そこに、あの店は存在しなかった。
いや、実はそれ自体は不思議なことではない。
何故ならばそこに、そんなものは最初から存在しなかったのだから。
「……っても。こう目の当たりにしちまうとなァ」
頭を掻きながら、そんなことを言ってみる。
もちろん、言ってみたところで目の前の事実は変わらない。
かつて
しかし実弘の目の前には、
ちょうど、店があったスペースだけが空き地になっている。
飲み屋が軒先を連ねる通りにしては、それは明らかに不自然だった。
まあ、元が不自然な店だったのだから、今さら不自然の1つや2つは大した問題ではないのかもしれない。
ただ、そうは言っても――
「消えちまった、か」
店は消えた。跡形もなく。影も残さずにだ。
元々、書類の上ではここには何も無かった。
しかし実弘は、確かにここに禊の店が存在したことを知っている。
実際に訪れ、他にも客がいて、言葉も交わした。
目を閉じれば昨日のことのように思い出せる程に、その記憶は鮮明だった。
「マジでどうなってんだ。最近のこの町はァ」
犬人間事件からこっち、この町は異常な事態が起こり過ぎている。
そこまで神経が細いつもりはないが、こうも立て続けだと、流石の実弘もノイローゼに陥ってしまいそうだった。
尤も、今は実弘自身が「異常な事態」の1つを抱え込んでしまっているわけだが。
「あん?」
その時、実弘は見覚えのある顔がこちらにやって来るのが見えた。
女と見紛うようなその顔を、見間違えることはない。
彼もまた、禊のバーに通っていた客の1人だった。
「ああ、やっぱり」
青葉は、実弘の後ろを――つまり禊の店があった場所を――見て、息を吐いた。
嘆息というには、それは余りにも悲壮な色に満ちていた。
実際、彼はその場から膝に崩れ落ちて、両手で顔を覆ってしまった。
「オイ、どうした」
実弘が、思わず近寄って声をかけてしまう程だった。
だが当の青葉は、実弘の気遣いにも応えることは無かった。
その表情はまさに、悲嘆に暮れている、という言葉がぴったり当て嵌まるだろう。
しかし一方で、どこか。
「いえ、すみません……ただ」
どこか。
「ただ、
どこか、納得しているようでもあった。
まるでこうなることがわかっていたかのような、そんな風であった。
そしてそんな青葉の様子を見て、これも不思議なことではあるが、実弘もまた、胸の奥にストンと落ちる者を感じたのだった。
嗚呼、彼女達は――――去ったのだ、と。
◆ ◆ ◆
カナタは、こう見えて身内に甘い方である。
本人に言えばこの評価を否定するだろうが、実のところ、これは彼以外の衆目が一致する評価だった。
そして実際、彼は弟の炭彦の強い要望によって、再びこの場所へ――キメツ病院へとやって来たのだった。
「……確認するけれど」
あえて言っておくと、彼らは父のお見舞いに来たわけではない。
炭彦とカナタが会いに来たのは、別の人物だ。
そしてだからこそ、カナタは難色を示しているのである。
むしろ難色しかない、と言った方が良いだろう。
何しろ、だ。
「本当に、行くんだね?」
「うん!」
しかし一方の炭彦は、決意に満ちた目でカナタを見つめていた。
その目が余りにも真っ直ぐなので、カナタはぐっと言葉に詰まった。
普段は眠気と覇気のなさでいっぱいだと言うのに、こういう時には力強ささえ感じる。
そしてこういう目をしている時、この弟は一歩も退かないのだ。
これまでの経験則で、カナタはそれを良く知っていた。
文字通り、誰よりも理解していた。
「
これである。実にきっぱりと断言して来た。
率直に言って、正気の沙汰だとは思えない。
前に会いに行った時に何があったのか忘れたわけではあるまいに、この弟はそれをやると言う。
しかもそれをやるまで、
ついでに言えば、もしもここでカナタが同行を拒否すれば、炭彦はたとえ1人でも行くだろう。
それくらいはカナタにもわかる。
力づくで止めるという手もあるが、身内に甘いと評されるカナタにはそれはやり辛く、しかも炭彦が呼吸の訓練を経た結果、物理的にも難しくなってしまった。
その事実をきちんと理解できてしまう己の
「……俺が危ないと思ったら、すぐに帰るからね」
「うん!」
「……本当にわかってる?」
「わかってる!」
本当にわかっているのかどうか、怪しいものである。
「……はあああ」
屈託のない笑顔で頷く炭彦を見て、カナタは嘆息した。
まあ、しかし本当のところは。
色々と言ってはいるものの、カナタは結局のところ、炭彦に甘いのだった。
結論がそうなってしまうあたりが、このカナタという少年の人となりを示していると言えた。
「じゃあ、行こうか」
いずれにせよ。そして、何にせよ。
カナタは、自分がすべきことをきちんと定めていた。
炭彦が何をしようと、あるいはどこへ行こうと、傍にいて守る。
それが兄の責務だと、カナタは思い定めているのだった。
◆ ◆ ◆
「オオ……!
炭彦達の姿を認めるや――
前回の騒動以来そうされているのか、ベッドにベルトで固定されているため、暴れ出すということは無かった。
それでも、枯れ枝のような身体で起き上がろうとする様は、十分に気味の悪いものだった。
「コロセ……!」
そして、産屋敷はやはり同じことを言った。
彼はひたすらに、こう繰り返していた。
殺せ、殺せ、あの女を殺せ。
煉獄瑠衣を殺せ。
他の言葉を知らないのではないか、とさえ思える程だった。
それは言葉というよりは、もはや呪詛だった。呪いと憎悪の叫びだった。
産屋敷の年齢など知らないが、長い――長い年月、保ち続けて来たとしか思えない。
そんな感情を受けて、情けないことに、カナタは病室の入口から動けずにいた。
「……っ。炭彦?」
炭彦は、違った。
彼は産屋敷の叫びを正面から受けながら、そのまま室内へと歩き出したのだ。
「コロセ……! ホロボセ……!」
「…………」
「アノオンナヲ……! レンゴクルイヲ……!」
「…………あの」
「コロセ、コロセエエエ……!」
自分に向けて伸ばしたいのだろう、産屋敷のその手に。
炭彦はそっと、己の手を重ねた。
そして、言った。
「
煉獄瑠衣は殺さない。
はっきりと、そう告げた。
「僕は……僕には、瑠衣さんを殺す、とか。そういうことは出来ません」
そもそも人殺は犯罪です。
続いた言葉にカナタはがくんと脱力することになるが、それはさておき。
言葉の通り、炭彦には、瑠衣を殺すという選択は出来なかった。
「瑠衣さんは、優しい人です」
あの公園で出会った時のことを、炭彦は忘れないだろう。
瑠衣は、自分にいつも優しかった。
あの優しい眼差しを、炭彦は嘘だと思うことは出来ない。
そんな人を殺すだなんて、たとえそれが必要なことなのだとしても、出来なかった。
「そして……哀しい人です」
哀しい。
今なら、今にして思えば、瑠衣が自分を見る目の中には、優しさ以外のものがあった。
不思議とそう感じるものが、確かにあったと気付く。
瑠衣という女性の持つ優しさと哀しさを、きっと、この時代に生きる者の中で、自分が一番。
「だから、僕は瑠衣さんを殺しません」
自分だけが、知っているはずだから。
◆ ◆ ◆
すると、不思議なことが起こった。
それまで、自分達にゾンビのように縋り付いていた――あるいは縋り付こうとしていた――産屋敷が、不意に落ち着いたのである。
その変化は余りにも急で、カナタが息を呑む程だった。
(何だ? こいつ、急に雰囲気が変わった)
産屋敷が軽く
どうやらそれは視線で文字を入力することが出来るものらしく、産屋敷の目が僅かの間、忙しなく動くのをカナタは見た。
しかしその目には、先程まで確かにあった狂気の色が消え失せていた。
代わりにそこにあったのは、確かな理性だった。
『それが、キミの選択なんだね』
入力された文字――産屋敷の言葉も、同じだった。
狂気ではなく理性でもって、産屋敷は炭彦に語りかけている。
『珠世さんは諦観を。愈史郎さんは憎悪を。そして禰豆子さんは責任感を』
この世に存在する、純粋な鬼。最後の鬼達。
彼ら彼女らは煉獄瑠衣という存在を前にして、それぞれ別の感情を得、そして動いた。
だが炭彦が瑠衣に対して抱いたのは、それらのいずれでも無かった。
それは恋慕というには余りにも儚く。
そして友愛というには、余りにも淡い。
余りにも、
竈門炭彦という少年の持つ、光だ。
『もしかしたら、死ぬかもしれない』
モニターを見つめなければならない産屋敷は、炭彦を見つめることは出来ない。
しかしその目は、とても穏やかで、慈しみに満ちていた。
それこそ、我が子の選択を見守る親のような、そんな眼差しだった。
「……たとえ、そうだとしても」
そんな産屋敷に対して、炭彦は言った。
「僕は、瑠衣さんを殺しません」
そんな炭彦の言葉に、産屋敷は口元を僅かに笑みの形に歪めた。
完全な笑顔にならなかったのは、表情筋を動かすことも難しくなっているからだろうか。
「それに」
付け加えるように、炭彦は言った。
「それに、そんなことにはならないですよ。だって」
はにかむような、そんな顔で。
「だって、瑠衣さんは……優しい人だから」
以前にも、炭彦はそんなことを言っていたような気がする。
そんな弟の様子に、カナタは目を覆って天井を仰いだ。
処置なし。
そんな風なカナタと、自信満々な顔をする炭彦。
流石に産屋敷も限界だったのか、クックッ、と引き攣るような音がその喉から漏れ聞こえて来た。
それが笑い声だと気が付くのには、少しかかった。
それにすぐに限界を迎えたのか、苦し気な咳に変わったところで、カナタと炭彦が慌てて介抱をしようとした。
産屋敷はそれを不要というように首を振って制して、モニターを見つめ直した。
『わかった。キミがそういう子なら、私も安心して話すことができる』
「……話?」
『そう。私の……私達の、
そう入力して、産屋敷は目を閉じたのだった。
◆ ◆ ◆
桃寿郎が早朝に道場に行くと、自分以外の先客がいることに気付いた。
誰だろうか。
炭彦かとも思ったが、すぐに違うとわかった。
道場の真ん中にどんと座っているのは、彼の父親だったからだ。
「父上、おはようございます!」
「……ああ、おはよう」
いつも通りの腹式呼吸。
相変わらず元気の良い息子に苦笑しつつ、ごとりと音を立てて、その場に
世界で見ても珍しい、滑らかな曲線を描いた刀剣類――日本刀だ。
桃寿郎は、それが神棚に飾られていたものだとすぐに気付いた。
炎のような形の鍔に、赤色に染まった刃。
もちろん桃寿郎は日本刀に詳しいわけではないが、それでも、それがかなり珍しいものだとは理解していた。
とは言え、それだけだとも言える。
問題は、どうして父がそんなものを持ち出しているのか、ということだった。
「やろう」
そんな風に不思議に思っていると、いきなりそんなことを言われた。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
しかし数秒をかけて父の言葉を
「よもや!」
「どういう反応だ、それは」
自分の反応が面白かったのか、父はまた苦笑していた。
いつもは厳しい父だが、今朝は妙に何というか、優しいのだった。
くれるという日本刀を手に取ると、まずその重さに驚いた。
鉄の塊なのだから、当たり前と言えば当たり前だったが。
「重いか?」
そう問われると、鉄の重み以外の何かを感じる気がした。
不思議な感覚だった。
まるでこの日本刀が、ずっと以前からこの手の中にあったかのような、そんな気がした。
「その刀は、日輪刀という」
「日輪刀! 太陽の刀ですか、格好いいですね!」
その名の響きでさえ、何故か驚きはない。
まるで、最初からそうだと知っていたかのような。
それくらい手に馴染む。
手に取ったことなどほとんど無いというのに、どうしてそう思うのか。
やはり、不思議な感覚だった。
「その刀は、先祖代々受け継がれてきたものだ」
「ご先祖様からですか! それはどれくらい前なのでしょうか!」
「そうだな。正確なことはわからないが……500年ほど前のものだと聞いている」
「500年……!」
もちろん、補修や保存処置などはされていただろう。
しかし、500年。
まだ年若い桃寿郎には、想像もできないような長い時間だ。
それだけの期間、1つのものを受け継いでいくというのは、並大抵のことではないはずだった。
「その刀は、人を斬ったことがない」
「ええと……刀なのに、ですか?」
「そうだ」
刀は、武器だ。
いくら日本刀に美術的な価値があると言っても、それは現代の話。
500年前の刀は、紛うことなく武器――兵器だったはずだ。
しかしそんな刀が、人を斬ったことがない。
(人を……)
そこまで考えて、桃寿郎は気付いた。
よもやと顔を上げると、父は頷いた。
「その刀は、人ならざる者を斬るためのものだ」
人ならざる者。
この時の桃寿郎の脳裏に思い浮かんだのは、犬人間だ。
桃寿郎にとって、人ならざる者の象徴と言える。
そして――――……。
◆ ◆ ◆
結局、何の収穫もなく帰って来ることになった。
むしろ他人の失恋――と思われる――を慰めるというおまけまでついて、余計に疲れてしまった。
ただでさえ、
心労というのであれば、自分こそケアしてほしいものだった。
「あー……いや。疲れてんのか、つい弱気になっちまうなァ」
嘆息。これもまた、自分らしくない。
頭を振って、切り替える。
先輩として、後輩に情けない顔を見せるわけにはいかない。
そう思って、実弘は努めて勢いよく派出所の扉を開けた。
「うーっす。今戻った……」
すると、
「……ぞ」
ぱっちりしたお
それに対して、実弘は数秒の間静止した後。
「お前、起きたのか!?」
と声を上げた。
事故現場で拾い上げてからというもの、ずっと眠っていたのだ。
もう少し様子を見てどうにもならなければ、気が進まないが――どうして「気が進まない」と考えるのかは、自分でもわからなかったが――医者にかかるべきか、と考えていた矢先だった。
まあ、無事に起きたなら良かった。と、実弘は内心でほっとした。
「あ、先輩!」
その時、後輩が困り切った様子で顔を出して来た。
ぺこりと会釈をした後、彼は言った。
「この子、何も食べないんですよ!」
「何ィ? 好き嫌いは感心しねぇぞォ」
「いやいやいや! 好き嫌いとかじゃなくて、本当に何も口にしないんですよ!」
「ああ?」
何も口にしない。というのは、比喩でも何でも無かった。
実際、禰豆子は何も口にしなかった。いくら勧めても嫌がるのだ。
拒食症かとも思ったが、そういうわけではないらしい。
妙な表現になるが、食べるという行為そのものを拒絶している様子だった。
さらに実弘達を困惑させたのは、コロと茶々丸までも何も食べなかったことだ。
食べないどころか、水を飲むことさえしない。
それでいて、体調を崩す様子もない。至って健康で元気なのだ。
明らかに、普通ではない。
「ああ? ……どういうことだ?」
「いや、俺にもわかんないっすよ……」
繰り返すが、普通ではない。
ガリガリと頭を掻いて、最近クセになりつつあることに気付いた。
その内にハゲてしまうかもしれない、などとつい考えてしまった。
「ああ、まあ、大丈夫だよ。心配すんなァ」
自分をじっと見つめる禰豆子に、実弘は頭を掻いて――途中で意識して止めて、言った。
「気が済むまでいりゃあ良い。ガキの面倒くらい、見てやるよォ」
たとえ、どれだけおかしな子どもだとしても。
だから、と見捨てられるような器用さを、実弘は持ち合わせていないのだった。
そしてそんな実弘だから、後輩も何も言わずに協力してくれるのだ。
そんな2人を、禰豆子はじっと見つめていた。
◆ ◆ ◆
――――いつもの公園。
いつもと変わらない、穏やかな陽気の日だった。
それなりに広い公園のはずだが、しかし不思議と他に人はいなかった。
だからだろうか、その日は妙に寂しい雰囲気になってしまっていた。
いつもとそう違わないはずなのに、そう思ってしまうのは、見る側の気持ちがそうだからだろうか。
寂しいと感じるのは、己が寂しいからだろうか。
などと、つい出来の悪い詩人のようなことを考えてしまって、炭彦は自分で自分を笑ってしまいたくなった。
「…………」
そして、
いつも通りのベンチに、彼女はいた。
黒字に赤い彼岸花があしらわれた着物を着て、本を読んでいた。
炭彦はあまり本を読まないので良くわからないが、学術書のような分厚いものではなく、手軽に読める文庫本のようだった。
陽気に包まれた公園の中で、黒い着物姿は良く目立っていた。
ただ炭彦の目には、着物よりも、ハーフアップにまとめられた艶やかな黒髪の方が目に留まった。
黒いリボンでまとめられた髪は、風に撫でられて微かに揺れていた。
香水なのか、洗髪料なのか、炭彦のところまで良い香りが流れて来るようだった。
「…………あら」
気付いたのは、向こうが先だった。
炭彦が立ち尽くしているのが視界の端に映ったのか、あるいは気配を察したのか、何なのか。
とにかく彼女は炭彦がやって来たことに気付いて、膝の上で本を閉じた。
もしかしたら、特に集中して読んでいたわけではないのかもしれなかった。
何となく、そうしていただけで。
あるいは、他のこともそうだったのだろうか、と、そんなことを考えてしまった。
彼女にとって、実は何もかもが
そんなはずはないのに、何故か、そんな風に思ってしまった。
「こんにちは、竈門君。
「……はい。はい、瑠衣さん」
自分に微笑を向けてくれる瑠衣に、炭彦は頷きを返した。
それから視線を戻して、瑠衣は膝の上で閉じた本の背表紙を指先で撫でた。
その綺麗な指先を、炭彦は目で追った。
「来ました。瑠衣さん」
「ええ」
じゃあ、と言って、瑠衣はその場に立ち上がった。
本は、ベンチに置いていた。
そのまま着物の裾を直して、炭彦の前に立った。
そして、やはり、微笑を浮かべて言った。
「ずっと、待っていました」
今日も来てくれたと言いつつ、ずっと待っていたと言う。
矛盾。
しかし、ここでは矛盾しない。
何故なら。
「やっと……
何故ならば、炭彦の手には父から託された日輪刀が握られていたからだ――――。
◆ ◆ ◆
日輪刀。
鬼を斬るための武器。
それを手に、炭彦は
炭彦が日輪刀を持っている。正確には、刀袋に包まれたそれを持っている。
その事実に、瑠衣はどこか満足そうな顔をしていた。
瑠衣の表情が余りにも綺麗で、炭彦はつい、目を逸らしてしまった。
そんな炭彦を、瑠衣は
「……何というか、普通なんですね」
「普通というと?」
「いや、だって……全然、大丈夫そうに見えるから」
「ああ……」
正直なところ、自分でも何を言っているんだ、と思ってしまった。
会話、というか、言葉が
けれど瑠衣は、やはりそんな炭彦を悪く言うことは無かった。
むしろ彼の言いたいことを正確に理解して、頷きさえしてくれた。
「気を張っているだけですよ。こう見えて。結構、頑張っているのですよ?」
くう、と、そんな音がした。
それは瑠衣の腹部から聞こえてくる音で、以前にも聞いたことがあった。
炭彦はその時、
嗚呼、何て馬鹿だったのだろう。
あの時は気付いていなかった。気付こうともしなかった。
自分はただ、あの時も――そして今も。
(
良く見れば、おかしいことに気がつけるのに。
瑠衣はいつだって、自分に微笑みを向けていた。
いつも、どんな時でもだ。
考えてみれば、おかしな話ではないか。
自分はどうして、瑠衣の
「竈門君の前だから。頑張って……見栄を張っているだけです」
気を張っていないと、表情が崩れてしまうからだ。
微笑みで覆い隠さないと、耐えられなかったからだ。
そして自分はついに、ここに至るまでそれに気付くことが出来なかった。
瑠衣の
自分の前だから見栄を張っているというその言葉に、胸が張り裂けそうだった。
「……さて。そういうわけで、竈門君」
胸に手を当てて、瑠衣は――やはり、いつも通りの微笑を浮かべて。
真っ直ぐに、炭彦を見つめた。
「私を、殺してくれますか?」
そして、そんな瑠衣に対して、炭彦は。
「――――
刀袋の封を解きながら、日輪刀の柄を握った。
そして、言った。
「
「――――良く出来ました」
瑠衣は、やはり優しく微笑んでいた。
炭彦は、笑わなかった。
それはとても、対照的だった。
◆ ◆ ◆
――――今少し、時間を遡る。
場所は産屋敷の病室。
その場で、炭彦が「瑠衣を殺さない」と宣言した直後のことだ。
時間にしてみれば、ほんの数分のことだろう。
『まず、キミは煉獄瑠衣を
先程までの会話は何だったのか。
そう思える程にあっさりと、産屋敷はそう言った。
こいつはやっぱり頭がおかしいのではないか?
傍らで話を聞いていた――もとい、読んでいた――カナタなどは、もうはっきりそう思ってしまった。
炭彦も、困惑の色を隠さなかった。
一方の産屋敷はと言えば、少年達の困惑を
おそらく、かなりの体力を消耗しているのだろう。入力の速度は早いとは言い難かった。
それでも何も言わず、急かすようなこともせず、炭彦は産屋敷の言葉を待った。
『キミの、煉獄瑠衣を殺さないという選択。決断は、
正しい。産屋敷はそう言った。
瑠衣を
瑠衣を滅ぼそうとした愈史郎も。
そして瑠衣を止めようとした禰豆子も、正しい。
何故ならば彼ら彼女らは皆、
煉獄瑠衣は、殺さなければならない。
殺してしまうしかない。そういう結論を、彼ら彼女らは共有していた。
違いがあるとすれば、それをどう成すか、という点だけだった。
『矛盾するように聞こえるかもしれない』
ぜえぜえと呼吸を荒げながら、産屋敷は続けた。
入力するという行為そのもので、命を削っている。
生きているだけで生命力を使う。
他人よりも限られたそれを使って、産屋敷は言った。
『けれど、キミはそうしなければならないんだ。それはキミにしかできないことだ』
「ちょっと、さっきから言っていることの意味がわからないんだけど?」
『だから、矛盾して聞こえるかもしれない、と言った。私はただ』
ごほ、と、濁った咳をした。
そうしながら、彼は指先で何かを操作した。
ナースコールかとも思ったが、どうやら違ったらしい。
モニターの後ろからカバーがスライドして、ケースが出て来た。
「これは……?」
視線に促されて炭彦が手を伸ばすと、軽い音がしてケースが開いた。
中は冷凍状態にあったのか、指先にひやりとした空気を感じた。
ドライアイスが溶けだした時のような白い靄が一瞬、視界の中で泳いだ。
そして靄が消えると、そこには三本の小さなアンプルが収められていた。
『それは珠世さんが、そして愈史郎さんが遺してくれたものだ。
アンプルの中には、青く発光する液体が入れられていた。
『最後の青い彼岸花を使った、
それが最後だ、と。
ぐったりとベッドに身を沈めながら、呼吸しにくそうに喘ぎながら、そう繰り返した。
『竈門炭彦君。もう一度、言おう』
それを最後に、産屋敷は意識を失った。
モニターには、彼が最後に入力した彼の言葉が点滅していた。
炭彦の瞳に焼き付けようとするかのように、何度も、点滅していた。
『キミは煉獄瑠衣を殺すために、生まれて来た子どもだ』
モニターに映るその言葉を、炭彦は見つめた。
長い時間、ずっと見つめていた――――。
最後までお読みいただき有難うございます。
そろそろ終わりそうな気がする(え)
それでは、また次回。