1か月も通っていると、日常になってくるものだ。
犬人間事件の治療――と言っても、外傷はほとんど無かったのだが――とカウンセリングで、胡蝶姉妹は近所のクリニックのお世話になっていた。
もっとも、最近はただおしゃべりに来ているだけになっているが。
というのも、実はこのクリニックには子供の頃から良く来ていたのだ。
いや、良く来ていたというのはやや語弊があるだろうか。
怪我や病気などをした時に来る、いわゆるかかりつけ医というものだ。
なので、クリニックの先生とも顔見知りだった。
「良かったわ。2人ともだいぶ元気になって」
珠世、という女性の先生だった。
しのぶは自分の姉がこの世で最も美人だと思っているが、珠世もまたかなりの美人だった。
実際、珠世を目当てに通う者もいるくらいだ。
美貌もそうだが、たおやかな物腰や優しい性格が、人を惹き付けるのだろう。
「ありがとうございます。先生のおかげです」
もちろん、美貌も性格も姉のカナエが一番なので、その次ということに――しのぶの中では――なっているが、これはしのぶにすれば破格の高評価ということになる。
まあ、それを口にすることはないわけだが。
「あれ、こんな写真ありました?」
その時、しのぶは珠世のデスクの写真立てが目に入った。
それ自体は珍しいことではないが、古そうな写真で、気になったのだ。
少し色褪せてはいるが、それでも、そこに映っている人間が珠世だということはわかる。
ただ一緒に映っている青年は、見たことがなかった。
「先生、この人は?」
「え? ああ……家族です」
「ご家族? あ、茶々丸ちゃんもコロちゃんも映ってますね」
家族写真か、と、何となく受け取った。
それをデスクに置いておきたい気持ちは、何となくわかった。
自分も姉との写真をスマホの待ち受けにしている。
まあ、写真というのはいささか古風かな、とも思ったが。
(それにしても、古い写真ですね……)
表面が色褪せていて、端が傷んでいる。
しのぶも余り写真に詳しい方ではないが、状態が良くないということはわかった。
ただ、それだけ大切な写真なのだろう。
余り触れるのも失礼かと思って、しのぶは写真を珠世に返した。
珠世はそれを両手で受け取って、大事そうにデスクに戻していた。
ただその目は、どこか哀しそうに見えた。
やはり、しのぶは触れなかった。
◆ ◆ ◆
炭彦も、以前とは別の日常を始めた1人だった。
まず犬人間事件だが、あの日以来、ぱったりと止んだ。
瑠衣は犬人間が「竈門君に思わぬ反撃を受けて逃げたんですよ」と言っていたが、炭彦の記憶は犬人間に殴られたところで途切れていた。
だから、自分が犬人間を撃退したと言われても、実感は何も無かった。
けれど犬人間はこの1か月間は現れていないし、本当にいなくなったようだった。
世間も学校も、犬人間のことなど忘れてしまったかのように静かだった。
けれど、変わったこともあった。
「桃寿郎くん。剣道をやってみたいんだけど、良いかな」
と、桃寿郎に頼んだのが1週間ほど前のことだった。
以前の炭彦であれば、剣道はおろかどんなスポーツもやろうとは思わなかった。
寝る時間が減るし、何より
けれど、決めたのだ。
(強くなるんだ。瑠衣さんを守れるくらいに)
あの時、たぶん、単純な身体能力では自分は犬人間を超えていたと思う。
しかしいくら身体能力で上回っても、使い方がわからなければ宝の持ち腐れだ。
使いこなせない力は、ただの無力でしかない。
瑠衣は自分が犬人間を追い払ったと言ったが、そうだとしても、気絶してしまったのだ。
今回はきっと、運が良かった。運が悪ければ、もっと酷い結末になっていたに違いなかった。
「うむ! もちろん大歓迎だ、うちの道場に来ると良い!」
ちなみに、炭彦も桃寿郎も帰宅後にしこたま叱られた。
それはそうだろう。深夜に出歩き、危険な目に合ったのだ。
実弘がそれぞれの家に来て、謝罪したのも大きかった。
いわゆる「うちの子がご迷惑を!」だ。
それはもうこっぴどく叱られたが、それ以上の使命感が炭彦を突き動かしていた。
「よーし、やるぞ!」
そして、これが良くなかった。
その使命感――瑠衣を守る――に燃えるままに、桃寿郎の実家の道場に入門して。
桃寿郎が余りにも炭彦を褒めちぎるものだから、年上の門下生がむきになってしまって。
まだ竹刀の握り方さえわからないままに、炭彦は先輩と立ち合うことになってしまって。
もう一度いうが、これが良くなかった。
桃寿郎でさえ勝てない年上の門下生と、入門初日の炭彦。
普通に考えれば、結果は明らかだった。
しかしそれは、あくまで規格内の常識内の話。
「よもや」
と、桃寿郎が思わず呟いてしまう程だった。
炭彦は、年上の門下生が竹刀を振るおうとした刹那に打ち込んだ。
瞬きの間に3発。とどめに1発。
打ち込まれた先輩門下生が立ち合いの結果を知ったのは、
◆ ◆ ◆
桃寿郎の父・藤寿郎は、衝撃を受けていた。
衝撃は、2つあった。
まず、門下生と炭彦の立ち合い。
炭彦が見せた動きを、藤寿郎はまったく視ることが出来なかった。
(両の小手に打ち込んだ後、突き……か? それから、胴を薙ぎ)
それは、打たれた門下生の手当てをして初めて理解できた。
打たれた箇所が、骨には異常が無さそうだったが、真っ赤に腫れ上がっていたからだ。
藤寿郎の目には、炭彦の手から先が消えたようにさえ見えたのだ。
そんな馬鹿なと、聞けば人は思うだろう。正直なところ、藤寿郎もそう思っている。
だが、これは現実だった。
聞けば炭彦は、剣を握ったのは今日が初めてだと言う。
もしもそれが本当ならば、初日で格上の剣士を圧倒したことになる。
倒された門下生の実力は教えた藤寿郎が一番よく知っている。
どんなに油断していたとしても、ここまで一方的に負けるような子では無かった。
「炭彦……」
心配だったのは、桃寿郎のことだった。
やや思い込みが激しいところがあるが、努力家だった。
幼い頃から何年も鍛錬を続けていて、親の色眼鏡を抜きにしても、良くやっていると感じる。
しかし、今の炭彦の立ち合いは、そうした積み重ねをすっ飛ばしたものだった。
圧倒的な、神がかり的な才能。
藤寿郎が見る限り、炭彦は初日の時点で、桃寿郎の数年間の努力を上回ってしまった。
どんな人間でも、ショックを受けてしまうだろう。
どれ程の人格者だとしても、嫉妬という感情はあるのだから。
まして子供だ。だから藤寿郎は、どうフォローすべきかと考えあぐねていた――――が。
「……凄い」
が、彼の息子は、父親が思う以上に真っ直ぐな少年だった。
「凄いぞ炭彦! 今のはどうやったんだ!?」
「え、ど……どうって。普通に」
「いや、あの動きは普通に出来るものじゃない! 何か秘訣があるのか!?」
「ひ、秘訣かあ。息を思い切り吸って、力をこう、ぎゅーんって」
「ぎゅーん!?」
とりあえず、心配したような事態にはならなかったようだ。
もちろん、桃寿郎以外の門下生は畏怖の籠った目で炭彦を見ている。
道場で迎え入れるとなると、色々とトラブルになりそうだ。
だが、それは
(それにしても、
衝撃は2つ。1つは炭彦の才能。
そしてもう1つは、期せずして炭彦自身が言及した「息」という単語だ。
動き出す直前、確かに、炭彦は深く息を吸っていたように思える。
藤寿郎はかつて、幼い頃に祖父に聞いたことがあった。
(何と言ったか、あれは、そう)
祖父はたしか、こう呼んでいた。
――――全集中の呼吸、と。
◆ ◆ ◆
炭彦が剣道の道場に通い始めたと伝えると、瑠衣は嬉しそうな顔をしてくれた。
正直なところ、そんな風に喜んで貰えるとは思っていなかったので、炭彦も嬉しかった。
そしていつものように、胡蝶姉妹の
「ありがとうございます」
それは、胡蝶姉妹が通っているクリニックで貰えるご褒美の飴だった。
どうしてかはわからないが、瑠衣はこの飴を欲しがった。
瑠衣の――出会ってからはおそらく初めての――願いなので、胡蝶姉妹に頼んで飴を譲って貰った。
飴が好物なのかと思ったが、他の飴は渡そうとしてもやんわりと断られてしまうのだ。
それに、瑠衣は貰った飴を食べるわけでもなかった。
ただ手の中で弄んで、しばらく眺めているだけだった。
「う……」
陽の光のせいだろうか、視界が一瞬、眩しくなった。
思わずごしごしと目を擦っていると、その手を瑠衣が取った。
「駄目ですよ。擦ったら目が痛みます」
「う、うん」
綺麗な顔が目の前にあって、どぎまぎとしてしまった。
目を覗き込まれる形になっているので、炭彦からも瑠衣の瞳が良く見えた。
大きくて、吸い込まれそうで。いつまでも見ていられるような気がした。
「竈門君の目は、とても綺麗ですね」
「え、そ、そうかな」
「ええ、とても」
頬のあたりに手が振れて、目の周りを指先が撫でた。
心臓がばくばくと音を立てていて、どうにかなってしまいそうだった。
ただ、どうしたらいいのかわからず、固まっているばかりだったが。
そんな炭彦の様子を見て、瑠衣はくすりと笑った。
「良い目ですから、大事にしないといけませんよ」
帰ったら目薬をさそうと、そう思った。
「さあ、呼吸の練習をしましょうか」
「う、うん」
そして、呼吸の練習だ。
最初は戸惑いもあったが、最近は慣れて来たような気がする。
普段の生活でも呼吸を意識するようになって、いつでも――たぶんだが、寝ている時も――同じような状態が当たり前になっていた。
そのせいかはわからないが、身体の調子も良かった。
桃寿郎の実家の道場では、余りにも調子が良すぎてやり過ぎてしまった程だった。
座禅を組んで目を閉じると、調子の良さというか、呼吸の深さがよりわかるような気がした。
「良いですね。とても」
意識の端で、瑠衣の声が聞こえた。
その声がまた嬉しそうで、つられて炭彦も嬉しくなってしまった。
◆ ◆ ◆
珍しいことに、実弘は事務所に引きこもっていた。
「先輩、メシ買ってきました」
「おう、サンキュー」
正直なところ、書類仕事や調べ物は荷が苦手な方だ。
外に出てパトロールでもしていた方が性に合っているのだ。
それでも気になったことがあって、ここ数日はデスクに齧りついている。
後輩が買ってきてくれた食事を片手に、ファイルやパソコンで調べ物を続ける。
調べているのは、あの店のことだった。
青葉が通っている、あのバーである。
(あの時は特に何も思わなかったが……)
いくつか、気になるところがあった。
別に犯罪がどうとかではない。いや喧嘩沙汰にはなっていたか。
それはそれとして、ほんの少し違和感を覚えたという程度だ。
実弘も、今の時点で何か具体的な考えを持っているわけでは無かった。
(あの女、
言ってしまえば、ただの直感だ。
ナイフを振り回す暴漢を取り押さえた時でさえ、
しかしあのバーの女主人は、一目見た瞬間にヤバいと思った。
だからこそ、青葉にも「あいつはやめておけ」と言ったのだ。
まあ、もっとも青葉はあのバーに足繁く通っている様子だったが。
「……あ?」
まず、ホームページは無かった。SNSにもそれらしいものは無かった。
ただこれは、別に珍しい話ではない。
1店きりの小規模な店の中には、ネットを使わない店もあるだろう。
まあ、SNSでも掠りもしないという点は意外ではあったが。
しかし、である。
バーを開業している以上、届け出というものはされているはずだ。
もちろん警察内の情報管理の不備というのも、あるのかもしれない。
だが、全くそういう記録がない、ということはあり得ない。
「いや……っていうかよォ」
何度も確認した。問い合わせも入れてみた。
しかし、結論は常に同じだった。
それを理解するにつれて実弘の額には皺が寄り、表情はより厳しいものになっていった。
とん、と、指先が書類ファイルの表面を叩いた。
「
いや、バーだけではない。あの店が立っている場所には、何も無い。
無許可営業、ですらない。本当に、何も存在しないはずなのだ。
しかし、だとすれば。
だとすれば、あの女主人は、店員達は、いったい何者なのか。
◆ ◆ ◆
「――――珠世ぉ?」
実弘にそう言われていることなど露とも知らず、その店内で、やや素っ頓狂な女性の声が響いた。
開店前の店内は静かな分、余計に甲高く響いだ。
店内にいる
「…………って、誰だっけ?」
ドレスの女、店の女主人――
「誰じゃねえよ。とうとう脳みそ腐ったか?」
黒服の男――
「まあまあ、結構あれも昔の話だしねえ」
同じく黒服の男――
「…………(十年前)」
眼帯・隻腕の女バーテンダー――
「ほら、いたじゃない。お医者様のぉ」
同じく女バーテンダー、車椅子の女――
「あ~……思い出したわ。いたわね、そういえば」
店の酒を呑むという暴挙を平然と行いながら、禊は思い出すように天井を見上げていた。
昔を懐かしむ、というには、いささか表情の色が薄い。
「それだけかよ、冷たい女だな」
「五月蠅いわね。アンタだって言われるまで忘れてた癖に」
「そんなことは…………いや、あるな」
「でしょうよ。アンタはそういう奴だもの」
「お前にだけは言われたくねえ」
10年前ねえ、と、禊は呟いた。
獪岳は肩を竦めて、新しい酒のボトルを開け始めた。
「
「普通逆だろ」
「わたしの酒じゃないもの」
「だったらなおさらだろ……」
しかしボトルを持ち帰るあたり、酒に対しては素直だった。
「珠世とかいう女のことは覚えてないけど、あっちは良く覚えてるわよ。もう100年くらい前になるかしら。そう、
「また始まったよ。お前酔うとその話ばっかだな」
げんなりとした様子の獪岳に、禊はけらけらと笑って見せた。
「だって仕方ないじゃない。あれだけは本当に楽しかったんだもの。
「出来てたまるか。俺はもう御免だ」
「へえ、そう? わたしの記憶だと、アンタが一番楽しそうだったけどね」
「…………」
「あら、機嫌を損ねちゃったかしら」
笑いながら空いたグラスを置く。
すると、榛名がついと新しいカクテルを出して来た。
ありがと、と言って、グラスを手に取る。
強烈なウォッカの香りと、香りに反する酸味の強い赤。まるで血のような酒だ。
それをグラスの中で弄びながら、禊は機嫌よく鼻歌を歌い始めた。
「……で、本当に覚えてないのかよ?」
「しつこいわねえ。知らないわよ」
く、と血色の酒を口内に流し込んで、息を吐くように言った。
「アイツに喰われて死んだやつのことなんか」
覚えてんじゃねーか、と、獪岳が呆れたように言った。
◆ ◆ ◆
呪い、というものを信じるだろうか。
医師である珠世は、おそらく信じなかった。
何しろ彼女は、
それが故に、呪いというものを信じなかった。
だから、信じない。
「……コー」
しかし、どんな医者も匙を投げた患者を前にすれば、呪いのせいにしたがる気持ちも理解できた。
特段の原因も見つからないのに、身体が腐っていく。
遺伝性の難病と言えば少しは聞こえも良いのかもしれないが、何の慰めにもならなかった。
どんな呼び方をしたところで、治せないという結果は変わらないからだ。
「お久しぶりです。
珠世クリニックは、往診もしている。
それ自体は不思議なことではないが、産屋敷という患者は特別だった。
それは、特別な難病を抱えている、という意味合いでもあるし。
両者が特別な関係、という意味合いもあるのだった。
産屋敷と呼ばれた男は、一見すると老人のようだった。
それは爛れた肌のせいでもあるし、全身の小ささのせいでもある。
体中の穴という穴に医療用のチューブを繋がれたその姿は、半死人と言って差し支えない。
あらゆる生命維持装置に繋がれ、薬品を投与され、ようやく生きている、という様子だった。
「……コー」
呼吸器とチューブを差し込まれた口は、言葉を発することは出来ない。
唯一の会話手段は、視線で入力するタイプのタブレット端末だけだ。
もっとも珠世は産屋敷の顔を見ていて、タブレットの画面を見てはいなかった。
まるで、端末よりも正確に産屋敷の意思を読み取れる。そんな自信があるかのようだった。
「ええ、
珠世は医者だが、薬剤師でもある。
とは言え、製薬会社の発達した現在では、薬剤師の意味合いも違うのだが。
「今は臨床試験をしているところですが、経過は良好です。きっと、役立つでしょう」
珠世の言葉に、産屋敷が僅かに身じろぎしたような気がした。
ほんの僅かな身じろぎ。
しかし、それが産屋敷の精一杯の意思表示であることを、珠世は理解していた。
「ええ、大丈夫です。
穏やかな表情とは対照的に、珠世の瞳には一瞬、苛烈な色が走った。
「あの、煉獄瑠衣が」
――――呪いというものを、信じるだろうか。
◆ ◆ ◆
竈門家は、一般的な家庭だった。
お金持ちというわけではなく、かと言って貧乏というわけでもない。
一戸建てを持てるほどではないが、マンションのローンを組める程度には資産がある。
自慢があるとすれば、田舎に山を一つ持っていることだろうか。
「いただきまーす」
カレーライス、である。
これと言った特徴のない、ジャガイモのカレーライス。
見事な晩御飯である。
炭彦はしかし、母の作ってくれたカレーライスが大好物だった。
「今日は父さん遅いの?」
「残業なんですって」
「ふーん」
母とカナタの話をしているが、炭彦はカレーライスを食べ続けていた。
これは別に会話を拒否しているわけではなく、食べながら喋ることが苦手なだけだった。
実はカナタの方がお喋りなのだが、クールな印象のせいか余り知られていない。
竈門カナタ。近所でも評判の美少年である。
美人という意味では胡蝶姉妹の方が有名だが、カナタも静かな人気を誇る。
何しろ、クールな出で立ちの割に情が深い。
弟の面倒を見たり、胡蝶姉妹の見舞いに行ったりしていることからからも窺える。
「カナタは部活とか始めないの?」
「僕は良いよ。炭彦みたいに体力お化けじゃないし」
カレーライスで口を一杯にしている炭彦を横目に、そんなことを言った。
確かに炭彦に比べれば、カナタは運動が得意とは言えない。
ただそれは炭彦が異常なだけで、カナタもまた、一般的な基準で言えば「できる」方なのだった。
しかもこのルックスなので、体育の授業などでは黄色い声援を受けたりする。
「それに週末は父さんと稽古だし。時間もないしね」
ふう、と、息を吐いて、スプーンを置いた。
意外と食が早く、弟よりも先に食べ終えていた。
「父さん遅いね」
「そうねえ」
その時、カナタがちらと視線を向けた先には、壁に飾られた日本刀だった。
由来も縁も知らないが、子供の頃からある物だ。
それが何か、というのは考えたこともない。
ただ、父がそれをとても大事にしていることは知っていた。
だから、カナタもそれを大事にしようと思っていた。
とは言え、使う予定のない――日本刀を使うなど、現代ではない――物だから、大事にすると言っても、それこそ飾るくらいしか用途はないだろう。
「……まあ、僕は大丈夫だよ」
そう言って、カナタは母の淹れてくれたお茶に口をつけた。
◆ ◆ ◆
定番、というものがある。
晩御飯と言えばカレーライスという具合に、何事にもそれは存在する。
例えば、七不思議。
トイレの花子さんであるとか、勝手に鳴るピアノだとか、そういう意味合いだ。
「うわあああああああっ!」
青葉は、自分の不運を呪わずにはいられなかった。
青い彼岸花を枯らされ、仕事を失い、さらに犬人間騒動に巻き込まれ。
いやあ神様もう良いでしょう、と思っていた矢先のことだった。
就活帰り――ニュースで面が割れているせいか、結果は芳しくない――に、禊の店に向かおうとしていると、不意に声をかけられたのだ。
当然、良い予感はしなかった。肌に悪寒が走りさえした。
そうして、まさに文字通り恐る恐ると言った風に、振り向くと。
「――――キレイ?」
やはり、いた。
長身の女だった。長い黒髪で、マスクで口元を覆っていた。
それ自体は、普通だろう。
しかし残念ながら、その女の見た目は「普通」では無かった。
「アタシ、キレイ?」
先日見た犬人間――思い出すだけでも悍ましいが――は、明らかに化物だった。
それに比べると、目の前の女は一応、人間の形をしてはいる。
しかしそれが一層、恐怖を与えてくる。
青白い肌。真っ黒な眼球。
――前言撤回。これも、どう見ても化物だった。
「ネエ、アタシ――――キレイイイイィッッ!?」
「え、正直キレイじゃないです。顔色悪すぎて」
「…………」
「…………………あっ」
しまった。つい本当のことを。
と、思ってしまった時にはもう遅かった。
「キイイイイアアアアアアアアアアッ!!」
マスクの下は、耳まで裂けた牙だらけの口。
口裂け女かよ、と思わず胸中で悪態を吐いたが、襲われているという事実は消えない。
今度こそ死んだと、そう思った。
しかし、だ。
結論から言ってしまうと、青葉は死ななかった。
何故ならば、口裂け女が彼に掴みかかるよりも先に
余りにも一瞬のことだったので、何が起こったかわからなかった。
「大丈夫ですか?」
普通に生きていて、そんな場面に出くわすことはまず無いだろう。
しかし実際、今、青葉は人の――いや化物だが――頭が、ぼとりと落ちる場面を見た。
そしてその頭が、いや体が、塵のように崩れる様を。
まるで御伽噺のような、そんな光景を見ていた。
「あの~、大丈夫ですか?」
「え、あっ、すみません!」
いつの間に、そこにいたのか。
スーツ姿の男性――30代後半か、40代ほどだろうか――が、立っていた。
穏やかな顔をした男性で、どこか安心するような、そんな雰囲気を纏っていた。
何故か、
「ああ、すみません。しまい忘れていました」
青葉の視線に気付いたのか、辺りを見回して、地面に落ちていた木製の
普通に考えれば、こちらも十分に不審者だろう。
ただ不思議と、怖いとは感じなかった。
というより、どこかで会ったような、面影があるような、そんな気さえしていた。
「あの、貴方は……?」
「ああ、すみません。申し遅れました」
包丁をビジネス鞄にしまいながら、その男性は言った。
「私は竈門炭吉と言います。サラリーマンです」
最近のサラリーマンは包丁を持ち歩くのか、と、青葉はそんなことを思ったのだった。
最後までお読みいただきた有難うございます。
口裂け女をやっつけました。
これで町の平和が維持されることでしょう(お目目ぐるぐる)
それでは、また次回。