――――地獄だった。
病院とは名ばかりのあばら家。足りない医薬品。次々に運び込まれる凄惨な半死人。
麻酔もなしに体を刻み、悲鳴を上げる口に布を詰め込み、寝台代わりの板に麻縄で縛り付ける。
そして、みんな死んでいった。
「…………」
疲れていたのだろう、と思う。
長く生きていて、何百年と生きていて、人の死など見慣れたと思っていた。
戦も、戦争も経験していた。戦場にいたこともある。
だが、それを踏まえてもなお、そこは余りにも地獄だった。
ちょっと横を見れば、そこには死体の山がある。
埋葬することも出来ず、弔うことさえ出来ない。
「こんばんは」
そんな時だった。
「ああ」
おかしな話だが。
その時、久しぶりに
「こんばんは、瑠衣さん」
いずれは見つかると、そう思っていた。
それがいつでも別に構わないと、珠世は思っていた。
あの夜、鬼舞辻無惨が滅んだあの時から、自分はもう生きていなかった。
生きる目的を失った者は、ただ続いているだけ。
いわば、惰性で今日までやって来てしまったと、それだけのことだった。
「どうぞ」
いや、鯉でさえ生きようと跳ねるくらいはするだろう。
だからこれは、他者の手を借りた自殺のようなものだった。
(嗚呼、これで。あの人とあの子のところへ)
いや、
鬼である自分は、きっと地獄に落ちるだろうから。
(……ごめんね)
伸びて来る手を見つめながら、珠世はまた思った。
(――――愈史郎)
自分が鬼にしてしまった青年。
生きたいという彼の願いを叶えた、などと驕る気は無かった。
ただ、誰かに一緒にいてほしかっただけだ。
寂しくて、独りは余りにも冷たくて、耐えられなかっただけだ。
そして今、疲れたと言って生を諦め、彼を置いて逝こうとしている。
嗚呼、何て身勝手で、利己的で。そして何ておぞましいのだろう。
それでも、それでもどうか。どうか。
(これからは、自分のために生きてね)
どうか、それだけは
そう思って、珠世は目を閉じた。
死が触れて来た。
自分に触れて来た死を、珠世は抱き締めた。
――――今から、70余年前の出来事である。
◆ ◆ ◆
それは、実に奇妙な「お茶会」だった。
お茶請けがおにぎりであることも、路上の真ん中という立地もそうだが。
そもそも、参加している面々が奇妙である。
カナエとしのぶの胡蝶姉妹。
炭吉、カナタ、炭彦の竈門家。
そして、榛名と柚羽――
余りにも奇妙な組み合わせだった。
「初めまして。私はこういう者です」
「あら、ご丁寧にどうも~」
すっと名刺を差し出す父の背中を、炭彦は何とも言えない表情で見つめていた。
正直なところ、置かれた状況に対して理解が追い付いているとは言えなかった。
自分以外は理解しているというのは、何となくわかった。
「さて、では早速なのだけれど」
まるで商談にでも来たかのように、父は言った。
「きみたちは、「煉獄瑠衣」の関係者だね」
ただ、父の口から飛び出した名前には、目を剥かざるを得なかった。
どうして父が瑠衣を知っているのかわからなかったし、この場で出て来る理由もわからなかったからだ。
思わず何か言おうとしたが、カナタの手が顔の前に来て、止められた。
「そうねぇ」
そして、榛名は特に隠しもせずに頷いた。
元より隠す意図もそのつもりもない。そもそも考えたこともない。
そんな表情だった。
「ここに来た目的は?」
「何だか尋問されてるみたいねぇ」
「いえいえ。ただの興味ですよ。そんな風に聞こえたなら申し訳ない」
苦笑する榛名に、炭吉は朗らかに笑って見せた。
雰囲気も固くはない。むしろ柔らかい。
しかし、目に見えない緊張の
「う~ん。でも、目的と言われてもぉ」
榛名は、顎先に指を当てて、少し考える素振りを見せてから。
「う~ん…………
粛清。
それは、かなり
「お仕置き? 宿題? う~ん……」
柚羽がそっとおにぎりを指差して、榛名はああ、と頷いた。
「あんなものは粛清なんて言わないわよ。ああいうのは、
しかし、言葉を発したのは榛名では無かった。
言葉を発したのは、いつの間にか輪の中に加わっていて、しかも当然のようにおにぎりを頬張っている少女だった。
「あ、美味しいわねこれ。お塩変えた?」
「うふふ、わかるぅ?」
クリニックの中でゾンビ犬と戦っていたはずの禊が、そうしているのが当たり前という顔をして、しれっとそこにいたのだった。
◆ ◆ ◆
固定電話での連絡は、合図だった。
カナエからカナタへの、あの電話である。
鬼。この世のものではない、人間を食糧とする超常の生き物。
それは、竈門家と胡蝶家の
ただ、伝説だった。
正直なところ、カナタは鬼の実在を信じていなかった。
(まあ、流石に認めざるを得ないけれど)
信じてはいなかったが、父の言うことだから素直に受け入れていた。
だから今日も、こうやってカナエについて来たのだ。
カナエの方は、そのまま鬼の実在を信じていた様子だったが。
「感心しないわよ」
ぺろ、と指先についた米粒を舐め取りながら――赤い舌先が妙に艶めかしい――禊が言った。
その眼は、炭吉を見つめていた。
「女の
「やあ、申し訳ない。余りにも
「あら、お上手ね。お客さんとしてうちのお店に来るなら、サービスするけど」
「いやあ、妻子がいるからね。遠慮しておくよ」
「あっそ」
この禊という妖しい女が、向こうのリーダー格のようだった。
正直、カナタが苦手なタイプだった。
こういう手合いは、自分が定めたルールを絶対視して、相手がそれを守るのを当然だと思っている。
わかりやすく言えば、
相手を振り回すという意味ではカナエもそうだが、あちらは計算というものが無い。
(俺は口を出さない方が良さそうだ)
と、カナタは思った。
横にいる炭彦が何かを言いたげな顔をしているが、それも止めていた。
もしも今、自分達が口を出せば、相手のペースになると直感で察していたからだ。
その時だった。大きな破裂音が響き渡った。
それまでは
まるで
次いで、ほとんど同時に――爆発音。いや、破砕音がした。
「まずいな」
と、炭吉が言った。
その意味するところは、カナタもわかった。
このままでは騒ぎになる。そう思った。
「心配いらないわよ」
そして、そんなカナタ達の心を見透かしたように、禊は言った。
「
その美しい顔を、朝陽が照らし始めていた。
◆ ◆ ◆
屋根の上に立ち上がると、東の空の彼方から太陽の白光が伸びて来るのを感じた。
いつの間にか、夜明けの時間になっていたのだ。
――――2人は、
「ずっと、この時を待っていた」
ただそれは、言葉という名の音を聞いているという、それだけのことだった。
そして、愈史郎もそれに気付いている。
だからこれは、
ただ、胸中に湧き上がるものを、我慢できずに吐露しているだけだった。
「お前は、お前達は、滅ぼさなければならない」
思えば、奇妙な付き合いだった。
だがその付き合いも、100年に渡る関係も、今日で終わりだ。
それだけは、お互いに良く理解していた。
「珠世様が亡くなられたあの時、俺はそう誓った。あの男……鬼舞辻無惨にさえ、そこまで思うことは無かった」
「鬼舞辻無惨」
瑠衣の声には、微かな笑みの成分さえあった。
「これはまた、懐かしい名前を聞いたものです」
皮肉。込められている感情はそれだった。
鬼舞辻無惨。
それは、珠世ならば意味のある名前だった。
だが愈史郎にとっては、その名前には何の意味もない。
愈史郎にとっては、珠世がすべてだった。
彼は、珠世が憎悪する相手を憎悪しただけで。
珠世を殺した者を、憎悪するだけだ。
愈史郎という男の理由はすべて、珠世にしかないのだった。
「貴方は変わりませんね。もう100年になりますか。初めて出会ったあの時から」
「貴様と思い出話に付き合うつもりはない」
ぴしゃり。
まさにそういう表現が合うような、そんな調子だった。
拒否。拒絶。全身が、表情が、そう告げていた。
「貴様は、ここで
その時、穏やかな微笑を浮かべていた瑠衣が、眉を寄せた。
そっと胸元に当てられた手が、喉、そして顎先に触れる。
まるで、何かを追いかけるかのように。
それに比例して、今度は愈史郎の方が笑みを湛えていった。
「すでに、貴様の肉体には大量の薬毒が投与されている」
溢れ出た。
まさにそんな様子で、瑠衣の口の端から赤い液体が漏れた。
それは唇を濡らし、顎先を滴って、衣服の胸元を汚した。
指先で拭い取ったそれに、瑠衣は目を向けた。
「断罪の時だ。煉獄瑠衣……!」
血は赤かった。
こんなになっても、血は赤いのだなと。
瑠衣は、そんなことを思ったのだった。
「珠世様の命を奪うという大罪。ここで
愈史郎の叫びはしかし、それでも瑠衣には届かなかった。
それは瑠衣にとって、やはり、ただの音でしかなかった。
◆ ◆ ◆
珠世はこの100年の間に、鬼を人間へ戻す薬を完成させていた。
本人は惰性だと言っていたが、それはまさに、画期的な新薬だった。
鬼化という
「
血を吐く瑠衣を前にして、愈史郎は言った。
「青い彼岸花に含まれるある成分が生物の細胞と結びつくと、急激な変化をもたらす」
変化した細胞は増殖を繰り返し、やがて全身に行き渡る。
そしてこの細胞――鬼化細胞は、
例えば重病人。不治の病に犯された者。あるいは精神的に衰弱している者。活力の無い者だ。
呼吸の剣士が鬼になる場合に時間がかかるのは、呼吸によって身体能力が強化されているからだ。
「珠世様の薬はこの細胞変化を抑制し、投与を繰り返すことで症状を緩和していくものだった」
鬼舞辻無惨が滅び、彼の系譜に連なる鬼は消えた。
だから人間返りの薬を作っても、使う相手はいない。
たった1人を除いては。
「おそらく珠世様は、人間返りの薬をお前のために開発したんだろう」
この世界で唯一の
きっとそうだと、愈史郎は信じていた。
慈悲深い珠世は、きっと、最後まで――殺される最期まで、患者のことを思っていたに違いない。
「だが、
瑠衣に打ったのは、それとは
珠世の死後、半世紀をかけて愈史郎が開発した新薬――否、
鬼化細胞による細胞増殖を、さらに加速させる毒。
すなわち、病気の症状をさらに加速させるものだった。
「……ごぼっ」
瑠衣の唇から溢れる血が、噴き出すような勢いに変わりつつあった。
それを見た愈史郎が、口角を歪める。
「苦しいだろう。お前の身体に中では今、細胞が通常の100倍の速度で増殖と崩壊を繰り返している」
文字通り、肉体が造り変えられているのだ。
人間に例えれば、内臓が捻じれ、骨が皮を突き破り、肉が引き千切られるようなものだ。
しかもそれが、自分の意思とは無関係に行われるのだ。
麻酔無しで手術をする方が、まだマシというものだろう。
「後悔しろ……!」
表情を歪め、唾を飛ばしながら、叫んだ。
「己の大罪を後悔しながら、死ね! 煉獄瑠衣!!」
そして、見る。
口元を朱に塗れさせた瑠衣と、目が合った。
青白い、美しい顔だった。
「わからないことがあったんです」
どうしてかはわからなかったが。
愈史郎は、その青白い顔に、何故か珠世を思い浮かべた。
◆ ◆ ◆
――――効果が無い?
ふと胸中に入り込んで来たそんな考えを、愈史郎は振り払った。
効いていないはずが無い。
実際、見てみろ。瑠衣は血を吐いたでは無いか。
顔色も、あんなにも青白い。
あれ程に感じ取れていた鬼気も、随分と和らいだ。
薬が、毒が効いている証拠だ。
「……わからないこと、だと? ハッ、お前ごときに理解できることなど、何も無い」
陽は、すっかり上がり切っている。
周囲からは、まだ喧噪は聞こえて来ない。
だが、そう時間のかからない内に騒ぎになるだろう。
クリニックにかけていた擬態の血鬼術――かつての目隠しの術を発展させたもの――は、もうなくなっている。
「お前はここで」
「あの時、どうして貴方が
ぞわ、と、肌が粟立った。
咄嗟に、手を後ろに回した。
しかし瑠衣は、それを気にした風も無かった。
「私はてっきり、貴方が傍にいるものと思っていました。でも、あの時――珠世さんの傍に、
かつて、瑠衣と愈史郎が行動を共に――厳密には、2人で組んでいたわけではないが――していた時、愈史郎は片時も珠世の傍を離れなかった。
常に共にいて、支えようとしていたし、守ろうとしていたし、あるいは他を見捨ててでも連れて逃げようとさえした。
それが、
「だまれ」
低い声で、愈史郎は言った。
それを聞いて、瑠衣は微笑んだ。
ただその微笑みは、余りにも陰のあるものだった。
ああ、成程。と、瑠衣は頷いた。
「珠世さんは、貴方を
服の下に隠していたそれを、愈史郎は握り締めた。
「――――黙れェッッ!!」
逆手に持った注射器を、瑠衣の頚に、頸動脈のあたりに突き刺した。
注射器の中身は、先ほど茶々丸に撃ち込ませたものと同じだった。
押子を押し込み、
一瞬、瑠衣の頚の血管が脈打ったように見えた。
数瞬の間が空き、音が消えたような錯覚を覚えた。
その数瞬の後、瑠衣の指が注射器を持つ愈史郎の手に触れた。
そして、瑠衣の指先がそのまま己の手に沈み込んで来るのを、愈史郎は見た。
次の瞬間、言い様のない灼熱感に襲われた愈史郎は、悲鳴を上げてその場に膝をついたのだった。
◆ ◆ ◆
『無駄な努力をするのは、やめなさい』
珠世の言葉を、愈史郎は思い出していた。
いや、この表現は
何故ならば、愈史郎は珠世の言葉を一言一句たりとも忘れたことが無いからだ。
それこそ、わざわざ思い出す必要など無い。
いや、言葉だけではない。
表情も、温もりも、匂いも、昨日のことのように覚えている。
もしも、仮に生まれ変わりや輪廻転生というものがあるとしたら、愈史郎は「珠世」を見つけ出す自信が、いや確信があった。
彼が今日まで生きて来た理由の1つは、それだった。
『私達にできるのは、祈ることだけ』
あの時、鬼舞辻無惨が死んだ日。
そして、煉獄瑠衣が再誕を果たした日、珠世はすべてを悟ったようだった。
すべてを諦め、無気力になってしまった。
自分がいなければ、自分で命を絶っていたかもしれない。
愈史郎がそう思ってしまう程、珠世は虚無感に捉われてしまっていた。
『だから、やめなさい』
やめるなんて、できるわけがなかった。
だって、愈史郎にとって珠世はすべてだったのだ。
母親のようであり、姉のようであり、それ以上の存在だったのだ。
珠世の幸福が、愈史郎の幸福だったのだ。
だから珠世が日に日に生きる気力を失っていくことが、何よりも辛かった。
何とかしたかった。何でもやった。
珠世がこの世に留まってくれるように、何でもやったのだ。
『やめなさい』
珠世は、何度もそう言った。
愈史郎は聞かなかった。
我ながら本末転倒だとは思うが、他にどうすれば良いかわからなかったのだ。
いや、もはや憎まれても構わないとさえ思ったのだ。
『愈史郎』
と、あの人に呼ばれさえすれば、それで良かった。
それ以外に、求めるべきものは何も無かった。
けれどある日、珠世は愈史郎の前から消えた。
感覚でわかるので、死んだわけではないことは理解していた。
だから、嫌でも思い知らされた。
珠世が、自らの意思で自分から離れたのだということが。
『珠世様』
探した。もちろん、探した。
それ以外に、やることはなかった。
けれど、見つからなかった。
感覚でわかるからか、自分が近くまで行くと、必ず珠世の側から離れたのだ。
だから、会うことさえ出来なかった。
それを何年も、何年も何年も繰り返して、そして。
あの日、珠世の死を、直にではなく、やはり感覚で知った。
『珠世様アアアアアアァァァッッ!!』
――――何故。
何故ですか、珠世様。
どうして、俺を置いて、逝ってしまったのですか。
何故。どうして。
教えてください。珠世様――――……。
◆ ◆ ◆
右手の手首から先が、
その傷口――というには、滑らか過ぎる断面――を押さえて、愈史郎は膝をついた。
「うおおおおおおおおおおおっっ!?」
今も傷口を焼かれているような灼熱感に、愈史郎は叫んだ。
右手は、しかも、
愈史郎は鬼だから、どんな負傷もすぐに癒える。
頭を吹き飛ばされたところで、死ぬことは無いのだ。
その時、掌が焼けた。
傷口を押さえていた左の掌が、音を立てたのだ。
右手の断面、そして左手に、赤黒い液体が付着していた。
それが傷口を焼き、さらに肌に焼いていたのだ。
血だ。愈史郎はすぐに気付いた。しかし、愈史郎自身の血ではない。
「な、何だァこれはアアアアアアァァァッ!?」
「
先程から、ずっと吐き出していたものだ。
血鬼術。文字通り、血を操った。
そして煉獄瑠衣の血とはすなわち、
体内を焼かれる苦痛に、愈史郎は襲われた。
「な、何故」
何故、自分の毒が効かないのか。
分解されたのか。いや、そんなはずはない。
ダミーの成分も含めて調合し、あの鬼舞辻無惨でさえ、すぐには分解できない造りになっている。
それをこんな短時間で分解するなど、不可能なはずだ。
「何故って」
微笑みさえ浮かべて、瑠衣は言った。
「
あえて言おう。愈史郎の
投与した相手が鬼舞辻無惨とその系譜の鬼であれば、十分な効果を発揮しただろう。
しかし彼は、知らなかった。何故ならば、関心が無かったからだ。
煉獄瑠衣という患者に、興味が無かったからだ。
だから、知らなかった。気付くことが出来なかった。
瑠衣が
鬼化を加速させても、鬼化細胞を増殖させても、それは
その事実に、今この時になって、愈史郎はようやく理解が及んだのだった。
「ああ、なるほど」
ペロ、と舌先で指先を舐め取りながら、瑠衣は言った。
「自分でも、そのお薬を投与していたんですね」
同じものではない。
それでも、太陽を克服するまで己を
すべては、瑠衣への復讐のためだった。
それが、こんな形になるとは思っていなかった。
「あの人は、貴方のことは教えてくれませんでしたから」
(珠世様)
珠世は、気付いていたのだ。
だから「諦めろ」と言ったのだ。無駄だとわかっていたから。
自分は最後まで、珠世のことを理解していなかった。
「ああ、そうそう。1つだけ教えてくれませんか?」
そんなことにさえ、自分はわかっていなかったのだ。
「珠世さんの人間返りの薬は今、誰が持っているんですか?」
だけど。
「貴方に青い彼岸花を渡した親切な人は、今どこにいるんですか?」
それでも、と、愈史郎は思った。
たとえ、そうだとしても。
どれだけ自分が愚かで、珠世の想いさえ理解できていなかったのだとしても。
「誰が教えるか。馬鹿が」
間違いないと、そう言える。
その確信だけは、揺らがなかった。
最期まで、揺らぐことはなかった。
◆ ◆ ◆
「帰った方が良いわ」
と、禊がいきなりそう言うのを、炭彦は聞いた。
その頃にはお茶もなくなり、おにぎりも食べ切ってしまっていた。
クリニックは、もはやただのボロ屋にしか見えなかった。
まるで、夢でも見ていたかのようだった。
実際、夢と言われた方がまだ納得できただろう。
だが炭彦の目の前には、現実が広がっていた。
犬人間が、いや鬼がいたことも現実だし、父と兄が奇妙な活動をしていたことも現実だった。
いくら寝ることが好きな炭彦でも、それは否定のしようが無かった。
「
警告、なのだろう。多分。
良くはわからないが、そうなのだろうと思った。
「親切なのね」
「は? その顔で話しかけないでよ。地味にムカつくから」
ただ、口はひどく悪かった。
もっとも、言われたカナエ本人は相変わらずニコニコと笑っていたが。
「わたしは別にアンタ達がどうなろうと知ったことじゃないわよ。ただあんまりにも何もわかっていないみたいだから、
やっぱり親切なんじゃないか、とは、誰も口にしなかった。
ただ、榛名はクスクスと笑い声を上げていた。
ジトりとした目で禊に睨まれても、肩を竦めて見せるだけだった。
「私としては、もう少し話をしたいのだけれど」
「はあ? 知らないわよ、そっちの都合なんて。それに、さっきも言ったでしょう。妻子持ちの営業さん」
先程の言葉をそのまま繰り返して、禊は言った。
「それではさようなら、
ブルーシートが、風も無いのに舞い上がった。
わ、と誰かが驚いて、そちらに目が向いて、そして視線を戻した時には、禊達はいなかった。
そして、やはり誰かが「はあ~」と息を吐くのを聞いた。
「やれやれ、とんだ怪物揃いだなあ。あれは」
「おじ様も負けていませんでしたよ~」
「いやあ、私は全然。本当、荒事は苦手だから……」
父とカナエの会話も、炭彦には良くわからない。
そうやっていると、困惑が伝わったのか、炭吉がこちらを見て来た。
父さん。そう呼ぶ声が、どうしてか口から出せなかった。
そんな炭彦を見て、炭吉は照れたように頭を掻いて、言った。
「帰ろうか。母さんが心配している」
うちに帰ろう。
そんな当たり前のことに、何故だろう。
何故か、ひどく安心する自分がいて。
炭彦の目尻から、涙が零れたのだった。
◆ ◆ ◆
――――珠世クリニックは、愈史郎が作り出した偽物だった。
心優しい女医「珠世先生」は、皮一枚を被った愈史郎だった。
クリニックの建物もそれらしく見せていただけで、実際はボロ屋だった。
それもこれも、血鬼術でそう錯覚させていただけだ。
「バウッ、バウッ」
「にゃあ」
ただ2つだけ、いや、2匹だけ、本物があった。
それは長く、本当に長い間、愈史郎と共に在った者達。
茶々丸と、コロだった。
瑠衣が出現したと同時に、彼れは愈史郎の血鬼術で姿隠しを――茶々丸は注射器を撃ち込んだ後になるが――施された。
しかし今は、2匹とも姿を見せて路地裏を駆けていた。
愈史郎が死に、彼の
そしてこの賢い2匹は、愈史郎も死をしっかりと理解していた。
それを理解した途端、クリニックという名のボロ屋――それでも、彼らの「家」ではあった――を脱出した。
「……………………」
どれくらい、駆けていたのだろう。
何か感じるものがあるのか、他の野良猫・野良犬の類は2匹に近寄ることは無かった。
人間も、近付いては来なかった。
そうしている内に、2匹はある場所で立ち止まった。
「にゃあ」
と、茶々丸が何度か鳴くのを、コロが尻尾を振りながら見ていた。
揺れる尻尾の毛先は、どこかしんなりとしている。
ただ、茶々丸と並んで
「……………………」
路地裏の闇の中から、白い2本の腕が伸びて来たのは、そんな時だった。
左右の腕が2匹の頭にそっと触れて、同じくそっと撫でる。
2匹は、それを受け入れていた。
白い腕を這うように垂れたのは、黒い和服の袖だった。
黒い着物の、若い女の腕。
「……………………」
やがて、その腕は2匹を抱き上げた。
抱き上げるために、女の頭が路地裏の闇から出て来る。
波打つ、鴉の濡れ羽色の、豊かな黒髪が、さらりと流れた。
「バウッ」
「にゃあ」
と、茶々丸とコロの鳴き声が、路地裏に響いた。
それに応じるのは、ふん、と頷く女の吐息だけだった。
他には、その路地裏には何も無かった。何者も、存在していなかった。
茶々丸とコロを抱いた着物の女が、闇の中に消えていった。
そうして、静かになった。
静かになった後には、やはり、何者もいなかった。
最後までお読みいただき有難うございます。
あ と ひ と り
それでは、また次回。