鬼滅の刃―鬼眼の少女―   作:竜華零

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4月4日に肆の話を終わらせておきたかった。


第7話:「炎の呼吸」

 ――――斬った。

 4体目の頚を斬った。

 他の3体も頚を繋げていない。新たな分裂もしない。

 ぜひゅっ、と、瑠衣の口から大きな呼気が漏れた。

 

(で、できた……できた……ご先祖さま……)

 

 身体の負傷もそうだが、何より心肺が軋みを上げていた。

 全力疾走した時に起こる、口から心臓が飛び出しそうな程の脈動。

 視界が暗く狭まり、身体が酸素を求めているのに、肺が受け付けてくれない苦悶の感覚。

 足取りは情けなく、まさにたたらを踏んでいた。

 

「か……っ。……っ」

 

 目の前の獪岳に話しかけようと思ったが、声が出なかった。

 身体が「何もするな」と言っていて、ともすれば全集中の呼吸が途切れてしまいそうだ。

 正直なところ、ここまで消耗したのは初めての経験だった。

 だがそれも良い。

 鬼さえ、鬼の頚さえ斬れているのであれば、他のことはもはやどうでもよかった。

 

「……?」

 

 そこで、瑠衣は気付いた。

 狭窄(きょうさく)する視界の中で、獪岳の顔を見た。

 笑っていない。

 いや、獪岳の笑顔など見たことはないが、とにかく緊張した表情だった。

 どうしてそんな顔をするのかと、思った次の瞬間だった。

 

 

 背中が、焼かれたように熱くなった。

 

 

 次いで、口から何かが噴き出した。

 唇の端から溢れたそれは、ボタボタと音を立てて瑠衣の胸元を濡らし、足元に滴り落ちていった。

 何かが、背中の肉を裂いて掴んでいる。

 瞳を震わせながら、瑠衣は後ろへと視線を向けた。

 

「カカカ――――やはり喜ばしいのう」

 

 空喜だった。

 当然のように、頸が再生している。

 分裂はしていない様子だが、それはこの際、何の慰めにもならない。

 空喜の足の爪が、瑠衣の背中に深々と突き刺さっていた。

 

「肉を抉り取る感触は」

 

 ()()()()と音を立てて、爪が離れていく。

 2歩、いや3歩、瑠衣は歩いた。

 足元で、水をぶちまけたような音がした。

 それに比例して、身体が冷えていくような心地があった。

 人間の肉体から、漏れ出てはいけない何かが流れ出ていく感触。

 

「あ、あ」

 

 呼吸を、と、瑠衣は思った。

 全集中の呼吸を維持しなければと、それだけを思った。

 しかし、いくら努力しても、呼吸は続かなかった。

 駄目だ。眠るな。目を閉じるなと、自分自身に命じる。

 自分自身に命じて、そして――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 俯いた瑠衣の顔がどうなっているのか、獪岳にはわからなかった。

 というより、余裕がない、と言った方が正しい。

 

「何じゃ、立ったまま逝ったかのか?」

 

 上弦の肆の4体が、全て頚を繋げていた。

 日輪刀がカタカタと震えていて何だと思ったが、何のことはなく、獪岳自身が震えているのだった。

 気づいてしまうと、震えは全身に広がっていった。

 どうすることも出来ない恐怖が、獪岳を覆い尽くしていた。

 

 瑠衣は、立ったまま動かない。

 柚羽達も、今度ばかりは起き上がってくる気配がなかった。

 ひとりきり。

 誰かを頼るということをしない獪岳も、その事実にぞっとした。

 

(クソが……っ)

 

 何に対してか、獪岳は胸中で悪態を吐いた。

 瑠衣に対してか、あるいは上弦の肆に対してか。

 それとも、もっと他の何かに対してなのか。

 

「目障りなやつ。哀絶、さっさと頭を潰してしまえ。苛々する!」

「いちいち怒鳴るな、哀しくなる」

 

 哀絶が十文字槍を振るっている。

 あれで瑠衣の――まだ生きているらしいが、気絶しているのか、ピクリとも動かない――頭を殴り潰してしまおうと言うのであろう。

 そして獪岳は、次は自分の番だと言うことを明確に理解していた。

 

(く……!)

 

 戦っても勝てない。というより、倒し方の見当もつかない。

 そして、逃げられるはずもない。

 一方で勝てもしない相手に挑む程、愚直にもなれない。

 死にたくない。

 どんなに無様を晒したとしても、命あっての物種(ものだね)なのだ。

 

「た……」

 

 だから、そう、()()は恥ではない。

 決して、恥ずべき行為などではないのだ。

 獪岳は、そう自分に言い聞かせた。

 

「助けて……ください……!」

 

 刀を投げ出して、その場に跪く。

 土下座。命乞い。降伏の姿勢である。

 鬼殺隊士が狩るべき鬼に赦しを乞う。あってはならないことだった。

 上弦の肆の笑い声が聞こえる。

 

「何じゃ? 何じゃ、お前? 面白いのう、ええ?」

「哀しい程に無様だ……」

 

 何とでも言え、と、獪岳は思った。

 地面に何度も頭を擦り付けながら、額から血を流す程に頭を下げ続けながら、生き残る最後の可能性に懸けた。

 死んでしまったら何にもならない。それは獪岳にとって信念に近い。

 

 ちら、と、立ったまま動かぬ瑠衣を見た。

 自分は、あいつとは違う。

 瑠衣とは鬼殺の()()()()が違う。

 生き残るのだ。何としても――――……!

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――暗い。

 冷たい。

 そんな場所に、瑠衣はいた。

 その闇は果てなどないかのように広がっていて、どこまでも続いていた。

 

 とても、寒い。凍えそうだ。

 ざばっ、と音がするのは、腰のあたりまで水に漬かっているためだ。

 他には、何もない。何も見えなかった。

 どこへ向かえば良いのかも、わからない程に。

 

(……どこへ行けば、良いの……)

 

 瑠衣は、途方に暮れてしまっていた。

 どこかへ向かわなければならなかった。

 それなのに、向かうべき先がわからなかった。

 それに酷く疲れていて、足が鉛のように重かった。

 

 いつの間にか、身体が子供のように小さくなっていた。

 衣服も身に着けていない。

 裸身のまま、冷たい水の中に身体を浸している。

 いつしか瑠衣は、目を閉じてしまっていた。 

 

(眠ろう、もう……)

 

 眠ってしまおう、と、そう思った。

 そうすれば、もう寒くも苦しくもない。

 だから。

 

「……い……」

 

 だからもう、考えるのはやめよう、と。

 

「……さい……」

 

 そう、思った時だった。

 声が、聞こえた。

 どこか、聞き覚えのあるような気がした。

 誰の声だっただろうかと、そんなことを考えた時。

 

 

「起きなさい、瑠衣」

 

 

 その声が余りにも厳しくて、反射的に顔を上げた。

 すると水面に立つ形で、つまり瑠衣が見上げる位置に、1人の女性が立っていた。

 着物を着た、瑠衣と同じように前髪を肩の前に垂らした女性。

 その女性を、瑠衣は良く知っていた。

 

「母様」

 

 煉獄瑠火(るか)。母だった。すでに故人である。

 ならば、ここはあの世なのだろうか。

 不思議と恐れはなく、安らぎのようなものすら感じる。

 だが、母の声は厳しかった。

 

「瑠衣」

 

 そうだった。母は――もちろん、父もだが――昔から、厳しかった。

 甘えというものを、簡単に許そうとはしない人だった。

 そうだ。母は決まって瑠衣にこう語った。

 

「貴女は何故、煉獄家に生を受けたかわかりますか」

 

 鬼狩りの名門、煉獄家。

 そこに生を受けた者は、すべからく1つの使命を負う。

 弱くても良い、不甲斐なさ情けなさに打ちのめされてしまっても良い。

 ただ、使命だけは忘れてはならない。

 

 歯を食いしばれ。

 歩け。

 前に、一歩――いや、半歩でも前に。

 熱い。炎の血を持って進め。

 

「瑠衣」

 

 そう。

 

「起きなさい。起きて、為すべきことを為すのです」

 

 それが。

 

「煉獄瑠衣」

 

 ――――心を、燃やせ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ……何の音だ?

 獪岳はそう思った。

 跪いた体勢のままである。

 

(何だ……?)

 

 耳に集中すると、その音の出所がわかった。

 

(あいつ、生きて……!?)

 

 瑠衣だった。

 いつの間にか唇が薄く開いていて、音はそこから来ている。

 呻き声ではない、それは呼吸音だった。

 だがそれは、今までの瑠衣の呼吸とは明らかに違う。

 

 上弦の肆も、気付いたようだった。

 これまでの、まさに風切り音のような鋭さと繊細さを感じさせる呼吸とは違う。

 より力強く、激しく、それでいて。

 何よりも、()()

 

「カカッ、何じゃ小娘。まだ生」

 

 全集中。

 

「きて?」

 

 獪岳が瞬きをした直後、瑠衣の姿は空喜の後ろにあった。

 そして、空喜の頚が落ちていた。

 何が起こったのか、獪岳には見ることも出来なかった。

 

 しかし瞬きをしない鬼には見えていた。

 瑠衣が瞬きの間に空喜に迫り、袈裟切りに空喜の頚を斬り落としたのだ。

 凄まじい踏み込みの速度だった。

 あの縦横無尽に駆け回る脚力の全てを、たった一歩の踏み込みに込めたかのようだ。

 

(か、風じゃねえ……!)

 

 瑠衣はもう、走らない。

 今の斬撃も、速度による攪乱というよりは両腕と腰の力で斬り落とすような斬り方だった。

 戦い方が変わった。いや、()()()と言った方が正しい。

 むしろ瑠衣の身体に染み付いているのは、この剣技であり、この呼吸なのだから。

 これぞ……。

 

「何をやっている空喜。儂がとどめを……」

 

 これぞ、()()()()

 

「む……!」

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火(しらぬい)』。

 踏み込み、そして上体ごと逸らしての袈裟切り。

 一歩を踏み出した哀絶の虚をつく一撃、咄嗟に槍を立てなければ頚を斬られていただろう。

 

「ハハッ、楽しそうじゃのう。儂も混ぜてくれ!」

 

 ――――炎の呼吸・弐ノ型『(のぼ)炎天(えんてん)』。

 可楽が団扇を振り上げたその瞬間、瑠衣の刀が閃いた。

 斬り上げの一撃は、団扇を持った可楽の片腕を肘から縦に斬り裂いてしまった。

 団扇も例外ではなく、縦に真っ二つに切断されていた。

 

 耳に聞こえる程の歯ぎしりをしたのは、積怒だった。

 どいつもこいつも何をやっているのかと、憤激していた。

 その怒りのままに、錫杖を掲げる。

 雷を放った。

 今まで誰も防ぎ得なかった雷撃が、瑠衣に襲い掛かる。

 

「何ィ……!」

 

 ――――炎の呼吸・肆ノ型『盛炎(せいえん)のうねり』。

 後方に跳び、同時に日輪刀を円の形に薙いだ。

 剣圧の壁が、雷撃を打ち払う。

 刀と雷が打ち合う歪な音が、その場に響き渡った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 もちろん、全てを防ぎ切れたわけではなかった。

 積怒の雷撃は、確実に瑠衣を削っている。

 だが雷撃による負傷以上に問題なのは、呼吸だった。

 

(肺が……()い……!)

 

 久しぶりに使ったというのもある。

 しかし何よりも深刻なのは、()()()()()ということだった。

 瑠衣の身体は、炎の呼吸に向いていない。だから日輪刀は赤色ではないのだ。

 何よりも慣れ親しんだ呼吸なのに、身体がついてきてくれない。

 

 歯痒かった。悔しくて堪らなかった。

 意識が蘇った直後、無意識に身体が選ぶ程に身に着けた呼吸だというのに。

 自分では、父や兄のようにはなれない。

 だが、それでも。

 

「しつこいぞ、小娘。いくら頚を斬ったところで、儂には勝てぬ」

 

 諦めることだけは、出来ない。

 

「……だから、何だ」

 

 頚を斬っても死なないから、何だというのか。

 それは、困難の証明に過ぎない。

 諦めていい理由にはならない。

 

「私は、お前達の頚を斬る! 必ず斬る!」

 

 日輪刀を両手で持ち、振り上げる。

 峰を肩に当てて、両足を広げる。

 幼い頃から何度も見て来たその構えは、やはり自然に出て来た。

 心肺が熱い、焼けるように。

 

「私は……私は、鬼狩りの一族、煉獄家の娘だ! 鬼になんか、お前になんか、絶対に屈さない!」

 

 もし鬼に屈してしまったら、それこそ煉獄の先祖達に顔向けできない。

 父も、祖父も、そのまた父祖も、鬼狩りとして生き、そして死んでいった。

 戦国時代から幾百年、一度たりとも鬼に屈さなかった人間達。

 彼ら彼女らが、鬼に屈する自分を、許してはくれない。

 

 戦え、と。

 煉獄家の者として恥を残すなと、瑠衣に語りかけてくれる。

 嗚呼、と、事ここに及んで瑠衣は思った。

 先祖代々――そう、一族というものは本当に、何と有難いものなのだろう。

 こんな時に自分を支えてくれる。安心して戦うことができる、と。

 

「私は、私の使命を果たす! 覚悟するのは、お前達の方だ……!」

 

 たとえ、たとえ自分が敗れてしまったとしても。

 死んでしまったとしても。

 父が、兄が、そして弟がいる。煉獄の、鬼狩りの血は絶えない。

 後を託せる誰かがいる。仇を討ってくれる誰かがいる。

 ――――何と。

 

「炎の呼吸……伍ノ型……!」

 

 何と、幸福なことか!

 

「……炎……虎……ッ!」

 

 燃え立つ闘気。

 虎の一撃。

 上弦の肆に向けて、瑠衣はまさしくの渾身の力を振り絞った。

 大上段から振り下ろされた日輪刀が、哀絶が防御に掲げた槍に衝突した。

 

 それは鬼の腕力すらねじ伏せて、槍の防御を押し下げて刃を肩にまで届かせる。

 衝撃で、地面が割れるのが見えた。

 槍に添わせるように刀を横滑りさせて、頸を狙った。

 哀絶が身を引いて刃をかわすと、勢いに逆らわずに横薙ぎに回転した。

 

「……ッ」

 

 足が滑る。踏ん張りが効かない。気力では体力は回復しない。

 頚を再生させた空喜が高速で飛来し、ギリギリで刀で受けた。

 しかし衝撃で仰向けに倒されてしまって、瑠衣はやはり勢いに逆らわずに自分で転がった。

 一瞬前に顔があったところに、積怒の錫杖が突き刺さるのが見えた。

 そして、雷撃に打たれる。

 

「死ね」

 

 吹き飛ばされて、地面を何度も跳ねた。

 それでも膝をついて起き上がったところへ、哀絶の槍が来た。

 血鬼術によって放たれた無数の突き。起き上がりの体勢では回避は不可能だった。

 諦めるなと、自分を鼓舞した。

 

(無様に死ぬな)

 

 一瞬、全ての時間が止まったような錯覚の中で。

 

()()()()()……!)

 

 ――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎(えんこ)』。

 瑠衣が刀を振ろうとしたその瞬間、横から、先程の瑠衣が放ったものと同じ技が、しかしそれ以上の威力でもって哀絶を襲った。

 実際にあるわけではないのに、肌が、熱風に煽られた気がした。

 

「よくやった、瑠衣」

 

 大きな背中が、視界一杯に広がった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その背中を、瑠衣は良く知っていた。

 黒い隊服に、燃えるような髪色。

 そして、赤い日輪刀。

 

「遅くなってすまない!」

「……兄様」

 

 杏寿郎だった。

 僅かだが額に汗の痕が見えて、それに瑠衣は泣きそうになった。

 あの怪物級の体力を持つ兄が、汗を流してまで駆けつけてくれた。

 それが瑠衣には何よりも嬉しく、頼もしく思えたのだ。

 

 情けないやつだと、そう思う。

 つい今しがた死まで覚悟したというのに、杏寿郎の顔を見ただけで緊張の糸が切れてしまったのか、全身が脱力してしまった。

 刀を手放さなかったのは、せめてもの矜持だろうか。

 

「何じゃ、お前は。蟻のように湧いて出おって、苛立たしい」

 

 いきなり横から登場した杏寿郎に、積怒は不快そうな顔を向けていた。

 そして、そんな積怒に対して顔を向けた杏寿郎の顔に、瑠衣は息を呑んだ。

 杏寿郎が、真顔で積怒のことを見ていたからだ。

 あの常に快活な表情を浮かべている兄が、鬼の前ではこんな顔をするのかと思った。

 

「後は任せろ」

 

 それだけ言って、杏寿郎が無造作に足を進めた。

 兄様、と何とか声を上げた。

 

「そいつらは、頸を斬っても死にません! 気を付けて!」

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 迅い。力強い踏み込みからの突進、一瞬にして積怒の懐に飛び込んでいた。

 袈裟切りの後、即座に切り返しての2撃目。

 積怒の腕が、錫杖を持ったまま宙を舞っていた。

 

「カカカッ、素早いやつ! あの小娘より楽しめそうじゃ!」

「面白がるな。面倒が増えて哀しいだけだ……」

 

 そこへ、空喜と哀絶が襲いかかった。

 杏寿郎は哀絶の槍をいなし、空喜の翼を打って距離を取った。

 

(なるほど、厄介だ)

 

 そしてそれだけで、杏寿郎は上弦の肆の術を概ね見切っていた。

 4体がそれぞれに個別の能力を持っていること、再生が極めて速いこと。

 頚を落としても死なないという、妹の情報。

 そこから導き出される答え。

 

 積怒が錫杖を振るい、雷撃を放った。

 この雷は哀絶達には効かない。故に雷撃の最中、彼らは自由に動けるということだ。

 空喜が、妹の方へ行くのが見えた。

 彼女にはもう戦う力が残っていない。杏寿郎は跳んだ。

 

「カカッ、そう来ると思ったわ!」

 

 直後、空喜が縦に回転した。

 杏寿郎の眼前に足の爪が走り、前髪が数本散った。

 背後に哀絶が迫っているのも見えて、杏寿郎は剣技を放とうとした。

 その時だった。

 

「下がっていろ、煉獄」

 

 ――――蛇の呼吸・弐ノ型『狭頭(きょうず)の毒牙』。

 杏寿郎と鬼の間を縫うようにして、縦縞の羽織が舞った。

 彼は不思議な足運びと共に刀を振るい、哀絶に背後から斬りかかった。

 流石に哀絶はその奇襲にも反応したが、防御に突き出した槍に刀は触れなかった。

 

 斬撃が、()()()()と曲がったのだ。

 呼吸を表すように、蛇のような、うねり曲がる斬撃。

 ()が扱う日輪刀も、蛇の形を模したわけでもないだろうが、刃がうねる特殊なものだった。

 哀絶が、斬りつけられた頚を押さえながら飛び退いた。

 

「相手が上弦ならば、柱である俺が出張るのが筋だろう。お前は妹の面倒でも見ていろ」

 

 伊黒小芭内。蛇柱。

 自ら志願して杏寿郎に同行した、鬼殺隊の最高戦力の1人。

 柱が志願するというのはよほどの事態だが、結果的には、その()()()の事態に相応しい人選と言えた。

 

「ふん……」

 

 ちら、と瑠衣にも視線を向けて来た。

 居住まいを正す瑠衣だったが、伊黒は特に何も言わなかった。

 それから、積怒を睨んだ。

 伊黒の首元で、蛇の鏑丸がちろちろと舌を出して頭を上げていた。

 

「次から次へと……柱だと? それがどうした、儂の前では大して変わらぬ。今まで何人も喰ってきたわ」

 

 だが、伊黒はそんな積怒の言葉には全く反応を示さなかった。

 シューシューと鳴く鏑丸に視線を落として、ただ一言。

 

()()()()()()

 

 とだけ、言った。

 効果は覿面(てきめん)だった。

 それまで何をしても何を言っても反応しなかった上弦の肆だが、その伊黒の言葉には反応した。

 4体全員が、笑みを消して伊黒を見たのだ。

 肌がヒリつく程の殺気が、その場に充満した。

 

 ――――そして、光が射し込んだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 いつの間にか空が白んでおり、山の向こうから蒼天の気配が近付いて来ていた。

 夜明けが近いことの証左だった。

 太陽の光は、いかなる鬼であろうと共通の弱点だ。

 

「……!」

 

 夜明けを察知した4体の上弦の肆の反応は、素早かった。

 積怒が錫杖を振り下ろし、地面を打ったのだ。

 雷が四方に走り、土煙があたりを覆い尽くした。

 風圧に身体が吹き飛ばされるそうになり、瑠衣は地面に伏せた。

 

 先程まで充満していた鬼気が、殺気が、急速に薄れていくのを感じた。

 鬼が、去っていくのだ。

 その証拠に、どこからともなく積怒の声が響き渡る。

 

「口惜しい。腹立たしい。よもや、儂が獲物を仕留め損ねるとは」

 

 舌打ち混じりの声に、肌を刺すような敵意を感じた。

 

「夜毎に儂を思い出すが良い。もし次に会うことがあったなら……その時は必ず……骨の欠片1つ残さず……喰って……やる……ぞ……」

 

 ゆめ忘れるな、という言葉を最後に、鬼の気配は消えた。

 そして朝日が昇り、本格的に陽光が射し込む頃、土煙も晴れた。

 上弦の肆の姿は、影も形も残っていなかった。

 

「た、助かった……のか」

 

 はあっ、と大きな息を吐いて、獪岳がその場に蹲るのが見えた。

 それを横目に、瑠衣もまた大きく息を吐いた。

 助かった。

 確かに、そうだと思った。

 

 言葉通りとしか、言いようがなかった。

 瑠衣は助かったのだ。命が、助かった。

 身体も至るところが怪我をしているが、五体満足だった。

 手足の一本や二本、失っていても少しもおかしくなかった。

 むしろ、そうならなかったのが不思議なくらいだ。

 

「あ……え?」

 

 息を吐いて視線が下がると、日輪刀を握る自分の手が見えた。

 感覚がなくなる程に強く握っていたため、肌が白くなる程だった。

 日輪刀からぎこちなく手を放した時、()()が来た。

 

「わ、え、え」

 

 ()()()

 手が震え出して止まらなかった。

 いや、手だけでなく、身体全体が震えて止まらなかった。

 冷たい汗が止まらなくなり、呼吸の間隔が短くなり、視界がチカチカと光り始める。

 

 止まれ。

 吐き気さえ感じる中、己の身体を抱きしめて「止まれ」と念じた。

 止まれ、止まれ、止まれ――――……止まらなかった。

 歯がカチカチと音さえ立て始めて、瑠衣は混乱の極みにあった。

 

(ちょ、いやいや。いや、え……ええ?)

 

 初めての経験だった。

 訓練でも実戦でも、今までこんな風になったことはなかった。

 これは不味い。非常に不味かった。

 何が不味いかと言えば、こんな様を見られるわけにはいかないのだ。

 

(止まれ、止まれ……止まれ……!)

 

 ぎゅう、と力を込めて、自分自身を掻き抱いた。

 その時だ。

 とん、と、額に何かが触れた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 杏寿郎が、瑠衣の前にしゃがみ込んでいた。

 右手人差し指が、瑠衣の額の中央に当てられていた。

 燃えるような瞳が、瑠衣を見つめていた。

 

「落ち着け、瑠衣」

 

 ああ、と、思い出した。

 全集中の呼吸の訓練を始めた当初は、こうして兄に()()をしてもらっていたことを。

 指を当てられた1点に意識が行くので、集中しやすくなるのだ。

 炎の呼吸を使うからというわけではないだろうが、体温が高めなのも良いのかもしれない。

 ほんの指一本のことなのに、温かく、安心する。

 

「集中」

 

 目を閉じて、深く呼吸を続けた。

 次第に浮つくような感覚は消えていき、それに伴って震えもなくなっていった。

 感じていたのは、額のぬくもりだけだ。

 次に目を開いた時には、汗も引いていた。

 

「よし、出来たな」

 

 目を開けた瞬間に兄の明るい笑顔があって、少し面食らってしまった。

 そして、それに苦笑して見せる余裕も戻っていた。

 額から杏寿郎の指先が離れた時、寂しさのものを感じてしまって、それは慌てて打ち消した。

 精神面まで幼少期に戻るわけにはいかない。

 

 自分のことが落ち着くと、ようやく周りを見る余裕が生まれた。

 獪岳は蹲ったままだが、柚羽達は無事だろうか。

 とどめは刺されていなかったはずだが、酷い怪我をしているかもしれない。

 

「安心しろ、全員無事だ! 怪我はそれなりにしているが、命に別状はないだろう!」

 

 先に杏寿郎に答えを言われてしまった。

 そして、ふわり、と肩に兄の隊服をかけられた。

 そう言えば、まだそのままの格好だった。

 

「お前はよく戦った!」

 

 くしゃ、と頭に手を置かれて、ぐりぐりと動かされた。

 撫でるというには、少し乱暴だ。

 しかしそれが、どうしようもなく嬉しかった。

 

「だが、半裸で戦うのは流石にどうかと思うぞ!」

「……うぐ」

 

 そしてそんな様子を見て、密かに胸を撫で下ろしている者がいた。

 獪岳だ。彼は蹲りながら、瑠衣達の会話に注意深く耳を傍立てていた。

 しかし危惧していたようなことを、瑠衣は言わなかった。

 やはり気を失っていたのか、と、安堵の吐息を漏らした。

 

「おい、お前は怪我はしていないのか」

「あ……はい、大丈夫です。すみません」

「…………そうか」

 

 伊黒の絡みつくような視線に、獪岳はしまったと思った。

 ほとんど反射的に、顔を伏せた。

 身体が辛かったのは本当で、そうしていても不自然ではない。

 しかし、伊黒の視線の温度は変わらなかった。

 

「……煉獄、いつまでそうしている。他の怪我人を早く……」

 

 伊黒が視線を外した後も、獪岳はその場に蹲り、顔を伏せていた。

 その時、彼がどんな表情を浮かべていたか。

 それは、神のみぞ知ることだった。

 ――――獪岳自身を、除いては。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()

 琵琶の音色の響くその場所は、不思議な場所だった。

 無数の戸、窓、回廊、階段が幾重にも重なり、どこが床でどれが壁なのかも判然としない。

 逆さまのようでもあり、横向きのようでもある。

 

 およそこの世の法則を無視したかのような、無秩序で、整然とした、矛盾だらけの空間。

 その中心に、長い黒髪を方々に垂らした奇妙な女がいた。

 前髪が顔の半分以上を覆っているため、表情を読むことは出来ない。

 時折、手に持った琵琶を「べべべんっ」と奏でている。

 

「――――下弦の鬼は解体する」

 

 そして、女がもう1人いた。黒髪を髪飾りで結い上げた、黒い着物の女。

 白面の、この世のものとは思えない程の美貌を備えた女だった。

 切れ長の瞳にすっと整った目鼻立ち。

 それでいて女性特有の柔らかさはなく、むしろ迫力さえ感じる。

 その眼光は、何もかもを見下しているかのように冷然としていた。

 

「…………」

 

 ()()の周囲は、血に塗れていた。

 彼女が立つヒノキの床には、赤い塗料でもぶちまけたかのような血溜まりがいくつも出来ていた。

 不思議なのは、その血の主の姿が()()()()()()()()ことだった。

 最初からそんな存在はいなかったかのように、何もない。

 

「……『半天狗』め……」

 

 どこか明後日の方向を向きながら、彼女は呟きを発した。

 低い声だった。まるで男のような声だ。

 静かで、耳にするだけで平伏してしまいそうな、えも言えぬ威圧感を感じる声だった。

 とても、見た目通りの年若い女性とは思えない――――と、言うより。

 

 彼女は、()()()()()()

 

 というより、もはや性別そのものに意味がない、と言った方が正しいだろうか。

 声は確かに男性のそれで、どちらかと言えば男性に寄っていると言えるだろう。

 ただそれは、単に「最初がそうだった」という程度の意味しかないのかもしれない。

 いずれにせよ、言えることはただ1つだ。

 

「……まあ、良い。それよりも……」

 

 彼女()が、そういった人の理を超越した存在である、ということだけだ。

 

「最期に何か言い残すことはあるか?」

 

 眼前に平伏する者を見下ろしながら、言う。

 相手は、その声をまるで天上から落ちてくる神の言葉か何かのように仰ぎ見るのだ。

 それはまさしく、両者の関係を表していると言えた。

 そして。

 

「下弦の壱」

 

 ――――()()()




最後までお読み頂きありがとうございます。
自宅にいる間の暇潰しにでもなれば幸いです。

妹候補その②「甘露寺茉莉(まつり)」
恋柱・甘露寺蜜璃の実妹。甘露寺家の次女。得意料理は桜餅。
呼吸は炎。本当は恋の呼吸を習得したかったが身体が硬くて無理だった。
具体的には長座体前屈測定で30センチを超えない。
姉が大好きで、姉が満足するまで料理を作り続ける。
鬼よりも食材を切ることの方が多いことから「炎の料理人」の二つ名で知られる。
炎の剣技で作られる料理は某炭焼き小屋の息子からも「火加減ばっちり」と評判。

実は瑠衣の前はこの子が主人公になる予定だった。そのため色々と共通点が多い。
強いて違いを上げるとすれば瑠衣の方が柔軟で、茉莉の方が色々と「柔らかい」。

採用されなかった理由…竜華零に料理の知識が乏しいから。

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