――――青天の霹靂とは、まさにこのことだろうか。
その日、竈門家に衝撃が走った。
そしてその騒動の中心にいたのは、またしても炭彦だった。
「まあまあまあまあ!」
と、頬に手を当てて母親が叫ぶのを炭彦は聞いた。
怒っている、わけではない。
驚きはあるが、その声音はどこか「憧れのシチュエーションがやって来た」という僅かな喜びを帯びたものだった。
と言うのも、息子が
正直なところ、彼女はそういうシチュエーションはあり得ないと思い込んでいた。
カナタはモテるが親が心配になるくらいそういうことにドライだったし、炭彦はのんびり屋だから、
そういうことは起こらないと思っていたのだ。
「こ、こんばんは」
ところが、どうだ。
蓋を開けてみれば、家に女の子を連れて来たのは炭彦の方が先だった。
それも、とても綺麗な女の子だった。
まさかこの子がこんな綺麗な子を連れてくるだなんて、と思わずにはいられない。
着物というのが
(うちの子がこんな綺麗な
と、感激してしまったのだった。
まさしく、息子を持った母親の憧れのシチュエーションの1つだった。
そんな場面に出くわすことがあるなんて、と、感激してしまっても無理はないだろう。
「あ、あの、お母さん」
遠慮がちな
そうだった。いつまでも玄関に立たせて良いわけは無かった。
頭の中で今日のお夕飯の内容や、戸棚の中のとっておきのお茶菓子などを思い浮かべて、さあどうしましょうと、考えた時だった。
「ただいま。おや、お客さんかな?」
珍しく、夕飯前に夫――炭吉が帰って来たのだ。
彼は炭彦の連れている女の子の姿にちょっと驚いた様子だったが、すぐに柔和な表情を浮かべて歓迎した。
炭吉がどういう心境でそう言ったかはわからないが、問題は――青天の霹靂といった冒頭の言葉はこの部分に当たる――ここからだった。
「あ」
と、女の子が驚いたような声を上げた。
彼女は炭吉の顔を見ると、口元を手で覆って、思わず、と言った風に言った。
「
その一言で、その場には衝撃が走った。
先程までの柔らかい雰囲気はどこかへ吹き飛び、そして。
修羅場がやって来た。
◆ ◆ ◆
酷い目にあった。
と、炭彦は溜息を吐いた。
「まさか、あんなことになるなんて」
先程までの
それでなくとも、最近は色々なことが起こって大変だった。
少し前までは毎日を昼寝して過ごしていたというのに、大きな変わりようだった。
「ご、ごめんね。私のせいだよね」
炭彦はベランダに出て――避難とも言う――すっかり暗くなった空を見上げていた。
そしてその隣に、
彼女は申し訳なさそうな顔をしていて、そんな顔を見ていると、何故か炭彦は自分の胸が痛むような気がした。
この少女には、悲しい顔をしてほしくない。
どうしてかはわからないが、そう思ってしまうのだった。
この。
「ええと、禰豆子さん……だっけ」
禰豆子という、この少女。
炭彦が名前を呼ぶと、嬉しそうな、それでいて悲しそうな、悲喜がない交ぜになったような顔をした。
「あなたは、炭彦くん」
「あ、うん」
そして自分の名前を呼ばれると、やはり不思議な感情が沸き上がって来る。
高揚とは違う。好意でも、おそらく無い。
非常にモヤモヤとした感覚が胸中に飛来して、どうも落ち着かなかった。
こんな感覚は、今まで感じたことが無い。
「……優しい人達だね。お父さんも、お母さんも、お兄さんも」
ほら、と、炭彦は思った。
そんなことを言いながら、禰豆子の横顔には寂寥の色がある。
胸の中のモヤモヤが、より大きくなった。
自分はどうして、この子を家に連れて来たのだろうか。
今から考えても、自分でも不思議だった。
ただ、何故かそうしないといけないような気持ちになったのだ。
うちに帰ろう、と、そう言いたくなってしまった。
(どうしてだろう。わからない)
ベランダの柵に肘をついて、頬杖をついた。
隣に視線を向けると、禰豆子も同じようにしていた。
こちらの視線に気付いたのか、軽くこちらを向いて、小さく口元を綻ばせて来た。
何だか気恥ずかしくなって、炭彦の方が目を逸らしてしまった。
「……あれ?」
と、視線を階下に向けた時だった。
そこに、人を見つけた。
それ自体は別に不思議ではないが、階下に立ったその人物が、こちらをじっと見上げているのであれば、話は別だろう。
「瑠衣さん?」
しかもそれが、瑠衣となれば、なおさらだった。
◆ ◆ ◆
ビキ、と、嫌な音がした。
それは、炭彦のすぐ隣から――禰豆子の方から、聞こえた。
「え……」
それは、まさしく
それまで穏やかに話をしていた禰豆子が、まるで別人のようになっていた。
肩を怒らせて両腕を浅く広げて、膝を落としていた。
まるで、今すぐに何かに跳びかかろうとする猛獣のように。
「禰豆子さん?」
何よりも、表情だ。
柔らかに綻んだ口元は、裂けたのかと思う程に吊り上がっている。
しかし、笑んでいるわけではない。逆だ。
鋭い――余りにも鋭すぎる――犬歯を剥き出しにして、獣のようにグルグルと唸っている。
先程までとは、明らかに雰囲気が違う。
纏っている空気が、まるで違ってしまっていた。
目の前で起こった余りにも急激な変化に、炭彦はついて行けなかった。
「ど、どうしたの?」
その目は、眼下の瑠衣を睨み据えていた。
階下にいる瑠衣の口元が、動いたのが見えた。
ただ、何と言ったのかを聞き取ることは出来なかった。
代わりに聞こえたのは、地の底から響くような不思議な音。
それでいてその音は、それを聞いた誰もが納得する音だった。
それは、
空腹を訴える、全世界――いや、全生物に共通する、そういう音だった。
「――――」
そして、やはり一瞬だった。
瞬きの間に、ベランダの柵の上に、瑠衣が跳んで来た。
鼻腔を、瑠衣の匂いが掠めた。
「瑠衣さん」
しかも、そこで終わりでは無かった。
瑠衣も、そして禰豆子も、もはや炭彦を見てはいなかった。
お互いを見ていた。
「煉獄瑠衣……!」
「……竈門禰豆子」
どちらも、低い声だった。
とてもではないが、友好的な響きではない。
むしろ逆だ。
だが、マイナスの感情をどれ程に詰め込めば、人はここまで低い声で相手の名を呼べるのだろうか。
炭彦には、わからなかった。
「
耳に、そんな瑠衣の声が届いた。
そして届いた次の瞬間、
いなくなったわけではない。
瑠衣が、身構えた禰豆子に跳びかかったのだ。
「瑠衣さん!?」
禰豆子が、いや2人ともだ、吹っ飛んだ。
2人が、室内へと突っ込んでいく形になった。
◆ ◆ ◆
手を止めた。
手を止めた自分を、禊は冷静に見つめていた。
特に、感慨などは抱かなかった。
それはそうだろう。と、やはり禊は自分でそう思った。
感慨などというものは、自分という人間を形成するものには入っていない。
何故ならば、感慨とは過去を振り返って悦に浸る類の感情だからだ。
禊はけして、過去を振り返りはしない。彼女は常に、
「禊さん。どうかしたんですか?」
店に来ていた青葉が、急に黙った禊に声をかけてきた。
禊はそんな青葉の方に向き直ると、微笑して言った。
「……いいえ。ごめんなさい。それで、何だったかしら?」
「あ、うん。えっと……これ」
そう言って、青葉が小さな箱を差し出して来た。
「
「あ、はい。大したものじゃないんですけど」
店を開けてすぐにやって来た青葉が、妙にもじもじとしていたことには気付いていた。
いったい何を言い出すのだろうと思っていたが、贈り物だとは。
別に、客に贈り物を貰うのは初めてのことではない。
それこそ、吉原にいた時から贈り物には慣れていた。
花魁にでもなれば、上客からの豪華な贈り物など日常茶飯事でさえあった。
ただそれらはほとんどが
それを本気にして惑わされるようでは、遊女としてはやっていけない。
「あ、あんまり高価な物では無いんですけど」
とは、普通は謙遜である。
しかし青い彼岸花の件で無職の青葉の財政事情がけして豊かとは言えないことは、禊にだってわかる。
だから彼の贈り物は、本当に高価な物ではない。
それこそ遊女時代から審美眼を磨いて来た禊には、一目見れば物の大体の価値はわかる。
「青い花の、ブローチ?」
「う、うん。たまたま、お店で見つけて……その、つい」
箱を開けてみると、そこには小さな装飾品があった。
宝石でも、硝子細工でさえも無い。
青葉はもごもごと言い訳のような自己弁護のような言葉を続けているが、要するに、衝動買いしてしまったということだろう。
(まあ、なかなか……可愛いことをするじゃない)
青い花は、青葉が研究していたものだ。
それを象った物を女性に贈る。
それは独占欲というには余りにもささやかで、いじらしいとさえ思えた。
社交辞令でも、マウントでも、下心でも見栄でも無い。
「有難う。とても嬉しいわ」
そう言うと、青葉がぱっと表情を輝かせた。
そんな青葉に対して、禊は微笑んだ。
彼女は、昔から多くの贈り物を受け取って来た。
その多くは、心の籠らない形ばかりのものだった。
だからこそ、本当の贈り物を貰った時、彼女は。
「でも、ごめんなさい。これは受け取れないわ」
「え……」
本当だけは、受け取らない。
それが、遊女としての、あるいは女としての、彼女の矜持だった。
◆ ◆ ◆
爆発。
原因が何であれ、穏やかではない単語だ。
まして普段が平和であればある程、その衝撃は大きなものになる。
「事故現場ってのぁ、ここかァ!」
実弘がパトカーで駆けつけた時、そこにはすでに人だかりが出来ていた。
外に出て来ただけの野次馬か、避難してきた住民なのかは、見ただけでは判然としなかった。
ただ先に到着していた警察や消防がすでに規制線を敷いていて、場の収拾を着けようとしている様子が見て取れた。
「先輩、あそこ!」
「ああ!?」
一緒に来た後輩の声に顔を上げれば、高層マンションのある階層が
破裂と表現するのは、壁面やベランダの柵と言った部位が、明らかに内側からの衝撃で吹き飛ぶ形になっていたからだ。
ただ、1つだけ不自然な点があった。
ガス爆発にせよ何にせよ、爆発には火事が伴うはずだ。
火炎が無かったとしても、
その気配が全くと言って良い程に無いのは、奇妙だった。
「うわあっ!」
「ヒイイッ!」
と、悲鳴が上がった。
爆発によって風穴が開いていたマンションの外壁から、突如、炎が
炎は赤黒く、勢いよく真横に噴き
周囲を
実弘は警察や消防隊員が人々を落ち着かせようとする声を聞きながら、違和感の正体を探ろうとしていた。
「やっぱり燃えてねえ! いったい、どうなってんだあれはァ」
噴き出した炎はしかし、何も燃やしていなかった。
その証拠に、すぐに消失した。そして何かが焼けた臭いもしない。
炎のように見えるが、炎ではない何か。
矛盾するようだが、そうとしか思えなかった。
「す、すみませ~ん……」
その時、遠慮がちな声が聞こえた。
周囲の喧噪に掻き消されて最初は聞こえなかったが、何度目かのそれが、実弘の耳に届いたのだ。
「ちょっと、助けてください~」
顔を上げたまま振り向くと、ぎょっとする光景がそこにあった。
そこには、街灯に服の襟が引っかかってぶら下がっている少年がいた。
そして実弘は、その少年に見覚えがあった。
「お前は、暴走登校少年じゃねえか」
「そのイメージまだ続いてたんですか!?」
炭彦が何故、そんな状態になっているのか。
それを説明するには、時間を少し遡らなければならない。
◆ ◆ ◆
――――いきなりだった。
リビングで寛いでいる時に、外から、少女が絡み合うようにして跳び込んで来た。
それは、まるで絵画のように鮮烈な光景として、カナタの目には映った。
どちらも長い黒髪を揺らし、どちらも黒い着物で、そしてどちらも瞳の虹彩を金色に輝かせていた。
ガラスが散り、リビングの光源に反射してキラキラと煌めく。
そんな中、視界の中でゆっくりと――時間の流れが遅くなったかのようだ――動く2人の姿に、カナタは一瞬、見惚れたのだった。
「危ない!」
その時、父が叫ぶのを聞いた。
次の瞬間に首元に衝撃を感じて、カナタは仰向けに倒れ込むことになった。
そして、衝撃が来た。
「うああ……!?」
まるで、10tトラックが衝突したかのような衝撃だった。
トラックが衝突した時、壁が受ける衝撃とはこのようなものだろう。
自然とそう思ってしまうような、衝撃、としか表現のできないそれ。
家族の団欒の象徴であったダイニングテーブルやソファが、凶器となって吹き飛んで来た。
身を竦めてそれをやり過ごせば、倒れ伏した身体に伝わるのは、振動だった。
床材が、想定外の負荷に軋みを上げている音だった。
「あれ、は」
辛うじて顔を上げると、リビングの中央に、2人の少女はいた。
2人は文字通り、絡み合っていた。
瑠衣の右拳を禰豆子の左手が掴み、逆に禰豆子の右拳を瑠衣が掴んで止める。
そういう形で、瑠衣と禰豆子は向き合っていた。
いったいどれほどの力を込めているのか、カナタに耳にまでメキメキという骨が上げる音が聞こえる。
そして2人の足元は、お互いがお互いを押さえ付ける膂力のせいだろう。カーペットはおろか、床材を抉って足首まで埋まりつつあった。
振動の正体はあれか、と、カナタは思った。
しかもその振動は、どんどん大きく、長くなっているように感じた。
「不味いな」
と、父が呟くのをカナタは聞いた。
自分を、自分と母を押し倒して衝撃から救った炭吉は、今までに見たことがない程に緊張した顔をしていた。
あのぼんやりとした父にこんな顔が出来たのかと、つい場違いな感心をしてしまった。
「カナタ、母さんを頼む」
庇った際に頭を打ったのか、母は気を失っていた。
母を受け取りながら、父さんは、と視線で問いかける。
すると父は一度後ろを振り向き、それから何かを言おうと口を開きかけて。
しかしすぐにまた後ろを振り向いた。
「……行け!」
自分を突き飛ばした父の、その向こう側で。
2人の少女の身体から湯気のような煙が上がり、熱で視界が歪んでいた。
肌が、熱波のような空気を感じた次の瞬間。
凄まじい爆発が、カナタの全身に襲い掛かってきた。
◆ ◆ ◆
瑠衣と禰豆子がガラス戸を突き破って家に入った直後、炭彦はベランダからすぐに動くことが出来なかった。
面食らった、と言った方が正しい。
何が起こったのかの理解が追い付かずに、止まってしまったのだ。
そうしている間に、爆発が起こった。
爆風に呷られる形で、高層マンションのベランダから放り出される形になった。
流石の炭彦も、死の一文字が脳裏を掠めた。
実際、全集中の呼吸を体得していなければ、そのまま地面に落下して死んでいただろう。
「わ、わっ……ぐえっ」
何度か壁を蹴って勢いを殺し、街灯に上手くしがみつき、しかし勢い余って襟が引っかかった。
無傷で済んだのは、まさに奇跡だった。
そうして実弘に助けを求めて、今に至るわけである。
「大丈夫か?」
「は、はい。何とか……」
「いや、普通あの高さで落ちたら大丈夫じゃないんだよなあ」
炭彦の話を聞いた実弘の後輩は、ぞっとした顔をしていた。
ただ犬人間事件に関わったことのある実弘は、相変わらずヤバイ奴とは思いつつも、今さら驚くようなことは無かった。
「それで、何があったァ」
実弘がそう聞くと、炭彦は口籠った。
瑠衣や禰豆子のことを話すことも
何しろ、爆発物があったわけではない。
犬人間を知る実弘なら理解してくれそうな気もするが……。
「……あ!」
「あ、おい!」
声を上げて、炭彦は駆け出した。
実弘との会話を切り上げたかったのもあるが、マンションの正門から消防隊員に伴われて、母とカナタが出てくるのが見えたからだ。
駆け寄ると、母がストレッチャーに乗せられているところだった。
気を失っているせいで、完全に脱力していて、嫌な予感をさせるには十分な光景だった。
「母さん!」
「大丈夫。気を失ってるだけ……」
頭に冷却材を押し当てたカナタが、そう言った。
とりあえず母が無事らしいとわかって、ほっとした。
しかし同時に、いやだからこそ、この場にいない人間のことを考えずにはいられなくなった。
「父さんは?」
「……まだ、上」
その時、再び周囲から悲鳴が上がった。
振り仰いで上を見ると、自宅のベランダ――だった場所――から、またあの赤黒い炎が噴き出していた。
燃え移らない炎。それを目にしていると、何故か炭彦の胸が締め付けられるのだった。
初めて見るはずなのに、どこか懐かしささえ感じてしまうような……。
◆ ◆ ◆
――――もう、お互いしか残っていない。
100年以上前のあの戦いを覚えている者は、もはやこの世に2人しかいない。
煉獄瑠衣と、竈門禰豆子。
同じ時代を、同じ記憶を、共有できる唯一の相手。
本来ならば、慈しみ合うべきだろう。
縁側にでも並んで座り、昔話に華を咲かせて、共に過去を懐かしむべきだろう。
しかし彼女達には、それが出来ない。許されない。
何故ならばお互いの存在こそが、お互いを否定する最大の理由になっているからだ。
「貴女で」
右手。手刀を繰り出す。
空を切る音が後から聞こえてくるようなそれを、禰豆子は頭を僅かに傾かせることでかわした。
掠めた右頬の表皮から血が噴き出す。
それだけで、その手刀の鋭さが良く理解できる。
返す刀、もとい返す拳で、禰豆子が右拳を上から振り下ろす。
顔面を狙ったそれを、瑠衣は防がなかった。
逆に左拳を握り込むと、下から打ち上げるようにそのまま放った。
2人の少女の拳が、正面から衝突する。
「貴女で最後です。禰豆子さん」
凄まじい音がした。
人体で最も頑丈な部位の1つが、全力で打ち合った音だ。
それは酷く鈍く、身を竦めてしまうような音だった。
それが、幾度となく繰り返された。
右拳、あるいは左拳が、何度も打撃され、室内に重く鈍い音が響き続けた。
もしも当たれば、人間の頭の1つや2つくらい楽に破砕してしまうだろう打撃。
そして実際、瑠衣の拳も禰豆子の拳も、何度となく
砕けた端から即座に再生し、意に介することなく攻撃を再開しているのだ。
その激しさは、拳が砕けて流れ出た血の匂いが辺りに充満する程だった。
「うん。そうだね」
打ち合いを止め、1歩離れた禰豆子を瑠衣が追った。
不意に、禰豆子の右足が跳ね上がった。
蹴り。瑠衣の頭部側面を狙ったそれを、瑠衣は後ろに大きく後退することで避けた。
「今日こそ、最後にしよう。瑠衣さん」
ボッ、と、空気が引き裂かれる音がした。
空振りした禰豆子の蹴りによって、文字通り
「今はもう、私達がいて良い時代じゃないんだよ」
だから、と、禰豆子は掌を開いた。
傷口はすでに塞がっているが、流れ出た血によって両手は赤く染まっている。
その血液はまだ乾いてもおらず、生々しい光沢を放っていた。
「……!」
自分に向かってくる瑠衣に対して、禰豆子は再び拳を握った。
打撃するためではない。
「血鬼術!」
――――血鬼術『爆血』!
禰豆子の両手の、いや部屋中に飛び散った彼女の血液が、赤黒い光を放った。
そして、燃え上がり――――爆発した。
◆ ◆ ◆
爆発する血。鬼だけを焼く炎。
まるで鬼を殺すための異能だ。
そしてその威力は、瑠衣の肌でさえ焼く程だった。
「く、う」
逆に言えば、
『爆血』の炎を気にも留めずに、瑠衣はそのまま禰豆子にぶつかった。
両腕で盾を作り瑠衣を受け止める。しかし勢いは殺せず、後ろに吹っ飛んだ。
「――――!」
リビングの壁を突き破り、廊下に出た。
禰豆子は
密着していた瑠衣は回避できず、今度は自分が廊下の壁を突き破ることになった。
その部屋は二段ベッドのある部屋で、子供部屋らしく、勉強机が2つ並んでいた。
だがそれに
ふと視線を下に下ろすと、両手が焼けて煙を上げているのが見えた。
もちろん傷はすぐに再生し、火傷は痕も残さずに消える。
だが瑠衣が見たのは、傷そのものでは無かった。
「……やはり、厄介ですね。その
厄介な点は、爆発の威力に対してでも、鬼だけを焼く特性に対してでもない。
瑠衣の
「私と触れ合う部分を炎で覆って、
思えば、そもそもが不可能なのだ。瑠衣と
瑠衣に触れた鬼は、触れた箇所から喰われてしまうからだ。
禰豆子がどれほど強力な鬼であっても、それこそ上弦の鬼であっても、それは変わらない。
だが今、禰豆子は瑠衣と打ち合いながら喰われることが無い。
拳や肉体の表面に『爆血』の炎を纏い、鎧のようにしているからだ。
「
理屈を知ってしまえば、対処も単純になる。
毒を食らわば、皿まで。
壊れた壁を挟んで、瑠衣と禰豆子が互いを見つめていた。
その時、音がした。
くう、という気の抜けるような、それでいて長く続く音だ。
空腹の音、その音を耳にした時、ほんの一瞬だが、禰豆子の目が悲しそうに細められた。
「嗚呼、やっぱり」
瑠衣もまた、一瞬だけ微笑んで。
「やっぱり貴女は、優しいんですね。禰豆子さん」
「ううん。そんなことないよ、瑠衣さん。だって」
「ええ」
「だって、私達は――――」
そうして、戦闘が再開されたのだった。
◆ ◆ ◆
ごほ、と、咳き込んで、炭吉は起き上がった。
彼は妻とカナタを外へと押し出した後、リビングに残って瑠衣と禰豆子の戦闘をやり過ごしていたのだ。
戦闘の余波のせいで、身体中が埃塗れになってしまっていたが、何とか無事でいた。
「あれが、「鬼」同士の戦い、か」
言葉にしてみても、実感は湧かなかった。
先にも話したが、炭吉自身は、鬼について辛うじて知っている程度だ。
禊の話を聞いても、真実に至ることは出来ない。
いや、より直感的に、彼はこう感じていたのだった。
真実に至る者がいるとすれば、
自分はきっと、
それが、禊の話を聞いた炭吉の考えだった。
そのために生まれたのだと、そう感じたのだ。
だから自分がこの状況ですべきことを、炭吉はほぼ正確に理解していた。
「良かった。無事だったか」
それは、リビングの壁に飾られていた物――三振りの、日本刀だった。
黒い刀。桃色の刀。そして、それらよりも短い
周囲に飾られていた写真は、ほとんどが写真立ても割れてしまって散乱していたが、刀だけは無事だった。
その刀を外そうと手を伸ばした時、何かを踏んだ。
「これは……」
それは、日輪の花札のような耳飾りだった。
硝子の容器の中に保管されていたそれが、床に落ちて割れて、転がっていたのだ。
かなり古いもののはずだが、綺麗な状態のままだった。
炭彦は床に膝をつくと、引き寄せられるようにしてそれを拾った。
「……うおあっ!?」
その時、廊下から炎が噴き出して来た。
禰豆子の『爆血』――もちろん、炭吉にはそれを知る由もないわけだが――の爆発に煽られて、炭吉はその場に手をつく。
そうしていると、転がるようにして、2人の少女が揉み合いながらリビングに戻って来た。
炭吉の目には、もはや2人の攻防は余りにも速すぎて追うことすら出来なかった。
互いを打撃する衝撃と炎は、近くにいるだけでこちらの体力を削られてしまう。
日輪の耳飾りを掴んだ炭彦は、急いで立ち上がると、壁に飾れている刀を取ろうと張り付いた。
「……!」
炭吉にとって不運だったのは、それを瑠衣に見られたことだった。
そして、瑠衣が
「逃げて、
その時、炭吉が思ったのは。
嗚呼、女の子も欲しかったなあ、という酷く場違いな考えだった。
最後までお読みいただき有難うございます。
個人的なイメージとしては、る〇剣の斎藤〇VS剣〇です(え)
瑠衣と禰豆子は今の東京ではなく、幕末の京都にいるのだ(え)
それでは、また次回。