鬼滅の刃―鬼眼の少女―   作:竜華零

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第82話:「貴女を」

 そこに、あの店は存在しなかった。

 いや、実はそれ自体は不思議なことではない。

 何故ならばそこに、そんなものは最初から存在しなかったのだから。

 

「……っても。こう目の当たりにしちまうとなァ」

 

 頭を掻きながら、そんなことを言ってみる。

 もちろん、言ってみたところで目の前の事実は変わらない。

 かつて()()した。あの禊とかいう妖しい女の(バー)

 しかし実弘の目の前には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ちょうど、店があったスペースだけが空き地になっている。

 飲み屋が軒先を連ねる通りにしては、それは明らかに不自然だった。

 まあ、元が不自然な店だったのだから、今さら不自然の1つや2つは大した問題ではないのかもしれない。

 ただ、そうは言っても――()()は、流石にやりすぎだろう。

 

「消えちまった、か」

 

 店は消えた。跡形もなく。影も残さずにだ。

 元々、書類の上ではここには何も無かった。

 しかし実弘は、確かにここに禊の店が存在したことを知っている。

 実際に訪れ、他にも客がいて、言葉も交わした。

 目を閉じれば昨日のことのように思い出せる程に、その記憶は鮮明だった。

 

「マジでどうなってんだ。最近のこの町はァ」

 

 犬人間事件からこっち、この町は異常な事態が起こり過ぎている。

 そこまで神経が細いつもりはないが、こうも立て続けだと、流石の実弘もノイローゼに陥ってしまいそうだった。

 尤も、今は実弘自身が「異常な事態」の1つを抱え込んでしまっているわけだが。

 

「あん?」

 

 その時、実弘は見覚えのある顔がこちらにやって来るのが見えた。

 女と見紛うようなその顔を、見間違えることはない。

 彼もまた、禊のバーに通っていた客の1人だった。

 

「ああ、やっぱり」

 

 青葉は、実弘の後ろを――つまり禊の店があった場所を――見て、息を吐いた。

 嘆息というには、それは余りにも悲壮な色に満ちていた。

 実際、彼はその場から膝に崩れ落ちて、両手で顔を覆ってしまった。

 

「オイ、どうした」

 

 実弘が、思わず近寄って声をかけてしまう程だった。

 だが当の青葉は、実弘の気遣いにも応えることは無かった。

 その表情はまさに、悲嘆に暮れている、という言葉がぴったり当て嵌まるだろう。

 しかし一方で、どこか。

 

「いえ、すみません……ただ」

 

 どこか。

 

「ただ、()()()()()()()()って、わかってしまって」

 

 どこか、納得しているようでもあった。

 まるでこうなることがわかっていたかのような、そんな風であった。

 そしてそんな青葉の様子を見て、これも不思議なことではあるが、実弘もまた、胸の奥にストンと落ちる者を感じたのだった。

 嗚呼、彼女達は――――去ったのだ、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 カナタは、こう見えて身内に甘い方である。

 本人に言えばこの評価を否定するだろうが、実のところ、これは彼以外の衆目が一致する評価だった。

 そして実際、彼は弟の炭彦の強い要望によって、再びこの場所へ――キメツ病院へとやって来たのだった。

 

「……確認するけれど」

 

 あえて言っておくと、彼らは父のお見舞いに来たわけではない。

 炭彦とカナタが会いに来たのは、別の人物だ。

 そしてだからこそ、カナタは難色を示しているのである。

 むしろ難色しかない、と言った方が良いだろう。

 何しろ、だ。

 

「本当に、行くんだね?」

「うん!」

 

 しかし一方の炭彦は、決意に満ちた目でカナタを見つめていた。

 その目が余りにも真っ直ぐなので、カナタはぐっと言葉に詰まった。

 普段は眠気と覇気のなさでいっぱいだと言うのに、こういう時には力強ささえ感じる。

 

 そしてこういう目をしている時、この弟は一歩も退かないのだ。

 これまでの経験則で、カナタはそれを良く知っていた。

 文字通り、誰よりも理解していた。

 

()()()()()()()()()()()()

 

 これである。実にきっぱりと断言して来た。

 率直に言って、正気の沙汰だとは思えない。

 前に会いに行った時に何があったのか忘れたわけではあるまいに、この弟はそれをやると言う。

 しかもそれをやるまで、梃子(てこ)でも動かないと来た。

 

 ついでに言えば、もしもここでカナタが同行を拒否すれば、炭彦はたとえ1人でも行くだろう。

 それくらいはカナタにもわかる。

 力づくで止めるという手もあるが、身内に甘いと評されるカナタにはそれはやり辛く、しかも炭彦が呼吸の訓練を経た結果、物理的にも難しくなってしまった。

 その事実をきちんと理解できてしまう己の頭脳(賢さ)が恨めしい。そんなことを思いもした。

 

「……俺が危ないと思ったら、すぐに帰るからね」

「うん!」

「……本当にわかってる?」

「わかってる!」

 

 本当にわかっているのかどうか、怪しいものである。

 

「……はあああ」

 

 屈託のない笑顔で頷く炭彦を見て、カナタは嘆息した。

 まあ、しかし本当のところは。

 色々と言ってはいるものの、カナタは結局のところ、炭彦に甘いのだった。

 結論がそうなってしまうあたりが、このカナタという少年の人となりを示していると言えた。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 いずれにせよ。そして、何にせよ。

 カナタは、自分がすべきことをきちんと定めていた。

 炭彦が何をしようと、あるいはどこへ行こうと、傍にいて守る。

 それが兄の責務だと、カナタは思い定めているのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「オオ……! ()()()タチ……!」

 

 炭彦達の姿を認めるや――()()()()()、病室まで誰にも止められることが無かった――産屋敷は、掠れ切った声を上げた。

 前回の騒動以来そうされているのか、ベッドにベルトで固定されているため、暴れ出すということは無かった。

 それでも、枯れ枝のような身体で起き上がろうとする様は、十分に気味の悪いものだった。

 

「コロセ……!」

 

 そして、産屋敷はやはり同じことを言った。

 彼はひたすらに、こう繰り返していた。

 殺せ、殺せ、あの女を殺せ。

 

 煉獄瑠衣を殺せ。

 

 他の言葉を知らないのではないか、とさえ思える程だった。

 それは言葉というよりは、もはや呪詛だった。呪いと憎悪の叫びだった。

 産屋敷の年齢など知らないが、長い――長い年月、保ち続けて来たとしか思えない。

 そんな感情を受けて、情けないことに、カナタは病室の入口から動けずにいた。

 

「……っ。炭彦?」

 

 炭彦は、違った。

 彼は産屋敷の叫びを正面から受けながら、そのまま室内へと歩き出したのだ。

 

「コロセ……! ホロボセ……!」

「…………」

「アノオンナヲ……! レンゴクルイヲ……!」

「…………あの」

「コロセ、コロセエエエ……!」

 

 自分に向けて伸ばしたいのだろう、産屋敷のその手に。

 炭彦はそっと、己の手を重ねた。

 そして、言った。

 

()()()()()()()

 

 煉獄瑠衣は殺さない。

 はっきりと、そう告げた。

 

「僕は……僕には、瑠衣さんを殺す、とか。そういうことは出来ません」

 

 そもそも人殺は犯罪です。

 続いた言葉にカナタはがくんと脱力することになるが、それはさておき。

 言葉の通り、炭彦には、瑠衣を殺すという選択は出来なかった。

 

「瑠衣さんは、優しい人です」

 

 あの公園で出会った時のことを、炭彦は忘れないだろう。

 瑠衣は、自分にいつも優しかった。

 あの優しい眼差しを、炭彦は嘘だと思うことは出来ない。

 そんな人を殺すだなんて、たとえそれが必要なことなのだとしても、出来なかった。

 

「そして……哀しい人です」

 

 哀しい。

 今なら、今にして思えば、瑠衣が自分を見る目の中には、優しさ以外のものがあった。

 不思議とそう感じるものが、確かにあったと気付く。

 瑠衣という女性の持つ優しさと哀しさを、きっと、この時代に生きる者の中で、自分が一番。

 

「だから、僕は瑠衣さんを殺しません」

 

 自分だけが、知っているはずだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 すると、不思議なことが起こった。

 それまで、自分達にゾンビのように縋り付いていた――あるいは縋り付こうとしていた――産屋敷が、不意に落ち着いたのである。

 その変化は余りにも急で、カナタが息を呑む程だった。

 

(何だ? こいつ、急に雰囲気が変わった)

 

 産屋敷が軽く身動(みじろ)ぎをすると、ベッド脇からモニターを備えたアームが伸びて来た。

 どうやらそれは視線で文字を入力することが出来るものらしく、産屋敷の目が僅かの間、忙しなく動くのをカナタは見た。

 しかしその目には、先程まで確かにあった狂気の色が消え失せていた。

 代わりにそこにあったのは、確かな理性だった。

 

『それが、キミの選択なんだね』

 

 入力された文字――産屋敷の言葉も、同じだった。

 狂気ではなく理性でもって、産屋敷は炭彦に語りかけている。

 

『珠世さんは諦観を。愈史郎さんは憎悪を。そして禰豆子さんは責任感を』

 

 この世に存在する、純粋な鬼。最後の鬼達。

 彼ら彼女らは煉獄瑠衣という存在を前にして、それぞれ別の感情を得、そして動いた。

 だが炭彦が瑠衣に対して抱いたのは、それらのいずれでも無かった。

 

 それは恋慕というには余りにも儚く。

 そして友愛というには、余りにも淡い。

 余りにも、(やさ)しい。

 竈門炭彦という少年の持つ、光だ。

 

『もしかしたら、死ぬかもしれない』

 

 モニターを見つめなければならない産屋敷は、炭彦を見つめることは出来ない。

 しかしその目は、とても穏やかで、慈しみに満ちていた。

 それこそ、我が子の選択を見守る親のような、そんな眼差しだった。

 

「……たとえ、そうだとしても」

 

 そんな産屋敷に対して、炭彦は言った。

 

「僕は、瑠衣さんを殺しません」

 

 そんな炭彦の言葉に、産屋敷は口元を僅かに笑みの形に歪めた。

 完全な笑顔にならなかったのは、表情筋を動かすことも難しくなっているからだろうか。

 

「それに」

 

 付け加えるように、炭彦は言った。

 

「それに、そんなことにはならないですよ。だって」

 

 はにかむような、そんな顔で。

 

「だって、瑠衣さんは……優しい人だから」

 

 以前にも、炭彦はそんなことを言っていたような気がする。

 そんな弟の様子に、カナタは目を覆って天井を仰いだ。

 処置なし。

 

 そんな風なカナタと、自信満々な顔をする炭彦。

 流石に産屋敷も限界だったのか、クックッ、と引き攣るような音がその喉から漏れ聞こえて来た。

 それが笑い声だと気が付くのには、少しかかった。

 それにすぐに限界を迎えたのか、苦し気な咳に変わったところで、カナタと炭彦が慌てて介抱をしようとした。

 産屋敷はそれを不要というように首を振って制して、モニターを見つめ直した。

 

『わかった。キミがそういう子なら、私も安心して話すことができる』

「……話?」

『そう。私の……私達の、()()()()退()()()()()

 

 そう入力して、産屋敷は目を閉じたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 桃寿郎が早朝に道場に行くと、自分以外の先客がいることに気付いた。

 誰だろうか。咄嗟(とっさ)には頭の中に候補が出て来なかった。

 炭彦かとも思ったが、すぐに違うとわかった。

 道場の真ん中にどんと座っているのは、彼の父親だったからだ。

 

「父上、おはようございます!」

「……ああ、おはよう」

 

 いつも通りの腹式呼吸。

 相変わらず元気の良い息子に苦笑しつつ、ごとりと音を立てて、その場に()()を置いた。

 世界で見ても珍しい、滑らかな曲線を描いた刀剣類――日本刀だ。

 桃寿郎は、それが神棚に飾られていたものだとすぐに気付いた。

 

 炎のような形の鍔に、赤色に染まった刃。

 もちろん桃寿郎は日本刀に詳しいわけではないが、それでも、それがかなり珍しいものだとは理解していた。

 とは言え、それだけだとも言える。

 問題は、どうして父がそんなものを持ち出しているのか、ということだった。

 

「やろう」

 

 そんな風に不思議に思っていると、いきなりそんなことを言われた。

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 しかし数秒をかけて父の言葉を咀嚼(そしゃく)して、理解が及ぶと。

 

「よもや!」

「どういう反応だ、それは」

 

 自分の反応が面白かったのか、父はまた苦笑していた。

 いつもは厳しい父だが、今朝は妙に何というか、優しいのだった。

 くれるという日本刀を手に取ると、まずその重さに驚いた。

 鉄の塊なのだから、当たり前と言えば当たり前だったが。

 

「重いか?」

 

 そう問われると、鉄の重み以外の何かを感じる気がした。

 不思議な感覚だった。

 まるでこの日本刀が、ずっと以前からこの手の中にあったかのような、そんな気がした。 

 

「その刀は、日輪刀という」

「日輪刀! 太陽の刀ですか、格好いいですね!」

 

 その名の響きでさえ、何故か驚きはない。

 まるで、最初からそうだと知っていたかのような。

 それくらい手に馴染む。

 手に取ったことなどほとんど無いというのに、どうしてそう思うのか。

 やはり、不思議な感覚だった。

 

「その刀は、先祖代々受け継がれてきたものだ」

「ご先祖様からですか! それはどれくらい前なのでしょうか!」

「そうだな。正確なことはわからないが……500年ほど前のものだと聞いている」

「500年……!」

 

 もちろん、補修や保存処置などはされていただろう。

 しかし、500年。

 まだ年若い桃寿郎には、想像もできないような長い時間だ。

 それだけの期間、1つのものを受け継いでいくというのは、並大抵のことではないはずだった。

 

「その刀は、人を斬ったことがない」

「ええと……刀なのに、ですか?」

「そうだ」

 

 刀は、武器だ。

 いくら日本刀に美術的な価値があると言っても、それは現代の話。

 500年前の刀は、紛うことなく武器――兵器だったはずだ。

 しかしそんな刀が、人を斬ったことがない。

 

(人を……)

 

 そこまで考えて、桃寿郎は気付いた。

 よもやと顔を上げると、父は頷いた。

 

「その刀は、人ならざる者を斬るためのものだ」

 

 人ならざる者。

 この時の桃寿郎の脳裏に思い浮かんだのは、犬人間だ。

 桃寿郎にとって、人ならざる者の象徴と言える。

 そして――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 結局、何の収穫もなく帰って来ることになった。

 むしろ他人の失恋――と思われる――を慰めるというおまけまでついて、余計に疲れてしまった。

 ただでさえ、(バー)の消失などという非現実的な出来事を目にしてしまったのに。

 心労というのであれば、自分こそケアしてほしいものだった。

 

「あー……いや。疲れてんのか、つい弱気になっちまうなァ」

 

 嘆息。これもまた、自分らしくない。

 頭を振って、切り替える。

 先輩として、後輩に情けない顔を見せるわけにはいかない。

 そう思って、実弘は努めて勢いよく派出所の扉を開けた。

 

「うーっす。今戻った……」

 

 すると、童女(禰豆子)が元気よく「う!」と手を上げるのが見えた。

 

「……ぞ」

 

 ぱっちりしたお目目(めめ)が、実弘のことを見つめていた。

 それに対して、実弘は数秒の間静止した後。

 

「お前、起きたのか!?」

 

 と声を上げた。

 事故現場で拾い上げてからというもの、ずっと眠っていたのだ。

 もう少し様子を見てどうにもならなければ、気が進まないが――どうして「気が進まない」と考えるのかは、自分でもわからなかったが――医者にかかるべきか、と考えていた矢先だった。

 まあ、無事に起きたなら良かった。と、実弘は内心でほっとした。

 

「あ、先輩!」

 

 その時、後輩が困り切った様子で顔を出して来た。

 ぺこりと会釈をした後、彼は言った。

 

「この子、何も食べないんですよ!」

「何ィ? 好き嫌いは感心しねぇぞォ」

「いやいやいや! 好き嫌いとかじゃなくて、本当に何も口にしないんですよ!」

「ああ?」

 

 何も口にしない。というのは、比喩でも何でも無かった。

 実際、禰豆子は何も口にしなかった。いくら勧めても嫌がるのだ。

 拒食症かとも思ったが、そういうわけではないらしい。

 妙な表現になるが、食べるという行為そのものを拒絶している様子だった。

 

 さらに実弘達を困惑させたのは、コロと茶々丸までも何も食べなかったことだ。

 食べないどころか、水を飲むことさえしない。

 それでいて、体調を崩す様子もない。至って健康で元気なのだ。

 明らかに、普通ではない。

 

「ああ? ……どういうことだ?」

「いや、俺にもわかんないっすよ……」

 

 繰り返すが、普通ではない。

 ガリガリと頭を掻いて、最近クセになりつつあることに気付いた。

 その内にハゲてしまうかもしれない、などとつい考えてしまった。

 

「ああ、まあ、大丈夫だよ。心配すんなァ」

 

 自分をじっと見つめる禰豆子に、実弘は頭を掻いて――途中で意識して止めて、言った。

 

「気が済むまでいりゃあ良い。ガキの面倒くらい、見てやるよォ」

 

 たとえ、どれだけおかしな子どもだとしても。

 だから、と見捨てられるような器用さを、実弘は持ち合わせていないのだった。

 そしてそんな実弘だから、後輩も何も言わずに協力してくれるのだ。

 そんな2人を、禰豆子はじっと見つめていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――いつもの公園。

 いつもと変わらない、穏やかな陽気の日だった。

 それなりに広い公園のはずだが、しかし不思議と他に人はいなかった。

 

 だからだろうか、その日は妙に寂しい雰囲気になってしまっていた。

 いつもとそう違わないはずなのに、そう思ってしまうのは、見る側の気持ちがそうだからだろうか。

 寂しいと感じるのは、己が寂しいからだろうか。

 などと、つい出来の悪い詩人のようなことを考えてしまって、炭彦は自分で自分を笑ってしまいたくなった。

 

「…………」

 

 そして、()()もまたいつも通りだった。

 いつも通りのベンチに、彼女はいた。 

 黒字に赤い彼岸花があしらわれた着物を着て、本を読んでいた。

 炭彦はあまり本を読まないので良くわからないが、学術書のような分厚いものではなく、手軽に読める文庫本のようだった。

 

 陽気に包まれた公園の中で、黒い着物姿は良く目立っていた。

 ただ炭彦の目には、着物よりも、ハーフアップにまとめられた艶やかな黒髪の方が目に留まった。

 黒いリボンでまとめられた髪は、風に撫でられて微かに揺れていた。

 香水なのか、洗髪料なのか、炭彦のところまで良い香りが流れて来るようだった。

 

「…………あら」

 

 気付いたのは、向こうが先だった。

 炭彦が立ち尽くしているのが視界の端に映ったのか、あるいは気配を察したのか、何なのか。

 とにかく彼女は炭彦がやって来たことに気付いて、膝の上で本を閉じた。

 もしかしたら、特に集中して読んでいたわけではないのかもしれなかった。

 

 何となく、そうしていただけで。

 ()()()()

 あるいは、他のこともそうだったのだろうか、と、そんなことを考えてしまった。

 彼女にとって、実は何もかもが()()()()だったのではないか、と。

 そんなはずはないのに、何故か、そんな風に思ってしまった。

 

「こんにちは、竈門君。()()()()()()()()()()()()

「……はい。はい、瑠衣さん」

 

 自分に微笑を向けてくれる瑠衣に、炭彦は頷きを返した。

 それから視線を戻して、瑠衣は膝の上で閉じた本の背表紙を指先で撫でた。

 その綺麗な指先を、炭彦は目で追った。

 

「来ました。瑠衣さん」

「ええ」

 

 じゃあ、と言って、瑠衣はその場に立ち上がった。

 本は、ベンチに置いていた。

 そのまま着物の裾を直して、炭彦の前に立った。

 そして、やはり、微笑を浮かべて言った。

 

「ずっと、待っていました」

 

 今日も来てくれたと言いつつ、ずっと待っていたと言う。

 矛盾。

 しかし、ここでは矛盾しない。

 何故なら。

 

「やっと……()()()()()()()()()()()()()()

 

 何故ならば、炭彦の手には父から託された日輪刀が握られていたからだ――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 日輪刀。

 鬼を斬るための武器。

 ()()()()()()()()()()()()()

 それを手に、炭彦は約束(いつも)場所(公園)にやって来ていた。

 

 炭彦が日輪刀を持っている。正確には、刀袋に包まれたそれを持っている。

 その事実に、瑠衣はどこか満足そうな顔をしていた。

 瑠衣の表情が余りにも綺麗で、炭彦はつい、目を逸らしてしまった。

 そんな炭彦を、瑠衣は(とが)めはしなかった。

 

「……何というか、普通なんですね」

「普通というと?」

「いや、だって……全然、大丈夫そうに見えるから」

「ああ……」

 

 正直なところ、自分でも何を言っているんだ、と思ってしまった。

 会話、というか、言葉が支離(しり)滅裂(めつれつ)に過ぎる。

 けれど瑠衣は、やはりそんな炭彦を悪く言うことは無かった。

 むしろ彼の言いたいことを正確に理解して、頷きさえしてくれた。

 

「気を張っているだけですよ。こう見えて。結構、頑張っているのですよ?」

 

 くう、と、そんな音がした。

 それは瑠衣の腹部から聞こえてくる音で、以前にも聞いたことがあった。

 炭彦はその時、呑気(のんき)に飴玉などを渡して良い気になっていたのだ。

 

 嗚呼、何て馬鹿だったのだろう。

 あの時は気付いていなかった。気付こうともしなかった。

 自分はただ、あの時も――そして今も。

 

瑠衣さん(このひと)の優しさに、包まれていただけだったんだ)

 

 良く見れば、おかしいことに気がつけるのに。

 瑠衣はいつだって、自分に微笑みを向けていた。

 いつも、どんな時でもだ。

 考えてみれば、おかしな話ではないか。

 自分はどうして、瑠衣の()()()()()()()()()()()

 

「竈門君の前だから。頑張って……見栄を張っているだけです」

 

 気を張っていないと、表情が崩れてしまうからだ。

 微笑みで覆い隠さないと、耐えられなかったからだ。

 そして自分はついに、ここに至るまでそれに気付くことが出来なかった。

 瑠衣の()()に、気が付けなかったのだ。

 自分の前だから見栄を張っているというその言葉に、胸が張り裂けそうだった。

 

「……さて。そういうわけで、竈門君」

 

 胸に手を当てて、瑠衣は――やはり、いつも通りの微笑を浮かべて。

 真っ直ぐに、炭彦を見つめた。

 

「私を、殺してくれますか?」

 

 そして、そんな瑠衣に対して、炭彦は。

 

「――――()()

 

 刀袋の封を解きながら、日輪刀の柄を握った。

 そして、言った。

 

()()()()()()()。瑠衣さん」

「――――良く出来ました」

 

 瑠衣は、やはり優しく微笑んでいた。

 炭彦は、笑わなかった。

 それはとても、対照的だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――今少し、時間を遡る。

 場所は産屋敷の病室。

 その場で、炭彦が「瑠衣を殺さない」と宣言した直後のことだ。

 時間にしてみれば、ほんの数分のことだろう。

 

『まず、キミは煉獄瑠衣を()()()()()()()()()()

 

 先程までの会話は何だったのか。

 そう思える程にあっさりと、産屋敷はそう言った。

 こいつはやっぱり頭がおかしいのではないか?

 傍らで話を聞いていた――もとい、読んでいた――カナタなどは、もうはっきりそう思ってしまった。

 

 炭彦も、困惑の色を隠さなかった。

 一方の産屋敷はと言えば、少年達の困惑を他所(よそ)に、モニターへの入力を続けていた。

 おそらく、かなりの体力を消耗しているのだろう。入力の速度は早いとは言い難かった。

 それでも何も言わず、急かすようなこともせず、炭彦は産屋敷の言葉を待った。

 

『キミの、煉獄瑠衣を殺さないという選択。決断は、()()()

 

 正しい。産屋敷はそう言った。

 瑠衣を()()()()()()()()珠世も。

 瑠衣を滅ぼそうとした愈史郎も。

 そして瑠衣を止めようとした禰豆子も、正しい。

 

 何故ならば彼ら彼女らは皆、()()()()()辿()()()()()()()()()()

 煉獄瑠衣は、殺さなければならない。

 殺してしまうしかない。そういう結論を、彼ら彼女らは共有していた。

 違いがあるとすれば、それをどう成すか、という点だけだった。

 

『矛盾するように聞こえるかもしれない』

 

 ぜえぜえと呼吸を荒げながら、産屋敷は続けた。

 入力するという行為そのもので、命を削っている。

 生きているだけで生命力を使う。

 他人よりも限られたそれを使って、産屋敷は言った。

 

『けれど、キミはそうしなければならないんだ。それはキミにしかできないことだ』

「ちょっと、さっきから言っていることの意味がわからないんだけど?」

『だから、矛盾して聞こえるかもしれない、と言った。私はただ』

 

 ごほ、と、濁った咳をした。

 そうしながら、彼は指先で何かを操作した。

 ナースコールかとも思ったが、どうやら違ったらしい。

 モニターの後ろからカバーがスライドして、ケースが出て来た。

 

「これは……?」

 

 視線に促されて炭彦が手を伸ばすと、軽い音がしてケースが開いた。

 中は冷凍状態にあったのか、指先にひやりとした空気を感じた。

 ドライアイスが溶けだした時のような白い靄が一瞬、視界の中で泳いだ。

 そして靄が消えると、そこには三本の小さなアンプルが収められていた。

 

『それは珠世さんが、そして愈史郎さんが遺してくれたものだ。()()()()()()。後はもう、この世には残っていない』

 

 アンプルの中には、青く発光する液体が入れられていた。

 

『最後の青い彼岸花を使った、()()()()

 

 それが最後だ、と。

 ぐったりとベッドに身を沈めながら、呼吸しにくそうに喘ぎながら、そう繰り返した。

 

『竈門炭彦君。もう一度、言おう』

 

 それを最後に、産屋敷は意識を失った。

 モニターには、彼が最後に入力した彼の言葉が点滅していた。

 炭彦の瞳に焼き付けようとするかのように、何度も、点滅していた。

 

『キミは煉獄瑠衣を殺すために、生まれて来た子どもだ』

 

 モニターに映るその言葉を、炭彦は見つめた。

 長い時間、ずっと見つめていた――――。




最後までお読みいただき有難うございます。

そろそろ終わりそうな気がする(え)

それでは、また次回。
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