巨大な鬼気を感じ取るや、禊はすでに駆け出していた。
そして長槍形態の日輪刀を、その重量にも関わらず、片手で振り抜いた。
禊はその手に、槍の穂先が相手の脊椎を砕く感触を得た。
「……まあ、うん。そうね」
跳躍の勢いを利用して、そのまま槍を引き抜いた。
とん、と一度地面を蹴り、二度目の着地で止まる。
その間は、ほんの一瞬にも満たない。
「頚は弱点じゃないわよね。当然ね」
しかしその一瞬で、相手――瑠花の喉は、傷一つない綺麗な状態に戻っていた。
ただ唇の端に、噴き出した血の痕が残るばかりだった。
そしてその血も、赤い舌が舐め取って消えてしまう。
自らの血を舐めた瑠花は、余り美味くは無かったのか、軽く眉を
「イキナリ酷イナア」
言葉ほどには酷いとは思っていない様子で、瑠花は言った。
致命傷が瞬きの間に再生する。
その時点で、上弦以上の力ある鬼であることは確定。
とは言えそれ自体は予想されていたことで、驚く要素では無かった。
驚くべき要素があるとすれば、瑠花が
これまで瑠花は、表に出てくる時は瑠衣の肉体を借りていた。
瑠衣の意識が弱い時に表出し、瑠衣の危機を救う。そういう存在だった。
それが今、独自の肉体を得て活動している。
「あら、酷いのはアンタの方じゃない?」
槍の柄を肩にかけながら、禊は言った。
その視線の先には、未だに状況が呑み込めずに呆然と座り込む炭彦の姿があった。
当然ながら、身体的な外傷はない。
しかし精神的な疲弊は相当なもので、顔色は蒼を通り越して白くなっていた。
「こんな良い子を良いように使って、酷いことするわねえ」
「いや、お前も大概だと思うぞ」
獪岳のツッコミについては、誰も触れなかった。
とは言え、事実として瑠花は炭彦を利用した。
炭彦の存在がなければ、今の状況はあり得なかっただろう。
ただただ純粋に
その存在が、炭彦が、瑠花の計画には不可欠だったのだから。
「マア、ソウダネ」
自分を見つめる炭彦に対して、瑠花は頷き、言った。
「キミニハ知ル権利ガアルヨネ。確カニネ。義務ガアルヨネ、私ニハ」
そう言って、瑠花は笑った。
その笑顔だけは、瑠衣にそっくりだった。
◆ ◆ ◆
「ムカシムカシ、鬼舞辻無惨トイウ悪イ鬼ガイマシタ」
千年を生きた鬼の首魁。
人喰い鬼の伝説。
鬼と戦う、鬼狩りと呼ばれた鬼殺の剣士達。
「長イ長イ戦イヲ経テ、鬼舞辻無惨ハ討タレマシタ」
幾人も、幾年もの間、多くの犠牲を積み重ねて。
鬼舞辻無惨は、鬼狩りの手によって討ち果たされた。
彼を祖とする鬼はすべて滅びた。
鬼に殺される者はいなくなり、日の本は平和になった。
それは、かつて祖母に寝物語で聞かされた物語と同じだった。
そこまでは、同じだった。
と言うより、そこから先は人間には知り様も無かった。
だから、そこからは――
「トコロガ、鬼舞辻無惨ハシブトク生キテイマシタ」
瑠花という、
そして、煉獄瑠衣に捕食された鬼の細胞。
それが瑠衣の中に僅かに残っていた。
鬼舞辻無惨にとっても、意外だっただろう。
おそらく無惨も予期していなかった。保険ですらない偶然の産物。
煉獄瑠衣の中で彼は
瑠衣の肉体を依り代として、意識さえも覚醒させるにまで至った。
「ソレニ気付イタ瑠衣ハ、ドウニカシナケレバト思ッタワケ」
鬼舞辻無惨の復活など、許すわけにはいかない。
何故ならば、鬼舞辻無惨を討ったのは自分だという信念だけが、超人・煉獄瑠衣の心の拠りどころだったからだ。
その
だから瑠衣は、
元々、鬼を捕食できない世界では長く生きれないことはわかっていた。
生き残りの鬼――珠世や禰豆子ら――を最後に、飢え死ぬことを選んだのだ。
そしてそれは、ある程度は成功していた。
「問題ハ、弱クナルッテコトダッタ」
食べなければ飢える。飢えれば弱る。当然の理屈だ。
しかしそれでも、完全生物とも言える煉獄瑠衣は、弱体化したところで問題はなかった。
弱体化してなお、煉獄瑠衣を屠れる存在は地上に存在しなかったからだ。
煉獄瑠衣という生物に、天敵は――外敵は、いない。
だが、瑠衣の弱体化はある致命的な問題を孕んでいた。
煉獄瑠衣は、
しかし。もしも、もしも。
もしも、
その天敵が、
◆ ◆ ◆
瑠衣は、鬼舞辻無惨の復活を恐れた。
故に緩やかな死を選び、鬼舞辻無惨の細胞の活動を抑制しようとした。
そしてそれは、ほぼ成功していた。
しかし、そこで瑠花は考えた。
おかしいのではないか、と。
そもそも何故、鬼舞辻無惨に怯えなければならないのか、と。
「逆デショウ?」
鬼舞辻無惨に怯えなければならないのではない。
鬼舞辻無惨
何故ならば、無惨はまだ復活していない。
瑠衣の体内に巣食っただけの、弱々しい細胞の塊に過ぎない。
そんな存在に、どうして怯えなければならない。
瑠花はそう思った。
そう思い、思った時点で、彼女は瑠衣に対して
「それって」
瑠衣と瑠花の関係性について、炭彦は詳しいことは知らない。
ただ、姉妹だと、瑠花が言うのを聞いただけだ。
そこに嘘はない。匂いで、それを理解していた。だから疑わなかった。
けれどもしも、今の瑠花の話を信じるのであれば。
「それじゃあ、瑠衣さんは」
「はい。ちょっと待ちなさいな」
「え」
前のめりになった炭彦の眼前に、禊の手の甲が入って来た。
その手を追って視線を上げれば、禊の横顔が見えた。
禊は炭彦に視線を向けることなく、そのまま話を続けた。
「どーでもいいのよねえ、そんなことは」
「話ヲ振ッタノハキミダト記憶シテイルケド?」
「はあ? わたしがアンタなんかに話を振るとかあるわけないでしょ」
「ジャアサッキノハ何サ」
「アンタの勘違いよ」
その場にいる全員の目が文字通り点になったが、もちろんのこと禊はその一切を気にしなかった。
禊が気にしていることがあるとすれば、それは他の面々とはやや違っている。
「それで結局、どうなったのかしら。アンタの中の無惨とやらは」
「私達ノ中ノ無惨? 知リタイノ?」
「ええ。是非、教えてほしいわね」
「……アハ」
と、声を発して、瑠花は笑った。
瑠衣と同じ顔で、しかし瑠衣がしない笑い方で、彼女は言った。
「
一時は意識を表出させるにまで至った鬼舞辻無惨。
彼に誤算があったとすれば、それは
すなわち、彼と同等以上の強力な鬼が
そして何よりも、力を取り戻しきる前に
◆ ◆ ◆
――――
赤黒く、表面は血管が浮き出て脈打っており、見ようによっては
あるいは、もっと的確に表現するのであれば。
『何だ。お前は』
部屋、というのもおかしいか。
何しろそこは煉獄瑠衣の体内なのであって、部屋という表現は正しくはない。
一方で、確かに部屋である。矛盾しているようだが、そうなのだ。
女性の体内にある
ぎょろ、と、まず目が浮かび上がった。
肉塊の中央に目玉があり、酷く不気味だった。
それが眼下を見下ろして、こちらを見下ろして来る。
その視線の圧力を一身に受けて、瑠花は笑ったのだった。
『何が
瑠花の態度が気に入らなかったのか、天井にへばりついた肉塊から落ちて来る声には、確かな苛立ちが込められていた。
すると肉塊が蠢き、音を立てて膨らみ始めた。
『気に入らない女だ』
肉を潰すような嫌な音を立てながら、それはやがて人間大の大きさにまでなった。
「……だが、1つだけ褒めてやろう」
長い白髪、全身に血色の痣のような紋様。鬼の瞳孔に鋭い牙。
肉塊から上半身が生え、そのまま下半身までが露出を始める。
まるで今まさに、生まれ落ちようとしているかのようだった。
姿形は、かつての鬼舞辻無惨とは異なっている。
しかし彼は確かに鬼舞辻無惨。正確には、その意識だった。
煉獄瑠衣という海の中に混ざった、不純物。黒い染みの一滴。
彼は瑠花を今度は両の目で見下ろすと、その顔に傲然とした笑みを浮かべた。
「この私に喰われに来たという、その蛮勇をな」
凄まじい鬼気が、天井から瑠花を押さえ付けて来た。
並の人間や鬼であれば、それだけで地面に顔を擦り付ける羽目になっていただろう。
しかしその鬼気を受けてなお、瑠花の態度は変わらなかった。
「生意気な」
その態度がよほど気に入らなかったのだろう。無惨の額に青筋が走った。
彼は右腕を上げると、手首から先が消え、代わりにおぞましい肉の触手が伸びた。
鉤爪のようにも口のようにも見える無数の穴が開いており、それがカチカチと音を立てていた。
「死ね」
無惨が腕を振るう。
すると触手が鞭のようにしなり、瑠花を目掛けて伸長した。
それを見ても、瑠花はただ笑っていた。
◆ ◆ ◆
もしも無惨が万全の状態であれば、結果は違うものになっていただろう。
彼が「千年の鬼」であれば、瑠花と言えども相手にならなかっただろう。
しかし無惨は誤解していた。
なまじ
「な――――!?」
瑠花に放たれた触手は、確かに瑠花に届いた。
しかしそれは、瑠花に触れることなく擦り抜けてしまった。
そして、
何が起こったのか。
問いかけるまでもなく、答えは明確だった。
瑠花に触れた瞬間、
無惨が「自分が喰われたのだ」ということを理解するのに、数秒の時を要した。
「キミハ確カニ鬼舞辻無惨ダ」
まるで何事も無かったかのように、瑠花の表情は変わらなかった。
その後も第二撃、第三撃と触手が放たれてくるが、すべて同じ結果に終わっていた。
無惨の表情から、みるみる内に余裕が失われていく。
「馬鹿な……馬鹿な! こんな、こんなことが!?」
「ダケド
「生まれたばかりだと? 何を意味のわからないことを。私は、千年を……永遠を……生きて……!」
「イイヤ。キミハアノ時、滅ビタ存在ナノサ」
鬼殺隊に討たれた鬼舞辻無惨が復活した。
この認識が、そもそも間違っている。
今の無惨と、鬼殺隊に討たれた無惨は
「ソノ証拠ニ、キミノ肉体ヲ構成スル細胞ハ
瑠花の中にあった無惨因子の一部が、瑠衣の細胞を取り込んで以上成長した存在。
それが、今の無惨だ。
滅びた無惨が
あくまで
「ツマリキミハ外側ガ無惨ナダケノ、何ノ力モナイ存在ナノサ」
とん、と、瑠花が跳んだ。
無惨に対して、手を伸ばすような仕草をする。
それを見た無残は、当然、避けようと考えた。
しかし己の身体の自由が効かないことに、すぐに気付いた。
文字通り
「オイ……待て」
当然、瑠花は止まらない。
「待て。嫌だ。こんな……!」
何をされるのかを理解してるからだろう。
無惨は首を横に振った。
彼に許された自由は、もはやそれぐらいしか無かった。
「こんな、何も出来ずに……嫌だ。こんな終わり方は、私は……!」
「マア、何テ言ウカサ」
「やめ……!」
次の瞬間、無惨の視界は瑠花の掌で覆い尽くされた。
「オ前ガ言ウナ、ッテヤツダヨネ」
無惨の
◆ ◆ ◆
「待ってください」
話を聞いていた炭彦は、思わずそう言ってしまった。
「それって、つまり」
鬼舞辻無惨が、すでに死んでいた。
瑠衣の身体を蝕んでいた元凶が、実でもうとっくに消えてしまっていた。
今の瑠花の話は、かいつまんで言えばそういうことだった。
それ自体は、喜ばしいことのようにも聞こえた。
だがそこに大いなる矛盾が存在することにも、炭彦は気付いてしまった。
何故ならば、瑠衣を脅かす
どうして、瑠衣はそのまま奥に
「アア、ソレハネ。トテモ
瑠花は笑って、人差し指で自分の唇に触れた。
それはまるで、内緒話でもするかのような調子だった。
「瑠衣ニハ言ワナカッタノサ」
瑠衣は、自分の中の鬼舞辻無惨が消えたことを知らなかった。
意図的に瑠花がそれを隠したからだ。
何よりも、瑠衣が自分が活動を控えることが――つまり生命活動の停滞こそが――無惨細胞の成長を抑制すると信じていたことが大きい。
「私ガソウアドバイスシタノサ。本当、姉ノ言ウコトヲ良ク聞く良イ妹ダヨ」
瑠衣が、瑠花を信じてしまったことが大きい。
そもそもの話。
振り返ってみれば、瑠花が表に出て来るタイミングは常に決まっていた。
瑠衣に命の危険が訪れた時、瑠花は表に出て来た。
瑠衣が自分の身を守れなくなった時に、代わって瑠衣の身を守るのが瑠花の役目だった。
その時に限り、瑠花は瑠衣の肉体の支配権を得ることが出来ていた。
だがそれは、言い替えればこういう意味にはならないだろうか。
「ソシテ、今ヤコノ通リサ」
そうやって肉体の支配権を得ている間に、瑠花は少しずつ瑠衣の肉体を作り替えていった。
鬼の部分と、人間の部分を
慎重に。少しずつ。瑠衣に気付かれないように、ゆっくりと。
「本来、コウアルベキダッタノサ」
赤子を孕んだまま鬼になり、死の間際に瑠衣を産み落とした実の母。
瑠衣は鬼の子だ。
鬼の眼を持って生まれた女の子だ。
だがそれは、本来は瑠衣の
鬼の眼は、鬼の力は、すべて姉たる瑠花のものだった。
瑠衣は鬼の姉の身体を
そしてそれは今、あるべきところに在った。
すなわち、瑠衣は人間として。
瑠花は鬼として、
「共有物ナンカジャア無イ。私ノモノヲ、瑠衣ニ貸シテアゲテタダケサ」
つまり、これが本来のあるべき姿。
瑠花は鬼として、瑠衣は人間として。
そう在ることが、この姉妹の本当の姿なのだと。
瑠花は、そう言った。
「アハッ」
瑠花は、嗤った。
「アハッ、アハハッ、アハハハハハハハハハハハハハッ!」
両腕を広げて、大きく口を開けて。
誰に
まるで、自らの誕生を世界に知らしめるかのように。
瑠花は嗤って。そして。
「ふ」
そして。
「――――ふざけるな」
そして、
◆ ◆ ◆
――――これほどに。
これほどまでに誰かに怒りの感情を覚えたことは、無かった。
今までの人生を振り返っても、初めてのことかもしれないと思った。
それ程に、竈門炭彦という少年は怒っていた。
「瑠衣さんは」
その声は、どこか震えていた。
だがその震えが恐怖からではないことは、表情を見れば明らかだった。
無。一見、炭彦は無表情に見えた。
真っ白な顔で、何の表情も浮かべていなかった。
だがその額に浮かんだ血管が、血走った目が、彼の感情を如実に物語っていた。
余りにも強く握り締めたせいか、日輪刀の柄がミシミシと軋む音を立てていた。
その握力は、ともすれば石でさえ握り砕きかねないと思える程だった。
「瑠衣さんは、貴女を信じていたんじゃないのか」
妹だと、瑠花はそう言っていた。
そんな瑠花を信じて、瑠衣は自分の生き方を――否、
それなのに、それは嘘だったのだと言う。
今のこの状況になるために、瑠衣を油断させるために。
「僕は、難しいことはわからない」
炭彦はまだ子どもで、事の善し悪しの判断は出来ない。
しかしそれでも、わかることがある。
誰かからの無垢な信頼を、裏切るということだ。
まして、姉妹を。
姉妹の信頼を利用して、目的を達成する。
そんなことは許されない。許すべきでは、ない。
「どうして笑えるんだ」
そんなことをしておいて、笑って良いはずがない。
「妹を騙して、どうして笑えるんだ。僕は、俺は」
ミシリ、と、握り締めた日輪刀の柄から、何かが折れるような音が響いた。
もちろん、実際に何かが折れたわけではない。
ただ掌に、確かな感触を覚えただけだ。
日輪刀の
「俺は、お前を許さない」
「……キミニハワカラナイサ」
わかるはずもない。
わかろうとも、わかりたいとも思えなかった。
炭彦はただ、瑠花の所業を許すことが出来なかった。
だから日輪刀を握り締めたまま放さず、そして。
「どーでも良いのよ、そんなことは」
立ち上がりかけたその時、眼前にいきなり禊の背中が出てきて面食らうことになった。
◆ ◆ ◆
その時、少女の心中を満たしていたのは、それだった。
それはそうだろう。
この期に及んで彼女が、誰が誰を騙したとか、善悪がどうだとか道徳がどうだとか、仁義礼智忠信孝悌がどうだとか、そんなものを気にするはずがない。
「
その場にいる誰もが気にしていただろうどれもを、禊は気にしていない。
興味が無かった。そんなものには。
遊女に何を期待しているのか、と言いたい。
「最初はさ、
瑠衣が蒼い彼岸花を奪い、鬼殺隊を抜けたあの日。
他の誰にも先駆けて、禊は瑠衣についた。
この世で最も強い柱達が、束になっても敵わない存在。
そりゃあ、瑠衣につくだろう。
「それがよ? 手の込んだ自殺をやるから手伝えってんだから、もうガッカリ」
柱達との「落とし前戦争」までは楽しかった。
しかし、そこまでだった。
そこから瑠衣は衰弱の一途を辿り、自分の完全さを自ら否定した。
その時点で、禊はぶっちゃけ瑠衣への関心を半ば失っていた。
ところがここに来て、瑠花が現れた。
彼女は、瑠衣の持っていた最強の部分を奪い取ったのだと言う。
彼女は、鬼舞辻無惨よりも強いのだと言う。
何よりそんな話を聞くまでもなく、見ればわかる。
瑠花の強さが。
「あんた、良いわねえ」
「マア、今サラ驚キハシナイケドネ」
先程も不意討ちで喉を貫かれたわけだし。
そう言って、瑠花は肩を竦めた。
しかし戦意マシマシの禊を前にしても、瑠花は何もしようとはしなかった。
話をするでも、戦うでもなく、何もしなかった。
「デモサ、一ツ大事ナコトヲ忘レテナイカナ」
「あら、何かあったかしら」
繰り返すが、瑠花は何もしていない。
いや、より正確に言い直そう。
「……!」
変化は、急激に起こった。
それまでそんな気配すら無かったのに、禊が突然、その場に膝を着いたのだ。
「か……っ」
「禊さん!?」
慌てて覗き込むと、禊は額に汗を滲ませて胸を押さえていた。
呼吸が出来ていないのか、紫色に変色した唇が幾度か開閉を繰り返していた。
先程までの自信に満ちた表情は消え失せて、苦し気に喘いでいた。
「キミ達ノ命ハ、今ハ私ガ握ッテイルンダッテコトヲサ」
血鬼術『
禊達を不老たらしめている、奇跡の御業。
そう、禊達の全身に流れている血は、すべてが瑠衣の血だ。
その血の流れを止めてしまえば、動くことさえ出来なくなるのは必定だ。
禊はそれでも、笑おうとしたようだった。
唇の端が僅かに笑みの形になったようだが、それまでだった。
自分の頚の、頸動脈のあたりを押さえて唇を噛んだ。
全身の血管が脈打っているのか、露出している肌の部分が不気味に蠢いていた。
「フン。ソレデ?」
そんな禊を見下ろしながら、瑠花は興味も無さそうな声で言った。
「キミモ同ジ目ニ合イタイノカナ」
「あ、いやあ。おじさんは痛いのとか苦しいのとか、そういうのはちょっと遠慮したいかなあ、っと」
へへへ、とどこか三下めいた様子で、様子を窺っていたらしい犬井が顔を出して来た。
ガッチリとした体形の男が卑屈なポーズをとっても、しかし卑屈には見えなかった。
というのも、実際に彼は、何も卑屈になりに来たわけではないのだ。
彼は、
◆ ◆ ◆
「確認?」
「そうそう。1個だけ教えてほしいことがありましてえ」
「お前、その三下ムーヴは何なんだよ……」
獪岳がすっかりツッコミ役になっている。
彼の弟分がもしもこの場にいたなら、「え、何それ怖…」と呟いていただろう。
そして炭彦には、もはや彼ら彼女らの関係性が見えなくなっていた。
瑠衣が倒れ、禊が苦しんでいるのに、気にした様子が無い。
心配するでも気遣うでもなく、普通に、いつも通りで。
瑠衣のために怒った炭彦からすれば、理解の外に在るような、そんな人々。関係性。
これを、何と言えば良いのか。炭彦の人生の辞書にはまだ無かっただろう。
「あんた今、瑠衣ちゃんから
人差し指を上げながら、犬井は言った。
「
数瞬の間、瑠花は――と言うか、その場にいる者達は――犬井の言葉の意味を、考えた。
考えて、そして思い至ったのだろう。
ああ、と、笑った。
「デキルトシテ、ドウスルノ」
そう言って、瑠花は瑠衣を指差した。
「
「……! 何てことを……!」
「アア、マア、
瑠衣か、炭彦を殺せ。
そう言う瑠花の声に、
悩んだ様子もない。
それもまた、炭彦には信じられないものだったが。
「それだけで良いのかい?」
犬井の声もまた、酷く気安いものだった。
彼は日輪刀を――それはもうあっさりと――鞘から抜くと、ゆっくりとした足取りで炭彦と瑠衣に近付いて行った。
意図は、明白だった。
「やめてください。仲間でしょう!?」
「まあ、それを言われると弱いんだけどねえ」
困ったように頭を掻いて、しかし犬井の歩みは止まらなかった。
瑠花は、今はそれをただ見守るだけだった。
「そうは言っても、おじさんにも事情ってもんがあるからさ。悪く思わないでくれるかい」
「そんなの……!」
どうするべきだ。炭彦は思考した。
瑠衣や禊を抱えて逃げる。不可能だ。
戦うか。相手は2人かそれ以上。やはり不可能だ。
懇願は、今の様子から見ても無意味だ。
どうすることも出来ない。そういう結論になる。
「ごめんね」
そうこうする内に、犬井が目の前にまで来ていた。
せめてもの抵抗に刀を突き出そうとするが、すかさず刃先を踏まれて防がれてしまった。
そして、白刃が煌めき。
赤い赤い、血の花が咲いた。
「…………イヤ」
瑠花は、顔を手で覆うようにした。
それは目の前で起こった惨劇から目を逸らす、というような仕草ではない。
目の前の出来事について少し考えるような、そんな仕草だった。
無理もない。
すぐ傍で見ていた炭彦だって、目の前で起こった出来事に言葉を失っていた。
繰り返すが、無理もない。
誰だって、目の前で頸動脈が切られる様を見れば、そうもなる。
「
白刃を晒した犬井の日輪刀を掴み、自らの頸動脈を切った。
簡単に言うが、これはとんでもないことだった。普通は死ぬ行為だ。
当然、傷口からは血が噴き出し、ボタボタと地面に滴り落ちる。
それはまるで、
「簡単じゃない。血が邪魔なんだったら、
そう言って、禊はゆっくりと立ち上がった。
動けないはずの禊が、動いた。
冷たい汗と熱い血潮を噴出させながらも、その顔には凄絶なまでの笑みが浮かべられていた。
血の拘束で動けないなら、その血を排除すれば良い。
そんなとんでもない理屈を口にする禊に、瑠花は。
「マジカヨ」
と、再び呟いたのだった。
最後までお読みいただき有難うございます。
問題です。
ここからハッピーエンドに持って行くために必要なものとは?(え)
それでは、また次回。