鬼滅の刃―鬼眼の少女―   作:竜華零

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第71話:「珠世」

 ――――2人は、()()()()()向かい合っていた。

 

「ずっと、この時を待っていました」

 

 珠世の言葉を、瑠衣は正面から聞いた。

 聞いていたが、それはどこか、そうしているだけという風だった。

 聞きこそするが、それ以上でもそれ以下でもない。

 つまり、相手の言葉に関心を持っていない。

 

 ただそれは、珠世にも伝わっているのだろう。

 ()()もまた、自分の言葉が瑠衣に届いていないことを理解していた。

 けれど、言わずにはいられなかった。

 長年――文字通りの意味で――蓄積した思いを吐き出すように、口は勝手に動いた。

 

「貴女は、貴女達は、滅ぼさなければならない」

 

 付き合いは、それなりに長い。

 直接に言葉を交わしたことも、一度や二度ではもちろん無い。

 けれどその心の立ち位置は、遥かに遠い。

 2人の間に流れる空気の張り詰め様が、言葉よりもなお雄弁にそれを物語っていた。

 

「私がそう決意したのは、もう何十年も前の話です。あの男……鬼舞辻無惨にさえ、そこまで思うことはありませんでした」

「鬼舞辻無惨」

 

 瑠衣の声には、微かな笑みの成分さえあった。

 

「これはまた、懐かしい名前を聞いたものです」

 

 皮肉。込められている感情はそれだった。

 それは、未だにその名を口にする珠世に対するものか。

 それとも、滅びた後も名前だけは永遠を生きているようにも見える無惨に対するものか。

 あるいは、両方に対してか。

 

「貴方は変わりませんね。もう100年になりますか。初めて出会ったあの時から」

「思い出話に付き合うつもりはありません」

 

 ぴしゃり。

 まさにそういう表現が合うような、そんな調子だった。

 拒否。拒絶。全身が、表情が、そう告げていた。

 

「貴女は、ここで滅びるのです」

 

 その時、穏やかな微笑を浮かべていた瑠衣が、眉を寄せた。

 そっと胸元に当てられた手が、喉、そして顎先に触れる。

 まるで、何かを追いかけるかのように。

 それに比例して、今度は珠世の方が笑みを湛えていった。

 

「すでに、貴女の肉体には大量の()が投与されています」

 

 溢れ出た。

 まさにそんな様子で、瑠衣の口の端から赤い液体が漏れた。

 それは唇を濡らし、顎先を滴って、衣服の胸元を汚した。

 指先で拭い取ったそれに、瑠衣は目を向けた。

 

「断罪の時です。煉獄瑠衣……!」

 

 血は赤かった。

 こんなになっても、血は赤いのだなと。

 瑠衣は、そんなことを思ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その日の瑠衣は、どこか不機嫌そうだった。

 炭彦は人の心の機微(きび)を読むのが得意な方ではないが、それでもわかる程に、瑠衣の機嫌は良く無かった。

 話し声や表情は、いつもと変わらないように見える。

 

「どうかしましたか?」

 

 炭彦の視線に何かを感じたのか、覗き込むようにして聞いてくる。

 すると、炭彦としては言葉もなくなってしまう。

 ただ「何でもない」と言うだけだった。

 

 しかし、それを加味した上でも、炭彦は瑠衣の不機嫌を察知していた。

 その証拠に、炭彦から視線を外した瑠衣の顔からは表情が消えていた。

 纏っている雰囲気も、どこか硬い。

 こんなことは、出会ってから初めてのことだった。

 

「最近はどうですか。剣道の方は」

「あ、最近はだんだん楽しくなってきて。色々な技を教えて貰ったり」

「そうですか。それは良かった」

 

 言葉の通りに喜んでくれている、とは思う。

 ただ、やはりいつもと違う。

 そう思っていると、あの音が聞こえた。

 

 く~、という、あの音だ。

 空腹を訴える、独特のあの音だ。

 それが、瑠衣の腹部から聞こえて来た。

 ここしばらくは聞いていなかったが、今日は何度か聞こえた。

 

「どういう技を学んでいるのですか?」

「いくつか型みたいなものがあって、それを1つ1つ習う感じで」

「わあ、型? ぜひ見てみたいです」

「ま、まだまだ下手くそだから」

 

 空腹なのだろうか。

 だがそう聞いても、瑠衣は否定するだろう。

 それに、女性にそういうことを聞くものではない、ということをいい加減に学んでもいた。

 だから気になりつつも、炭彦は瑠衣に聞かなかった。

 

「じゃあ、上手になったら見せてくれますか?」

「う、うーん」

「お願いします。竈門君」

 

 ただそれも、瑠衣が手を合わせてお願いしてくる段になると、どこかへ行ってしまった。

 綺麗なお姉さんが両手の平を合わせて「ねっ」と小首を傾げる姿は、かなりの破壊力だった。

 まあ、俗っぽく言えば「デレデレしている」という状態だった。

 

「じ、じゃあ、上手になったら……」

「約束ですよ」

 

 約束してしまった。

 まあ、大丈夫だろうと、その点については思っていた。

 何しろ型にしろ技にしろ、大体は()()()()()()()()のだから。

 ただ、瑠衣に見せるとなるとより完璧にしたい。

 

「楽しみにしていますね」

 

 憎からず想っている相手に格好の良いところを見せたいと思うのも、当たり前の感情だろう。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 犬人間事件。あるいは、口裂け女事件。

 長々とした正式名称はともかく、世間ではそう呼ばれている事件があった。

 と言っても、あった、という程に昔の事件というわけではない。

 しかし、人々の間ではすでに「終わった」事件として扱われていた。

 

 一時は世間を賑わせた事件でも、喉元過ぎれば何とやらだ。

 今や多くの人々は事件があったという記憶すら薄れて、夜間の外出も躊躇わなくなっている。

 だが、事実は()だった。

 そしてその事実を、誰よりも現場に出張っている実弘は良く知っていた。

 

「オラァッ、大人しくしやがれ!」

 

 夜毎のパトロール。

 大体は何事もないか、やんちゃする子供や酔っ払いを相手にするだけの時間だ。

 しかし今やこの時間は、実弘にとって最も緊張を強いられる時間になっていた。

 

「ガアアアッ、ガアアアアッ」

「クソッ、またかよ。おいっ、押さえとくから手錠!」

「は、はい! てか力強いなホント!?」

 

 後輩と――顔に傷のある――共に、暴漢を捕らえるのは初めてではない。

 ナイフを振り回す犯人を2人で取り押さえたことだってある。

 しかしここのところ相手にするのは、そういうレベルでは無かった。

 

「クソがァ。頭イカれてる奴ばっかじゃねぇか。どうなってやがるんだ一体」

「ちょ、ちょっと気味が悪いですよ」

 

 迎えの護送車(パトカー)が来るのを待ちながら、後輩とそんな話をした。

 普段であれば一喝しているところだが、今回ばかりは、実弘も叱る気にはならなかった。

 何しろ、相手は()()()()()()()()()()

 

「ガアアアアアッ」

 

 屈強な警察官2人に抑え込まれてもなお、暴れる男。

 しかし唸り声を上げながらもがくその姿は、人間というより、まるで(ケダモノ)だった。

 実際、目は血走っていて焦点も合ってなく、口からは涎を撒き散らしている。

 そして何より、腕力が尋常では無かった。

 

(まるであの時の犬人間みてぇだ。だが、()()()()()()()()!?)

 

 確かに、犬人間は出なくなった。口裂け女などは遭遇することなく終わっていた。

 だがその代わりに、今度は正気を失った人間が町中に出没するようになっていた。

 事件は解決したのかもしれないが、危険は減っていない。しかし増えている。

 そしてどういうわけか、警察もメディアもこの事実を報じない。

 

「ガアアアアアッ」

「五月蠅ェな! 大人しくしやがれ!!」

 

 いったい、何が起こっているのか。

 あるいは、何かが起ころうとしているのか。

 どちらにしても、実弘に出来るのは暴漢を取り押さえて、被害を防ぐことだけだった。

 クソが、と、何度目かわからない毒を吐いて、実弘は目の前の腕を掴む手に力を込めた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 健康診断、ということだった。

 いきなりではあったが、一方で不思議という程ではない。

 しかも問診だけということだったから、おそらく、犬人間事件等の精神ケアのためのものなのだろう。

 と、しのぶは理解していた。

 

「それにしても、また急な話よね」

「そうですね~」

 

 などと友人と話をしながらも、しのぶは気楽だった。

 というのも、キメツ学園に出向してきた医師が知り合いだったからだ。

 

「こんにちは、珠世先生」

「はい、こんにちは」

 

 珠世だった。

 場所はキメツ学園の保健室なのだが、不思議と、珠世がそこにいると様になって見えた。

 珠世が校医だと言われても納得してしまいそうな程に、風景に溶け込んでいる。

 

「じゃあ問診を……と言いたいところだけど、もう十分かしらね」

「そうですねえ」

 

 しのぶがくすりと笑うと、珠世も小さく微笑んで見せた。

 それでも一応は仕事なので、渡された問診票にさらさらと書き込んでいく。

 書きながら、交わした会話はとりとめのないことだった。

 

「あの子達は元気にしていますか?」

「あの子達?」

「貴女のお見舞いに来ていた子達です」

「……ああ。カナタ君に、それと」

 

 ボールペンで下唇を押さえるようにして、しのぶは言った。

 

「――――炭彦君のことですね」

「そう、そうね。炭彦君」

「彼が何か?」

「いえ、ほら、うちの飴を欲しがる子どもって珍しいですから」

「ああ、その節は無理を言ってすみません」

「いえいえ。構いませんよ」

 

 珠世クリニックの飴は、とりたてて特徴のあるものでは無い。

 それをわざわざ欲しがる炭彦のような子どもは、確かに珍しいだろう。

 

「ただ、気に入ってくれているかどうか。という点が気になっていまして」

「ああ、それがですね」

 

 くすりとまた笑って、しのぶは言った。

 

「あれ、女の人にあげているみたいなんですよ」

「あら」

「可愛らしいでしょう? ふふ、熱心に持って行っているんですよ」

「なるほど。それはそれは……」

 

 問診票を受け取って、珠世はしのぶに背を向けた。

 それをデスクの上に置きながら、ふふ、と珠世の肩が笑った。

 

「それは、可愛らしいですね」

「ねえ。本当に」

 

 保健室に、しのぶと珠世のクスクスと笑い合う声が響いた。

 その声は、廊下で自分の番を待っていた女生徒の耳にも届いていた。

 和やかだなあ、と、女生徒は思った。

 

 それはそうだろう。誰が聞いても、漏れ聞こえてくる笑い声は和やかとしか思えない。

 しかも、しのぶは学園の三大美少女とまで言われる程の人気者だ。

 だから女生徒も、自分の番を楽しみに待つことが出来た。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣と出会ってからというもの、年上の女性を前にすると緊張してしまう。

 しかも普段学校で会うことがない相手となると、なおさらそうなる。

 要するに、珠世と保健室で2人きりという状況は、炭彦に緊張を強いているのだった。

 

「はい。チクっとしますよ」

 

 ちゅー、と、擬音があればそんな音だろうか。

 採血のためとは言え、注射が好きな者はいないだろう。

 炭彦も例外ではなく、目を背けて明後日の方向を向いて、眉間に皺を寄せていた。

 

「はい。お終いです」

「う~、いたたたた」

 

 アルコールで消毒されて、ようやく息を吐いた。

 幼い頃のように泣くということはないが、それでも苦手なものは苦手だ。

 というか、注射が得意な人間っているのだろうか。いやいない。

 

「腕周りの筋肉がしっかりしていますね。何かスポーツでも?」

「え、そうですか? 剣道を始めたせいかなあ」

「なるほど、剣道を。だから腕周りの筋肉が引き締まっているんですね」

 

 やはり、珠世と話すのは緊張した。

 年上の女性というのもそうだが、どこか、瑠衣に雰囲気が似ているせいかもしれない。

 立ち居振る舞いというか、雰囲気というか、どこか話し方も似ている。

 二の腕のあたりをぷにぷにと触れられるのも、気恥ずかしかった。

 

 ただ、逞しくなっていると言われて悪い気にはならなかった。

 瑠衣を守るために始めた剣道だが、効果が出ていると言われれば、始めて良かったなと思えた。

 しかしそうは言っても、どうして珠世は自分の二の腕をぷにぷにし続けているのだろうか、と思った。

 

「あ、あのう」

「あっ、ごめんなさい。不躾でしたね」

 

 そう言って離れると、珠世は採血した注射器を片付け始めた。

 そこからも、色々と話を聞かれた。

 剣道の話に加えて、危険登校の噂の話、それから家族の話も話題に上った。

 

 端的に言って、健康診断とは余り関係のある話だとは言えなかった。

 ただ炭彦も恥ずかしがりはしても、特に不審に思う素振りは見せなかった。

 単なる世間話、お喋りの類だと思っていたのだろう。

 珠世の持つ物腰や雰囲気が柔らかで、話しやすかったというのもあった。

 

「ああ、そうそう。そう言えば、好きな女性がいるとか?」

「ぶっ」

 

 とは言え、流石にそういう(コイバナ)になるとは思わなかった。

 噴き出して慌てる炭彦の様子がおかしかったのか、珠世は口元を押さえて笑っていた。

 そしてそれもまた、廊下で次の順番を待つ生徒の耳に届く。

 彼もまた珠世の検診を和やかだな、という印象を持つことになる。

 こうして珠世は、キメツ学園の中で評判の医師として認識されていくのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――流石に、疲労を覚えた。

 クリニックに戻った珠世は、キメツ学園から持ち帰った問診票の確認もそこそこに――ばさ、と、デスクの上に無造作に置いて――椅子に深く座り込んだ。

 背もたれに身を押し付けて、腕で顔の上半分を覆った。

 

「ふう……」

 

 と、形の良い唇から漏れた吐息には、疲労の色合いが強い。

 何しろ、数日でキメツ学園の全生徒を1人で問診したのだ。

 そこまでの重労働、流石に疲れる。

 そう、たとえ。

 

 たとえ、鬼だとしても。

 

 不老不死の鬼だとしても、疲労は感じるのだ。

 とは言え、ここまでの疲労を覚えたのは、それこそ何十年ぶりだろうか。

 けれど、必要なことだった。

 何十年もかけてきた目的を達成するためには、これくらいの疲労は仕方がない。

 

「……そんな目で見ないでください」

 

 不意に、デスクの上の写真立てに目を向けた。

 姿勢を直して、それを手に取る。

 古ぼけた写真には、珠世と、青年が1人写っていた。

 それを見て、珠世は遠くを見るように目を細めた。

 

 写真の表面を撫でて、音は発さず、唇だけを動かして何かを呟いた。

 音が無い言葉は、しかし誰にも聞かれることはなかった。

 いや、いた。

 にゃあ、と、鳴く者が。

 

「茶々丸」

 

 クリニックの猫、茶々丸だった。

 彼はデスクの上に乗り、珠世の顔を覗き込んでいた。

 かと思えば、珠世が手を伸ばした途端に、ふいと顔を背けて降りてしまった。

 空を切る形になった指先を丸めて、珠世は苦笑した。

 

「厳しいですね」

 

 軽やかな足取りで歩いていく茶々丸を目で追って行くと、廊下でコロが待っていたらしい。

 コロもまた鼻先を鳴らしながら、こちらを一瞥した。

 

「わかっていますよ」

 

 頷きひとつ。

 立ち上がって、茶々丸とコロの後を追うように部屋を出た。

 いくつかの部屋を通り過ぎて、薬品室と書かれた部屋に入った。

 そこは一定の温度に保たれているのか、ひんやりとしていた。

 

 そのせいか、茶々丸もコロも中にまでは入ろうとしない。

 珠世はある薬棚の前で立ち止まると、そのガラス戸を撫でた。

 ガラス戸の隅には電子機器が取り付けられていて、部屋にある物の中でも最も厳重に管理されていることが見て取れた。

 

「迷いはありません。あるはずがない」

 

 そっと指先で触れたガラス戸の奥に、()()はあった。

 

「あの女――煉獄瑠衣を、必ず滅ぼします」

 

 ()()()()()

 失われたはずの花はしかし、確かにそこに存在していた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 青天の霹靂とは、まさにこのことであろうか。

 健康診断の結果。

 人によっては極度の緊張を強いられるだろうが、学生の場合はそういう例は少ないだろう。

 気軽に受けて、気軽に結果を受け取る。そういうものだ。

 

 しかも問診の間、和気藹々(わきあいあい)とお喋りをしていたのならなおさらだ。

 当然のように、何の心配もなく結果を受け取り、何の疑念もなくそれを開いた。

 そこには、読む気さえ失せるような文字の羅列が記されていた。

 

「おお、炭彦! どうだった! 俺は何も問題は無いとのことだ!」

 

 桃寿郎が話しかけて来たが、炭彦は答えることが出来なかった。

 己の診断結果のプリントを見つめたまま動かない炭彦を、桃寿郎は訝しんだ。

 目の前で手を振っても反応が無いので、悪いとは思いつつ、桃寿郎は炭彦の診断結果を覗き見ることにした。

 

「……むう」

 

 そして覗き見た結果、桃寿郎も同じような反応を示した。

 彼にしては珍しく、難しい表情を浮かべている。

 それから診断結果のプリントと、炭彦の顔、これを交互に見つめた。

 もちろん、それで内容が変わるはずも無かった。

 

「俺はもちろん、医療のことはわからないのだが」

 

 桃寿郎は、明らかに言い淀んでいた。

 常に溌剌(はつらつ)とした彼にしては、繰り返すが、本当に珍しいことだった。

 

「……これは、そのう。余り良くない、ということか?」

「…………うん」

 

 読み方さえわからない、難しい漢字の病名。

 それから、グラフを見るまでも無く明らかに異常とわかるような数字。

 ただちに検査が必要であることを告げるおどろおどろしい文章。

 炭彦のプリントには、それがびっしりと書かれていた。

 

 つまり結論として、桃寿郎の言うように「余り良くない」。

 いや、よりはっきり言えば「かなり悪い」だ。

 自分の身体に、自分の知らない異常が起こっている。

 いくら炭彦がのんびり屋だとは言っても、流石に平然とはしていられない。

 彼はあくまでも、10代の普通の少年だった。

 

「ええと、まず先生に言うべきか。それともおじさんやおばさんか、カナタか?」

「う、うん」

「炭彦、気をしっかり持つんだ!」

 

 ただこの時、炭彦の脳裏に浮かんだのは家族でも友人でもなく、瑠衣のことだった。

 頭の中に瑠衣の微笑が浮かんで、すぐに消えた。

 そこでようやく、炭彦は震え始めた。

 呼吸は、はっきりとわかる程に乱れていた。

 瑠衣に怒られるだろうかと、そんなことを思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「あなた、明日も来てくれるのかしら?」

 

 今日も今日とて実りのない就職活動の帰り、青葉は禊の店に来ていた。

 と言って、さほど酒量の多い方ではない。

 2杯か3杯、それくらいだった。それでいて、店にいる時間は長い。

 店からすれば、上客とは言い難いだろう。

 

 しかし禊は、そんな青葉を煙たがりはしなかった。

 むしろ青葉の来店を喜んで迎えてくれて、自らお酒を勧めてくれる。

 そして今のところ、禊のお酒はどれも美味しかった。

 だから青葉も、機会があればついこの店を訪れてしまうのだった。

 

「明日、ですか?」

「ええ」

 

 一方で、禊は自分でも良くお酒を呑んだ。

 それも決まって高そうなボトル。

 他の店ではこれも客の支払いになるのだろうが、青葉は請求されたことが無かった。

 もしかすると、単に商売する気がないだけなのかもしれない。

 

「明日はね、お休みなの」

「ああ、なるほど」

 

 と言いつつ、青葉は内心で新鮮な意外さを感じていた。

 何故かと言えば、少なくとも青葉が知っている限り、この店が休みだったことが今まで無かったからだ。

 定休日がないことは聞いていたが、休みというのは初めてのことだった。

 

「何かあるんですか?」

「んー、そうねえ」

 

 中身が半分ほどになったボトルの口を指先で撫でながら、禊は言った。

 

「ちょっとね、出張……みたいな?」

 

 断っておくが、禊の店に2号店や支店などは無い。ここだけだ。

 それなのに出張というのは、どういうことだろうか。

 青葉に考え付いたのは、1つしか無かった。

 

「お酒の買い付け……!」

 

 言った後で後悔したが、当の禊には受けたのか、彼女はけらけらと笑った。

 

「良いわね、それ。美味しいお酒を探して諸国漫遊っていうの? そういうのも面白そうよね」

 

 目に涙を浮かべる程に笑う禊に、青葉は目を奪われた。

 禊は確かに美しい少女だが、けして儚げというわけではなく、むしろ活力に満ちていた。

 感情の発露が強い。それは青葉には、本当に宝石のように輝いて見えた。

 

 ただ青葉は気付いていないが、彼の容姿も――やや中性的、いや女性的ではあるが――かなり美しい方だ。

 最近では「あの2人が並んでいるところを見たい」という理由で来店する女性客もいる程だ。

 ただ青葉は禊に比べて、活力だとか感情の発露だとかが薄いので、禊のそれが眩しく見えるのだろう。

 

「お休みかあ」

「ごめんなさいね」

 

 まあ、とにかくお店都合のお休み、ということなのだろう。

 最近は弟にも「無職になったショックで酒と女にハマっている」と思われ始めている気がするので、たまには真っ直ぐ帰るのも良いのかもしれない。

 まあ、帰っても無職なのは変わらないのだが。

 あ、駄目だ。(くじ)けそうだ。

 

「その代わり、次に来てくれた時にはたっぷりサービスさせて頂戴」

「は、はいっ」

「ふふ、良い子ね」

 

 頬に触れるか触れないか。そんな位置に禊の指先を感じて、青葉はどぎまぎしてしまった。

 不意に、というタイミングで、禊は距離を詰めて来る。

 青葉としては緊張の一瞬だが、どうしてか嫌な思いを抱いたことはない。

 鼻腔をくすぐる香水の香りに、頭が痺れるような、そんな感覚を覚えた。

 

(いや、ホントそいつはやめとけって)

 

 と実弘が脳内で言ったような気がしたが、全力で気のせいだと思うことにした。

 そんな青葉を見て、禊は猫のように目を細めて笑うのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

いやあ、健康って大事ですよね。
市民、健康は義務です!(お目目ぐるぐる)

それでは、また次回。
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