――――死にたくない。
それは、多くの人間が、いや生命が持つ本能的な思いだろう。
死とは忌避すべきものであり、受け入れるものではない。
特に、平和な時代に生きる若い命にとってはそうだろう。
「……コー」
想像してみてほしい。
少し走っただけで、すぐに息切れして動けなくなってしまうことを。
学校や会社に行くこと自体が困難で、保健室や医務室で1日の大半の時間を過ごすことを。
何種類もの薬を服用しなければ、それさえも不可能なことを。
虚弱体質ということさえ
日差しに当たれば貧血で倒れ、気温が下がればすぐに発熱する。
生きていくことさえ、難しい。
いや、はたしてこれを「生きている」と言って良いのかどうかさえ、わからない。
そんな人生を、想像してみてほしい。
「……コー」
想像してみてほしい。
自分の身体が、だんだんと動かなくなっていくことを。
指先から、足先から、自由が利かなくなっていく恐怖を。
全身の肌が、少しずつ。少しずつ。少しずつ爛れていくことを。
それを毎日感じることの、恐怖を。
己の身体が、自分のものではなくなっていく。
「……コー」
呼吸器に塞がれた口から漏れるのは、もはや声ではなく音に過ぎない。
呼吸さえ、自分の力で行うことができない。
食事も、排泄さえも、誰かの手を借りなければならない。
それはいったい、どれだけの恥辱だろうか。屈辱だろうか。憤りだろうか。
嗚呼。それでも。それでもだ。
全身に点滴や検査のための針を打たれても。
鼻腔や口にチューブを差し込まれても。
それでも、それでもなお、人は思うのだ。
「……コー」
死にたくない。
生きていたい。
死にたくない。生きていたい。
「……コー」
死にたくない。生きていたい。 死にたくない。生きていたい。
死にたくない。生きていたい。 死にたくない。生きていたい。
死にたくない。生きていたい。 死にたくない。生きていたい。
死にたくない。生きていたい。 死にたくない。生きていたい。
「……コー」
死なずに済むのなら。
生きていられるのなら。
どんな手段でも、構わない。
誰が犠牲になろうとも、知ったことではない。
「……コー」
生きるためならば。
そのためならば、たとえ。
「
たとえ、悪魔の手だろうと、取ってみせる。
「
――――悪魔の手は、青かった。
◆ ◆ ◆
犬人間の噂は、日を追うごとに大きく、そして酷くなっていった。
最初は、それこそ学生同士の他愛のない娯楽に過ぎなかった。
トイレの花子さんとか、そういうものと同列だった。
しかし、今は違う。
「これからしばらくの間、登下校は集団で行います」
全校集会で、先生がそう告げた。
それを聞いた生徒達は、方々でざわついていた。
しかしその大半は、集団登校への不満では無く、そういう事態に陥った原因に対する恐怖だった。
それだけ、犬人間は身近な脅威になっていたのである。
桃寿郎と胡蝶姉妹が犬人間に遭遇してから、すでに1週間が経っていた。
そしてこの1週間の間に、犬人間のものと思わしき被害が続出していた。
今や全国ニュースにもなる程に事件は大きくなっており、学生同士の噂話の域を超えていた。
「炭彦、ちょっといいか」
全校集会が終わって生徒達が各自の教室に戻ろうという時に、炭彦は桃寿郎に話しかけられた。
桃寿郎は深刻な顔をしていて、ただ事ではないと感じた炭彦は足を止めた。
周囲を生徒達が歩いていく中、2人だけが止まっていた。
「どうしたの、桃寿郎くん」
実は炭彦は、桃寿郎のことを心配していた。
というのも、どうもここ最近、桃寿郎は深夜に街を出歩いているようだった。
何と言っても、桃寿郎は目立つ。犬人間ほどではないが、噂になっていた。
髪色もそうだが、存在感が強烈で、嫌でも目を引いてしまうからだろう。
「実はな」
心配していたのだが、機会がなくて話すことが出来なかった。
学校で見かけた時もどこか思い詰めているようで、話しかけにくかった。
だから実をいうと、こうして話しかけてくれたことは嬉しかった。
ただ、桃寿郎の顔はやはり深刻そうな色を浮かべていて、素直に喜んでばかりもいられない様子だった。
「退治しようと思うんだ」
「え?」
最初、何を言われたのかわからなかった。
それはそうだろう。
日常の会話で「退治」などという言葉はまず出て来ない。
あえて言えば、桃寿郎の言葉には主語が抜けていた。
「犬人間を」
そして、それはすぐに解消された。
そこまで言われてようやく、炭彦は桃寿郎の意図を理解した。
「犬人間を、退治しようと思うんだ」
言葉の意図を、意味を理解して、そして。
「……ええええええええええええっ!?」
炭彦の驚く声が、その場に響き渡ったのだった。
◆ ◆ ◆
その日の夜、カナタは物音で目を覚ました。
元々、眠りは浅い方だ。
まして二段ベッドで、しかも相手はこっそりだとかそういうことが出来ない人種だ。
だからカナタは身を起こして、そして言った。
「炭彦、どこへ行くの?」
その相手は、ぎくりと身を震わせた。
当然のことだが、炭彦のことである。
彼は学校の制服を着ていて、明らかに寝る体制ではなかった。
そして現在の時刻は午前2時。もちろん、登校する時間ではない。
「あ、えっと。その、と、トイレ……」
「制服で?」
「う、あー、あー」
あーあー言い出した弟に、カナタは目を細める。
それが本気の怒りの前兆だと知っている炭彦は、さらに慌てた。
何しろ、嘘が吐ける性格ではない。
そして議論ではカナタに勝てない。それも良くわかっている。
「炭彦」
追い詰められた炭彦は、力技で解決することにした。
「炭彦!」
珍しい、カナタの大きな声。
それを背中で聞きながら、炭彦は窓から
普通なら大怪我だが、彼にとっては通学路だ。
だから彼は安全に跳び下りて、いつものように駆け出した。
危険登校常習犯の名は伊達ではなく、それは、常人に追えるものでは無かった。
「…………あァ?」
そして炭彦の家から少し離れた繁華街、実弘は今日もパトロールをしていた。
あの、犬の男が出た周辺である。
犯人は同じ場所に戻ることが多い。拠点が近いからだ。
正気を失っているような相手なら、なおさらその傾向は高まる。
「あ、こんばんは」
「お前、意外と神経が太いなァ」
「よ、余計なお世話です!」
途中、青葉と遭遇した。
もちろん、見つけたからと言ってどうこうする話ではない。
青葉はただ、ある店で酒を楽しんでいただけで、悪いことは何もしていないからだ。
(まあ、悪い女には掴まってるみたいだがな)
青葉の襟元に残ったルージュの痕に、そんなことを思った。
あの店の女主人は本当にやめた方が良いと思うのだが、青葉自身がそう思っていない以上、何を言っても文字通り「余計なお世話」というものだった。
民事不介入、である。
「んん?」
その時、通りの向こうを駆けて行く小さな影を見つけた。
一瞬のことで、青葉は気付いていない。
ただ職業柄、実弘はそういう時に目ざとい。
「あのガキ」
見覚えのある子どもの姿を認めて、その額に青筋が浮かんだのだった。
◆ ◆ ◆
「ごめん。遅くなった!」
「問題ない! 俺も今来たところだ!」
こんな深夜の時間帯に、外出するのはほとんど初めての経験だった。
不良になってしまったなと、桃寿郎は思った。
だがそれも、
巻き込んでおいて申し訳ないと思うが、しかし本心だった。
「それで、どうするの?」
「うむ! 犬人間はこのあたりにいるはずなんだ」
犬人間の目撃情報は――学校で聞いた噂話がソースだが――このあたりに集中している。
そして、決まってゴミ捨て場か、ペット――犬のいるところに出現する。
だからそういうところを回っていれば、見つかるはずだった。
そして見つけたところを、捕まえるのである。
そう語る桃寿郎を、炭彦はじっと見つめていた。
正直なところ、炭彦には犬人間をどうにかしようなんて考えはなかった。
カナタに見つかりもして、帰ったら叱られるだろうという恐れもあった。
しかし、それでも炭彦はここにやって来た。
(桃寿郎くん。暴走しちゃうところあるからなあ)
それはひとえに、桃寿郎のことを心配したからだった。
あの時に断っていたとしても、桃寿郎は1人でやって来ただろう。
それくらいなら、一緒に行った方が良い。
「あ、桃寿郎くん。あっちの方が良いんじゃないかなあ」
「む、そうか?」
「うん~、何かあっちで出たって聞いた気がするよ~」
桃寿郎は4時には帰らないといけない。
家の道場で朝稽古があるからだ。
だから実は捜索の時間は2時間、いや1時間あるかないかなのだ。
その間、犬人間のいそうにない場所を歩いていれば良い。
炭彦は、そう考えていた。
「あら」
だから、
ある意味で、犬人間を見つけるよりも確率の低いことだった。
まさかこんな時間に、こんな場所で。
「
知り合いに会うとは、思わなかった。
「瑠衣さん? どうしてこんなところに!?」
「むう、あの公園の君か!」
公園の君という単語にはいささか気を引かれたが、それ以上に驚きが炭彦の胸中を覆っていた。
しかし現実に、着物姿の女性――瑠衣が、そこに立っていた。
いつの間にか、
満月の光の下で、彼女は小さく首を傾げるようにして微笑んでいた。
◆ ◆ ◆
――――その時、腐臭がした。
突然だった。
いきなり、そう、瑠衣が現れた時と同じように、いきなり
「クソガキ共――――ッ!」
さらにこの時、もう1人の人間がその場に現れた。
彼もまた突然だったが、しかし、そばに寄られる前に存在に気付くことが出来た。
何故ならその男は、必死の形相で駆け寄って来たからだ。
「
咄嗟には、動けなかった。
まず瑠衣の登場に驚いたし、次いで実弘の登場に驚いた。
この時点で、若い2人の少年の瞬間的な認識力はいっぱいいっぱいになってしまっていた。
だから、次に起こる出来事に反応できなかった。
「ハアァ――――ッ」
腐臭が、強くなった。
呻きとも吐息ともわからない空気が、耳朶を打った。
そこまで来て、ようやく2人は後ろを振り向く動きをした。
しかしその時には、何もかもが遅かった。
「ぼさっとするんじゃねえ!」
それでも
しかしそのせいで、実弘に最悪の事態が降りかかることになってしまった。
突き飛ばされて、前方にごろりと転がってしまった。
膝をしたたかに打ち、痛みを覚えた。
「ぐあ……ッ」
しかし実弘に比べれば、まるで大したことはないだろう。
鈍い音に視線を向ければ、実弘が倒れているのが見えた。
街灯が、地面に広がる赤黒い何かを照らしていた。
それが血だと気付くと、ひゅっ、と息が詰まった。
それから、正面を向いた。
そして、いた。
何という醜さだろう。
犬の顔をした人間。そうとしか表現できない化物が、目の前にいて。
「炭彦、危ない!」
嗚呼、桃寿郎は何と勇敢なのだろう。
持ってきていた木刀を振り上げて、犬人間に跳びかかっている。
相手が人間であれば、成人男性であっても桃寿郎には敵わないだろう。
だが残念ながら、相手は人間ではなかった。
「ぬ……うあっ!?」
犬人間は、桃寿郎が振り下ろした木刀をあっさりと掴んで、半ばから握り折ってしまった。
次いで桃寿郎の首を掴むと、そのまま投げ飛ばしてしまった。
子どもとは言え、人間1人を軽々と投げ飛ばしてしまう。凄まじい膂力だった。
桃寿郎は背中から通りの塀にぶつかり、呻き声を上げながら地面に倒れてしまった。
1分も、していない。
それだけの短時間の内に、炭彦は1人になっていた。
目の前には犬の怪物。明らかに、次は自分を狙っていた。
そんな状況に、知らず、呼吸が荒くなっていたことに気付いた。
今まで、これ程までに荒い呼吸を自覚したことはなかった。
「あ、あ」
上手く、息ができない。
いや、今までどうやって息をしていたのかさえ、わからなくなっていた。
死ぬのだろうか。そう、唐突に思った。
このまま呼吸に詰まって死ぬのだろうか。そんなことを、思って。
「――――竈門君」
思って。
「
思って、そして。
――――一気に、熱を持った。
◆ ◆ ◆
いったい、いつからだっただろうか。
自分が、他人と少し違うのかもしれない、と思うようになったのは。
『いったぞー!』
最初は、小学生の頃だっただろうか。
友達と、草野球をした。
特に経験はなかったが、数合わせで呼ばれたのだ。
当たり前のように外野になって、そして、当たり前のようにボールが来て。
当たり前のようにフェンスを駆け上がり、ジャンプして捕った。
あの時の、皆の放心したような顔が忘れられない。
だけど、仕方がなかったのだ。
まさか、
『きみは何かスポーツをやるべきだ!』
と、桃寿郎などは常にそう言ってくれた。
その度に自分は、寝る時間が減るから嫌だと言って断っていた。
それは嘘ではないけれど、しかし真実でも無かった。
炭彦はただ、怖かっただけなのだ。
スポーツ。例えば桃寿郎のように剣道をやったら、
何かが変わってしまうような、そんな気がしたから。
「わっ」
しかし、今は自分でも驚いた。
何しろ、息を吸って跳んだだけで、電線よりも高く――つまり、5メートル以上――跳んでいた。
軽く、地面を踏んだだけだった。
たったそれだけで、想定外の高さまで跳ぶことができた。
身体能力――は、たぶん、変わっていない。
純粋な身体の造りは、何も向上していない。
もしも変化があるとしたら、そう。
「!? !? !?」
犬人間は、炭彦を見失っているようだった。
無理もない。まさか炭彦のような子供が、視界から消える程の跳躍をするとは思わないだろう。
そのまま頭の上を跳び越えて、犬人間の背中が見える位置に着地した。
後ろを、取った。
(ど、どうしよう)
しかし、そこから先にどうするかの考えは少しも無かった。
何しろ、今まで喧嘩の1つもしたことがないのだ。
それでもなけなしの知識で考えたのは、犬人間のバランスを崩して転ばせることだった。
転ばせて、その間に逃げる。
実弘と桃寿郎を担いで逃げることが出来るかは、やってみないとわからない。
そして、何よりも。
(瑠衣さんを、守るんだ!)
その想いで、飛び出した。
(転ばせる、だけなら……!)
駆けて、足を突き出す。
狙うは、膝裏。
そこへ、思い切り足裏を打ち込んだ。
「……………………えっと」
確かに、炭彦の攻撃は犬人間の膝裏を捉えた。
並の人間であれば、耐え切れずに膝を折り、その場に倒れ込んでいただろう。
しかし残念なことに、犬人間の足は並の人間を遥かに超えていた。
子供の蹴りなど、いわゆる「膝かっくん」程度にも効きはしなかった。
「あ」
まずい、という声も上げることは出来ず。
炭彦は、殴られた痛みであっさりと意識を手放してしまった。
誰かが自分を呼んだ気がしたが、その顔を確認することも、出来なかった。
くー、と、聞き覚えのある音がして、それを最後に炭彦は意識を失った。
◆ ◆ ◆
男は、飢えていた。
しかし、男は臆病だった。
動物だけが、自分を警戒しなかった。
しかし獣の肉は、一時凌ぎにしかならなかった。
もっと大きな、別の肉が喰いたくて仕方がなかった。
そして今日、ついに
待ちに待った肉の匂いに、噛み合わせの悪い牙の隙間からとめどなく涎が滴り落ちている。
「グルル」
掴み、持ち上げて、噛み付こうとした。
その時だった。
鼻腔を、甘い匂いが擽った。
これまでに嗅いだことのない、蜜のような、たまらない匂い。
それは、目の前の肉を取り落とし、スンスンと鼻を鳴らす程だった。
くー、と、奇妙な音がした。
音を、追った。
そこに、女が1人で立っていた。
その瞬間に、匂いの元はこれだ、と確信した。
女は、犬人間の視線に気付いている。
気付いていて、しかし逃げるような素振りも見せなかった。
「グル」
まさに、餌をぶら下げられた犬だった。
何という、美味そうな匂いか。
今すぐに跳びかかり、その柔らかそうな喉笛に喰らい付きたい。
男の頭の中は、もはやその思いでいっぱいだった。
「…………」
女が、何かを喋っていた。
形の良い唇が小さく動いて、何らかの音を発していた。
しかしその音を、男の耳は捉えていなかった。
男の意識は、女の肉を喰うことにしか向いていなかったからだ。
「ハア――ッ、ハア――ッ」
犬の口からは、そんな荒い音が響いている。
しかしそれも無意識で、男は自分はどんな状態なのかさえ、理解していない。
「…………」
女が、また何かを言った。
そして何を思ったのか、衣服の――着物の袷に、手を差し入れた。
白い指先が帯を緩め、袷を割っていく。
そうして現れた白磁の肌に、男の目は釘付けになった。
匂いが、まさしく花のように芳醇な匂いが、さらに強くなった。
知らず、前に歩き出した。
ほんの数歩で、女のそばに。
晒された肌の白さに、柔らかさに、涎が止まらなかった。
女は微動だにせず、微笑んですらいた。
「グルァッ!」
吠え声ひとつ。男が女に両肩を掴んだ。
裂けるのではないかと思える程に、大きく口を開けた。
そして、ぶつりと肌を突き破る感触を想像しながら、犬の牙を女の頚に突き立てた。
くー、と、また音がした。
◆ ◆ ◆
「――――どうしました?」
自分の頚に噛み付いた化物。
普通なら、泣き叫んでいてもおかしくない。
しかし、瑠衣は平然としていた。
むしろ、おかしくなっているのは犬人間の方だった。
相変わらず、瑠衣の肩を掴んでいる。
しかしその動きは引き寄せるものではなく、どう見ても、
「
その声は、蠱惑的ですらあった。
優しく、穏やかで、声音から微笑を感じる程の、柔らかな声。
恋人に囁くような、我が子にかけるような、そんな声。
それはとても――――
「ア、ガ」
その音は、犬人間が瑠衣の頚から口を放そうとして発生した音だった。
瑠衣の頚の肉を、喰い千切った音だろうか。
いや、違った。
犬人間が、瑠衣の肉を喰い千切ったのではない。
犬人間の身体が、抉り取られた音だった。
瑠衣の頚に噛み付いた口が、牙が、いや口から下の顔面が、千切れていた。
「アゴオオオアアアアアアァァァッッ!?」
血が噴き出し、雨を降らせる。
それは瑠衣にも降りかかり、顔の右半分から肩までが朱色に染まった。
犬人間が噛み付いていた頚のあたりが一瞬、液面のように揺れたように見えた。
唇の端から、赤い――紅い舌が覗き、顔の血を舐め取った。
そして、嗚呼、と、溜息を吐いた。
「
抉られた部分を押さえてのたうち回る犬人間を前に、瑠衣は笑った。
「空腹は最高の調味料とは、良く言ったものです」
そう思いません?
瑠衣の言葉に顔を上げる犬人間の顔は、いや残された上半分の顔は、怯えていた。
おそらく、己の身に何が起こったのか、今でも理解できていないのだろう。
まさか。
まさか、自分が喰われるなんて、思ってもいなかっただろうから。
「再生が遅い」
犬人間を見て、瑠衣はそう言った。
「鬼になってまだ間がない。人を余り喰っていない。そうですね?」
何を言っているのかわからない。
そう目で訴える――何しろ、答える口がもう無い――犬人間に、瑠衣は「ああ」と頷いた。
「答えなくて良いですよ」
「もう
「だから貴方のことは、貴方よりも知っているんです」
「貴方が自分の状態を理解していないことも」
「そして貴方が、自分自身の本能を抑えられないことも」
瑠衣の手が、残った顔の上半分を掴む。
呼吸の代わりに、血が噴き出す。
それが、犬人間に出来る唯一の命乞いだった。
「何より、私。そのあたりはきちんと教育されているものでして……」
顔が握り潰される刹那、細い女の指の間から、犬人間は最期に見た。
美しい微笑が貼り付いていた女の顔が、その口の端が、大きく、大きく歪んでいる様を。
嗚呼、と、犬人間は最期に思った。
「ア……ア、ア……ア、ク、マ……」
失礼な。
それが、犬人間が最期に聞いた言葉だった。
◆ ◆ ◆
――――瞼の裏が白くなって、炭彦はその眩しさに小さく唸った。
朝だ。と、頭のどこかがそう考えた。
陽の光が顔に差して、眩しくなっているのだ、と。
「……大丈夫ですよ」
その時、瞼の裏から白さが消えた。
ひんやりとした感触が、両目にかかっていた。
誰かの手だ。
誰の手だろうか、と、考えていると。
「まだ早い時間ですから。もう少し眠っていても大丈夫ですよ」
ああ、瑠衣さんだ。
優しい声に、少し緊張していた身体から力が抜けるのを感じた。
体温が高いせいか、瞼に乗せられた掌の冷たさが心地よかった。
気持ちいいな、と、そんなことを思った。
「……♪ ……♪」
機嫌の良さそうな鼻歌が、聞こえて来た。
瑠衣が歌っているのだろうか。
意外だな、と思った。
炭彦から見た瑠衣は落ち着いたお姉さんという印象で、誤解を恐れずに言えば、明るいイメージはなかった。
「……♪ ……♪」
瑠衣の手の冷たさと、機嫌の良い歌。
それらに包まれて、炭彦は大きく息を吐いた。
そうして、大きな何かに包まれているような安心感に、身を委ねた。
ゆっくりと意識は沈んでいき、やがて規則正しい寝息を立て始めた。
炭彦の瞼に手を添えたまま、瑠衣は自分の膝を枕に眠る少年を見つめていた。
いつもの公園。いつもの芝生。2人はそこにいた。
別の木陰には、桃寿郎と実弘の姿もあった。
瑠衣以外は、全員が眠っていた。
起きているのは、瑠衣だけだった。他には誰もいない。公園には、誰もいなかった。
「…………いいえ、違いますよ」
それなのに、瑠衣は誰かに語りかけていた。
ただ、誰かと話しているはずなのに、それは独り言のようだった。
事実、
「懐かしいとか、そういうのじゃないんですよ。本当に。私はただ、期待しているんです。この子に……竈門炭彦君に」
すやすやと健やかな寝息を立てる少年に、瑠衣はそっと微笑んだ。
「彼はきっと、
それはつまり、運命ということだった。
ずっとずっと待っていた奇跡が、やって来たということだった。
世界の意思とでも言うべきものが、動き始めたということだった。
「本当に、期待しているんですよ。
それは、ずっと待っていたもの。
「
炭彦の瞼に触れていないもう片方の手を、瑠衣は見やった。
その手の中には、あるものがあった。
それは先日、まさに炭彦から貰った飴玉だった。
未開封の袋には、こうプリントしてあった。
「本当に、期待しています」
――――珠世クリニック、と。
最後までお読みいただき有難うございます。
あれれ~、おっかしいぞ~(某少年探偵風)
ほのぼの学園ハートフルストーリーのはずなのに、何だかバイオレンスな気がする。
妙だな……(お目目ぐるぐる)。
ホラー回か(違う)
それでは、また次回。