――――紅い円卓。
血のように紅い円卓に、やはり血のように紅い背の高い石の椅子が6つ並んでいた。
埋まっているのは、その内の4つだ。
「――――サリアが死んだ」
誰かがそう言った。
それは、起こった事実をただ淡々と伝えるだけの言葉だった。
この場にいない同胞の死を伝えるその言葉に、他の3人は三者三葉の反応を見せた。
「ハッ、アイツ死んだのか。まあ、たかだか500年そこそこしか生きていない小娘だ」
1人がそう言った。
他の3人に比べて、遥かに大きな
その声もまた、肉体に合わせたように大きく響くものだった。
声を発するだけで、その場の空気がビリビリと揺らぐような気さえしてくる。
「どうせまた1人で調子に乗ったのでしょう。若気の至りで死ぬとは、愚かなことです」
1人がそう言った。
他の3人に比べて静かな声だが、しかしどこか冷然としていた。
自分以外の誰にも興味が無い。
実際、他の誰をも見ずに、手遊びなどに興じていた。
「とは言え、殺されたというのは問題であろう。我らの
1人がそう言った。
声質は固く、厳格そうな雰囲気が滲み出ていた。
同胞の死を悲しむというよりは、自分達の威厳の方を案じている様子だった。
どこか神経質そうに、指先で椅子の肘置きを叩いている。
「いかがなさいますか」
最初に発言した1人が、第五の人物に声を向けた。
それは最初から椅子に座ることなく、いや話の内容にさえ関心は無いのか、離れたところで
これは比喩でも何でもなく、文字通り宙に浮いているのだ。
その背には、黒い羽根が生えていた。
「我が
王と呼ばれたその人物は、声をかけられても特に振り向きはしなかった。
退屈そうに、いや、実際に退屈なのだろう。
黒い一対の翼は、子どもが足をぶらぶらさせるように、ゆっくりと動いていた。
「そのような些事、私の耳に入れるまでも無いことだ」
だが、と、王は言った。
「サリアを殺した
王は言った。
「殺せ! その
暗闇の中で、血の色の
殺せ、と、王は繰り返し言った。
サリアを殺した鬼狩り――――煉獄瑠衣を殺せ、と。
◆ ◆ ◆
「――――廃倉庫、ですか」
ある日、瑠衣は産屋敷の呼び出しを受けた。
呼び出しというには
それは、瑠衣が調査を頼んでいた件でもあった。
例の、吸血鬼の件である。
豪華客船の乗員は全員、産屋敷家のチェックをクリアしている。
にも関わらず紛れ込まれていた。
それ自体が由々しき事態だが、逆に言えば、何か痕跡が追えるはずだった。
その調査の中で出た「廃倉庫」だ。無関係ではないだろう。
「サリアは度々、その廃倉庫に立ち寄っていたようだ」
「その倉庫は産屋敷家の所有ですか?」
「いや、違う。だからこうやって調べるまで、サリアが立ち寄っていたことにも気付いていなかった」
「その倉庫に所有者は?」
「…………
一つ頷いて、それ以上は聞かなかった。
「これが廃倉庫の写真だ」
「……当たり前ですけど、ただの倉庫に見えますね」
「そうだね。ただ、中まではわからなかった」
「どうしてですか?」
産屋敷家の調査が、外観で終わるとも考えにくい。
そう思って聞いたのだが、産屋敷は小さく首を横に振った。
なるほど。と、瑠衣はやはりそれ以上は聞かなかった。
聞いても栓のないことだ。
ただ、それだけに
と言うより、ここまで来るとわざとだろうと思えた。
隠れるつもりが無い。そうとしか考えられない。
つまり、こちらを誘っているのだ。
「……罠ですね」
「うん、我々も同じ見解だ」
鬼――吸血鬼、とサリアは自分達のことをそう呼んだ。
一般的に、吸血鬼は夜に力を発揮し、太陽が弱点とされる。
その点は日本の鬼と同じだ。ならば、やりやすい。
太陽を克服した吸血鬼がいるのかはわからないが、克服していたとしても、夜の方が強力なはずだ。
すなわち、瑠衣がこの廃倉庫に向かうとすれば。
「
「夜に行くのかい?」
「ええ、その方が色々と都合が良いでしょう」
そう言って、瑠衣は席を立った。
瑠衣の背中を追いながら、産屋敷は言った。
「しかし、1人で行くのは……」
「いいえ?」
首だけで振り向いて、瑠衣は笑った。
「1人では行きませんよ」
◆ ◆ ◆
気になる異性に呼び出されたら、年頃の男の子ならばドキッとするものだろう。
それも学校の下駄箱に手紙――しかも毛筆らしき文字で――という古典的な方法。
もう、期待するなと言う方が無理というものだった。
「すみません! お待たせしちゃいましたか!」
今日ばかりはランニングマン呼ばわりもやむなし。
そんな気持ちで、学校からいつもの公園までダッシュで向かった。
呼吸遣いらしく、息一つ切らせずにかなりの距離を走った。
先に来ていたらしい瑠衣は、いつものベンチで炭彦を待っていた。
「こんにちは、炭彦君」
炭彦の顔を見て微笑むと、瑠衣は読んでいた文庫本を閉じて膝に置いた。
流行りの小説ではなく、古典というところが瑠衣らしく見えた。
そこまでであれば、炭彦はいつものように笑顔を浮かべていただろう。
しかし瑠衣の隣に
「おお、炭彦か! あまり待っていないぞ。俺も今来たところだ!」
桃寿郎が元気な声で手を上げていた。
今まで、瑠衣との待ち合わせで桃寿郎がいたことは無い。
いったいどうして桃寿郎がいるのだろうと、思春期の少年の脳内を色々な考えが駆け抜けていった。
ま、まさか、と良からぬ考えが思い浮かびもしたが。
『いや、無いよ。桃寿郎だよ?』
と、頭の中のカナタが呆れたようにそう言ったことで、すぐに正気を取り戻した。
「2人とも、日輪刀は持ってきていますね?」
「あ、はい。普段から持ち歩くようにって言われていたので……」
「うむ! 道場から持ってきた!」
炭彦と桃寿郎の手には竹刀袋が握られていて、それを確認して、瑠衣は頷いた。
「さて、それでは行きましょうか」
「行くって、どこへですか? もうすぐ日が暮れちゃいますけど」
「む、夕飯か!?」
「ふふ、お夕飯の前に、すみませんが私に付き合ってくださいね」
クスクスと笑いながら、瑠衣は公園の入口へと歩き出した。
その先には、いつの間にそこにいたのか、黒塗りの車が停まっていた。
見るからに高級車というのがわかる。
一緒にいるのが瑠衣でなければ、近付かずに離れていただろう。
「そんなに時間はかからないと思いますから」
車の前で立ち止まって、瑠衣はそう言ってまた微笑んだ。
それに対して、炭彦と桃寿郎はお互いを見やって、それから瑠衣の方見て、頷いたのだった。
◆ ◆ ◆
そして瑠衣も行き先を告げなかったので、炭彦はそわそわと車の外を見たりしていた。
すると、何となく見覚えのある道を走っていることに気付いた。
「あれ、ここって……」
「はい、港の近くですよ」
あの豪華客船に乗って港だ。
車は静かに港の区画に入って行き、段々と明かりも少なくなっていった。
どうやら、同じ港でも随分と寂れた区画に向かっているようだった。
「船で見た怪物のこと、覚えていますか?」
「……はい」
もちろん、覚えている。
あの豪華客船で、船員の多くを殺害した透明な触手の怪物。
余りにも鮮烈なその光景を、忘れることは出来ない。
そこで、炭彦はハッとした顔で瑠衣を見た。
瑠衣は自分に目を向けて来た炭彦に対して、ゆっくりと頷いて見せた。
それでようやく、炭彦は自分が呼ばれた理由を理解した。
「大丈夫ですよ」
そんな炭彦を見て、瑠衣は言った。
「私がいますから」
言われてしまった、と、炭彦は複雑な気分になった。
本当は、男の自分がそう言わなければならなかったのに、と。
その時、不意に車が停まった。
降りましょうか、と瑠衣が言ったので、炭彦も桃寿郎もそれに従った。
「ここは……?」
「倉庫に見えるな!」
桃寿郎の言う通り、倉庫があった。
というより、そういう区画なのだろう。周囲には倉庫しかなかった。
しかし他の倉庫が――それなりに雑然としつつも――手入れされているのに対して、炭彦達の前に
壁は錆びや罅割れが目立ち、トタンの一部は割れてさえいた。
(……
そして何より、炭彦は敏感に
倉庫の中から漂う、嫌な臭いに。
この倉庫の中には、人間では何かが存在している。
まだ倉庫の扉を開けてもいない時点で、炭彦はそれを理解した。
思わず、足が
「さて、それじゃあ2人とも」
対照的に、瑠衣はまったく緊張した様子を見せていなかった。
ゆっくりとした足取りで倉庫に近付きながら、目は炭彦と桃寿郎を見つめていた。
「
そう言って、瑠衣は倉庫の扉を開けた。
扉を開けた途端、嫌な臭いが一気に強まった。
まるで、腐った空気がそのまま外に逆流してきたかのようだった。
◆ ◆ ◆
意外なことに、廃倉庫の電気はまだ生きていた。
てっきりこっそり入るのかと思ったが、瑠衣は正面から堂々と入った。
そして、入口横の電気のスイッチを
「ほう! コソ泥のように嗅ぎまわるかと思ったら、存外に豪気な奴だな!」
そして、相手も姿を隠すことを躊躇していなかった。
廃倉庫の中には、目立つ物は何も無かった。
壊れかけの照明が照らすのは、埃の積もった床と、いくらかの壊れた台車や木箱くらい。
その中に、1人の大男が立っていた。
「しかし東洋人はやはり行儀が悪いな。ノックもせずに勝手に上がり込んで来るとは」
巨体。まさにその言葉が当て嵌まる男だった。
身長は2メートルを遥かに上回っているだろう。
横幅も広い。筋肉が巨木のように肥大している。
着ているスーツは仕立てが良さそうに見えるが、巨体のせいではち切れそうになっている。
それ以外の特徴は、欧米人、ということくらいしかわからなかった。
話している言葉が日本語なのが、印象のアンバランスさに拍車をかけていた。
それから、牙だ。
口の端に、犬歯にしては鋭すぎる牙がちらりと見えた。
「
そんな男を見上げるようにして、瑠衣がそう言うのを炭彦は聞いた。
(……吸血鬼?)
「吸血鬼って何だ?」
「と、桃寿郎君……」
流石の炭彦も声に出さない方が良いと思っていたが、桃寿郎は普通に声に出した。
だが炭彦の呆れは、すぐに引っ込んだ。
その意識が、2人へと向けられる。
「あ……」
不意に。そう、まさに不意に、だ。
男に視線を向けられたその瞬間、身体が重くなった。
まるで重りでも背中に乗せられたかのように、ずしりと重くなったのだ。
それは例えて言うのであれば、貧血の時の、血の気が引くようなあの感覚に近かった。
男は何もしていない。ただ見つめただけだ。
それだけなのに、蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなってしまったのだ。
身体は驚くほど冷たく感じるのに、背中にはじっとりとした汗が浮き出る。
(……怖い……)
それは、恐怖だった。
かつての2つの戦いは、無我夢中だった。
緊張する間も恐怖する間も炭彦には許されなかった。
しかし今は、通常の状態で炭彦は敵と相対することになった。
いわば、炭彦は今日が
「大丈夫ですよ」
瑠衣の背中が、男からの視線を遮った。
それだけで、ふ、と身体が軽くなった。
「あんな奴、私がやっつけちゃいますから」
まるで近所に買い物にでも行くかのような口調で、瑠衣はそう言った。
◆ ◆ ◆
「我が
光の消えた紅い円卓に、少女の声が響いた。
それを聞いているのは、黒い羽根の女だった。
鴉のような鳥の羽根ではなく、蝙蝠のそれだった。
ふよふよと動くそれは、自分に声がかけられると、ついと止まった。
「クアドが例の
「…………そうか、まずクアドが当たったか」
く、と、蝙蝠の女が笑った。
くくく、と身を震わせるその姿は、どこか幼くも見えた。
それに合わせて、蝙蝠の羽根も小さく動いた。
声をかけた少女は、それ以上は何も言葉を続けなかった。
それ以上に報告することがないのか、あるいは発言を求められていないと考えているのか。
それとも、そもそも
「セッカとサドはどうしている?」
「クアドとほぼ同時期に上陸し、それぞれに縄張りを決めたようです」
「なるほど。一番単純なクアドが最初に感づかれたわけだな」
くくく、と蝙蝠の女が嗤った。
円卓の席は6つ。
1つは永遠に欠けた。2つはここにあり、3つは席を外している。
今2人が話しているのは、その3つの席のことだった。
「それにしても面白い。クアドは我らの中で最も単純で粗暴だ。そんな
隠れるのが下手というのも、考え様かもしれないな。
蝙蝠の女はそう言って、また嗤った。
それを静かに見つめる少女は、蝙蝠の女をじっと見つめるだけで、やはり何も言わなかった。
「お前はどう思う?」
「私ですか」
「そう。クアドはどうすると思う」
問われれば、答えは返す。
今も蝙蝠の女に問われて、小さく首を傾げて見せた。
その仕草はやはり、どこか幼く見えた。
そして答えは、
「クアドならば、正面から
「そうであろうな」
蝙蝠の女は、1つ頷いた。
「ならば、その後はどうなるか。彼奴が
「その後は」
答えは、やはり澱みなく返って来た。
「クアドの剛力に、ただの人間では抗し得ないでしょう」
「くくく、そうだな。そうであろうよ」
蝙蝠の羽根が、愉快そうに震えていた。
少女の紅い
◆ ◆ ◆
吸血鬼の男――クアドは、両腕を瑠衣に対して振り下ろした。
丸太のように極太の腕は、触れるだけで瑠衣の
そして実際、直撃すればそうなっていただろう。
「ハアッ! 逃げ足だけは達者だなァッ!!」
とんとん、と跳躍の音が響く。
廃倉庫の床を砕いたクアドが顔を上げると、瑠衣の姿は天井の
梁を、柱を跳躍し、壁を跳ね、床を滑った。
目にも止まらぬ速度で跳び回る瑠衣の姿は、常人では目で捉えることさえ出来ないだろう。
たとえ鬼であっても、十二鬼月クラスの実力でも無ければ追えないだろう。
巨体のクアドもまた、そのスピードについて来られない。
「――――なぁんて、思ってるんだろうがァ!!」
廃工場が揺れた。
地震と錯覚する程の衝撃は、クアドの踏み込みの音だった。
「……ッ!」
瑠衣の着地の瞬間を狙った突撃。
丸太のような太い腕が、広げられた掌が、瑠衣の顔面を目掛けて振り下ろされる。
突撃の勢いも乗せられたそれは、風よりも音よりも先に瑠衣の皮膚に届こうとしていた。
瑠衣は目を細めて、身を低くした。
そしてそのまま瑠衣は身体を横に半分だけ回転させ、クアドの手の甲を叩いた。
もちろん、それで攻撃を止められるわけでは無い。
少なく見積もっても、クアドの膂力は十二鬼月クラスだ。
だからこれはむしろ、瑠衣の身体をずらすための
手を弾き、攻撃から自分の身体を逸らし、空中に逃げた。
「フンッ、それで――――」
グン、と、クアドの上半身があり得ない角度に曲がった。
腰のあたりが180度回転し、駒のようになった。
当然ながら、両腕もその動きに追随してくる。
「――――逃げたつもりかよォッ!!」
瑠衣は空中だ。そこから方向を変えることは出来ない。
自分を追撃して来る太い腕に対して、二振りの小太刀を重ねて盾にした。
そしてその盾に、クアドの拳が直撃した。
瑠衣の肉体に、久方ぶりの衝撃が走った。
肉体の内側から、骨と筋肉が軋む音が響き渡った。
「ぐ……ッ、……!」
ゴムボールか何かのように、瑠衣の身体が吹き飛んだ。
まず床にぶつかり、ついで廃工場の壁に激突、脆い壁を砕いて外に転がり出た。
廃工場そのものが、崩れかけて傾いた。
吸血鬼の哄笑が、工場の中で鈍く響いた。
◆ ◆ ◆
それは、時間にしてほんの十数秒の攻防だった。
「フンッ! 何だ。口ほどにも無い奴。サリアの小娘はこんな程度の奴に
だから炭彦と桃寿郎には、瑠衣があっという間に倒されてしまったように見える。
と言うか、実際にそうだった。
瑠衣はクアドに殴り飛ばされて、廃工場の外にまで吹き飛ばされてしまった。
「や……やられてしまったのか!?」
「瑠衣さん!」
助けに行こうとした時、クアドが2人の行く手を遮った。
その瞬間、瑠衣が遮ってくれたあの重圧が再び2人の少年の全身を押さえ付けて来た。
首のあたりから押さえ付けられているような、そんな感覚だ。
2人の表情からそれを悟ったのか、クアドは顎先を撫でながらニヤリと笑った。
「何だ、こっちはただのガキかよ」
戦わなければ、と、頭ではわかっている。
竹刀袋から日輪刀を抜き、その切っ先を向けるべきだ。
そう、頭ではわかっている。
それなのに、身体が動かない。
恐怖ならば、1年前も、豪華客船の時も感じた。
しかしあの時と違って、炭彦は自分の身体が動かせなかった。
まるで自分の身体が、自分のものでなくなってしまったかのように。
「まあ、さっさと片付けて――――血を貰うとしよう」
白い牙が、クアドの口の端から覗いた。
唇を舐める紅い舌先が、近付いてくる一歩が、さらに恐怖感を増す。
竹刀袋を握る手に力が自然に力が籠り、鞘がカタカタと音を立てた。
(た、戦わなきゃ)
意識は、炭彦にそう告げている。
桃寿郎も同じだった。
そもそも動物は、死の危険を前にした時に、本能的に2つの行動を取ろうとする。
すなわち、逃走か、闘争か、である。
しかしそれは、ある程度までの話だ。
恐怖が一定のレベルを超えてしまった場合、人間はまた別の反応を示す。
硬直だ。
本当の恐怖を前にした時、人は硬直してしまう。
(僕が)
その硬直を解くには、相当の意思の力が要る。
死の恐怖をも超えるような、強靭な意思が。
(僕が、戦わなきゃ……!)
それは。
「ほおう?」
それは、戦う意思を示すには、余りにも
身体は動かせず、恐怖の硬直も完全には解けず、しかし。
目だけは、敵から逸らさなかった。
「クソ生意気な目つきだ。気に入らねェ」
「――――あら、そうですか?」
不意に聞こえた声に、全員の目がそちらへと向いた。
そしてそこには当然のように、声の通りの人物が立っていた。
炭彦が思わず声を上げると、その人物はふ、と微笑んだ。
「私は、その目が可愛くて仕方ないのですけど」
瑠衣が、額から血を流しながらそこに立っていた。
◆ ◆ ◆
瑠衣が血を流している。
着物の下も傷を負っているのか、手首の先から滴った血の雫が、刀の切っ先から床にポタポタと落ちていた。
痛々しい姿なのに、しかし瑠衣の表情は逆だった。
「ああ? 何だよ、そのまま寝ておけば死なずにしんだかもしれねぇのに」
クアドが嘲るようにそう言った。
しかしそれでも、瑠衣の表情はどこか晴れやかだった。
両手に小太刀を持ち、切っ先を床に向けて、血の印をつけながらゆっくりと歩いている。
一歩進む度に、艶やかな黒髪が揺れる。
薄暗い倉庫の中、どこからか漏れる光に照らされて、薄く緑に映えて見える。
それはまるで、この世の者ではないかのようだった。
「どうしたよ、何とか言ったらどうだ」
「……そうですね」
風を斬り、小太刀の切っ先を一度振った。
紅い雫が舞い、滴っていた血を払った。
「
「はぁ?」
クアドが怪訝そうな顔をした。
それだけ、瑠衣の言葉の意味がわからなかったのだろう。
そして実際、瑠衣は
「呼吸は身体能力を強化するだけではありません。こうして傷口を塞ぎ、応急処置をすることも出来ます」
炭彦には、それがわかった。
瑠衣は、炭彦に呼吸の使い方を講義している。
まるで、いつも通りの公園にいるかのような錯覚を、炭彦は覚えた。
「コツとしては、
「――――オイ」
しかし、当然のことながら、クアドには瑠衣の言っていることはわからない。
瑠衣が目の前の、自分自身を殺しかけている
だが実際に、瑠衣はクアドの存在を無視していた。
「まあ、とは言え、攻撃を喰らわないに越したことはありません。呼吸使いは超人ではないので、怪我をすれば消耗しますし、何より痛いですしね」
「オイ、おま」
「鬼と言えども、五体を持つ存在です。動きには限界があり、また傾向もあります。良く視て観察して、最善の距離を見極めるようにしましょう」
「ふざ……」
「鬼と戦う上で重要になるのは、異能の存在です。鬼殺隊では血鬼術と呼ばれていましたが、対策の種類は実はそう多くありません。基本的に、先に潰すか。発動後の隙を狙うかです」
「ふざけるなァッ!!」
とうとう、クアドが激昂した。
ただでさえ大きな肉体がさらに膨れ上がり、瑠衣を覆い尽くさんと襲い掛かった。
炭彦が叫び声を上げた。そして。
「――――さて、では最後に」
2度、重みのある物体が床に落ちる音がした。
節くれだった細い肉の塊が2つ、クアドの足元に落ちていた。
それは、クアドの両手。その手首から先だった。
「ヌ、オォ……ッ!?」
いつの間にか、瑠衣とクアドの位置が入れ替わっていた。
クアドは膝を着いていて、彼の斜め後ろに瑠衣が立っていた。
小太刀の切っ先が、気が付けば再び朱に染まっていた。
そして今度のそれは、瑠衣の血ではないことは一目
「最後に、鬼の斬り方を教えましょう」
「キ、様アアアァ……!」
ギリギリと歯軋りするクアドを、文字通り尻目に、瑠衣は言った。
鬼の斬り方を教えると、そう言った。
その言葉を向けたのは、やはりクアドでは無い。
瑠衣が見ているのは、炭彦、そして桃寿郎だった。
これは。
これは、戦いでは無かった。
これは、訓練だ。
煉獄瑠衣から、竈門炭彦と煉獄桃寿郎に対する、鍛錬だった。
最後までお読みいただき有難うございます。
少々遅刻しました…。
それはそれとして、おねショタ師弟って、良いとは思いませんか(え)
それでは、また次回。