ぶっちゃけ、その場の勢いだった。
何か考えがあって、そうしたわけではない。
ただ、確かに炭彦には
「たあああああ――――っ!」
全速力で走り、そして全力で跳躍した。
迷いは無かった。いや、嘘だ。迷いはあった。かなりあった。
何しろ、
恐れがあって
炭彦は、普通の子どもなのだから。
(でも、視えたから……!)
赤い赤い、恐ろしい血の海の中に、炭彦は視た。
瑠花の足元に、視えた。
――――
目には見えない。
肉眼には、物理の世界には、たぶんその穴は存在しない。
わかるのだ。何故かはわからないが、わかる。
「チョ、冗談デショッ!?」
何より瑠花の反応で、確信を得た。
これまで少しも表情を――瑠衣の振りをしていた時は別として――崩すことが無かった彼女が、慌てた表情を見せたのだ。
物理ではない、今の眼でないと見つけられないあの
そこに炭彦が跳び込むのは不味いと、知っている顔だった。
(だったら)
一瞬だけ、禰豆子と目が合った。
負傷し消耗している禰豆子は、立ち上がることは無かった。
炭彦を追うことはせず、静かにこちらを見つめていた。
そして炭彦と視線を交わすと、柔らかく微笑んだのだった。
その微笑みに、炭彦は胸が締め付けられるのを感じた。
どうして、
瑠衣も、禰豆子も、どうしてあんな風に微笑えるのだろう。
自分が苦しくても、辛くても。それでも、彼女達は微笑む。
(――――行くしかない!)
迷いも
地面しかない。そうとしか思えない場所に、跳び下りた。
しかし、
踏んだのは血であり、地では無かった。
「待ッ……!」
焦りの表情を浮かべて、瑠花が手を伸ばした。
炭彦を掴むべく伸ばされたその腕はしかし、僅かに届かなかった。
まるで手を伸ばされるのをわかっていたかのように、炭彦が身を捻ったからだ。
「……ッ!」
瑠花が歯噛みする音を耳にしながら、炭彦は
着地、もとい、着水した。
生温かい水の感触と共に、視界が一瞬、真っ暗になった。
そして。
◆ ◆ ◆
「――――行ったわね」
炭彦の気配が
それに対して「あ?」と不機嫌そうに声を上げたのは、獪岳だった。
2人の間には日輪刀が握られていて、つい一瞬前まで戦っていたことがわかる。
「あの子、
「……ああ、
手を出せないと言っても良い。
何故ならば、あの場所は文字通り瑠衣の内面に触れる場所だからだ。
だから、実は
瑠花が焦ったのは、そういう理由もあってのことだ。
ただ炭彦なら大丈夫だろう、という予測は出来ていた。
何しろ彼は、瑠花が――瑠衣がずっと待ち望んでいた人間なのだから。
「それにしたって、当てが外れるってことはあるだろうよ」
「そこまでは私も面倒見切れないわよ」
「……怖ぇ女だよ。お前は。いやマジで」
外れを引く気など最初から無かった癖に。
いや実際のところ、炭彦が失敗したところで何の損もないのだ。
その時は、きっと禊は「あーあ」という顔をして、そして次の瞬間には忘れているのだ。
悪魔的な女だ、と、獪岳は思ったのだった。
「…………ふう」
そして、禰豆子だ。
彼女は元の位置を動いていない。
血の海があった場所に、そのまま膝をついている。
瑠花はいない。
相当に焦っていたのか、あるいは禰豆子がもはや脅威ではないと映ったのか。
仮に後者だとすれば、当たっている。
今の禰豆子は血をほとんど失い、力尽きていると言って良い状態だからだ。
「身体を小さくして、節約しないと……」
大人の背丈だったその身体は、すでに小学生ほどに縮んでいる。
がくん、と、禰豆子の頭が揺れる。
いけない。眠りかけている。
人間を喰わない禰豆子は、睡眠がエネルギーを確保する唯一の手段だ。
しかし、今この場で眠るのは余りにも危険だった。
「炭彦君が、戻って来るまでは」
「ううん、そうだねえ。彼には戻って来て貰わないと、おじさんも困っちゃうからさ」
「……! 貴方は……」
眠気を堪えながら、首だけを何とか後ろに動かした。
するとそこには、誰かが立っていた。
「さあて」
霞む視界の中で、1つだけわかったことは。
「鬼が出るか、蛇が出るか」
その人物が、日輪刀を持っている、ということだけだった――――。
◆ ◆ ◆
落下する夢を見たことがあるだろうか。
現実にはそうなっていないのに、顔にかかる風や腹の奥にぐっと来るような感覚を、リアルに感じたものだった。
まあ炭彦の場合、毎朝の登校で自宅マンションから飛び降りを繰り返していたせいもあるかもしれないが。
「落ち……落ちてる……!?」
だがそれは一瞬のことで、すぐに突き抜けた。
顔に、いや全身に風を感じて目を開ければ、自分が落下していることに気付いた。
視界に飛び込んで来たのは、赤、だった。
自分の視覚がおかしくなったのかと思ったが、そうではない。
目に映るすべての物が、ペンキでも塗りたくったかのように真っ赤だったのだ。
しかも空気がむっとしていて、呼吸しにくい。
「な、何……ここ?」
落下しながら首を動かせば、四方がかなり広いことに気付く。
壁が丸みを帯びているように見えたから、円柱形をしているのかもしれない。
しかし、赤一色だ。
見つめ続けていると、目がチカチカして辛い。
「そうだ。さっきみたいに……」
肉眼で見ようとしてはダメだ。
何とか呼吸を整えて、集中して――落下の浮遊感を感じながらではあるが――視なければ。
そう思って、胸に手を当てて呼吸を整えようとした時だ。
「――――マッタク、困ッタ子ダヨ」
声が、上から聞こえた。
身体を丸めるようにして下――つまり上――を見れば、思った通り、瑠花がそこにいた。
追いかけて来たのか。
どうも炭彦よりも早い速度で落ちているらしく、少しずつ距離を縮めて来ていた。
「ここは、いったい何なんですか!?」
「ワカラナイデ跳ビ込ムンダカラ、豪気ダネ」
やれやれ、と言うように肩を竦めて、瑠花は言った。
「ココハ、私達ノ……
「瑠衣さんの、中?」
言葉の意味は、良くわからなかった。
当の瑠花にも、説明しようという意思は感じられない。
「瑠衣ニ会イタイト言ッタネ」
なら、探してみると良い。
瑠花はそう言った。
そして彼女は、ただし、と付け加えた。
「
「それってどういう」
瑠花の方を見ていて、炭彦は気が付かなかった。
いつの間にか、自分が
◆ ◆ ◆
正直なところ、死んだと思った。
マンションから飛び降りるのとは訳が違う高さからの落下なのだから、そう思うのも当然だった。
しかし幸いなことに、炭彦が落下した場所は柔らかい場所だったのか、落下による痛みなどは全く感じなかった。
いくら落下地点が柔らかいと言っても、あれだけの時間落下していて無傷はあり得ない。
重力の働き方や物理法則が、
しかし底についてしまった後は、普通に立ち上がり、歩くことが出来ている。
「ここは、どこだろう……?」
先程までの異様な赤い空間は、そこには無かった。
目の前に広がっていたのは、むしろ逆だ。
圧倒的な、緑。
緑豊かな森が、目の前に広がっていた。
背の高く無数の
そして、肌に貼り付くような湿気。
植生は東京ではあまり見ない、どちらかと言うと熱帯雨林が近いだろう。
「瑠花さん?」
瑠花の返事は、無かった。
というより、気配を感じない。
いなくなっている。
「じっとしているわけにも、いかないよね」
とりあえず、歩こうと思った。
当てなどは全くないが、じっとしていても仕方がないからだ。
何となく、気の向いた方向へと足を向ける。
不思議と、歩き出す方向には悩まなかった。
「ここに、瑠衣さんがいるのかな」
言葉を口に出しているのは、不安の裏返しだった。
無理もない。
それだけ、目の前で起こっている出来事が非常識なのだ。
「ん……?」
少し歩くと、変化があった。
足元が段々と砂になっていって、周囲の木々の幹が徐々に細くなっていく。
そして、匂いだった。
湿度の高い森の匂いから、乾いた土のような匂いが強くなっていく。
それは、歩を進めるごとに強くなっていった。
「うわ、海だ」
旅行会社のCMにでも出てくるような砂浜に、炭彦は出て来た。
背後には密林、目の前には海と砂浜。
どうやらここは、どこかの島らしかった。
いや、島らしかった、と簡単に言ってはいるものの、明らかに異常だという意識はあった。
森? 島?
もちろん、そんなはずがない。しかし実際に目の前でそうなっている。
「え……」
それに、そういう疑問について思考を巡らせるている暇も無かった。
砂浜に、1人の女性が立っているのを見つけたからだ。
◆ ◆ ◆
一瞬、瑠衣かとも思った。
その女性が着物姿だったからだ。
しかしすぐに違うとわかった。
何故ならばその女性は、着物の上に白衣を着込んでいたからだ。
「……珠世先生?」
珠世だった。見間違えるはずもない。
いや正確には炭彦は珠世には会ったことがなく、愈史郎が化けていた姿だったのだが。
しかしその容貌は、間違いなく珠世だった。
ただ、炭彦の記憶にある印象とは違っていた。
炭彦が知る――繰り返すが、愈史郎が演じていた姿だが――珠世は、美しい女性だった。
常に微笑みを絶やさず、患者に寄り添い、誰からも好かれていた。
しかし目の前にいる珠世は、何と表現するべきか――――。
「こんばんは。〇〇さん」
「え?」
――――
容貌は変わらない。美しいままだ。鬼はけして変化しない。
しかしその表情は暗く、白衣は赤茶けてボロボロで、着物の裾などいくつも
髪も整えられていないのか、乱れている。
炭彦の知る珠世とは、雰囲気がまるで違っていた。
「えっと、珠世先生?」
珠世は、ゆっくりと近付いて来た。
炭彦は、動けずにいた。
何か言葉をかけることも、やはり出来なかった。
「……え? あれ、え?」
いや、より正確に言うのであれば、身体の自由がきかなくなっていた。
炭彦の意志によらず、身体が勝手に動いている。
戸惑っている内に、珠世が目の前にまで来ていた。
彼女は、自ら腕を開くと、眠るように目を閉じた。
そしてそんな彼女に、炭彦は手を伸ばした。
「
その手は、炭彦の手では無かった。
確かに炭彦の手は、まだ子どもというのもあって男らしいという風ではない。
しかし、こんなに白くはないし、こんなに細くもない。
それでいて、見覚えがある気がする手指。
「珠世せ……ん、せい?」
その手指が、珠世を抱き締めた。
珠世も拒絶せず、その抱擁を受け入れる。
少し慌てた炭彦だが、すぐに羞恥などという感情が消えた。
「は……?」
抱き締めた珠世が、自分の身体に
珠世の顔が自分の胸の下にずぶずぶと沈んでいく様を見て、血の気が引く。
何よりも、異物が自分の中に入り込んで来る
「う、わ……うわっ、うわあああああああああっっ!!??」
炭彦は、悲鳴を上げた。
◆ ◆ ◆
「うわあっ!?」
悲鳴を上げて、炭彦は飛び起きた。
仰向けに寝ていたらしい。上半身を起こした姿勢で、地面に座っていた。
激しく上下する肩に、脂汗の滲んだ額。血の気の引いた青白い顔。
気分は最悪で、余りの吐き気に胸を押さえて蹲ってしまう。
「い……今のは……夢?」
森も砂浜も、そこには無かった。
もちろん、珠世もいない。
身体の前面を確認しても、当然だが何もない。
そしてそこまで確認して、身体の自由がきくことに気付いて安堵した。
先程の光景は、夢だったのだろうか。
夢にしては、嫌に生々しかった。
こうしている今でも、あの感触を――珠世が身体に入り込んで来る感覚を思い出すことが出来る。
まるで、つい今しがた本当にそうしたかのように。
「それに、またここかあ」
しばらく休んだ後、炭彦は改めてあたりを見渡した。
そこは、元の赤い空間だった。
炭彦は、自分が細長いトンネルのような場所にいることを察した。
赤一色なのでわかりにくいが、床と天井、左右の壁にはさほどの距離がなく、丸みを帯びていることに気が付いたからだ。
「どっちに行けばいいんだろう」
トンネル状の構造なので、自然、動ける方向は前か後ろしかないことになる。
ただし、そのどちらに行けばいいのか。
そもそも当たり外れがあるのかさえわからないので、どちらも何もないわけだが。
ただ先程の出来事を思えば、慎重にもなろうというものだった。
「そうだ。呼吸を」
呼吸を整えて集中すれば、何かが視えるかもしれない。
むやみに進む方向を決めるよりは、その方が良い気がした。
まず、落ち着くことだ。
気分はいくらか良くなったが、まだ気持ちが落ち着いたとまでは言えない。
ふーっ、と、大きく息を吐いた。
あの公園で、瑠衣に教えて貰った呼吸法だ。
浅く吸い、深く吐く。そうしていくと、段々と視野が、意識が狭くなっていく。
そうして余計なものを削ぎ落とす。
気持ちを落ち着けるという意味でも、今は有効だった。
「ふうううう……」
5分ほども、そうしていただろうか。
座禅を組んだ炭彦は、汗が引き、顔色も元に戻って来ていた。
目を閉じているのは、余計な情報を入れずに集中力を高めるためだった。
周囲に音がないことも、この場合は前向きな材料になった。
(このまま、周りを
十分に集中力が高まったところで、炭彦は目を開けた。
前を視た。何も無かった。
次いで後ろを視た。何も無かった。
もう一度いうが、
「え?」
戸惑いの声を上げた、次の瞬間だった。
足元にも
そこは、まだ底ではなかったのだった。
◆ ◆ ◆
顔を
今度は、不自然に柔らかいというわけではなかった。
打ち付けた頬を擦りながら、身を起こした。
「え、雪……?」
空からちらちらと、白い物が降って来ていた。
一目で雪だと理解したが、余りにも季節外れで疑問符がついてしまった。
しかし足元に積もっている物は、やはり雪だった。
上を見上げると、そこには天井も赤い色もなく。分厚い灰色の雲が見て取れた。
そこまで認識すると、肌を刺すような鋭い冷気を感じて身を竦めた。
そしてその身を竦める動作で、炭彦は自分の身体がまた勝手に動いていることを理解した。
しかも今度は、
「えっと、女の子の手……かな」
手指が細いとかそういうことではなく、シンプルに身体が小さい。
しかもやけに足元が寒いと思ったが、裸足だった。
積もった雪の上で、裸足で立っている。それは寒いだろう。
実際、炭彦の――自由がきかないが――身体は、自分の身を抱いてガタガタと震えていた。
そして、疑問点がもう1つ。
どうやらこの女の子は着物を羽織っているようなのだが、明らかに大人用だった。
余りにもブカブカなので、着ているというよりは無理矢理に巻いていると言った方が正しい。
そんな着方をした着物に防寒性などあろうはずもない。
雪降る極寒の中、ほとんど裸で立っているようなものだった。
「この子は、いったい」
ここまで来ると、流石に炭彦にも理解できた。
先程の珠世との時もそうだった。
今の自分の視界は、誰かの視界だ。
(集中しないと)
目に見えるものを、信じるべきではなかった。
正しい呼吸をすれば、何にも惑わされない。
呼吸を。集中を。炭彦は自分に何度もそう言い聞かせた。
「はああ……はああああ……はああああ――っ」
違う。間違えるな。
今の自分の口から出ているのは、自分の呼吸ではない。
誰かの、
自分と重ねるな。たとえ。
たとえ、
「――――〇〇ッ!」
その時、どこからか
いや、違う。
自分ではなくて、この女の子だ。
「〇〇……お前。呼吸を……」
燃えるような髪の、壮年の男性だった。
お酒の匂いがしたが、素面のようだった。
そんな男性が自分を掻き抱いて、驚いたような顔をしている。
「それに、この着物は……母の……」
誰かに似ているような気がする。
しかしそれが誰だったかを思い出す前に、炭彦は自分の視界が暗くなっていくのを感じた。
集中しなければ。
それだけを、念じながら。
◆ ◆ ◆
手に、鈍い感触を感じた。
包丁で分厚いハムを切った時のような、それよりも硬質なような、そんな感触だった。
はっきり言えば、嫌な感触だった。
そして目の前に転がった物を見て、炭彦は自分が何をしたのかを理解した。
「ひっ」
歯を食い縛った、恐ろしい形相をした男の頚だった。
そして自分の手には、大振りの日本刀が――日輪刀が握られていた。
何をしたのか、一目瞭然だった。
目の前に転がる死体を見て、炭彦は胸の奥が酷く締め付けられるのを感じた。
それが吐き気だと感じるのに、そう時間はかからなかった。
しかしその吐き気も、目の前の死体が灰になって消えるのを見ると、驚きによって掻き消された。
つい一瞬前まで転がっていた死体が、何も無かったかのように消えてしまった。
(もしかして、あれが……鬼?)
そして例によって、身体の自由はきかない。
勝手に動いてしまう。
ただ、これには慣れて来たので、炭彦は周囲の様子を窺った。
(この匂い、何だか懐かしい気がする)
周りは、また森だった。
先程の海の匂いとは別に、強い花の香りを感じる森だ。
こちらは熱帯雨林っぽくはなく、まだ見覚えのある気がする植生をしていた。
「オイ、テメェ」
後ろから、誰かに声をかけられた。
身体が振り向く。
剣道着のような服を着ていて、刀を鞘に納めたその手指はやはり女子のものだった。
そして振り向いた先に、見覚えのある人物がいた。
(あの人は)
炭彦が知っているよりも幾分か若いが、見間違えるわけはない。
その男は今の自分と同じように、手に日輪刀を持っていた。
ツンツンした黒髪に、不機嫌さを隠そうともしない不機嫌そうな顔。
顔に面影がある。禊と行動を共にしていたあの男だった。
確か、獪岳という名前だった。
「どういうつもりだ。ああ?」
表情通り、かなり不機嫌そうな声だった。
いや、確実に不機嫌だった。
何か我慢ならない、許し難いことをされたような、そんな形相だ。
「テメェ。まさか、俺を助けたつもりじゃあねえだろうな」
今にも殺しに来そうだと、恐怖を感じる程だった。
ただ
「おい!!」
その声に応えることなく、背を向けて歩き出した。
「おい待て、ふざけんな! テメエ――――ッ!!」
叫びにも似た怒声に、再び振り向く。
すると憤怒の形相をした獪岳が、刀を振り上げて跳びかかって来ていて。
炭彦の身体は、自然な動作で腰の刀に手をかけて――――。
◆ ◆ ◆
――――気が付くと、またあの赤い空間にいた。
いた、と言っても、炭彦は周囲を確認したわけでは無かった。
ただ目の前の床が真っ赤なので、そう思っただけだ。
「う…………」
起き上がることが、出来なかった。
蹲る、というより、もはや倒れ込んでいると言った方が正確だろう。
辛うじて腕で上半身を支えているが、そこから動くことが出来ずにいる。
顔色は、青を通り越して真っ白になっていた。
吐き気がする。頭痛が酷い。身体全体が、鉛でも背負っているかのように重い。
起き上がろうという気持ちさえ湧いてこない。
それ程の疲労感が、炭彦を襲っていた。
肉体の疲弊。そして何より精神が疲弊していた。
「大丈夫カイ?」
視界の上の端、つまり炭彦の目の前に誰かの足が見えた。
それは裸足のようで、綺麗な指や爪が見えている。
白い足と赤い色のコントラストに、炭彦の視界はチカチカと明滅した。
意識を失いかけている。それがわかった。
「ドウダッタ?」
その時になって、ようやく相手が瑠花だということを理解した。
心配、とは、違う声音だった。
ただ淡々と事実を確認してきている、そんな気がした。
「い、今の……は……」
「ウン」
瑠花はその場にしゃがみ込んで、こちらを見下ろしていた。
膝に肘を乗せて、頬杖をついている。
炭彦を見下ろす瞳には、何の色も浮かんではいなかった。
「
そう言われて、ああ、と妙に納得した。
その情報を開示されてしまえば、どんなに鈍感でも理解できる。
今のは、今まで見てきたものは――いや。
煉獄瑠衣の、記憶だ。
記憶というのも、少し違うかもしれない。
あれは、いわば追体験のようなものなのだろう。
「
そうだった。
正しい場所を見つけなければならない。
正しい道順を通り、記憶でも記録でもない本物の瑠衣を見つけなければならない。
「辛イデショウ」
辛いなどというものではない。
他人の人生の追体験などというものは、およそ生身の人間に受け入れられるものではない。
余りの情報量に脳が焼き切れてもおかしくないのだ。
異物に対する拒否反応。それに苛まれて、炭彦はすでに満身創痍だった。
「……けど」
けれど。
それは。
「ちゃんと視て探せば、瑠衣さんに……会えるんだ」
「だったら、僕は諦めない」
「ドウシテ、ソコマデ? ソコマデシテ瑠衣ニ会ッテ、何ニナルノ」
「禊さんが、言っていました」
「
吐き気も頭痛も、無視する。削ぎ落とす。
目を閉じて、呼吸を整えろ。
正しい場所だ、と、頭の中で念じた。
集中だ。集中が足りないのだ。
正しい場所を見つけるための集中が、足りないのだ。
だからもっと、もっともっと、集中しなければ。
「……本当ニ、ソックリダヨ――――」
呆れたようなその声が、妙に遠かった。
◆ ◆ ◆
何故かはわからない。
わからないが、突然、全身が熱で浮かされたように熱くなった。
ただ、病気やその類のものではないことはすぐにわかった。
この熱は、そういうものではない。
――――むしろ、逆の意味を持っていた。
「行かなければ……!」
桃寿郎は、走っていた。
表情は一見すると変わらない。いつも通りの快活そうなそれだ。
しかし親しい者が見れば、そこに切羽詰まったものを感じ取っただろう。
彼は今、焦っているのだ、と。
「行かなければならない気がする!」
全力で走りながら良く声を出せるものだが、考えてみれば、炭彦と走りながら登校していた時もあったので、彼にとってはそれほど難しいことではないのかもしれない。
あるいは。
あるいは、
「炭彦のところへ!」
突然だった。何の前触れもなく、桃寿郎はそう思った。
全身が熱くなり、居ても立っても居られなくなった。
気が付けば家を飛び出していて、走り出していた。
そしてこれも無意識のことだが、家を飛び出る前に、桃寿郎は道場に飛び込んでいた。
道場で
そこからノンストップだ。立ち止まることも迷うこともなかった。
ただ前だけを見て、炭彦の――当然、居場所など知らないのだが――下へと急いだ。
(だが、どうしてだろうか)
しかし一方で、桃寿郎は心の中に引っかかるものも感じていた。
炭彦の下へ。それは、嘘ではない。
嘘ではないのだが、それだけではない何かを感じていた。
それは例えて言えば、待ち合わせの時間に遅れてしまい、今も
大いに
(どうして俺は)
その気持ちは、手の中に握り締めている
(どうして俺は、これを――
竹刀袋に包んだそれは、竹刀よりもずっと、ずっとずっと重かった。
これを持って走るのは楽ではないはずだが、今の桃寿郎は苦にも感じなかった。
まるでそれが当然化のように、しっくり来ている。
不思議だと思いつつ、当たり前のようにも思う。
そんな矛盾した考えを胸に抱きながら。
桃寿郎は、全力で走り続けるのだった――――。
最後までお読みいただき有難うございます。
清算の時は近い(え)
それでは、また次回。