朝は食が細くなる人間もいるが、炭彦達には当て嵌まらないようだった。
胡蝶姉妹こそ――表向き――お
流石は成長期。今朝から厨房が悲鳴を上げている様が容易に想像できそうだ。
瑠衣の前にも、当然だが同じ朝食プレートが置かれている。
焼きたてのクロワッサンに、温野菜にポテトサラダ。スクランブルエッグに焼きベーコン。
それから、温かいコーンスープにアメリカンコーヒー。
まさに、洋食レストランのご機嫌な朝食だ。
(まあ、元気なのは良いことですね)
自分の朝食には手を付けずに、バクバクと食べ続ける子ども達を見て、瑠衣は微笑んだ。
その膝と足元では茶々丸とコロが丸くなっていて、返事の代わりに尻尾を揺らしていた。
「あの、瑠衣様。申し訳ございません」
そうしてゆったりとした朝食の時間を過ごしていると、耳元で囁く声があった。
「貴女は……田村さん、でしたか。何か御用でしょうか」
「その、ちょっと……産屋敷様がすぐに来てほしいと」
「産屋敷……さんが?」
子ども達に聞こえないようにだろう。給仕の田村の声は小さく落とされていた。
その時点で、この「呼び出し」がただならぬものであることはすぐにわかった。
瑠衣は一度目を伏せて、小さく息を吐いた。
「瑠衣さん?」
「大丈夫ですよ。ゆっくり食べてくださいね。良く噛むんですよ」
「こ、子ども扱いしないでくださいよ」
「ふふ」
炭彦達に微笑みを向けてから、瑠衣は席を立った。
田村はそんな瑠衣に一礼して、背を向けて先導した。
ちなみに、茶々丸とコロはついて来なかった。
(さて、いったい何の用でしょう)
朝食の席で呼び出される。普通に考えて、穏やかではない。
田村の足取りも、どこか急いでいる様子だった。
――――まあ、
(――――私には関わりの無いこと、ですがね)
そうして、田村にある部屋まで案内された。
そこはスタッフの区画で、その部屋のドアは他よりも少しだけ大きく作られていた。
ドアのプレートには「船長室」と刻印されていた。
「失礼します。瑠衣様をお連れしました」
ドアをノックして、田村が瑠衣を室内へと促した。
そうしてドアを潜り、部屋の中に入った瞬間、瑠衣は自分が呼ばれた理由を察した。
部屋の中に、
――――
◆ ◆ ◆
鉄錆の臭い、と、良く言われる。
だが実際には、もっと鼻腔や喉の粘膜に貼り付くような、不快な臭いになる。
そして鬼殺隊の場合には、血の臭いとは自分や仲間の臭いということになる。
鬼は血の臭いをさせる間もなく再生するか塵になってしまうからだ。
だから鬼殺隊士には、血の臭いを嗅いだ瞬間に警戒する本能のようなものがある。
それは瑠衣も例外ではなく、室内に充満するむせ返るような血の臭いに目を細めた。
実際、船長室は酷い有様だった。
「朝早くに呼び立てて申し訳ない」
車椅子に座った産屋敷が、瑠衣の姿を認めると小さく頭を下げて来た。
それに対しては目線だけで返して、周りを見た。
副船長の坂本が産屋敷の傍にいて、瑠衣を案内してきた田村が扉の横に立っていた。
この2人は何も言葉を発さず、緊張した面持ちで瑠衣を見ているだけだった。
さて、穏やかでないのは彼らの足元だ。
酷い有様、だ。
まず、彼らの足元は
比喩ではなく、文字通り真っ赤に染まっていたのだ。
カーペットも、家具も、壁紙も、あるいは天井でさえも、真っ赤なペンキをぶちまけたかのようになっていたのだ。
「…………」
そしてその全てが、血だ。ぶちまけられていたのは血液だった。
もちろん、何もないところに血液など出て来ない。
その元は、船長室に
「……この人は?」
「船木君です」
船長室で寝ているのは船長しかいない。
それがわかっていても聞かなければならない程に、彼の姿は異常だった。
胸から腹部に欠けて大きく口を開けて、そこは
あるべき
まるで外部から無理矢理に抉じ開けられたかのように、肋骨が数本、外に飛び出した状態で折れていた。
「私がやった、と?」
「まさか。ただ……」
瑠衣も、産屋敷達が自分を疑っているとは思っていない。
仮に犯人が瑠衣だとしても、こんなやり方はしない。
こんな、こんな――――。
「
人間の内臓を、喰うような真似はしない。
現場を見ただけでわかる。
船長の船木は、何者かに
それも、生きたまま――――。
◆ ◆ ◆
状況をまとめると、こういうことになる。
まず、船長室は内側から鍵がかけられていた。
いちおうマスターキーはあるが、所定の場所にしまわれたままだった。
つまり昨夜から今朝に至るまで、この船長室は「密室」だったということになる。
何者かが密室状態の船長室に侵入し、船木を殺害――当然、これが自殺だなどという者はいない――した。
状況だけで見るなら、そういうことになるだろう。
いわゆる不可能犯罪というやつだ。
ただしこの世には、不可能事を可能にしてしまう存在も
「恥ずかしながら、我々にはこういった状況に対する知見がありません」
「……そうでしょうね」
産屋敷の言葉に、瑠衣は頷く。
何しろ100年前の時点で、鬼はいなくなっていたのだ。
鬼舞辻無惨滅亡後の鬼殺隊は、ただただ煉獄瑠衣を討伐するために存続していたに過ぎない。
だからこそ、鬼狩りの技のほとんども現代まで保つことが出来なかったのだ。
「どうすべきと思いますか?」
「先にそちらの意見を聞きましょう」
「……すぐに元の港に戻り、スタッフ以外の人間それまでは自室待機」
その説明に、瑠衣は頷いた。
産屋敷の提案はセオリー通りのもので、正しい対応と言える。
「ただしそれは、
「どういうことでしょう?」
「今この船には私達しか乗っていません。出航計画も多人数が知っていたというわけでも無いのですよね? つまり犯人の目的は、船に乗っている人間」
もしもそうだとするのなら、
ここは海の上。瑠衣達も逃げられないが、犯人も
つまり船の中にいた方が、
「子ども達はまだ食堂ですね……他のスタッフの方は?」
「た、立川さんは厨房で。サリアさんは自室に……その、船長を最初に見つけて、ショックが大きかったので……」
「……なるほど」
そして、これはおそらく産屋敷が最も把握できていないことだろうが。
「では、まあ、とりあえず子ども達のところへ戻りましょうか」
「事情を説明しに行くのであれば、我々も」
「いいえ、そういうことではなく。大体ですね」
ふう、と溜息を吐いて、瑠衣は言った。
「あの子達が、大人しく自室待機なんて出来るわけがないでしょう?」
◆ ◆ ◆
カナタは頭を抱えていた。
いや、訂正しよう。最近はずっと頭を抱え続けている。
それもこれも、あの女のせいだ、とカナタは
「船長が変死しました」
朝食の後しばらくして、瑠衣がやって来た。
その時にすでに嫌な予感がしたのだ。
しかしカナタが何かの行動を起こすよりも早く、瑠衣がそう告げた。
それはもう、効果
「変死……って、普通じゃない死に方ってことですよね」
「まあ、そういうことになりますね」
緊張した面持ちで言う炭彦に、瑠衣は頷いた。
特に隠し立てするようなこともでない。そう考えているのだろう。
だがカナタとしては、そこは隠し立てしろよ、と言いたくて仕方が無かった。
むしろわざとやっているんじゃないか、と瑠衣を睨みつける。
するとどうだ。瑠衣はカナタの視線に気付いた。
そして、ふ、と微笑んで見せた。
それはまあ炭彦が見ればポヤ~っとするのかもしれないが、そこはカナタである。
むしろ、イラッとした。
「そういうわけですので、残りの旅程はすべて自室待機ということになりました。内側から鍵をかけて、誰も中に入れないようにすること」
「自室待機、だって……!?」
「ええ、そうですよ。少し
衝撃を受けたような――実際、受けている――カナタに、やはり微笑んだまま瑠衣はそう言った。
その瑠衣の目を見た瞬間、カナタは瞬時に察した。
この女――この女!
「必要な物があれば、お部屋の内線電話で私に言ってくださいね」
そして言外に、自分はずっと部屋にいると言った。
当然のように、炭彦ら子ども達は「はあい」と声を揃えた。
普通なら変死体が出たという話に少しは怯えるものだろうが、残念ながら、この場にいる子ども達はおよそ「普通」とはかけ離れている。
1年前の地獄を潜り抜けた経験がそうさせていた。
「ねえカナタ、相談があるんだけど」
「うむ!」
自室に移動しようとなった段で、炭彦と桃寿郎が声をかけて来た。
炭彦と桃寿郎。その組み合わせで、カナタには「相談」の内容が大方のところ察せてしまった。
相談。何て嫌な響きの言葉なのだろうと心底思う。
「…………何?」
自分がしっかりしなければ、と、カナタは思ったのだった。
◆ ◆ ◆
――――夜になるのを待って、部屋を抜け出した。
子ども達の部屋はほぼ隣同士だったので、時間さえ示し合わせれば合流は容易だった。
海の上なので
「うむ! 全員揃ったな!」
「ちょ、声が大きいよ桃寿郎君」
「そうですよ。
「揃いも揃って……」
「うふふ、みんな揃ったわね~」
桃寿郎、炭彦、しのぶ、カナタ、カナエ。
その5人で、夜までは大人しくしていた。
その甲斐あってなのか、大人達には――瑠衣も含めて――怪しまれた様子は無かった。
ただ、彼らも流石に探検気分のままでは無かったのだろう。
炭彦と桃寿郎は竹刀袋を持っていたし、胡蝶姉妹も懐に何かしら仕込んでいる様子で、たまにカチャカチャと音を立てていた。
それに対して微妙に納得がいっていないのか、カナタはジト目で言った。
「何でそんなに準備がいいわけ……?」
「あらあら乙女の
それは絶対に違うだろうと思ったが、言っても仕方が無いのでそれ以上は口にしなかった。
「……それで? この先なわけ、気になる場所って言うのは」
「うん」
カナタの言葉に、炭彦は頷いた。
炭彦達は何も、大人達の目を誤魔化すためだけに深夜まで待っていたわけでは無い。
昨夜、炭彦が奇妙な気配と
炭彦は昨夜、トイレに立って深夜の廊下を歩いていた。
その途上、暗闇の中に何かを視た、気がする。
気配と臭いが強くなったタイミングで瑠衣が声をかけて来たので、
「どういう臭いだったの?」
「すごく、生臭いっていうか……たぶん、すぐにわかると思う」
炭彦は嗅覚に優れる方だが、あの臭いは鼻の良い悪いで嗅ぎ逃せるものでは無い。
場合によっては吐き気を催してしまいそうな、そんな臭いなのだ。
だから
「どっち?」
「あ、こっちだよ。たぶん」
昨日と同じ暗闇の中に、炭彦は進んでいった。
竹刀袋を握り締めて、その硬質な感触を確かめながら、歩き出す。
そんな炭彦の後ろを、カナタ達もついて行った。
海の上を航海しているにも関わらず、廊下は何の音もしていなかった。
◆ ◆ ◆
「…………ふむ」
瑠衣は、自室でじっとしていた。
部屋の構造は、子ども達の部屋と同じだ。
それはそうだろう。同じ階層の同じ通路沿いの部屋なのだから。
今も、ベッドに腰かける形で目を閉じている。
その他の備品は、動かした形跡すらも無い。引き出しも、備え付けのコップでさえもだ。
傍目から見れば、着物姿の日本人形が鎮座しているようにも見えるだろう。
しかしこの
「我ながら、慣れないことをしていると思いますが……」
瑠衣は、ずっと考えていた。
1年前に
姉の言葉がどうであれ、今さら現代の人間と同じように生きていけるとは思っていない。
それでも、生きている以上は、生きていかなければならない。
生きていく以上は、何かをしなければならない。
何もしていないのは、生きていないのと同じだから。
だとすれば、今の自分は何をすべきなのか。どう生きるべきなのか。
「……お腹を抱えて笑う姉さんの姿が見えるようです、よ」
目を開ける。
部屋は、明かりをつけていない。だから真っ暗だった。
ただ目をずっと閉じていたせいもあって、暗闇の中でも視界は通っていた。
そして瑠衣の目は、真っ直ぐに部屋のドアへと向けられていた。
まるで、ドアの向こう側が見えているかのように。
「まあ、仕方ありません。ある意味、
良く見ると、瑠衣の足元にコロが丸まっていた。
相槌のつもりなのか、尻尾を一度だけ振っていた。
その感覚を足元に感じながら、瑠衣は膝に乗せていたそれを両手で持ち上げた。
長尺の鞘。ずっしりと感じる重みに、目を細める。
「
ス、と、それを抜く。
暗闇の中にも関わらず、刀身は鈍く輝き、瑠衣の顔を映し込んでいた。
打たれてから文字通り100年が経っているが、変わっていない。
打った刀鍛冶も、手入れした
「やれやれ、ですね。……そう思いません?」
コロはただ、瑠衣の足元で尻尾を振っていた。
◆ ◆ ◆
一歩進むごとに、口数は減って行った。
それは誰かに見つかるかもしれない、という漠然とした懸念のせい――では無かった。
誰もが何かを感じ取っている。
「炭彦、どう」
「……まだ、何も感じない、かな」
すんすんと鼻を鳴らす炭彦の言葉に、一瞬だけ、その場の緊張が
ただ、不思議と安心は出来なかった。
感じるのだ。と言うと、ただ神経過敏なだけとも取れる。
しかしこの場にいるのは、良くも悪くも普通もの子どもでは無い。
この世ならざるもの。超常なるもの。その存在感を、気配を、経験した者達だ。
だから、わかるのだ。
唇が渇き、背筋に冷ややかな物が滴る。その感覚を。
(あの時と、同じだ)
1年前、犬人間と遭遇した時のことが思い出される。
その後もよりヤバい状況に遭遇したと言うのに、思い出すのはいつも同じだった。
初体験の衝撃はなかなか上書きされない、ということなのかもしれない。
「…………待って」
不意に、炭彦が足を止めた。
先頭を進んでいた炭彦が足を止めたので、自然、全体の足も止まった。
「
続く言葉に、再び緊張が高まった。
思わず、と言った風に、炭彦の視線を追って正面を見据えた。
しかし確かに、正面から何かがこちらへと近付いて来ていた。
暗闇の中で、何かが蠢いている。
匂いは、それが人間ではないと教えていた。
それでいてその存在は、己を隠そうという気がないようだった。
炭彦たち全員が足を止める前で、
そして。
「
猫だった。
茶々丸が、子ども達を見上げて一声鳴いたのだった。
一気に、どっと疲れた。
はあ、と、その場にいる全員が深く息を吐いた程だった。
カナタに至っては炭彦に蹴りを入れていた。
「痛い!」
「もっと痛がりなよ。何だよ妖しい気配が~って。茶々丸じゃないか」
「いや待って。あの時はもっと違う臭いだったような」
「しつこいなあ。起きてるのに寝言とかやめて――――」
その時だった。
緊張が解れて、笑みさえ零れそうな、その隙間に捻じ込まれるようにして。
――――悲鳴が、聞こえた。
◆ ◆ ◆
悲鳴がどこから聞こえたのか、すぐにわかった。
何故ならばそこは、食堂だったからだ。
もう何度も部屋から通った道を、炭彦達は全速力で駆けて行った。
「――――大丈夫ですか!?」
と、食堂に駆け込むや炭彦は叫んだ。
普通に考えれば悪手ではあるのだが、それ以上に炭彦を焦らせていたのは、食堂に入った瞬間からむっとする程に匂い立つ
ドッ、と、心臓が痛くなる。全身を流れる血が冷えたような錯覚を覚える。
竹刀袋を解き、日輪刀を掴んだ。
誤解や勘違いはあり得ない。その確信があったからだ。
そして炭彦の呼びかけに応えるように、厨房の方から大きな音がした。
金属音。ガラスの割れる音。それも立て続けに。
どう考えても穏やかではない。
「大じょ」
再び声を上げかけた炭彦の顔の前に、カナタが掌を翳した。
「静かに行こう」
と、短く言った。
そんな兄に頷きつつ、身を低くして、音の方へと進む。
厨房からは、それ以上は何の音も聞こえてこなかった。
しかし、気配はあった。
「足元に気をつけてね」
厨房に入る時、カナエがそう声をかけてきた。
そのおかげで、炭彦は厨房入口にまで転がって来ていた鍋を蹴らずに済んだ。
ただ結論から言うと、その注意は必要では無かった。
何故ならば、再び厨房の中で大きな音が響いたからだ。
誰かいる。
しのぶがそちらへと懐中電灯を――準備が良いと言うか、抜け目がない――向けた。
懐中電灯の光で、金色の髪が一瞬煌めていた。
そしてこの船内で、金髪は1人しかいなかった。
「サリアさん、大丈夫ですか!?」
腰を抜かしているのか、尻餅をついた姿勢だった。
周囲には鍋や割れた皿が散乱しており、先程までの音の正体もサリアだったことがわかる。
サリアは厨房に駆け込んで来た子ども達の方は見ずに、
炭彦達は、素直にそちらを向いてしまった。
「ヒッ……!」
と、声を上げたのはしのぶだった。
ただすぐに姉が彼女の頭を抱き締めたので、それ以上は無かった。
そして他の子ども達は、声を上げることも出来ず、ただただ
薄暗い中でも、誤解しようがないほど真っ赤に染まった厨房の壁。
腹の真ん中のあたりから引き裂かれたコック服。
そして、恐怖に引き攣った、顔。
明らかに光の無い、空洞のような、目。
た、と、誰かが声を発した。
「立、川……さん……」
料理長の立川が、変わり果てた姿でそこにいた。
◆ ◆ ◆
そして、再び朝食の時間が来た。
予定では夜には港に着くはずだが、それを話題にする者はいなかった。
「う……」
魚料理に口をつけたしのぶが、ナプキンで口元を押さえた。
流石に――料理長がいなくなったこともあり――肉料理が出て来ることは無かったが、それでも胃が受け付けなかった様子だった。
と言うより、そもそも食欲のある者がいなかった。
朝食プレートをうず高く積み上げていた桃寿郎も、今朝は余り食が進んでいない。
昨夜――深夜に立川の遺体を発見して、まだ数時間しか経っていない。
そういう意味では無理もないことであるし、むしろ1人も欠けずに出て来たことが凄いと言える。
それだけ、立川の遺体は状況も状態も悪かった。
「こういう時こそ、きちんと食べないといけませんよ」
そう言って、瑠衣が子ども達1人1人に声をかけて回ったのだった。
そういうことをするタイプには見えなかったので、意外に思ったのは内緒である。
いずれにせよ、その甲斐あって朝食の席には炭彦たち全員が揃っていた。
そして人数が減ったために、産屋敷や船のスタッフも一緒に朝食を摂っていた。
「カナタ、大丈夫?」
「うん……」
カナタも、顔色が良くは無かった。
もちろん炭彦も不調を感じていたが、何とかパンを口に運んでいた。
いかに1年前の経験があるとは言え、そこまで神経が図太くはない。
一方で、炭彦は理解していなかった。
1年前の超常の事件を経験した彼らでさえ、あるいはそれを知っている産屋敷でさえ、そうなのだ。
であれば、それを経験したことがない者、知らない者が受ける衝撃はどれほどのものなのか。
それを、炭彦は想像も出来なかった。
ただそれは炭彦の罪というより、子ども故に仕方がないと言った方が良いだろう。
子どもの時分に、わかるはずがないのだ。
「う……う……」
「……あ、あの、坂本さん? 大丈夫ですか?」
隣の席で朝食にまったく手をつけず、身体を前後に揺らす副船長の坂本に、田村が声をかけていた。
しかし坂本はそれに答えず、ブツブツと何事かを呟き続けていた。
明らかに様子がおかしい。
田村は周囲の――特に子ども達の――様子を気にしながら、坂本の肩に振れて。
「坂本さん!」
と、声をかけた。
その、瞬間だった。
「うわあああああああっ!!」
――――そう、炭彦が想像できるはずが無かったのだ。
彼は知らなかった。
たとえ自分よりずっと大人の人であっても、必ずしも、子ども達よりも強いわけではない、ということに。
◆ ◆ ◆
土台、無理な話なのである。
海上の船という密室の中で、猟奇殺人事件が立て続けに起こって。
その犯人が
そんな中でまともな精神状態でいろと言う方が、本来は無理なのである。
今は現代。戦国時代でも、大正時代でも無いのだ。
「うわあああああああっ!!」
叫び声を上げて、坂本が食堂から飛び出していった。
余りにも突然のことだったので、子ども達は呆然とそれを見送るしか出来なかった。
産屋敷は何とか声を発したが、当然、追えるはずもない。
田村はそんな産屋敷を見て、視線で判断を求めはしたが、それ以上は何も出来なかった。
そして瑠衣は、視線を坂本に向けることさえしなかった。
目を閉じ、姿勢よく座ってじっとしている。
もちろん、炭彦達に何をしろと言うこともなかった。
「瑠衣さん!」
「はい」
一方で、炭彦が声をかければ、目を開けてこちらを向いてくれた。
彼女は炭彦に一つ頷くと、いつものように微笑んで見せた。
「気をつけてくださいね」
「……はい!」
その微笑に背中を押されるようにして、炭彦は席を立った。
「
竹刀袋を掴んで、席を立った。
「炭彦、待って」
そして炭彦が動いたことで、他の子ども達も彼を追いかける形で動き出した。
カナタは炭彦を追いかけながら、一瞬だけ瑠衣の方を振り返った。
瑠衣はそのままの位置で、座ったままだった。
一方の炭彦は、食堂を出たところで二の足を踏んでいた。
食堂を出たは良いものの、坂本の姿は見えなかった。
どこへ向かうべきかと迷っていると、サリアが出入口の側でしゃがみ込んでいるのを見つけた。
「サリアさん、大丈夫ですか?」
「は、はい。でも、坂本さんが外に……」
サリアが指差したのは、甲板に通じる方向だった。
幸いサリアは驚いて転んだだけで、怪我などはしていなかった。
その場にサリアを残して、炭彦はそちらへと走った。
いつの間にか、外は雨が降っていた。
起きた時には晴れていたはずだが、空は暗く、風が吹き始めていた。
顔を濡らしながら、炭彦は外に出た。
しかし甲板に、坂本の姿は無かった。
「坂本さん! どこですか――っ!?」
声を上げたが、返事は無かった。
その代わりに、
え、と己の嗅覚を疑った次の瞬間、炭彦の足元に何かが落ちた。
ぼとり、と音を立てたそれに、目を向ける。
「う、あ」
革靴だった。右足用だった。
落ちた時に、靴の面が炭彦の方を向いていた。
だから炭彦の目には、その革靴に
真新しい傷口から、骨と、肉と、流れ落ちる血が、見えていた。
ほとんど無意識の内に、炭彦は頭上を仰ぎ見ていた。
雨粒が顔を打ち、肌と衣服を濡らしていった。
ただその冷たさを、炭彦はほとんど感じることが出来なかった。
そして仰ぎ見たその先には、何も無かった。
「坂本さん……!」
呼んだところで、答える者はいなかった。
まるでその代わりだと言うように、雨粒の勢いだけが徐々に強さを増していった。
カナタ達が追い付いてくるまで、炭彦はその場に立ち尽くしていた。
雨雲の向こうに何かを見つけようとするかのように、頭上を見つめ続けていた。
最後までお読みいただき有難うございます。
今年も1年間、お世話になりました。
来年もよろしくお願いします。
それでは、良いお年を!