――――飢餓を覚えたことはあるだろうか?
飢餓とは、単なる空腹とは違う。
空腹は、
ねえ、今日のご飯は何?
などと問う余裕のある状態を、その状況を、飢餓とは呼ばない。
飢餓とは、けして人に耐えることができないものなのだ。
そもそも、人間はまず
何故か。人間は、この地上で最強の
「それにしても」
人間は、何でも食べる。
普段もそうだし、空腹が進めばそれこそ
いったいこの世に、他に人間に勝る食い汚さを持つ存在があるだろうか。
あらゆる動物の肉を喰い、あらゆる魚の身を喰い、何百種もの植物や昆虫を喰く生き物が、存在するだろうか。
木の根を齧り、石や土でさえ食べ、
そんな人間が飢餓に陥る状況は、そもそもがかなり限られるのだ。
「前回と言い、今回と言い……碌な食事ではありませんでしたね」
しかし、彼女は間違いなく飢餓に陥っていた。
見た目は、平然としているように見えるだろう。
だから彼女の傍を通り過ぎる誰もが、彼女の状態に何も気付くことはない。
その危険性に、気が付くことが出来ない。
「嗚呼……」
飢餓に陥った人間は、
お腹と背中がくっつきそう、という表現があるが、言い得て妙である。
背中とくっついて胃がなくなってしまえば、空腹は消えてしまうだろう。
だがもし、もしもだ。
そんな状態の人間に、ごく少量の、中途半端な食事を与えればだうなるだろうか。
飢餓が癒され、空腹を思い出すだろうか。
違う。逆だ。
「お腹が空いたなあ」
それは、空腹を訴える言葉。
しかし一方で、他に表現がないが故に出て来る言葉だ。
だから同じ言葉を口にしていても、意味は全く異なるのだ。
「嗚呼」
彼女は、
人間のように、
だから、危険だった。
「
煉獄瑠衣という存在は、余りにも危険な状態だった――――。
◆ ◆ ◆
実を言うと、炭彦は兄弟喧嘩というものをしたことが無かった。
まず炭彦はそういう性格ではないし、カナタも素直ではないだけで基本的に心優しい性格なので、揉めるということ自体が余り無いのだ。
だからこれは、ほとんど初めての経験だと言って良かった。
「あ、カナタ。一緒に……」
「……先に友達を約束してるから」
放課後に声をかけても、返って来るのはやんわりとした拒絶だった。
これまでなら、仮に断られるとしても「友達も一緒だけで良い?」とか「明日なら」とか、そういう答えが返って来たものだ。
しかし今はそれもなく、遠ざかって行くカナタの背中は暗に「話しかけるな」とこちらに伝えて来ていた。
「うう……」
珠世クリニックでの出来事から、すでに1週間が経っていた。
しかしこの1週間の間、炭彦はカナタとまともに会話をすることが出来ていなかった。
話しかけても、今のように拒まれてしまうのである。
これには、さしもの炭彦も落ち込まざるを得ない。
何しろ2人は部屋も一緒なのである。
とは言え、この1週間のカナタは自室で過ごすことが少なく、しかも炭彦よりも遅く寝て早く起きるため、徹底的に炭彦のことを避けているのである。
もう一度いうが、カナタは炭彦を徹底的に避けているのだった。
「こういう時、どうすればいいんだろう」
何しろ兄弟喧嘩などしたことがないので、喧嘩の収め方、つまり仲直りのやり方がわからない。
いや、喧嘩、というのとも違うような気もする。
現状は、カナタが炭彦から一方的に距離を取っている形だ。
双方向ではない。喧嘩とは言えないのかもしれない。
最も、喧嘩ではなかったとしても、今の炭彦には何の慰めにもならないのだが。
「あら」
その時だ。聞き覚えのある声が聞こえて来た。
「どうしたんですか、炭彦君。そんな道端に蹲って」
しのぶだった。
炭彦が通学路で「うーんうーん」と頭を抱えているのを見かけて――なかなかにシュールな絵だ――話しかけてくれたのだ。
そしてしのぶは、絵に描いたようなウルウルとした炭彦の眼差しを正面から見ることになった。
「あらあら。かわいいお顔が台無しですね」
炭彦の傍にしゃがんで、取り出したハンカチで顔を拭った。
そうやってから、しのぶはにっこりと微笑んで。
「炭彦君。今から時間ありますか?」
「え?」
「私とひとつ、デートというものをしてみましょう」
ぱちん、と、ウインクして見せたのだった。
◆ ◆ ◆
一度来てみたかったんですよね。
そう言ってしのぶが炭彦を連れて来たのは、いわゆるタピオカの店だった。
最近の流行に漏れず、キメツ学園の女子生徒の間でも流行っているらしい。
ただ、しのぶはそういう流行に乗る方ではなく、興味はあっても行くことは無かったのだと言う。
「わあ、ストローが大きいんですね。このタピオカ? が通るようになっているんですね」
行列はなかなかのもので、1時間ほど並んでようやく購入することが出来た。
当然ながら、炭彦もタピオカドリンクなるものを飲んだことは無かった。
不思議な味。不思議な食感だった。冷たくて、甘くて美味しい。
ただ、炭彦が知る限り、しのぶはこの手の買い食いはしないタイプだ。
タピオカや甘味に目がない、という話も聞かない。
人の心の
「カナタ君と喧嘩中なんですか?」
不意に、そう言われた。
「どうなんだろう。良くわからなくて」
「なるほど。先週のことですね?」
しのぶの方に目を向ける。
ただしのぶは正面を向いていて、炭彦に視線を向けることはなかった。
「わかります。私も姉さんと絶賛喧嘩中なんです」
「え……」
素直に、驚いた。
カナエとしのぶの仲良しぶりは良く知っていたし、しのぶの
だから、喧嘩をしているというのは驚いた。
「だって、姉さんったら何にも教えてくれないんです。炭彦君のお父さんやカナタ君と何をしているんですかって聞いても、「しのぶにはまだ早いと思うわ~」なんて言うんです」
「ふふ」
「あ、何を笑っているんですか」
カナエも声真似が余りにも完璧だったので、思わず笑ってしまった。
しのぶも口では注意めいたことを言っていたが、声音は柔らかだった。
「だから炭彦君も、良いんですよ。もっとたくさん、言いたいことを言っても」
そこでやっと、しのぶは炭彦と目を合わせた。
「言っても聞いてくれないなら、手を出しちゃいましょう」
「え、いやそれはダメなんじゃ」
「ちゃんと言ってくれない方が悪いんですよ。こうですよ、こう」
しゅっしゅっ、と腕を振って見せるしのぶに、炭彦はまた笑った。
いつの間にか、炭彦は素直に笑えるようになっていた。
それからしばらく、しのぶと炭彦は兄姉の「悪口」を言って過ごした。
「……よもや!」
なお、その時の様子を桃寿郎に目撃されていて、あらぬ誤解が生じてしまったのだが。
それはまた、別の話である。
◆ ◆ ◆
一方のカナタだが、まるきりの嘘を吐いたというわけでは無かった。
強いて違う点を挙げるとすれば、帰宅の約束ではなく
そして相手は友達ではなく、胡蝶カナエであった。
「今日は何だか元気がないのね」
「え……」
開口一番にそう言われて、カナタは顔を上げた。
そこには、心配そうに眉根を寄せたカナエの顔があった。
半地下にある、いわゆる隠れ家的な喫茶店だった。
流行りのものは何もなく、頼むものと言えばブレンドコーヒーくらいの店だ。
ただ静かで人目も少ないので、カナタは気に入っていた。
とは言え、カナエほどの美人が来ると嫌でも視線を集めてしまうのだが。
「炭彦君と喧嘩でもしたのかしら?」
そんなにわかりやすいだろうか、と、カナタは自分の顔にぺたぺたと触れた。
そしてそんな反応を示すこと自体が、「図星だ」と相手に教えることになると気付いて、次には仏頂面になった。
おかしかったのか、カナエはそんなカナタを見てクスクスと笑った。
「実はうちも喧嘩しちゃって。家に帰り辛いのよ~」
聞けば、しのぶはより直接的に「危ないことをしているんじゃないのか」と聞いて来たらしい。
そのあたり、しのぶははっきりとしている。
必要とあればオブラートにも包むし、猫も被る。
ただそれは必要だからそうしているというだけで、逆に言えば、必要がなければしないということだ。
そしてしのぶにとって、カナエは「しなくていい」相手だったわけだ。
「それで、どうしたの」
「う~ん。はぐらかしてたら怒っちゃった♪」
てへ、と自分の頭を小突いて舌を出す様は、それはそれは可愛らしかった。
可愛らしかったが、それで何もかもが誤魔化せるわけではないのだった。
「でも、困っちゃったわねえ」
小突いた手をそのまま頬に当てて、カナエが溜息を吐いた。
「おじ様は、どうするつもりなのかしら」
実際のところ、カナタとカナエの悩みは、自分では判断がつかない、という点にあった。
もちろん、弟妹に危ないことをしてほしくない、という思いもある。
しかし事ここに及んでしまった以上、
だからこそ炭彦やしのぶとの距離感に悩み、いわば
「父さんは……」
そして、カナタは思い出していた。
昨日の夜に展開された
ただし、それを思い起こしていた時のカナタの表情は、何と表現するべきか。
それまでの深刻そうな表情から一転して、酷く微妙な表情を浮かべたのだ。
何というか、今にも頭を抱えそうな、そんな顔をしていた。
――――余り、大差なかったかもしれない。
◆ ◆ ◆
夕食の席だった。
「
この言葉には様々な
世の中にそういう店があり、そういう店に行く客層がいる以上、その台詞は日本のどこででも聞ける類のものだろう。
だからカナタも、発言自体を問題視するつもりは無かった。
何よりも、
「……え?」
ただ、問題があった。看過し得ない大きな問題があった。
それは、発言の主が父であり。
その父の冒頭の発言を聞いた相手が、母だった、ということだ。
「ごめんなさい、あなた。良く聞こえなかったわ。もう一度言ってくださる?」
そんな母の言葉に、父である炭吉は快く頷いた。
非常に不味い事態だ、と、カナタは思った。
何故かというと、聞こえているのにあえて聞き返すのは、母の
「キャバクラに行きたいのですが」
そして見事に、炭吉は母の手順を守った。
この時点で、カナタは天を仰いだ。
ちらと見やれば、炭彦も箸を取り落としていた。
「そうですか」
母の声は、平坦だった。
「あなた」
「うん」
「
どこからか取り出したる包丁。
母はそれを、躊躇なく振り下ろした。
「ちょ」
と、炭彦が悲鳴を上げるよりも先に、炭吉の両手が包丁の刃を挟んで止めていた。
いわゆる白羽取りというものだが、そんな絶技も目の前の光景のインパクトが大きすぎて、まったく意識に入って来なかった。
なお、当の炭吉はこのような状況下でも表情を変えていなかった。
「か、カナタ! どうしよう!?」
「…………ちょっと待って」
額の真ん中あたりを指の背で押さえながら、カナタは目を閉じた。
物理的に頭が痛い。
父の真意がわかっているからこそ、余計にそうなってしまう。
炭吉が言いたいのは、先日のあの集団――禊達の店に行く、ということだろう。
しかし女の子がいるお店――言い方がどうしても妖しくなってしまうが――に行く以上、
それは誠意ある対応なのかもしれないが、余りにも正直に過ぎる。
その正直さが、今は最悪の結果をもたらしていた。
(仕方ない。気は進まないけれど、ここは俺が)
何とかしないと、と顔を上げると。
「も、もう。それならそうと言ってくれればいいのに」
「うん。ごめんね」
何故か、父と母が抱き合ってイチャイチャとしていた。
炭吉が母の肩を抱き、母が顔を赤らめてもじもじとしている。
先程の修羅場はいったいどこに行ったのか。
そんな目の前の光景に対して、カナタは言った。
「いや、そうはならないでしょ!?」
なった。
◆ ◆ ◆
「良いんじゃないかな。話をしてしまって」
そしてその父は、カナエとカナタの悩みにも一瞬で結論を出してしまった。
それはもう、あっさりと決めてしまった。
ここまで悩んでいたのは何なのだ、と思ってしまう程だった。
「2人が何もしらないならまだしも。ここまで
「まあ、そうかもしれないけど」
「僕がきちんと説明できれば良かったんだけど。ノルマを達成しないと鋼鐵塚さんが怖くてね……」
今の時代、包丁の営業は大変である。
鋼鐵塚ブランドの包丁は切れ味は抜群だが、職人技頼りのため生産量が少なく、高価である。
一部には根強いファンがいるものの、しかしそれは現代の包丁に求められるものでは無かった。
なので朝から晩まで脚で稼ぐ必要があり、体力的にはともかく、なかなか他に時間を割くことも難しく。
閑話休題。
前回はすでに夜が明けていたので、話をする時間がなく、他の日は仕事が忙しく、炭吉が今日まで時間を取ることが出来なかったのだ。
仕事の時間は削れないので、後は睡眠時間くらいしか削ることが出来ない。
まあ、後者の方は
「ごめんね」
ただ、そう素直に謝られてしまうと、カナタも何も言えなくなってしまう。
大人は自由に時間が取れないということを、彼はきちんと理解していた。
そのあたりが、カナタが同年代に比して聡すぎると言われる
そしてそれは、そのままカナエにも当て嵌まることだった。
「とにかく、事ここに及んでしまった以上は、2人にもきちんと話をしないといけないね」
なんだかんだと言っても、自分はまだ子供である。
炭吉がそう言ってくれて、安堵している自分を発見すると、カナタはそう思うのだった。
「大丈夫。任せて。2人には僕から話をするからね」
「うん。それは有難いんだけど」
ただ、やはりカナタは聡かった。
この問題の「そもそも」の要因について、彼はしっかりと理解していたのだ。
というより、誰がどう見てもわかるだろうという話だった。
「父さん、みんなで話をする時間って言うけどさ。次はいつになりそうなの」
「…………ええと、手帳はどこにあったかな」
そもそも、そんな時間があれば、こんなことにはなっていないのだった。
◆ ◆ ◆
鬼という生き物。
鬼狩りと呼ばれる人々。
そして、鬼殺隊という集団のこと。
炭彦が、炭彦としのぶが炭吉から聞かされたそれらの名前は、もちろん、ほとんど初めて聞くものばかりだった。
というより、現実感のある話とは入って来なかった。
時代劇というか、映画というか。そういう
「まあ、その感覚は間違っていないね」
竈門家の修羅場から数日後、炭彦はしのぶやカナエ、カナタと共に喫茶店にいた。
カナタとカナエが使っていた、半地下の隠れ家カフェである。
5人掛けの大きなテーブルを囲んで、炭彦達は炭吉の話を聞いていた。
なお当の炭吉は以前にもまして頬がげっそりとしており、疲労の色が濃かった。
これは仕事でも家庭でも
「何しろ、
「え、そうなの?」
「うん」
以前にも述べたが、鬼狩りや鬼殺隊という話は、竈門家と胡蝶家の長男長女にしか伝えられていない。
そしてその方法は、
長男長女たる父親あるいは母親が、自分の子供の第一子に口伝えで教えるのである。
「……そっか」
そこまで聞いて、炭彦はようやく得心がいった。
カナタがどうして頑なに自分に話そうとしなかったのか、わかった気がしたからだ。
そして、恥ずかしくなった。
自分は、カナタが、父と自分の板挟みになっていたことにも気が付いていなかったのだ。
そのカナタは、自分と目を合わせようとはしていなかった。
「以前は……と言っても、もう何十年も前だけれど。他にもいくつか、伝えている家はあったよ。でも、時代なんだろうね。今ではほとんどなくなってしまった」
口伝の内容も、随分と
竈門家や胡蝶家でさえ、今では「昔は鬼がいて、鬼殺隊という集団が討伐していた。自分達はその末裔だ」という言葉が伝わっているだけだ。
そして、先祖代々残された
「宿題……?」
「うん」
その時の父の瞳には、その奥に、不思議な光が
「ある鬼を、討伐すること」
「討伐……」
討伐。穏やかではない響きだ。
それが意味するところがわからない程、炭彦も鈍くは無かった。
鬼を討伐する。
つまり、
「それは、誰のことですか?」
そう聞いたのは、しのぶだった。
ここで聞けてしまうというのが、しのぶという少女だった。
「うん」
それに対して微笑みながら、炭吉は言った。
◆ ◆ ◆
二段ベッドの天井を、じっと見つめていた。
思い返していたのは、父の話だった。
何となく、その後は会話も無かった。
『鬼殺隊の最後の討伐対象。その名は、
そう聞いた時、不思議と驚かなかった。
どうしてか、その名前が出るだろうとわかっていた気がする。
胸にストンと落ちて来たような、奇妙な納得感さえあった。
「カナタ、起きてる?」
天井に向かって、ぽつりと呟いた。
起きていたとしても、聞こえるかどうかわからない。小さな声だ。
話しかけたかったというより、声をかけてみたかった、という方が正しい。
そして実際、返事は無かった。
むしろ返事がなくて、ほっと息を吐いた。
聞かれていないと
だから、炭彦はそのまま言葉を続けた。
「ねえ、カナタ。ごめんね。いつも迷惑をかけて」
いつも、そうだった。
寝坊助な自分に、カナタはいつも声をかけてくれた。
表情が薄く、言葉も少ない。
なまじ容姿が整っているから、初対面の人間は誤解しがちだけれど。
カナタはとても、面倒見が良いのだ。
家族にも友人にも、いつも心を砕いているのだ。
それを良く知っていたから、距離を取られても「悲しい」と思うだけで、怒りは覚えなかった。
まあ、それは炭彦が怒りを
「それでも、僕はね」
それなのに、自分はいつも、カナタの望む通りには出来ない。
甘えだとわかっていても、カナタならと思ってしまう。
カナタならきっと、わかってはくれなくても、尊重してくれるとわかっているから。
「瑠衣さんが悪い人だとは、思えないんだあ」
瑠衣が普通の人間ではないことは、実はわかっていた。
わかっていて、気にしないようにしていただけだ。
少しでも一緒にいたいと、思っていたからだ。
そして、こうして事実を突きつけられても、気持ちは変わらなかった。
気になっていたのは、別のことだ。
自分はそうやって瑠衣の傍にいたけれど。
瑠衣の方は、どういう考えで自分と一緒にいてくれたのだろう。
そう、思わずにはいられなかった。
「…………」
そしてこの時、カナタは起きていた。
もちろん、炭彦の声も彼の耳に届いていた。
起きていて、そして何も言わず、身じろぎもせず、そうしていた。
何も、言わなかった。いや。
――――言えなかった。
◆ ◆ ◆
「
そして、確かに、と彼女は繰り返した。
煌びやかでありながら、シックな造りの
そのカウンターを独占して店の酒に手をつけていた彼女は、店に入って来た面々を見て、呆れたような顔をした。
というか、呆れていた。
「確かに、私は言ったわよ。次はお店で会いましょうって」
あの、珠世クリニック前のお茶会の場で。
別れ際に、確かにそういうことを言った。
「でもねえ、本当に来るとは思わないじゃないの」
「いやあ。せっかくのお招きだったもので」
「安くないわよ。うちの店」
うっ、と言葉に詰まる相手にクスリと笑って、彼女――禊はカウンターから立ち上がった。
そして綺麗に背筋を伸ばすと、ドレスの端をつまみ、僅かに頭の位置を下げた。
所作は完璧。容姿は美の一言。それでいて、纏う空気はどこか妖しい。
まとめて、妖艶。
妖艶という言葉の化身とも言うべき女が、目の前に立っていた。
「
来店客――炭吉の名誉のために言っておこう。
彼は妖艶かつ煽情的な禊の姿を見ても、ぴくりとも反応しなかった。
妻に対して、何ら恥じ入るところは無い。あえてそう断言しよう。
しかし、炭吉に同行している人間はそうでは無かった。
何しろ、こちらはまだ
この手の店に入るのも初めてのことで、場慣れもしていない。
それがいきなり最上級の
「って」
もっとも、顔を赤くしていたのは炭彦だけだったが。
カナタは――女性に非常に人気がある――もとより、女性で、自らも美人の部類に入るカナエとしのぶも、禊を前にして照れるということは無かった。
むしろ、しのぶなどは「姉さんの方が美人ですけど。何か?」という態度を隠そうともしていなかった。
そういう態度に対して、禊は片眉を上げた。
「その
「え?」
「こっちの話よ。気にしないで」
綺麗な顔でそう言って、禊は腰に手を当てた。
そして、改めて来店した面々を見つめて。
再び呆れた顔をして、言った。
「というか、子どもを連れてくるんじゃないわよ。無いの、常識」
このドがつく程の正論に対して、炭吉はぐうの音も出なかったという。
最後までお読みいただきありがとうございます。
PCが急にアップデートが始まって困りました。
投稿をもっと早くできるようにしないとですね~。
それでは、また次回。