蝶屋敷、と呼ばれる邸宅がある。
元々は柱に与えられる邸宅の1つだったのだが、先代の柱の意向で治療所として開放されたものだ。
現在では鬼殺隊にとってなくてはならない医療施設として、本部からも重宝されている。
俗称の由来は、屋敷の庭にたくさんの蝶が生息していること。そして…。
「はい、もう服を直して結構ですよ」
「ありがとうございます」
そう言われて、瑠衣は衣服のボタンを留め始めた。
首から胸元、というか上半身全体に白い包帯を巻かれており、怪我の程度を教えてくれる。
隊服ではなく病衣姿で、今は医者に診察して貰っているようだ。
ただこの場合、医者の方が特殊だった。
「流石は煉獄家のお嬢さんですね。普通では考えられないくらいの快復速度ですよ」
酷く華奢な女性で、それほど上背のない瑠衣よりもさらに小柄だ。
そして、恐ろしい程の美人である。
蝶の髪飾りでまとめた黒髪に、白磁という他ない白くきめ細やかな肌、整った眉に大きな目。
瑠衣が知る限り、美貌という意味では鬼殺隊で……いや、日の本で五指に入るだろう。
なお瑠衣の心の美人ランキング第1位は母・瑠火である。
しかしこの女性の特異なところはその美貌ではなく、そして女性でありながら医者というところでもなく、彼女が鬼殺隊最高位の柱の1人という点だ。
すなわちこの治療所――いわゆる蝶屋敷の主人、ということになる。
蟲柱・胡蝶しのぶ。それがこの女性の名前だった。
柔和な微笑みを浮かべて、しのぶは感心したように言った。
「呼吸が上手いんでしょうねえ。普通はこんなに早く骨折が治ったりはしませんよ?」
「いえ、父や兄には及びません」
「成程。まあ、あのお2人がここに来るところは想像できないので、拝見することはなさそうですね」
それには、瑠衣も「確かに」と思った。
槇寿郎や杏寿郎が、鬼との戦いで大きな負傷を負ったことはない。
蝶屋敷は負傷した隊士の治療所なので、負傷しないあの2人が来訪することはない。
自明の理というべきだが、それだけに自分が治療を受けているのが情けなくもある。
「この調子なら、もう退院できそうですね。あと2日ほど様子を見て、治療は終わりにしましょうか」
「はい」
「ただ、首と肩は傷が深かったので……」
申し訳なさそうに眉を寄せるしのぶに、瑠衣は、ああ、と気の抜けたような声を返した。
女性らしい気遣いだが、鬼狩りである以上は避けられないことだ。
他の女性隊士も、多かれ少なかれあるものだ。
……傷痕の、1つや2つは。
◆ ◆ ◆
情けない。
実のところ、瑠衣の考えてることはそれだった。
自分の弱さが情けなく、不甲斐なさに蹲りたくなる。
しかし、それも出来ないということも良くわかっていた。
「おい、あれ……」
「ああ、炎柱様の……」
当たり前の話だが、蝶屋敷には多くの鬼殺隊士が治療を受けに来る。
入院している隊士も多く、こうして病棟を歩けば目にもとまる。
瑠衣にしてみれば、恥を晒して歩いているような心地だ。だが……。
「下弦の頸を斬ったって……」
「上弦の鬼と戦って、生き残ったんだろ……」
「それどころか、1人も死なせなかったって……」
やめてくれ。強くそう思った。
まるで何か偉業を成し遂げたかのように、皆が自分を見ている。
堪らなかった。耐え難かった。屈辱すら感じた。
あの日の自分は、本当は何も成し遂げられていないのだ。
下弦の肆の頸を斬れたのは、獪岳達がいたからだ。
自分はただ、怒りに駆られて斬りかかったに過ぎない。
人はその行動さえ称賛するだろうが、その点、獪岳の指摘は鋭かった。
反論する術もなく、曖昧に笑って誤魔化しただけだ。
「凄いよな……」
「やっぱ、俺らみたいなのとは違うよなー……」
上弦の肆との戦いも、杏寿郎達が来なければ死んでいた。
いや柚羽達がいなければ、杏寿郎達が来るまで持ち堪えることも出来なかった。
100年不敗の、歴代の柱達をも屠って来た上弦の鬼と戦って生き残ったのだから、「凄い」と持て
けれど、それでも、情けなかった。
そうは言っても、表には出せなかった。
常に胸を張り、背筋を伸ばして、しっかりとした足取りでいなければならない。
どんな評価も当然のような顔で受けて、礼の1つも言えなければならない。
煉獄家の人間は、理想の鬼殺隊士でいなければならないのだから。
(……中庭にでも行こう)
病棟にいると息が詰まる。
人目を避けるように、瑠衣の足は中庭に向かっていた。
元が柱に与えられる邸宅であったため、蝶屋敷の庭はかなり広い。
鯉のいる池や、藤を始めとする花々や草木。無数に舞っている蝶々。
まるで絵物語の中のような場所だった。
「はあ……」
池の側に立って悠々と泳ぐ鯉を眺めながら、溜息を吐いた。
餌でも持っていれば、無心でパラパラと撒いていただろう。
「うん?」
風に乗って、何かの音――声が聞こえた気がして、瑠衣は顔を上げた。
それは中庭の奥から聞こえてきていて、そちらには訓練のための道場があるはずだった。
誰かが道場を使っているのかもしれない。
それにしても、いやに騒がしかった。若い男女の声のような気もするが……。
「瑠衣」
その時だった、聞き覚えのある声が瑠衣を呼んだ。
びくりと、肩が震えた。
振り向くと、想像した通りの人物がそこにいた。
「ここにいたか」
父、槇寿郎だった。
瑠衣が今、最も会いたくない相手だった。
◆ ◆ ◆
瑠衣が入院してから、槇寿郎が蝶屋敷を訪れたのは初めてのことだった。
2週間である。
事の経緯は鎹鴉の長治郎が知らせてくれたはずだが、特に返信もなかった。
そんな槇寿郎が最初にしたことは、瑠衣に細長い包みを渡すことだった。
それは、絹の刀袋に丁寧に納められた日輪刀だった。
瑠衣が入院している間、煉獄家専属の刀鍛冶に新しく打たれたものだった。
上弦の肆との戦いで、いくらか
上弦の鬼の強度が、戦闘後の刀の状態からでもわかろうというものだった。
「良い仕上がりだ」
ぽつりと槇寿郎が呟いたのは、瑠衣が刀を抜いた時だ。
日輪刀の刀身が、鍔元から深緑に染まっていく。
これが日輪刀が「色変わりの刀」と呼ばれる
握った者の呼吸の適性に合わせて色が変わり、才の大きさによって色の深さが決まる。
そして一度染まった刀は、二度と別の色になることはない。
(……緑色)
日輪刀が緑色に染まるのは、持ち主に風の適性があることを示している。
しかもこれだけ鮮やかで、深い緑色はそうはいない。
少なくとも瑠衣は、不死川以外の風の剣士で自分よりも深い緑色の刀を持つ者を見たことがなかった。
才がある。恵まれている。ただ、瑠衣が望んだ色ではなかっただけだ。
「あ……」
不意に槇寿郎が背中を向けたので、瑠衣は思わず手を伸ばしかけた。
ただ、何を掴むでもなく、その手は宙を泳いだ。
「父様」
槇寿郎は、一度も瑠衣と目を合わせなかった。
瑠衣の記憶する限り、そんなことは
何か言わなければ。
そんな感情に突き動かされて、瑠衣は遠ざかる父の背を2歩追った。
3歩目は、踏み出せなかった。
「つ、次……次こそは、斬ってみせます!」
父の背に、そう叫んだ。
「次こそは、あの上弦を斬ってみせます! 必ず斬ります! 煉獄家の剣士として、恥ずかしくない戦いをしてみせます!」
たとえ100年不敗の上弦が相手だとしても、生き残っただけで褒められるのは並の隊士までだ。
柱や、継子。そして古くから鬼狩りを輩出する家の一門ともなれば、それ以上を求められる。
その意味で、瑠衣は己のことを落第だと思っていた。
だから、他の隊士からの称賛の眼差しが辛くて仕方がないのだ。
「たとえ、たとえこの命に代えても……!」
無様に生き残るくらいなら、立派に死んだ方が何倍も良い。
100年不敗の上限を斬るためならば、自分の命など惜しみはしない。
そう、たとえ。
たとえ、刺し違えてでも頸を斬ってみせる。
なのに。
「……う」
それなのに、振り向いた槇寿郎の眼差しは、冷たかった。
あまりにも冷たくて、瑠衣はそれ以上は何も言うことが出来なかった。
どうして父がそんな顔をするのか、わからなかった。
槇寿郎は、しかし何も言わなかった。
何も言わないままに、再び瑠衣に背を向けた。
歩き、遠ざかっていくその背中に、瑠衣は何も言えなかった。
何かを間違えた。
ただ、何を間違えたのかがわからない。
そんな気持ちだけが、瑠衣の胸中を覆い尽くしていた。
◆ ◆ ◆
「何か言葉をかけてあげなくて良いのですか?」
中庭を抜けたあたりで、槇寿郎はそう声をかけられた。
しのぶだった。
瑠衣の診察の直後に
父子の会話の邪魔をするのも悪いと気を遣ったのか、中庭に入りはしなかったらしい。
それでも流石に瑠衣の声は聞こえていたのか、不思議には思ったのだろう。
何故、槇寿郎は瑠衣に何も言わなかったのだろうか。
そう思ったからこそ、先程のような声のかけ方になったのだ。
もっとも、聡明な彼女は何となく察してもいるのだが。
「胡蝶君」
とは言え、だ。
「娘を治療してくれたこと、改めて礼を言わせてほしい」
階級は同じ柱とは言え、槇寿郎はしのぶよりずっと目上の人間だった。
そんな最年長の柱に率直に頭を下げられてしまうと、しのぶとしても対応に困ってしまう。
それこそ、親子ほども年が離れているのだ。
両手を向けて、頭を上げてほしいと言う他なかった。
「負傷した隊士の治療は私のお役目です。私は自分の役目を果たしただけです」
「それでも、1人の父として礼を言うのは当然のことだ」
「それは……」
そう言われてしまうと、反論の余地はない。
ただ、少し
身内の恩という意味ならば、しのぶの受けた恩義の方が大きいと、少なくともしのぶ自身はそう思っていた。
とは言え、そう言ってもこの男は聞いてくれないのだろうとも、わかっていた。
「……娘さんにも、そういうところを見せれば良かったでしょうに」
代わりに口にしたのは、やはり瑠衣のことだった。
あながち嘘というわけでもない。
しのぶの目から見ても、瑠衣は酷くショックを受けている様子だった。
まさに親に捨てられた子供のような目で、槇寿郎の背中を追っていたのだ。
そういう気持ちは、しのぶにもわからなくはないものだった。
「瑠衣は……娘は、煉獄の女だ。かえって、あれを甘やかすことになる」
一方で、槇寿郎の言葉も冷たいものだった。
名門らしく、肉親の情よりも優先するものがある、ということだろう。
「それにあれも、もう立派に独り立ちしている。私のような老兵よりも、見るべきものは他にあるだろう」
しかし不意に浮かべた表情は、瑠衣と良く似ていた。
ああ、親子なのだなと、しのぶがそう思えたほどだった。
(不器用、ですねえ)
もっとも自分は不器用な男しか見たことがないが、と、そんなことを思った。
槇寿郎がどうして瑠衣に優しい言葉の1つもかけないのか、その理由も何となく察していた。
そうやって意識的に厳しくしていないと、つい、言ってしまいそうになるのだろう。
――――戦いをやめろ、と。
◆ ◆ ◆
千寿郎は心配していた。
父・槇寿郎のことである。
千寿郎は家の門の前で掃き掃除をしていたのだが、芳しくはなさそうだ、
むしろ箒を手に何度も道先を窺い、そわそわとしている様子だった。
「大丈夫かなあ……」
時折、空などを眺めてはそんなことを呟いた。
千寿郎はこうして、空に言葉を呟いてみる時があった。
何故かと言えば、そうしていると母に聞いて貰えるような気がするからだ。
母である瑠火は千寿郎が物心ついた時にはすでに亡くなっていて、顔などはあまり覚えていなかった。
ただ、お日様のような温もりを何となく覚えているだけだ。
それに杏寿郎や瑠衣は良く、自分達の母親は遠い空の向こう国に行ったのだ、と話してくれた。
もちろん、そんなものは幼かった自分に母の死を納得させるためのものだったと理解している。
とは言え、だ。幼い頃に得た癖はなかなか直るものでもなかった。
だからこうして、たまに空に向けて呟いてみるのである。
「むっ、千寿郎。そんなところにいたのか」
「あ、兄上」
ひょい、と、玄関から杏寿郎が顔を出してきた。
掃除に出たまま戻らない千寿郎を心配したのだろう。
杏寿郎は弟に笑いかけると、近くまで歩み寄っていった。
「どうした、また母上に何か話していたのか?」
「そ、そういうわけじゃありません」
杏寿郎の言葉に、千寿郎は気恥ずかしそうな表情を浮かべた。
母への甘えに恥ずかしさを覚える年になったかと、杏寿郎は感慨深くなった。
しかしすぐに心配そうな表情を浮かべた弟に、訝し気に問いかける。
「どうした千寿郎! 何か心配事か?」
「あ、ええと……実は姉上のお見舞いに行った父上のことなのですが」
「む? おお! 新しい日輪刀も持って行ったのだったな! 瑠衣も喜ぶだろう!」
「はあ……」
杏寿郎は首を傾げた。
いったい、千寿郎は何を心配しているのだろうか。
2人の父である槇寿郎は、鬼殺隊を背負って立つ偉大な人物だ。
優れた人格者でもあり、多くの隊士から尊敬されている。立派な人物だ。
息子に心配されるようなことなど、何もないはずだが……。
「でも、鬼殺以外のことは全然じゃないですか」
……なのだが、急に杏寿郎も不安になってきた。
いや、と杏寿郎は思い直した。
よもやよもや、あの父に限って。繰り返すがよもやよもやである。
よもや、見舞いに行って落ち込ませるわけでもあるまい。
心配のし過ぎであろうと、杏寿郎は思った。
◆ ◆ ◆
やらかしてしまった。
父が去った後、瑠衣は内心ひどく落ち込んでいた。
内心、というのは、外に吐露できないからだ。
人目がある蝶屋敷で、落ち込んだ姿は見せられない。
だから病棟の方に戻って来る頃には、瑠衣は少なくとも
刀袋も、鬼殺隊士しかいない中ではさほど目立つ要素でもない。
堂々と歩いていれば、奇異の目で見くる者もいない。
(……父様……何が駄目だったの……)
とは言え、
いくら取り繕ったところで、悩みが消えてなくなるわけではない。
内心で悶々としながら、病棟を歩く瑠衣。
そんな瑠衣に声をかける者もいない――そう、思っていた時だった。
「あらぁ、貴女……」
楚々として、しかし足早に通路を歩いていると、すれ違いかけた誰かが声をかけてきた。
それがやけにおっとりしたものだったため、そのまま通り過ぎかけた程だ。
足を止めて振り向くと、相手は松葉杖をついた状態だったが、にこやかに手を振って来た。
「榛名……さん?」
「覚えててくれたのねぇ。嬉しいわぁ」
「それは、もちろん」
榛名だった。
下弦の肆、そして上弦の肆との戦いの、その大元は彼女を救出するためのものだった。
そもそも、忘れられるような体験ではない。
そしておっとりした様子を見せているが、榛名はまだ痛ましい姿をしていた。
病衣の襟元や裾からは、まだ薬品の匂いの染み付いた包帯が覗いている。
足の骨も負傷したのか固定されていて、松葉杖でようやく出歩けている状態だ。
それでも生来の性格なのか、榛名自身は辛そうにしている様子はなかった。
むしろ、朗らかに笑ってさえいる。
「そう言えば、まだちゃんと言えてなかったかもしれないわぁ」
「はい?」
「ありがとう」
きょとん、とした顔を浮かべる瑠衣に、榛名はまた笑ってみせた。
見る者の心を温かにさせる、そんな微笑みだった。
任務の際などに瑠衣が浮かべるそれとは、温度が違う。はっきりとそうわかった。
「助けてくれて、ありがとう」
一瞬、言われた意味がわからなかった。
いや言葉の意味はわかるが、あえて言う意味がわからなかった。
同じ鬼殺隊士で、任務だった。そこに瑠衣の意思は関係がない。
だから救出は当たり前のことで、礼を言われることではないのだ。
「それでも、貴女が来てくれなければ、わたしは死んでいた。きっと、あの鬼に喰われていたわぁ」
だから、礼を言いたいのだ。
そう言って笑う榛名の顔に、瑠衣は何も言えなかった。
「あ、あらあらぁ?」
それどころか、困らせてしまって。
自分は本当に未熟だと、瑠衣はそう思ったのだった。
◆ ◆ ◆
禊は、苛立っていた。
何故かと言えば、苛立つようなことしかなかったからだ。
まず、怪我である。
この自分が醜い鬼ごときに――上弦やら下弦やらは禊にとっては関係がない――怪我を負わされたということが気に入らない。
そして、入院だ。この自分が他の隊士と同じ場所に押し込まれるのが気に入らない。
禊はこの2週間、誰よりも遅くまで起き、誰よりも早く起きている。
見回りがくればその時も起きている。頭の一部を常に緊張させていれば可能だ。
何故そうしているのかと言うと、他人に寝顔を見られるのが嫌なのである。
おかげで寝不足であり、それがまた不機嫌さに拍車をかけていた。
「と言うか……」
それから、同じ病棟――というか、両隣の寝台――に柚羽と榛名がいることだ。
まあ、負傷と入院のタイミングが同時だったのだから当然ではある。
だが四六時中、話しかけてくるのは本当に苛立った。
しかもやたら親し気に。返事をしなくても続くので、かなりうんざりしている。
「何でアンタまで来てんのよ」
「いや、何か成り行きで……」
そして、瑠衣である。
負傷の具合は似たようなもののはずだったのだが、先に治っている。
それがまた気に入らない。
病棟が別で顔を見なくて済んでいたのに、どういうわけか榛名が手を引いて連れて来たのである。
何でだよ。
「仲良くお喋りがしたいなら、アンタ達だけでどっか行きなさいよ……」
「あらぁ、それはダメよぉ」
視線だけで問いかけると、榛名は手を合わせて言った。
「だって、貴女ともお喋りしたいものぉ」
背景に花でも飛ばしそうな朗らかさが、そこにあった。
見る者に安心感と好意を与えるだろうその姿に、しかし禊は別の感情を覚えた。
ずばり、殺意である。
「足の怪我も治りきっていないのだから、ここでお喋りするのが一番よぉ」
確かに、禊が下弦の肆の血鬼術で受けた足の傷はまだ完全には治癒していない。
榛名にとっては配慮にあたるそれを、禊は別のものとして受け取った。
殺意おかわりである。
「アンタさあ」
「まあまあまあまあ、落ち着いて下さい。おやつにしようと思って、お昼時に厨を借りておにぎりを握ってあるのです。おひとつどうぞ。榛名さんは鮭はお好きですか?」
「あらぁ、ありがとう。いただくわぁ」
繰り返しになるが、柚羽と榛名は禊の両側の寝台である。
よって柚羽が榛名におにぎりを渡した目には、禊の寝台の上で腕を伸ばさなければならない。
自然、禊の目の前で柚羽は前屈みのような体勢になることになる。
結果、どうなるか。
「…………」
当たり前の話だが、禊たちは今、隊服ではない。
いわゆる病衣である。着用者が楽なように緩やかに作ってある。
そう、楽。例えば隊服着用時には固定してある部分も緩やかになる。
例えば胸元とか。
今、禊のまさに眼前に、
それは緩やかな病衣に包まれているにも関わらず、はっきりと自己主張していた。
目の前でこれでもかと柔らかさを見せつけるそれに、禊は自分の頭の中で何かが切れるのを感じた。
掌底かと見紛うばかりの動き、かつ握り潰す勢いでそれを鷲掴みにした。
「ひゃんっ」
びくんっ、と身体を震わせて、柚羽が声を上げた。
その際におにぎりの器を落としてしまうが、それは榛名が「おっと」と言いながら器用に受け止めていた。
「いたっ、いたたたたたたっ。あっ、無体! ご無体はやめてください!」
「っさいわね! 目の前でプラプラゆらゆらさせてんじゃないわよ、嫌みか!」
「指! 指がめり込むのが痛い! 本当に痛いんですって!」
「何がおにぎりよ、この……この、もちもちして……もち、餅女ぁっ!」
急に賑やかになった彼女達を、瑠衣は半ば呆然と見ていた。
榛名が「食べる?」とおにぎりの器を差し出して来たが、もしかするとこれが平常運転なのだろうか。
正直なところ、榛名に連れられて来たものの、会話に混ざれるような気がしなかった。
どこから入り込めば良いのかわからない。
そこで、あれ、と疑問が浮かんだ。
――――次の瞬間、病室の窓ガラスが砕け散った。
◆ ◆ ◆
片手が鯉口の位置に下がる。
日輪刀を持っている瑠衣はともかく、柚羽達を含む何人かは刀を持っていなくとも、自然とそうしていた。
条件反射とでもいうべきか、職業病とでもいうべきか。
病室の窓ガラスを突き破って、何かが飛び込んできた。
それは鬼でもなければ獣でもなく、人間だった。
ただし、ただの人間かというと判断に困った。
頭が獣だったからだ。
「……猪?」
猪頭、だ。
より具体的に説明するなら、猪の毛皮を被った人間の男、だ。
病衣を着ているので隊士だとは思うが、猪頭の隊士など聞いたこともない。
何故か病衣の前を開けていて、鍛え上げられた上半身が覗いていた。
いや、それ以前にだ。
「きゃああああっ!」
誰かが叫んだ。
猪頭の男――そう、男だ。男性が女性の病室に飛び込んできた形だ。
それは叫ぶだろう。鬼に対するのとはまた別種の恐怖だ。
というか、常識とすら言える。
「何ですか貴方! ここは女性病棟ですよ!」
「ああん?」
声、低っ!
その場にいる誰もがそう思っただろう。
男性なのだから声が低いのは不思議ではないが、それにしてもドスの利いた声だった。
「ここが雌の溜まり場だから何だ? 俺には関係ないね!!」
「め、雌……溜まり……ええ!?」
「それより、お前」
余りの言葉に絶句していると、猪頭が瑠衣を指差してきた。
気のせいでなければ、猪頭の目の部分も笑みの形に歪んで見えた。
「
「は?」
「俺と、戦え!」
「え?」
次の瞬間だ。猪頭の身体が沈んだ。
床スレスレの位置まで頭が下がっており、猪頭の目だけがこちらを睨んでいる。
肌を刺すような戦意を感じる。闘志とはまた違う気がする。
人間を相手にしている感覚が、何故か希薄だった。
明らかに突進の体勢を取っている猪頭に、誰もが緊張していた。
まさに、猪の突進の予兆を感じ取った猟師の気分だ。
刀は持っていないが、だから安心とはいかない。
そう思い、誰もが固唾を呑んで状況の推移を見守っていると。
「……あ!」
と、猪頭が何かを思い出したように声を上げた。
がばっと身体も起こし、心なし焦りの気配を漂わせている様子だった。
「お前、隊士だよな?」
「ま、まあ……そうですけど」
「ぐがっ、じゃあダメじゃねえか! 隊士同士の……ええと、アレはご法度だからな!」
「私闘?」
「うるせえな、わかってんだよ! シトーがご法度だってな! 馬鹿にすんじゃあねえ!!」
ここまで常識知らずの行動を取っておきながら、何故そこだけ常識的なのだろう。
いや、言っていることは正しいのだ。
正しいのだが、何か釈然としなかった。
「何をしているんですか!!」
その時だった。廊下側から隊服の上に看護衣を着た少女が駆け込んできた。
耳に残る甲高い声の主は、ツカツカと猪頭に近付いていった。
「あらぁ、アオイちゃん。その子と知り合い?」
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
蝶の髪飾りで黒髪を2つ括りにしたその少女の名はアオイと言って、ここ蝶屋敷の実務を管理している少女だった。
きっちりとした角度で会釈をするあたり、生真面目な性格が滲み出ている。
そして、誰もが怯える猪頭に対してキツい視線を向ける。
意外なことに、猪頭は怯んでいた。
「伊之助さん、ここは男子禁制ですよ!」
「な、なんでだよ」
「女性病棟だからです! しのぶ様にも男子は行けない場所があると言われていたでしょう!?」
凄まじい剣幕である。
女性を雌と――悪意ある表現というより、男女という呼称に不慣れなように感じる――言っていた猪頭、伊之助という名らしいが、しかしアオイに対しては強く出られないらしかった。
作法はともかく、その様に対しては、可愛らしいとすら思った。
言えば、おそらくそれこそ凄まじい剣幕で拒絶されただろうが……。
◆ ◆ ◆
――――奇妙な1日だった。
夜になって振り返ってみても、そう思った。
奇妙というか、色々あったと言うべきなのか。
「ふっ!」
夜半、瑠衣は槇寿郎と会ったあの中庭に来ていた。
何をしているのかと言えば、刀の素振りである。
入院の間に感覚を忘れてしまっているので、刀の感触を身体に覚えさせるためにやっている。
打ち直されたばかりの刀だから、特に念入りにしなければならない。
もちろん、蝶屋敷の者に見つかると少々面倒なことになるかもしれない。
しかしこの場所はちょうど人目を遮る位置でもあり、隠れて素振りをするには都合が良かった。
病室に見回りが来るまでの間に戻れば、大丈夫だろう。
それに、だ。
(もっと、強くなろう)
流石に父や兄よりも強くなれるとは思えないが、2人の足元に届くくらいには、強くなりたかった。
それから、弟の千寿郎が恥ずかしく思わない程度の位置にはいたいと思った。
上弦から生き残った程度で褒められる。そんなことではダメなのだ。
あの上弦の肆を斬ってしまえるくらいの強さ。
(そうすれば、父様だって……)
脳裏に浮かぶのは、甘露寺や伊黒の姿だ。
あの2人と杏寿郎を、自分の自慢だと言って笑った父の顔だ。
そして、この中庭で自分に向けてきたあの目だ。
――――素振りの風切り音が、静かな夜を切り裂いた。
「…………?」
不意に、誰かが近付いてくる気配を感じた。
風向きのおかげか、姿が見える前に声が届いて来たのだ。
見回りかとも思ったが、話し声がして、複数人だとわかる。見回りではない。
多分、2人か。話し声にしては、一方の声がやけにくぐもっていて変にも思うが。
さて隠れるか、どうするか……と考え始めた、その時だ。
「ふぎゃっ」
と、盛大な声がした。
何かあったのだろうかと、声の方へ足早に進み、物陰から様子を窺うことにした。
するとだ、花壇のあたりで少年が1人倒れ込んでいた。
やけに明るい髪の色――黄色の髪など、初めて見た。異人というわけはなさそうだが――で、月明かりの下でもやけに目立つ。
「あ……」
大丈夫ですか、そう声をかけようとした。
明るい髪色の少年の傍に、女の子が立っていた。
桃色の麻の葉柄の着物。市松柄の帯に、黒い羽織。
そして、恐ろしく美しい。
鴉の濡れ羽色の髪、白絹のような肌――月明かりに映えて天女のようだ。
「……お」
「鬼……?」
間違いなく、鬼だった。あの眼、そしてあの気配。間違えるはずもない。
何故、こんなところに鬼が。
ここは鬼殺隊本部、蝶屋敷。
鬼がいるはずがない。いるはずのない存在がいる。
鬼の少女が、動く。
地面に倒れ込んだままの少年に、手を伸ばす。
鬼が、人間に、手を伸ばす。
「――――ッ!!」
手首を返し、日輪刀を構える。
駆け出した。
鬼が瑠衣に気付く。
そして――――……。
最後までお読み頂きありがとうございます。
今はいろいろと大変ですが、皆さんご一緒に。
心を燃やせ。
一緒に頑張りましょう…!
私の作品が一時の退屈しのぎにでもなれば幸いです。
妹候補その③「継国ちよ」
継国兄弟の妹。蝶よ花よと育てられた武家のお嬢様。天真爛漫で底抜けに明るい性格。
勤勉な長男や天才の次男を敬愛しており、末の娘という地位を利用して縁壱と遊んでも叱られずに交流できた。
後に煉獄家に嫁入りする。つまり原作の煉獄家先祖の剣士に嫁ぐ。
ぶっちゃけ瑠衣の先祖。週1更新の場合は物語はこの「ちよ」と瑠衣の2段構成になるはずだった。
しかし現実には月2更新のためちよから始めていていたら完結までかかり過ぎるため、実現しなかった。
採用されなかった理由…戦国時代がわからないから。