そしてその点において、この町には頼もしい存在がいた。
「チッ。さっさと出てきやがれよクソ不審者がァ」
「見かけるのは無関係なチンピラばっかですもんね」
不死川実弘と、その後輩である。
遠縁の親戚にあたるこの2人は、以前ナイフを振り回す暴漢を2人で取り押さえたことがある。
そのために、顔面にお揃い――嫌なお揃いだ――の傷跡ができている。
生来の強面さも手伝って、町内で最も恐れられる警察官なのだった。
実際、夜の店へ誘うキャッチも2人には声をかけない。
もちろん2人が警察の制服を着ているというのもあるが、そもそも近寄りたくない、という様子だった。
2人もそういう反応には慣れているので、それ自体は別に気にした様子も無かった。
「どうします。他に行ってみますか?」
「そうだなァ」
2人がパトロールで歩いているあたりは、いわゆる「夜の町」だった。
バーだとかその手の店が立ち並んでいて、深夜ということもある。客層もお察しだ。
むしろそんな場所に警察官がいることの方が、周囲からは
「まあ、いないもんはしょうがねェな。どっか別の……ああ?」
「え、どうしま……うおあっ!?」
一瞬早く先輩が気付き、さらに一瞬遅く後輩が反応した。
彼らの目の前を、とあるバーの扉をブチ破って――比喩ではなく、文字通り破壊したという意味で――男が1人、転がって来た。
いや、転がって来たという表現も生温い。
「な、な!?」
「チィッ、そいつ見てろォ!」
「あっ、先輩!?」
転がった男を後輩に任せて、実弘はそのバーに飛び込んだ。
「何事だオラァッ!!」
と、店内に踏み込んだ。
店自体は、薄暗い、シックな造りのごくごく普通のバーだった。
客は少なく、やけに美人がカウンターに1人。ドン引きした表情で座っているだけだ。
後は入口近辺で怯えている何人か。
そしてそのカウンターの前に、それを上回る「どえらい」美女がいた。
水色の生地に折り鶴柄の、ともすれば子供っぽいとさえ言える柄のドレス。
しかし肩から背中が大きく露出したそれは、明らかに子供用の作りではない。
着こなす美女が放つ色香も、尋常ではない。
「――――いらっしゃい」
そしてその美女は、実弘を見て妖艶に微笑んだのだった。
◆ ◆ ◆
――――時間を、少しだけ遡る。
嘴平青葉は、人生を儚んでいた。
研究所をクビにされ、無職となっていたからだ。再就職のアテもない。
悪い意味で顔が売れてしまった青葉を雇ってくれるところなど、どこにもない。
「もうこうなったら、やけ酒だ――っ!」
とは言え、弟がいる家に帰って酒を呷る姿を見られるのも
自然、酒は外に求めることになる。
ただ研究一途でやってきた青葉は、今まで酒に逃げるということをしたことが無かった。
そのために、どこで酒を呑めば良いのだろうか、という問題に直面した。
最初は普通に居酒屋を考えたが、断念した。
全国ニュースで顔が知られているし、騒がしいところは苦手だった。
結果、彷徨い歩くことになる。
しかし1人でふらふら歩いていれば、当然ながらキャッチの餌食である。
「ちょっとお兄さ……お姉さん? いやお兄さんか? あれ?」
「いやいやこれで男とかあり得ない……いや女? どっちだ?」
「ひいいいっ。ご、ごめんなさい――!」
幸か不幸か、キャッチのお兄さん&お姉さんが青葉の性別に困惑している内に――なお、青葉の名誉のために言っていくと、青葉は男である。女顔の――逃げ出すことが出来た。
這う這うの体、とはまさに今の彼のことだろう。
とぼとぼと歩いて酒を求める自分の姿を省みて、青葉は鼻を啜った。
「ぐすっ」
ああ、世間の風はこんなにも冷たかっただろうか。
ずっと研究室に籠っていたから、そんなことも知らなかった。
これからどうしたら良いのかと、まさしく途方に暮れていた。
まあ、もっとも。
「
言葉に出してしまうと、虚しさが半端なかった。
自分の人生を懸けた研究は、今までの勉強は、何だったのだろう。
無意味という三文字が脳裏に浮かび、その重みに負けるように腰が曲がってしまった。
「あっ、すみませんすみません! ……あれ?」
下を向いて歩いていると、何かにぶつかった。
反射的に謝ったが、反応がなかったので不思議に思い顔を上げると、それは看板だった。
特段、何か特徴があるわけではない。
良くあるボードタイプの、開店時間等が事務的に書かれているだけのものだ。
「えっと、バー……かな?」
視線を上げると、これまた特徴のないシックな造りの扉と、店名らしきものが見えた。
そこには、こう書かれていた。
荻本屋、と。
バーの名前にしては、やけに和風な名前だった。
◆ ◆ ◆
内装は、およそ人が「バー」に持つイメージと合致していた。
ボトルが並んだ棚があり、カウンターがある。それから、少しだがテーブル席がある。
薄暗い照明に照らされる色とりどりのボトルは、どこか幻想的でさえあった。
「いらっしゃいませぇ」
店内に入ると、カウンターでグラスを磨いていた女性がそう声をかけてきた。
ふんわりとした雰囲気の女性で、青葉を見て柔和に微笑んだ。
バーというと謹厳なイメージがあったが、それとは真逆の対応だった。
「あ、ありがとうございます」
カウンターの席に案内してくれたのも、女性だった。
怪我でもしているのか、左目に眼帯をつけていた。
どちらも白いワイシャツに黒ベストにネクタイという格好で、とても良く似合っていた。
「…………」
バーなど初めて入るので、ついキョロキョロを見回してしまった。
その時、他の客とばちっと視線がかち合ってしまった。
余りの緊張で、カウンターに他の客がいることを失念してしまった。
さらに悪いことに、その客はとんでもない美人だった。
煽情的なドレスを着ているが、山吹色の髪をぼんぼんを模した簪で結っており、和洋折衷というか、幼いようなそうでないような、不思議な雰囲気の女性だ。
その女性は青葉が自分を見ていることに気付くと、不意に微笑んだ。
「……!」
硬直して、青葉は正面に向き直った。
すると十数秒ほどして、隣に誰かが座った。
こっそりと視線を向けると、先程の女性が微笑を浮かべてそこにいた。
「あら、いい男」
「ひ、ひゃい!?」
緊張の余り、声が引き攣ってしまった。
しかしその女性はそれを笑うでもなく、手元のメニューを引き寄せると。
「何か飲む?」
「あ、えと……僕、お酒には余り……」
「あら、良いのよ別に。お酒だってただの飲み物。好き嫌いで選べば良いの」
そうね、と形の良い顎先を一撫でして、女性は言った。
「お酒自体には強い?」
「あ、あまり自信はないです……」
「甘い方が好きかしら。それともさっぱりした方が好き?」
「どっちかというと、さっぱりしたものが」
「そう。炭酸は平気?」
「は、はい」
頷いて、女性がカウンターでグラスを磨いていた女性に何かを言った。
(あ、車椅子……)
良く見ると、その女性は車椅子に乗っていた。
バリアフリーにでもなっているのか、半身は見えているし、カウンターの向こうで難儀している様子も見えなかった。
その時になってようやく、彼女が「バーテンダー」と呼ばれる職種の人間なのだ、と思い至った。
まず思ったのは、青い、という印象だ。
バーテンダーの女性が出して来たお酒の瓶を見て、そう思った。
それから、ライムの香り。氷で満たされたグラスに注がれる液体。
見ている内に、それは完成してしまった。
「お待たせしました。ジントニックですぅ」
つい、と目前に出されたそれを、じっと見つめる。
氷の間から微かに浮かぶ炭酸の泡。それを見ていると、不思議と喉が鳴った。
横を見ると、頬を突いた女性が柔らかく笑っていた。
「い、いただきます」
言って、グラスに口をつけた。
くっと傾け、口内に注ぐ。
一瞬の酸味の後に、喉にまで広がる苦味。
でもしつこく残らず、そのまま通り過ぎてしまう。
一口飲んで、青葉は目を丸くした。
「あ、美味しい……」
「そう、良かったわ」
と言って、ドレスの女性はまた笑ったのだった。
◆ ◆ ◆
それから、青葉はいくつかお酒を飲ませて貰った。
いずれもドレスの女性が青葉の好みを聞いて選んでくれたもので、どれも美味しかった。
「最初のお酒が美味しいと思えたら、後は簡単。単純に好みを伝えていけば良いわ。そうすれば、お店の人が良いものを選んでくれるから」
そのお酒を美味しいと感じたなら、ベースのお酒が好みということになる。
ジントニックならジン系。
後は甘いものを飲みたいとか、希望で幅を広げていくだけだ。
知識があればより楽しめるのは確かだが、飲む側としてはまず「美味しい」と思えればそれで十分なのだ。
「な、なるほど」
お店にいる時間の割に、お酒を飲むペース自体はそこまで早くなかった。
青葉がそこまで強くないというのもあるが、ドレスの女性が合間に色々な話をしてくれたからだ。
そうしている内に、青葉も次第に気分が上向いてきていた。
端的に言って、楽しいと、そう思えるようになっていた。
「あー! アンタ知ってるよお!」
それが崩れたのは、そんな大声が店内に響き渡った時だった。
たった今来店したのだろう。男が数人、ドアのところに立っていた。
ただ他ですでに酒を飲んでいるのか、見ただけで酔っ払いとわかる程に顔が赤かった。
「ニュースで見た! 何かの花を枯らしたんだって!」
それお聞いて、青葉は身を竦めて俯いた。
ああ、またか。そんな思いが胸中に広がっていく。
「ねえ、ねえねえ! 写真撮って良いかなあ。ほらこっち向いてよお!」
携帯のカメラを向けられて、そんなことを言われる。
それが悲しくて情けなくて、青葉はますます下を向いてしまった。
消えてなくなってしまいたいと、そう思った。
「な、何だあ、お前はあ」
え、と顔を上げると、そこに細い背中があった。
酔っ払いと自分の間に立っているのは、あのドレスの女性だ。
顔は見えない。
ただその背中からは、先程までの柔和な雰囲気は消えていた。
肩を怒らせている、わけではない。
「――――選ばせてあげる」
ただ、鋭かった。
鋭く、冷たく。まるで、刃物のような。
「自分の足で出て行くか。
「な、何だ。お前は? この店のスタッフか? 客に対してそんな口を利いて良いと思ってんのかああん!」
「――――
その時、青葉は生まれて初めて、物理法則が仕事を放棄する様を見た。
一瞬でドレスの女性の姿が消えて、さらに次の瞬間に酷く鈍く、重い音が響いた。
それが、女性が男を殴り飛ばした――比喩ではなく、物理的な意味で――音だと気付いたのは、実際に男が店の外まで吹っ飛んでいった後のことだった。
◆ ◆ ◆
――――そして、今に至る。
「一体全体どういう状況だ、これはァ」
これは不味いのではないだろうか、と青葉は思った。
客を殴ったということもそうだが、踏み込んで来た警察官が死ぬほど強面だった。
むしろ警察官というより暴漢と言った方が納得する容貌だ。
だからこそ、威圧感というか、圧力が重かった。
誰も、青葉も含めて、誰も言葉を発さなかった。
実弘の容貌に加えて、目の前で起こった事実に脳の処理が追い付かなかったのだ。
だがその処理が追いついた時、酔っ払いの仲間達が騒ぎ出すのは目に見えていた。
庇って貰った自分が、何かを言わなければ。そう思ったが、言葉が出て来なかった。
何て情けないやつなのだろうと、そう思った。
「こ……」
その時、真っ先に動いた者がいた。
「怖かったぁ……!」
「んなっ!?」
ドレスの女性が、実弘にしなだれかかったのである。
余りに急な――実弘以外の面々にとって――変化に、その場にいる誰もがぎょっとした。
目尻に涙を浮かべて男にしなだれかかる様は、並の男であればそれだけで
それだけの破壊力を持っていた。
「あの人達が、急に喧嘩を始めて……!」」
え、と誰かが言うのが聞こえた。
何を言っているんだ、と、事実を知る者なら思うだろう。
しかしここで問題なのは、駆けこんで来た
「――――ああ?」
だから、実弘が声を発した時、その剣呑さに男達は怯えた。
青葉でさえそうなのだから、吹っ飛んでいった酔っ払いの仲間達はなおさらだろう。
そしてその恐怖は、実弘が顔を彼らに向けた途端に最高潮に達した。
さらに実弘の風貌が余りにも
「す、すみません! でも俺ら関係ないんです!」
「うわあああああ!」
「ちょ、オイ待てェ!」
たまらず、男達は壊れたドアから我先にと逃げ出してしまった。
実弘の怒声も彼らの背中を押すばかりで、引き留める効果は皆無だった。
ただ1人、カウンターから動かなかった青葉は、事態の展開についていけずに、ぽかんとした表情を浮かべていた。
そしてその位置にいたから、青葉には見えた。
(あ……)
実弘には見えない身体の後ろで、禊が指でオーケーサインを作って見せていた。
◆ ◆ ◆
事件は終わったが、呑もう、という雰囲気ではなくなってしまった。
店も壊れてしまったし、良い時間でもあったので、青葉は席を立った。
ちなみに、値段はそれなりに良心的だった。
「また来てね。貴方ならいつでも歓迎するわ」
「あ、はい。僕も楽しかったです。今日は有難うございました」
「――――待ってるからね」
鞄を渡される時に、間近でそっと囁かれた。
時間にして3秒になるかならないかの刹那の間、華やかな香りが青葉の鼻腔を
ひらひらと手を振って見送られながら、どぎまぎしつつ壊れたドアを潜り、外へ出た。
月はすっかり高く、深夜の冷たい空気が酒で温まった身体に染み込んで来るようだった。
「うわっ」
と、思わず声が出てしまった。
仕方ないだろう。顔に傷のある強面の警察官が店の外に立っていたのだから。
これは誰だって驚く。
そして彼は青葉を認めると、ずいと近寄って来た。
「オイ」
ひいいい、と、青葉は内心で悲鳴を上げた。
先程の華やかさとは真逆の顔が間近に迫ってきたのだ。
怖い。怖すぎる。
「お前、帰りの足はあるのか?」
「え、え、え」
「何で帰る気だって聞いてるんだよ」
「ひいいいいいっ。で、でで、電車っ、電車ですううう!」
「そうかい。――――だったら最寄り駅まで送っていってやる」
「す、すすすすすす、すみま…………え?」
背中を向けて歩き出した実弘に、青葉は目を丸くした。
いったい、この警察官は何と言った?
「……行かねぇのかァ?」
「い、行きます」
促されて、青葉は実弘の後をついて歩き出した。
「このあたりは最近、不審者が出るって騒ぎになってるだろうが。ニュース見てねぇのか」
「さ、最近はテレビは見てません。その……怖いので」
「……あー、そうかい」
テレビをつければ嫌でも自分のニュースを見ることになるので、最近は見ていない。
世の中の情報には乗り遅れることになるが、今さらどうしたという思いもあった。
今さら、世の中のことを知っても何の意味もない。
そんな情報をアップデートしたところで、使う場面がもうないのだから。
「それはそれとして、お前。あいつはやめておいた方が良いぞ」
「え?」
「さっきの女のことだよ。あれはやめとけェ」
「や、やめとけとか意味わからないんですけどお!?」
「いや、あの女はお前…………待て、止まれェ」
店と駅の中間まで来たあたりで、実弘が背の青葉を手で制して止めた。
青葉としては、立ち止まるしかない。
同時に、顔をこちらに向けずに手だけを向ける実弘に不審を感じた。
と、そこで奇妙な音を聞いた。
何かを
何だろうと思って身を乗り出す。研究者ゆえの好奇心だろうか。
「見るんじゃねえェ!」
しかし、その好奇心はまさに猫を殺した。
実弘の肩越しに見えたそれに、青葉は悲鳴を上げそうになった。
「ボリッ、ボリッ、グチャッ」
電柱のそばにしゃがみ、男が何かを
コンビニで買ったお肉でも食べるように、
そして、その男の顔は。
醜く歪み弛んだその顔は、まるで犬のようだった――――。
◆ ◆ ◆
「オイお前、そこで止まれェッ!」
実弘が、声を上げた。
しかしその「犬の男」は、実弘の言葉に濁った笑い声を上げるだけだった。
浮浪者のようなボロボロのシャツにパンツ。しかも身体の前面は赤黒く染まっていた。
何よりも、顔が前後に細長くひしゃげていて、とても人間の顔とは思えなかった。
ぐちゃ、と、一歩をこちらに向ける音でさえ不快だった。
制止を無視されたこと、何より異常であったこと。
ほとんど反射で、実弘は腰のホルスターから拳銃を抜いていた。
グリップを両手で持ち、肩の高さまで持ち上げる。いわゆる「構え」の段階だ。
「止まれ! 聞こえてねぇのか!?」
実弘は、恐怖を自覚していた。
ナイフを振り回した犯人を取り押さえた時でさえ、恐ろしいとは思わなかった。
しかし今、実弘は目の前の異常な存在に恐怖を抱いていた。
(何だコイツは……!? 顔は特殊メイクか!? いや、それにしちゃあ……!)
男の顔面は、本当に犬としか思えない形だった。
犬の顔に人間の目鼻がついている。としか、形容できない。
やはり人間とは思えない。
しかし警察官としてのプライドが、実弘をこの場に留めていた。
後ろに
「野郎ォ」
そして、犬男は足を止めない。
酷く緩慢な動きだが、確実に近付いてきていた。
口からはダラダラと涎を垂らしていて、濁った笑い声を上げている。
近付いてくるにつれて、酷い臭いもするようになってきた。
腐った肉でも、こんな悪臭はしないだろう。
「あと一歩進んでみやがれ。撃つぞ。だから」
ずちゃ、と、実弘の警告を無視する形で犬男が進んだ。
実弘の額に青筋が立ち、彼は拳銃の引き金に指をかけた。
「おい」
さらに一歩。
実弘は腹を据えた。
次の瞬間、彼は引き金を引いた。
拳銃の発砲音。現代日本ではまず聞かない音だ。
しかし狙いは僅かに逸らして、1発。それから1アクション置いての1発。
初撃は外れて、2発目は犬男の肩に命中した。
「グゴオォ……!」
呻き声を上げて、犬男がその場に仰向けに倒れた。
傷口を押さえて、呻き、のたうち回る。
青葉に下がるよう伝えて、しかし拳銃は下ろさずに男に近付く。
制圧する。そのつもりだった。
しかし、だ。そこで実弘は予想外のものを見た。
「何ィ?」
先程までのたうち回っていた犬男が、動きを止めていた。
もがいていた時に破れたのだろう。シャツが引き裂かれていた。
しかしそこに、あるはずの
「……は?」
確実に、命中していた。血が噴き出すのも見た。
しかし、犬男の肩には傷一つ無かった。
まるで。そう、まるで。
「あ、危ない!」
青葉の声。
しまった。そう思った時には。
犬男が、実弘に跳びかかっていた。
◆ ◆ ◆
端的に言って、実弘はかなり喧嘩が強い方だ。
学生の頃はストリートで負けたことはないし、警察官になってからも様々な暴漢を捕まえて来た。
しかし、今回はそういうレベルでは無かった。
「て、てめえェ……!」
道路に押し倒され、揉み合いになった。
鼻先で犬男が口を開閉する。吐き出される悪臭に鼻が曲がりそうだった。
しかし顔を逸らすことは出来ない。逸らせば、喉を喰い千切られかねないと本気で危惧したからだ。
力が、異常に強かった。
押し倒された時に、拳銃はどこかへ転がって行ってしまった。
いや仮に拳銃があったとしても、撃てなかっただろう。
何故なら犬男の力が異常に強く、両手を使わなければ抑えられないからだ。
片手では、とても対抗できなかった。
(こいつ、マジで俺を喰う気か)
そうとしか思えなかった。
ガチガチと空を切って音を立てる歯――牙を前に、そうとしか思えなかった。
目の前の犬男は、まさに獣か何かのように自分を喰おうとしている。
「ああ。ど、どうしよう。どうしよう」
青葉は、自分の行動を決めかねていた。
酔いなどすでに引っ込んでしまった。
実弘を助けたくとも、青葉はお世辞にも腕力がある方ではない。
飛び込んで行っても、逆に足を引っ張るだけだ。優柔な頭脳がそう告げる。
助けを求めるか。しかし、周囲には誰もいない。
「オニヒメサマだ――――ッ!」
その時だった。
どこからか大声が響き、それに犬男がビクリと反応した。
半身を起こして、フンフンと鼻先を鳴らす。
「オラァッ!」
その顔面に、実弘は拳を叩き付けた。
まさに犬のような鳴き声を上げて、犬男が跳び退いた。
殴られた鼻先を押さえて――すぐにその傷も消えるが――犬男がじりじりと下がる。
「オニヒメサマが来るぞ――――ッ!」
再び声が響く。
その時、犬男は明らかに怯えた表情を見せた。
潰された鼻先を押さえたまま、犬男が背中を向けた。
「オイ待てェッ!」
ばんっ、と大きな音がした。犬男の跳躍の音だ。
犬男は、何と家屋の屋根に飛び乗っていた。
そのまま駆け出し、また跳んで、すぐに見えなくなってしまった。
「……クソがッ!」
地面を叩いて、実弘が歯噛みした。
元凶を目の当たりにしておきながら、何も出来ずに取り逃がしてしまったのだ。
悔しがるのも、無理はなかった。
そして同時に思うのは、先程の声は誰か、ということだった。
しかし、これはすぐに判明した。
「大丈夫ですか!?」
実弘は、その少年に見覚えがあった。
燃えるようなその髪色は、忘れようがない。
それは、あの危険登校の生徒と一緒にいた少年――桃寿郎だった。
竹刀を手に持った彼は、息せき切ってやって来た。
どうやら、自分達はこの少年に助けられたらしい。
そのことについては、感謝しなければならないだろう。
先ほど聞こえた言葉の意味も、良くわからない。
それも聞く必要がある。
しかし警察官として、いや大人として、実弘はまずこう言った。
「こんな時間にガキが出歩いてるんじゃねぇッ!!」
「よもや!?」
ショックを受けた顔で、桃寿郎はその場に固まったのだった。
◆ ◆ ◆
――――女。
通りで騒いでいる実弘達を、女が見下ろしていた。
月が雲に隠れている今、屋根に降り立った彼女の姿は黒く塗り潰されて、窺い知ることは出来ない。
だが、猫のように縦長の瞳孔は、闇の中でも光を放っていた。
「…………」
月が晴れる前に、その女はどこかへと消えていた。
辛うじて、着物の端だけが月明かりに触れた。
ひらりと舞ったそれもまた、闇の中へと沈んでいった。
どこかで、猫が鳴く声がした――――気が、した。
最後までお読みいただき有難うございます。
実に平和な学園生活(お目目ぐるぐる)
この平和な生活をずっとお見せするしかないので、盛り上がりに欠けてしまいますが、どうかお許しくださいネ(ぐるぐるお目目)
それでは、また次回。