鬼滅の刃―鬼眼の少女―   作:竜華零

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今年最後の更新になります。
読者の皆様には大変お世話になりました!


第72話:「ドアのない病院」

 竈門家は、俄かにざわめいていた。

 それもそのはずであろう。

 何しろ15歳の息子が、健康診断で引っかかり――それも相当に悪いらしい結果で――検査入院だと言うのだから。

 

「まあまあまあ、どうしましょうどうしましょう」

 

 母などは、突然の事態に慌てふためいている。

 バタバタと荷造りや保険証の準備などをしている母を横目に、カナタは電話をしていた。

 それも携帯電話(スマホ)の方では無く、今時は古風とさえ言える固定電話の方だった。

 

「……しのぶさんが?」

 

 彼にしては珍しく、驚きの色を隠さない声音だった。

 それから人差し指の腹を下唇に当てるようにして、考え込む表情を見せた。

 クールな表情に、いくつかの感情の色が浮かんでは消えた。

 

「それは、俺じゃ判断できないですね……」

 

 そう呟くカナタに対して、電話口の向こうで誰かが何事かを言った。

 暫く、カナタはそれを静かに聞いていた。

 時々、相槌を打つように頷いて、短く返事をしていた。

 

「とにかく、状況はわかりました」

 

 ふと、カナタの視線が横へと動いた。

 彼の視線の先には、壁にかけられた日本刀へと向けられていた。

 幼い頃から当たり前のようにそこにあるものだから、そうする癖がついてしまっている。

 ただそれだけではなくて、不思議と視線を、あるいは気持ちを向けてしまう何かがあった。

 

「はい。はい……じゃあ、また」

 

 がちゃ、と、電話を切った。

 その後、カナタは弟がいるだろう部屋に行った。

 

「……炭彦?」

 

 部屋には明かりがついていて、そして真ん中に炭彦が座っていた。

 どうして床に座っているんだろう?

 と思いはしたものの、特に何かを言うことはなかった。

 ゆっくりと近付いて、そばに膝をついた。

 

「炭……」

 

 俯いて、落ち込んでいるのだと思った。

 しかし、そうではないと一目でわかった。

 炭彦は床に座って足を組み、目を閉じていた。

 座禅、が近いかもしれない。

 

「スゥ――――……」

 

 大きく息を吸い込み、同じだけの時間をかけて吐く。

 それを、繰り返す。

 そして回数を重ねるごとに、どこか、目の前にいるのが炭彦ではないような、そんな錯覚を覚えてしまった。

 

「炭彦……炭彦!」

「…………えっ」

「いや、え、じゃないよ。何をしているの」

 

 肩を掴むと、ビクッと身を震わせてカナタを見た。

 その顔が余りにも純朴だったので、まるで悪いことをしたかのような気持ちになった。

 

「え、ごめん。もう時間?」

「いや、まだもう少し大丈夫」

 

 炭彦は、落ち着いていた。

 健康診断の結果を受け取った時には、顔を青くしていた。

 しかし今は、綺麗な顔をしている。自然体というか、いつもと変わらない様子だった。

 

「それで、何をしていたの」

「ああ、うん。ちょっとね。これをしていると、落ち着くんだあ」

「……そう」

「あ、変だって思ってる?」

「うん」

「ひどおい」

 

 居間で、母親がバタバタと駆け回る音がしていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 珠世の営むクリニックは、規模としては小さい。

 大した医療器材が置いてあるわけではなく、まさに「町のお医者さん」と言った風だ。

 評判は、おしなべて良い。

 それは珠世自身の見目麗しさと、人柄によるところが大きかった。

 

「せんせー、こんにちは~」

「はい、みんなこんにちは。転ばないでね」

「「「はあ~い」」」

 

 と、夕暮れ時に通りを駆けて行く子供達を、微笑と共に見送った。

 はしゃぎながら駆けて行く子供達の背中を見るその目は、眩しげに細められていた。

 クリニックの前を掃いていたのか、その手には箒が握られていた。

 それを壁に立てかけながら、ふうと息を吐く。

 その姿は、それだけで絵になる程に美しかった。

 

「…………」

 

 クリニックのドアガラスに映る自分の姿に、そっと手を置く。

 黒曜石のような瞳は、己が白面をじっと見つめていた。

 

「…………様」

 

 唇が小さく動いたが、何を呟いたのかは聞き取ることが出来なかった。

 風が、その声を掻き消してしまった。

 揺れる髪を手の甲で押さえながら、箒を手に取った。

 

「そろそろ、終わりにしましょう」

「――――何をですか?」

 

 不意打ち、と言って差し支えないだろう。

 その証拠に、珠世は振り向く際に驚いた表情を浮かべていた。

 有り体に表現すれば、()()()()()、そういう表情だった。

 だからだろうか、それを見た相手――つまり、珠世に声をかけた少女は、クスリと笑っていた。

 

「珠世先生も、そんな顔をするんですね」

 

 しのぶだった。

 制服姿のしのぶは、両手を後ろに回すような姿勢で、珠世を覗き込んでいた。

 驚いた表情を浮かべていた珠世だったが、すぐに表情は元に戻った。

 柔和な微笑を見せて、しのぶに身体を向ける。

 

「しのぶさん。今日は診察の日では無かったと思いますが」

「はい、仰る通りですね。今日は診察の日ではないです。今日は……」

 

 にっこりとした笑顔で、しのぶは言った。

 

「今日は、()()()()()()()()()()()

 

 その言葉に、珠世は何事かの言葉を発そうとした口を閉ざした。

 表情は、変わらなかった。しのぶは、笑顔のままだった。

 彼女は小さく首を傾げると、甘えるような声でこう言った。

 

「中に入れて貰っても良いですか?」

 

 珠世は、拒絶しなかった。

 陽が完全に落ちたのは、しのぶが珠世に誘われてクリニックの中に入った直後のことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 紅茶は、美味しかった。

 しかしクリニックに入って30分ほど、会話は無かった。

 世間話のようなものはしたが、それは会話と呼べるようなものでは無かった。

 そしてそれを、お互いが理解していた。

 

「それで」

 

 しびれを切らした、というわけではないだろうが、先に会話を始めたのは珠世の方だった。

 ただ、それはおかしなことではない。

 何しろこの後に患者(炭彦)が来るのだ。

 優雅にお茶をしている暇は無いわけで、逆に良く30分も付き合ったものだと感心した。

 

「ああ、そうですね。ごめんなさい、お忙しいところ」

 

 構いませんよ、と珠世は言った。

 そして、しのぶは本題に入ることにした。

 

「実はですね。私、最近『名探偵コ〇ン』にハマっておりまして」

「……ごめんなさいね。最近の流行にはちょっと」

「あれ、そうなんですか?」

 

 掌で口元を覆うようにして、しのぶは意外そうな顔をした。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 珠世さんはその手のものには関心がないのですね。

 というしのぶの言葉に、珠世は笑みを深くした。

 僅かに、しかし確かに、口の端を上げた。

 

「それで、話の続きは?」

「ええ、はい。つまりですね。私が細かいことが気になって夜も眠れない、というお話なんです」

 

 しのぶは、人差し指を立てて見せた。

 まず1点、という意味だ。

 珠世もそれを理解した上で、先を促した。

 

「そのお写真、とっても古いですよね」

 

 デスクの上の、倒れた写真立て。写真は見えないが、あの時の写真だろう。

 ()()()()()写真、だ。

 

写真機(カメラ)って、機種の世代ごとに特徴があるんですよ。まあ、私はその点には詳しくはないので実は写真を見ただけではわからないんですけど」

 

 しかし、写真に写り込んでいる()()は別だ。

 例えばその背景が現代に存在しない――生まれ育った町の発展前の光景――ものだったら、誰しも「ん?」と思うだろう。

 いや、それだけならまだ何とも思わなかったかもしれない。

 

 だが、そこに映った人物が()()()()()()()

 姿形がまるで変わっていなければ?

 茶々丸とコロが映っていれば?

 そして当の珠世が、それを否定しなければ?

 

「それからですね。炭彦君のことです。どうして検査入院なんてことになっているのでしょう」

「……健康診断の結果が悪かったからでしょう?」

()()だけだったのに?」

 

 健康診断で、しのぶは()()()()()()()()()()

 炭彦だけだ。

 そしてそれを、珠世は学校側に伝えていない。

 

「そもそも、どうして珠世先生が健康診断を担当したんでしょう」

 

 考えてみれば、おかしな点だらけ。

 でも、どういうわけか誰も何も言わない。

 学生達は「そういうものか」で流すかもしれないが、家族や教師達は何も思わなかったのだろうか。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()、誰も何も思わず、言わず、素直に炭彦を小さなクリニックに入院させようとしている。

 

「おかしくないですか?」

 

 可愛らしく小首を傾げて、しかし真っ直ぐに珠世の目を見つめてくる。

 そんなしのぶを、珠世は見つめ返した。

 

「ねえ、どう思います?」

 

 珠世先生。

 自分をそう呼んで覗き込んで来るしのぶに対して、珠世は。

 珠世は、ただ微笑んでいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 服だ。

 服だけが、部屋の中に残されていた。

 軽犯罪者を一時収容する、留置施設の中のことだ。

 

「こいつは何だァ?」

 

 透明な袋――いわゆる証拠保存用のそれ――の中に、衣服一式が入っていた。

 それはいくつかあって、男物も女物もあった。

 実弘が手にとったのは、その内の1つだった。

 

 ただ、それ自体には何の意味も無かった。

 問題は、これが部屋の中に残されていた、という事実だ。

 今朝、見回りに来た職員が発見した。

 服の持ち主は、影も形も存在していなかったという。

 

「脱走したってことか?」

「いえ、それが……所内の監視カメラには、それらしい人影は映っていなかったそうなんです」

 

 職員も実弘と同じで、困惑し切った表情を浮かべていた。

 昨日の夜までは、確かにいたらしい。

 それが()()()()()、いなくなった。

 しかし脱走した様子はない。

 また1人ではなく、他にも何人かが同じ状態だと言うことだった。

 

「……こいつは?」

「はあ、服と一緒に落ちていたそうで」

 

 プラスチック製の小さな容器の中に、灰のようなものが入っていた。

 鑑識に回して調査している。と、職員は言った。

 結果がわからないと何とも言えないが、こうして見ている限りは、灰にしか見えなかった。

 つまり結論として、何もわからない、ということだ。

 わかっていることは、実弘が捕まえた暴漢が、もうどこにもいないということだった。

 

「先輩、これっていったいどういうことなんでしょう」

「俺が知るか!」

 

 いったい何が起きているのか、実弘の方が聞きたかった。

 犬人間事件以降、何かがおかしい。

 異常だ。明らかに、この町は異常な状態に陥っている。

 だが、一番の異常は何かと言えば、()()()()()()()()

 

 町の人々もそうだが、警察もそうだ。

 どう考えても異常事態なのに、町も警察もいつも通りだ。

 単なる不審者・狼藉物の軽犯罪だと思い込んでいるのか。

 それとも、何か目に見えないものが働いているのか。

 

「…………異常、か」

 

 異常と言えば、()()()()

 よくよく思い返してみれば、犬人間よりもあの店の方が先だった。

 あの、存在しないバーと、その女店主。

 

「……行ってみるか」

「え、どこへ……って先輩? 先輩!?」

 

 そうだった。何をモタモタしていたのだろう。

 明らかに怪しい場所を知っていながら、今まで避けていたなんて。

 自分らしくもない。

 

(避けていた? 俺が?)

 

 ()()()()()()()()()

 歯噛みして、実弘はようやく気が付いた。

 自分もまた、異常を異常だと思っていなかったのだ、ということに。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 失敗しないための方法を教えようか、と、父は言った。

 成功に辿り着く方法と言っても良いかもしれないね、とも言った。

 それは、とても単純なこと。

 

 ()()()()

 それが第一条件だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 シンプルな理屈だ。万事に対して有効でもある。

 

「……コー」

 

 たとえ、身体が指一本さえ動かせないとしても。

 たとえ、目的が達成される瞬間に立ち会えないとしても。

 たとえ、いずれにせよ死ぬのだとしても。

 

 ()()()()()()()()()()()

 父は、そう言っていた。

 祖父も、曾祖父も、そのまた祖父も、同じことを言っていたそうだ。

 なるほど。自分がいる。それはまさに「続けた」結果なのだろう。

 

「……コー」

 

 パチパチと、瞬きと共にタブレット端末に文字が入力されていく。

 彼にとって、それが唯一の会話手段だ。

 

『これが、あの人が私に話してくれた計画だ』

 

 それを見ているのは、女だった。

 

『あの人は自信があるようだった。必ず成功すると確約してくれたよ』

 

 病室は暗い。タブレット端末や医療機器のモニターの照明だけが、光源だった。

 その僅かな光源が、ベッドのそばに立つ誰かの姿をぼんやりと浮かび上がらせている。

 

『成功しても失敗しても、あの人はもう戻っては来ないだろう。そんな気がする』

 

 黒い女。着物の、女。

 彼女はただ、静かに男の――産屋敷の話を聞いていた。

 聞いてはいたが、答える声は無かった。

 あるはずもないか、と、産屋敷は思った。

 

『あとの判断は、任せるよ』

 

 失敗しない方法は、成功するまで諦めないこと。

 父、そして祖父は、こうも言っていた。

 ()()()()()()()()()()

 

 成功するまで諦めないと言っても、精神論ではどうしようもない。

 手段、人。これらを複数持っておくこと。

 それが失敗しないための、あるいは成功に辿り着くための、第二条件なのだ。

 

『あの人には、悪いことをしたな……』

 

 呼吸器を通して、苦しそうな音がした。

 すると、そっと胸元に手を置かれた。

 それが上下に軽く揺れて、撫でてくれているのだとわかると、産屋敷は目を細めた。

 

(――――滑稽だな。産屋敷)

 

 胸中で、そんな声が聞こえた。

 口元が、皮肉そうに歪む。

 ああ、まったく。その通りだ。

 我ながら、滑稽に過ぎる人生じゃないか――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「こ、こんばんは~……?」

 

 夜の病院。ワードだけですでに若干怖い。

 数日分のお泊りセット――検査入院用の着替え等――を入れたカバンを肩に、珠世クリニックのドアを開けた。

 呼び鈴が見当たらず、しかもクローズの札が下げられていたので、迷いながらだった。

 

 幸い、カギは開いていた。

 ドアの隙間からそっと中を覗くと、クリニックの中も消灯されていた。

 真っ暗で、何より静かだった。

 誰もいないのではないかと一瞬思ったが、すぐに明かりが見えた。

 

「こんばんは。竈門炭彦君」

「あ、こんばんは」

 

 クリニックの奥から、珠世が蝋燭を手に歩いて来た。

 どうして蝋燭なのかと思ったが、どうしてか、蝋燭の温かな明かりにほっとした。

 蝋燭のそばの珠世の表情に、感情の色が薄かったからかもしれない。

 

「ごめんなさいね。こんな時間になってしまって。少し……忙しかったものですから」

 

 その珠世について、診察室に入った。

 やはり、明かりはついていなかった。

 ただ珠世が何も言わないので、電気はつけないのかとも言い出せなかった。

 結局なにも言わずに、炭彦は椅子に座った。

 

「腕を出して貰えますか?」

「あ、はい」

 

 何の話をするでもなく、そう言われた。

 変だなと思いつつ、疑うわけでもないので、言う通りにした。

 珠世は、注射の準備をしていた。

 薬瓶のようなものに注射器を刺して、薬品を充填している。

 その薬は、青かった。

 

「さあ、どうぞ」

 

 と、珠世が言った。

 後は炭彦が腕を出して、注射を受けるだけだ。

 それだけなのだが、どうしてか、炭彦は気が乗らなかった。

 

「どうかしましたか?」

「え、あ……えっと」

 

 珠世の顔は、相変わらずの微笑だった。

 貼り付けたようなその顔が、炭彦を見つめている。

 仕方なく、炭彦は衣服を捲り上げて腕を出した。

 変だなあと思いつつも、拒絶する理由が無かったからだ。

 

「……あれ、何の音……」

 

 その時、物音がした。

 割と大きな音で、ガタガタと激しいものだった。

 クリニックが静かなので、余計に響く。

 何しろそれは、()()()から聞こえていたのだから。

 

「え」

 

 と思ったのは、ドア――廊下側のドアではなく、診察室側の、準備室とでも言うべき方の――が、大きな音を立てて開いたからだった。

 そして、()()()()()()()()()

 後ろ手に縛られて、口に布を、猿轡のようにされたしのぶが、身体ごとドアを押して、倒れ込んで来たからだ。

 

「しの」

 

 不意に、腕を掴まれた。

 珠世が掴んで来た。凄い力で、二の腕のあたりがミシリと音を立てる程で、炭彦は顔を歪めた。

 驚いて視線を向けると、珠世が微笑を浮かべていた。

 仮面のように、表情が変わらなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 物凄い力だった。

 大の男でも、珠世の手を振り解くことは出来ないと思えた。

 しかし、今の炭彦には振り払うことが出来た。

 

「スウゥ――――」

 

 全集中の呼吸。

 それが自然と出て、全身に一気に血が巡った。

 万力のように思えた珠世の手が外れて、椅子ごと床に倒れる形になった。

 

「ンン――――ッ!」

 

 しのぶの声が聞こえて、はっと顔を上げた。

 床に倒れた衝撃と痛みはあったが、本能がしのぶの声に反応させたのだ。

 そこには、注射器を振り下ろそうとする珠世の姿があった。

 

 背筋に、冷たいものが走った。

 這うようにして跳んで、何とか回避した。

 しのぶの横まで、ゴロゴロと転がった。

 

「しのぶさん!」

 

 猿轡をずらすと、ぷはっ、としのぶが呼気を吐き出した。

 

「逃げて……!」

 

 状況は、まるでわからなかった。

 ただしのぶの表情が余りにも鬼気迫っていたので、無視することは出来なかった。

 一言断って、しのぶの身体を肩に「きゃっ」担いだ。

 想像以上の軽さに驚きながらも、膝を立てて。

 

「どこへ行くんですか?」

 

 しのぶを担ぐという一工程。

 この僅か一工程の間に、珠世は炭彦の目の前に立っていた。

 当然ながら、注射器を持っている。

 

「……ッ!」

 

 走った。

 立ち上がらずに、膝をついた体勢から走りに入った。

 流石に脹脛(ふくらはぎ)のあたりが嫌な音を立てたが、そのおかげで()()()、縮めることが出来た。

 それが出来なければ、おそらく頚に注射器が突き立てられていただろう。

 

「うわっ。ご、ごめんなさい、しのぶさん。大丈夫ですかあ!?」

「だ、大丈夫です。気にせずに逃げてください! 外へ!」

「は、はいっ!」

 

 診察室から廊下へ、転がるように出た。

 半ば転倒しつつ、何とか立ち上がって走った。

 軽く振り向いたが、珠世はまだ診察室の中にいた。

 こちらを見つめる顔は、変わらず貼り付けたような微笑を浮かべていた。

 腹の底が冷えるような、そんな感覚を覚えた。

 

「このまま真っ直ぐ。そこが正面玄関です……!」

 

 しのぶはもう、何回も診察室から出口への道を通っている。

 だから明かりがない暗がりでも、炭彦に道を示すことが出来た。

 診察室から廊下、待合室。そして、出入り口――――。

 

「――――ええ?」

 

 しかし、ここで異常が発生する。

 ()()()()()()()のだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 断言しておくが、道を間違えたわけではない。

 そもそも小さなクリニックだ。

 診察室から正面玄関までの行き方など、本来なら道案内すら不要な程に近い。

 ちょっと走れば、すぐにつく。

 

「え、ええ? 壁!? どうして」

 

 しかし、そこにあるはずの出入り口――つい先ほど、炭彦が使ったドアが存在しなかったのだ。

 炭彦としのぶの目の前には、壁があった。

 ドアが壁に変わっている。

 そんなことはあり得ないと思っても、事実としてそうなっているのだった。

 

「ど、どうしよう。どうすれば」

「これは……」

「そうだ。窓から!」

 

 ()()()()()()

 待合室には、窓すらなくなっていた。

 あり得ない。そんなはずは。炭彦は心の中でそう言った。

 

「どうしたのですか」

 

 ぞっとした。

 振り向くと、待合室に入ったあたりで珠世が立っていた。

 あの微笑が、炭彦を見つめている。

 

「さあ、早く。診察室へ」

 

 冷たい汗が、掌にじわりと浮かんできた。

 逃げなければいけないのに、逃げ場がない。

 どうすれば良いのか、何も思いつかなかった。

 

 

 

「けっきじゅつ」

 

 

 

 その時、しのぶがそう言うのを聞いた。

 聞き慣れない音に、炭彦はそれを単語として理解できなかった。

 けっきじゅつ、と、しのぶは繰り返した。

 

「……驚きました」

 

 言葉ではそう言っていたが、珠世の表情は変わらなかった。

 

()()()()には、もう伝わっていないと思っていましたが」

「亡くなった曾祖母が寝物語に話してくれたのを今、思い出したんです。勿論、信じてはいませんでしたよ。子ども向けの御伽噺だと。だから適当です。でも、その反応を見ると――――()()()()()()()()

「ええ、そうですよ。けっきじゅつ――血鬼術は、実在します」

「……それなら、もしかして」

「ええ、そうですよ。私は」

 

 ()()()()()

 珠世はそう言って、しのぶは息を呑んだ。

 しかし炭彦には、2人の会話の意味がまるでわからなかった。

 

 そして炭彦にとっては酷なことに、混乱の種はさらに追加されるのだった。

 それは、後ろから来た。

 ドンッ、という、壁を叩くような音だ。それも何度も、繰り返すこと三度。

 何だと思って、後ろを――ドアがあるはずの場所を、見た。

 

(ミィ)つけたアアァ――――ッ!!」

 

 ()()()()()()()()()()

 なくなっていたはずのドアが、破片と共に宙を舞っていた。

 反射的に脇にどかなければ、炭彦達も巻き込まれていただろう。

 ――――長い槍のような、いや槍を構えて踏み込んで来た少女に、蹴倒されていただろう。

 




最後までお読みいただき有難うございます。

新型コロナに感染しました(え)
年末にかかるとは…。

そのため、もしかしたら次回投稿は新年早々遅れるかもしれません。
申し訳ございません。

それでは、皆様は体調にくれぐれもお気をつけて…!

よいお年を!
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