――――いったい、どれだけの時間を歩いただろうか。
途中から、数えることもやめてしまった。
炭彦はただ、瑠衣のいる場所を目指して歩き続けた。
「本当ニ不思議ナ子ドモダネ」
その足取りは、けして軽やかなものでは無かった。
重い。時間を経るごとに、その足取りはどんどん重くなっていった。
実際、炭彦は己の身体が鉛のように重く感じて仕方が無かった。
重くて重くて、足を上げ下げするだけでも、想像を絶する程の努力を必要とした。
「ネエ、ドウシテ?」
瑠花は、同じ問いを何度も投げかけていた。
何か妨害をするでもなく、邪魔をするでもなく。
ただただ炭彦の様子を見つめながら、問いかけるだけだった。
曰く、どうしてそこまでするのか、と。
炭彦がこの世界で――あえて世界と表現するが――瑠衣を探す条件は極めて厳しいものだ。
まず瑠衣を見つけるためには、炭彦が「透き通る世界」に入っていなければならない。
そうでないと、炭彦の肉眼にはあの赤い空間しか見えないのだ。
それだけで、極度の集中力を要求される。
「他人ノ人生ヲ体験スルッテ言ウノハ、普通ノ人間ニ耐エラレルモノジャナイ」
さらには、
それ以外の場所に
この時に叩き付けられる情報量というのは、常人に耐えられるものではない。
しかもそれを、炭彦は何度も繰り返しているのだ。
「普通、他人ノタメニソコマデスル奴ハイナイヨ」
まさしく、1歩を進む度に心身を削がれている。
心身から、全身から血を流しながら、炭彦は歩き続けていた。
瑠花の目から見ても不思議な程に、頑なな意思でもって。
だから瑠花は問うた。
どうしてそこまでするのか、と。
日輪刀で殺してしまった方が、ずっと楽なはずではないか、と。
「モシカシテソレハ、愛トイウモノダッタリスルノカナ」
恋愛。慕情。そういった感情からなのか、と。
それは確かに、鬼である瑠花には理解の出来ない感情であっただろう。
人間の愛を、瑠花は理解することが出来ない。
「違います」
だが炭彦は、それを否定した。
では何故だ、と瑠花は問いかけた。
それに対して、炭彦は。
「僕は、ただ……瑠衣さんに――――」
そして、何回か、何十回か、あるいは何百か。
気が遠くなる程の繰り返しの末、炭彦は遂に。
◆ ◆ ◆
畳の部屋。
畳の部屋、だった。
「…………」
気が付くと、炭彦は8畳ほどの広さの部屋にいた。
畳のい草の香り。
初めて来たはずだが、どこか懐かしさを覚えた。
何となく、室内を見渡した。
桐箪笥、鏡台に化粧箱。古びた市松人形に、掛け軸。
そして、日本刀。
刀掛けに置かれた日本刀――日輪刀だけが、平和なその空間において異彩を放っていた。
「…………」
そしてその日輪刀の前に、1人の女性が座っていた。
足を揃えて正座していて、背筋をピンと伸ばし、凛とした雰囲気を纏っていた。
ただ余りにも静かすぎて、目の前にいるのに最初はその存在に気が付かなかった。
そんなことはあり得ないのに、実際に気が付かなかったのだ。
途端に、自信がなくなった。
今、自分が目にしているのはどちらなのだろうか、と。
自分がきちんと集中力を保てているのか、もはやその意識さえ曖昧だ。
それ程までに、余分なものを削ぎ落してしまった。
「……瑠衣、さん?」
声を出せるかどうかでさえ、自信がなかった。
しかし幸いにして、声を出すことは出来た。
そして自分の声を聞くことで、炭彦は自分という存在を再認識することが出来た。
目の前にいる女性は、間違いなく瑠衣だった。
見つけた、という高揚感は不思議と湧いてこなかった。
ただ自然と、そうだと受け入れることが出来た。
「……瑠衣さん」
瑠衣は背を向けたまま、炭彦が呼びかけても答えなかった。
一歩近付いても、それは変わらなかった。
二歩、三歩。反応は無かった。
その代わりなのか、どうなのか。
瑠衣の背中に近付く度に、身体が軋むような気がした。
まるで全身に重しを追加されるかのように、一歩ごとに、しかし確かに。
重い。重くて、理解する。
「瑠衣さん」
それでも、炭彦は声をかけ続けた。
たとえ拒絶されていたのだとしても、構わなかった。
それが瑠衣の意思だと言うのなら、それでも良かった。
ただ、一言だけでも言葉をかけてほしかった。
(それだけで、きっと僕は)
横を回り、正面に。
そして炭彦は、ようやく瑠衣の顔を見ることが出来た。
もう、最後に顔を合わせてから何年も経っているような気さえした。
◆ ◆ ◆
違和感を覚えた。
瑠衣の顔を見た瞬間、炭彦は強い違和感を覚えた。
それが何か、と考えるよりも先に、それは彼の胸中に訪れた。
(何だろう。何か、変な気がする)
白面、というのは、今の瑠衣のことを言うのだろう。
血色が無い人間というのは、ここまで白い顔になるのか、と思った。
しかしそれだけに、文字通り人外めいた美しさを瑠衣に与えていた。
それはまさに触れ難く、侵し難いもののように思えた。
ただ、だからこそ炭彦にとっては違和感だった。
確かに瑠衣は、美しかった。
だがそこには――どんな理由であれ――温もりがあった。
その微笑みには、優しさがあった。
(僕は今、瑠衣さんの前にいる……はずなのに)
瑠衣の前にいるという気が、どこからもしてこない。
矛盾しているが、言葉にするとそういうことになる。
温もりも優しさも感じ取れない冷たい美しさを前に、炭彦は戸惑った。
不意に、瑠衣が目を開いた。
金色に輝く鬼の眼ではなく、普通の黒瞳がそこにはあった。
そこで初めて、人間らしい色が瑠衣の顔に浮かんだ。
目をまん丸く見開いて、それはどこか、炭彦の存在に驚いているように見えた。
まるで、初めて存在に気が付いたかのように。
「――――
「え?」
瑠衣が、初めて口をきいた。
しかし初めての言葉は、拒絶の言葉だった。
だが拒絶されていることは、最初に彼女の姿を見た時にすでに理解していた。
だから、それで気持ちが挫けるということは無かった。
とは言え、
「――――出て行って!」
バンッ、と音を立てて、障子の襖が開いた。
不思議なことに、外が見えるということは無かった。
しかし確かに、そこは
肉眼の視覚ではなく、感覚として炭彦はそれを理解していた。
「うわあっ……!」
引かれた。いや、押された。
その正体が何かはわからないが、炭彦の身体は彼の意に反してその部屋から外へと叩き出された。
遠ざかって行く瑠衣の姿に、炭彦は手を伸ばした。
何かを言わなければならない。そんな気がした。
「瑠衣さん……!」
ただそれが何なのか、咄嗟にはわからなかった。
拒絶されたという事実1つだけを渡されて、炭彦は追い出されることになった。
◆ ◆ ◆
「追イ出サレタネエ」
目を開くと、そこはあの赤い空間だった。
集中が切れたのかと思ったが、視界の端々に別のものが視えていた。
どうやら完全に途切れたわけではなく、強制的に
ただその代償なのか、反動なのか――意識は、かなり朦朧としていた。
「ドウスル?」
瑠衣――ではない、瑠花の声だけがした。
たぶん、すぐ傍にいるのだろう。
意識と視界が思う通りにならないので、姿を確認することは出来ない。
床に蹲る自分を見下ろしているのか、覗き込んでいるのか。
それは、どちらでも同じことだった。
炭彦にとって重要なのは、その点では無かった。
今の彼にとって重要なのは、彼が、
そしてそれは、瑠花にとっても大事なことであるはずだった。
「そこに、いたんです……!」
自分の掌を、見た。
もちらん、そこには自分の掌があるだけだ。
当然、何もない。何かを掴んだわけではない。
しかし確かに、
「瑠衣さんが、いたんです……!」
「……ソウダネ。ソコニ居タネ」
瑠衣がいた。
その事実一つだけで、炭彦は全ての疲労を感じなくなった。
それが錯覚でしかないことはわかっている。
しかし、その事実は確かに炭彦に力を与えるものだった。
「デモ、追イ出サレタネエ」
そう、追い出された。
出て行けと、はっきりと言われてしまった。
瑠衣にそう言われるということは、成程ショックだ。
しかし、違和感は消せない。
先程の瑠衣には、やはり何か奇妙なものを感じた。
何と言えば良いのか、一番気になったのは、目だった。
自分を見つめるあの目が、どうしても気になったのだ。
「ドウスルノ? 諦メル?」
「……いいえ」
まだ、何もわからないままだ。
追い出された理由も、違和感の正体も、何もわからない。
こんな状態で、胸を張って「瑠衣に会った」と皆に言えるだろうか。
――――言えはしない。
誰も、いや炭彦自身が、納得しない。できるはずがない。
「諦めません。まだ……!」
まだ、何も始まってすらないのだから。
だから、まだ諦めない。
幸い、まだ視線は完全には切られていない。
今ならまだ、あの場所に戻ることが出来る。
「アア……」
赤い世界を脱して、もう一度。
もう一度、あの部屋へ――――……!
「ソウダ、ネエ」
相変わらず、瑠花の姿は見えなかった。
◆ ◆ ◆
ふうううう、と、深い呼吸音が響いた。
酷く疲れている。聞いただけでそうとわかる音だった。
しかしそれも、無理からぬことだろう。
何しろ、
「今のは……」
ぐしゃり、と、前髪を崩した。
そのまま掌に目元を擦り付けて、小さく呻いた。
意識が曖昧なのか、強く
「いえ……それより、今は
随分と、長く眠っていた様子だった。
この空間では余り意味はないのかもしれないが、敷布団が彼女の身体の形に歪んでいた。
それだけで、彼女が長い間そこに横になっていたことがわかる。
眠りとは、節約であり癒やしだ。
禰豆子がそうだ。
彼女は外部からのエネルギー補給――人間の血肉を捕食すること――ができない。
そのため、代わりの補給方法として睡眠を採用している。
「今のは、まさか……? いえ、そんなはずが……。ここには、誰も……」
禰豆子と同じ補給方法に頼ることになるとは、何とも皮肉だった。
そして禰豆子を連想したせいだろうか、ある少年の姿が脳裏に浮かんだ。
だがその少年は、もはや悠久の時の彼方にしか存在しないはずだった。
「
奥の奥。奥底を抜けた先の奥底。そういう場所だ。
誰も入って来られない。
瑠衣自身以外の誰にも、見つけられるはずがない場所。
ただ、誤解を恐れずに言えば、これは瑠衣だけが特異というわけではない。
誰の心にも、絶対に他人を踏み込ませない場所というのは存在するだろう。
自分以外、いや、
瑠衣の意識が沈んでいる場所は、そういう場所なのだ。
「……………………まさか」
もしも。
もしもこの場所に、自分以外の誰かが現れることがあるとすれば。
それは、つまり。
「――――瑠衣さん!」
そして、再びだった。
少年の声が室内に再び響き渡り、彼女は、瑠衣はそちらを見た。
そこには、自分を真っ直ぐに見据える少年の目があった。
瑠衣の瞳が、本人の感情を表すかのように揺れた。
◆ ◆ ◆
繰り返しになるが、炭彦がいる場所は、いわば煉獄瑠衣の精神世界である。
より厳密には、瑠衣の――と言うより、瑠衣が
例を挙げれば、あの下弦の壱・
つまりこの世界を視る者は、人外の視力を持っていなければならない。
「透き通る世界」に到達した炭彦の眼は、その
そうやって道を辿り、瑠衣の意識が居る場所へと再びやって来たのだった。
「瑠衣さん……!」
いったい、何度。
今日の1日だけで、いったい何度、瑠衣の名前を呼んだだろうか。
これ程までに人の名前を呼んだことはない。
そして、これ程までに
「……出て行けと」
返って来るのは、やはり拒絶の言葉だった。
しかしそれ以上に感じるのは、やはり
「出て行けと、言ったはずです……」
瑠衣は、日輪刀を手にしていた。
抜いてはいない。ただ鞘を掴んでいるだけだ。
しかし、その意思は明確だった。
ここから出て行け。言葉の通りだ。
だが、それでもやはり
何かが違う、という意識が頭から離れない。
目の前に瑠衣がいて、言葉を発している。意思を明確に示している。
それなのにどうして、
(おかしい。そこにいるのに、どうして……)
それは、瑠衣が日輪刀を――普通の刀よりも短い小太刀――を抜いてもなお、変わらなかった。
いや、もっと正確に言うのであれば。
(どうして、こんなにも遠く感じるんだろう)
日輪刀の切っ先を向けられた後でも、その考えが変わることは無かった。
そのまま、瑠衣が近付いてくる。
常人には、その動きは俊敏なものに映ったかもしれない。
しかし「透き通る世界」に入門している炭彦には、その一挙手一投足が良くわかる。
けれど、炭彦は動かなかった。
すると自然、瑠衣との距離はどんどん縮まっていくことになる。
そのはずなのだが、不思議なことに炭彦にはその実感が湧いてこなかった。
何故なのかは、やはりわからない。
(まるで……)
――――気が付くと。
瑠衣の日輪刀の切っ先が、炭彦の胸に突き立てられていた。
◆ ◆ ◆
瑠衣に刺された瞬間、そして間近で顔を見た瞬間、炭彦は違和感の正体を理解した。
どうりで、
「ソウダヨ。キミノ思ッタ通リサ」
瑠花の声がした。
今にして思えば、不思議――いや、不自然だった。
炭彦と行動を共にしていたはずなのに、どうして瑠花は瑠衣に話しかけなかったのだろう。
いや、違う。その認識は正確ではない。
少なくとも、瑠衣はずっと話しかけていたからだ。
ただ、炭彦が誤解していただけだ。自分が話しかけられていると、誤解していただけだ。
会話が噛み合わなかったのも当然だ。
(瑠衣さんには)
瑠衣の日輪刀は、炭彦の胸を貫いている。
痛みもないし、血も流れていない。
まるで幻かホログラムかのように、擦り抜けている。
そして、瑠衣の目だ。
真っ直ぐにこちらを、否、
だがその瞳に、炭彦はいない。映っていない。
瑠衣が見ているのは、炭彦の
(瑠衣さんには、僕が視えてない!)
ずるり、と、炭彦の胸から腕が生えて来た。
背中から擦り抜けて来たそれは、瑠花の腕だった。
血を、流していた。掌の真ん中を貫かれているのだから、当然だ。
しかし怯んだ様子もなく、むしろ自分から掌を押し込んでいた。
「キミニハ感謝シテイルヨ、
瑠花の手はどんどん進み、瑠衣に近付いていく。
瑠衣は表情を歪めながら、力の均衡を保とうとしているのか、両手で刀を握っていた。
しかし、有利なのは明らかに瑠花の方だった。
「キミナラキット、瑠衣ヲ見ツケテクレルト思ッテイタヨ」
「どういう、ことですか」
「言葉通リノ意味サ」
もしかして、と、炭彦は思った。
何か、自分は何か、とんでもない取り違いを、していたのではないか。
何か取り返しのつかないミスを、してしまったのではないのか。
「瑠衣ヲ見ツケテクレテ、アリガトウ」
アハッ、と、瑠花が耳元で嗤った。
そしてその頃には、炭彦を擦り抜けて、上半身が前に出ていた。
瑠衣の目も、当然、そちらを見る。
そう。
「アハ……アハッ、アハハッ、アハハハハハハハハハハハッ!!」
瑠衣が見ていたのは炭彦ではなく、瑠花だったのだ。
「
余りにも。
余りにも、気付くのが遅かった。
竈門炭彦は、己の無能を呪わずにはいられなかった。
◆ ◆ ◆
――――赤い世界。
「どういうことですか」
答えなど、とうにわかっている。
わかっているが、聞かずにはいられなかった。
もはやいちいち姿を確認などしないが、瑠花が傍にいることは理解していた。
いないはずがない。
ここは瑠衣の精神世界であり、
瑠花が常に傍にいるのは当たり前のことだったのだ。
「これは、どういうことなんですか。瑠花さん」
クスクスと、嗤う声がした。
すぐ傍で、瑠花が嗤っていた。
その事実に、炭彦はぎゅっと掌を握り締めた。
「ドウイウコトッテ。ワカッテイルデショ?」
音がする。
この赤い世界が、なくなる音がする。
それは、この世界に致命的な何かが起こってしまったのだと、理解するには十分すぎるものだった。
そしてそのトリガーを引いたのが、他ならぬ自分なのだと、炭彦は思っていた。
「瑠衣ヲ見ツケタンデショ」
瑠衣を見つける。会いに行く。
それが炭彦の目的だった。それは間違いない。
ただ炭彦にとって想定外だったのは、
彼女もまた、瑠衣を探していたのだった。
「でも、あなたは瑠衣さんと話をしていた」
そう、炭彦達の目の前で、瑠衣と対話する様子を見せていた。
事ここに及べば、流石の炭彦も理解していた。
あれは、演技だったのだ、と。
「キミニハ感謝シテイルヨ」
そんな炭彦に、瑠花は言った。
「
その言葉を受けた時の炭彦の表情は、言葉で表現することが出来なかった。
様々な負の感情がない交ぜになったような、複雑な表情だった。
その複雑な感情を煮詰めた先に表出したのは、怒りの感情だ。
それは、温厚な少年である炭彦にとって、生まれて初めて感じるものだった。
「――――――――ッ!」
炭彦は、叫び声を上げた。
上げたと思う。
日輪刀を握り締めて、生まれて初めて、害意を持って相手にそれを向けようとした。
しかし、それが瑠花に届くことは無かった。
「竈門君!」
誰かの腕が炭彦の頚にかけられて、身体が強く引かれたからだ。
押し出されたのか、引き上げられたのか。判然としない。
わかっているのは、自分がもうこの世界にはいられないと言うこと。
遠ざかって行く瑠花の姿に、炭彦は手を伸ばした。
そして、もう一度、何かを叫んだ。
「モウ一度、言ワセテホシイ――――…………」
返って来たはずの言葉は、しかし、炭彦の耳には届かなかった。
そして、すべてが暗転した――――。
◆ ◆ ◆
ただ目の前にあるのが地面だと気が付くと、一気に
土の手触り、肌に貼り付く空気。そして、外の匂い。
「う、うう……ううう……」
すぐ傍で、誰かが呻き声を上げていた。
覚えのある匂いと声に、炭彦の意識はすぐに覚醒した。
その場に跳ね起きる。
すると、着るものもほとんど着ていない瑠衣の姿がそこにあった。
両手で己の身体を掻き抱くようにして、身体を前に倒している。
その表情には、苦痛の色しか無かった。
何秒かおきに発作でも起こしているのか、びくん、と身体が跳ねている。
その度に唇から血の色の混じった唾が噴き出し、呻き声を上げていたのだった。
「る、瑠衣さん!?」
何の根拠もないが、炭彦はそう確信した。
そして地面を這うようにして近付くと、その背中に手を置いた。
「う、あ」
びくん、と瑠衣が身体を震わせたので、咄嗟に手を放した。
だが瑠衣に触れたその一瞬で、炭彦の手は異様に気が付いた。
触れた背中。その肌の下で、何かが蠢いているような感触があったからだ。
「ああ、あ。あああ……がっ、か……ま」
苦し気に咳き込みながら、瑠衣は炭彦を見た。
炭彦と、彼が持ち日輪刀を見た。
「かま……竈門、くん。私、を、き……」
何が言いたいのかは、すぐにわかった。
先程と同じだ。わからないはずがない。
「私を、斬って……こ、ころ……して」
炭彦の全身に、再び滝のような汗が噴き出し始めた。
何だったのだ。その思いが何度も頭の中を巡った。
こうならないための努力だったはずなのに、何も変わっていない。
「は、はや……く。
何も変わらず。再びの選択だった。
しかも今度は、明らかに自分の失敗だった。
瑠花を信じた自分が、瑠衣を追い詰めてしまった。
それがわかる。わかってしまう。
しかしそれでも、炭彦には出来ない。
選べない。
決断できない。
選びたくない。決断したくない。
(ああ、駄目だ。決断できない……! 決断……!)
そして、
瑠衣の身体から、その背中から、嫌な音がした。
その音を聞いた瞬間、炭彦は、もう何をしても間に合わないということを理解した。
「あ、ああ……あ、あああああああああああ……っ!!」
肉が、潰れる音がした。
◆ ◆ ◆
――――吐いた。
何に対して嘔吐したのか、もはやわからなかった。
緊張と自責の念からか、あるいは極度の疲労からか。
それとも、目の前に広がる光景が余りにもグロテスクだったからか。
「あああああああああああぁぁぁ」
悲鳴が聞こえる。
瑠衣が、目の前で悲鳴を上げている。
苦痛に、叫び声を上げている。
瑠衣の背中から、何かが出てきていた。
肉の塊のような何かが、ブチブチと音を立てながら膨れ上がっている。
それは細い肉の管のような物で瑠衣の背中と繋がっていて、脈打ちながら肥大し続けていた。
そう。今まさに、膨らみ続けていた。
「な、なに。何が、これ」
胃の中身は、もうすべて吐き出してしまった。
それでも身体の内側が引き攣るのは止められず、目の前がぐるぐると回転して見えた。
もはや、冷静な判断が下せる状態では無かった。
「あああああああああああっ!」
瑠衣が、悲鳴を上げる。
肉塊が、肥大化する。
目の前の光景は永遠に続くのではないかと、そんな風にも思えた。
「ああ、あああ、ああああ……ああっ……!」
しかし、少しずつ。
少しずつ、瑠衣の悲鳴が短く、そして小さくなっていっているような気がした。
肉塊の勢いは止まらないのに、反比例するように悲鳴は小さくなっていく。
それがいったい何を意味するのか。
それさえも、今の炭彦には判断が出来ないのだった。
「馬鹿野郎ッ!!」
そんな炭彦に、誰かが怒鳴った。
まともな思考力の残っていない炭彦は、その声がどこから、また誰のものかもわからなかった。
わからなかったから。
「――――ぼさっとしてねェで、斬れ!
わからなかったから、反射的に、声の言う通りにした。
日輪刀を掴み、瑠衣と肉塊の間に伸びている管の束を、真上から切断した。
細い管とは言え、肉を切断する不快な感触に眉を顰めた。
さらに切断した管から、血とも粘液とも言い難い生温かい液体が噴き出して、炭彦の半身を汚した。
「あ――――……っ」
この行動が正しかったのかは、わからない。
瑠衣が倒れ伏して動かなくなったのを見て、さらに不安になった。
しかし彼を安堵させる言葉は、意外な場所からやって来た。
「アア、今ノハ良イ判断ダッタト思ウヨ」
瑠花の声だった。
だがそれは、
瑠衣とは別に、発された言葉だった。
「アノママダッタラ、
肉が潰れ、掻き混ぜられる音の中から、その声はした。
瑠衣から離れ肥大化した肉塊が、収縮するように小さくなり、掌サイズまで縮むと、逆にまた膨らんだ。
しかし今度は肉塊のサイズにまで膨らまず、人間大のサイズで留まった。
いや、人間の形を取り始めた。
手足が伸び、胴体が――腹部、胸部が形作られ、そして最後に顔、髪の毛。
赤い血肉が肌色に変化し、人間の女性の姿へと変わっていった。
白い裸身。その腰にあたりに手を当てて、
何もかもを見下しているようなその眼には、金色の――鬼の瞳孔が、浮かび上がっていた。
「る……瑠花、さん……?」
呆然と、炭彦は彼女の名前を呼んだ。
煉獄瑠花が、そこに立っていた。
瑠花は炭彦を見下ろしたまま、造られたばかりのその唇を開き、そして。
いつの間にそこにいたのか、瑠花の背後から、脊椎を砕くようにして。
自分の喉から飛び出した槍の穂先を見て、瑠花は目を丸くしていた。
そしてそのまま、後ろへと視線だけ向けて。
「マジカヨ」
と、潰れた喉で言ったのだった。
最後までお読みいただき有難うございます。
この作品ももうすぐ100万字に到達します。
100万字もお付き合いいただいた皆様に感謝を。
それでは、また次回。