鬼滅の刃―鬼眼の少女―   作:竜華零

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第74話:「愈史郎」

 ――――地獄だった。

 病院とは名ばかりのあばら家。足りない医薬品。次々に運び込まれる凄惨な半死人。

 麻酔もなしに体を刻み、悲鳴を上げる口に布を詰め込み、寝台代わりの板に麻縄で縛り付ける。

 そして、みんな死んでいった。

 

「…………」

 

 疲れていたのだろう、と思う。

 長く生きていて、何百年と生きていて、人の死など見慣れたと思っていた。

 戦も、戦争も経験していた。戦場にいたこともある。

 だが、それを踏まえてもなお、そこは余りにも地獄だった。

 

 ちょっと横を見れば、そこには死体の山がある。

 埋葬することも出来ず、弔うことさえ出来ない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「こんばんは」

 

 そんな時だった。

 ()()が来た。

 

「ああ」

 

 おかしな話だが。

 その時、久しぶりに()()と話をしたなと、そう思った。

 

「こんばんは、瑠衣さん」

 

 いずれは見つかると、そう思っていた。

 それがいつでも別に構わないと、珠世は思っていた。

 あの夜、鬼舞辻無惨が滅んだあの時から、自分はもう生きていなかった。

 生きる目的を失った者は、ただ続いているだけ。

 いわば、惰性で今日までやって来てしまったと、それだけのことだった。

 

「どうぞ」

 

 俎板(まないた)の鯉。

 いや、鯉でさえ生きようと跳ねるくらいはするだろう。

 だからこれは、他者の手を借りた自殺のようなものだった。

 

(嗚呼、これで。あの人とあの子のところへ)

 

 いや、同じ場所(天国)へは行けないだろう。

 鬼である自分は、きっと地獄に落ちるだろうから。

 

(……ごめんね)

 

 伸びて来る手を見つめながら、珠世はまた思った。

 

(――――愈史郎)

 

 自分が鬼にしてしまった青年。

 生きたいという彼の願いを叶えた、などと驕る気は無かった。

 ただ、誰かに一緒にいてほしかっただけだ。

 寂しくて、独りは余りにも冷たくて、耐えられなかっただけだ。

 

 そして今、疲れたと言って生を諦め、彼を置いて逝こうとしている。

 嗚呼、何て身勝手で、利己的で。そして何ておぞましいのだろう。

 それでも、それでもどうか。どうか。

 

(これからは、自分のために生きてね)

 

 どうか、それだけは本音(ほんとう)でありますように。

 そう思って、珠世は目を閉じた。

 死が触れて来た。

 自分に触れて来た死を、珠世は抱き締めた。

 ――――今から、70余年前の出来事である。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それは、実に奇妙な「お茶会」だった。

 お茶請けがおにぎりであることも、路上の真ん中という立地もそうだが。

 そもそも、参加している面々が奇妙である。

 

 カナエとしのぶの胡蝶姉妹。

 炭吉、カナタ、炭彦の竈門家。

 そして、榛名と柚羽――()()()()()()

 余りにも奇妙な組み合わせだった。

 

「初めまして。私はこういう者です」

「あら、ご丁寧にどうも~」

 

 すっと名刺を差し出す父の背中を、炭彦は何とも言えない表情で見つめていた。

 正直なところ、置かれた状況に対して理解が追い付いているとは言えなかった。

 自分以外は理解しているというのは、何となくわかった。

 

「さて、では早速なのだけれど」

 

 まるで商談にでも来たかのように、父は言った。

 

「きみたちは、「煉獄瑠衣」の関係者だね」

 

 ただ、父の口から飛び出した名前には、目を剥かざるを得なかった。

 どうして父が瑠衣を知っているのかわからなかったし、この場で出て来る理由もわからなかったからだ。

 思わず何か言おうとしたが、カナタの手が顔の前に来て、止められた。

 

「そうねぇ」

 

 そして、榛名は特に隠しもせずに頷いた。

 元より隠す意図もそのつもりもない。そもそも考えたこともない。

 そんな表情だった。

 

「ここに来た目的は?」

「何だか尋問されてるみたいねぇ」

「いえいえ。ただの興味ですよ。そんな風に聞こえたなら申し訳ない」

 

 苦笑する榛名に、炭吉は朗らかに笑って見せた。

 雰囲気も固くはない。むしろ柔らかい。

 しかし、目に見えない緊張の()が、炭彦には見える気がした。

 

「う~ん。でも、目的と言われてもぉ」

 

 榛名は、顎先に指を当てて、少し考える素振りを見せてから。

 

「う~ん…………()()?」

 

 粛清。

 それは、かなり剣呑(けんのん)な響きの言葉だった。

 

「お仕置き? 宿題? う~ん……」

 

 柚羽がそっとおにぎりを指差して、榛名はああ、と頷いた。

 

「あんなものは粛清なんて言わないわよ。ああいうのは、()()()()()って言うのよ」

 

 しかし、言葉を発したのは榛名では無かった。

 言葉を発したのは、いつの間にか輪の中に加わっていて、しかも当然のようにおにぎりを頬張っている少女だった。

 

「あ、美味しいわねこれ。お塩変えた?」

「うふふ、わかるぅ?」

 

 クリニックの中でゾンビ犬と戦っていたはずの禊が、そうしているのが当たり前という顔をして、しれっとそこにいたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 固定電話での連絡は、合図だった。

 カナエからカナタへの、あの電話である。

 ()()()()()()()()()()()()

 

 鬼。この世のものではない、人間を食糧とする超常の生き物。

 それは、竈門家と胡蝶家の()()()()だけに伝わる伝説だった。

 ただ、伝説だった。

 正直なところ、カナタは鬼の実在を信じていなかった。

 

(まあ、流石に認めざるを得ないけれど)

 

 信じてはいなかったが、父の言うことだから素直に受け入れていた。

 だから今日も、こうやってカナエについて来たのだ。

 カナエの方は、そのまま鬼の実在を信じていた様子だったが。

 

「感心しないわよ」

 

 ぺろ、と指先についた米粒を舐め取りながら――赤い舌先が妙に艶めかしい――禊が言った。

 その眼は、炭吉を見つめていた。

 

「女の()()()()を覗き見るもんじゃないわ」

「やあ、申し訳ない。余りにも()()()()()()()()

「あら、お上手ね。お客さんとしてうちのお店に来るなら、サービスするけど」

「いやあ、妻子がいるからね。遠慮しておくよ」

「あっそ」

 

 この禊という妖しい女が、向こうのリーダー格のようだった。

 正直、カナタが苦手なタイプだった。

 こういう手合いは、自分が定めたルールを絶対視して、相手がそれを守るのを当然だと思っている。

 わかりやすく言えば、()()()()()()人種だ。

 相手を振り回すという意味ではカナエもそうだが、あちらは計算というものが無い。

 

(俺は口を出さない方が良さそうだ)

 

 と、カナタは思った。

 横にいる炭彦が何かを言いたげな顔をしているが、それも止めていた。

 もしも今、自分達が口を出せば、相手のペースになると直感で察していたからだ。

 

 その時だった。大きな破裂音が響き渡った。

 それまでは()()()()()()ものが、表に出てきてしまったような。

 まるで()()を外されてしまったかのような、そんな音だった。

 次いで、ほとんど同時に――爆発音。いや、破砕音がした。

 

「まずいな」

 

 と、炭吉が言った。

 その意味するところは、カナタもわかった。

 ()にいるカナタ達に聞こえたということは、近隣住民にも聞こえたということだ。

 このままでは騒ぎになる。そう思った。

 

「心配いらないわよ」

 

 そして、そんなカナタ達の心を見透かしたように、禊は言った。

 

()()()()()()

 

 その美しい顔を、朝陽が照らし始めていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 屋根の上に立ち上がると、東の空の彼方から太陽の白光が伸びて来るのを感じた。

 いつの間にか、夜明けの時間になっていたのだ。

 ――――2人は、()()()()()向かい合っていた。

 

「ずっと、この時を待っていた」

 

 ()()()()()()()()愈史郎がそう言うのを、瑠衣は正面から聞いた。

 ただそれは、言葉という名の音を聞いているという、それだけのことだった。

 そして、愈史郎もそれに気付いている。

 だからこれは、意思疎通(コミュニケーション)としての会話では無かった。

 ただ、胸中に湧き上がるものを、我慢できずに吐露しているだけだった。

 

「お前は、お前達は、滅ぼさなければならない」

 

 思えば、奇妙な付き合いだった。

 だがその付き合いも、100年に渡る関係も、今日で終わりだ。

 それだけは、お互いに良く理解していた。

 

「珠世様が亡くなられたあの時、俺はそう誓った。あの男……鬼舞辻無惨にさえ、そこまで思うことは無かった」

「鬼舞辻無惨」

 

 瑠衣の声には、微かな笑みの成分さえあった。

 

「これはまた、懐かしい名前を聞いたものです」

 

 皮肉。込められている感情はそれだった。

 鬼舞辻無惨。

 それは、珠世ならば意味のある名前だった。

 だが愈史郎にとっては、その名前には何の意味もない。

 

 愈史郎にとっては、珠世がすべてだった。

 彼は、珠世が憎悪する相手を憎悪しただけで。

 珠世を殺した者を、憎悪するだけだ。

 愈史郎という男の理由はすべて、珠世にしかないのだった。

 

「貴方は変わりませんね。もう100年になりますか。初めて出会ったあの時から」

「貴様と思い出話に付き合うつもりはない」

 

 ぴしゃり。

 まさにそういう表現が合うような、そんな調子だった。

 拒否。拒絶。全身が、表情が、そう告げていた。

 

「貴様は、ここで滅びる(死ぬ)んだ」

 

 その時、穏やかな微笑を浮かべていた瑠衣が、眉を寄せた。

 そっと胸元に当てられた手が、喉、そして顎先に触れる。

 まるで、何かを追いかけるかのように。

 それに比例して、今度は愈史郎の方が笑みを湛えていった。

 

「すでに、貴様の肉体には大量の薬毒が投与されている」

 

 溢れ出た。

 まさにそんな様子で、瑠衣の口の端から赤い液体が漏れた。

 それは唇を濡らし、顎先を滴って、衣服の胸元を汚した。

 指先で拭い取ったそれに、瑠衣は目を向けた。

 

「断罪の時だ。煉獄瑠衣……!」

 

 血は赤かった。

 こんなになっても、血は赤いのだなと。

 瑠衣は、そんなことを思ったのだった。

 

「珠世様の命を奪うという大罪。ここで(あがな)わせてやる!!」

 

 愈史郎の叫びはしかし、それでも瑠衣には届かなかった。

 それは瑠衣にとって、やはり、ただの音でしかなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()

 珠世はこの100年の間に、鬼を人間へ戻す薬を完成させていた。

 本人は惰性だと言っていたが、それはまさに、画期的な新薬だった。

 鬼化という()()から人々を救う、()()()だった。

 

()()()()()()()

 

 血を吐く瑠衣を前にして、愈史郎は言った。

 

「青い彼岸花に含まれるある成分が生物の細胞と結びつくと、急激な変化をもたらす」

 

 変化した細胞は増殖を繰り返し、やがて全身に行き渡る。

 そしてこの細胞――鬼化細胞は、()()()()()に対してより大きな反応を見せる。

 例えば重病人。不治の病に犯された者。あるいは精神的に衰弱している者。活力の無い者だ。

 呼吸の剣士が鬼になる場合に時間がかかるのは、呼吸によって身体能力が強化されているからだ。

 

「珠世様の薬はこの細胞変化を抑制し、投与を繰り返すことで症状を緩和していくものだった」

 

 鬼舞辻無惨が滅び、彼の系譜に連なる鬼は消えた。

 だから人間返りの薬を作っても、使う相手はいない。

 たった1人を除いては。

 

「おそらく珠世様は、人間返りの薬をお前のために開発したんだろう」

 

 この世界で唯一の()()のために。

 きっとそうだと、愈史郎は信じていた。

 慈悲深い珠世は、きっと、最後まで――殺される最期まで、患者のことを思っていたに違いない。

 

「だが、()()()()使()()()()

 

 瑠衣に打ったのは、それとは()の薬だ。

 珠世の死後、半世紀をかけて愈史郎が開発した新薬――否、()()である。

 鬼化細胞による細胞増殖を、さらに加速させる毒。

 すなわち、病気の症状をさらに加速させるものだった。

 

「……ごぼっ」

 

 瑠衣の唇から溢れる血が、噴き出すような勢いに変わりつつあった。

 それを見た愈史郎が、口角を歪める。

 

「苦しいだろう。お前の身体に中では今、細胞が通常の100倍の速度で増殖と崩壊を繰り返している」

 

 文字通り、肉体が造り変えられているのだ。

 人間に例えれば、内臓が捻じれ、骨が皮を突き破り、肉が引き千切られるようなものだ。

 しかもそれが、自分の意思とは無関係に行われるのだ。

 麻酔無しで手術をする方が、まだマシというものだろう。

 

「後悔しろ……!」

 

 表情を歪め、唾を飛ばしながら、叫んだ。

 

「己の大罪を後悔しながら、死ね! 煉獄瑠衣!!」

 

 そして、見る。

 口元を朱に塗れさせた瑠衣と、目が合った。

 ()()()に、瑠衣の顔があった。

 青白い、美しい顔だった。

 

「わからないことがあったんです」

 

 どうしてかはわからなかったが。

 愈史郎は、その青白い顔に、何故か珠世を思い浮かべた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――効果が無い?

 ふと胸中に入り込んで来たそんな考えを、愈史郎は振り払った。

 効いていないはずが無い。

 

 実際、見てみろ。瑠衣は血を吐いたでは無いか。

 顔色も、あんなにも青白い。

 あれ程に感じ取れていた鬼気も、随分と和らいだ。

 薬が、毒が効いている証拠だ。()()()()()()()

 

「……わからないこと、だと? ハッ、お前ごときに理解できることなど、何も無い」

 

 陽は、すっかり上がり切っている。

 周囲からは、まだ喧噪は聞こえて来ない。

 だが、そう時間のかからない内に騒ぎになるだろう。

 クリニックにかけていた擬態の血鬼術――かつての目隠しの術を発展させたもの――は、もうなくなっている。

 

「お前はここで」

「あの時、どうして貴方が()()()にいなかったのか」

 

 ぞわ、と、肌が粟立った。

 咄嗟に、手を後ろに回した。

 しかし瑠衣は、それを気にした風も無かった。

 

「私はてっきり、貴方が傍にいるものと思っていました。でも、あの時――珠世さんの傍に、()()()()()()()()

 

 かつて、瑠衣と愈史郎が行動を共に――厳密には、2人で組んでいたわけではないが――していた時、愈史郎は片時も珠世の傍を離れなかった。

 常に共にいて、支えようとしていたし、守ろうとしていたし、あるいは他を見捨ててでも連れて逃げようとさえした。

 それが、()()()は違った。珠世の傍に、愈史郎はいなかった。

 

「だまれ」

 

 低い声で、愈史郎は言った。

 それを聞いて、瑠衣は微笑んだ。

 ただその微笑みは、余りにも陰のあるものだった。

 ああ、成程。と、瑠衣は頷いた。

 

「珠世さんは、貴方を()()()()()()()()()()

 

 服の下に隠していたそれを、愈史郎は握り締めた。

 

「――――黙れェッッ!!」

 

 逆手に持った注射器を、瑠衣の頚に、頸動脈のあたりに突き刺した。

 注射器の中身は、先ほど茶々丸に撃ち込ませたものと同じだった。

 押子を押し込み、薬品()を流し込む。

 一瞬、瑠衣の頚の血管が脈打ったように見えた。

 

 数瞬の間が空き、音が消えたような錯覚を覚えた。

 その数瞬の後、瑠衣の指が注射器を持つ愈史郎の手に触れた。

 そして、瑠衣の指先がそのまま己の手に沈み込んで来るのを、愈史郎は見た。

 次の瞬間、言い様のない灼熱感に襲われた愈史郎は、悲鳴を上げてその場に膝をついたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

『無駄な努力をするのは、やめなさい』

 

 珠世の言葉を、愈史郎は思い出していた。

 いや、この表現は(いささ)か間違っているだろう。

 何故ならば、愈史郎は珠世の言葉を一言一句たりとも忘れたことが無いからだ。

 それこそ、わざわざ思い出す必要など無い。

 

 いや、言葉だけではない。

 表情も、温もりも、匂いも、昨日のことのように覚えている。

 もしも、仮に生まれ変わりや輪廻転生というものがあるとしたら、愈史郎は「珠世」を見つけ出す自信が、いや確信があった。

 彼が今日まで生きて来た理由の1つは、それだった。

 

『私達にできるのは、祈ることだけ』

 

 あの時、鬼舞辻無惨が死んだ日。

 そして、煉獄瑠衣が再誕を果たした日、珠世はすべてを悟ったようだった。

 すべてを諦め、無気力になってしまった。

 自分がいなければ、自分で命を絶っていたかもしれない。

 愈史郎がそう思ってしまう程、珠世は虚無感に捉われてしまっていた。

 

『だから、やめなさい』

 

 やめるなんて、できるわけがなかった。

 だって、愈史郎にとって珠世はすべてだったのだ。

 母親のようであり、姉のようであり、それ以上の存在だったのだ。

 

 珠世の幸福が、愈史郎の幸福だったのだ。

 だから珠世が日に日に生きる気力を失っていくことが、何よりも辛かった。

 何とかしたかった。何でもやった。

 珠世がこの世に留まってくれるように、何でもやったのだ。

 

『やめなさい』

 

 珠世は、何度もそう言った。

 愈史郎は聞かなかった。

 我ながら本末転倒だとは思うが、他にどうすれば良いかわからなかったのだ。

 いや、もはや憎まれても構わないとさえ思ったのだ。

 

『愈史郎』

 

 と、あの人に呼ばれさえすれば、それで良かった。

 それ以外に、求めるべきものは何も無かった。

 けれどある日、珠世は愈史郎の前から消えた。

 

 感覚でわかるので、死んだわけではないことは理解していた。

 だから、嫌でも思い知らされた。

 珠世が、自らの意思で自分から離れたのだということが。

 

『珠世様』

 

 探した。もちろん、探した。

 それ以外に、やることはなかった。

 けれど、見つからなかった。

 感覚でわかるからか、自分が近くまで行くと、必ず珠世の側から離れたのだ。

 

 だから、会うことさえ出来なかった。

 それを何年も、何年も何年も繰り返して、そして。

 あの日、珠世の死を、直にではなく、やはり感覚で知った。

 

『珠世様アアアアアアァァァッッ!!』

 

 ――――何故。

 何故ですか、珠世様。

 どうして、俺を置いて、逝ってしまったのですか。

 何故。どうして。

 教えてください。珠世様――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 右手の手首から先が、()がれた。

 その傷口――というには、滑らか過ぎる断面――を押さえて、愈史郎は膝をついた。

 

「うおおおおおおおおおおおっっ!?」

 

 今も傷口を焼かれているような灼熱感に、愈史郎は叫んだ。

 右手は、しかも、()()()()()

 愈史郎は鬼だから、どんな負傷もすぐに癒える。

 頭を吹き飛ばされたところで、死ぬことは無いのだ。

 

 その時、掌が焼けた。

 傷口を押さえていた左の掌が、音を立てたのだ。

 右手の断面、そして左手に、赤黒い液体が付着していた。

 それが傷口を焼き、さらに肌に焼いていたのだ。

 血だ。愈史郎はすぐに気付いた。しかし、愈史郎自身の血ではない。

 

「な、何だァこれはアアアアアアァァァッ!?」

()()()()()()

 

 先程から、ずっと吐き出していたものだ。

 血鬼術。文字通り、血を操った。

 そして煉獄瑠衣の血とはすなわち、()()()そのものだ。

 体内を焼かれる苦痛に、愈史郎は襲われた。

 

「な、何故」

 

 何故、自分の毒が効かないのか。

 分解されたのか。いや、そんなはずはない。

 ダミーの成分も含めて調合し、あの鬼舞辻無惨でさえ、すぐには分解できない造りになっている。

 それをこんな短時間で分解するなど、不可能なはずだ。

 

「何故って」

 

 微笑みさえ浮かべて、瑠衣は言った。

 

()()()()()()()()()

 

 あえて言おう。愈史郎の薬品()は完璧だった。

 投与した相手が鬼舞辻無惨とその系譜の鬼であれば、十分な効果を発揮しただろう。

 しかし彼は、知らなかった。何故ならば、関心が無かったからだ。

 

 煉獄瑠衣という患者に、興味が無かったからだ。

 

 だから、知らなかった。気付くことが出来なかった。

 瑠衣が()()()()()()()()()()()()()、気付くことが出来なかった。

 鬼化を加速させても、鬼化細胞を増殖させても、それは()()()()でしかない。

 その事実に、今この時になって、愈史郎はようやく理解が及んだのだった。

 

「ああ、なるほど」

 

 ペロ、と舌先で指先を舐め取りながら、瑠衣は言った。

 

「自分でも、そのお薬を投与していたんですね」

 

 同じものではない。希釈(きしゃく)したものだ。

 それでも、太陽を克服するまで己を()()させるには、十数年以上の時間がかかった。

 すべては、瑠衣への復讐のためだった。

 それが、こんな形になるとは思っていなかった。

 

「あの人は、貴方のことは教えてくれませんでしたから」

(珠世様)

 

 珠世は、気付いていたのだ。

 だから「諦めろ」と言ったのだ。無駄だとわかっていたから。

 自分は最後まで、珠世のことを理解していなかった。

 

「ああ、そうそう。1つだけ教えてくれませんか?」

 

 そんなことにさえ、自分はわかっていなかったのだ。

 

「珠世さんの人間返りの薬は今、誰が持っているんですか?」

 

 だけど。

 

「貴方に青い彼岸花を渡した親切な人は、今どこにいるんですか?」

 

 それでも、と、愈史郎は思った。

 たとえ、そうだとしても。

 どれだけ自分が愚かで、珠世の想いさえ理解できていなかったのだとしても。

 ()()だけは、間違いない。

 

「誰が教えるか。馬鹿が」

 

 間違いないと、そう言える。

 その確信だけは、揺らがなかった。

 最期まで、揺らぐことはなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「帰った方が良いわ」

 

 と、禊がいきなりそう言うのを、炭彦は聞いた。

 その頃にはお茶もなくなり、おにぎりも食べ切ってしまっていた。

 クリニックは、もはやただのボロ屋にしか見えなかった。

 まるで、夢でも見ていたかのようだった。

 

 実際、夢と言われた方がまだ納得できただろう。

 だが炭彦の目の前には、現実が広がっていた。

 犬人間が、いや鬼がいたことも現実だし、父と兄が奇妙な活動をしていたことも現実だった。

 いくら寝ることが好きな炭彦でも、それは否定のしようが無かった。

 

()()()はいちいち()()なんて見ないけれど、それでも、見つかったらしつこいわよ」

 

 警告、なのだろう。多分。

 良くはわからないが、そうなのだろうと思った。

 

「親切なのね」

「は? その顔で話しかけないでよ。地味にムカつくから」

 

 ただ、口はひどく悪かった。

 もっとも、言われたカナエ本人は相変わらずニコニコと笑っていたが。

 

「わたしは別にアンタ達がどうなろうと知ったことじゃないわよ。ただあんまりにも何もわかっていないみたいだから、()()()言ってあげただけよ」

 

 やっぱり親切なんじゃないか、とは、誰も口にしなかった。

 ただ、榛名はクスクスと笑い声を上げていた。

 ジトりとした目で禊に睨まれても、肩を竦めて見せるだけだった。

 

「私としては、もう少し話をしたいのだけれど」

「はあ? 知らないわよ、そっちの都合なんて。それに、さっきも言ったでしょう。妻子持ちの営業さん」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 先程の言葉をそのまま繰り返して、禊は言った。

 

「それではさようなら、()()()()()()()()()()。次はお店で会いましょう?」

 

 ブルーシートが、風も無いのに舞い上がった。

 わ、と誰かが驚いて、そちらに目が向いて、そして視線を戻した時には、禊達はいなかった。

 忽然(こつぜん)と、という言葉が当てはまる。それくらいに、あっさりと消えてしまった。

 そして、やはり誰かが「はあ~」と息を吐くのを聞いた。

 

「やれやれ、とんだ怪物揃いだなあ。あれは」

「おじ様も負けていませんでしたよ~」

「いやあ、私は全然。本当、荒事は苦手だから……」

 

 父とカナエの会話も、炭彦には良くわからない。

 そうやっていると、困惑が伝わったのか、炭吉がこちらを見て来た。

 父さん。そう呼ぶ声が、どうしてか口から出せなかった。

 そんな炭彦を見て、炭吉は照れたように頭を掻いて、言った。

 

「帰ろうか。母さんが心配している」

 

 うちに帰ろう。

 そんな当たり前のことに、何故だろう。

 何故か、ひどく安心する自分がいて。

 炭彦の目尻から、涙が零れたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――珠世クリニックは、愈史郎が作り出した偽物だった。

 心優しい女医「珠世先生」は、皮一枚を被った愈史郎だった。

 クリニックの建物もそれらしく見せていただけで、実際はボロ屋だった。

 それもこれも、血鬼術でそう錯覚させていただけだ。

 

「バウッ、バウッ」

「にゃあ」

 

 ただ2つだけ、いや、2匹だけ、本物があった。

 それは長く、本当に長い間、愈史郎と共に在った者達。

 茶々丸と、コロだった。

 瑠衣が出現したと同時に、彼れは愈史郎の血鬼術で姿隠しを――茶々丸は注射器を撃ち込んだ後になるが――施された。

 

 しかし今は、2匹とも姿を見せて路地裏を駆けていた。

 愈史郎が死に、彼の()()をもって、彼の血鬼術も消えてしまったからだ。

 そしてこの賢い2匹は、愈史郎も死をしっかりと理解していた。

 それを理解した途端、クリニックという名のボロ屋――それでも、彼らの「家」ではあった――を脱出した。

 

「……………………」

 

 どれくらい、駆けていたのだろう。

 何か感じるものがあるのか、他の野良猫・野良犬の類は2匹に近寄ることは無かった。

 人間も、近付いては来なかった。

 そうしている内に、2匹はある場所で立ち止まった。

 

「にゃあ」

 

 と、茶々丸が何度か鳴くのを、コロが尻尾を振りながら見ていた。

 揺れる尻尾の毛先は、どこかしんなりとしている。

 ただ、茶々丸と並んで()()を見上げていた。

 

「……………………」

 

 路地裏の闇の中から、白い2本の腕が伸びて来たのは、そんな時だった。

 左右の腕が2匹の頭にそっと触れて、同じくそっと撫でる。

 2匹は、それを受け入れていた。

 白い腕を這うように垂れたのは、黒い和服の袖だった。

 黒い着物の、若い女の腕。

 

「……………………」

 

 やがて、その腕は2匹を抱き上げた。

 抱き上げるために、女の頭が路地裏の闇から出て来る。

 波打つ、鴉の濡れ羽色の、豊かな黒髪が、さらりと流れた。

 

「バウッ」

「にゃあ」

 

 と、茶々丸とコロの鳴き声が、路地裏に響いた。

 それに応じるのは、ふん、と頷く女の吐息だけだった。

 他には、その路地裏には何も無かった。何者も、存在していなかった。

 

 衣擦(きぬず)れの音がした。

 茶々丸とコロを抱いた着物の女が、闇の中に消えていった。

 そうして、静かになった。

 静かになった後には、やはり、何者もいなかった。




最後までお読みいただき有難うございます。


あ と ひ と り


それでは、また次回。
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