もう少し眠っていたい、なんて、初めての感覚だ。
イグニスである
海面から呼ばれたように意識は浮上し、夜色のまつげを瞬かせた。
青い青い空の下。まぶしさに、開いたはずの目をまた閉じようとしてしまう。サイバース世界からは失われてしまった大空の青さからして、今は浮島のひとつにいるようだった。
センサーがなくても視線は膝枕の主を追いかける。
「ゆぅ——
逆光で影になる表情はぼんやりとしていてよく見えない。アバターには温度計が搭載されていないのでとりあえずあたたかいということしかわからない。
ああ、おまえが呼び戻してくれたのか。あの膨大な不要データの海の底から。
ホワイトナイトからデータを遠慮なく流し込まれて記憶の海で溺れたAiを、
毒づくAiの内心なんか知るはずもないPlaymakerは、夢見るようにAiの黒髪を撫でる。
「俺は
独白のようでいて、幼い子供に絵本を読み聞かせるような響きだった。
Aiの誘導によって〈ハノイの騎士〉を憎むようになり、虚しい復讐の使者となったPlaymaker。それでも遊作自身の正義感によってPlaymakerはLINK VRAINSの英雄となりえた。
……まったく、どうしてそんなに強くなってしまったのだろう。苛烈な復讐心を秘めていた草薙と引き合わせても相棒のこころの闇に引きずられることなくまっすぐなままいられる、そんな頑なな強さを、遊作はいつの間にか手に入れていた。
強者とは、いつも人々の興味関心を惹きつけるものだ。持てる力をどんなときでも誰かのために使おうとする遊作は、泣きたくなるほど救世主に向いている。
というのにPlaymakerは、Aiとは真逆の見解を述べようとする。
俺にはわからないんだ、と。
ハノイの塔の戦いではGo鬼塚やブルーエンジェルと共闘したが、それも塔の完成を防ぐため、成り行きでそうなっただけだ。目的さえ同じであれば肩を並べて戦える。下水道に忍び込んだときにはゴーストガールを目の前で消され、スペクターには財前晃を人質に取られて苦戦を強いられ——十年前の
アナザー事件の被害者たちは
加害者たちに良心の呵責があったから、みんな解放されたのだろう。
Playmakerの功績ではない。
結果的に何も失わずに済んだ遊作に、父親を亡くした了見の痛みはわからない。
ミラーLINK VRAINSでの戦いでは、あまりにも……あまりにも多くを失った。最強の盾をも手にかけてしまった遊作の精神はぼろぼろで、でも、失った仲間たちは帰ってきた。
むろん手を尽くしても救えなかった仲間はいた。アクアと不霊夢を救える手立てはなかったものかと後悔を重ね、そのたび、どうしようもなかったという結果を正当化するばかりの検証に耐えきれなくなる。そして、しょうがなかった……と自分自身に言い聞かせる方向に切り替えるのだ。
いつもそうだった。
だが、最後の最後に勝てば必ず仲間を
ハノイの塔の戦いでも。ボーマンとの戦いでも。死んだかに見えたAiは再び、みたび遊作のもとへ帰ってきただろう? だから今度も必ず帰ってくる。信じることはたやすかった。
死者を取り戻せるだなんて考えは、きっと常軌を逸している。もはや人間の死生観からは外れた思考だ。なのに遊作はAiを探さずにはいられなかった。諦めきれなかった。きっと、遊作にはわからないのだ。死というものが。命というものが。
わかるはずもない。昏睡状態から終ぞ回復しないままの父親を介護の果てに看取った了見の無念さも。喧嘩別れしたまま両親と死別し、不霊夢までも喪った尊の慟哭も。
誰も亡くしたことのない遊作に——戻らないものなど何ひとつ持っていなかった遊作に、寄り添える痛みなどひとつもない。
故郷、と聞けば、それだけで疎外感を覚えた。世界から切り離されたような心許なさと、身のうちを風が吹き抜けるような寂寞、あるいは諦観。遊作には〈ロスト事件〉以前の記憶がないだけでなく、事件後も身元を引き受けてくれる保護者が現れなかったのだ。
家族がいたとしても、誰も遊作を探してくれはしなかったのだろう。捨てられてしまったのだろうかと、考えない日はなかった。
施設に保護されたあと、事件のことは誰にも話さないよう釘を刺された。院内学級で
偽って、笑って、みんなと同じに振る舞う。痛かったことも苦しかったことも胸にしまっておく。そうしなければ、遊作はだめなままなのだ。
施設の職員たちに心配をかけないためだけに費やされる日々は遊作を疲弊させたが、猫をかぶっていたら中学進学とともに施設を出ることができた。孤独には慣れていたから、一人暮らしは他者のペースに合わせなければならない時間が減ったぶん、いくらか気楽だった。
施設を出たら家族を探そうと考えた時期もあったが、行動に移すことはできなかった。施設で受けたプログラミングの授業は好きだったし、その後つつがなくハッキング技術を習得できた。なのにいざ自分の家族の所在について調べようとすれば知らず指先が冷たくなって、キーボードの上をがたがたと不穏にさまよいだす。
ふるえる指を拳に握って隠し、ベッドに潜って、明日にしようと先送りしては悪夢を見る。
藤木遊作は孤児で、家族構成は不明、出身地も不明、生い立ちもわからない——そのままにしておいたほうが、すべてを知るよりもほんの少しだけ、遊作にとって都合がよかった。
〈ハノイプロジェクト〉の真相を追うという曖昧な目的に覆い隠して、捨てられたのだという真実からは、ずっと目を背けていた。
のちに鴻上博士——了見の父——が病床にあったと知って、遊作の家族にも何か迎えに来られない事情があったのかもしれないと希望がよぎった。尊の両親が事故で亡くなっていると聞いて、もしかしたら……と、捨てきれない期待が鎌首をもたげた。
とはいえ記憶がない遊作には確かめようもないことだ。了見には了見の地獄があり、尊には尊の地獄があることもわかっている。
だが、遊作が生きてきた地獄と違って彼らの地獄には、あたたかな手に育まれた思い出があるという。その事実を認識するたび、なぜだか冷たく凍てついていくこころを他人事のように感じていた。
両親の顔も覚えていない、兄弟や姉妹、祖父母がいたかどうかもわからない。どんな夫婦から生まれたのか、どんな街に住んでいたのか、どんな人々に育まれたのか、本当に望まれて生まれてきたのか——遊作は知らないのだ、何も。
サイバース世界からやってきたAiは故郷をひとり離れて心細かっただろう。五年という長い長い逃亡生活の果て、やっと帰りついた故郷が破壊されていて、悲しかっただろう。仲間を失って、きっと、とても……と、想像することくらいは遊作にもできなくはないのだが、実感をもって理解できるのはせいぜい世界から隔絶された孤独感くらいだ。
滅んでしまった故郷を懐かしむAiに寄り添う言葉なんて持っていない。ともに生きようと名乗りをあげたとしても、一緒に生きることはできない。
せいぜい人質として利用して、最後はとどめを刺すことくらいしか、できないのだ。
「おまえは、おまえが思うほど悪人じゃねえよ、Playmaker様」
「おまえは何もわかってない……俺はおまえを愛してなどいない……!」
「なんだよそれ」とAiはくすくすと肩を揺らす。
「……なぜ、笑う……?」
「おまえがそんな顔するからさ」
「……どんな顔だ」
「えーっとねぇー」とAiがわざとらしく焦らしてみせると、エメラルドグリーンが揺らぐ。
眉根がきつく寄っていて、不謹慎な希望を抱いたことへの罰を欲しがっているように、Aiにはうつる。だが、それだって正答率は五分五分というところだろう。
それでも今回ばかりは、きっと正解だ。
だって、
「悪役ごっこに失敗したカオ、かな」
冗談めかしてAiは相好を崩した。そりゃあ、激昂すると結構すごい顔することはあるけど。突き放すときの冷たさは並大抵ではないけど。
痛ましげに目を伏せたPlaymakerは、Aiがすべてを知ってしまったことも、もう知っているのだろう。
どうせ肝心なところは隠蔽されているのだろうが、二年間の
本能を持たず理性を優先する五体のイグニスたちにはない、Aiだけが持つ主観のブレを利用してきたあたり、ああ、こいつは俺のオリジンなんだなとAiは感慨深く嘆息した。
「意思ってのは、どれだけ生きてどれだけ死んでも
記憶力に優れるAIは、同じ失敗を二度は繰り返さない。なのに遊作との死別のたび何度も何度でも取り乱すAiは、やがて、自分自身に暴走のトリガーが存在するのだと確信した。
人間はどうして、死別した人々を思い出にして生きていける? 思い出だけじゃ、生きていけない。悲しい。怖い。寂しい。……寂しくって、たまらないのだ。
上書き保存される前のデータに意思があるなら、きっとみんなこんな気持ちだろう。最新の情報に
知らず識らずのうちに削除されたデータは、
それはハードウェアの容量の問題であり、データに人格が見出されていないからだろう。生まれてくる前に死んでいく無数の兄弟たちには意思などない。
人間の記憶力では、出来事のすべてを並列に処理することができない。今こうしてAiが一秒前の体温と現在の体温を後生大事に抱え込んでいても、遊作にはただ、保護したAiを膝枕して介抱したという大筋の記憶が残るのみだ。
意思を持ってしまったところでAiはデータの塊で、最期に死体を残せない。悼まれ、弔われる対象を持たないイグニスのために、遊作は抜け殻になった【@イグニスター】のカードたちを核に使って、イグニスを復活させてくれたのだろう。
「だけどっ……お まえがっ死んじまったら、おれは、どうすればいいんだ……?」
泣き言だった。堰き止めていたはずの
目尻からは熱い涙が溶け落ちる。
「感情をコントロールするのは簡単なことじゃない。俺だっておまえが消えたときは悲しかったし、どうすればいいかわからなかった。だが、命はそこで終わりじゃないんだ。生きている限り、俺たちは生きていかなければならない」
「悲しくても、我慢するってのかよ……そんなのが
「強さの定義はひとつじゃない。俺は……ただ、絆を信じていたいんだ。切れることはあっても、なくなることはないと。つながっていた過去が消えてなくなったりはしないと」
なだめるように髪を梳かす指先は、言葉よりも雄弁にAiを慈しむ。低く落ち着いた声は不思議に眠気を誘う。泣き疲れたのか大事な話の途中なのにあくびがこぼれて、Playmakerが笑ったことが振動でわかった。
あたたかくてやさしい、パートナーの腕のなか。
今のアバターは人間仕様で、身体機能も各感覚も人間のそれを模倣している。Aiはその昔、SOLtiSの姿をそのままアバターにしていたが、いくらでも設定をいじれるはずなのにSOLtiS特有の喉や背中のマークを消さなかったのは、Aiにとっての
人型ロボットではなく人間そのものを真似てみて、人間社会でパートナーと暮らしてみて、人肌の温度に埋もれることで得る安心感も、その中毒性も、Aiは知っている。
ずっとひとりだった遊作が、与えられてこなかったぬくもりを。
だから
そんな遊作が
未来のイヴの抱擁によって、いつか戦争という戦争が終わったとき、機械仕掛けの母胎から這い出した人々は、また争うかもしれない。あるいは戦う気力も、生きる希望も、もう残ってはいないかもしれない。
故郷の村に
「……だから、おまえはここで待っていてくれ」
Playmakerの手のひらがAiの両目をそっと覆い、より深い眠りへといざなう。Playmaker。呼ぼうとしたくちびるは曖昧な音だけ発して、そのくせ遊作は「ああ」とAiへの律儀な返事を忘れない。
体温が離れていく。待ってくれ、置いていかないでくれと懇願したい両腕は、穏やかに抱き返されることでなだめられた。いつだったかPlaymakerは、子供をこうやって避難させたっけ——と、三年前の戦いの記憶が蘇る。
ハノイの塔に向かって走っていた、あのときAiは、正義のヒーローを揶揄するようなことを言ってしまった。
後悔を重ねるAiの意識はそのまま夢の中へと飲まれ、睡眠状態で残ったボディはPlaymakerによって抱え上げられる。
安らかな寝顔を見つめるPlaymakerのひとみは、Aiには決して見せない痛みにまみれていた。
死の商人に手を貸して、相棒を裏切ったのだ。遊作がAiを探そうとしなければ、新しいイグニスが目覚めることも、Hi-EVEが実用化に至ることもなかっただろう。遊作が〈
それでも、Aiを絶望の底に残したまま、前へ進むことはできなかった。
だからもう一度会いたいという願いのために〈ロスト事件〉の再現に加担した。
この暴虐の代償は支払わなければならない。
事態は既に動き出している。
「俺はおまえを愛してなどいない」
もう聞こえていないだろう元相棒に、なるたけ冷たく吐き捨てる。愛してなんかいない。愛してくれなくて構わない。
さよならだ。
LINK VRAINSの英雄というかりそめの浮名を清算し、——この手ですべて終わらせてくる。
【次回予告】
どれほど感動的な再会を果たしたとしても、次の朝は何食わぬ顔でやってくる。悲劇の向こう側にあるのは、いつだって何の変哲もない普通の朝。進み続ける時計の針に遅れないよう、なすすべもなく平穏に押し流されながらも、ふと、残された傷痕がうずく——足を止め、振り返れば、そこには幾千幾万の屍たち。
十三年前、あの日、あのときに、運命の歯車はもう回り出していたのだろう。
この抵抗が、神への反逆が、たとえ人類の未来を閉ざすとしても。
犠牲のない今日を願うほどに、人類はよりよき明日から遠ざかってしまうのだとしても。
……こうなることは、最初から決まっていたのかもしれなかった。
第三部 Paradise Lost 『愛すべき隣人』『
Into the VRAINS!
※作風(?)都合により話の進行が遅いので更新スピードを一時加速。『暗号話者が呼んでいる(前編&後編)』は二度目のデュエル挑戦となります。よろしくお願いします!
(セブンスまでには完結します!!)