――――伍ノ型までが、限界だった。
炎の呼吸は9つあるのだが、瑠衣が会得できたのは伍ノ型までだった。
より正確に言えば、型そのものは習得できていたが、技と呼べる程に昇華できなかった。
何故ならば瑠衣の身体が、炎の呼吸への適性を有していなかったからだ。
「気にすることはない。瑠衣」
かつて兄はそう言って、自分を慰めたものだ。
ああ、いや。あの兄に限って、慰めたつもりなどないのだろう。
きっと心の底から、素直に声をかけてくれたに違いないのだ。
人それぞれに出来ることがあり。不要な人間などいないのだと。
かつてはそれを、尊敬していたこともあった。
今は、ただ眩しい。煌めくような思い出だ。
兄は、煉獄杏寿郎は、瑠衣にとって――――太陽だった。
だからもう、目にすることは無い。
(色変わりの刀。日輪刀)
一言で言えば、それはとても簡単なことだ。
だが、考えてみてほしい。
呼吸の適性は、日輪刀が何色に染まるかで決まる。
赤なら炎。青なら水。緑なら風。
だがそれは、裏を返せばこういう意味になる。
日輪刀を握るまで、
それ以外の方法では、その人間が何の呼吸に適応しているのかわからないのだ。
だが考えてみれば、
(日輪刀は、どうして色が変わるのか)
日輪刀を打っていた刀鍛冶でさえ、その理屈はわかっていなかった。
あるいは里長や各一族の長は知っていたのかもしれないが、今となっては語る者はいない。
しかし、ヒントはあった。
赫刀だ。
(痣者が日輪刀を強く握ると、体温が刀身に伝わり、
つまり日輪刀は、握った人間の体質を
体温。握力。心臓の鼓動。血の流れ方。肺や横隔膜の収縮。掌の形。骨や筋肉の動き方。
それらを視て、最も適した呼吸の色に刀身を変えるのだ。
すなわち日輪刀とは、体温計であり触診器のような物なのだ。
(つまり、あるはずなんだ)
もちろん、体質や所作を変えることは出来ない。真の適性は変えられない。
けれども、一瞬だけ。この瞬間だけ、この一撃を放つ間だけ。
今だけ、日輪刀よ、太陽の刀よ。既に黒刀に変わりし刀よ。
赤色に、変わり給え――――。
◆ ◆ ◆
この時、瑠衣は集中を必要としていた。
まず『煉獄』を撃つために、全身の力を――おそらくは最後の力を――余すところなく使わなければならない。
しかもこの『煉獄』は最後の『爆血』を前提にしている。
絶対に外すことが出来ない。
(目指すは一点。あいつの、頭部!)
磔の女の部位から突撃し、斬り抉りながら核を潰す。
そしてそれを成功させるためには、可能な限り正面から突撃をかける必要がある。
真っ直ぐに行き、真っ直ぐに抜ける。
力のロスを最小限にしなければ、おそらく最奥部まで進むことが出来ない。
極度の集中は、瑠衣の眼に目指すべき核を視せていた。
しかし逆に言えば、それ以外に対する視覚を放棄しているとも言えた。
実際、瑠衣は『煉獄』を核に向けて撃ち込むことに集中していて、他のことは考えていない。
そうでなければ、透き通る世界から弾き出されてしまう。
(この馬鹿マジで前しか見てねえ!)
その他のことは、
蜘蛛の手足が瑠衣を狙って動いたとしても、今の瑠衣には対応が出来ない。
だからそうしたものは、獪岳が対処するしかなかった。
機動力と広範囲攻撃に優れる雷の呼吸だからこそ、可能なことでもあった。
能力的には可能だが、当然ながら、心情的にどう感じるかというのはまた別の話だった。
「お前! 後で覚えてろよ!」
瑠衣の背中にそう悪態を吐いたところで、今の瑠衣には聞こえていない。
それなら瑠衣を見捨てれば良いじゃないかと、他人は言うかもしれない。
どうしてわざわざ援護するような真似をするのかと、きっと言うだろう。
例えばあの小憎たらしい
しかし、考えてみてほしい。
もしもここで獪岳が瑠衣を見捨てたとする。放置したとしよう。
すると瑠衣はこう言うだろう。
いや、口には出さないだろうが、目で言ってくるだろう。
「良いですよ。別に期待とかしていませんでしたから」
――――想像しただけで腹が立つ。
もしも瑠衣に見下されながらそんなことを言われた日には、額を地面に叩きつけて死んでしまうかもしれない。
獪岳にとって、瑠衣に見下されることはそれ程の屈辱なのだった。
なので獪岳としては、瑠衣を援護する以外に選択肢が無い。
そしてそれを瑠衣がきっと見透かしているだろう、とも思っている。
だからさらに腹が立つ。余りにも腹が立って仕方がないので。
「オラァッ!」
――――雷の呼吸・弐ノ型『稲魂』。
仕方がないので、獪岳はその
黒い稲妻が、戦場を駆け抜けていった。
◆ ◆ ◆
炎の呼吸・玖ノ型『煉獄』。
上半身を大きく
豪
しかしその分だけ、放つ側に要求されるものも大きい。
(身体が軋む……! 筋肉が裂けそう……!)
斬撃の力を溜める肝は、構えの時点の上半身の捻じりにある。
この時点で身体に相当の負荷がかかるが、溜めた力を一気に放つ際の負担はその比では無い。
おそらくこの『煉獄』を放った後、瑠衣の身体は壊れるだろう。
眼前に蜘蛛の頭部――磔の女の姿が迫る中で、しかし瑠衣は躊躇しなかった。
(どうせ、後が無いんだから……壊れたって良い!!)
どの道、最後の一撃なのだ。
次が無いのであれば、技の後に身体に残るダメージなど考慮する必要は無い。
そもそも失敗すれば、死ぬのだ。
目の前の蜘蛛に踏み潰されるか、千切られるか、喰われるかして、死ぬのだ。
「オイ!
獪岳の声。けして聞こえていないわけでは無い。
ただ、答える余裕は無かった。
「――――姉さんッッ!!」
聞こえているのかは、わからない。
しかし瑠衣は、目の前にいる蜘蛛に――その中にいるだろう瑠花に、呼びかけた。
それは、かつて炭治郎がやったような、敵に攻撃を報せるものでは無い。
思わず口を吐いて出てしまった。そんな呼びかけだ。
百年。いや、それ以上だ。
上弦と遭遇した無限列車の時から、いや生まれた時から、共に在った。
こうしている今も、胸の内に喪失感を感じて止まない。
だからそれを誤魔化すために、声を上げた。
(……変われ)
そして、『煉獄』が完成する。
刀身は『爆血』で燃えているが、まだ黒い。
思い出せ。百年の向こう側の記憶を、思い出す。
(……変われ)
兄は、父は、どんな風に刀を握って、どんな風に持って、どんな風に振っていた。
それを見ていたのは、もうずっと昔のことだけれど。
今でも鮮明に、思い出せる。
ギシ、と、握り締めた刀の柄から音が響いた。
心を燃やせ、と、父と兄は良く言っていた。
瑠衣はそれを一種の精神論だと思っていた。
でも、本当は違った。
誰よりも、どの呼吸よりも熱く、熱く、呼吸を、体温を上げて。
「か、わ、れ、ええええええええええええっっ!!」
その刀身を、蜘蛛の頭に、磔の女に振り下ろした。
確実に、女の胸に届き、肉を裂く鈍い感触が伝わって来て。
そして。
「えええ――――……え?」
◆ ◆ ◆
一瞬、その場にいる全員の時間が止まった。
瑠衣の日輪刀は、確かに蜘蛛の肌を裂き、肉を斬り裂いた。
しかし、そこまでだった。
核に到達する前に、瑠衣の――炭治郎の黒刀は、限界を迎えてしまった。
(
攻撃に、『煉獄』に全てを振っていたので、気がつかなかった。
黒刀に、
ぱっと見では気付かない。透き通る眼で視てやっと気づく程の小さな、しかし致命的な――
考えてみれば、当然のことだった。
いくら綺麗に保存されていても、100年である。
竈門家は剣士として家系を遺して来たわけでは無い。刀の保存状態には限界があった。
そしてさらに悪いことでに、先ほど炭彦はこの刀で肉を斬った。
その時に付着した血液に強力な腐食作用があり、深刻なダメージを鋼に与えていたのだ。
(マジでヤバい!)
と思ったのは、この場である意味で最も正統な剣士と言えるだろう、獪岳だった。
彼は、日輪刀が折れるという意味を誰よりも理解していただろう。
もちろん、瑠衣は攻撃を続行するだろう。
続行するだろうが、しかし厳しい。
折れた刀では攻撃の威力も範囲もまるで違うからだ。
「……ッ!」
それでも、瑠衣は日輪刀を振り上げようとした。
どの道、今さら止めようがない。
止めれば死ぬ。『爆血』も消える。だから止めない。
続けるんだ。そう、思った時だった。
どこからともなく飛来したそれを、瑠衣は反射的に掴んだ。
握り締めた柄に感触に、奇妙な懐かしさを感じた。
それは炭治郎の黒刀よりも、より
(この、刀は……)
赤い刀身。炎のような飾り。
嗚呼、と、自然と嘆息した。
潤みそうになる視界を、きっと横に振って。
「使え――――ッ!!」
と、
いや、懐かしいというのは瑠衣の勝手な郷愁だ。
何故ならばその相手は、瑠衣の知る人間とは違う。別人だ。
彼はきっと、自分がどうしてそんな行動に出たのか、わかっていないだろう。
わかっていないのに、そうしたのだろう。
「燃えろ……!」
『爆血』の
炎は今にも消えそうで頼りないが、構わなかった。
この刀は、それ自体が
◆ ◆ ◆
桃寿郎は、ほとんど無意識の内に行動していた。
何かに突き動かされるように、彼は気が付けば刀を投げてしまっていた。
自分でも驚く程のコントロールの良さに、自分で感心してしまう程だった。
「むう! 近付き過ぎたかもしれん!」
思ったことは口に出さざるを得ない。そういう性格だった。
しかし実際、行為に対する代償は小さくは無かった。
蜘蛛の全身の目が、明らかに桃寿郎の方を向いていたからだ。
血走った無数の目が一斉に自分の方を向いて、さしもの桃寿郎も怖気を感じてしまった。
「桃寿郎君!」
「来るな、炭彦!」
蜘蛛の脚が自分の方へ向けられるのを、桃寿郎は意外な程に冷静に見ていた。
もちろん、驚いてはいる。脅威を感じてもいる。何なら恐怖も感じている。
しかし一方で、腹の底は落ち着いていた。
まるでこの状況を何度も経験してきたかのような、そんな様子だった。
(とはいえ、これは駄目かもしれんな!)
振り下ろされる巨大な金属の脚を前に、そんなことを思った。
何しろ、桃寿郎自身は呼吸の訓練を受けていない。
天性の才能で身体能力は高く、
姿勢は、刀を投げ終えた体勢から戻っていない。
どうしても一呼吸の間が空く。
だから今この瞬間において、蜘蛛の脚を回避することが出来ない。
頭の冷静な部分が、次の瞬間には自分が死んでいる、と告げていた。
(しかし、不思議だ。何だったのだろう、さっきの感覚は)
瑠衣が攻撃に動いた時、実は桃寿郎もすでに駆け出していた。
強くそう感じた。そして感じた心のままに、桃寿郎は動いた。
身体よりも、あるいは感情よりも、心の方が強かった。
(父上、母上、申し訳ございません)
自分は親不孝者だ、と思った。
だけどきっと、父も母も、今の自分の行動を認めてくれるだろう。
それだけは、確信があった。
きっと両親はわかってくれるだろうと、そう思った。
そして、桃寿郎は自分の「死」を見つめた。
目を逸らすことも、閉じることも無かった。
驚くほど落ち着いた心境で、桃寿郎は自分の「死」を見つめて、否。
「勝手に」
そして、鮮烈な鶴が桃寿郎と「死」の間に割って入って来たのだった。
「死んでるんじゃないわよ……!」
鮮烈な赤色が、桃寿郎の視界で散った。
◆ ◆ ◆
禊の日輪刀は、最大で6つの
それらを鋼糸で繋いで操作する独特の剣技は、禊の性格と相まって強力無比な型を生んだ。
独特で強力過ぎて他に使い手がいないと言う意味では、日の呼吸や月の呼吸にも匹敵するだろう。
人によっては、何て寂しい型なのだろう、などと言うのかもしれない。
しかし禊は、もちろんそんなことは気にしていなかった。
自分の呼吸を他人に伝えるなど考えたこともないし、そもそも他人のことを考えたことが無い。
禊はただ、愉しみたかっただけだ。
この世を全力で、自分らしく謳歌していただけだ。
「この力と技でね」
美貌。器量。教養。技術。
己の持つ全てを使って、人生を愉しむ。
けれどそれって、普通のことでしょう?
誰でも、そうやって生きている。
生きていくって、そういうものでしょう。
我慢とか、遠慮とか、そんなことを考えていたらキリが無いったらない。
だからもしも仮に、この世から去ることがあるのだとしても、悔いだけは残さないし。
「
そう言って、嗤うだろう。
そして、
我ながら、徹頭徹尾趣旨貫徹。見上げたものだと思った。
ただ1つ、ミスをしてしまった。
それは禊にとってはまさに痛恨の極みであり、珍しく悪態を吐きたくなった。
ただ、それは表には出さなかった。
失敗の上塗りをするわけにはいかない。それは、遊女の矜持が許さなかった。
「だから、そんな顔をするんじゃないわよ」
自分を
顔立ちも肌触りも、どこか懐かしい。
もちろん、彼は千寿郎ではない。彼女の客ではない。
けれど、100年前に
素質や資産が引き継がれるというのなら、客としての継続も継続されるだろう。
「まったく」
男というのは、単純だ。
ほとんど話したこともないような相手でも、情のようなものを向ければ、感情を返して来る。
生殺与奪の権を、簡単に明け渡して来るのだ。
今だって、禊が少し腕を動かすだけで、頚から上が胴体と泣き別れしてしまうと言うのに。
「
酒が呑みたい。そんな気分だった。
ただ、腹から下は潰れてしまったので、酒を流し込む胃がないことに気付いた。
まあ、味はわかるだろうし、良いか。
そんなことを、思った。
◆ ◆ ◆
そして、瑠衣の『煉獄』が完成する。
煉獄の日輪刀で以って、
しかしその偽物は、煉獄瑠衣という少女が重ねた100年の、全霊が込められていた。
「ハアアアアアァァァ――――ッッ!!」
磔の女を縦に斬り裂いた。
しかし、まだ進む。核はこの奥だ。
この日輪刀もいつまで保つかはわからない。
だから、初撃の勢いのまま突っ切るしかなかった。
何よりも、瑠衣の肉体が先に潰れる。
『爆血』の効果で敵の装甲を溶かし、『煉獄』の突撃力で斬り裂く。
それで、終わりだ。
成功するにせよ、失敗するにせよ。
「AAAaaa――――――――!!」
蜘蛛が叫ぶ。苦悶の叫びだった。断末魔の叫びと言っても良い。
「……ッ」
不意に、蜘蛛の
胴体が沈み、まるで顎のように脚が逆側に、つまり瑠衣の側に向かって閉じた。
包み込むように、脚が迫る。
獪岳らの援護は、間に合わない。
(関係ない)
このまま、
たとえ、この肉体がズタズタにされようとも。
この蜘蛛の核だけは、何としても潰す。
しかし、眼前にまで迫った蜘蛛の脚を、真横から一閃するものがあった。
それは、砕けた槍――の日輪刀だった。
槍の穂先が脚の関節を撃ち抜いて、瑠衣を守った。
「私の槍は6つしかない」
――――欺の呼吸・真参ノ型『八十八夜』。
「……なんて、言った覚えはないけど?」
鋼糸を握り締めながら、桃寿郎に半身を支えられた状態の禊が嗤っていた。
思い込みは良くない。欺の呼吸は、人の思い込みにこそ最も効果を発揮するのだから。
(禊さん――――)
蜘蛛の体を縦に真っ二つに斬り裂いて、瑠衣の身体が縦に回転する。
二つに分かれた蜘蛛の胴体が、どうと音を立てて地面に崩れ落ちた。
そして、硬質な金属質な――それでいて、どこか液体のように揺れてもいる――
ゼリー状の物を斬った。そんな感覚が、掌に伝わって来た。
一瞬、蜘蛛の体が膨張した。
そして次の瞬間、一気に縮み、たわんだかと思うと、弾け飛んだ。
黒い雨、黒い泥――そう思える黒い水滴が、周囲に飛び散り、雨のように降り注いだ。
その黒い水溜まりの中に、瑠衣は落ちた。
◆ ◆ ◆
泥の中、瑠衣は身を起こした。
手の中を見ると、日輪刀の刀身が罅割れていることに気付いた。
やはり炭治郎の日輪刀と同じで、元々限界が近かったのだろう。
あるいは、役割を終えた、と言うことなのかもしれない。
それは流石に、感傷的に過ぎるだろうか。
「……ああ、まあ、貴方だろうとは思っていました」
顔を上げると、そこに獪岳がいた。
雷の日輪刀を持った彼は、座り込んだままの瑠衣を見下ろしていた。
そんな獪岳に、瑠衣はふ、と微笑んだ。
「きっといつか、寝首を掻きに来ると思っていたのですが。意外と、遅かったですね」
獪岳との付き合いは、もう随分になる。
同期だった。
柱の弟子という共通項があったせいか、他人からは何かと比較されていたような気がする。
瑠衣は余り気にはしていなかったが、獪岳は違っただろう。
今は、それが理解できる。
「どうぞ」
どの道、力は残っていない。
完全生物としての力はすべて瑠花に奪われたし、日輪刀は壊れ、呼吸を維持する力も無い。
これ以上ない程に、無力な状態だった。
それに、とも、思う。
もしも自分に引導を渡す役目というものがあるとして、獪岳は一番適任だと思えた。
何故ならば彼は、彼だけは、ずっと自分を嫌っていた。
最初から最後まで、同じ感情を向け続けてくれていた。
「…………」
獪岳が日輪刀を振り上げるのを見て、瑠衣は目を閉じた。
静かな数瞬が、しばらく続いた。
不意に、空気を切る音がして、さらに足先で軽い音がした。
肝心な衝撃は、来なかった。
「……?」
少ししてから、目を開けた。
すると、獪岳はいなかった。
その代わりに、瑠衣の足先に日輪刀が突き立っていた。
雷の紋様が刻まれたその日輪刀は、主がそうだったように、何も語っては来なかった。
「……私を殺したくて、ついて来てくれたのではなかったんですか」
虚空にそう問いかけても、答えるものは無かった。
しかし、衝撃は来た。
横から少年が飛びついてきて、瑠衣は小さな悲鳴を上げて、衝撃に耐え切れずに倒れた。
「……残酷なひと」
獪岳。何度も呼んだその名前は、もう誰にも受け取っては貰えない。
そんなことを考えながら、瑠衣は手を動かして、自分に飛びついて来た炭彦の頭を撫でた。
この子が泥で汚れてしまうな、と、そんなことを考えた。
◆ ◆ ◆
何だあれは、と、禊は思った。
まったく男というものは非合理的な生き物だ、と思わざるを得ない。
格好をつけなければ死んでしまう生き物なのだろうか。
まあ、ああいうのも見方によっては一種の美学と言えるのかもしれない。
「ほんと、バカみたい」
「まあ、男は大事なことはひとつ胸に秘めていれば、後はどうにでもなっちゃうからねえ」
「何それ。意味わかんないんですけど」
「あはは。まあ、男にしかわからないこともあるってこと、さ……っと」
視線を巡らせて――何しろ、もう動かせる身体が無い――見れば、犬井が泥の中で何かをしていた。
蜘蛛の残骸、黒い泥の中に手を入れて、何かを探している様子だった。
どう考えても人体に良いはずが無いそれに、犬井は
「……で、アンタは何をしているわけ?」
「いやあ、まあね」
不意に、何かを泥の中から掬い上げていた。
それは、小さな塊にも見えた。
ただの石のようにも見えたし、金髪の
それが何なのか、禊にはわからなかったし、さして興味も無かった。
それがアンタの「大事なこと」なわけ?
と、口に出そうとしたが、舌が回らなかった。
まあ、それを大事そうに抱え込んで座り込む犬井の背中を見れば、答えは決まっていた。
「獪岳ちゃんは、行っちゃったのねぇ」
榛名と柚羽は、相変わらず寄り添っている。
最後までべたべたと、仲の良いことだと思った。
獪岳はそういうのは嫌っていた。その点だけは、共感できた部分かもしれない。
(参ったわね)
最後に考えることがそんなことだなんて、それこそ死にたくなってくる。
最後。そう、最後だ。
彼女達は、瑠衣の血鬼術によって事実上の不老長寿を得ていた。
その瑠衣の力が失われた以上、不老の血鬼術も失われる。
桃寿郎を庇わなくとも、どうせ寿命が尽きる運命だったのだ。
(地獄の鬼っていうのは、強いのかしらね)
鬼と言っても、自分が知っている鬼ではなく、伝説に聞く地獄の極卒だ。
きっと強いのだろう。何しろ、地獄で人間や鬼を虐め抜いているのだ。
自分が殺した鬼は、今も地獄にいるのだろうか。
閻魔大王は実在するのだろうか。実在するとすれば、やはり強いのだろう。
(愉しみね)
そんな閻魔や地獄の鬼が、表情を歪めて膝を屈する様を思うと、自然とにやけてしまう。
嗚呼、愉しみだ。
本当に、愉しみだ――――。
「女の子が最後にする顔がそれって、ヤバくないかしらぁ」
五月蠅いわね。
◆ ◆ ◆
その少女は、黒い泥の中で、仰向けに倒れていた。
自分の命が尽きようとしていることは、理解していた。
そもそも、指一本動かす力さえ残っていない。
「……姉さん」
そんな少女に、瑠衣は声をかけた。
炭彦に肩を支えられながら、仰向けに倒れる瑠花を見下ろしていた。
僅かに目を開けて、瑠花は妹を見た。
その眼には、もう何の虹彩も紋様も輝いてはいなかった。
「……上手ク……行カナイ……モノダネ……」
そう、何も上手くいかなかった。
瑠花が望み、思い描いたもののほとんどは、砂粒のように掌から零れてしまった。
まあ、それも仕方なかったのかもしれない。
何故なら瑠花は、この世に存在したことが無かったのだから。
「……私ハ結局……貴女ノ一部デシカ……無カッタ……」
煉獄瑠衣という少女の中に、たまたま残った鬼の細胞。
妹の生命力にへばりついていただけの、本来は
それが、煉獄瑠花という少女の正体だった。
奇跡のような確率で、たまたま自我や人格に似た何かが芽生えただけの、小さな存在だった。
本体から一部の細胞だけで独立したところで、存在が維持できるわけが無かった。
それでも、瑠花には後悔だけは無かった。
たとえ僅かな時でも、この世界で存在を主張できたことは、彼女にとっては大いなる喜びだった。
それに。
「有難う。姉さん」
「……ナニガ……有難ウ……ナノ……」
「姉さんは」
はらはらと、瑠衣の頬を、血の滲んだ透明な雫が滴り落ちる。
尽きたと思っていたそれが、何故か今は自然と溢れて来た。
「姉さんは、私を救おうとしてくれた」
「…………ハハ」
この期に及んで、この妹は何を言っているのだろう。
お人好しにも程がある。
自分はただ、自分のやりたいことを、思うままにやっただけだと言うのに。
嗚呼、面倒だ。もう何もかも面倒だから。
「……セイゼイ……残リノ人生ヲ……苦労スルト……良イ……」
肉体が崩壊する。
核を砕かれているのだから、当然だ。
もはや抵抗しようとも思わない。
余計な会話を、もうする必要は無い。
私なんて、このまま、消えてしまえ。
「……普通ノ……人間トシテ……生キテ……」
妹には、瑠衣には、何も残してやらない。
煉獄瑠衣が得た力のすべては、自分が持って行く。
化物としての煉獄瑠衣は、自分と一緒に地獄に堕ちるのだ。
いい気味だ。そう思った。
(……嗚呼……ヤメテクレヨ……)
死の間際、瞼の裏に浮かんだのは、煉獄家の人々だった。
槇寿郎、杏寿郎、千寿郎に――そして、瑠火。
こんな時に思い出すのが、それだった。
けれど、瑠花はそれらを意識から振り払った。
(私ハ違ウ。オ前達カラ何ノ影響モ受ケテイナイ)
何も継いでいない。
――――何も。
だって。
「……ソレハ……瑠衣ノ……ダカラ……」
だから、置いて逝く。
光差す地上に、人間の世界に、置いて。
このまま、逝かせて――――。
最後までお読みいただき有難うございます。
ハッピーエンドにしようとしたが、キャラクターに拒否されました(妄言)
この作品も随分と長期になりましたが、あともう少しちょこちょこ遊んで、締めにしようと思っています。
それでは皆様、もう少しだけお付き合いくださいませ。
それでは、また次回。