鬼滅の刃―鬼眼の少女―   作:竜華零

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第95話:「礎石」

 ――――美味(うま)い。

 ()は、そう思った。

 生まれて初めてご馳走を口にした人間がそうであるように、感動さえしていた。

 

 その、喉を(うるお)す濃厚な喉ごしに。

 鼻腔から肺腑を満たすかぐわしい香りに。

 口内に広がる()()の味に、彼は酔った。

 呑み慣れていない人間が強い酒を呑んだ時のように、夢中になった。

 

 ――――美味い。

 1つ()()を口にする度に、彼は同じことを思った。

 そして次第に、それを口にしていない時が辛く思えるようになっていった。

 

 渇き、である。

 飢え、である。

 彼はそれを知らなかった。そして知ってしまった。

 耐え難い。堪え難い。我慢し難い。

 余りにも辛く、苦しく、気が狂ってしまいそうな程の飢餓と渇望。

 

 ――――もっと、食べたい。

 だから彼は、獲物を探し求めた。

 この飢えを、渇きを、癒やすための獲物を探し始めた。

 幸いなことに、彼が与えられた()()にはまだ十分な獲物が残っていた。

 

 だから彼は、次の獲物を探し始めた。

 暗闇の中に身を(ひそ)めながら、じっくりと。

 しかし、すぐに食べたいと思いながら――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 甲板をいくら探しても、坂本を――足首から下を除いて――見つけることは出来なかった。

 外にい続けるのも危険なため、何の収穫もない形で船内に戻った。

 

「え……」

 

 そして戻った瞬間、炭彦はすぐに異変に気付いた。

 ()()()()()

 つい先程までは感じなかったのに、あの生臭い臭いが通路から、いや船内中に充満していた。

 余りにも臭いが強すぎて、文字通り鼻が曲がりそうだった。

 

「あ、皆さん。良かった、無事で」

 

 炭彦が鼻先を擦っていると、ほっとした表情の田村がやって来た。

 子ども達を探していたのか、通路の向こうからこちらへと駆けて来る。

 それを見て、炭彦達もとりあえず田村のいる方へと歩き出した。

 

「カナタ、どう思う?」

「……わからない」

 

 実際、何もわからなかった。

 何かが起こっていることは確かだ。

 そして、()()()()()ことも確かだ。

 

 だが、その()()とはいったい何だと言うのか。

 普通に考えれば、人間だ。

 人間が人間を殺している。それも猟奇的に。

 だが、そうすると犯人は船内にいる人間ということになる。

 

「一番怪しいのは……」

 

 目の前にいる田村だろうか。

 だがあの細腕で、大の男を何人も殺せるものだろうか。

 船木や坂本は、少なくとも田村よりもずっと体も大きく、海の男らしく筋肉質だった。

 何の反撃も受けずに、一方的に腹を裂くなんてことが可能なのだろうか。

 

 産屋敷はどうだ。いや、論外だ。

 いくら復調したと言っても、炭彦もカナタも衰弱した産屋敷の姿を忘れていない。

 しかしそうすると、一連の殺人を実行可能な()()は1人しかいない。

 

「煉獄瑠衣……」

「絶対違うよ!!」

「……って言うのはわかっているから、耳元で叫ぶのはやめて」

「ご、ごめん」

 

 そう、瑠衣しかいない。

 いないのだが、動機が無い、はずだ。

 そもそも瑠衣であれば、死体をあんな風に損壊させる必要もない。

 しかしそうなると、候補がいない。容疑者がいなくなってしまう。

 残るは外部犯だが。外部の犯行だとして、普通の人間に実行可能かという問題は残る。

 

「皆さん、とりあえズェ」

 

 不意に、そう、まさに不意に、だった。

 こちらへと歩いて来ていた田村の姿が、()()()

 いや、消えたのではない。田村は()()()()()()()()

 ある部屋の――客室の扉が不意に開き、そこへ、何者かに引きずり込まれたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「待て!!」

 

 全員が反射的に動こうとした時、カナタが声を上げた。

 彼がここまでの大声を上げることは珍しく、その場にいる全員が驚いた顔でカナタを見つめた。

 

「待て……待って、皆。止まるんだ」

「で、でもカナタ。田村さんが中に!」

「わかってる」

 

 カナタは、見た。

 おそらく動体視力ではこの中で一番だろうカナタは、()()()()()確かに目にした。

 客室から何かが伸びてきて、田村を引きずり込んだ。

 しかしその一瞬に見えたのは、()()()()()()()()()()

 

(何だ。あれは、手……いや。()()……?)

 

 一瞬、しかも半透明だったから、確証は無かった。

 しかし確かに、人間の手では無かった。

 糸こんにゃくのような、半透明のブヨブヨした何かだった。

 触手、と表現するのが、一番しっくりする。

 

 そして、音がした。

 同時に「グエッ」という蛙が潰れたような声がして、静かになった。

 その声は、田村の声に良く似ていた。

 部屋のドアは、内開きのその扉は、開いたままだった。

 

「行こう」

 

 最初にそう言ったのは、桃寿郎だった。

 

「正気? 近付いたら、田村さんみたいになるよ」

「多分だが、大丈夫だろう」

「……どうしてそう言えるの?」

「勘だ!」

 

 勘かよ、とカナタは思った。

 何が面白かったのか、カナエがクスクスと笑っていた。

 こんな時に笑うとは、なかなかに神経が太い。

 

「わかったよ。でも、ゆっくりだよ」

「ああ!」

 

 桃寿郎は竹刀袋から日輪刀を取り出した。

 炭彦も、同じようにする。

 そしてその上で頷き合って、少しずつ、田村が引きずり込まれた部屋の前まで近付いて行った。

 

 近付くにつれて、生臭い臭いが強くなった。

 それはもはや炭彦でなくても感じ取れる程で、カナタ達も思わず顔を(しか)めてしまった。

 そしてそれ以上に、室内から聞こえてくる小さな音の方が問題だった。

 とても、(おぞ)ましい音だ。

 

「…………」

 

 炭彦も、田村さん、と呼びかけることをしなかった。

 彼も、本能的に理解していたのだ。

 もう呼びかけに意味がないばかりか、危険でさえあるということに。

 中から聞こえてくる悍ましい音が、炭彦にそう教えていた。

 

「開けるぞ」

 

 そう言って、桃寿郎が日輪刀の鞘の先で半開きのドアを押した。

 キイ、と、音を立てて、ドアがゆっくりと開く。

 そして、その先に。

 地獄が、広がっていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 手を止めることなく、瑠衣は紅茶に口をつけた。

 備え付けのティーパックの物だが、流石は豪華客船というべきか、それでも上質な香りだった。

 (もっと)も今の瑠衣の場合、香りも味も大した意味を持っていないのだが。

 

「私は手を出しません」

 

 カップをテーブルに置き、瑠衣は言った。

 場所は、食堂のままだ。瑠衣は食堂から動いていない。

 そしてテーブルを挟んで向かい合っているのは、産屋敷だった。

 

 彼女達がいる食堂にも、例の生臭い臭いは充満している。

 人ならざる気配も、肌を刺すように感じ取っている。

 しかしそれでも、瑠衣がその場から動く様子は無かった。

 

「それは、何故か。理由を聞いても良いだろうか」

「……私は、この時代の人間ではありません」

 

 肉体が人間になったからと言って、瑠衣が100年以上前の時代の人物であることは間違いない。

 本当なら、すでにこの世にいないはずの人間なのだ。

 それが今こうして生きているのは、いくつもの偶然、いや奇跡が重なった結果に過ぎない。

 いないはずの人間が、今を生きる世代を押し退けて良いはずが無い。

 たとえそれが、どれだけの危機だったとしても。

 

「この時代に生じた問題は、この時代の人間が解決すべきです」

 

 鬼舞辻無惨のように、負の遺産であれば古い世代に責任がある。

 だが今、子ども達が相対している危機は、()()()()()()()()()()()()

 だから瑠衣は、自ら手助けをすべきだ、とは考えていない。

 

「それよりも、私も聞きたいことがあります」

「何でしょうか」

「どうして、私を誘っていただけたのでしょうか」

 

 元々、瑠衣はこの船に乗る予定は無かった。

 産屋敷が誘ったのは子ども達で、瑠衣はその中に含まれていなかった。

 瑠衣を誘ったのは、炭彦だ。

 しかしいざ来てみれば、瑠衣の部屋も含めて準備がしてあった。

 

 部屋はたくさん余っているので、予備の部屋をあてがわれただけかもしれない。

 一部屋追加で準備をするくらい、造作もないことなのかもしれない。

 それでも瑠衣は、それは違うと思っていた。

 そしてその考えに、間違いはないとも確信してもいた。

 産屋敷は答えない。しかし、否定もしなかった。

 

「……始まったようですね」

 

 少し離れた場所で、戦闘の気配がした。

 臭いは、さらに強まっていた。

 紅茶の香りは、ほとんどわからなくなっていた。

 

「大丈夫ですよ」

 

 じっと自分を見つめて来る産屋敷に対して、瑠衣は言った。

 

「あの子達なら、大丈夫です」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 匂い立つ、とは、こういうことを言うのだろうか。

 ドアを開けた途端、室内からむっと強い鉄錆の臭いが流れて来た。

 部屋の窓が割れているため、風がドア側――廊下側へと流れ込んだのだ。

 

「田村さん……!」

 

 田村は、()()に全身を掴まれていた。

 すでに生きていないことは、見ただけでわかった。

 半透明の触手が田村の腹部に何本も突き立っていて、衣服の下、いや皮膚の下をウゾウゾと蠢いていた。

 あれで生きていられる人間が、いるはずが無かった。

 

「喰ってるのか。内臓を」

 

 ジュルジュルという音に、カナタがそう言って顔を顰めた。

 思えば、他の死体も臓物がなくなっていた。

 ああやって(すす)っていたのだろう。

 

 それにしても、()()の何と異形なことか。

 触手の塊、というべきなのだろうか。

 一応は人の形に近いが、全身がブヨブヨとした半透明の大小の触手に覆われていた。

 まさに、悍ましいと表現するしかない。

 

「む!」

 

 最初に気付いたのは、一番先頭にいた桃寿郎だった。

 その触手の化物が、()()()()()()()()()()()()()

 

「逃げろ!」

 

 咄嗟(とっさ)に、桃寿郎は叫んでいた。

 そして彼自身もまた、ドアから離れて駆け出した。

 一番先頭にいたので、今度は彼が一番後方にいる形になった。

 

「うおおおお!」

 

 田村の死体が、廊下の壁にグシャリと叩きつけられた。

 あと数瞬反応が遅れていれば、田村の死体に潰されていただろう。

 

「止まるな! 走れ走れ!」

 

 腕を振り回しながら、自身も体勢を立て直しながら桃寿郎が叫ぶ。

 弾かれたように、子ども達が走る。

 示し合わせたかのように同じ方向に駆け出したのは、流石と言うべきか。

 その直後、田村の死体を踏み潰すようにして、触手の化物が部屋から飛び出して来た。

 

 ビチャビチャと、血なのか他の何かなのかはわからないが、色々と撒き散らしていた。

 同時に生臭い臭いが強まる。あれが確実に臭いの基だとわかった。

 それが、触手を伸ばしながら追いかけて来た。

 見た目の割に素早いが、しかし追いつかれる程ではなさそうだった。

 とは言え、余裕をかまして良い状況では無いのも確かだ。

 

「どうする!?」

「ここじゃ不味い。狭すぎる! どこか広いところへ!」

 

 広い場所。甲板では駄目だ。

 なるべく広く、出来れば吹き抜けた高さがあると良いだろう。

 思い当たる場所は、1つしか無かった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 彼らが目指したのは、ホールだった。

 豪華客船の玄関とも言うべき、最初の広間。

 天井にシャンデリアが飾られていて、複数の階層が吹き抜けになっている場所だ。

 そこへ、炭彦達が駆け込んで来た。

 

「やつは!?」

「大丈夫! あいつそんなに速くないよ!」

 

 跳ぶように階段を下りて、炭彦は後ろを振り返った。

 すでに日輪刀は抜いている。

 しかし振り返ったそこに、あの触手の化物の姿は見えなかった。

 どうやら、走っている間に距離が開いてしまったらしい。

 

 ただ、あの生臭い臭いは強いままだ。そこまで離れてはいないのだろう。

 だから炭彦達はすぐに、迎撃の態勢を整えた。

 今まさに自分達が抜けて来た廊下の出口を、きっと睨んだ。

 

「…………?」

 

 しかし、化物はいつまで経っても姿を見せなかった。

 警戒を解くことも出来ずに、顎先から汗の雫を滴らせながら、じっと見つめ続ける。

 

「……? 何の音……?」

 

 キイ、と、軋むような音が聞こえた。

 それも何度も、同じ間隔で聞こえて来た。

 キイ、キイ、と、何度も。

 その音は、上から聞こえて来ていた。

 

「え?」

 

 天井を振り仰ぐと、シャンデリアが大きく傾いて、左右に揺れていた。

 そして傾いている側のシャンデリア側面に、奇妙な()()があった。

 レンズでも通して景色を見ているかのような、そんな歪み、()()()だ。

 

()()()()()()()()()()!」

 

 誰かが叫ぶと同時に、落ちて来た。

 見えないが、確かに大きな質量が落ちて来た。

 ずしん、と、船体が揺れたのではないかと思えるくらいの衝撃が伝わって来た。

 ホールの中心に落ちて来たのは触手の化物で間違いない。無いのだが。

 

「見えない……!?」

 

 微かに景色が歪んでいるので、そこにいるのはわかる。

 だが、さっきまでは半透明だが確かに見えていた。

 しかし今は目視できるか怪しいレベルにまで、透明になってしまっていた。

 

「うあっ」

 

 透明な触手が、まさに炭彦の鼻先を掠めた。

 咄嗟に、避けた。

 嗅覚に優れた炭彦でなければ、避け切れなかったかもしれない。

 標的を外した触手は、ホールの柱の1本を易々とへし折ってしまった。

 

 姿の見えない敵。

 そんな存在に、どうやって立ち向かえば良いのか。

 日輪刀を握り締めて、炭彦は目の前の脅威を睨みつけた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

『呼吸ですよ、炭彦君』

 

 すべては呼吸だ、と、その(ヒト)は言った。

 危険を感じた時、人間の肉体は()()()ように出来ている。

 危機的状況から脱するために脳内物質を分泌し、瞬間的に肉体を強化する。

 

 呼吸遣い――鬼狩りは、いわばそれを意図的に引き起こしている。

 本来は瞬間的にしか発生しない肉体強化を、可能な限り持続させる。

 そのためには、普段は無意識に、あるいは偶然に行っている呼吸を意識して行わなければならない。

 それが、全集中の呼吸。

 

「全――――」

 

 深く息を吸い、それが身体に与える影響を、血管の1本、筋肉の繊維1本に至るまで理解すること。

 そうすれば。

 

「――――集中!」

 

 そうすれば、奇跡だって起こせる。

 

「ふむふむ」

 

 カンッ、と、乾いた音がした。

 缶ジュースが放り投げられて、触手がそれを貫いた音だった。

 ジュースの缶は、即座に音を立ててひしゃげた。

 中身を吸われたのだ。

 

「なるほどなるほど」

 

 投げたのは、しのぶだった。

 彼女は自分の行動の結果を見つめて、ふんふんと頷いた。

 

「やはり、透明になっていたのは()()()()()()()()()

「流石しのぶ、見事なドヤ顔だわ~」

「姉さん、真面目に!」

 

 この化物は、元々が透明なのだ。

 先ほど半透明に見えていたのは、田村の血肉を取り込んでいた影響だろう。

 ホールに来るまでの間に消化が進み、透明になったということだろう。

 

 それに対して、化物の動きはやはり緩慢だった。

 もしかしたら、エネルギー効率の悪い種なのかもしれない。

 例外は近距離の触手の動き。缶ジュースを貫いた動きだけは素早かった。

 そうとなれば、答えは1つ。

 

「突撃だ! 炭彦!」

「うん!」

 

 一撃離脱。

 触手が反応できない速度で斬り、そして()()()()()

 炭彦と桃寿郎の口から発される()()()は、奇しくも同じだった。

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 桃寿郎の実家の道場で型を教わり、瑠衣との訓練で鍛えた呼吸法。

 先祖に比べれば、明らかに拙い。

 しかし触手を擦り抜け、斬撃を与えるだけならば、十分な威力を持っていた。

 

「ギャアアアアッ」

 

 交差するように放たれた2つの『不知火』で、化物の「頚」が跳んだ。

 日輪刀は、驚く程スムーズに化物の触手と肉を斬り裂いた。

 まるで熱したナイフでバターを切るように、スッと化物の頚を刎ね飛ばした。

 そして断末魔の叫びを1つ遺して、化物は動かなくなった。

 

「やった……?」

 

 着地して振り向いた体勢のまま、炭彦は言った。

 それに対して、桃寿郎が「うむ!」と興奮した様子で答えた。

 

「うむ! やったな、炭彦!」

「そっか……そうなんだ」

 

 桃寿郎の言葉で、実感が追い付いて来た。

 じんわりと胸に広がるその感覚の名前を、炭彦はまだ知らない。

 何故ならばそれは、炭彦が得る初めてのもの。

 

「やったんだ……!」

 

 勝利の味を、炭彦は噛み締めたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 危険が排除されたということで、船は予定の港に入港した。

 産屋敷家の手配した警察関係者――普通の警察とは違うのだろうか――の事情聴取を受けた後、実にあっさりと、炭彦達は解放された。

 聴取も形ばかりのもので、緊張していたのが馬鹿らしく思える程だった。

 

「瑠衣さん!」

 

 炭彦達は皆揃ってタラップを降りていたのだが、途中で瑠衣だけが足を止めた。

 それが気になって、炭彦も足を止めたのだった。

 振り向くと、瑠衣はいつも通りの優しい微笑みを向けてくれた。

 

「私はまだ中でお話があるので、炭彦君たちはこのまま先にお家に戻ってください」

「でも……」

「疲れたでしょう。色々あって。今夜はゆっくりと休んでくださいね」

 

 瑠衣に微笑みながらそう言われてしまうと、炭彦にはもう何も言えなかった。

 こういう時、何だか大人と子どもの差が目に見えてしまっているようで、もやもやとした気持ちになってしまう。

 ただそのもやもやを晴らす方法を、炭彦はまだ知らなかった。

 

 そうしていると、炭彦は不意に頬に(ぬく)もりを感じた。

 目線を上げると、瑠衣の手が頬に添えられていることに気付いた。

 自分の顔面が紅潮しているのが、すぐにわかった。

 

「今日は、良く頑張りましたね」

「そ、そうですか?」

「ええ、立派に……立派に、やれていましたよ」

 

 化物に勝利した時に感じたものとは、また違った。

 胸の奥からこみ上げてくるこの高揚を、炭彦はやはり言葉で表現することが出来ない。

 しかし彼の明るい表情を見ると、そもそも言葉は不要なのかもしれない。

 

「炭彦――――!」

「ほら、皆が待っていますよ」

 

 すっと離れた温もりに、ほんの少し、寂しさを覚えた。

 

「はい! 瑠衣さん、えっと……また明日!」

「……明日って何か約束していましたか?」

「えっ、あっ……ええっと」

「ふふ、冗談ですよ。またね」

 

 顔を紅くしたまま、炭彦はタラップを降りていった。

 振り向いて手を振ると、瑠衣も笑顔で手を振り返してくれた。

 いつまでもそうしているわけにはいかないので、カナタ達が待っているところまで小走りに駆けて行った。

 

「遅いよ」

「ご、ごめん」

 

 振り向くと、瑠衣はまだタラップの上からこちらを見守っていた。

 あたりは、すっかり夜になっていた。

 月明かりと港の照明に照らされて、瑠衣の姿はどこか揺らめいて見えて、炭彦は幻想的な何かを見ているような気持ちになった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 炭彦達を見送った後、瑠衣は船内に戻った。

 そしてホールに戻った彼女を、1人の女性が出迎えた。

 

「煉獄様?」

 

 その女性は、驚いた()()()顔で瑠衣を見た。

 金髪の侍従(メイド)は、瑠衣を見て姿勢を正した。

 

「どうかなさいましたか? 何かお忘れ物でも?」

 

 そう言って小さく首を傾げるサリアを、瑠衣は見つめた。

 ()()()()()()()()()

 それから、ふう、と溜息を吐いて。

 

「もう結構です」

 

 と、言った。

 なおも首を傾げるサリアに、瑠衣はもう一度溜息を吐いた。

 

()()()()()()()()()()()()()()

「な、何のことでしょうか? 私は産屋敷家お抱えの……」

「そうですか。ではどうして」

 

 サリアを、いやサリアを取り巻くモノを見つめて、瑠衣は言った。

 

「貴女の肉体は、()()()()()に覆われているのですか?」

「…………」

 

 瑠衣の言葉に、サリアは笑顔のままだった。

 しかし笑顔の質が、劇的に変わっていった。

 それまでのいかにも侍従と言った柔和なものから、どこか陰のあるものに。

 どこか、攻撃的なものに。

 

「いつから気付いていました?」

「最初に貴女を見た時からですよ」

 

 サリアの周囲が、歪んで見えるようになった。

 もはや隠す必要が無いと判断したのか、()()でも見えるようになった。

 それは、あの透明な触手だった。

 不可視の触手が、サリアの衣服――いや、肌の上を這い回っていた。

 

 姿が見えると同時に、生臭い独特の臭いが充満した。

 炭彦がこの場にいれば、余りの臭いに卒倒してしまっていただろう。

 ただ瑠衣は、臭いには特に関心を示すことは無かった。

 

「炭彦君には、異変を感じたらすぐに「視る」ということを教えてあげないといけないですね」

 

 透き通る世界。

 極限にまで集中することで、特別な視覚で世界を視ることが出来る。

 現代では、瑠衣と炭彦の2名だけがその域に達している。

 ただこの1年は平穏だったこともあって、炭彦はまだ意識的に使いこなせていないのだろう。

 

「船のスタッフを殺したのは、貴女ですね」

「それは、この触腕を持っているから、でしょうか?」

「……私は警察でも名探偵でもありませんので、いちいち説明などはしませんが」

 

 瑠衣は別に、この殺人事件を解決したいわけではない。

 ついでに言えば、犯人を罰しようとか考えているわけでは無い。

 そんなことには関心が無い。

 彼女が関心を持っているのは、もっと別のことだ。

 

「あからさま過ぎるんですよ、貴女」

 

 第一の事件からずっと、サリアは最初に死体を発見していた。

 坂本は違うが、最後の彼の姿を見たのもサリアだった。

 そもそも密室の船長室の遺体を、マスターキーも持ち出さずにどう確認すると言うのか。

 それこそ推理小説でもあるまいし、そんな状況はあり得ないだろう。

 

「犯人は、貴女です」

 

 サリアは、答えなかった。

 答えの代わりに飛んで来たのは、透明な見えない触手だった。

 それは、()()()()()()()伸びて来ていたが。

 

「ありがとうございます」

 

 まず、注射針が突き刺さり。

 次いで、牙の日輪刀が触手を輪切りにした。

 そして彼らは、瑠衣の足元に着地した。

 

「茶々丸さん、コロさん」

 

 着物の袖からするりと落とした小太刀を掴み取って、瑠衣は一歩前に出た。

 サリアは笑みを作ったまま、自らも一歩前に進み出たのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「お待ちください」

 

 サリアは両手を上げて、そう言った。

 

「煉獄様と争うつもりはありません」

「……先ほど、私に手を伸ばして来たようですけど」

「いえいえ、あれは冗談のようなものですよ」

 

 一歩だけ前に進み、横へ少しずつ移動する。

 円を描くようなその動きは、瑠衣と距離を取りつつ出口を目指す動きだった。

 

「煉獄様は産屋敷様に仰っていましたよね。現在の危機は今の世代が解決すべきで、ご自分は手を出されないと」

「……まあ、確かに」

「そうであれば、我々が争う必要はないはず。そうではありませんか?」

 

 確かに、そういう話をした。どうやら盗み聞ぎされていたらしい。

 今の危機は、今の世代が解決すべきだ。

 そうしてほしいと、瑠衣は確かに思っている。

 

「逃げると言うのであれば、それも良いでしょうけれど」

 

 透き通る世界の瞳でサリアを見つめながら、瑠衣は言った。

 

「ずっと、違和感がありました」

 

 もはや本人にも隠すつもりがないようだが、サリアは明らかに人間では無かった。

 では鬼かと言われると、違うようにも思える。

 似ているが、違う。

 極めて鬼に近いが、何かが違う。そんな生物だ。

 

「でも、その違和感に拘ったのが誤りでした」

 

 そう、実は最初の印象こそが正解だったのだ。

 鬼に似た何かではない。

 ()()

 前言と矛盾するようにも聞こえるが、()()()()()()

 

 ただし、瑠衣の知る鬼ではない。

 鬼舞辻無惨を祖とする鬼ではなく、ましてかつての瑠衣とも違う。

 つまり、それ以外を祖とする()()()()()

 それが。

 

「貴女は鬼です。サリアさん」

 

 それが、サリアの正体だった。

 

「いいえ、違います」

 

 しかし、サリアはそれを否定した。

 そのまま、彼女は言葉を続ける。

 瑠衣は、それを静かに聞いていた。

 

「貴女の言う鬼というのは、アレでしょう? この国にいた食屍鬼(グール)のことでしょう?」

 

 グール――食屍鬼。

 瑠衣には聞き慣れない名称だが、何となく意味は通じる。

 鬼にも種類があるのだろうか、と、そんなことを思いもした。

 

「そんなモノと一緒にしないでほしいですね。()()は屍肉など口にしません。私達が糧とするのは、生命の源とも言うべき尊き紅色(レッド)――――」

 

 口を開けて嗤うサリアに、今までは見えなかったものが見えた。

 それは鬼の牙に似ているが、より小さく、より鋭い。

 

血液(ブラッド)です」

 

 日本の鬼ではない。別系統の鬼。

 西()()()()

 血を吸う鬼――吸血鬼(ヴァンパイア)

 

「どうぞ、以後お見知りおきを」

 

 そう言って胸に手を当てて、サリアは慇懃(いんぎん)に礼をした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 考えてみれば、不思議なことでは無い。

 何も「鬼」という種が、日本にしか生まれない特別な種というわけでは無いだろう。

 日本以外の地に「鬼」が存在していたとしても、おかしいことでは無い。

 

「では、これで失礼させていただきますよ」

 

 瑠衣から距離を取ったまま、サリアは言った。

 ついにサリアは――最初に会った時から一貫して――瑠衣に一定以上近付くことなく、この場を去ろうとしていた。

 

「いや、しかし僥倖(ぎょうこう)でした」

 

 クスクスと、サリアの嗤う声が響いた。

 瑠衣は、僅かに目を伏せた。

 

「500年前には、この国には非常に強力な食屍鬼(グール)狩人(スレイヤー)のネットワークがありました。80年前には、それらを上回るより強力な女王(クイーン)がいた」

 

 ピクリ、と、瑠衣の眉が動いた。

 それは、瑠衣がサリアとの会話の中で見せた初めての感情の発露だった。

 

()()()()()()()()()()()。これは本当に嬉しい誤算でした。この報せを、きっと我が王もお喜びになるでしょう」

 

 そしてついに、サリアは出口に到達する。

 扉に手をかけて、退去の姿勢を見せている。

 それを一瞬だけ目で確認して、サリアは再び瑠衣の見た。

 

 しかし、そこに瑠衣はいなかった。

 

 茶々丸とコロが、まるでつい先程まで瑠衣がいたことを証明するかのように、そこにいただけだ。

 そして次の瞬間、サリアは非常に軽い音を()()で聞いた。

 何かを喪失した。その感覚に目をそちらへと向ける。

 扉にかけた片腕が、肘のあたりから落とされていた。

 

「――――――――は?」

 

 扉にかかったままダラリと垂れているのが自分の腕だと気が付いた時、サリアの脳は事態を理解した。

 涼し気だった顔に汗が浮かび、苦悶に歪んだ。

 

「ハ、ア……アアアアアアアッ!? わ、わたしの腕がアァ……ッ!」

「おや、痛みは感じるのですね。やはり太陽に弱いのか、それとも他の要因があるのか……興味深いですね」

 

 言葉ほどには興味無さそうに、瑠衣は言った。

 その両手には二振りの小太刀が握られており、片方に血が付着していた。

 言うまでもなく、サリアの腕を斬ったのは瑠衣だった。

 

「なッ……何故ッ!? 争うつもりは無いと言ったはずです!」

 

 事実である。

 サリアは本当に、このまま去ろうとしていた。

 もしも瑠衣が攻撃しなければ、それで終わりだった。

 しかし、瑠衣は攻撃した。

 

「貴女は、今の問題には関与しないと言った。そして実際に子ども達を助けに行かなかった!」

 

 なのに何故、とサリアは言った。

 そうですね、と瑠衣は答えた。

 

「確かに、私は今の世代の問題に介入するつもりはありません」

 

 これも、事実だ。

 瑠衣はそう思っているし、そうするべきだとも思っている。

 だから今の世代が対処すべき問題に対して、手を出すつもりは無かった。

 ()()()()()()()()()()を退治する役目を、子ども達に託した。

 

「でも、貴女は違う。貴女は今の世代の子達が生まれるよりも遥か以前から存在しているのでしょう?」

 

 ならば、()()()()()()()()

 むしろ逆だ。

 自分達の世代が片付け損ねた問題を、今の世代に引き渡してはならない。

 まして人に害なす負の遺産を、のさばらせてはならない。

 むしろ、本来はそれこそが。

 

「そういう存在を斬ることが、鬼狩りの本来の使命なのですから」

「鬼狩り……狩人(スレイヤー)のことか。まさか貴女は、ハシラとか言う存在なのか」

「柱? まさか。私はもう鬼狩り……鬼殺隊では無いので。柱にはなれないし、なるべきでもない」

 

 でも、もう鬼狩りはいない。鬼殺隊はない。

 かつての鬼狩りの姿を、鬼殺隊士の戦いを、知っているのは瑠衣だけだ。

 自分しかいない。

 だから最後に残った者として、()()()として、瑠衣は刀を振るおうと思った。

 

「私は、柱ではありません」

 

 過去を知り、現代を見守り、未来へと引き渡す。

 新たな柱が立つまで。

 いつか自分を追い抜いていくだろう子らを、支える者。

 すなわち、瑠衣は。

 

「私は次代の柱のための――――()()となるべき者です」

「――――ッ。殺せエッ!」

 

 急激に、殺意が膨らんだ。

 不可視の触手を持つ怪物が、瑠衣の四方から、今度こそ襲い掛かって来た。

 だが瑠衣は、それらを見ようともしなかった。

 何故ならば、ちゃんと視ていたから。

 

 ――――風の呼吸・捌ノ型『初烈風斬り』。

 一瞬の交錯。その速度に、サリアの意識はついて来られなかった。

 目の前で、配下の怪物がまとめて両断されていた。

 気が付かない内に頚を刎ねられていて、自分が死んだことに気付いたのは、頭が床に落ちてからだった。

 

「わ――――」

 

 余りにも自分の死に気付くのが遅かったため、サリアは最期の言葉を遺すことも出来なかった。

 最期の言葉を紡ぐ前に、力尽きてしまったからだ。

 そんなサリアの最期にはさして興味を向けずに、瑠衣は駆け寄って来た茶々丸とコロを抱き上げた。

 まん丸い2匹の目を見つめながら、瑠衣は言った。

 

「さて、西洋の鬼(吸血鬼)というのは、何体いるのでしょうね?」

「くぅーん?」

 

 首を傾げるコロに、瑠衣は「ですよねえ」と笑ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――バキッ、と、何かが割れる音がした。

 暗く、冷然とした空気の中、その音は大きく響いた。

 割れたのは、赤色の水晶だった。

 

 台座の上に置かれていたそれが、前触れもなく砕けたようだった。

 夜なのか、台座と水晶の破片以外は見えない。

 というより、水晶自体が淡く光っているようだった。

 ただその輝きも、少しずつ薄まっていた。

 

「…………」

 

 不意に、暗闇の中から細い指先が伸びて来た。

 それは破片の1つを摘まむと、数秒だけ指先で弄び、ポトリと落とした。

 

()()()()()()()

 

 闇の中で、赤色がいくつも浮かんでいた。




最後までお読みいただき有難うございます。

ぶっちゃけ勢いで始めた「その後」編ですが、そこまでの量にはならないはずです。
たぶん。きっと。予定では……。

ところで関係ない話ですが、最近某呪術アニメにハマりました(本当に関係ない)

それでは、また次回。
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